IE9ピン留め

深大寺用水東堀の流末と、いくつかの分流の痕跡〜深大寺用水と入間川を紐解く(6)  

2012年 01月 21日

ここまで5回にわたって深大寺用水東堀を追ってきたが、最後は京王線の線路付近から、野川の合流地点までを辿り、いくつかの支流もあわせて紹介しよう。下の地図で「今回記事」の区間となる(地図はgoogle mapより)。青色と黄緑色が用水路(の暗渠・水路跡)、紫色と水色が自然河川(とその暗渠・水路跡)である。現在も水が見られるのは甲州街道以南の入間川(紫の太いライン)と野川(水色の太いライン)のみだ。

東堀本流流末

まずは前回記事の最後の地点から。甲州街道から離れた水路は、道路の歩道になりすました、長いコンクリート蓋の暗渠となって曲がりくねって下っていく。この辺りから水路は幾筋にも分岐され、流域の水田を潤していた。前にも記したように、それらの水路の大部分は、仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)の開削時にすでに流れていたようで、江戸期の絵図にも現在痕跡として確認できるのとほぼ同じようなルートで水路が描かれている。この辺りはもと金子村、大町村のエリアだ。

少し先で、暗渠は新しい道路に遮断され、消滅する。その先には京王線のガードが見える。水路はもともとこのガードの下をくぐっていた。

ガードを越え、何の変哲もない道路となった水路跡を少し進むと、車止めに遮られた道となる。そしてその中央には、水路を埋めたような帯状の新しいアスファルト地帯が出現する。

アスファルト地帯は見事な蛇行を描いている。

水路跡は、品川通りを越え、神代団地2号棟の北側に至る。やや荒れた感じはあるが、車止めもあって水路跡らしさを醸し出している。流路はかつてこの先、突き当たりを右に折れ、後はジグザグに野川に向かっていたが、はっきりした痕跡をたどれるのはこの辺りまでだ。

団地の中は格子状に整備された道路の間に整然と団地が並び、水路跡が残る余地はない。神代団地は1965年に分譲を開始した、60棟近くある大型の団地だ。国分寺崖線下から野川沿いにかけて広がっていた「金子田んぼ」を潰して造成された。深大寺用水東堀の本流はその「金子田んぼ」を横切るように流れていた。用水本流以西のエリアは水を得にくい土地柄で、用水路は幾筋にも分岐されて水田の灌漑に活用された。一方で用水本流以東のエリアは、もともと湿地の「どぶっ田」で、水はけも悪く足を踏み入れると腰まで沈むほどであったという。
戦後の食糧難対策として、各地で推進された農地改良法に基づいた大規模な土地改良事業が、この「金子田んぼ」でも実施された。1954年から57年にかけて10mおきに何千本もの暗渠排水管(ここでの暗渠は、土地の水はけをよくするための地下集水管)を埋め込む事業が行われ、稲の収穫高は一時向上した。ところがその翌年には日照りによる水不足がおき、更に深大寺用水上流部の開発(宅地化もさることながら、工場の増加も)により水質が急速に悪化し、せっかくの土地改良の成果を無に帰してしまう。結局1961年に最後の収穫がされたのち、1962年には水田はすべて住宅公団に売り払われ、団地が造成された。今でも暗渠排水管の多くは埋まったままだという。そして深大寺用水もまた暗渠化された。

団地の中を横切る野川の川岸に、深大寺用水東堀の合流口の名残がひっそりと残っている。そこからはもはや水は流れ出ていない。

さて、東堀編の最後に、旧金子たんぼエリアを流れていた関連水路を3つほど取り上げよう。先に、わかりやすいように、金子田んぼエリアの拡大図(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)を載せておく。

大町堀

まずは「大町堀」と呼ばれていた分水路。別名カズタ堀とも呼ばれていたというこの水路は、その名の通り仙川用水時代から、大町村の水田を潤していたようだ。水路は冒頭の写真の場所の直ぐ側(赤いポールが見える箇所)から南西に分岐する。現在の分岐点は、ただの未舗装の道があるだけとなっている。

ところが、ここは数年前まで半ば埋められた水路が残っていたのだ。写真は2008年撮影の同じ場所だ。ゴミが捨てられ荒れているが、れっきとした水路である。手前の橋のような遺構の下には暗渠へつながる穴も残っていた。

