神田川笹塚支流(和泉川)(1)「萩窪」の源流と幡ヶ谷分水
2009年 10月 16日
渋谷区、世田谷区、杉並区の3区が境界を接しており、すぐ近くには中野区も迫る。
西から流れてきた玉川上水は、この地で通称「萩窪」と呼ばれる北に開けた浅い谷戸(窪地)を避けるように南に迂回している(この近辺は現在暗渠となっている)。
玉川上水が環七通りを越えてすぐ、北にまっすぐに伸びる細い路地がある。ここが「荻窪」の再上端だ。
路地の途中から、コンクリート蓋の暗渠が始まる。かつてこの窪地に発していた小川の痕跡。それは「神田川笹塚支流(和泉川)」のいくつかある源流のひとつだ。
道路を跨ぐ部分にも、橋の痕跡やら何やら。
京王線の線路を北に越えると、流路は渋谷区と世田谷区の境界線になる。コンクリート蓋の暗渠が続いている。
流路はいったん甲州街道に遮られるが、越えると再びコンクリート蓋暗渠が住宅地の中へ伸びている。甲州街道より北の流路は、杉並区と渋谷区の境界線になっている。つまりちょうど川が甲州街道を横切っていた地点が3区の境界となるわけだ。3区の境界地点は、かつてはちょうど南豊島郡、東多摩郡、荏原郡の3つの境界だった。そんなわけで、ここにかかっていた橋は三郡(みこおり)橋と呼ばれていた。流れはこの先水道道路(かつての玉川上水新水路)の下を潜り、神田川笹塚支流(和泉川)の本流に合流していた。
そして、かつては甲州街道沿いに東から流れてきた玉川上水幡ヶ谷分水(逆さ川)がここで合流していた。幡ヶ谷分水の取水点は笹塚駅南方、ちょうど玉川上水が開渠となっているところにあり、今も遺構が残っている。写真の玉石を埋め込んだ壁の右側、縦長のコンクリートのところがそうだ。北沢村分水や牟礼村分水の取水口と同じような構造をしている。
この地点で取水された分水は、まっすぐ北上したのち、甲州街道に沿って荻窪の底まで下っていっていた。分水は玉川上水とは逆方向に流れていたことから「逆さ川」とも呼ばれていた。
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分水の水量をめぐっては、水量を増やしたい幡ヶ谷村民と制限したい当局との間で熾烈な争いが繰り広げられたという。明治中期、幡ヶ谷村民は玉川上水新水路の建設で移転が必要になった、とある弁天社を、幡ヶ谷分水取水口のすぐそばに移設した。その際、弁天様にはつきものということで、境内に池が掘られた。すると「偶然にも」池から水が湧き出した。これ幸いと、その水は幡ヶ谷分水に加えられた。実はこれ、夜影に乗じてこっそり、玉川上水から池をつなぐ穴を掘って、湧水に見せかけていたのだった。
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最近ではあちこちのサイトに記され有名(?)になったこの盗水のエピソード、出典は「幡ヶ谷郷土誌」の記載に拠るものだ。
分水昭和初期には廃止されたという。現在は逆川の痕跡はまったくなく、舞台となった弁天社はその後更に引っ越して、現在では幡ヶ谷地区の鎮守である渋谷区本町の氷川神社の境内にひっそりと祀られている。
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神田川笹塚支流(和泉川)の水系地図(googlemap)
※神田川笹塚支流(和泉川)のシリーズをはじめるにあたって、水系が多岐にわたるため、一応最初に水系地図へのリンクを入れておきます。ただし、ある意味ネタばれ注意、です。
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>ネタばれ注意
でも我慢できなくて地図見て、また「ヤッター!」でした。
今回だけでも興味深いエピソード満載で、シリーズ期待しています。
>地図
いままでgoogle貼ると重そうだからなーと、避けていましたが、そうか全体を把握するときにこうやって使えばいいのか!私もこのまとめ方まねしちゃってもいいですか・・?
地元ですものね。シリーズ、断続的になるかとは
思いますが、よろしくお願いします。
lotus62さん。
どうぞご参考に。一応敢えて最小限の情報にはしてありますので、
ぜひ行かれていろいろ見つけてみて下さい。
namaさん。
この川の痕跡は、素敵な物件が多いですよ〜
しっかり歩けば誰でもいろいろ見つけられます。
地図は、そうですね。まとめとか、ふりかえりに使うと
いいかもですね。どうぞまねしちゃってください。
私も環七・水道道路交差点付近から神田川までざっと歩きましたが(主として南側流路)、まだその支流までは把握していません。
いつかはその辺りも、とは思っていましたが、その際は参考にさせていただきます。
hondaさんのディープな観察力に心服してしまいます。
ディープな観察力というよりも、生活圏内なので通る機会が多いという
だけなんですけどね(汗)支流も面白いのでぜひ!
orangepeelさん。
そういえばご近所でしたよね。数年前、「世田谷の川探検隊」さんの掲示板で、戦前の中野区史に「和泉川」という名前の記載を発見したという報告があり、それ以降「和泉川」の名前も少しずつ広まっているようです。ただ、その当時実際にそう呼ばれていたかどうか、不明です。