東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

謎解き仙川用水その1ー品川用水上流部と深大寺用水下流部の母体~深大寺用水と入間川を紐解く(10)

【一部追記修正】3月10日、11日にかけ、記述・地図の追加、修正をしています。

今まで9回にわたって深大寺用水(一部入間川も)を追ってきたが、今回からは深大寺用水と入間川に関係の深い「仙川用水」と入間川の残る区間について取り上げていく。紛らわしいが「仙川用水」は「千川上水」とも「仙川」とも異なる、かなり古い時期に玉川上水より分けられた用水路である。

仙川用水とは

「仙川用水」は「上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水」とも呼ばれた玉川上水の分水で、現武蔵野市境で分水され、現三鷹市中部で入間川の中流部と仙川の(本来の)源流部に接続されていた。引かれた水は、仙川の源流部に広がる上仙川村(現三鷹市新川)の水田、入間川の中流沿いに広がる中仙川村(現三鷹市中原)の水田を潤し、また、入間川へ引き込まれた水は途中で再び別の用水路に分かれて、野川沿いの金子村(現調布市西つつじヶ丘)、大町村(現調布市菊野台)の水田を潤した後、野川に注いでいた。用水の開削時期は17世紀半ばと推定されるが、正確な時期はなぜか記録に残っていない。玉川上水より上仙川村に入るまでの区間は17世紀後半に「品川用水」に、そして下流の入間川から分かれて以降は明治初期に「深大寺用水東堀」に利用された。

下の地図で黄緑色のラインが仙川用水と品川用水の水路である。左上から右下に横切る青緑色のラインが仙川、右下のエリアが今まで取り上げてきた深大寺用水と、入間川の流れるエリアだ。
c0163001_081622.jpg


仙川用水と品川用水の関係

深大寺用水東堀については前回までの記事をみていただくこととし、ここでは「品川用水」について軽くふれておこう。品川用水は「戸越上水」を前身とする灌漑用水路だ。「戸越上水」は玉川上水開通(1654年)の10年後の1663年から1664年にかけて、品川領戸越、蛇久保両村入会地(現品川区豊町、戸越、東中延)にあった熊本藩細川家の下屋敷の庭内の泉池(現在の戸越公園と元国文学研究資料館(過去記事参照))の用水として、仙川用水からの分水のかたちで開削された。庭園のためだけに延々20km以上もの水路を開削した戸越上水だが、わずか2年後の1666年には廃止されてしまった。敷地内の湧水で事足りたからとも、維持費が負担になったからともいわれるが真相はわからない。いずれにしてもせっかく通した水路を灌漑用水として利用したいとの要請が品川領各村より幕府に上がり、1667年に許可がおりる。そして1669年には細かった水路が拡張整備され、戸越上水は品川用水として再出発することとなる。玉川上水からの分水地点から品川用水と仙川用水が分岐する現三鷹市新川までの区間は、もともと仙川用水だったが、このときに品川用水として扱われることとなり主従関係が逆転したようだ。
c0163001_083538.jpg


品川用水から三鷹用水へ

品川用水を巡るあれこれについては本題ではないのでここではふれず、時代は一気に1947年に飛ぶ。戦後の食糧危機により仙川用水沿いの水田でも耕作強化が図られることとなり、品川用水普通水利組合に対して三鷹町長、神代村長から水利権譲渡申請書が出された。品川用水の水はこの時点ですでに仙川用水系でしか利用されていなかったため、この要望はスムーズに通り、用水路は1948年、三鷹町長管轄下におかれ、1952年に品川用水は三鷹用水土地改良区として再出発した。この際に旧金子村地区の農家でも水利権買収金の負担があったというから「三鷹用水」は実質的に「仙川用水」の復活だったといってよいだろう。ただ、このしばらく後から三鷹市内の工業地化、宅地化が進み、汚水が流入することで用水路の水質は急速に悪化していく。仙川上流部の旧上仙川村エリアでは、水質が稲作に適さないとして、1956年に三鷹用水からの取水を取りやめた。そして三鷹用水と深大寺用水の水を利用していた旧金子村、大町村エリアの「金子田んぼ」でも、深大寺用水の記事で記したように1961年には稲作をとりやめ、は神代団地となった。こうして1960年代初頭には用水はその役割を終えたと思われる。既に水の流れなくなった品川用水は1960年代後半から1970年代にかけ暗渠または埋め立てられていった。三鷹用水にはしばらくは水の流れはあったようだが、70年代前半までには暗渠化されたようだ。
※なお、70年代などの一部の地図には、烏山川の支流である水無川(中川)を三鷹用水と記しているものもあるが、正しくはこの品川用水/仙川用水が三鷹用水である。

