東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

石神井川の源流を探して(4)源流解題ー鈴木遺跡・鈴木田用水・経理排水・石神井幹線

さて、3回にわたって石神井川の源流部を探索してきたが、最後に源流部の変遷について、現地の状況や様々な資料からわかった範囲で纏めておこう。

石神井川は25kmを越える流路を有する都内の中小河川を代表する川のひとつでありながら、その源流についてはまとまったかたちで検証がされることがなかったようだ。様々な文献を見ると、「かつては小平市鈴木町で、現在は小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水」「小平市御幸町(小金井カントリー倶楽部の西側敷地)が源流」といった説明をよく目にするものの、カントリー倶楽部内の湧水は今では枯れているようだし、湧き出した水が何時頃どこをどう流れていたのかまではいずれも触れられていない。

そこで、古地図、公図、航空写真や、郷土誌、行政の刊行物、直接川とは関係のない資料などから石神井川源流部やそれに関連する水路の変遷について推定してみた。

(1)旧石器時代から江戸時代以前にかけての石神井川源流―鈴木遺跡

前回記事でも紹介した「鈴木遺跡」は1974年、鈴木小学校の建設時に発見された。旧石器時代後期、3万年前から1万年前の遺跡で、局部磨製石斧の発見で知られている。その規模は東西220m、南北330m(東西600m、南北670mとする資料も)にわたり、石神井川の流れる谷戸の源頭部(今の武蔵野団地)を囲む台地上にC字型に広がっていた。下の地図のオレンジ色の範囲にあたる(以下、地図はgoogle mapを加工)。
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この時期はヴェルム氷期の最終期にあたり、海面は今よりも100m低かったというから、遺跡近辺の標高は約170mほどとなり、現在の青梅のあたりと同じだ。そこで湧き出ていた水はおそらく多摩川からの伏流水で、水量も豊富だったのだろう。現在の落合川の源流のように、大量の地下水が一度に地上に姿を現していたのではないか。鈴木遺跡資料館の展示物にあった当時の想像図に描かれた湧水はかなりの規模だ。
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だが、縄文時代に入るとすでに水源はかなり東へ移り(現在の小金井街道付近か)、人々が生活するのに十分な水が得られなくなったという。そのため、鈴木遺跡周辺は生活の場から、狩猟採取の場に変化した。そして弥生時代になり農耕社会となると、水に乏しいことから一帯に人々が定住することはほとんどなくなったという。この状態は江戸時代に入るまで続いた。

これらの状況を考えると、鈴木町近辺が石神井川の自然な源流、つまり、コンスタントに水が豊富に湧き出し流れ出る状態であったのは縄文時代までで、それ以降江戸時代までは、小金井街道近辺より上流の石神井川源流部は、じめじめした湿地で、季節や気候によって水が湧き出し流れる川筋があったのではないだろうか。そういう意味では、石神井川の北東方に流れる白子川の源流部「シマッポ」や、南方に流れる仙川の上流部のかつての姿、あるいは北西方を流れる黒目川の上流部の最近の姿と同じような様子だったのではないかと思われる。

(2)江戸時代から明治時代にかけての源流部―「鈴木田用水」と鈴木田んぼ

石神井川の源流の谷頭であった武蔵野団地から小金井カントリー倶楽部にかけての谷戸は、江戸時代には低湿地となっていて「長久保」と呼ばれていたようだ。18世紀前半、玉川上水を利用し現在の小平市一帯の武蔵野台地上で新田開発が行われた際、現在の鈴木町一帯も鈴木新田として開拓された。新田といっても大半は台地上の畑地開拓であったが、石神井川沿いの長久保には「鈴木たんぼ」と呼ばれる水田が拓かれた。

