白子川上流部ー地下水堆とシマッポー(4)新川のミッシング・リンクと白子川源流部
2010年 04月 19日
前回記したように、これより下流側は練馬区東大泉の白子川上流端まで、断続的にしか川の痕跡が残っていない。それらをプロットしたのが下の図となる。google map/google earthのはめ込みが出来ないので、google earth画面キャプチャから。濃い青線が暗渠/川跡、そして井頭池と記した地点より北の太い青線が白子川となる。画面上を横切る西武池袋線上のマークは保谷駅だ。画面左下で新川の暗渠が都道234号線に突き当たって途切れた後、北に2カ所ほど断続的な暗渠があり、その先は白子川上流端のすこし上流から再び暗渠が始まっている。この区間、新川はどのように流れていたのかは、わずかな痕跡と地形、資料からミッシングリンクを探すしかない。
同じ範囲に「東京地形地図」で公開している、国土地理院刊行5mメッシュ地図に基づく段彩図と等高線を重ね、痕跡のない流路を地形や資料から推定しプロットしたもの(水色の線)を加えたのが下の図だ。
「白子川を知っていますか」などによると、かつて水路は天神山交差点からかえで通りに沿って北上していたという。
ただ、プロットされた微地形をみると、窪地は直接北に延びているのではなく、天神山交差点の東側をいったん200mほど東進し、練馬区との境界線近辺からぐるっと北〜西へと回りこんで、天神山交差点の北150〜200mほどで、かえで通り沿いに戻った後北上している。ちょうどそのライン上に交差点北側の断続的な水路跡が乗っている。もしかすると、新川は本来この回り込む窪地に沿って流れていたのではないだろうか。図面にはまっすぐかえで通りを行くルートとぐるっと回り込んで行くルートの2つを記してある。
先に触れた西東京市東町5-4に残る水路跡の区間には、googlemapなどにも描かれている短いコンクリート枠水路がある。この水路、全く水は流れていないが、両端が非常に特徴的だ。というのは、水路が掘り下げられているのではなく、ベースの地面に対して水路のあるところだけ、その両側が護岸分の高さだけ盛り上がっているような形になっているのだ。なぜこんなことになっているのか、詳細は不明だ。なお、1970年代前半の地図をみると、ここのすぐ北側に保谷フィッシングセンターの釣り堀池があった。
この水路の痕跡を辿るとかえで通りにぶつかる。かえで通り側から草の生えた水路跡の空き地が伸びているのが見える。果たしてこれは新川の水路だったのだろうか。
この先、新川の流れていた窪地の底にかえで通りが通っている。おそらく東側の歩道の辺りが水路だったのだろうが、痕跡はまったくない。ただ、何カ所か歩道の幅が不自然になっている箇所があった。
通りを600mほど北上していくと、東町4-11で東へと向かうコンクリート蓋暗渠が出現する(最初の図の中央左上寄り)。
しかしこの暗渠は畑に沿ってしばらく進んだ後、練馬区との区界の道路にぶつかったところで消滅してしまう。
ここから先は練馬区内となる。流路の痕跡は再び全くなくなってしまう。終戦直後の航空写真や資料から推定される流路はgooglemapプロットの通りだ。畑や、畑を潰してつくられたであろう住宅地の中を抜ける道路に沿って流れていたようだ。再び暗渠がはっきりと現れるのは南大泉1-49だ(ここより西にも、住宅地の中に流路を利用した短い遊歩道のような空間が残っており、古地図を見るとそこに新川の流路がある)。
ここから先は蓋暗渠ではなく、緑道となっている、下水道台帳を見てもこの区間はヒューム管が埋設され完全に下水道として利用されている。擁壁からは排水管が突き出していたりして、都心部の暗渠(川跡)に近い雰囲気だ。暗渠沿いにある南大泉図書館は何年か前の集中豪雨で水浸しになったという。谷の中に半地下構造でつくられており、いかにも浸水しそうなつくりだ。
