練馬駅北側の2つの暗渠(1)石神井川練馬白山神社支流(仮称)
2010年 10月 08日
まずひとつめは、練馬駅の西側から始まる暗渠。途中にある由緒ある神社から、仮に「練馬白山神社支流」と呼ぶことにする。地図中央の青いラインがその流れ。下を東西に横切る紫色のラインは千川上水だ。(段彩図は数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。
高架となった西武線の線路沿いの道路を進んで行くと、前方に谷が現れる。
谷底から北側に向かって、暗渠が延びている。窪地を横切る西武線の敷地や古地図から推定すると、流路の上流端は線路の南側だったようだ。南側には、玉川上水より分水した千川上水が流れていて、そこからの分水は主に南側の江古田川〜妙正寺川に向かって引かれていたものの、中には北側の谷を流れる川に接続されているものもあった。公式な記録にはないようだが、もしかするとこの流れも千川用水から水を引いていたのかもしれない。
暗渠の東側の斜面の上には、見事にまんまるに葉を茂らせた大木がぽつんと。
谷底に下ると、すぐに暗渠らしい路地が始まる。大谷石の擁壁。道端に茂る草。路上を覆う木。そしてマンホール。
左側の家の石垣と柵が暗渠の上に身を乗り出して来ている。
写真の区間は、手元にある1988年刊行の1万分の1地形図では水路として描かれている区間。比較的最近、暗渠になったのだろうか。護岸と思われる黒ずんだコンクリートの擁壁が残っていた。アスファルトの上には苔も生えている。
蛇行する暗渠の上は新しそうなアスファルト。前方に見える緑は白山神社。
白山神社の境内にも、大木があった。樹齢900年以上と推定されるケヤキで、伝承によれば1083年に源義家が植えたものの1本だという。神社周囲にはその頃から集落があったという。神社の本殿は、谷の斜面の上にあり、集落の鎮守の森としてふさわしい立地だ。
これより北では、かつては水路は谷底で2本にわかれ、その間には細長い水田があったようだ。水田だった谷底は、現在では団地や公園となっている。近年まで残っていた方の水路跡は谷の西側の崖下を北上する。まがりくねる遊歩道は川跡を意識したのだろうか。崖の上は寺が集まり、墓地がギリギリまで迫っている。谷の東側の崖上は中学校と、やはり寺と墓地。
コンクリートの擁壁が剥がれかけていて、その下に隠された大谷石の石組みが露出している。
暗渠はわずかな区間、再び暗渠っぽい細い路地となったのち、大きな通りへと出る。かつて、2本に分かれていた水路はここで再び合流していた(画面左と、左斜め前から)。通り沿いのタイル敷の歩道がかつての流路跡だ。
北東へまっすぐ進むと、石神井川。東中央橋、という何とも味気ない名前の橋の下に合流口が見える。
石神井川は合流地点でカーブしている。この近辺は戦前には既に改修されていたようだ。夕日を浴びかなりの早さで流れる川の水は澄んでいるが、川底までコンクリート張りとなっているのがすこし哀しい。
次回はこの暗渠の東側を流れるもう一つの暗渠を遡って紹介する。猫またぎさんと同じく、私もこちらの流れは「弁天支流」もしくは「豊島弁財天支流」と呼ぶことにしたい。
でもここも雰囲気がありますね。なんだか、23区の北の方って、良い暗渠が埋もれているのではないか、という気がしてきました。
それと、まんまるの大きな木。これ、ちょうどソックリなのをもうすぐUPする桃園川支流で見ました。あまりにまんまるで大きいので、川に関係あるかどうかわからないまま、おもわず数枚撮っちゃいました。前方が駐車場で、少しだけ崖上にあるというところまで一緒で、ちょっとびっくりです。
「今更こちらで取り上げる必要もないかなとも思ったのだが」とのお言葉ですが、とんでもありません。
今回の記事を拝見すると、やはり第一人者の仕事という感じがします。
また、逆方向からたどられているので(両支流とも)、雰囲気が違うなあという印象もありますし。
拙ブログのことなど気になさらずどんどん書いちゃって下さいまし。
あと、支流の名前についてですが、神社とからめて「練馬白山神社支流」「豊島弁財天支流」とされたのはなるほどと思います。
「うまいっ!」と膝を叩いてしまいました。
後者の別名「弁天支流」は当方にお気遣いいただいたのだとは思いますが、東西の支流名を並べてみると「豊島弁財天支流」の方が断然しっくり来ますね。
実はこちらでは西側の支流の名前を考えあぐねていました。
いっそ名無しでいこうかと。
白山神社には全然注目していませんでしたしw
拙ブログの方も私らしく進めていこうかと思います。
今後も楽しみにしていますので、よろしくお願いします。
ほぼ毎日お邪魔しております。
小生も今住んでいる地域の暗渠に興味があって、色々と勉強しているところです。
貴blogの考察の深さはとても参考になります。
今回の場所、石神井川の手前の中学校が小生の母校です。(今は引っ越していますが)
そうでしたか!