このときに玉川上水から「鈴木新田田用水(すずきしんでんたようすい、以下「鈴木田用水」と記す)」と呼ばれる分水が引かれた。時は1734(享保19)年。取水口は1尺四方。今でも鈴木街道沿いに残る玉川上水鈴木新田分水(1732(享保17)年開通)とは別物である。この分水の開通と水田開拓により、石神井川源流部は多少水量を増したと思われる。玉川上水やその分水による地下水の涵養効果で、湧水量も多少は回復していたかもしれない。ただ、伝承では湧水は雨天時のみ湧き、日照りのときには枯れていて、水田の収穫量は多くなかったという。また、石神井川上流部は悪水堀、つまり水田などの排水路の扱いであったようだ。

「鈴木田用水」は石神井川の源頭を囲むように南北に分かれ、水田に給水したのち石神井川に合流していた。鈴木遺跡資料館に展示されていた絵図には、二股に分かれ石神井川の源頭を囲む用水が描かれている。2本の分水は小金井街道を越えた先で石神井川につながっている。
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北側の水路には水車がいくつか設けられた。その中のひとつで、現在の鈴木小学校の体育館付近にあった「定右衛門水車」は、幕末には「焔硝合薬搗立所」となった。大型の水車が設置され幕府の火薬作りに利用されのだが、やがて爆発事故を起こし普通の水車に戻ったという。鈴木遺跡の発掘時に、この水車や前後の用水路の遺構も見つかっている。(なお、練馬区の資料ではこの水車のために玉川上水から水路が引かれたとあるが、上記のように誤りである。)

明治時代の後半になると、東京市の人口増加により、飲料水である玉川上水の水が逼迫してきた。水を確保するため、市から水田の耕作者たちに水利権の買取の打診があった。これに応じたことで1908(明治41)年、玉川上水から鈴木田用水への送水は止められ、水車もこの時廃止された。この結果、鈴木田んぼは耕作に十分な水を得ることができなくなり、次第に放棄され芦の茂る荒地になっていったという。北側の用水路は1940年代までは流れが見られたというが、これは湧水が流れ込んでいたのかもしれない。そして戦時中から戦後にかけて、食糧難により耕作地を得るために水路は埋め立てられてしまったという。

玉川上水からの分水のほとんどが何らかの形で保全され辿れる小平市内において、この鈴木田用水は早い時期に廃止されたためか、全く痕跡が残っていない。そのためか、資料で言及されることもほとんどなく、忘れ去られた存在となっている。いったいどこを流れていたのだろうか。
そのヒントはまずは明治時代の地形図にあった。迅速図や東京近傍図を見ると、玉川上水から石神井川につながる水路が描かれていて、現在の鈴木小学校近辺からは蛇行する流れとなっている。下は1880(明治13)年測量の東京近傍図(陸地測量部刊、1887(明治20)年)から。小さく見辛いが、国土地理院の引用基準に基づくものなのでご容赦を。青いラインが鈴木田用水から石神井川へのライン。右寄りを南北にまっすぐ横切っているのが小金井街道である。
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多くの資料ではこの蛇行する部分を石神井川の最上流部と捉えているようだが、よくよく等高線をみると、小金井街道以西のラインは谷のもっとも低いところよりも北寄りを流れている。つまりこれは、この区間が人工的な水路であることを示しており、これが鈴木田用水の北側水路であることとなる。一方、水田の真ん中を流れているはずの石神井川の小金井街道以西の区間や、鈴木田用水の南側水路は描かれていない。
そこで、公図を簡易に参照できるブルーマップを見てみたところ、水路跡と思われる帯状の公図界がはっきりと描かれており、それらの位置関係は先の絵図とも一致していた。この情報と地形図に描かれた地形、そして終戦直後の航空写真を元に各水路のルートを推定してみたのが下の地図となる。長久保の谷戸の中で、石神井川が中央を流れ、谷戸の両縁を鈴木田用水が流れたいた様子が浮かび上がる。鈴木田んぼは2つの用水が石神井川につながる地点まで谷沿いに細長く広がっていたようだ。
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玉川上水(明治以降は玉川上水に並行する新堀用水)から分岐して鈴木小学校西側までの区間は、終戦直後の航空写真ではまだ痕跡を確認することができるが、現在は全くその姿を残していない。ただ、住宅地に斜めに横切る土地区画がごく一部に断続的に残っていて、それらをつなぐことでそのルートの一部はたどることが出来る。
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なお、南側水路の農林中研修所以西の区間は、公図でも判断が付かないため、文献と地形からの推定でラインをひいた。もう少し東寄りで南北に分岐していた可能性もある。

