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入間川下流部と、周囲に残る支流の暗渠・痕跡~深大寺用水と入間川を紐解く(15)  

2012年 05月 14日

入間川の中下流部編、2回目は実篤公園付近から野川の合流地点までと、周囲に残る分流の痕跡について取り上げる。まずは全体地図を(google mapよりキャプチャ)。前回と同じ説明となるが、図の中央を左上から右下に流れる赤紫色のラインが入間川で、甲州街道以南から、野川に注ぐまでの本流の区間が開渠、それ以外は暗渠か埋め立てられている。ピンクの矢印で示したのが今回取り上げる区間だ。
緑色のラインは前回まで取り上げた仙川用水に関係する水路。地図の区間ではその大部分は深大寺用水に取り込まれている。いずれも暗渠化もしくは埋め立てられている。


現在の入間川下流部

さっそく前回の続きから辿っていこう。実篤公園の南東側には、車止めが設けられた遊歩道が設けられている。これはかつて入間川から灌漑用に分流されたあげ堀跡だ(上の地図で実篤公園南から始まる、やや濃い紫色のライン)。

遊歩道は短い区間で終わるが、水路の跡はその先の道路に沿って不自然な歩道となって続いている。写真に見えるガードレールで縁取られた歩道は、数年前まではもっといい加減な舗装でいかにも水路跡の雰囲気を漂わせていた。

あげ堀は若葉小学校の脇を通った後、その向いの調布市立第四中学校の敷地内に入ってしばらく痕跡を追えなくなるが、都営調布入間町2丁目アパートの南側付近から再び、よりはっきりした姿を現す。これについてはのちほど取り上げることにして、入間川本流に戻ろう。
第四中学校の脇の辺りでは、入間川の水路は谷筋の西側の崖線下を流れている。崖線の緑が色濃く残っている貴重なエリアだが、川沿いに道がなく見られないのが残念だ。

崖線の上に上り少し上流側に戻ると、崖線の斜面の林が残されていて、川を見下ろすことができる。ただ、護岸を支えるはしご状の梁が邪魔をして、川面はあまり見えない。

丘の上から南にしばらく下って行くと、ようやく入間川に沿った道となる。写真は上流側に向かって撮影したもの。道の両脇の木立がよい。

仙川駅から狛江駅方面に抜ける通りを越え、都営調布入間町2丁目アパート(団地)脇に入ると、入間川の流路は深く掘り下げられ路面よりもかなり高い護岸が設けられていて、普通に歩いていると川面が見えない状態となっている。この辺りまで来ると、乾季(写真は12年2月)には、水が枯れてしまい、コンクリート3面張りの水路が虚しく続いている。上流に流れていた水は護岸の隙間から徐々に地面に染みこんでしまったのだろうか。

水路の右岸(西)側は小高い急峻な丘となっていて、丘の上には明照院と糟嶺神社が鎮座している。明照院は室町時代後期(16世紀半ば)に創建された天台宗の寺院。今回見落としたが、入間川を挟んで反対側の国分寺崖線の下に弁天山と呼ばれる一角があり、この寺院が17世紀後半に竹生島より勧請した弁天祠が現存するという。当然ながらそこにはかつては湧水池があり、現在でも祠を囲むように池の痕跡が残っているそうだ(参考サイト)。
そして、糟嶺神社はそれより古く鎌倉時代の創建との伝承のある、かつての入間村エリアの鎮守社だ。糟嶺という名称は非常に珍しい。神社の縁起には農業の神「糟嶺大神」を祀るとあるというが、その神の名は他には聞かない。他の説としては、鎌倉時代に近隣に領地を持っていた糟谷氏が、ここの丘=嶺に先祖を祀るために、その1字をとって創建したという由来も伝わる。世田谷の地名粕谷もこの糟谷氏に由来する。また、神社の本殿が鎮座する場所は丘の上でもさらに一段小高くなっている(写真で石段が細くなる地点より上)が、これは古墳で、径40m、高さ5mの円墳となっている。

神社の立つ丘の上から、入間川を下流方向に望む。右奥に見えるマンションの下はもう野川の流路だ。

12年2月に訪れたときは水は完全に枯れ果てていて、野川の合流口から水路敷に入っていくことも出来た。

こちらは2008年6月、糟嶺神社脇の流路。鴨が水浴びを出来る程度には水が流れている。水質もよさそうだ。

野川との合流口はさらに水路が掘り下げられ、護岸がその分高くなっている。

合流口を上から見たところ。水が流れている時期はこのように、平らな斜面になった水路全体を水が下っている。

河口の辺りだけは狛江市が野川の北岸まではみ出していて、入間川が調布市と狛江市の境界となっている。

野川が現在の流路になったのは1967年。それより以前の野川は現在の流路よりもよりもだいぶ南西を流れていた(現在は緑道となって残っている)。したがって入間川もそれまでは、ここではなくもっと南東、小田急線の喜多見駅の南側で野川(正確には六郷用水)に合流していた。
現在の合流口より先の区間は、野川の右岸(西)側、狛江市東野川から世田谷区喜多見にかけて、ほぼ暗渠や水路跡として残っており、辿ることができる。そちらは次回に紹介するとして、今回は野川合流地点より北側の水路跡・暗渠を2ヶ所ほど取り上げよう。

上げ堀のコンクリート蓋暗渠

まずは前回、今回の冒頭と断片的に取り上げてきた入間川のあげ堀の下流部にあたる暗渠を。現在、甲州街道以南の入間川の流路はその流れる谷底の西側の縁に沿って流れているが、それに並行してかつて谷のほぼ真ん中に入間川の「あげ堀(分水路)」が流れていた。谷底はかつて「入間たんぼ」と呼ばれる水田となっていて、それらに水を引き入れるための用水路がこのあげ堀だ。水田が埋め立てられて宅地となった今では、あげ堀のほとんどは埋め立てられて道路となっているのだが、一部の区間だけは忘れられたようにコンクリート蓋をされた暗渠となって残っている。

暗渠は入間川左岸側、国分寺崖線の下に出来た小さな河岸段丘の縁に沿って曲がりくねりながら続いている。

人が通ることが滅多にないからなのか、コンクリートの蓋は随分ぞんざいに架けられていて、隙間がかなり開いている。隙間から見える水路はかなり浅く、中には水気はなかった。

暗渠は住宅地と再開発を待つ崖線下の空き地の間を300mほど続いた後、普通の道路の歩道に姿を変え、消える。たまたま残ってきたこの暗渠、隣接する空き地のマンション(?)建設が再開したらもしかすると道路になってしまうのかもしれない。

太古の入間川流路の痕跡?

続いて、入間川の西側に並行する浅い谷に残る水路の痕跡をとりあげよう。
武蔵野台地上の浅い窪地に流れを発した入間川は中央高速道付近の一旦開渠となる辺りから谷を深く刻んで降り始め、甲州街道いなんで再度開渠になる辺りで国分寺崖線の下に出る。現在はその後崖線下の一段高くなった段丘上を流れて、野川沿いの低地に出ている。だが、段彩図をよくみるとその段丘上、入間川の流路の南東側にもう一つ浅い谷筋があるのがわかるだろう。

そのあたりを拡大したのが下の段彩図。つつじヶ丘駅付近から、入間川の谷から二手に分かれた浅い谷が始まり、糟嶺神社の辺りで再度入間川の谷に接近して野川沿いの低地に繋がる。地形から推測すると、かつて入間川がこちら側の谷を流れていた時期があったのではないだろうか。また、狢沢から流れだした川が、甲州街道の北側では入間川に繋がらずに、入間川に並行してこちらの谷を流れていた可能性も考えられる。ただ、谷の規模を考えると前者のほうがより可能性が高いように思われる。
この谷筋に、かろうじて水路の痕跡が残っている。図にピンクで記したラインがそれだ。これを下流側から辿っていく。

