貫井川の暗渠(川跡)を辿る(1)貫井川上流部
2010年 11月 29日
川が暗渠となったのはおそらく1970年代後半から80年代末頃にかけてと比較的最近だったようですが(今回歩くのに使った、私の手許にある1万分の1地形図(1989年発行)には、下流部の一部区間は開渠として描かれています)、ほとんどの区間は完全に下水道化されていて、その流路も途中何ヶ所かで分断されており、暗渠というよりは川跡といったほうがよさそうです。
そんな貫井川を、今回から数回にわけ、いくつかある支流や分流もあわせて紹介していきます。まずは上流部分を辿ってみましょう。
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西武新宿線上井草駅から北方へ歩くこと10分ほど。貫井川の痕跡が残る最上流端は、井草通りと新青梅街道の交差点の北東側にある。駐車場の脇に、一段窪んだ細長い空き地が残っている。1960年代の空中写真や1970年代半ばの住宅地図をみると、ここまで水路があったことがわかるが、現在では雑草が生い茂っていて川の痕跡を確認するのは難しい。道路との接点はゴミ集積所になっていて、冴えない上流端だ。ここより西側にも浅い窪地がしばらくのびており、戦前の三千分の1地形図には井草通りの西側の方まで水路が描かれている。ちなみに、この地点から北に1km行くと石神井池・三宝寺池、一方南に1kmほど行くと、妙正寺川上流部である井草川の源流地帯(現在は暗渠となり湧水も枯渇)となっている。
水路はかつて、新青梅街道に突き当たった後に街道の南側を流れ、再び北側へと戻っていたようだが、現在ではその痕跡は全くない。再び川跡がはっきりするのは下石神井四丁目交差点よりやや東側、新青梅街道から北東へと離れて行くゆるやかな下り坂の道の歩道だ。
しばらくは、まったく車の通らない道に不自然に幅の広い歩道、というかたちで北東に進んでいく。川の痕跡自体はまったくないが、路上のアスファルトにはあちこちに苔が生えていて、水の気配が濃厚だ。貫井川の上流部は地下水位が浅いという。川はおそらく、明確な湧水地点から流れ出していたというよりは、あちこちの地面から滲み出した水を何となくじわじわと集めて流れていたのだろう。以前とりあげた、白子川上流部の新川(シマッポ)などがまさにそのタイプだ。こちらは地表へ現れる水は枯れてしまったが、土の下にはまだ水がひそんでいるのかもしれない。
川跡は石神井小学校の近くで歩道から離れクランチ状に曲がり、急に川跡らしくなる。
小学校の南側でいったん歩道になったのち、練馬区の暗渠サイン「水路敷」のペイントとともに暗渠らしい道が始まる。このあたりはかつての字名を「上久保」といったそうで、貫井川の谷に由来する地名だったのだろう。
暗渠沿いに古そうなコンクリート擁壁が残っていた。護岸の痕跡だろうか。
進んでいくと遭遇した猫と銭湯。暗渠の定番が2つそろった目出度い(?)風景。貫井川沿いではたくさんの飼い猫や野良猫に遭遇した。暗渠は銭湯のボイラー室の脇を抜けていく。
貫井川の暗渠はくねくねと蛇行していて、辿っていて決して飽きることはないのだが、しかしなぜか、実際の距離以上に長く感じられる。
旧早稲田通りを横切ると、川跡は大きく向きを変える。そこにはかつて、川に沿って「喜楽沼」があった。写真の住宅となっているところは、かつて喜楽沼の北端があったところで、土台から水が滲み出し、苔むしている。
苔は水を吸って生き生きしている。
暗渠は南ヶ丘中学校に突き当たって南下する。右側の住宅地のところに喜楽沼があった。左側は南ヶ丘中学校で、かつては中学校の校庭となっているところを横切っていたが、学校の建設時に現在の水路敷のところに移されたようだ。
「喜楽沼」は少し謎めいた存在だ。沼は下の地図のように、4つに分かれ、南北に細長い台形をしていた。ネット上をみると、もともと沼があって、そこが後に釣堀になったとする説が多い。しかし、ざっとみたところ区史や郷土資料などで「喜楽沼」の名をみかけることはなかった。そして、航空写真を時代別に追ってみてみると、1960年代半ばになるまでこの場所に池や沼らしきものは写っていないのだ。地図をみても、同じく1960年代半ばまで、池や沼を記したものはない。
おそらく、「喜楽沼」は1960年代後半に、釣堀として人工的につくられた沼だったのではないだろうか。貫井川上流部は、ちょうどこのあたりまでが地下水位の浅いエリアだという。したがってもともと湿地になっていたのかもしれないし、少し掘れば水が湧き出たのかもしれない。調べてみると、都内では1960年代後半に釣り堀ブームがあったらしい。「喜楽沼」は、その流れにのって作られた釣堀のひとつだったのではないか。ここで連想されるのが、さきほども触れた白子川上流部の新川(シマッポ)の暗渠沿いに一時期存在した「保谷フィッシングセンター」だ。こちらも1960年代後半から70年代にかけて存在していたらしいが、今はあとかたもなく消え去っている。
喜楽沼は1970年代半ばにまず北側が、ついで80年代に真ん中が埋め立てられ、順次宅地となった。最後に残った南側の池は90年代に入ってから埋め立てられた。かつてここに沼があったことを示しているのは旧早稲田通りにあるバス停「喜楽沼」くらいだ(かつての釣堀経営者だった「合名会社喜楽沼」は、現在でも不動産管理業者として残っているようだ)。
貫井川の暗渠は南ヶ丘中学校の南側で再び向きを東に変え、環八通りと笹目通りの分岐点につきあたる。ここの環八通りは、2006年、最後の区間として開通したばかりだ。トンネルも地下にあり、暗渠は完全に分断されている。通りの東側に渡ると、川跡の道自体は無事に残っていた。右岸は古そうな苔むした大谷石の擁壁、左岸は草の生えた土手と、川が流れていたころの様子を髣髴させる。
ここから先しばらく、川跡らしい道が続く。護岸から水が滲み出しているところがあった。
路上のマンホールや雨水枡の柵。コンクリートの隙間から生える雑草。湿気に蝕まれたブロック塀。いかにも暗渠らしい雰囲気が漂っている。
どこでもドア?