(3)鈴木田用水の廃止以降と「経理排水」の開通

鈴木田用水の廃止以降、石神井川の源流部の水量は再び減り、「シマッポ」のような状態になったのではないかと思われる。郷土誌に記された古老の証言によれば昭和初期、現在の鈴木小学校のところに湧き水があったが、季節や降水量によってその水量は変動していたという。また、鈴木田んぼだった長久保一帯は大雨が数日続くと、水浸しになって何ヶ月も引かないような状態であったという。昭和初期の地形図には、東京近傍図とは異なり、現鈴木小学校の近辺まで、石神井川自体の流れが谷の一番低いところに描かれている。

1937年には長久保の北側斜面を利用した会員制ゴルフ場「小金井カントリー倶楽部」が開設された。その際、荒地となっていた谷頭部以外の元・鈴木田んぼも買収されゴルフ場の敷地となった。また、1940年にはカントリー倶楽部の南側から東側に隣接した土地が「小金井大緑地(現小金井公園)」として整備された。

1942年、現在の小平団地から関東管区警察学校にかけての広大な敷地に、陸軍経理学校が建設された。この際、敷地から石神井川源流を結ぶ「経理排水」と呼ばれる排水路がつくられた。この水路は石神井川の谷頭までは暗渠で続き、そこから開渠になって、小金井カントリー倶楽部内で石神井川に接続されていたという。
戦後直後の空中写真には、台地上に白いラインがまっすぐに続いているのが写っている。このラインは石神井川の谷に入ると黒くなる。白いライン=暗渠の区間が前回たどってきた緑道、黒いライン=開渠の区間が武蔵野団地内の「下水道管理用地」とそれに続く未舗装の区間である。
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戦後、経理排水は流域の排水路となったようだ。また、前回触れたように日立電子(現・日立国際電気小金井工場)の設立後は、経理排水に水(電子部品の洗浄水)を流すようになり、湧水が枯れた後は石神井川源流部の主水源となっていた。石神井川源頭部の窪地は戦後整地され畑などに利用されていたようだが、工場のできた1960年代はじめには、武蔵野団地として整備されはじめ、70年代にかけて住宅が立ち並んだ。この際に石神井川の源流部は跡形もなく埋め立てられたが、経理排水の武蔵野団地内の区間は1970年代初頭まで開渠が残っていた。

小金井カントリー倶楽部以東の石神井川の流れはどうだったのか。古い地図を確認すると、1956年の地図では、まだ小金井カントリー倶楽部西側の敷地内に断続的に水路が顔を出している様子が確認でき、西側敷地内東寄りの池から川が流れだして、小金井街道を越えカントリー倶楽部西側敷地内を流れている様子が描かれている。池より上流部はすでに経理排水からの水しか流れていなかった可能性が大きく、源流を「小平市御幸町(小金井カントリー倶楽部内)」とする記述はこの頃の状態を伝えるものかもしれない。嘉悦大学の手前はこの当時より暗渠だったようだ。この暗渠の出口は前々回の記事の写真でわかるようにかなり古そうで、もしかするとゴルフ場開設時からの暗渠かもしれない。1970年の地図になると、池から流れだす部分はなくなり、そして70年代半ば以降の地図では西側敷地内の水路はすべてなくなっていて、前回の記事に記した、東側敷地に今でも残る水路のみが描かれている。