まずは図のピンクのラインの末端の少しだけ北側。かつての水路がクランク状に折れ曲がっていた地点。道端にガードレールで仕切られた未舗装の地面が残っている。これがかつての水路の痕跡だ。水路は写真左下から来て右下で直角に折れ曲がり、ガードレールの切れる少し先、自転車が止まっている辺りで再度直角に右に折れ下っていた。自転車の先にも水路跡の路地が残っている。

下の写真は同じ場所から上流側を見たところ。直角に曲がる地点に暗渠に使われていたとおもわれるコンクリート蓋が3枚だけ重ねて置かれている。その先、道路を横断する部分はアスファルトが敷き直されている。

敷き直されたアスファルトの先にはこのように水路敷が半ば私有化されて残っている。

その水路敷を上流側に回りこんで下流方向を見てみると、このように路地が続いてきている。

更に上流側。もはや路地すら無くなってしまうが、畑の中に水路跡のような窪地が続いている。写真は上流側から。左手前から右奥の雑木林の中に、窪地が続いている。下流側に行くほど窪地がはっきりしているようだ。

畑の窪地の先には、住宅地の裏手に痕跡が残っている。写真の正面の家の左側、畑地に挟まれた雑然とした空き地がそれだ。ここが確認できる最上流端で、これより先は一旦痕跡がなくなったのち、道路となっている。延長線上を北上していくと、つつじヶ丘駅の南側にも痕跡らしき細長い路地があるが、資料からは水路跡かどうかの確認はとれなかった。

この水路は戦後しばらくまで残っていたようだ。周囲は畑地だし、湧水があったわけでもなさそうなので、実際は川というよりは雨水などを流す溝渠だったのだろう。ただ、そこは明らかに谷筋となっていて、かつて流れていた川の成れの果ての姿であったのあろうと思われる。

さて、次回は延々と続いてきた「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズの最終回として、入間川の失われた下流部について取り上げる。シリーズ全体の参考文献もあわせて最後にリストアップしたい(記事としては別立てとするかもしれない)。

(つづく)

# by tokyoriver | 2012-05-14 21:11 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(4)

入間川中流部[1:中仙川遊歩道から入間川へ]~深大寺用水と入間川を紐解く(14)  

2012年 05月 07日

半年近く続けてきた「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズもいよいよ終盤。これから3回にわけて、入間川の中流部から野川合流地点まで、そして更に、野川で分断されたかつての下流部をたどっていく。長々と続けてきてだいぶ飽きられているような気もするが、もう少しだけお付き合いを。文章少な目でお送りしたい。

まずは全体地図を(google mapよりキャプチャ)。図の中央を左上から右下に流れる赤紫色のラインが入間川だ。甲州街道以南から、野川に注ぐまでの本流の区間が開渠、それ以外は暗渠か埋め立てられている。ピンクの矢印で示したのが今回取り上げる区間だ。
緑色のラインは前回まで取り上げた仙川用水に関係する水路。地図の区間ではその大部分は深大寺用水に取り込まれている。いずれも暗渠化もしくは埋め立てられている。
入間川源流部についてはこちらの記事を、上流部については前回の記事をご参照を。


中原の分流から甲州街道まで

入間川は、三鷹市中原1−13で仙川用水金子・大町方面ルートを分けている。今回辿るのはそれより下流側となるが、その前に中原公会堂裏の分流の暗渠だけ紹介しよう。上の地図では現在はっきり痕跡が残る区間だけを示しているため両端の接続先を記していないが、もともとは入間川沿いの水田に水を引き入れるための水路だった。住宅地の裏手、谷の斜面の縁を遊歩道となった暗渠が曲がりくねりながら抜けている。短い区間だが暗渠独特の寂しさや秘境感があり、風情がある。

この分流が再び本流に合流するあたりが、入間川が仙川用水と分岐する地点だ。分岐の痕跡はほとんどないが、下の写真の地点では道路の幅にわずかに川の流れの名残がある。写真左奥で仙川用水を分けた川は現在道路となっているところにそって右下に向かって流れていたのだが、奥の民家の敷地に不自然に食い込む道路と、そこから並ぶマンホールが水路の名残だと思われる。

そしてマンホールの並びが向かう方向を振り返ると、幅の広いコンクリート蓋が並ぶ暗渠が現れる。暗渠沿いのブロック塀を見るとやや下りとなっているのがわかるだろう。

暗渠化されたのが比較的最近(80年代後半〜90年代初頭か)ということもあり、ほとんどの家々が暗渠に背を向けている。そしてそれ以前にこの暗渠上はふだんは通行禁止となっている。

こちらは蓋暗渠の区間を下流側から眺めた様子。金網のゲートが設けられていて、普段は閉まっていて、大雨のときだけ開くという。この写真では開いているが、ロープが張られている。

ゲートの下流側は再び「中仙川遊歩道」となる。前回の記事にも記した通り、「中仙川」は入間川の流れる三鷹市中原のかつての地名(村名)で、入間川自体は単に「用水路」や「中仙川用水」「大川」と呼ばれていたようだ。したがって「中仙川」と「仙川」の間に川として直接の関連性はない。
少し前まで川には汚水が流れ込んでいたが、現在では分流式の下水道が整備され、暗渠は雨水路の扱いとなっている。途中何ヶ所か、中に流れる水が見えるところがあるが、確かに雨水や湧水しか流れていないようだ。

暗渠は入間川の谷の東側の崖線下を通っていく(前回取り上げた仙川用水は西側の崖線下を通っている)。かつてこの崖の近辺には、「弁天様」と呼ばれる湧水があったというが、その場所を見つけることはできなかった。他にもかつては何ヶ所か湧水があったようだが、今ではいずれも消滅している。

甲州街道の手前で崖線の直下から離れる。道路と段差があるのは、川の護岸にそのまま蓋をしたからだろう。右の道路沿いには、かつて並行する水路が分かれていた。

少し南下すると、西側からやや細い遊歩道が合流する。

こちらは前回記事でとりあげた入間川のあげ堀と、狢沢からの流れが合流した水路の暗渠だ。この辺りは水路が複雑に入り組んでいるので、前回記事の地図を再掲載。丸で囲んだ辺りとなる。

さかのぼっていくと細かく蛇行しながら前回記事ラストの地点にぶつかる。こちらも中仙川遊歩道と名付けられていて、複雑に入り組んだ暗渠・水路跡の解釈を難しくさせている。


公式な「入間川」の区間

さて、甲州街道の南側に渡り、流域が三鷹市から調布市となると、ようやく入間川の水が再び姿を現す。公式な河川としての「入間川」はここが最上流端となる。コンクリート3面張りの味気ない水路だが、暗渠から澄んだ水が流れ出している。水量は2000年の計測では年間平均で毎秒0.005立方メートルだったという。野川中流で0.2立方メートルというから、水量は少ない。また、見た限りでは季節によってもかなり変動があるようで、浅い地下水と同様冬に少なく夏に多い傾向があるようだ。なお、水質自体は野川や仙川よりも良好だというから、やはり湧水と雨水しか流れていないのだろう。

「入間川」の名は、これより下流域のかつての地名(村名)からとられたものだ。以前は川と地名の読み方の違いがトリビア的に言及されることが多かったが、最近統一されたようだ。下の写真の左側は2008年、右側が今年2012年のもの。上流端の標識が「いるまがわ」から「いりまがわ」に書き換えられていた。

川沿いにはしばらく道がない。京王線の線路北側で回り込んでみると、右岸側にはかつての川沿いの風景を彷彿させる土手が残っている。この辺りから、川は谷筋の東縁から西縁へと場所を変える。つまり、右岸側が急斜面となっている。