柴田家と仙川用水開削時期の関係

先に記したように、仙川用水の開削は戸越上水の引かれた1663年以前であることは確かだが、その正確な時期ははっきりしない。玉川上水からの分水は、上水開通翌年に出来た野火止用水(1655年)が最初で、その後に砂川分水(1657年)、北沢分水(1658年)、烏山分水(1659年)、青山上水(1660年)、三田上水(1664)と続く。この間に仙川用水も開通していたことになる。このような早い時期に分水をひくことができたのは、上仙川村・中仙川村を領地とした柴田家の力によるものではないかという説もあるようだ。柴田勝家の孫、勝重(1579-1632)がこの地を領地としたのは1615年。大坂の役(1615)の戦功により幕府より与えられたという。勝重は中世の武士団金子氏の居城だったと伝えられる「島屋敷」に居を構え、仙川水源近くの勝渕神社には柴田勝家の兜が埋められ祀られてたと伝わっている。柴田家は1698年に三河に移るまでこの地を統治し、以後は上仙川、中仙川は幕府の直轄地となった。玉川上水からの分水は、その初期はいずれも飲用水としての利用がメインであり、仙川用水もそうだったとすると、柴田家との関わりもあながち無くはなさそうだ。これに関連するかもしれない水路については次回に取り上げる。
そして、仙川用水が明治20年代に深大寺用水への補水を目的として開削された、という説もネット上に出回っているのだが、今回調べてみて、これは間違いであることがはっきりした。こちらについても追々取り上げる。

そのほかにも、仙川用水を巡っては今までわからないことが多かったのだが、今回調査してみてだいぶ判明してきたので、記事の中で順を追って記していく。現在品川用水/仙川用水の痕跡はほとんど残っていないので、上流から要所要所をかいつまんで紹介していこう。

境の分水地点

まずは境の分水地点から。武蔵境通りが玉川上水を渡る桜橋から下流に向かって東に100mほど下った地点、武蔵野市境3丁目に、今でも品川用水/仙川用水の分水口が残っている。すぐそばは境浄水場だ。下の写真は左岸(北)側から見た取水口の全体像。玉川上水は写真右手前から左奥に流れており、左上に見える堰で水かさを上げて、右端の凹んだ護岸の中腹に開いた水門から取水していた。
c0163001_09997.jpg

取水用の堰。支柱の上流側は水流の勢いを削ぐために三角形となっている。そして堰の板を差し込む溝が残っている。
c0163001_091812.jpg

取水口をクローズアップ。この前後の玉川上水はコンクリートの護岸がつくられているが、ここだけは古い石積みの護岸となっている。そして枯葉に埋もれて赤く錆びた鉄の水門で塞がれた、四角い取水口があるのがわかるだろうか。取水口の大きさは時代により何度も変遷があったようだ。江戸時代末期の記録では2尺5寸(75cm)四方と記されている。今残っているのもそのくらいの規模に見える。ここで取り込まれた水はしばらく地中を流れてから開渠となっていた。
c0163001_092317.jpg

こちらは右岸側、真上から取水口を見たところ。写真右上の端に堰が写っている。取水口の上には水門を開閉するハンドルの残骸が残っている。かたわらの土手には品川区と武蔵野市が連名で設置した「品川用水取水口跡」の説明板があるが、戸越上水や仙川用水のことは触れられていない。
c0163001_092965.jpg