そしてそこから進んだ先、更に左手に水路が分かれる地点も、護岸の切れ目と、地中に埋まった分水路のかたちがはっきりと確認できたのだが、今では右岸の護岸が残る以外は跡形もない(上は2008年、下が2011年の写真)。

分岐点より先は、京王線のガードの直ぐ側まで、埋められた大町堀の護岸が続いていた(2008年の写真)。

こちらは2011年現在も残っているが、なぜか水路の中は砂利で埋められている。

水路に架かる京王線の橋の下は、現在は人の通れるガードとして利用されているが、高さは2mもなく、少し腰をかがめて通らないと頭をぶつけるだろう。

京王線より先、水路は深大寺用水西堀と並行するように流れて、最後に合流して野川に注いでいた。2つの水路の間は水田となっていて、そこだけ大町村の中に金子村が細長く食い込んでいた。京王線以南の西堀は見事なコンクリート蓋暗渠が今でも残っているが、こちらは追々、西堀の記事で取り上げよう。

大町堀分流

次に、先ほどの写真の分岐点で分かれていた大町堀の分流の痕跡を。分岐点の先、水路の跡は畑の中の畦道となって、京王線の線路で行き止まりになるまで続いている。

この水路は京王線の南側で更に幾筋もの流れに分かれていた。その水路の跡は、断片的に細長い空き地となって残っている。こちらは神代団地の南西側に残るそのひとつで、旧大町村と深大寺村の飛び地の境界線にもなっていたようだ。雑草が生い茂り、フェンスに囲まれている。25メートルほど西側にも平行して水路が流れていて、2つの水路に挟まれて水田があった。水路は水田を潤した後、大町堀に再度合流していた。

八反田用水

最後に紹介するのは「八反田用水」と呼ばれていた水路。こちらは直接深大寺用水から水を引いていたわけではない。国分寺崖線の下を流れていた深大寺用水東堀本流と、崖線の上を通し、結局水の流れることのなかった覚東方面への分水路の間に挟まれた一角に湧き出ていた湧水を利用した用水路で、水源のある常楽院の南側の小字名「八反田」からその名を取っている。
常楽院の墓地の南側、住宅地の中にぽっかりと駐車場と、土の斜面の空き地が残っている。この辺りがかつて湧水池があった場所だ。ぽつんと残された弁財天の祠が、ここが水に関連する土地であることを示している。

弁天祠はだいぶ朽ち果てているが、供え物もされていて今でも信仰されているようだ。裏側には文政11年(1828年)の文字が刻まれている。

用水路は池の南東から流れ出ていた。現在でも水路跡の路地が残っている。

品川通りを越えた先にも用水路跡の痕跡は続いている。水路は深大寺用水東堀本流と、覚東方面への水の流れなかった水路の間を神代団地方面に抜け、そのまま神代団地の北縁、「金子田んぼ」の「どぶっ田」だったエリアの外縁に沿って南東に流れていた。流末は野川に注いでいたようだが、今では確認はできない。

なお、水が行き着かなかった村「覚東村」は、現在の狛江市東野川近辺にあたる。現在では野川を越えた反対側となっているが、1960年代後半に改修工事が行われるまでは、野川の左岸側だった。村は結局野川に堰を設け、通称「覚東用水」をひいて灌漑に利用したという。

6回にわたって追ってきた深大寺用水東堀、いかがだっただろうか。2度にわたって隧道で尾根を越え、3つの谷筋をシフトしながら進むその水路のルートや、それにまつわるエピソードには、水田を営む人々の水への切実な想いが詰まっていた。それは遠い昔の話ではなく、ほんの50年前まで続いていた話なのだ。水の流れていた入り組んだルートを解明していくと、それはまさに水を巡る記憶でもあることがわかる。

引き続いて2、3回にわけて深大寺用水西堀を追ってみよう。さらにその後で、入間川(中仙川)の取り上げていない区間や仙川分水についても取り上げてみたいが、こちらはしばらく間をあけての記事になるかもしれない。

(つづく)



