渋谷川水系再訪(1)南新宿駅付近の原宿村分水(代々木川)  

2009年 11月 21日

南新宿駅付近に所用があったので、ついでに久々に小田急線南新宿駅を横切る原宿村分水(代々木川)の暗渠に立寄ってみた。

※原宿村分水(代々木川)については「東京の水2005Revisited」の下記記事以降18ページ分をご覧いただきたい(「次の記事へ」で順次見られます。なお、地図のポイントがlivedoorの地図の更新により、ずれてしまっていますのでご注意ください)。
http://blog.livedoor.jp/tokyowater/archives/27158232.html

暗渠は小田急線南新宿駅の北側に、変わらずにひっそりと佇んでいた。


路上は湿度が高く、苔むしている。駅沿いの道から暗渠に降りる短い階段のわきには、真新しい手すりと点字ブロックが設置されていた。近隣のお年寄りが生活路に使ってでもいるのだろうか。


南新宿駅ホームの下の橋(隋道)も、変わりなく残っている。わずかに隙間があり、反対側が見える。現在駅の改修工事がされているが、この遺構は大丈夫だろうか?


ホームの南側の暗渠も変わらず。ホームの直下の暗渠上はほとんど私有地と化している。


暗渠沿いの木陰にあるポンプ井戸も健在だった。


井戸のまわりは綺麗に保たれていて、現役感がある。写真を撮っていると、たまたま近所の方が出てきて、話しかけてきた。飲むことはできないが、草木の水遣りなどに使っているとのこと。夏は水が冷たく気持ちがいいよ、飲めないのが残念だ、とおっしゃっていた。井戸を囲む5件ほどの家で共同管理されているそうだ。なんだか少し嬉しそうに話されていたのが印象的だった。





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# by tokyoriver | 2009-11-21 00:01 | 渋谷川とその支流 | Comments(1)

中野区南台~弥生町の暗渠  

2009年 11月 17日

中野区南台2丁目を起点とする、東大附属中学と中野通りに挟まれた浅い谷に、神田川の支流の痕跡がある。全長1km弱、標高差10メートルほどの短い暗渠だが、全区間にはっきりと暗渠が残っている。

暗渠は南台商店街の一角の小さな公園の脇から突然に現れる。これより南にいくと、今度は神田川笹塚支流(和泉川)の谷となるので、このあたりがもともと源流だったのだろう。

コンクリ蓋の暗渠?ただの敷石?

暗渠は人がすれ違えないくらいの細い路地となって、北上していく。途中、クランチ状になったやや不思議な空間がある。路面のアスファルトが暗渠の枠が浮かび上がるかのようにでこぼこにへこんでいる。

暗渠はこの先いったん車道となる。車道は大きく蛇行して方南通りに。通りの北側は栄町公園となっている。公園の北側から再び、細い暗渠が始まる。町名は変わり、弥生町を北に下っていく。

この写真の先の区間は、つい最近まで未舗装の暗渠だったのだが、この夏にアスファルトで綺麗に舗装されてしまった。

暗渠はいったん車道となって蛇行した後、まっすぐな路地となって結構な傾斜で谷をひたすら下って行く。終戦直後の空中写真でもすでにこの流路となっており、戦前には改修されていたのだろう。

最終的に流路は丸の内線中野新橋駅の西方、柳橋の上流側で神田川に合流する。護岸に合流口が開いている。また、護岸のあちこちから水が滲み出しており、緑も色濃い。地下水脈があるのだろう。ここより400mほど上流側には小沢川の合流地点がある。




# by tokyoriver | 2009-11-17 23:39 | 神田川とその支流 | Comments(6)

大井・鹿島谷の湧水と川跡(3)暗渠、大森貝塚、そして荏原台末端の湧水  

2009年 11月 14日

原の水神池からと滝王子稲荷からの2つの小川は合流したのち、品川区と大田区の境界線を南下し、池上通りに出る。通りのところには、かつて「山王橋」が架かっていた。暗渠の上の構造物は遠近感を強調していて少し面白いが、ここが川だったというような表示が全くないのが残念だ。山王橋の名前もみあたらない。


暗渠は通りを越えると、綺麗なS字形に蛇行して東に下って行く。かつては左岸はお屋敷で、川は鬱蒼とした森の中を流れていたという。暗渠沿いに並ぶ大木はその名残だろうか。

暗渠はJRの線路に突き当たっていったん行き止まりとなる。線路沿いに左岸の斜面を上がったところが大森貝塚だが、直接は行けないので、いったん池上通りに戻り、品川区の大森貝塚遺跡庭園から回り込むこととなる。