京王線の南側。斜面の下に見える緑色の柵が、入間川だ。谷を横切る京王線の土手をみると、逆台形状をした谷の断面がよく分かる。

線路の下をくぐった水路は、梁が設けられた大型のハシゴ式水路となっている。

ちなみにこの地点の東側には、前の方で取り上げた、段差のある地点から分かれる分水路の続きの痕跡が、行き止まりの路地として残っている。こちらは水田に水を引き入れるためのあげ堀で、入間川に並行して南東へながれ、実篤公園のそばで入間川に合流していた(後述)。

住宅地の中を梁の渡された水路が続く。左岸側、先ほどのあげ堀とのあいだはかつては水田
となっていた。

下の写真は夏期(08年6月)の撮影。水量は多く、護岸も湿気を含んだ苔が青々としている。梁の上を猫が歩いていた。

若葉町1−8付近で水路はクランク状に曲がるが、右岸側の護岸に開いた排水口から水が流れ込んでいるのが見られる。ここは本来、先ほどとりあげた京王線の南側の行き止まり水路跡から続く、水田用のあげ堀が合流していた地点だが、現在は近くにある実篤公園から流れでた湧水の流入口となっている。見かけは味気ないが、季節によってはそれなりの量の水が注いでいる。写真は夏期(08年6月)のもので、冬場はかなり水量が少なくなる。

実篤公園はかつての武者小路実篤の旧宅を1985年に公園として開放したものだ。実篤は水の湧く土地を探してこの国分寺崖線の斜面に居を構えたという。敷地内には2つの池がある。下の写真は崖線の下の池。この池は一段高くなった場所にある池から水を引いている。池の主水源はそちらにある。

こちらがその湧水池。「上の池」とも「にじますの池」とも呼ばれていて、1匹だけだがニジマスがすいすいと泳いでいた。そして写真奥の崖線の下から、水がわき出している。

こちらがその湧水地点だ。崖線の斜面、ニジマスの池よりも更に少し高い地点に小さな窪地があって、そこからこんこんと水が湧き出している。近くに立ち入ることができないため水の湧く場所をはっきりと特定することはできなかったが、水は絶え間なく流れだし、ニジマスの池に注いでいた。

湧水地点の近くからニジマスの池を見下ろす。写真左下、樹の根元のあたりで湧水が池に注いでいる。池の周りには武蔵野の雑木林が残されていて、鳥の鳴き声が長閑に響く。かつて入間川沿いにはこのような風景があちこちにひろがっていたのだろう。


最後に今回取り上げた区間の段彩図をのせておく。本文と照らしあわせて理解の手助けになればと思う。
(googleearth経由東京地形地図に流路をプロット)



次回は野川の合流口までと周囲に残る支流の痕跡を取り上げる。

(つづく)

# by tokyoriver | 2012-05-07 23:40 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(0)

謎解き仙川用水その4ー入間川から金子方面導水路まで~深大寺用水と入間川を紐解く(13)  

2012年 04月 17日

「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズの中で、「仙川用水」の暗渠/水路跡を辿る回としては最後となる今回は、前々回の記事のラスト、消防大学校から辿り、入間川(中仙川)にいったん合流したのち、再度分離して金子方面に向かうまでの区間を取り上げる。

まずは地図を(google mapよりキャプチャ)。ピンクの矢印で示したのが今回取り上げる区間だ。緑色のラインが仙川用水に関係する水路、途中で経由する入間川(中仙川)とその分流は赤紫のラインで示してある。仙川、野川、入間川の京王線以南の区間と中央高速付近の一部以外の水路についてはすべて暗渠か埋め立てにより現在は存在しない。


仙川用水入間川養水ルート

写真は前々回の記事ラストでとりあげた消防大学校敷地の南縁。中に立ち入ることは出来ないが、送電線の脇に見える並木が、かつての鎌倉街道の名残で、そこに沿って奥から手前に仙川用水のいわゆる「入間川養水ルート」が流れていた。鎌倉街道跡は、現在では三鷹市と調布市の境界でもある。消防大学校の敷地内ではかつて、前回記事にした「島屋敷ルート」の水路が分かれていた。

先の写真の南側(中仙川西原交差点)には、鎌倉街道跡の道がまっすぐに南へ下っている。こちらもひきつづき三鷹市と調布市の境界となっている。水路は道路の東側(写真だと左側)を流れていたようだ。住宅地図の記載を信じれば、80年代初頭まで残っていたようだ。鎌倉街道跡の道は中央高速道にぶつかるまでまっすぐに続き、そこで入間川養水は入間川に合流していた。

写真は中央高速道にぶつかる手前の入間川の暗渠。シリーズ第3回目で取り上げた区間の続きとなる。第3回の記事で取り上げたように、「入間川」は深大寺東町の「諏訪久保」に流れを発し、通称「野が谷」と呼ばれる谷筋をここまで流れてきている。この「諏訪久保」には、仙川の丸池周辺と同様、「釜」と呼ばれ、水が地面から釜を伏せたような形で吹き出す湧水があり入間川の主水源となっていたが、これが1855(安政2)年の安政大地震で涸れ、野が谷地区の水田が干上がったことが深大寺用水開削の第一の理由だった(詳細は第3回記事参照)。
川名の「入間」は京王線以南のかつての村名であり、当然ながら上流部ではそのような呼び方はされていなかった。深大寺地区では大川と呼ばれていた。
入間川の源流部は車道となっていて痕跡を残していないが、原山交差点から下流はコンクリートの幅の広い暗渠となって、野が谷を南東に流れていく。

そして、下の写真が入間川と仙川用水入間川養水ルートの合流地点だ。右側の消防車が止まっている道路がかつての鎌倉街道と、仙川用水、そして中央やや左の通り名の標識の裏側、2軒の家屋に挟まれた空間が入間川だ。
これより先、入間川は調布市深大寺東町から三鷹市中原へと移る。中原はかつての中仙川村にあたる。なお、第3回の記事に記した通り、深大寺用水から入間川上流部に供給されていた水は、中仙川村にはその水利権がないことから、仙川用水が合流する手前で深大寺用水に再び回収されていた。


入間川を利用した「中仙川用水」の区間

三鷹市内に入った入間川はしばらく開渠となる。しかし、中央高速道の下をくぐる区間には水はなく、土も被されているようだ。25年ほど前は、白濁した水が流れていたような記憶がある。

水が流れなくなってから随分たつのか、川底からかなり立派な木が生えていた。写真ではややわかりにくいかもしれないが、護岸の梁の間から幹が伸びているのが見える。

この近辺の入間川の流路は、かつては大きくカーブを描いていて、川に沿って水田が細長く続いていた。仙川用水の水利組合に加入する、上仙川、中仙川、金子、大町のうち二番目の中仙川村の水田だ。仙川用水の水はそれらの水田に引き入れられていた。
だが1960年代末には、水田は川の水の汚染で作付ができなくなり、1970年代半ばに埋め立てられて、中原団地と中央高速の敷地となり、水路は中央高速高架下の南側に沿って直線に改修された。
水がなく荒れ果てた水路をしばらく追っていくと、川底の真ん中に細い溝が作られてわずかに水が現れ始め、中原4−18の辺りからは護岸からかなりの量の水が流れこんで、水流が復活する。

水は澄んでいて、季節により水量に変動はあるようだがコンスタントに流れ込んでいるようだ。上の写真は2011年秋、下の写真は2008年初夏の様子。どこかで湧き出した水を導水しているのか、あるいは雨水の貯留池でもあるのか、いずれにしても臭いや濁りは全くなく、水質は悪くはなさそうだ。

川は水が流れるようになった地点で中央高速から離れ、向きを変えて中原4丁目団地の裏手を流れていく。せっかく綺麗な水が流れているのに、川沿いに道はなく、様子はところどころから垣間見ることしかできない。梁の上に置かれた植木鉢が落ちることはないのだろうか。

そしてようやく様子を見られる様になったかと思うと、中原4−17に入る地点から先は暗渠となってしまう。写真は「中仙川遊歩道」となっている暗渠の区間から、上流方向の開渠区間を見たところ。フェンスの向こう側が水路だ。

