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東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?新刊「東京「暗渠」散歩改訂版」重版出来!


by tokyoriver

貫井川の暗渠(川跡)を辿る(2)貫井川下流部

貫井川の記事に入る前に、以前の記事にひとつ追記を。
今回記事を書くにあたって、都の湧水台帳をみていたところ、90年代前半のリストに「豊島弁財天」が記されていました。「練馬駅北側の2つの暗渠(2)石神井川豊島弁財天支流(仮称)」でとりあげた、暗渠が突然行き止まりで終わる地点にある弁財天です。湧水量の記載はなく、弁財天の敷地内にあったのか、行き止まりの崖下に湧いていたのかも不明ですが、あの場所には源流の水源が確かにあったということになります。「豊島弁財天」自体、由来のはっきりしない謎めいた存在なのですが、そこにまたひとつ謎が増えました。いったい湧水はどのような姿をしていたのでしょう・・・
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さて、貫井川の2回目は西武池袋線以北から石神井川へ合流するまでの区間をとりあげる。下は下流部を拡大した段彩図(段彩図は数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。貫井川は上流部が浅い谷だったのに対し、下流部は深く大きな谷筋を流れていたことがわかる。このU字型の谷は「蕪ケ谷戸(かぶらがやと)」 と呼ばれていた。その形が蕪のようであることから名付けられたという。谷戸は石神井川に面した出口よりも奥の方がやや広く、袋状になっている。この谷戸の真ん中にはかつて貫井池があった。
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西武池袋線の高架を越えると、再び暗渠が現れ、団地の脇を抜けて北~東北東へと向かっていく。所々では、練馬区名物「水路敷」のペイントが見られる。
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この先しばらく進むと、暗渠のカーブを最近開通した環八通りが横切っていて、環八の北西側に、三日月状に川跡のカーブが取り残されている。幸いにも環八の下敷きとなった区間以外には影響はなく、その先には再び車止めの設けられた暗渠が続いている。暗渠は大きくカーブを描き、東から南東へと向きを変えて、「蕪ケ谷戸」の谷底へと下っていく。
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かつての護岸の痕跡のようなコンクリート壁が、アスファルトの舗装に埋もれかけていた。
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暗渠沿いの土地とは段差があるところが多い。ところどころ、暗渠に降りる階段が設けられていた。
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このように、車道の歩道になっている区間もあった。歩道の色をわざと変え、申し訳程度に車止めも設置してある。
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この場所は最近まで川が流れていたような雰囲気だ。
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かつて本貫井橋が架かっていたあたり。湿度が高く、だいぶ谷底まで下ってきたような気配となる。水を流す溝がつくられているのは水が集まりやすいからだろうか。
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暗渠部に段差がついている。コンクリートの古び方はかつての護岸の痕跡のようにも思えるが、幅が細いのでそうではないのかもしれない。
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かつて貫井橋があった地点。暗渠はここで向きを変え、東へと向かっている。また、ここでは南西から来る支流が合流していた(段彩図で左下から中央)。こちらも暗渠(川跡)として痕跡が残っている。
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支流の方をさかのぼってみる。しばらく歩道や道路の区間が続くが、やがて遊歩道風に舗装された暗渠が現れる。
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マンホール蓋が短い間隔で並ぶ。
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暗渠は西武池袋線の北側で終わっている。
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現在はこれより上流部の痕跡はないようだが、かつては線路の南側まで繋がっていて、途中富士見台1ー13の都営住宅付近にあった池を挟み、千川上水まで繋がっていたという。練馬区の資料によると、公式な分水ではなく、表向きは水量調節用の悪水路扱いだったようで、地元では「ほりっこ」と呼ばれていたという。
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さて、貫井川本流に戻って下っていこう。幅広の遊歩道となった暗渠を東へ進んでいくと、貫井中学校の南側に出る。ここでは暗渠は二つの道に挟まれた帯状の遊歩道と緑地帯になっている。
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このあたりで「蕪ヶ谷戸」の谷底が最も広くなっている。中学校の敷地以北の一帯、谷戸を望む斜面からは、旧石器・縄文・弥生・奈良・平安・近世の各時代にわたる遺構や遺物が出土しているという。水の利がよく、古くから人が暮らしていたのだろう。
そして、右側のマンションの建っている一帯には、かつて「貫井池」「貫井の池」と呼ばれる湧水池があった。この池を潤していた湧水が、貫井の地名の由来となっているという。伝承としては、かつて一帯が水不足で苦しんでいたとき、弘法大師が訪れ、持っていた杖で地面を突くと、そこから泉が湧き出した、という日本各地によくありそうな由来譚が残っている。地面を貫いて湧き出した井で貫井というわけだ。一方で「ぬくい(貫井、温井)」は、地面から湧水が湧き出している地点を指すという地名だと言われている。同じ「貫井」では小金井市貫井が、湧水に恵まれた土地として有名で、貫井神社の湧水は現在でも野川の水源のひとつとなっている。