(4)新たな水源になった「石神井幹線」

1960年代以降、石神井川流域は急速に宅地化が進んだ。一方で源流部一帯の下水道整備は遅れていた。1990年には下水道普及率100%を達成したものの、その後もしばらく汚水が川に流れこむような状態が続いていた。石神井川流域を含む小平市の東半分は分流式で整備が進められ、2000年代初頭には石神井川に汚水が流れ込まなくなったようだ。経理排水は、新小金井街道より西側は下水として再整備され、東側は雨水菅に転用されたようだが、処理能力が低かったため、2000年代半ばにかけて、小金井カントリー倶楽部内のかつての石神井川の流路の直下、地下4mほどの場所に雨水管「石神井幹線」が増設された。この雨水管は、小金井街道以西では直径1.5m、以東では直径2.8mとなり、小金井公園北側の公式な「石神井川上流端」の暗渠出口のところで、石神井川に接続された。

この雨水管は石神井川の川底よりも低い位置にあることからわかるように、実際には雨水の貯留管としての性格も兼ねている。貯留管内にたまった雨水は通常月2回、ポンプで汲み上げられ、石神井川上流端で川に放流されている。また、大雨が予測される直前にも組みだして空にするそうだ。前回の記事で触れた「石神井川のもうひとつの水源」がこれにあたる。
また、小金井街道が横切る地点で露出している開渠は、石神井川のものではなく、この石神井幹線に関連するものではないかと思われる。
一方でおそらくこの工事の前後に、小金井カントリー倶楽部東側の敷地内に残る開渠の流路は、嘉悦大学構内に残る水路と切り離され、その結果「上流端」までの区間は水が流れなくなったのではないかと思われる。
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(5)結局石神井川の最初の一滴は・・・

最後にもう一度、石神井川源流付近の水系図を載せておこう(前回記事の最後と同じ)。上がかつて存在した水路、下が現在残る水路と下水道管理用地である。
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さて、こうしてみると、鈴木町の湧水がコンスタントに水の湧き出す源流だったのは縄文時代までで、その後は現在に至るまで、人工的な水路がおもな水源となっていたことがわかる。そして、様々な文献などに記されている「小金井カントリー倶楽部内の湧水」も枯れているということは、現在の石神井川が流れ出す源流は公式な「上流端」に一致するということになるのだろうか。

最後にささやかな情報を付け加えておこう。1970年代前半、鈴木小学校の造成が始まる前まで、鈴木町の源頭には川の流れはなくなってしまったものの、谷頭の東端崖下に湧水が見られたという。そして、この湧水と同じ場所かどうかはわからないが、2007年、小学校の敷地内に湧き水が復活した。この湧水を使って「古代の泉」と名づけられた小さな池が整備された。
この水が「石神井幹線」に流れ込んでいるとすれば、今でも3万年前と変わらずに、石神井川の最初の一滴は鈴木町から流れ出しているといえそうだが、さて、どうだろうか。いずれ確認してみたいところだ。

長くなったが、以上で、石神井川源流の探索をひとまずおしまいにすることとする。
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Commented by kazumasa at 2011-08-31 19:49 x
tokyoriverさま
石神井川の源流を探して(1)~(4)じっくりと読ませていただきました。大作ですね。頷きながら読ませていただきました。

1990年ころまで小金井カントリークラブが小金井街道と交差している付近にちらりと見えていた開渠の川は石神井川本流ではなかったのですね。いつも白濁した水が流れていたのをバスの窓から眺めていて、私もなんとなく興味がありました。いつか写真を撮っておこうと思っているうちに改修されてしまいましたのが残念です。それと経理排水の謎も解け、すっきりしました。