# by tokyoriver | 2012-01-21 00:25 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(0)

仙川用水、入間川支流との交錯と、再びの隧道〜深大寺用水と入間川を紐解く(5)  

2012年 01月 13日

深大寺用水東堀シリーズ、今回とりあげるのは「らんせん池」のあるつつじヶ丘公園の少し先の付近から、甲州街道沿いの隧道を抜けた辺りまで、下の地図で「今回記事」の区間となる(地図はgoogle mapより)。

今回は5mメッシュのあるエリアに入るので、段彩図もあわせて載せておこう(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。

下の写真は、前回の最後でとりあげた、らんせん池付近を水源とし深大寺用水に並行する小川。仮に「入間川西つつじケ丘支流」とでもしておこう。谷底の擁壁にそって曲がりくねった暗渠が下っている。地図によってはらんせん池の他に、この辺りにも池が描かれているものもある。右側の斜面の上をかつて深大寺用水東堀が流れていた。

擁壁の下をくねくねと。右岸の斜面は徐々に緩やかにり、苔むす疎らな林が暗渠沿いに続く。

そばを並行する道路に出て上流方向を眺めるとこんな感じ。植え込みのあたりにかつて深大寺用水東堀が流れていたようだ。その更に右手の林の中に、西つつじケ丘支流の暗渠が流れている。林は、西つつじケ丘緑地と名付けられている。左側の住宅地のところにはかつて水車があった。1884(明治17)年に設置され、昭和初期まで稼働していたという。近くの金龍寺に、水車の中で動いていた石臼が保管されている。

コンクリートで固められた水路跡らしき遺構。これは西つつじケ丘支流の方で、すぐ右隣を深大寺用水が流れていた。最も近い場所では2つの水路は1mほどしか離れていなかったというが、このあたりのことだろうか。

そのすぐ先で、支流の方は東に逸れて下っていき、用水路は道に沿って直進・南下していた。

深大寺用水東堀は、道路の東側に沿って甲州街道まで流れていた。ちょうどその箇所は歩道になっていて、東側に少し傾斜している。

深大寺用水の続きを辿る前に、つつじヶ丘支流の暗渠にちょっと寄り道。コンクリート蓋暗渠が住宅地の裏側の少し低くなったところに続いている。緑も多く、なかなかの雰囲気だ。

水路の左側(東側)にはかつて、川に沿って細長く水田があった。そして下の地図のように、その東側には三鷹市が調布市のエリアに細長く食い込んでいる(水色ラインが境界線)。前回の記事に示したように、かつての中仙川村がらんせん池のところにあった湧水を確保するためこのような境界線となったのではないかと思われる。そして、現在は調布市に属している、かつて水田だった川沿いの土地も、古い地図をみると「仙川入会」と記されており、中仙川村の土地もしくは旧金子村(現調布市)との入会地だったのではないかと考えられる。

真新しい蓋が一瞬現れた後、暗渠はアスファルト路地になり、更に東へ逸れていく。

そして通りに出たところで、いきなりいびつな形の鉄板の蓋が現れる。道路を跨いだ先には「中仙川遊歩道」と記された車止めの路地が見える。

ところが、鉄板の蓋の先は南に折れていて、コンクリート暗渠がすぐ先の甲州街道滝坂下交差点まで続いている。

一方、車道を挟んでコンクリ蓋暗渠と反対側を北に向かって見てみると、先に見えた中仙川遊歩道へと続く歩道がやって来ていて、こちらも中仙川遊歩道と名付けられている。

この場所は水路が入り組んでわかりにくいのでもう一度、少し前に上げた地図を見ていただきたい。黄色の丸で囲んだ場所がこの暗渠が入り組んでいる地点だ。車道沿いの「中仙川遊歩道」(地図の緑色のライン)は、実際には中仙川(=入間川)ではなく、かつての仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)の下流部で、もともとは鉄板暗渠の先のコンクリート暗渠のところにつながり、滝坂下交差点で甲州街道沿いに西に折れて流れていた。段彩図でわかるように、その流路は入間川の谷底よりもやや高いところを流れている。一方で、鉄板暗渠の向こう側に見えた中仙川遊歩道は、もともとは入間川西つつじケ丘支流の下流部で、図のピンクのラインのようにつながって、入間川(中仙川)につながっていたと思われる。