大森貝塚はエドワード・S・モースが1877年、東海道線の車窓から発見、発掘した縄文時代後期の遺跡で、貝殻のほか、土器や土偶、人骨なども発見されており、日本考古学発祥の地とされる。

長らく正確な場所がはっきりせず、そのため大田区側にも大森貝墟の碑が立っているのだが、最終的に1984年に品川区側だったと判明した。つまり大森貝塚は大森ではなく大井にあったということだ。公園内に、縄文時代の近辺の様子を描いたイラストがあるが、ちょうど鹿島谷のところに小川と泉が描かれていた。縄文時代ここに暮らしていた人々はおそらく鹿島谷を流れる清水を生活に使っていたのだろう。
公園南東側の斜面を下った線路際に貝塚碑が建っている。


遺跡庭園の北側の道路を東側に向かうと、JRの線路を「桐畑地下道」で潜って線路東側の低地に出ることができる。地下道の出口はちょうど荏原台の東端となっていて、片隅に湧水が湧き出している。石組みの小さな池に金魚が泳いでおり、あふれ出した湧水は側溝へ流れ込んでいる。


線路沿いに南に進むと、先ほどの鹿島谷のちょうど向かいに、暗渠の続きがある。ここからは谷を出て、平地となる。縄文時代は海だった場所だ。

暗渠はしばらく続いたのち、区画整理された普通の道路になる。この先、しながわ水族館のあるしながわ公園近辺で東京湾に注いでいたはずだが、痕跡はない。

これにて鹿島谷の流れを辿り終えるが、最後に近くの湧水ポイントに寄り道。いったんJRの線路沿いに戻り、線路沿いの水神公園を北上、先ほどの地下道の湧水を通り過ぎて、更に北上すると、マンションに囲まれた交差点の一角に「大井水神社」がある。この境内に、(かつての)湧水池がある。ここも荏原台の東端の麓に位置する。台地の地下を流れて来た水が、低地に出るところで湧き出していたのだろう。この湧水はかつて、「柳の清水」と呼ばれる名水で、1685年に水神社が祀られた。近隣住民の貴重な飲用水や農業用水として利用された他、歯痛に効果もがあったとか(原の水神池は眼病)。湧水は70年代半ばにほぼ枯渇し、以後、地下水の汲み上げで維持されている。

池は澄みきっており、循環ではなくいわば掛け流しで地下水を流しているのだろう。それにしても、今回まわった3カ所の池はいずれも柵で囲まれており、いくら安全上の理由とはいえ水辺に近づけないのがとても残念だ。


溶岩石で組まれた水神社の祠の前には、石で組まれた自噴井戸があり、わずかに水が流れ出ている。これがかつての湧水だったのだろうか。


以上で荏原台の最東端の湧水と川跡を辿るシリーズは終わり。あまりなじみのない土地であったが、暗渠も湧水も、予想外に見所の多い谷だった。


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# by tokyoriver | 2009-11-14 23:26 | 呑川水系と荏原台の水 | Comments(0)

大井・鹿島谷の湧水と川跡(2)滝王子稲荷の池からの流れ  

2009年 11月 12日

大井・鹿島谷を流れる谷のもうひとつの水源は、滝王子稲荷神社(品川区大井5-12)だ。神社には小さな拝殿があり、その右手に小さな丘とタブノキがある。タブノキは推定樹齢300年という。



タブの木の下に柵に囲まれた池がある。ここがかつての川の水源だ。池は谷頭に位置するが、きわめて浅い谷で、滝王子という名もそこに滝があったわけではなく、周囲の旧地名「大井滝王子町」に拠る。かつては湧水が豊富に湧き水は澄んでいたそうだが、今は濁っている。中には巨大化した赤い金魚が泳いでいる。三方は道路とコンクリートに囲まれているが、稲荷社のあるほうだけは石組みになっている様子。かつてはこちら側から水が湧いていたのだろうか。


川は滝王子通りを越えて南東に流れ出していた。水神池の方と同様に、すぐ北を通る品川用水から水を引いていたようだ。暗渠らしい曲がりくねった道が2本平行して続いている。西側の暗渠は曲がりくねっているだけでなく、あちこち出っ張ったり引っ込んだりしている。



暗渠はいったん池上通りにぶつかり、姿を消す。通りの向かいには鹿島神社があり、境内には品川用水の記念碑が建てられている。「品川用水大井町内堀普通水利組合」が、1932年、周囲の市街地化に伴う用水の廃止時に記念として建てた碑。碑によれば、「内堀」とは品川用水から各村の田畑への分水を指し、本流は大堀、外堀と呼ばれていたという。神社のやや北の丘の上に、品川用水の末端が流れてきていた。