それと本文にもありましたが、仙川の源流部分もすぐ近くの通信総合研究所内にあり、すぐ下流のサレジオ学園内の側溝には清水が流れているという話をかつて聞いたことがあります。いつか是非お訪ねください。
これからも応援しています。
Commented by tokyoriver at 2011-08-31 23:28
kazumasaさま。
コメントありがとうございます!(4)に全然コメントがつかず、ちょっと寂しかったので、嬉しいです。90年ころまで見えていた水路は写真でしか見たことがないので断定はできないのですが、おそらく石神井川本流の残骸で、経理排水からの下水が流れ込んでいたものと思われます。その後、いったん潰された上で、現在垣間みられるコンクリートに置き換わったのではないかと思います。書き方が不十分ですみません。サレジオの水は私も話に聞いたことがあります。機会があれば確認してみたいです。
Commented by yr at 2012-02-08 18:00 x
 初めまして。『石神井川の源流をさがして』興味深く読ませていただきました。石神井川の源流についてここまで深く考察されている記事は、おそらくこちらが第一号ではないでしょうか。

 私がこのあたりの地理に詳しくなったのは2000年代中ごろのことでした。中小河川の源流好きの身には、詳細がどうしても気になっていましたw 残念ながら、2004年の時点では小金井街道で姿を現していたという白濁水の流れる水路はなく、工事は最終段階に入ろうとしていたところで現在の様子とほぼ変わりなく、嘉悦大学裏の水路跡も草ぼうぼうで見る影もなし、といった状況でした。武蔵野団地と小金井カントリークラブを仕切る「鈴木中通り」の最も坂下、(3)の記事一番はじめの写真に写っているカーブミラーの足元辺りに、コンクリート水路を砂利で埋めたような遺構が確認できたくらいです。

(分割します。)
Commented by yr at 2012-02-08 18:03 x
※続き

 (1)の記事冒頭の写真がどの地点で撮られたのか、やはり推察がつきません。奥に石垣が見えることから、1990年代まで姿を現していた小金井街道付近の水路でしょうか。1948年の航空写真を見ると、二股になっている源流の谷戸のうち南側では、経理排水の南側にジグザグの水路と林が見えますが、経理排水との合流前の地点であるため別の生活排水が流れ込んでいない限り、これほどの水量があるとは考えにくい。水量と時代を考えると、嘉悦大学付近で撮られたようにも。う~ん、考えれば考えるほどわくわくしてきますw 

 石神井川の南を流れる仙川の源流についてですが、こちらは現在でもNICT北側敷地内の森に最上流地点(沢ほどの細流跡)が残っています。夏休みの一般公開の際に確認できました。また、サレジオ学園内にもかつての姿を想起させるような遺構や細流が残っているかもしれません。

(さらに続きます)
Commented by yr at 2012-02-08 18:06 x
この仙川も源流部は二股だったようで、サレジオ側だけではなく、(のちの)学芸大学敷地内にも流れ・窪地があったようです。学芸大学内には現在、実習用の水田があるようですので、かつての様子が少しだけ窺えるかもしれません。サレジオ学園東側の住宅地やその先の山王窪に作られた中央大学付属高等学校、公務員宿舎も、石神井川源流の武蔵野団地と同様、1957年頃~1980年頃までに造成されたようです。
 仙川は、川沿いにある浴恩館公園付近までは比較的自然な蛇行で流れていますが、それ以東、三鷹新川までは明瞭でない流れであったようです。戦後に民地の境界線に沿って現在のようなかたちに開削されたという、なかなか面白い経緯のある川でもあります。

 ご存知かもしれませんが、段彩図の代替には国土地理院の”電子国土で見る土地条件図”が便利です。ほんの浅い窪地も詳細に表示してくれるため、中小河川の源流探しにはうってつけです。どうぞご活用ください。
※URL:http://www1.gsi.go.jp/geowww/thedkd/d_lcm/index.php
※IE推奨