1回目で触れたように、仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)は17世紀に4つの村の灌漑用水として開削された、玉川上水からの分水だ。形としては品川用水を途中から分水したようになっているが、もともとはここまでの区間は仙川用水として開削され、後から品川用水が開削されたといわれている。上仙川村は現在の三鷹市新川の一部で仙川の上流域、中仙川村は入間川流域(三鷹市中原)、金子村、大町村は現調布市西つつじケ丘、菊野台で、野川の流れる低地の東側となる。このように3つの川の流域に水をもたらすために、仙川用水はまず仙川方面に水を落とし、次に入間川の中流域を利用して中仙川村の水田を潤した後、水利権の無い入間村方面には流さぬように、新たに開削した水路で再度入間川から分かれて、更に隧道で谷をシフトし、野川流域の金子村、大町村方面につながれていた。深大寺用水東堀の下流部は、この仙川用水流末をそのまま利用している。
仙川用水と入間川つつじケ丘支流の交わる地点がどのようになっていたのか不明だが、立体交差などではなく、堰などを設けて出入りする水量の調節で運用していたのではないだろうか。

仙川用水は甲州街道の北側に沿って西進していて、すぐに真っ直ぐ南下してきた深大寺用水が合流していた。ここまでの仙川用水は品川用水とも呼ばれていたという証言もあるが、一方で深大寺用水もこの辺りでは「砂川用水」と呼ばれていたので「すながわ」と「しながわ」が混同されている可能性も否めない。

水路はつつじヶ丘交番の前付近でクランク状に甲州街道南側に移る。ちょうどその箇所で、歩道の幅が急に狭くなっていて、水路が合った頃の痕跡を残している。

そして甲州街道を挟んだ南側には欄干のようなコンクリートの遺構がぽつんと。ここには金龍寺橋ともゲンド橋とも呼ばれていた橋が掛っていた。このコンクリート遺構が橋、あるいは水路に関係あるのかどうか不明だが、その場所はちょうど向かい側の歩道の細くなる場所に対応していて、偶然にしてはできすぎている。


かつて水路は甲州街道の南側に移ってすぐに、素掘りの隧道に入っていっていた。仙川用水開削時から隧道だったと言われているが、江戸時代の絵図には普通に水路の青いラインとして描かれており、明治期の迅速図にも普通に水路として描かれていて、もともとは深い掘割だった可能性もあるかもしれない。昭和初期まではこの付近では京王線が甲州街道の上を路面軌道で通っていた。
甲州街道を西方に望むと、先の方が下り坂になっているのが見える。深大寺用水の隧道は、左側(南側)の歩道の下辺りを流れて手前の丘を越え、野川沿いの低地に出ていた。

調布市役所神代出張所そばの、水路が隧道から顔を出していた地点には、怪しい欄干と、フェンスに囲まれた空間が残っている。水路に関係する空間なのだろうか。
ここから右手奥に見える植え込みの方に、深大寺用水開削時に新たにつくられた、覚東村方面への水路があった。しかしこの水路には水が流れることはなく、まもなく覚東村は用水路組合から離脱し、水路もなくなったようだ。ただ、地籍図には水路として記されている。
またそれとは別に、水路が隧道から顔を出す手前に別の隧道が分かれて、写真右外れの敷地に合った水車を回していた。水車は昭和初めにはなくなったが、その名残の製綿工場は1970年代まで残っていたようだ。現在敷地はマンションになっている。

隧道から出て少し先の地点で、深大寺用水は甲州街道から直角に流れ、かつて金子村・大町村の水田の広がっていた低地へと流れていく。この区間の水路も、分流を含めて仙川用水の時代からあったものをそのまま利用している。写真左手前のアスファルトが甲州街道の歩道、右奥へと延びる歩道が深大寺用水の暗渠だ。わかりにくいが大きめのコンクリート蓋暗渠となっている。

次回は深大寺用水東堀本流の野川合流地点までと、途中でいくつも分かれていた水路の痕跡についてとりあげる。次回にて東掘編を何とか終えられそうだ。
(つづく)

# by tokyoriver | 2012-01-13 00:37 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(2)

隧道水路から旧金子村エリアへ。執拗に入間川の水系を避ける水路。〜深大寺用水と入間川を紐解く(4)  