現在、三鷹市内では三鷹市内では入間川は「中仙川」と呼ばれていて、遊歩道の名前はそれに由来する。これは「仙川」に直接関係している訳ではなく、流域のかつての地名「中仙川」(中仙川村に由来)から名前をとったものだ。中仙川は1965年の住居表示施行時に現在の「中原」と改名された。
そして、かつては入間川の呼び名は特にはなく、単に「用水路」、あるいは「中仙川用水路」などと呼ばれたり、あるいは深大寺エリアと同様に「大川」と呼ばれていたようだ。

遊歩道の東側には、住宅地の隙間にかつての上げ堀の痕跡である溝渠が残っている。「郷土中仙川」(1982)によれば、水田に水を入れる4月になると、川の各所に土俵で堰を作り、上げ堀に水を分けて、川沿いに帯状に伸びる水田に水を引き入れていたという。中原4−10付近の「トヨのセキ」など、いくつかの堰には通称もつけられていたという。水田の水を抜く8月にはこれらの堰は撤去された。

一方秋から冬にかけては、何ヶ所かに設けられた洗い場で、大根などの農作物を洗っていたという。かつては蛍の舞飛ぶ澄んだ流れだったというが、今では面影もなく、水田はすべて住宅地となっている。

途中の植え込みに、橋の銘板がモニュメントのように残されていた。この「近幸橋」は1982年7月竣工と、かなり新しい橋だった。橋には歩道橋のような鉄柵の欄干が設けられていて、銘板はそこにとりつけられていた。その時点ではまだ暗渠化されていなかったということだ。
三鷹市内の入間川の暗渠化は1976年に始まったが、80年代後半までかなりの区間の水路が開渠のままだったようだ。近幸橋のあたりは1988年に暗渠化されたという。

しばらく進み中仙川通りを越える地点には、中仙川橋の親柱が残されている。こちらは1953年3月竣工と、それなりに古い。この辺りのかつての字名は「羽毛」で、「ハケ」との関連を思わせる。


再び入間川から分かれる仙川用水

中原1−13で、仙川用水は再び入間川から分かれ、水利権を持つ第3、第4番目の村、金子と大町方面に水を導いていく。
水路は入間川の谷の西側に沿って流れていく。暗渠には「中仙川遊歩道」と標識が掲げられているのだが、実際には中仙川(入間川)ではなく、用水路であるということは知る人ぞ知る、といった感じだろう。本来の中仙川=入間川は谷の東側の縁を流れていき、甲州街道の南側で再び開渠となる。暗渠の区間にもコンクリート蓋暗渠が残っていて、下を水が流れている。こちらについては次回辿ることにする。

中仙川村の水田はこれより南にも続いているが、仙川用水の水路自体は金子、大町方面への導水路であるため、東側に並行してもう一本の水路が通っていて、そちらと入間川の間が水田となっていた。入間川とこの水路を利用して水田への給排水を行っていたのだろう。下の地図に、かつての入間川と仙川用水、そしてそれらから分かれていた主要な分水路と、水田のエリアを記した。
地図右下の緑色のラインが再び分かれた仙川用水。その右側の赤いラインが入間川本流で、間にある青いラインが水田の排水用水路。水田の排水用水路と仙川用水の間には水田がなかったことが分かるだろう。

谷底の水田は1960年代初頭に京王電鉄の手により開発され、「つつじヶ丘住宅」と名付けられた分譲住宅となった。これに先立ち1957年には、「金子駅」が「つつじヶ丘駅」に改称された。水田をつぶし新たに区画から整理されたため、現在ではかつての水田の面影は全くなく、水田からの排水路も一部に名残を留める程度である。それにしても谷底なのに「丘」とはよくも名付けたものだ。

中原1−13で暗渠の遊歩道は一旦車道沿いを離れる(というか、車道の方が離れていくといったほうが正確か)。

水路跡の遊歩道は入間川の流れる谷の西側の崖下を南下していく。この辺りは、谷底よりもわずかに高いところを通っていて、人工の導水路であることがわかる。写真に見える橋は、個人宅の出入り用の橋で、谷底に建つ家の2階に繋がっている。

中仙川遊歩道は車道沿いに出ると、車道よりも幅のある歩道となる。ここでも左側の林の方が地面が低い。戦前の地図を見ると、この区間は2本の水路が並行して流れていたようだが、詳細はよくわからない。

暗渠の東側に少し入ると、先ほどの地図で示した水田の排水路の痕跡がわずかに未舗装の路地となって残っている。

甲州街道の滝坂下交差点の手前では、南西から流れてきた小川の暗渠とぶつかる。この川沿いはかつて「狢沢」と呼ばれていた。この地点で水路が複雑に入り組むが、これについては第5回の記事で触れた。

そして水路跡の遊歩道は、滝坂下交差点に行き着く。ここから先、仙川用水は甲州街道に沿って西へと流れていて、数十m西側では深大寺用水東堀が合流していた。何度かふれたように、それより先の区間は1871(明治4)年の深大寺用水開通以降は、深大寺用水としての扱いとなる。第5回の記事で取り上げているのでそちらをご参照いただきたい。
なお、「深大寺用水私考(5)」には大正15年生まれの方の証言として「この用水(注:深大寺用水)は砂川用水といった。山岡鹿嶋屋酒店の東の方から来た用水(注;滝坂下以西の仙川用水)は品川用水といった」といった言葉が記されていて、仙川用水の水路が入間川(中仙川)とはっきり区別され、かつ品川用水から分水されていることも認識されていることがわかる。


仙川用水については以上で終わりとなる。品川用水、仙川、入間川、梶野新田用水、深大寺用水など関連する川・用水路が複雑に絡み合うため、なるべく理解しやすいよう記したつもりではあったが、あまり反響がなかったのは、やはりわかりにくかったのかもしれない。ただ、謎の多い仙川用水について、今回の記事にあたっての調査でかなりの事実が判明したと思う。よろしければ再度目を通していただけたらと思う。

さて、深大寺用水と入間川にまつわる水路を紐解いていく一連のシリーズの最後として、入間川(中仙川)のうち、深大寺用水東堀の記事及び仙川用水の記事で取り上げなかった、仙川用水が分かれる地点より下流側の区間について、次回以降、2、3回ほどにわけて記事にしていく。入間川にはあまり知られていない支流や分流の痕跡もあり、それらもあわせて紹介していきたい。

※参考文献についてはシリーズの最後にまとめて掲載します。

(つづく)

# by tokyoriver | 2012-04-17 23:34 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(2)

謎解き仙川用水その3ー島屋敷ルートと仙川源流地帯~深大寺用水と入間川を紐解く(12)  

2012年 04月 01日

仙川用水の暗渠/水路跡を辿る3回目は、仙川用水のいわゆる「入間川養水ルート」から分水し、仙川源流域の水田に給水していた水路をたどる。あわせて、それに関係する仙川のかつての水源地帯についても紹介しよう。

何度か記したように、仙川用水は、またの名を「上仙川・中仙川・金子・大町四ケ村用水」ともいうとおり、(A)入間川(中仙川)に水を引き入れることで(1)旧中仙川村エリアの水田に、そして(B)入間川から再度水を分けて、尾根筋を跨いで野川沿いの低地まで水路を引くことで(2)旧金子村・(3)旧大町村エリアの水田に給水していた。(B)については、甲州街道沿いに出て以西の区間は、深大寺用水東堀に転用されている。
そして、仙川沿いにある(4)旧上仙川村の水田への給水は、前々回の記事に記したとおり、入間川養水ルートとは別に「野川分水口」で品川用水から分水されるルートが存在していた。

一方で、前回の記事で触れたように、入間川養水ルートの分水口に設定された村別の水利権の中にも上仙川村(新川村)が含まれている。入間川養水は上仙川村エリアの水田を経由していないから、どこかから仙川に向かって分かれる水路があったことになる。

