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東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?新刊「東京「暗渠」散歩改訂版」重版出来!


by tokyoriver

仙川用水、入間川支流との交錯と、再びの隧道〜深大寺用水と入間川を紐解く(5)

深大寺用水東堀シリーズ、今回とりあげるのは「らんせん池」のあるつつじヶ丘公園の少し先の付近から、甲州街道沿いの隧道を抜けた辺りまで、下の地図で「今回記事」の区間となる(地図はgoogle mapより)。
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今回は5mメッシュのあるエリアに入るので、段彩図もあわせて載せておこう(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。
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下の写真は、前回の最後でとりあげた、らんせん池付近を水源とし深大寺用水に並行する小川。仮に「入間川西つつじケ丘支流」とでもしておこう(→小川の流れる谷の小字名が「狢沢」であることがわかった。よって、この小川は「入間川狢沢支流」と呼ぶのがふさわしいだろう(2012.5追記))。谷底の擁壁にそって曲がりくねった暗渠が下っている。地図によってはらんせん池の他に、この辺りにも池が描かれているものもある。右側の斜面の上をかつて深大寺用水東堀が流れていた。
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擁壁の下をくねくねと。右岸の斜面は徐々に緩やかにり、苔むす疎らな林が暗渠沿いに続く。
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そばを並行する道路に出て上流方向を眺めるとこんな感じ。植え込みのあたりにかつて深大寺用水東堀が流れていたようだ。その更に右手の林の中に、西つつじケ丘支流の暗渠が流れている。林は、西つつじケ丘緑地と名付けられている。左側の住宅地のところにはかつて水車があった。1884(明治17)年に設置され、昭和初期まで稼働していたという。近くの金龍寺に、水車の中で動いていた石臼が保管されている。
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コンクリートで固められた水路跡らしき遺構。これは西つつじケ丘支流の方で、すぐ右隣を深大寺用水が流れていた。最も近い場所では2つの水路は1mほどしか離れていなかったというが、このあたりのことだろうか。
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そのすぐ先で、支流の方は東に逸れて下っていき、用水路は道に沿って直進・南下していた。
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深大寺用水東堀は、道路の東側に沿って甲州街道まで流れていた。ちょうどその箇所は歩道になっていて、東側に少し傾斜している。
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深大寺用水の続きを辿る前に、つつじヶ丘支流の暗渠にちょっと寄り道。コンクリート蓋暗渠が住宅地の裏側の少し低くなったところに続いている。緑も多く、なかなかの雰囲気だ。
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水路の左側(東側)にはかつて、川に沿って細長く水田があった。そして下の地図のように、その東側には三鷹市が調布市のエリアに細長く食い込んでいる(水色ラインが境界線)。前回の記事に示したように、かつての中仙川村がらんせん池のところにあった湧水を確保するためこのような境界線となったのではないかと思われる。そして、現在は調布市に属している、かつて水田だった川沿いの土地も、古い地図をみると「仙川入会」と記されており、中仙川村の土地もしくは旧金子村(現調布市)との入会地だったのではないかと考えられる。
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真新しい蓋が一瞬現れた後、暗渠はアスファルト路地になり、更に東へ逸れていく。
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そして通りに出たところで、いきなりいびつな形の鉄板の蓋が現れる。道路を跨いだ先には「中仙川遊歩道」と記された車止めの路地が見える。
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ところが、鉄板の蓋の先は南に折れていて、コンクリート暗渠がすぐ先の甲州街道滝坂下交差点まで続いている。
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一方、車道を挟んでコンクリ蓋暗渠と反対側を北に向かって見てみると、先に見えた中仙川遊歩道へと続く歩道がやって来ていて、こちらも中仙川遊歩道と名付けられている。
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この場所は水路が入り組んでわかりにくいのでもう一度、少し前に上げた地図を見ていただきたい。黄色の丸で囲んだ場所がこの暗渠が入り組んでいる地点だ。車道沿いの「中仙川遊歩道」(地図の緑色のライン)は、実際には中仙川(=入間川)ではなく、かつての仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)の下流部で、もともとは鉄板暗渠の先のコンクリート暗渠のところにつながり、滝坂下交差点で甲州街道沿いに西に折れて流れていた。段彩図でわかるように、その流路は入間川の谷底よりもやや高いところを流れている。一方で、鉄板暗渠の向こう側に見えた中仙川遊歩道は、もともとは入間川西つつじケ丘支流の下流部で、図のピンクのラインのようにつながって、入間川(中仙川)につながっていたと思われる。
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1回目で触れたように、仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)は17世紀に4つの村の灌漑用水として開削された、玉川上水からの分水だ。形としては品川用水を途中から分水したようになっているが、もともとはここまでの区間は仙川用水として開削され、後から品川用水が開削されたといわれている。上仙川村は現在の三鷹市新川の一部で仙川の上流域、中仙川村は入間川流域(三鷹市中原)、金子村、大町村は現調布市西つつじケ丘、菊野台で、野川の流れる低地の東側となる。このように3つの川の流域に水をもたらすために、仙川用水はまず仙川方面に水を落とし、次に入間川の中流域を利用して中仙川村の水田を潤した後、水利権の無い入間村方面には流さぬように、新たに開削した水路で再度入間川から分かれて、更に隧道で谷をシフトし、野川流域の金子村、大町村方面につながれていた。深大寺用水東堀の下流部は、この仙川用水流末をそのまま利用している。
仙川用水と入間川つつじケ丘支流の交わる地点がどのようになっていたのか不明だが、立体交差などではなく、堰などを設けて出入りする水量の調節で運用していたのではないだろうか。