2012年 01月 01日

前回から少し間が開いてしまったが、今回取り上げるのは、「二段水路」に続く隧道から下流、下の地図で矢印で示した区間。

深大寺用水東堀は、二段水路でいったん入間川に引き入れた水を回収し、内野水車を回したすぐ先で、長さ180mほどの隧道に入って入間川の谷筋から隣りの谷筋に越えていた。

かつての隧道の入り口には一応碑が建てられているが、日焼けで色が抜けてしまってそこに記されている文字を読むのはかなり困難だ。

碑の裏側は行き止まりとなっているが、かつてここに隧道が口を開けていたのだろう。

深大寺用水の開削を主導した、富澤松之助は当時27歳、田畑3600畳分、屋敷の杉の大木といった私財を投げうって人足や経費を賄い、村々の利害を調整して開通に尽力したとう。上流である砂川分水(梶野橋まで約14.2km)の拡幅、整備には2ヶ月かかったが、その下流の梶野新田分水(野崎まで6.1km)拡幅は1週間、新規の水路となる東堀(現つつじヶ丘駅前で仙川用水下流部に接続するまで4.6km)、西堀(野川合流地点まで5.7km)の掘削はわずか11日間で完了したという。その後、一月半ほどの調整を経て水が流末まで達するようになったそうだ。
そんな中で、二段水路から隧道にかけての区間は開削にあたっての最大の難所だったと思われる。ローソクを立てて隧道を掘ったという言い伝えもあるが、夜中に提灯を掲げて高低差を調節したという伝説の残る玉川上水のように、高低差のチェックをしながら掘ったのだろうか。隧道には途中何ヶ所かに泥抜きのたて穴があって、隧道を掘った際にそこから土を出すとともに、開通後には水路清掃に利用していた。毎年水田に水を入れるシーズン前の泥さらいは、隧道より下流の金子村の人たちの手によって実施されたという。
隧道は子供が遊びに入れるくらいの大きさで、中にはコウモリも棲んでいたそうだが、今では中央高速道の切通しとなっていて、もはやその痕跡を確認することはできない。

南側、かつて出口があった近辺。横切る道路の向いに隧道の出口があり、そこから手前に水路が通っていた。

この先暫くの水路跡は「柴崎緑道」として整備されている。緑道沿いは現在は柴崎だが、かつては金子村と深大寺村の飛び地だったという。柴崎村には東堀の水利権はなかった。
水路が流れているのは蛇窪と呼ばれる谷筋で、先のトンネルの出口のそばには「蛇窪の水車」があった。1878(明治11)年、水路に通年水が流れるようになった直後に設置され、幅50cm弱の水路で引き入れた水が直径4.5mほどの水車を回していた。水車は富沢家と金子家による設立で、搗き臼6個が稼働していたが、大正末に火災で焼失したという。

緑道が終わり、車止めのあるいわゆる暗渠道に。

両側を擁壁に囲まれた風情のある暗渠。用水路とはいえ、谷筋を利用していることがよくわかる。既存の水路を部分部分で活用しているのが、迅速に開削できたポイントなのかもしれない。

妙に開けている、暗渠が直角に曲がる地点。手前左側からきて、直角に曲がり左奥へとつながっていく。

此処から先もまた暗渠らしい路地。

つつじヶ丘駅から深大寺に向かうバスの通る道に出る。

車道をまたいだ先の歩道には、ちょうど暗渠の出口の延長線上に、コンクリートの斜めのラインが入っている。ここから暫くは、暗渠は道路沿いの歩道となる。

宮の上バス停の近くで歩道はなくなり、未舗装の暗渠が東へと逸れていく。

こちらは2008年の写真。右側の家はまだ無く、暗渠上に生い茂った草を刈っているところだった。

緑の多さはあまり変わらない。

ブロック塀の下に、古い護岸と思われる擁壁が残っていた。

入り口と同じような車止めで、公園の敷地へと向かう。

公園の敷地の北側、一番低いあたりに未舗装の車止め付きの道が通っていて一見川跡に見えるが、これはただの道。実際の水路はこれより南寄り、写真右端のやや高いところを通っていた。