ここは昔、川(水路)だったのですね。
さすがに30年前の小生にはそんなことを思ったことはありませんでしたが....
今度いってみようと思いました。
今後ともよろしくお願いします。
既にどこかで紹介されてたり、資料や地元の方経由で分かれば、だいたいその名前で呼ぶんですが、私も支流の名付けに困るコトあります。最近では出端川(谷端川の支流)の支流(板橋区南町)とか。。。
あ、それと又聞き情報みたいでアレですが、神田川「まる歩き」で2010/08/14に石神井川揚水路なるモノが紹介されていました。元は支流だったのを逆流させた‥‥ってコトでしょうか。なんと強引なやり方でしょw
セルム!やはりナウシカは漫画板が、深くっていいですよね。練馬・板橋・北区の暗渠は、地形的に面白いところが多そうです。
白山神社は、下流側から遡って行くと視界に入らない位置にあるので、気にとまらなさそうですね。猫またぎさんのレポートがどんな感じになるのか、楽しみにしています。そして次回予定のところは写真も被りまくりです。すみませ〜ん。
はじめまして。コメントいただきありがとうございます。現地出身の方にみていただけるのは嬉しいです。このあたり、あちこちに暗渠が残っていて面白そうです。今後もぜひお気軽にコメント下さい。
こんばんは。実際には何の名前もない支流も多かったのだろうと思います。単に「そこの川」みたいな感じで。石神井川からの揚水路については、この暗渠の西側の台地上を通っていたらしく、全区間人工的な水路だったようですよ。
>何の名前もない支流
確かに「そこの川」くらいの感覚かもしれません。
調べてくと、そこかしこに川跡あり過ぎ!って思いますもの。
そう考えると後になって研究者(?)が便宜上呼称を付けたって例もありそうです。
>揚水路
なんと! そうなんですか!
痕跡とかあるんでしょうか?
西側ってことは‥‥豊島園通り沿いとか??
現地近くの図書館とか行ったら調べ付くかなぁ。。。
豊島園通り沿いだったようですね。wikiには1942年〜43年頃に暗渠化されたとありますが、戦前の1万分の1地形図数種にこの水路は見当たらなかったと思います。非常に短い時期に開渠として存在していたのか、あるいは最初から暗渠だったのかもしれませんが、詳しい資料にあたっていないのでなんともわかりません。。。
千川上水から分水は引かれておらず、谷頭の湧水を水源に、昭和30年代まで谷戸田が営まれていました。ただ、おっしゃるように千川上水が引かれた台地の尾根筋の直下に谷頭があり、浄水の川床から浸透した水で湧水の水量が保たれていたと考えられます。上水の通水が止まって泉や井戸が涸れたという話をあちこちで聞きます。
「谷戸の泉」「栗山弁天の泉」「出子谷の泉」「出崎の泉(※場所不明)には、「泉が湧いていた」と記されています。
コメントありがとうございます。サイト、愛読しております。記事を書いたのち、史料をあたって一帯の谷戸の名前を知りました。白山神社の方はやはり分水はなかったのですね。確かに千川上水だけでなく他の上水筋でも、通水が止まって水源の涵養がなくなり湧水が枯渇したという事例をよく聞きます。ここもそんなパターンだったのでしょうね。豊島弁財天は「栗山弁天」だったのですね。ご教示ありがとうございました!