貫井池は大正末まであったというが、明治末の地図ではすでに湿地として描かれている。その後湧水は枯れ、池の跡地は水田や荒れ地、資材置き場といった変遷を辿り、70年代の一時期にはプールなどのレジャー施設もつくられていたらしい。現在はマンションが立ち並び、池を忍ぶ痕跡はまったくない。ただ一つ、かつて池の傍ら祀られていた水天宮が、後に紹介する円光院のわきに移設され現存しているという。

暗渠が北へと向きを変える地点では南側から短い暗渠が合流してきている。流路はかつての池の東縁にあたり、谷が西武線の南まで食い込んでいる。この流路の傍らに湧水があったように描かれている資料もある。暗渠の突き当りには秋葉神社の祠がある。
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ここから先は貫井川遊歩道として、かなり整備された姿となって北へと続いている。川沿いはかつては水田として利用されていたようだが、今は住宅地となっている。
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目白通りを越える辺りは谷戸のボトルネックとなっていて、通りを越えた先はもう石神井川の谷筋だ。暗渠沿いにちょっとした空き地があって、貫井弁財天と御嶽神社の祠が並んでいた。元禄年間の創設という。御嶽神社のほうはどこかから移設されてきたようだ。このあたりにもかつて湧水があったらしいが、詳細は定かでない。弁財天があるくらいだから池でもあったのだろうか。ここで東側に分流が分かれていく。こちらについては次回とりあげる。
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暗渠上の植え込みに混じって、1箇所、遊具のようなオブジェがあった。公園によくあるカバやサイとはずいぶん趣きが異なっている。
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暗渠は円光院という大きな寺院の脇を北上していく。
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円光院は正式には「南池山貫井寺円光院」といい、かつて寺の南に大きな池がことから「南池山」と号し、地名を取って「貫井寺」と称したという。大きな池は貫井池のことをさしているのか、あるいは貫井弁財天のところに池があったのだろうか。山門の脇には古そうな石仏が並んでいる。
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暗渠は円光院を過ぎると、車道と同じくらいの幅の歩道となる。このあたりは石神井川沿いの水田地帯で、東側に並行して2本ほど支流が流れていた。
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貫井川の川跡/暗渠は向山4丁目で石神井川に合流して終わりとなる。護岸に口を開けた暗渠が見える。貫井川下流の暗渠は下水道貫井幹線となっているのだが、円光院より北側の数百メートルの区間は下水は別ルートへ分かれ、暗渠は雨水路となっている。
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暗渠の合流口の下側は堰状になっていて、そこに空けられた穴から水が流れ出ている。練馬区の調査によると、この水は湧水だそうだ。暗渠の雨水路となっている区間のどこかで湧き出した水が、暗渠内を流れてここで石神井川に注いでいるという。貫井川はほとんどがもはや川跡としかいえないような姿だが、ここだけは暗渠の中に堆積した土とその上を流れる水も見え、川が生き残っているかのようだ。
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次回は、貫井弁財天で分かれた分流と、そこに注ぐ支流(仮に向山ケ谷戸支流とした)を取り上げる。後者は以前猫またぎさんが記事にしていたところだが、こちらでは逆向きに下流側からさかのぼっていってみる。
Commented by 猫またぎ at 2010-12-10 19:17 x
いやー、すごいですね。
こんなに調べの行き届いたご報告は頭が下がる思いです。
こんなに充実したご報告の後に後追い記事を出すのは気が引けてしまいますねw

「豊島弁財天の謎」は非常にミステリアスですね。
調べたくなってきました。

大きな合流口の下の小さな穴は気になっていました。
こういうことだったんですね。
堆積物が石神井川に流れ込まないための方策なんでしょうか。
Commented by tokyoriver at 2010-12-11 00:18
猫またぎさん。
いえいえ、対して調べてはおりません(汗。猫またぎさんのいつものトーンの記事、楽しみにしてますので、ぜひ猫またぎさんバージョンの貫井川も読みたいです。
豊島弁財天、どこかに資料がないものですかねえ。

合流口は何でああなっているのかよくわかりませんが、仰るとおり堆積物対策なのかもしれません。
by tokyoriver | 2010-12-09 00:23 | 石神井川とその支流 | Comments(2)