フェイクの川跡をまっすぐ行った先には、見事なスリバチ状の窪地となったつつじケ丘公園がある。スリバチの底には「らんせん池」との石碑のたった小さな池がひっそりと。池は1936年にこの地に居構えた政治活動家、田中澤二が、湧水を利用して作ったもので、彼の筆名「蛍澤藍川」に因み没後「らんせん池」の碑が建てられたようだ。
もともとはこの湧水は灌漑に利用され、中仙川村に水利権があったものと思われる。そのため、ここは調布市に細長く三鷹市が食い込んでいる不思議な境界線となっている(しかも一部未確定)。深大寺用水は二段水路のところでもそうだったように、あくまで中仙川村には一滴の水も与えないスタンスであるから、ここも谷筋には入らず回り込むように通されているというわけだ。

深大寺用水の水路はこのスリバチとそこから続く谷を避け、斜面の中腹を南下していく。写真左側の植え込みの所がかつての水路跡である。

マンホールのすぐ脇には木が生えていて水路の向きを考えると地下がどんな塩梅になっているのか、想像がつかない。

下って行くとやがて左手に谷が現れ、その底に突然コンクリート蓋暗渠が始まる。これは深大寺用水の水路ではなく、もともとは先のらんせん池のところにあった湧水を水源とする川だといい、流末は入間川につながっている。池からこの地点まで宅地の造成のためか谷が埋められてしまったようで、そのため池の周囲は完全なすり鉢状となっていて、こちらの暗渠もコンクリートの擁壁の下から突然始まるかたちになっている。深大寺用水はこの水路には合流せず、少し高いところを平行して南下していく。


(つづく)

# by tokyoriver | 2012-01-01 01:00 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(4)

みちくさ学会記事「消滅。」を書きました。  

2011年 12月 21日

先月はおやすみしましたが、今月は「みちくさ学会」の記事を書くことができました。テーマは「消滅」。最近なくなってしまった2つの橋と1つの暗渠についての、エッセイのような記事です。いつもよりも軽めの記事ですが、よろしくおねがいします。
現地の状況を知るきっかけとなった庵魚堂日乗さんとA Midsummer Night's Holeさんの記事に、感謝の意を込めてリンクさせて頂きます。


49,067,550円で消えた88年間の歴史。

# by tokyoriver | 2011-12-21 11:00 | その他 | Comments(2)

東堀分流の暗渠と入間川源流部、そして二段水路跡 〜深大寺用水と入間川を紐解く(3)  

2011年 12月 17日

深大寺用水東堀・入間川シリーズの3回目は、上流の方に戻って東堀から分かれて野が谷の東縁を流れていた分流と、入間川の源流部を追っていこう。下の地図で、オレンジ色のラインで区切った区間が取り上げるおおよその範囲だ(用水路の全体の地図は第1回に掲載)。

入間川源流地帯と、東堀分流

下の写真は1回目で取り上げた、野が谷の谷頭付近のすぐそば。右奥へと下るやや太い道が谷の真ん中で、奥のほうに入間川源流地跡の碑が設けられている。そして手前から左奥へと回りこんでいく道に沿って、深大寺用水東堀の分流が流れていた。深大寺用水東堀の本流とこの水路で、野が谷の谷の両縁を、入間川(いりまがわ)の源頭部をはさみ込むように流れるかたちとなっていた。

入間川(大川)源流地跡の碑。野が谷の谷筋の源頭部には、諏訪久保という小字名がつけられていた。1回目に取り上げた諏訪神社に由来するものだろう。碑に記されているように、入間川はこの辺りでは大川と呼ばれていた。そもそも入間というのはかなり下流部の地名(旧村名)で、川がその名で呼ばれるようになったのはかなり最近のことではないかと推測されている。碑の立つ深大寺東町8−13近辺と、500mほど下流の深大寺東町6−31付近には「釜」と呼ばれる地中から水の湧き出る地点があっておもな水源となっており、川沿いにはその水を利用した水田が古くから開けていて、江戸時代には「野が谷たんぼ」と呼ばれ深大寺村の耕地となっていた。