やがて暗渠は道路沿いに出る。暗渠の上には等間隔に車止めが設けられて、歩道としては歩きにくそうだ。
石神井東小学校の敷地に沿って、歩道となって北東へ進んでいく。
暗渠沿いの道路が暗渠の右側から左側に筋を違える地点に、橋の痕跡が残っていた。路面の細長いコンクリートが、ここに確かに川が流れていたことを主張している。
上流方向に振り返る。欄干の痕跡。
橋跡のすぐさきで、川跡は西武池袋線の高架に突き当たる。暗渠の歩道の先、建物のあいだがすっぽりと抜けた怪しい空間になっている。
近づいてみると、コンクリート蓋暗渠が残っていた。貫井川流域で唯一の蓋暗渠だ。脇の酒屋の荷物置き場と化していて中に入ることはできない。
足下には欄干の痕跡と思しき構造物も残っていた。
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ここから先、西武池袋線より北側の区間以降は次回以降に紹介していきます。
のが、田柄川と貫井川でした。
田柄川は歩いたのですが、貫井川はまだ歩いていません。
そんな理由から楽しく拝見させて頂きました。
(酒屋の横、侵入してみたいなあ。
飲み物でも買って話をすれば何とかみせてくれませんかねえ)
次回以降も期待しています。
田柄川は部分的にしか辿ったことがありません。なにしろあの長さです。こちらは距離はちょうどいいかもしれません。酒屋の脇、店で買い物して、というのは手かもしれませんね!
これで貫井川もメジャーな川の仲間入りですねw
私も石神井川の支流は順に回り、貫井川も訪問していますが、クライマックスのコンクリート蓋を見落とすという大失態をしており、これを見ないうちは記事にできないなーと思っておりました。
自分でも行ってみたので分かるのですが、tokyoriverさんの記事は写真も内容も本当に素晴らしいですね。
改めて感服致しました。
私の後追い記事のしょぼさが書く前から明らかになってしまいそうですが、幸いたどった方向が逆でした。
なので、なんとか記事にする価値はあるかも知れません。
リバーサイドさんとどっちが先になるかなぁ・・・
そしてどこでもドアもいいですね。
いつも、実際に暗渠を歩いているような気分で楽しませて頂いています。
今回の貫井川も味わい深いですね。
この辺りはなかなか訪れる機会が無いので
大変興味深く拝見致しました。
ブログの方にリンクさせて致しました。よろしくお願いします。
貫井川、以前から目をつけてはいたのですが、やっと探訪できました。確かにあの蓋の区間は下流側から来ると気がつきにくそうですね。下流方向からの記事、楽しみにしてますね。
ほんとは出会った猫たちをもっと暗渠風景に絡ませて撮りたかったのですが、なかなかタイミングがあいませんでした。どこでもドア、反応して下さりありがとうございます。
リンクありがとうございました。こちらからも追ってリンクしますね。
貫井川は猫が多いんですね。メモメモ・・・。最近、うちの近くの仲良しになったノラちゃんと会えなくって猫不足なんです。
詳しいところまでは調べきっていないのですが、どうやら、東京であったらしいです。考えてみればかつてはそこら辺にあった池や川で釣りが出来た訳で、釣り堀、意外と新しい娯楽なのかも知れません。
猫はかなり会いましたよ。あまり寄って来てはくれませんでしたが。。。。
そうなんです、喜楽沼という名前、どう考えても古くからあるような名前には見えないですよね。
どうもいざなぎ景気の最中、1965年〜66年に一時的に不況になったときに、手軽なレジャーとして流行ったそうです。当時の新聞記事などにも、銀座のビル内で釣り堀、みたいな記事がいくつか出ているようです。
突然の訪問に、思い出話で失礼しました。
コメントありがとうございます。南が丘中学のところというと、まさに喜楽沼の近くですね。澄んだ水はいったいどこから流れだしてきていたのか、気になるところです。