深大寺用水と入間川〜絡み合う用水路(跡)と川(暗渠)を紐解く(2)深大寺用水東堀の上流部その2
2011年 12月 09日
三鷹通りを越えると、ほとんど車が通らないのに、両側に歩道がある道が、谷戸の段差に沿って曲がりながら続いている。西側の、段差に沿った歩道が水路の跡だ。地図を見るかぎり、1970年代前半までは、開渠で残っていたようだ。
舗道上には、通常L字溝にありそうな四角い枡の蓋。そして縁石にも雨水枡のところに不自然な凸み。コンクリートの擁壁の水抜き穴からは水が流れでた跡が染み付いている。
暫く行くと歩道が消滅して川跡が不明瞭になるが、古地図を見ると、そのまままっすぐに流れていたようだ。水路脇には暗渠沿いにつきものの銭湯が登場。用水沿いの水田は1960年代初頭に埋め立てられ野が谷団地(団地といっても戸建ての宅地)となったのだが、その頃に出来たのだろうか。銭湯の周りは商店がいくつか集積していて、小さな田舎町の駅前のような雰囲気。
銭湯の先、深大寺用水はコの字型に西側にはみ出して、TM家邸宅の中を通っていた(冒頭地図の中央やや右下)。深大寺用水が個人宅の中を流れるのは、東堀ではここだけ、西堀では用水の開削に尽力した富沢家及び佐須村のTK家の3ヶ所しか無い。富沢家以外の2つの家も用水開削にあたり多額の費用を負担したのだろう。現在もTM家の邸宅は健在のようだ。そして南側に進んでいくと、突然コンクリート蓋暗渠が現れる。
コンクリート蓋の始まる地点を下流側から見たところ。左奥の木の茂みの先がT家邸だ。かつて水路は左側の路地から直角に曲がって蓋暗渠となっている区間につながっていた。
蓋暗渠は隙間もなくはめられていて、遠目には普通の歩道に見えなくもない。浅い谷戸の西縁に沿って自然に蛇行する様子はなかなかだ。ぴったり沿っているのは、谷戸を囲む丘の上から流れこむ雨水を余すところ無く取り込み利用するといった意図もあったという。
所々には鉄製の蓋が設けられている。
谷戸の斜面から暗渠状に降りる階段もぽつぽつ。浅く緩やかな谷なので、あっても短いものが多い。境目の植物が彩りを添える(写真は上流方向に向かって撮影)。
道路を越えるところは橋のような一体型のコンクリート。ボックスカルバートが埋められているのかもしれない。
下って行くにつれ、いつの間にか暗渠の幅が広くなっている。先ほどの鉄蓋は長方形が2枚だったのが、ここでは正方形が2枚。用水路ならば、幅はあまり変わらないはずなのだが、雨水や湧水も取り入れていたからなのか、それとも排水路化先した後の変化なのか。そばではスズメが草叢をつついていた。
原山通りの手前で再び蓋暗渠は姿を消す。かつて水路はこのまま直進した後、やや複雑に曲がりくねって、「二段水路」、そして「隧道」へと向かっていたが、現在その痕跡はない。一方で、ここのすぐそば、写真中央の、道が右側にシフトする突き当りにある家の手前を左(北東)に下る道に進むと、別の暗渠(水路跡)が姿を現す。
写真右奥が先ほどまでたどってきた蓋暗渠、手前左がその暗渠の道。クランク状(_┃ ̄)の位置関係となっている。右の家沿いには側溝とも暗渠とも言える幅1m弱のコンクリート蓋が先の暗渠から続いてきている。
見るからに暗渠や川跡であることがわかる路地である。先の深大寺用水東堀から、東に20mほどずれて並行している。そして更にこの東20mに平行して、入間川の暗渠が流れている。この路地はいったん入間川に落ちた深大寺用水の水を再び回収する水路のひとつの痕跡と思われる。
そこには水を巡るシビアな闘いが浮かび上がるのだが、その話は次回に。次回は上流方向に戻り、野が谷の谷戸東縁を通っていた深大寺用水東堀の分流と、入間川源流部の川跡をたどってからこの水路に戻ってみよう。