だが、1855(安政2)年の安政大地震で「釜」の水涸れが起こり、野が谷田んぼは壊滅状態となった。当時は一帯は天領で年貢が少なかったことから、干上がった田んぼは畑に転用されていたようだ。しかし明治維新後品川県に編入されると課税が強化され、水枯れの影響を受けなかった村の他の水田の負担が重くなり、野が谷田んぼの復活が急務となった。これが、1871(明治4)年の深大寺用水開削の直接の契機となった。

その後、釜の湧水は復活したが、震災前の水準には戻らず、水源の碑近辺の釜は戦前には枯渇した。一方で、東町6丁目付近の釜は1960年頃までは水をたたえていたとの証言もあり、確かに戦後の航空写真や地籍図でもその姿が確認できる。しかし61年から野が谷田んぼは埋め立てられて住宅地となり、「釜」があった場所にも住宅がたち全く面影はない。

谷の東縁に沿って流れていた深大寺用水東堀の分流は、幅は1mにも満たない細い流れだったという。東縁の斜面は西縁よりも急で、谷頭付近では森林になっていた。現在でもその名残の竹林が残る一角がある。斜面下の道沿いに、かつて東側の分流が流れていた。道の右側の住宅地は50年前までは一面の水田だった。

分水路や入間川には随所に堰が設けられ、水田や、入間川との間を結ぶ横向きの水路を介して、水をジグザグに行き来させて水田を潤していたとのことだ。冒頭に載せた地図には主水路しか記していないが、実際には細かな水路が複雑に張り巡らされていた。下は1955年ころの地籍図に描かれた水路を、全てではないがだいたいプロットしてみた地図。深大寺用水の2本の流れの間はすべて水田だった。また、用水と入間川の流れの間にも更に水路が並行している。そして「釜」が健在であることもわかる。

かつての入間川の流路である「野が谷通り」には、ほとんど川の気配はないが、2ヶ所ほど不自然な歩道が設けられている。写真の場所は消防大学通りを越えた地点。この歩道の区間は1980年代初頭まで開渠だったようだ。

そして、歩道が突然尽きる地点の住宅地を裏側に回りこむと、なんと深大寺用水東堀分流跡の路地が残っていた。路地の両端は実質的に行き止まりとなっていて、途中数カ所、出入りできる場所があった。

北端に近い地点から入り南下していくと、未舗装の路地になる。水路を埋め立てた後に作られたU字の側溝が続いている。

進んでいくと、雑草の中に轍の残る、足を踏み入れるのに躊躇するような空間に。そんな場所だけど、勝手口が設けられている家もあって、一応通路として機能はしている様子。

途中で通り抜けを断念、暗渠路地を離脱して、下流側の出口へと回りこむ。入り口には木が生え、侵入を拒んでいる。手前の道を左に進むと、入間川の暗渠道である野が谷通りを横切り、前回の最後に取り上げた暗渠路地へと出る。横切る地点から下流(南東)側の野が谷通りには、もう1箇所の「不自然な歩道」がある。こちらも80年代頃まで開渠だった区間だ。

余水を回収する二段水路へ

ここで再度、前回の記事最後の暗渠路地に戻る。前回も少し記したが、この暗渠路地は、いったん入間川に落ちた深大寺用水の水を再び回収する水路のひとつの痕跡と思われる。

なぜそんなことをするのかというと。入間川中下流の中仙川村、入間村などは深大寺用水の水利権をもっていなかったためだ。深大寺用水東堀は、深大寺村のほかは、金子村、大町村、覚東村と、いずれも入間川の谷筋ではなく、野川方面の低地に水田を持つ村が水利権を持っていた。そこで、深大寺用水から野が谷田んぼに引かれた水の余りはすべて深大寺村内で回収され、尾根を越えて金子村方面へと送水されていたのだ。
少々わかりにくいので、この水を回収する仕組みが設けられているエリアをクローズアップした地図を。太いラインが今でも何らかの痕跡のある水路、細いラインは現在まったく痕跡のわからない水路だ。中央を横切っている太い道路は「原山通り」で、比較的近年につくられた新しい道だ。図の上端、分水路と記してあるラインが先ほどの細い暗渠、中央の水色のラインが、余った水を回収する水路となる。深大寺用水は野が谷のいちばん西側、少し高くなったところを流れている。両者は「二段水路」を経て合流し、水車を回した後、隧道で丘陵を越えて入間川の谷を脱していく。