今回紹介するのはその水路の痕跡だ。まずはいつものように地図を(googlemapにプロットしたものをキャプチャ)。黄緑色のラインが仙川用水の水系、そして水色に塗ったエリアが、仙川用水が給水していた水田だ。この地図には旧上仙川村の水田と、旧中仙川村の水田の一部が入っている。
分水路は消防大学校の敷地内で仙川用水から東に分かれ、かつて島屋敷と呼ばれ、現在新川団地となっている丘のまわりを迂回するように幾筋かに分かれ、仙川に合流していた。以下、この水路を仮称「仙川用水島屋敷ルート」としておく。


はっきり残る島屋敷ルート水路跡

消防大学校から中原3丁目交差点までの区間は、1940年代後半の航空写真や地形図でそのルートを確認することができるが、現在ではほとんど痕跡を留めていない。わずかに交差点の南東側の、敷地の区画にその名残が残っている。写真奥から手前左に向かってコンクリート塀が続いているが、これがかつて水路が流れていたルートだ。

中原3丁目交差点の北東側からは、車止めで仕切られ、緩やかに曲がりくねりながら東へ進む、水路跡の暗渠道が現れる。尾根筋を流れる仙川用水から仙川に向かう下り坂になっているのがはっきりわかる。水路跡の北側には畑地が残っている。

途中で道を横切るところでも、しっかりと車止めが設けられている。写真の場所から北側に少しだけ離れたところにも、別の水路跡が残っているが、そちらは綺麗に整備された遊歩道となっている。

一方こちらは下って行くとだんだんといかにも暗渠っぽい、少し荒れたというか放置されたような雰囲気が増してくる。

そして、新川団地の西側に突き当たって暗渠っぽい道は消滅する。新川団地の周りを道路が円状に囲んでいるが、水路はかつてそこにそって南北二手に分かれていた。今回は南側をたどっていく。写真は団地の南側を曲がりながら進む道。曲がりくねっているのは水路の名残か。団地側が高くなっているが、ここがかつて「島屋敷」と呼ばれた丘で、文字通り水田の中に島のように小高く盛り上がって浮かび上がっていた。


島屋敷と仙川用水

島屋敷は、もともとは中世の武士団であった金子氏の居城だったという。そして、前々回にも記したように、1615年に柴田勝家の孫、勝重(1579-1632)が仙川の地を領地として与えられ、島屋敷に居を構えた。これらは長い間その実在が確認されず、伝承の域にとどまっていたのだが、2000年代に新川団地が建て替えられた際の発掘調査で、大規模な遺跡が見つかり、屋敷が実在していたことが確かめられた。島屋敷の地には古くは旧石器・縄文時代より人が暮らした痕跡があり、13世紀以降は継続して生活が営まれていたようだ。下の写真は、新川団地内に設置された説明板に掲載された、島屋敷遺跡の全景。中央の茶色になっているところが発掘されたエリアだ。仙川用水島屋敷ルートに関連する水路のうち、今回たどっている水路を青いラインで書き加えた。

屋敷は島屋敷東部の小高くなったところに設けられ、心字の池もつくられていた。ここで思いつくのが、この柴田家屋敷と仙川用水の関係だ。玉川上水からの分水は、灌漑を目的とするものが多いが、しかし初期に開削された分水はいずれも飲用水目的が第一であった。そして前々回に記したように、仙川用水の開削時期は1663年以前とかなり早い。このような早い時期に仙川用水が開削できたのは柴田家の力によるものではないかとする説もあるようなのだが、もしそうだとすると、この島屋敷に至る分水ルートは、屋敷の飲用水を確保するために、仙川用水開削当初につくられたものだという可能性はないだろうか。
島屋敷一帯はそばに仙川の源流があり水は豊富なのだが、島屋敷自体は小高い丘となっていて、三方を低地が取り囲み、仙川流域から水を引くことはできない。そんな中で唯一水を引けそうなのが、西側の台地からのルートだ。仙川用水島屋敷ルートはまさにそこを通っている。

柴田家の統治は1698年まで続き、以後、上仙川、中仙川は幕府の直轄地となった。一方で、遺跡の発掘調査の中で、18世紀に入って玉川上水の水を引くようになり、客土で嵩上げして水田を拡張したことが判明した場所がある。そんなことから、もしかすると仙川用水は当初柴田家屋敷の飲用水として開削され、17世紀末に柴田家から直轄地になってから灌漑にも本格利用され始めた、そして灌漑の効果を上げるために野川口分水が補助的に追加された、といった経緯があったのかもしれないt、といったような想像も思い浮かぶ。

島屋敷への分水路の開削時期については全く資料がなく、以上はまったくの推測ではある。柴田家とは関係なく、もっと後に追加して開削されたルートなのかもしれない。ただ、いずれにしても入間川養水ルートに引き入れられた水量のうち明治前期の時点で、三分の1が上仙川村の水利権となっており、その水量は直接仙川上流部に繋がる野川口ルートの5倍近くもあることから、この島屋敷ルートの分水が上仙川村エリアの水田の灌漑用水としてのメインルートであったことは明らかだ。

幕府の直轄地になってからの島屋敷は畑地となり、柴田家の屋敷も江戸後期には痕跡を残すのみだったようだ。1924(大正13)年には、畑地の中に漢方薬で知られる津村順天堂(現ツムラ)の薬用植物園が開設され、終戦直後まで続いた。そして、その後、1959年には、新川団地が完成した。島屋敷の地はもともとは今よりも凹凸があり、屋敷跡を囲むように緩やかに馬蹄形をした丘となっていたが、団地造成時にだいぶ削られたという。

さて、島屋敷の南東から仙川までの間、再び水路跡らしい区間が現れる。見るからにそれらしい路地だ。

そして、住宅地の中をS字に曲がる、くたびれたアスファルトの道がその先に続く。両脇は50年前までは島屋敷を囲むようにドーナツ状に広がる水田だった。

道を抜けると仙川に行き着く。すぐ南側には中央高速道が通り、向かいにはかつての砦跡ともいわれる天神山の緑地が残る。護岸に口を開ける土管はかつての島屋敷ルート合流口の名残だろうか。
仙川用水島屋敷ルートについての話題はここでひとまず終わるが、続いてここから仙川を少しさかのぼり、仙川の水源にまつわるポイントをいくつか辿って行こう。まずは、写真右側、川面から護岸に繋がる水色の配管に注目して欲しい。


野川宿橋への導水

この配管は、仙川の河床の伏流水を取水し、仙川の上流部に送水する施設「樋口取水場」のものだ。1970年代初頭の大規模な改修以降、仙川の上流部は水量が減り、水質悪化や悪臭が発生した。これらを解消するために、下流部の豊富な湧水を上流に送って流すという解決策がとられ、1989年に稼働が開始された。この「樋口取水場」では川底の4箇所から伏流水を汲み上げ、一旦貯留した後に、1.6km上流の野川宿橋のたもとまで送水している(野川宿橋については前回記事で取り上げている)。「樋口」の名は、かつてこの場所に下流部のあげ堀に水を取り入れれる堰があったことに由来しているという。当初は3000立方m/日、現在では1300立方m/日が取水されており、これにより水質、水量とも大幅に改善し、川には魚や水鳥が戻ったという。

ユニークなのは、川沿いに導水管を通す土地がなかった区間では、河川敷の中、護岸に沿って導水管を通していることだ。下の写真は樋口取水場から800mほど上流の勝渕橋から下流方向を望んだものだが、護岸の下に白い導水管があるのがわかるだろう。これより上流は、川沿いの道の下を通しているという。


勝渕神社と仙川の水源「丸池」

そして勝渕橋のたもと、やや小高くなった場所に、勝渕神社(勝淵神社とも)が鎮座している。もともと水神が祀られた地だったようだが、柴田勝重が社殿を設け、祖父柴田勝家の兜を埋めて勝渕神社として祀ったという。現在の祭神は灌漑用水や井戸の神として信仰されている、水波能売命(ミヅハノメ)だという。本殿の脇には兜塚が再建されている。

