隧道水路から旧金子村エリアへ。執拗に入間川の水系を避ける水路。〜深大寺用水と入間川を紐解く(4)
2012年 01月 01日
深大寺用水東堀は、二段水路でいったん入間川に引き入れた水を回収し、内野水車を回したすぐ先で、長さ180mほどの隧道に入って入間川の谷筋から隣りの谷筋に越えていた。
かつての隧道の入り口には一応碑が建てられているが、日焼けで色が抜けてしまってそこに記されている文字を読むのはかなり困難だ。
碑の裏側は行き止まりとなっているが、かつてここに隧道が口を開けていたのだろう。
深大寺用水の開削を主導した、富澤松之助は当時27歳、田畑3600畳分、屋敷の杉の大木といった私財を投げうって人足や経費を賄い、村々の利害を調整して開通に尽力したとう。上流である砂川分水(梶野橋まで約14.2km)の拡幅、整備には2ヶ月かかったが、その下流の梶野新田分水(野崎まで6.1km)拡幅は1週間、新規の水路となる東堀(現つつじヶ丘駅前で仙川用水下流部に接続するまで4.6km)、西堀(野川合流地点まで5.7km)の掘削はわずか11日間で完了したという。その後、一月半ほどの調整を経て水が流末まで達するようになったそうだ。
そんな中で、二段水路から隧道にかけての区間は開削にあたっての最大の難所だったと思われる。ローソクを立てて隧道を掘ったという言い伝えもあるが、夜中に提灯を掲げて高低差を調節したという伝説の残る玉川上水のように、高低差のチェックをしながら掘ったのだろうか。隧道には途中何ヶ所かに泥抜きのたて穴があって、隧道を掘った際にそこから土を出すとともに、開通後には水路清掃に利用していた。毎年水田に水を入れるシーズン前の泥さらいは、隧道より下流の金子村の人たちの手によって実施されたという。
隧道は子供が遊びに入れるくらいの大きさで、中にはコウモリも棲んでいたそうだが、今では中央高速道の切通しとなっていて、もはやその痕跡を確認することはできない。
南側、かつて出口があった近辺。横切る道路の向いに隧道の出口があり、そこから手前に水路が通っていた。
この先暫くの水路跡は「柴崎緑道」として整備されている。緑道沿いは現在は柴崎だが、かつては金子村と深大寺村の飛び地だったという。柴崎村には東堀の水利権はなかった。
水路が流れているのは蛇窪と呼ばれる谷筋で、先のトンネルの出口のそばには「蛇窪の水車」があった。1878(明治11)年、水路に通年水が流れるようになった直後に設置され、幅50cm弱の水路で引き入れた水が直径4.5mほどの水車を回していた。水車は富沢家と金子家による設立で、搗き臼6個が稼働していたが、大正末に火災で焼失したという。
緑道が終わり、車止めのあるいわゆる暗渠道に。
両側を擁壁に囲まれた風情のある暗渠。用水路とはいえ、谷筋を利用していることがよくわかる。既存の水路を部分部分で活用しているのが、迅速に開削できたポイントなのかもしれない。
妙に開けている、暗渠が直角に曲がる地点。手前左側からきて、直角に曲がり左奥へとつながっていく。
此処から先もまた暗渠らしい路地。
つつじヶ丘駅から深大寺に向かうバスの通る道に出る。
車道をまたいだ先の歩道には、ちょうど暗渠の出口の延長線上に、コンクリートの斜めのラインが入っている。ここから暫くは、暗渠は道路沿いの歩道となる。
宮の上バス停の近くで歩道はなくなり、未舗装の暗渠が東へと逸れていく。
こちらは2008年の写真。右側の家はまだ無く、暗渠上に生い茂った草を刈っているところだった。
緑の多さはあまり変わらない。
ブロック塀の下に、古い護岸と思われる擁壁が残っていた。
入り口と同じような車止めで、公園の敷地へと向かう。
公園の敷地の北側、一番低いあたりに未舗装の車止め付きの道が通っていて一見川跡に見えるが、これはただの道。実際の水路はこれより南寄り、写真右端のやや高いところを通っていた。
フェイクの川跡をまっすぐ行った先には、見事なスリバチ状の窪地となったつつじケ丘公園がある。スリバチの底には「らんせん池」との石碑のたった小さな池がひっそりと。池は1936年にこの地に居構えた政治活動家、田中澤二が、湧水を利用して作ったもので、彼の筆名「蛍澤藍川」に因み没後「らんせん池」の碑が建てられたようだ。
もともとはこの湧水は灌漑に利用され、中仙川村に水利権があったものと思われる。そのため、ここは調布市に細長く三鷹市が食い込んでいる不思議な境界線となっている(しかも一部未確定)。深大寺用水は二段水路のところでもそうだったように、あくまで中仙川村には一滴の水も与えないスタンスであるから、ここも谷筋には入らず回り込むように通されているというわけだ。
深大寺用水の水路はこのスリバチとそこから続く谷を避け、斜面の中腹を南下していく。写真左側の植え込みの所がかつての水路跡である。
マンホールのすぐ脇には木が生えていて水路の向きを考えると地下がどんな塩梅になっているのか、想像がつかない。
下って行くとやがて左手に谷が現れ、その底に突然コンクリート蓋暗渠が始まる。これは深大寺用水の水路ではなく、もともとは先のらんせん池のところにあった湧水を水源とする川だといい、流末は入間川につながっている。池からこの地点まで宅地の造成のためか谷が埋められてしまったようで、そのため池の周囲は完全なすり鉢状となっていて、こちらの暗渠もコンクリートの擁壁の下から突然始まるかたちになっている。深大寺用水はこの水路には合流せず、少し高いところを平行して南下していく。
(つづく)
蛇久保橋、ありましたね。
確かに資料が無いと、誤読する可能性が大きいです。とはいっても資料があってもまだまだ謎は多いですが。あの砂利道、いいですよね。