余水回収水路の暗渠路地は、原山通りを斜めに横切ってさらに続く。このしばらく先からは侵入できなくなるが、暗渠(水路跡)は南へと続いている。

さて、原山通りを40mほど北東にシフトすると、原山交差点のそばに、入間川の暗渠の続きの入り口がある。このガードレールより下流側は、コンクリート蓋の幅の広い暗渠が出現し、ようやく入間川が川としての体裁を持った姿で現れるかたちとなる。

ぐぐっとカーブする蓋暗渠。幅は結構広い。

入間川の暗渠沿いは緑が色濃く、そして妙に亜熱帯っぽい雰囲気を漂わせていて面白い。南向きで、周囲の家々も低いので、木々が茂っている割には妙に日当たりがよいのも特徴的だ。

クワズイモに蕗の葉。先ほどの地図にも記したが、この辺り(深大寺東町3−30)に入間川に落とした水を最終的に回収する堰があったという。この少し先からは中仙川村(現在の三鷹市中原)となって水利権がないからだ。先の地図にも記したが、この堰から150mほど下ると、仙川用水が合流していた。中仙川村は仙川用水の水利権は持っていて、入間川に流れ込んだその水を、水田に引き込んでいた。しかし、貴重な水を巡る綱引きは激しく、田植えの時期になると、夜暗に乗じて中仙川村の人が深大寺用水の水を奪うために、堰を切りにきたという。これを防ぐために、堰には下流の金子村の人たちが、夜通し見張り番をつけたという。これが決して明治期や戦前の話ではなく、昭和30年代、水田がなくなる直前まで続いたというから、驚きだ。

堰から引きこまれた水は、さきほどの回収水路に合流していた。その回収水路が東掘と合わさる手前の水路跡。先の地図中央で、水路が西に折れ東堀の方に向かう手前の地点だ。侵入は厳しいがしっかり空き地となって残っている。

水路が折れるところ。左から暗渠がきて、車道に出て直角に手前に曲がるのだが、水路の幅の分、急に歩道スペースが現れているのがわかる。

回収水路は写真手前から。そして、右奥からの道がかつての深大寺用水東堀本流のルート。ここのT字路で、水路は両方共直角に折れ、左方向へ流れていた。ここにはかつて「二段水路」もしくは「二重水路」と呼ばれる、谷筋から水を回収する仕組みがあったという。余水の回収水路は、深大寺用水本流よりも低いところを流れていたために、本流の下(隣り?)に掘られた、ローム層を繰り抜いた隧道を通って高さを調整し、東堀に合流していた。隧道の長さはおよそ50mほど。先の地図で2つの水路が隣り合って平行している区間がそれである。村の境界ギリギリまで水田を潤しつつ、一滴の水たりとも権利のないエリアには流さないという執念が二重水路を生み出したのだろう。現在その痕跡は全くなく、土地も造成され以前の高低差がよくわからないのでどのような水路だったのか想像しがたいのが非常に残念だ。

二重水路の合流地点のすぐ先には「内野水車」があった。深大寺用水は、開通当初は田用水として、稲作の時期のみ通水していたが、1878(明治11)年に水が通年流れるようになり、水車などにも利用できるようになった。「内野水車」が設置されたのは1882(明治15)年。主に精麦を営んでいて、「水車仲間」が決められた料金を支払って使っていた。
写真はかつて水車があった場所。中央を奥に進む道沿いに深大寺用水の本流が流れていた。水路は幅1m弱で両岸に1mずつの土揚敷があったという。そして、左手前から、水車に水を引くための分水路が左側に分かれていた。こちらも幅1m弱。そして、写真正面の畑のあたりに水車小屋があった。水車を回した水は、その先数十mほどで、再度本流に戻されていた。

水車の直径は最終的には5mほどのものとなり、1942,3年頃まで稼働していたという。水車が廃止となったのは、戦時下の食料統制のため精麦ができなくなったからだというから、都区内の水車の廃止事情とはちょっと異なっている。

水車を回した後、深大寺用水は開削時の最難関であった隧道区間に入っていく。

(つづく)

# by tokyoriver | 2011-12-17 23:22 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(6)

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