品川用水(1)古戸越橋と古戸越川(品川用水末流)
2009年 07月 22日
暗渠とそこに架かる橋が残っている。
欄干には「古戸越橋」の名が刻まれている。
ここに流れていたのは通称「古戸越川」。
戸越公園の池から流れ出し、品川用水の末流のひとつと
戸越銀座を流れていた川をあわせて目黒川に注いでいた。
戸越公園はもともとは江戸時代につくられた細川家の抱屋敷で、庭園の池の水を
得るために玉川上水から引かれた「戸越上水」が品川用水の前身。
そういう意味では古戸越川自体が品川用水の末支流のひとつといってよい。
品川用水は1950年代には廃止され、現在ほとんどその痕跡は残っていない。
橋が残っているのはここだけではないだろうか。
戸越公園からこの橋のあたりまではほぼ全区間暗渠が残っているが、
現在都道25号線の工事が進んでおり、かなりの部分が消滅してしまいそうだ。
古い欄干は、親柱だけ残して壊されてしまうことも多いですが、水路敷が道にならなかったのが幸いしたのでしょうか。
なにより、小さいながらもちゃんと意匠を凝らしてあることに感動します。
クルマでもぶつかるのか、親柱があちこち欠けているのが痛々しいですね。
話はちと変わりますが、欄干に半円の窓が開いているのをあまり見た覚えがなく、手持ちの写真を探してみました。
案の定あまり見つかりませんでしたが、和泉川(笹塚支流)の清水橋(!)がこれとよく似た半円の窓の欄干でした。
清水橋が昭和11年ですから時期的にも近いのですが、その時代の流行というわけでもないようで、わざわざ手間のかかる丸窓を刻んだものは他にほとんどありません。
そもそも、こういう橋のデザインって、誰が決めていたのでしょうか。
公共仕事とはいえ、当時はおそらく職人さん(達)の一存で決まっていたのではないかと思います。
「いやあイイ仕事してますねえ」というやつですね。
昭和30年代以降になるとこうした小型橋はまるで判で押したように同じ(個性のない)デザインになってしまいますが、太平洋戦争前後(昭和28年まで)の小建築には絶妙な味があります。
(長文でスミマセン)
この橋のデザインは、何となく看板建築の細部の意匠に通じている
ような感じもしますね。無名の職人さんのちょっとしたセンス
なんでしょうかね。
本文で書かれている通り、品川用水系で唯一現存する橋ではないかと思います。
流路は、鉄道の高架の下を行ったり来たりしながら、けっこうしっかり痕跡が残っていました。
品川用水の終了後も戸越公園の池の排水路として活用されていたのでしょう。
すべて辿りきれなかったので、できたら続きはご一緒しましょう。
ですからさっさと埋めて、橋も壊してしまう、というケースがほとんどだったのかもしれません。たしか品川用水も上流はわざわざ埋めています。
三田用水跡に一か所だけ石橋が残っていますが、こちらはなんとなく“壊し忘れた”ような感じでした。
下流探検、寒くなる前に実現できたらいいですね。
道路予定の場所は工事の障壁で覆われ、重機も入っていて、本当に消失寸前という感じでした。
また、暗渠上、大井町線の真下あたりに見事な「大径マンホール」が2つペアで存在するのを発見、狂喜乱舞しましたが、その片方が道路予定の敷地のすぐ脇にあり、これも撤去されてしまうのでないかと心配です。
いずれにせよ、未踏の暗渠人の方はすぐに行かれた方が賢明です。
残念に思っていたところすぐ近くに移設されていました。
下神明駅前のヘリポート工事に伴い移されたようです。
暗渠を少し進むとヘリポート裏の公園への入口が出来ていて
そこに移設されていました。
コメントありがとうございます。そのようですね。暗渠を公園への歩道として使うため、邪魔な橋を移設したと聞いています。全くなくなってしまうよりはいいのかもしれませんが、あの場所にあってこそ川を感じられたのも事実で、ちょっと残念です。