大変長くなってしまい申し訳なく存じます>< 今後も更新を楽しみにお待ちしております。
Commented by 瀬島健二郎 at 2012-02-08 21:00 x
小平で働いている者です。本日、たまたま鈴木小学校が学校開放でしたので、古代の泉を見学し、写真も撮ることができました。鈴木小のわき水の説明には、「この池の水は、土の中から出てきた水で、水道の水ではありません。この水は小金井カントリーや小金井公園をむけて、石神井川となって隅田川を通り、東京湾まで流れていくのです。ここが、石神井川の始まりだということです。この水がいつまでもこの場所でわき続けるといいですね。みなさんも大切にしましょう。」とあり、済んだ水の中を金魚が泳いでいました。入り用でしたら写真をお送りします。
Commented by tokyoriver at 2012-02-08 23:44
yrさん。
はじめまして。丁寧なコメントありがとうございました。仙川の上流部も面白いですよね。NICTの水路跡、残っているのですね。そして、学芸大学側にも分流があるとは考えもしませんでした。検証してみたいところです。電子国土の土地条件図は、Macなので見られないのです。。。
Commented by tokyoriver at 2012-02-08 23:45
瀬島健二郎さん
コメントありがとうございます。古代の泉、今でも健在なのですね。そして、説明文がとてもいいですね。写真、見てみたいです。
Commented by yr at 2012-02-09 00:07 x
>>tokyoriverさん
 早速の返信ありがとうございます。Macをご利用なら、PDFで公開されているファイルが便利です。こちらから、最新のファイルがご覧いただけます。
http://www.gsi.go.jp/bousaichiri/lc_get.html
(技術資料になっている出力図 )

この資料は、都立小金井公園で開催された大規模な防災訓練の際にも配布され、自宅の地盤の確認に役立てられていました。
Commented by tokyoriver at 2012-02-14 23:50
yrさん。
情報ありがとうございました。PDFファイル、無事ダウンロードできました。
Commented by 暗渠好きOL at 2012-06-11 01:06 x

素晴らしい調査報告を上梓していただき、ありがとうございました。愛する我が地元・田無の地理や歴史を自分でも調べてまいりましたが、ここまで細部にわたって言及された内容は初めてです。大げさじゃなく、本当に感動して涙が出そうになりました!!

私の生家は石神井川沿いだったのですが、私が産まれた1970年代は、まだ並々とした水量を湛えておりました。製薬会社からの工場排水でいつも怪しい色と臭いを放ってはいましたが、死んだ魚が上流から流れてくることもあったんですよ。(ちなみに母が嫁いだ頃は生きた魚が泳ぐ美しい流れだったとか)

大雨のでたびたび氾濫し、市内に幾つも立派な遊水地が造られましたが、年々水量が減り、活用されることもなく…(平和なことではありますが)。「いったい源流はどうなってんの?」という長年の疑問が、今回拝読させて頂いたことで全てスッキリしました!