緑道はゆるやかに弧を描き、東大泉7丁目で白子川の公式な上流端である「七福橋」へと出る。橋の上に設けられたフェンスには「一級河川 白子川 上流起点」と記した看板が取り付けられている。ここで新川は終点となり、ここから先は白子川となるのだ。白子川側から橋を見ると、暗渠の合流地点が見られる。ただ、下水道台帳を見る限り、新川の下の下水から雨水管などとして直接繋がっているという訳ではなさそうだ。近隣の道路端の雨水溝からの水がここから出てくるようになっているのかもしれない。
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さて、「七福橋」から白子川が始まるわけだが、橋から下流側を見ると、最初の30mほどは三面を石に囲まれ、川底を底上げした全く水のない水路となっている。そして橋のすぐ先には、川底に穴が開いている。先の新川の暗渠口からあふれた水は、よほどの水量にならないかぎりはこの穴に入り、下水道大泉幹線から分かれる雨水管に合流して白子川の河川敷の西側にある大泉井頭公園の下を幅2.4mの暗渠で回りこんだのち、井頭橋の手前で白子川に合流するようになっている。なるべく井頭公園の湧水地を汚さないようにしているのだろうか。それにしてもなんだか意味がよくわからない構造だ。(※合流式下水道の雨水管は、大雨などが下水に流れ込み下水道の能力を超えると、溢れた下水を川に流す役目を持っている。したがって普段水は流れていないが、大雨の際には下水の混じった雨水が川に流れ込むこととなる)。
底上げ区間は30mほどで終わり、川底が突然深くなるとともに土となり、水が現れる。湧水が滲み出しているようだ。ここからいよいよ白子川が流れ出す。
川幅は急に広くなり、水草の生い茂る池状の場所となる。水深は浅いが、川底や護岸の間から水が湧き出しているのが見える。このあたりから北に向かってかつて、井頭池があったという。
江戸時代には弁財天を祀った中島を擁するひょうたん形の池だったというが、明治期の迅速測図をみると、現在の公園と同じ範囲に細長い池が描かれている。明治期の記録には「溜井」とあり、灌漑用に湧水の流れを堰止めた池のようでもある。後述するが、現在の公園の北端の「火の橋」のところに堰があったという。大正期には幅20m長さ200m程度の規模だったようだ。
池は1965年ころ埋め立てられ、大泉井頭公園ができたというが、埋め立てというよりは池を川の形に整備したようなかたちだったのだろうか。
写真は池状になっているところを上流に向かって撮影したもの。左奥に、先ほどの急に川が始まる地点がある。水面に近寄れるよう木道が設けられており、子供たちが網を持って水面を覗きこんでいる。
池状の場所から下流方向を見てみる。この先、井頭橋の下までは池のようになっていて、その先から白子川が流れ出している。
ここは神田川源流の「井の頭池」や善福寺川源流の「善福寺池」、石神井川源流のひとつである「三宝寺池」などと同じく、湧水を囲む台地の標高が50mほどの、武蔵野台地の地下水脈が露出する谷頭地形となっている。前3つの池の湧水が枯れてしまい汲上げの地下水に頼っているのに対し、ここは池こそ残っていないが逆に湧水が健在なのが不思議だ。湧水の量は季節変動はあるようだが、90年代初頭の初夏の調査では一日2600立方キロリットルもの水が湧き出していたという。
川岸には植物が生い茂り、水中にも水草が揺れている。ここに流れている水には汲み上げの地下水も、高度処理された再生水も、そしてもちろん下水も含まれていない。ここに流れる水はまぎれもなくすべて自然に湧き出した湧水なのだ。川にはところどころ蓋がされ、上は公園として利用されている。
白子川は火の橋で大泉井頭公園から出て、住宅地の中を北上して行く。かつては火の橋の下に堰があって、そこから本流の両脇に分水路を引き、川沿いの水田に利用していたという。川の両側の住宅地の裏手を通る道が分水路の痕跡だ。古地図を見ると、新川〜白子川流域でここから下流で初めて水田が出現する。白子川流域は、練馬区内でも最も遅く、1960年代まで水田が残っていたという。
