コンクリ蓋暗渠の続く深大寺用水西堀下流部~深大寺用水と入間川を紐解く(9)
2012年 02月 22日
深大寺用水西堀は、甲州街道の南側からコンクリートの蓋がけ暗渠となっている。暗渠沿いには植え込みが設けられ「菊野台緑道」といった名前もつけられているようだ。
途中からは、前回記事最後にとりあげた厳島神社からの流れと合流する。そちらは普通の舗装された道となっていて、一見水路跡とはわからない。この辺りより下流は、厳島神社からの川(かんがい用水)をそのまま利用している(地図で紫色となっている区間)。東堀の記事でも触れたように、甲州街道南側には西堀と東堀の間に網目状に水路が分かれて流れているが、これらは深大寺用水開通以前からすでに存在していた。それらは17世紀後半に開削された仙川用水(上仙川、中仙川、金子、大町四ケ村用水)の末流にあたる。深大寺用水東堀はその水路を利用している(地図で黄緑色となっている区間)。
やがて暗渠は、緑道からガードレール付の歩道に変わる。護岸のあったところにそのまま蓋をしているせいか、並行する路面より高くなっている。橋のような痕跡もある。水路の左岸側(東側)は、かつての字名を曲田といい、東堀との間に水田が細長く伸びていた。(写真は上流方向を振り返った様子)。
しばらく行くと、京王線の線路につきあたる。水路はそのまま線路の下を抜けているようだが、踏切も何もないので、反対側(南側)にはぐるっと迂回してまわりこむこととなる。
線路の反対側は、周囲が空き地になっていて鄙びた雰囲気だ。
暗渠上、線路際に設けられたマンホールには「うすい」の文字。雨水幹線として扱われているのだろう。
夏は両脇は雑草が生い茂っている。周囲の緑がかつての水路の様子を偲ばせる。
その先は、S字に蛇行しながら蓋暗渠が続いている。こちらは菊野台第2緑道と名付けられている。
両岸の植え込みはそれなりに手入れされている。暗渠上には所々に鉄蓋があった。こっそり開けてみたが、水路に水は流れておらず乾いていた。
深大寺用水西堀は、京王線の南側から、深大寺用水東堀の分流「大町堀」と40mほど離れて並行して流れていく。2つの水路の間は線路の北側からつづく、字「曲田」。その名の通り、流路にそって曲がった水田となっていた。この水田のところは金子村が大町村にプラグ状に食い込んだかたちとなっていた。
下の地図に、1955年ころの深大寺用水流域の水田と旧村名を示した。黄緑色に塗ったエリアが水田だった場所、黄緑色のラインは深大寺用水東堀(かつては仙川用水末流)の水系だ。この金子村の食い込みの他にも、深大寺村の飛び地がぽつりとあったりと、村々(神代村への統合後は大字か)の境界線はいりくんでいた。なお、西堀が京王線を越えたあたりから南西〜南に水路が分かれていたとの推測もあるようだが、そのような水路は資料や地籍図からは確認できない。地図からわかるように、大町村の水田は野川沿いに集中しており、そちらは野川から分水した通称「野川大町用水」を利用していた。地図では簡略化して記したが、実際には網の目状に水路が張り巡らされていた。野川沿いにいくつか口を開ける排水口はこの用水路の名残だ。こちらの水田には深大寺用水の水は一切引かれていなかったという。
品川通りに出て緑道は終わり、そこから先は普通に暗渠としての道が続く。畑の脇を抜けたり、花が咲き乱れていたりと、すこし長閑になってくるが、周囲の宅地化はここ数年でも進んでいるようだ。
旧大町小学校の脇からは車道沿いを敷地にそって流れていく。大町小学校は1999年に、隣接する野川小学校に併合して調和小学校となった。すぐそばには旧大町村の鎮守社である八剱神社がある。14世紀の創建で、御神体は十一面観音像と、神仏習合の名残がみられる珍しい事例となっている。深大寺用水西堀は柴崎村、金子村、大町村の3つの村の鎮守社のそばを通っていることになる(柴崎、金子は前回記事参照)。
この区間は、コンクリート蓋の並びが綺麗で印象的だ。こちらは上流方向に振り返った様子。脇に隙間のあるタイプが連なる様は蛇や竜のようにも見える。
隙間から見ると、中の水路は梁を渡したコンクリート枠の水路で、蓋のすぐぎりぎりまで幅があることがわかる。
旧大町小学校敷地の南東側で、暗渠は急カーブを描いて北に向きを変える。
そしてS字に曲がって再び向きを変えた後は、野川に向かって南下していく。かつてはここで、ここまで並行してきた大町堀と合流していたが、大町堀の方は今では痕跡がなくなっている。
調和小学校と東電の変電所の間を南下していく。川沿いに花壇があって気分を和ませる。
ここは水路ですという看板があった。不法工作物とは何なのだろう。
小学校の敷地の南西側に至ると、目の前に野川の護岸が見えてくる。
そして野川に合流。蓋暗渠にもかかわらず合流地点は円管となっていて、弁が設けられている。
先の地図にも記したように、この辺りには野川から引かれた野川大町用水ともいうべき水路が幾筋かにわかれて流れており、大町田んぼと呼ばれた水田を潤した後、一部は西堀末流に合流していた。
以上で、9回にわたり取り上げてきた深大寺用水を辿り終えたことになる。深大寺用水が開通したのは1871年。そして上流部の砂川用水も含めた「砂川村他7ヶ村水利組合」が解散したのは1962年2月だ。その水路が利用されたのは100年にも満たないが、その短い間には、水を巡る切実なドラマが数多く紡がれてきた。組合が解散して今月でちょうど50年。水路の大部分は失われ、流域の風景も激変して、もはや深大寺用水を省みる人はほとんどいない。今残る蓋暗渠などの痕跡も、近い将来その姿を消し、水路を巡る記憶もまた忘れ去られていくのだろう。
最後におさらいで、梶野新田用水から分流して以降の、全体の地図を掲載しておく。
深大寺用水本流の記事はこれでいったん終わりだが、次回からは、品川用水の前身であり、深大寺用水とも深い関係のある「仙川用水」の上流部、そして「入間川」の中流部以降の区間について、何回かに分け取り上げていく予定だ。今回、参照した文献も多岐に渡るので最後にそのリストも付け加えようと思う。今しばらくのお付き合いを。
こんな魅力的な暗渠があったんですね。
こちらに掲載されている地図を印刷して回ってみたいと思います。
そうですね、電車の窓からも確認できますね。印刷するとちょっと粗くなってしまうとは思いますが、ご参考になれば幸いです。
西堀の上半分やそこにつながる支流しか見ていなかったので(たぶん)、深大寺用水には直線的な印象があったのですが、蛇行が美しい場所が多いんですねぇ。今回の写真の曲がりっぷりには特に見惚れました。
そうそう、電車から見えますよね~~、これ。
まだ終わらないと仰ってたのは、こういう続編があったからなんですね。中央線に近づいていきそうなので、土地勘が出てきそうです。たのしみ~。
ありがとうございます。この西堀最後の区間は自然河川を流用しているためか、蛇行が自然な感じで味わい深いです。次回以降、中央線に近いようでいてすぐ離れてしまいますが、なるべく地図を多めにわかりやすくしていこうと考えております
たまたまこちらのブログを拝見させていただいて 大変参考になりました。
素晴らしいの一言に尽きます。 水のある場所、かつてあった場所を巡るのが好きな者としてはたまりません。 ありがとうございます。