少し南下すると再び暗渠が始まる。ここから先の区間は水路敷扱いで、暗渠らしい道が続く。

鹿島庚塚児童遊園で水神池からの流れと合流する。写真左端から水神池の流れ。滝王子からの流れは一見正面の車止めのところから来るようにみえるが、実際には正面の家の裏手を回りこんで、右手の方から合流するかたちとなっている。植え込みになって柵に囲まれているところが流路だ。

合流後はかなり立派な遊歩道になっている。

# by tokyoriver | 2009-11-12 23:04 | 呑川水系と荏原台の水 | Comments(0)

大井・鹿島谷(仮称)の湧水と川跡(1)原の水神池からの流れ  

2009年 11月 10日

JR大森駅の北側、荏原台の最東端に刻まれた谷の谷頭に湧く水と、谷を流れていた川跡を辿ってみた。当初「荏原台の川と水」のシリーズでとりあげるつもりだったのだが、思いのほか見所があったので、別のシリーズとして数回に分けて紹介してみる。

谷筋はJR横須賀線の西大井駅南東から始まり、JR京浜東北線の大森駅の北方に至っている。谷頭には「原の水神池」(品川区西大井3-1)があり、かつては川が流れ出していた。一方やや東方にはもう一つ浅い谷頭があり、滝王子稲荷神社の池(品川区大井5-12)がある。ここからも川が流れ出していた。
二つの川は池上通りの西側で合流し、JR京浜東北線/東海道線を越える。JRの線路のあたりがちょうど台地の最東端となっていて、ここで谷から平地へと出た川はそのまま東進して直接東京湾に注いでいた。

かつては台地のすぐ下までが海で、谷の出口はそのまま海につながっていた。そして、谷の出口の北側の斜面で発見されたのが、かの有名な大森貝塚だ。つまり、この谷の川に流れていた水を、大森貝塚に暮らしていた縄文人が利用していた可能性がある、ということになる。

川に特に名前はなかったようだが、流域の旧地名のひとつに大井村鹿島谷がある(現在の大井6丁目)。他に谷筋はないので、この谷が鹿島谷なのだろう。ということで、鹿島谷(仮称)と標記することにする。

《追記:水神池のほうの谷は、水源周辺の地名から「出石谷」と呼ばれることがあったらしい。そして、「鹿島谷」は滝王子稲荷からの流れの谷〜水神池からの谷と合流してJR線に至る手前までの谷を指していたようだ。》

まずは、原の水神池からの流れを辿ってみよう。原の水神池は、住宅地の中の小さな児童遊園の一角に、ひっそりと残っている。かつては池の底から水が豊富に湧き出し、近隣の農家が野菜を出荷する際の洗い場としても利用されていたという。今では池の周囲は金網で囲まれており、池の中央部は上にもなぜかネットが張られている。池はややにごっているが、鯉や亀が泳いでいる。


池の後背の石崖に設けられたパイプから、湧水が落とされている。水は崖を流れ落ち、池に注いでいる。


後背の崖の上には水神社が祀られており、貴重な湧水だったことが伺われる。また、池の水は眼病に効き目があり、治るとお礼に鯉を放っていたという。その鯉の供養のためか、神社の脇には粋人池の石碑と並んで鯉塚が立てられていた。


かつて池をあふれた湧水は。南東に向かって川となって流れ出していた。明治後期の地図には、この川自体は記載されていないものの、現在のJR西大井駅付近を流れていた品川用水からこの水神池近辺に至る分水路が描かれており、品川用水から川に水を引いていた時期があったようだ。川の水は農業用水や生活用水として使われていたのだろう。

川筋はどうやら谷底で2、3に分かれていたようで、くねくね蛇行する暗渠らしき道が並行している。その中の一番南側の川跡はいかにも暗渠らしい姿を残しており、下水道台帳を見ても水路敷扱いとなっている。


途中には、ほんの数メートルの区間だが、コンクリ蓋の暗渠が残っていた。谷の中央の流れから合流していた水路のようだ。


しばらく進んでいくと、暗渠は普通のアスファルトの道路となってしまうが、道端に橋の親柱がぽつんと残されていた。庚塚(かのえづか)は、このあたりの旧町名で、すぐわきに庚塚町会の事務所がある。竣工の年月も、説明もなにもないが、確かに川が流れていたことを証明する貴重な遺構だ。


川はこの先、鹿島庚塚児童遊園の敷地内で、滝王子稲荷からの流れと合流していた。合流点については次回に取り上げる。

[鹿島谷の湧水と暗渠 全体図]


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# by tokyoriver | 2009-11-10 00:05 | 呑川水系と荏原台の水 | Comments(0)

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