江戸時代は「悪水」と呼ばれ農業用水にならなかった石神井川、良くない意味で昭和の時代まで受け継がれてしまっていたのですね。近年、東伏見のほうでは清流復活事業が成されていますが、もっと西のほうまで工事が進み、小金井公園まで続く武蔵野の原風景が取り戻せるとよいですよね。
Commented by tokyoriver at 2012-06-11 23:59
暗渠好きOLさん。
コメントありがとうございました。そこまで言っていただけると記事を記した甲斐があるというものです。石神井川の源流部、今ではそんなに氾濫が起こるようにも思えません。もう少し景観をなんとか出来るとよいのですけどね。
Commented by smizohata at 2013-05-12 06:28 x
ふとしたきっかけで石神井川の源流がどうなっているのか、気になって調べていたところ、こちらのブログ記事にたどり着きました。いずれも非常に整った資料となっており、感服させられます。この情報を参考に、現地も見てみたいと思います。ありがとうございました。
Commented by tokyoriver at 2013-05-12 19:55
smizohata さん。
コメントありがとうございました。石神井川はメジャーな存在であるにもかかわらず、その源流については曖昧にされていますので、まとめてみました。ご参考になったようなら嬉しい限りです。
Commented by やっとマン at 2013-10-23 00:51 x
つい先日、私も田無用水暗渠を遡上して鈴木小学校まで自転車で辿りました。田無駅北口のふれあいの小道から橋場の三叉路を経て南西に進むルートです。予定外の鈴木遺跡資料館で興味の尽きない解説を聞き、古地図の写しまで頂戴したので、帰路は当然鈴木小学校に谷頭を探索、期せずして石神井川のかつての源流を体感するグレートジャーニー(笑)となりました。
実はこちらの石神井川の源流を探しての記事1-4は、大変遅まきながら今読ませていただきました。先日の主要ポイントをおさらいするには余りある詳細な解説は、明智小五郎のさながらのお見事な謎解きです。ありがとうございました!
Commented by tokyoriver at 2013-10-23 23:58
やっとマンさま。
鈴木遺跡資料館で解説をきけたとは、なかなか貴重な体験でしたね。そしてこの辺りの玉川上水の分水たちも、たどってみるととてもおもしろいですよね。
Commented by 41kuma3 at 2015-11-14 15:03
経理排水の元開口部脇に住んでいます。
経理排水の跡は雨水の逆流防止様に
一時退避用の大きな筒状の缶が埋められたそうです。

Commented by tokyoriver at 2015-11-15 08:16
41kuma3さま。
コメントありがとうございます。その大きな筒状の缶が、本文(4)で触れている、雨水の貯水槽の役割も果たす「石神井幹線」かと思います。
Commented by 一松太郎 at 2017-05-04 21:07 x
〉一方でおそらくこの工事の前後に、小金井カントリー倶楽部東側の敷地内に残る開渠の流路は、嘉悦大学構内に残る水路と切り離され、その結果「上流端」までの区間は水が流れなくなったのではないかと思われる。

直接小金井カントリー倶楽部に確認を取りました。

小金井街道脇の開渠は石神井幹線そのもので、西側に存在する池を清掃する時に限り、水を抜くそうです。その際、池の水は石神井幹線に流しているとの事で、現在、石神井幹線はカントリー倶楽部内の開渠とは接続していないそうです。

嘉悦大学脇の開渠に稀に水(水量は多く透き通っていた)が流れている事があるので、恐らくはカントリー倶楽部内の開渠と嘉悦大学脇の開渠の間の暗渠部分で、石神井川と石神井幹線が合流しているのではないかと考えられます。

Commented by tokyoriver at 2017-05-11 21:50
一松太郎さま
コメントありがとうございます。カントリー倶楽部、回答してもらえたんですね。貴重な情報です。石神井幹線の排水口は石神井川上流端のすぐそばとのことですので、嘉悦の水路に稀に流れる水は、野水的なものかもしれませんね。
Commented by Tatsuki Yamamoto at 2017-08-23 12:07 x
『東京暗渠学』を読んで辿り着きました。ツイッターでも書かせて頂きましたが、生まれ育ったのが石神井川が見える家だったので、この記事も非常に興味深く読ませていただきました。小金井カントリークラブ西側から武蔵野団地のところがなんとなく源流だと思っていたのですが、その先があったんですね。実は1990〜95年頃に農林中央金庫研修所のプール管理をしておりました。プールの水は地下水のポンプ汲み上げで、水量も豊富で盛夏でも冷たい水を滔々と掛け流しており、保健所の水質検査の際にはいつも検査員が感心するほどの清水でした。研修所敷地内はいつもカントリークラブ側からの涼風で冷房無しでも高原のようでした。
Commented by tokyoriver at 2017-08-26 10:51
Tatsuki Yamamotoさま

コメントありがとうございます。農林中央金庫研修所のプール、地下水だったのですね。地下深く潜ったかつての流れかもしれないと思うと、感慨深いです。
by tokyoriver | 2011-08-03 20:58 | 石神井川とその支流 | Comments(22)