鳥居の脇には「御神水」としてなぜか古びたポンプ井戸があった。しかし、残念ながら水は完全に涸れていた。

勝渕神社のまわりはかつて湿地となっていて、あちこちで湧水が湧き出していたという。その様子はいくつもの釜を伏せたようであったことから「千釜」と呼ばれ、一般的には、これがのちに訛って「仙川」になったとされている。
湖沼学者吉村信吉の調査(1940)によって、一帯の地下には「仙川地下水堆」があることがわかっている。「地下水堆」は局所的に地下水位が浅くなっている場所で、千釜の湧水もこの地下水堆の水が地上に現れたものだったのだろう。勝渕神社付近から先ほどの樋口取水場辺りまでは「どぶっ田」と呼ばれるぬかるんだ田圃で、特に勝渕神社周辺は沼地のようになっていたという。

そして、これらの湧水のうち、勝渕神社の南東にあった湧水池「丸池」が、もともとの仙川の源流だったとされる。丸池は「勝ヶ渕」とも呼ばれていたようだ。現在ある丸池は場所や形は以前とほぼ同じではあるが、2000年に復元されたものだ。
かつての丸池は、そばを流れる仙川が改修工事により河床が掘り下げられた結果、池に湧き出すべき水が仙川に流出して干上がってしまい、1970年前後に埋め立てられた(その仙川に湧く水自体もその後の宅地化により地下水位が下がって仙川上流では湧き出さなくなり、先に紹介した導水に至る)。
その後丸池を復活させる動きがおこり、埋められた後も地下水が健在であることが確認されたことから、池が復元された。現在、3つの浅井戸から、あわせて1日80立方mの水が供給されている。湧水の吹き出し口は、池の底につくられていて、かつての「釜」で水が湧く様子が再現されている。

池のまわりは「丸池の里」として整備されており、仙川のほとりには水田も作られている。水田の両脇には水路がつくられていて、かつての周囲の水環境を偲ばせる。


忘れられた仙川もうひとつの水源「ベンテンヤ」

丸池から流れだした水は、梶野新田用水の末端と、仙川用水野川口ルートからの水の流れ、そして辺りの湧水や雨水を排水する水路(現在の勝渕橋以北の仙川とほぼ同じルート)に合流し、仙川となって下って行っていた。
さて、この近辺には丸池のほかにもうひとつ、仙川の主な水源だった湧水池があったという。その池は「ベンテンヤ」と呼ばれていた。「三鷹の民俗10 新川」には、「昔の仙川は丸池の水と、丸池から50mくらい離れたベンテンヤの水が合流したものを水源としていた。水位は同じくらい。ベンテンヤはカマ(水の湧く所)があちこちにあって水がたまっており、湿地帯のようになっていた。」と記されている。これによれば、はっきりした池というよりは湿地状になっていたのだろう。
一方で、三鷹市史(1970)には、1950年代に入って、上仙川地区に引かれた三鷹用水(つまり仙川用水)に汚水が流入するようになり、苗代用として不適当になったため、新川本村の「弁天池」を仙川に導水する「仙川用水路頭首工」が1956年に竣工し、灌漑に利用したと記されている。「頭首工」とは用水路の取水口施設のことだ。また「仙川用水路」とは仙川を指していると思われる。また、400mの用水路整備もあわせて三鷹用水土地改良区により実施されたとあるが、これがどこの区間を指しているのかはわからない。
こちらの記述が正しいとすると、弁天池はもともとは仙川にはつながっていなかったことになる。真相はどうだったのか。

下の地図は、東京都北多摩郡三鷹村土地宝典(1939)から水路を抽出し、googlemapに重ねあわせたものだ。仙川用水島屋敷ルートや、改修前の仙川の流れがよくわかるのだが、これを見ると、丸池の西に、ひょうたん型のような池があったこともわかる。丸池からの距離はちょうど50mほどあり、これが「ベンテンヤ」なのではないか。

池からは二手に分かれて水路が流れ出していて、戦前から仙川につながっていたことがわかる。では三鷹市史の記述をどう捉えるのか、ということになってくる。「ベンテンヤ」は湧水池とはいえ湿地状だったということから、これを池として整備し、水路もはっきりと区画されたものに改修して、灌漑に利用できるようにしたのではないかとの推測もしてみたが、これ以上の情報が得られず、よくわからない。

ベンテンヤのあった場所は、今ではアパートや駐車場となっている。その一角、勝渕橋の西側に、道路の脇が凹んだ区画となっていて、そこに古びた祠が祀られている(5枚前の、勝渕橋からの写真で、右端護岸上のガードレールとカーブミラーが見える所)。
祠の中には変なお地蔵さんのようなものが置かれているが、これはおそらくかなり最近、かってに置かれたもので、本来この祠は弁天様だったと思われる。ベンテンヤの名前の由来はおそらくこの祠だ。側面にははっきり読み取れないものの安政年間に再建、との刻字があり、台座には上仙川村をはじめ仙川流域下流に至るまでの多くの村々の名前が彫られている。

丸池や勝渕神社が今でも大切に扱われているのに対し、この祠は半ば放置され、特に標識や説明板もなく、存在感は薄い。しかし、台座に刻まれた村名からは、ここで湧き出し仙川を流れた水は、かつて流域の村々の水田を潤す貴重な水であったこと、そして小さな祠には、その水が涸れないようにという切実な祈りが込められていたであろうことが伝わってくる。


次回からは再び仙川用水入間川養水ルートに戻り、入間川(中仙川)の流末までたどっていく。

(つづく)

# by tokyoriver | 2012-04-01 00:20 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(0)

謎解き仙川用水その2ー幾重に交差する水路を紐解く~深大寺用水と入間川を紐解く(11)  

2012年 03月 22日

今回は、三鷹市新川の品川用水と仙川用水(いわゆる「入間川養水」のルート)の分岐点から辿って行こう。今回取り上げる区間は下の地図で矢印で示した区間(google mapにプロットのうえキャプチャ)。黄緑のラインが仙川用水・品川用水に関連する水路だ。ここに、仙川(青緑のライン)や梶野新田用水野崎支線(水色のライン)が複雑に絡まっている。流域全体の地図については前回の記事を参照していただきたい。

品川用水と分かれた仙川用水(入間川養水ルート)は、人見街道までの僅かな区間だけは、車止めに仕切られ舗装の色を変えた、暗渠や川跡によくあるような姿となっている。


仙川の谷を越える築堤

人見街道を越えると水路跡は普通の道となって、新川の交差点の東~南を回りこみ、西へ向きを変える。そして、現在仙川が流れている谷を横切っていく。谷をまたぐ区間はかつては築堤が築かれていて、水路はその上を西に向かって流れていた。仙川に至る手前には新川児童遊園があり窪地となっている(写真右側)が、水路はこの窪地ではなく少し高くなっている道路のところを通っていた。
築堤はかなりの高さと幅があったようだ。武蔵野市史には、南側からみると二十数尺の高さ(6m以上)があったと記されている。また、築堤があった当時の地形図から判断すると、水路両岸の土手もかなりの幅と高さが取られていたようで、水路の水面よりもかなり高く築堤を築いた上で、そこに深い溝をつくって水路を通していたように見える。土地条件図では仙川沿いの谷は埋め立てられているように記されており、築堤の土手が削られ谷が埋めたてられたことで、現在はそこまでは高低差がないのだろう。

新川児童遊園の西端で流路跡の道は仙川を渡る。車道側の橋には「長久保一之橋」とあるのだが、上流側(歩道側)にはもうひとつ名前のない橋が掛っていて、高さが異なっている。これはかつての築堤と関係あるのかもしれない。仙川用水を暗渠化・道路化した際に多少築堤が削られてこの橋が架けられ、その後さらに土手が削られて道路が拡幅され、橋だけがもとの高さで残ったのではないだろうか。