仙川用水は甲州街道の北側に沿って西進していて、すぐに真っ直ぐ南下してきた深大寺用水が合流していた。ここまでの仙川用水は品川用水とも呼ばれていたという証言もあるが、一方で深大寺用水もこの辺りでは「砂川用水」と呼ばれていたので「すながわ」と「しながわ」が混同されている可能性も否めない。
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水路はつつじヶ丘交番の前付近でクランク状に甲州街道南側に移る。ちょうどその箇所で、歩道の幅が急に狭くなっていて、水路が合った頃の痕跡を残している。
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そして甲州街道を挟んだ南側には欄干のようなコンクリートの遺構がぽつんと。ここには金龍寺橋ともゲンド橋とも呼ばれていた橋が掛っていた。このコンクリート遺構が橋、あるいは水路に関係あるのかどうか不明だが、その場所はちょうど向かい側の歩道の細くなる場所に対応していて、偶然にしてはできすぎている。
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かつて水路は甲州街道の南側に移ってすぐに、素掘りの隧道に入っていっていた。仙川用水開削時から隧道だったと言われているが、江戸時代の絵図には普通に水路の青いラインとして描かれており、明治期の迅速図にも普通に水路として描かれていて、もともとは深い掘割だった可能性もあるかもしれない。昭和初期まではこの付近では京王線が甲州街道の上を路面軌道で通っていた。
甲州街道を西方に望むと、先の方が下り坂になっているのが見える。深大寺用水の隧道は、左側(南側)の歩道の下辺りを流れて手前の丘を越え、野川沿いの低地に出ていた。
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調布市役所神代出張所そばの、水路が隧道から顔を出していた地点には、怪しい欄干と、フェンスに囲まれた空間が残っている。水路に関係する空間なのだろうか。
ここから右手奥に見える植え込みの方に、深大寺用水開削時に新たにつくられた、覚東村方面への水路があった。しかしこの水路には水が流れることはなく、まもなく覚東村は用水路組合から離脱し、水路もなくなったようだ。ただ、地籍図には水路として記されている。
またそれとは別に、水路が隧道から顔を出す手前に別の隧道が分かれて、写真右外れの敷地に合った水車を回していた。水車は昭和初めにはなくなったが、その名残の製綿工場は1970年代まで残っていたようだ。現在敷地はマンションになっている。
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隧道から出て少し先の地点で、深大寺用水は甲州街道から直角に流れ、かつて金子村・大町村の水田の広がっていた低地へと流れていく。この区間の水路も、分流を含めて仙川用水の時代からあったものをそのまま利用している。写真左手前のアスファルトが甲州街道の歩道、右奥へと延びる歩道が深大寺用水の暗渠だ。わかりにくいが大きめのコンクリート蓋暗渠となっている。
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次回は深大寺用水東堀本流の野川合流地点までと、途中でいくつも分かれていた水路の痕跡についてとりあげる。次回にて東掘編を何とか終えられそうだ。
(つづく)
Commented by 猫またぎ at 2012-01-16 19:15 x
現地を歩いた感じでは、滝坂下交差点のあたりは、入間川と「何かの流路」がニアミスしていた、としか見えませんでしたが、実は交差していた、というのは驚くほかありません。
複数の水路が並走したり、交錯したりと、現地を歩いた感覚をこれだけ裏切るトリッキーな暗渠も珍しいのではないでしょうか。
Commented by tokyoriver at 2012-01-17 20:01
猫またぎさん。
私も最初は、滝坂下で2つの水路がニアミスしていたのかと思っていましたが、いろいろと調べていくとそうではないという結論に達しました。深大寺用水は、現地調査と資料を何度も行ったり来たりすることで分かってくることが多く、探求し甲斐があります。
by tokyoriver | 2012-01-13 00:37 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(2)