川を下って行くと水量がどんどん増えていく。都などの調査では、河床部や川岸の多くの場所からの湧水が記録されている。見ていても護岸と川底の境目のあちこちから水が湧き出しているのが判る。水中にはホトケドジョウなど綺麗な水にしか住まない貴重な生物が棲息し、水草も希少種が群生しているという。1980年代にこの美しい流れが、汚染度全国ワーストワンになるほど汚れていたとは信じられない。
流路は西武池袋線を越え、向きを北東に変える。この辺りから川沿いは垂直のコンクリート護岸となる。これだけ水がきれいで川辺に緑もあるのだから、水害対策とはいえ水に近づくことの出来る場所をつくることはできないものかと思う。
護岸に記された水位計を見ると、川底まで3m以上あることが判る。
白子川の上流端からおよそ1.2km、練馬区西大泉1丁目で、左岸から大泉堀(白子川支流、下保谷のシマッポ)が合流する。暗渠が大きな口を開けているが、ほとんど水は流れていない。数年前まではここから生活排水が流れ込んでいて、ここより下流のしばらくの区間は、白子川の水質が一気に悪くなっていたという。
ここで白子川本流から離れ、大泉堀を遡っていくこととする。
(以下次回)
googlemapにプロットした流路はこちら
それから、白子川を扱ったサイトはいくつかありますが、井頭公園は「いがしらこうえん」と読むと書いてあるサイトがあります。また、大泉堀は「だいぜんぼり」と「だいせんぼり」が見られました。どれが正しいのでしょうね。
井頭は「いがしら」でいいのではないでしょうか。
大泉堀の読みについては、もともと大泉(おおいずみ)という
地名自体、自然発生ではないですし、それを音読みしているわけ
ですから、どうなんでしょうね。
じつは「おおいずみ」とは関係ない当て字なのかも・・・
すると、どんどん白子川方面に行くので、コレはもしかすると・・・。と思っていたら、天神山で、見失ってしまいました。
そこからは、少しでも下っている方へ、という感じで、無理やり白子川に繋いでみたのですが、上記のルートとだいたい重なっていたので、感激しましたw
後、変なところに釣り堀があるなと思っていたので、その謎も解けていろいろすっきりです。ありがとうございました!
情報ありがとうございます。
やはり周囲に比べるとはっきりした低地になっているので、緑地が減った今はなおさら雨水が集中しやすいのかと思います。浸水対策ということは、雨水管の新設なんでしょうね。
暗渠や遊歩道が沢山あるとは思っていましたが、白子川にかつて繋がっていた新川の名残だったのですね。自分が幼い頃遊んでいた場所の秘密を知れたような気持ちになってとても嬉しいです。
七福橋の下にある、金網で塞がれた穴にも入り込んで遊んでいました。確かに公園の地下を通っていたことを覚えています。やはり危険なので金網は施錠されてしまいましたね。
火の橋下にもハシゴがついているのでよく下に降りてザリガニを釣ったものです。分水路の痕跡も探検していました。やはり下水道に繋がっていました。
水田が残っていたということですが、近所のおじいさんによく「この辺り一面はかつて水田が広がっていた」とよく教えてもらっていました。
長々と自分語りをしてしまいすみません。懐かしかったものでつい、です。
頂いたコメントに気がつくのが遅くなりすみません。七福橋の下、入り込めたんですね。子供にとっては最高の秘密基地だったのではないでしょうか。川にまつわる思い出のお話、興味深く読ませていただきました。ありがとうございました。
昭和33年の狩野川台風で保谷が浸水した際に、浸水を白子川へ流すために掘削されたもののようです。そのあたりの歴史は、大貫伸樹さんのブログに詳しく載っています。
https://shinju-oonuki.hatenadiary.org/entry/20180618
コメントありがとうございます。記事拝見しました。確かに開削したと記されていますね。ただ、明治時代の地籍図等にはすでに現在推定されるルートとほぼ同じルートに水路の記載があります。そちらとの整合性を考えた時、どう解釈すれば良いのか、記事の原典にあたって確認してみたいと思います。