橋の上から仙川の上流方向を眺めると、人見街道に架かる野川宿橋が見え、その下から川が急に太くなっているのがわかる。野川宿橋より上流側はほとんど水が流れておらず、カミソリ護岸の狭く深い水路となっているが、橋の東側の袂からは、下流部で取水した地下水を流して、川の流れを復活させている。こちらについては次回詳しく紹介する。

仙川上流部の開削時期

かつて仙川はここより1kmほど下流の勝渕神社付近を源流としており、それより上流の水路はあとから開削されたと言われている。仙川用水が通っていた築堤の下の谷筋には、それまでは仙川は流れていなかったことになる。
「世田谷の河川と用水」には1950〜51年に上流部が開削とあるが、1935年頃の地籍図や1947年撮影の空中写真には、築堤より南側には水路がみえる。築堤北側の窪地は戦前は「ハキボリ」と呼ばれる湿地だったというが、おそらく「捌き堀」の意だろう。そこから築堤を潜って南側に排水する水路があったのだろうか。そして、築堤より上流の水路は、1947年7月の航空写真には影も形も見えず、一方1948年3月の航空写真には現在と同じルートの水路がはっきりと見えることから、少なくともこの近辺では1947年夏から1948年春の間に開削されたことになる。

一方で、中央線の武蔵境駅付近より北側の水路は、それより前から存在していたようだ。江戸時代に開削された小金井分水や梶野新田分水から分岐した何本かの用水路の流末もこの水路につながっていることからも、その古さが伺える。小金井市誌によれば、現在の仙川は「長窪の水流」と呼ばれる悪水路で、大雨のたびにあふれていた。梶野新田分水が仙川の上を越える築堤が今でも残っているが、悪水路の氾濫で度々この築堤が破壊されたという。
一方で、境村(現武蔵野市境)では、水害を避けるためにこの悪水路(=現在の仙川)の流れる谷に3箇所にわたり厳重に築堤を築き、それより下流側の窪地に水が来ないようにしていたという。この築堤を巡って宝暦から明和にかけて梶野新田と堺村の間で争いが起こり、1754(宝暦4)年には「悪水堀築留取払いお願いの状」が出されている。
この仙川上流部の流路については武蔵野市史でも、低地帯にある昔からの出水路で、普段は枯渇していて降雨の後数日は水が流れたとし、砂漠の「ワジ」に例えられている。また、1919年(大正8)刊行の5万分の1東京西北部や1931(昭和6)年刊行の最新番地入東京郊外地図でも、小金井付近から武蔵境駅以北の区間までは水路が描かれていて、少なくとも江戸期から戦前に至るまで継続して水路が存在していたことがうかがわれる。
これらの事実から判断すると、人口的に開削されたとされる仙川上流部は、上流部から武蔵境付近までは悪水路として存在していたことは間違いない。そしてそこは降雨時のみ水が流れる、いわゆる「シマッポ」「マツバ」のような水路で、余程のことが無い限りは武蔵境付近より下流は伏流水として地中に消えていたのだろう。伏流水の区間はその後の開発に伴い、排水対策として1948年ころにしっかりした水路を開削して、仙川につなげたのだろう。(※「シマッポ」については白子川上流部の記事参照)。
なお、水路が開削され仙川につながった後も、勝渕神社より上流部はしばらくは仙川とは別扱いだったようだ(武蔵野市内では「武蔵川」として管理されていた)。全区間が「仙川」として管理されるようになったのは1964年のことだという。


築堤がもたらした大浸水

境村に築かれていた築堤がどうなったのかは不明だが、仙川用水の築堤も谷をダムのように塞いでいることから、仙川上流部が開削される以前は大雨が降るとその上流側にあたる人見街道沿いが水浸しになったという。戦前の出水時の写真には、一帯が湖のようになって人々が舟で行き来する様子が写っており、おそらく1941年7月の水害の時のものと思われる。この水害は記録的なものだったという。7日間に続く豪雨の影響で中央線の北側では現在仙川上流部が流れる谷に沿って、長さ3km、幅が最大で200mにわたって湖のようになり、水深は深い所で4mにもなったという。そして三鷹町内でも仙川用水築堤の北側で、人見街道に沿って出水した。「三鷹の民俗6 下連雀」では、下連雀の子供たちが現三鷹市立第一小学校に通うため、井の頭公園の池からボートを5、6艘借りてきたことが記されている。
この築堤を巡っては、水浸しになって困る上流側と、逆に水が来られると被害を被る下流側で度々争いが起こったと伝えられている。「三鷹の民俗6 下連雀」では、仙川用水の土手が水を止めるため大雨の際に水浸しになること、新川の人が土手を切らせないために夜警を出し、けんかになったこともあったと記している。これは仙川沿いの水田への被害阻止を巡る攻防だろう。
また、「深大寺用水私考」には、「三鷹の新川の方の土手は、雨が降ると水が溢れて地元が困るので土手を切る。土手を切られると金子に田のあった内野氏などは、逆に水がきて困るので、土手を切られないように見張りにいったという」といった聞き書きが記されている。仙川用水の築堤を普通にをまるごと切ってしまうとその水は仙川方面に流れるので金子村方面には水は行かないし、仙川用水自体が使い物にならなくなってしまう。ここで言っているのは築堤上の仙川用水を挟む土手のうち、北側を切って、築堤の北側に溜まった水を仙川用水に逃すということではないかと思われる。

そんな築堤も今では撤去され、仙川も改修により深く掘り下げられて、このような水害が起こることはなくなった。
橋を渡ると道路に沿って右手(北側)に小高くなった細長い緑地帯があり、かつての築堤の名残を留めている。

築堤の西端付近から仙川の谷を振り返ると、今でも高低差があることが分かる。水路は写真中央のコンクリート擁壁の上を中央から左手に抜けていた。

ここで仙川の谷を渡りきった仙川用水は、今度は長久保と呼ばれる窪地を避けるようにその縁を西〜南へと向きを変えて進む。水路跡の道路の南側、数メートル段差のある窪地が長久保で、現在では農業公園とJA東京むさし三鷹緑化センターが設けられている。

そしてここで仙川用水は「梶野新田用水野崎支線」と交差していた。仙川用水の北側には高低差がないため、どのようにして交差していたのか不明だが、おそらく野崎支線の方を掘り下げて仙川用水の下を抜け、長久保に出ていたのではないか。流路の跡は現在、農業公園と住宅地の境界線として残っている.下の写真は仙川用水と野崎支線が交差していた地点。手前の道路のところを仙川用水が左から右に流れており、青緑のフェンスのところを右手前から左奥に向かって野崎支線が流れていた。フェンスの裏側が長久保の低地で、2〜3mほどの高低差がある。


梶野新田用水野崎支線

「梶野新田用水」は今まで取り上げてきた深大寺用水の母体となった玉川上水の分水で、基本的には新田集落の飲用水として開削された。その開削時期は1734(享保19)年頃とされる。小金井で分けられた水路は「梶野新田外五ケ村呑用水組合」に属する梶野新田、染谷新田、南関野新田、境新田、井口新田、野崎新田を経由し、上仙川村に至っていた。上仙川村だけは灌漑用としての利用だったという。余水は仙川源流一帯の水田を巡る用水路に落とされていた。1825年の記録では「上仙川村畑直り新田用水」として「上仙川村本田用水」への助水も行なっていたとあるが、これは仙川もしくは仙川用水の"野川分水口ルート"を指すと思われる。1871(明治4)年に深大寺用水が開通して以降は、野崎から下仙川に至る水路は支流扱いとなったようで、「三鷹市史」(1970)によれば、戦後作成された「砂川用水実態図」には、野崎支線と記されているという。
梶野新田用水野崎支線は三鷹市野崎の交差点からしばらく人見街道に沿って流れたのち、現在の三鷹市役所付近で向きを変えて南東南東に直線に流れ、仙川用水をくぐり現在の仙川の上仙川橋付近で仙川用水野川分水口ルートの水路と合流したのち、勝渕神社方面に流れていた。
流路が複雑に交錯しているので、再度地図を掲載しよう。

流路跡自体は全く残っていないが、上仙川橋付近までは土地区画の境界線として辿ることができる。また、上仙川橋より下流部はそのまま現在の仙川の流れと一致する。航空写真(google mapよりキャプチャ)の上は三鷹市役所の東側、下は仙川用水との交差地点付近。野崎支線の水路跡(水色のライン)がそのまま土地の区界となっていることがよくわかる。

梶野新田用水野崎支線はいつ頃まで水が流れていたのだろうか。「三鷹の民俗10 新川」には玉川上水から新川の水田に至る2本の用水路として、ひとつは前回とりあげた仙川用水のの"野川分水口ルート"、もうひとつは「K家の方(から、新川本村の田の)西側にくる」ともある。K家の屋敷はかつて仙川用水と野崎支線が交差する地点の東側にあったことから、ここでのもうひとつの用水路が「梶野新田分水野崎支線」を指していると思われる。この記述は聞き書きをベースにしており、おそらく昭和初期の様子と思われる。ただ、1935(昭和10)年の地籍図にはすでに野崎支線の記載はない。一方で先に記したように戦後作成されたという「砂川用水実態図」には記載があるといい、1948年の航空写真でもそのルートははっきりと写っている。

JAの裏手で、仙川用水跡は再び車止めに遮られた暗渠らしい道となる。

カーブを描いて南へと向きを変えていく。

東八道路につきあたったところで水路跡は姿を消す。かつてはこの先、海上技術安全研究所の中へと続いていた。品川用水との分岐点から海上技術安全研究所に入るまでの区間は、仙川用水・品川用水の中でも最後まで水路が残っていた区間のようだ。住宅地図でその変遷を追う限りは、1976年ころまでは開渠として残っており、その後段階的に暗渠化が進み、最後まで残ったJAの北側の区間は1986年の地図で姿を消している。ただし、情報の更新にタイムラグはあって、実際にはもう少し早い時期に無くなっていたかもしれない。


海上技術安全研究所を抜ける仙川用水と明治20年代開削説

海上技術安全研究所の構内に入った仙川用水は、三鷹市と調布市の境界に突き当たったのち、その境界にそってほぼまっすぐに、南南東に下って行っていた。この境界線は、かつての鎌倉街道でもあった。現在では水路の痕跡はほとんど残っていないようだが、鎌倉街道に沿った並木が続いていて水路のルートも示しているかたちとなっている。

ただ、海洋技術研究所の前身である中央航空研究所が作られた1940年頃、構内の南半分はルートを変更した上、暗渠化された。そして1958年には新たに造成された実験用プールを迂回するため北半分もルートが変更され、海洋技術研究所内の仙川用水は、実際には鎌倉街道沿いとは離れた場所を流れるようになった。

さて、研究所内に残る鎌倉街道跡沿いには、「仙川分水」の解説板が設置されているようだ。今回の取材で見学することはできなかったが、研究所のウェブサイトにその写真と、解説板に記された文章が掲載されている。そこには仙川分水は明治20年代に開削されたと書かれている。仙川用水に関する情報が皆無に近いためか、あるいは公的機関に掲示された解説板であるためか、この明治20年代開削説はネットを中心に各所で引用されている。これは一方で、仙川用水が品川用水よりも古い、江戸前期に開削されたということと矛盾するため、今まで個人的に謎であった。今回の調査で、この解説板の設置経緯と、情報の出所が明らかになった。結論から言えば、この明治20年代開削説はおそらく誤りであろう。
情報の出どころは、研究所内で刊行されていた、社内報のような刊行物「雑木林 」で1979年9月に刊行された23号を始め、何回かにわたって仙川用水と鎌倉街道のことが取り上げられている。ここで、仙川用水に関する公的な記録は1962年ころに「砂川水利組合」(砂川用水の水利組合か、あるいは品川用水の聞き間違いか不明)に一括譲渡されてしまい、三鷹市には一切何も残っていないこと、市の市民相談室職員の説として、仙川分水が明治20年代から30年代にかけて開削されたのではないかと述べていることが記されている。そしてその根拠は仙川用水が明治13年の地図には載っておらず、明治40年代の地図には掲載されていることだとしている。つまり、なにか文献に基づくものではなく、地図からの推測である。
ここで言われている明治13年の地図とは2万分の1縮尺の「東京近傍図 :東京近傍西部」(明治13年測量19年製版)、明治40年代の地図は5万分の1地形図「東京西北部」(明治42年測量)だと思われる。確かに前者には仙川用水のルートは描かれていない。しかし、東京近傍図にはほかにも入間川など描かれていない川や用水路も数多く有り、これを根拠にすることはできない。

前回記事でも記したように、仙川用水の入間川養水ルートは江戸期から存在し、江戸時代後期や末期の記録にも残っていることから、一時的なものならともかく、長期にわたって断絶した期間があるとも考えにくい。そして明治20年代説の直近で言えば、明治16年時点で、品川用水からの各村ごとの寸積(分水量)として以下の記録が残っている。

[字稲荷前口から=入間川養水ルート] 新川村:3坪5合2勺、中仙川村:3坪1合4勺、金子村:1坪5合3勺、大町村:1坪5合4勺
[野川分水口から] 新川村:6合9勺

新川村は1874年に野川村と上仙川村が合併してできた村だ。このことひとつをとってみても、明治20年以降ではないことがわかる。
ちなみにここで注意すべきは、入間川養水ルートにも新川村=旧上仙川村の水利権があるということだ。そして中仙川村以上の水利権が確保されていて、これが水田用であることが伺われる。一方で入間川養水ルート〜入間川沿いには旧上仙川村の水田はない。水田があるのは仙川沿いだ。つまり、入間川養水から旧上仙川村エリア=仙川流域に向かって分水路が引かれていたことになる。この分水路については次回に詳しく記そう。

明治20年代開削説はこのようにおそらく間違いなのだが、上記の「雑木林」の続く号では、鎌倉街道と仙川用水の保全の働きかけ、その結果としての解説板の設置といった経緯が記されている。解説文が参考にしたのは当然ながら「雑木林」での記述だった。その結果、明治20年代説がひとり歩きするようになったようだ。1980年代の三鷹市の広報紙でもこの説が採用されており、仙川用水を巡る情報が錯綜していく一因となったと思われる。

敷地内に残る鎌倉街道跡の並木道を塀越しに眺めてみる。水路の跡はなさそうだ。

船舶技術研究所を抜けた仙川用水跡/鎌倉街道はいったん普通の車道となる。この近辺にも70年代まで開渠が残っていたそうだ。

そして100mほど南下すると、今度は消防大学校の敷地に突き当たる。敷地の北側を横切る歩道にはなぜか水路の流れていたルートにそって斜めに敷石のようなものが埋められていた。


消防大学校

消防大学校の中もひきつづき仙川用水跡/鎌倉街道は三鷹市と調布市の境目となって南南東に下っていく。こちらの敷地内にも街道沿いの並木が保存されている。その入口は遊歩道風となっていて、やはり解説板が設置されていた。守衛さんに頼んで入り口だけ撮影させてもらった。鎌倉街道を辿ってくる人は時々訪れるというが、用水路を辿ってくる人はいないようだ。

構内図には街道跡を示す並木が描かれている(2列に連なる緑の点)。


かつてこの敷地内で、先程ふれた仙川流域の水田へと向かう分水路が分かれていた。長くなったので、以降は次回の記事としよう。

(つづく)

※参考文献リストはシリーズの最後にまとめて掲載します。

# by tokyoriver | 2012-03-22 23:33 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(0)

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