堀合通り

玉川上水から離れた水路は市立第六中学校となっているところを横切り、その裏手の八坂神社の敷地を抜けて、南東へと下っていた。中央線の線路の辺りまで続く、玉川上水との間に挟まれた細長い土地は堀合と呼ばれていた。用水路は変哲のない道路となっていて水路の痕跡は見る影もないが、交差点名や通りそのものの名前として堀合の名が残り、かつて水路があった証となっている。

 2012.3.10追記
かつて玉川上水から分かれたばかりの品川用水が通っていた場所にあたる、武蔵野市立第6中学校の敷地内に「水吐橋の碑」がある。1971年、学校の校舎を建設中にみつかった橋の遺構を使ったものだという。水吐橋は大正12年8月31日に完成したが、翌日関東大震災で破壊された。このため一夜橋とも呼ばれた(コメントいただいた「な」さん、ありがとうございました)。


c0163001_09333.jpg

品川用水の水路は跡形もなく平凡な道路となっているが、途中まるで水路跡のような細長い公園を2つ横切る。一つは境浄水場への専用線跡。大正後期に浄水場への資材運搬用として敷設されたものだという。そして武蔵野市から三鷹市に入るともうひとつ、グリーンパーク遊歩道(堀合遊歩道)と交差するが、ここは戦後のごく一時期、三鷹駅から武蔵野競技場前駅まで運行されていた武蔵野競技場線の線路敷跡である。

歩道の一部には、古そうな四角い蓋が残っていた。品川用水の暗渠と関係はあるのだろうか。
→2012.3.11追記:関係ないとのことです(T様、情報有難うございました)。
c0163001_093633.jpg


堀合地下道

品川用水跡の堀合通りはやがて三鷹駅の西側で中央線の線路に突き当たる。
c0163001_094140.jpg

突き当たった先には「堀合地下道」があって駅の南側に通り抜けできるようになっている。
c0163001_094554.jpg

この地下道は、三鷹市史によればもともと品川用水の水路だったものを改造した地下道だという。
c0163001_010862.jpg

言われてみれば、側壁の微妙なすぼみや天井の低さと線路までの薄さは、水路を彷彿とさせる。
c0163001_0101279.jpg


さくら通り

地下道を抜けた南側には、堀合通りから連続したカーブを描いて、徐々に南東に向きを変えていく。
c0163001_0101791.jpg

品川用水の跡の通りは三鷹駅南側からは「さくら通り」となる。かつてこの通り沿いを流れていた品川用水は、1952年に暗渠化された。これは失業対策の土木事業として施工されたといい、この工事によってさくら通りは市内初のアスファルト舗装道になったという。
c0163001_0104147.jpg

さくら通りより先、品川用水の水路はむらさき橋通りでて通り沿いを南下し、下連雀6丁目で離れ南南東へ、そして現在三鷹市立第6小学校の校庭となっているところを横切り、更に東に向きを変えて吉祥寺通り近辺を再び南下、人見街道の北側に並行する三鷹市新川と下連雀の境界となっている道に突き当たったところで品川用水と仙川用水に分岐していた。この区間は特に痕跡はないので、一気に仙川用水の分岐点まで飛ぶことにしよう。

品川用水と仙川用水の分岐点

東西に抜ける古くからの街道「人見街道」の両側にはかつて「アイノミチ」と呼ばれた小径が並行していた。新川と下連雀の境目の道はそれらの名残のひとつである、そしてその道の傍らに、品川用水と仙川用水の分岐点が残っている。右側に曲がる赤茶色の舗装の道がかつての仙川用水跡、そして正面の草の生えた窪地が品川用水の跡だ。背後はかつては日産の工場で、現在は高層マンションとなっている。
c0163001_011661.jpg

品川用水の跡はよく見ると、半ば埋もれてはいるようだが水路がそのまま残っている。ここはおそらく品川用水で唯一水路が現存している場所だ。仙川用水の方の痕跡はないが、もともとここまでの水路は仙川用水であったこともあり、ここの分水口は品川用水の数ある分水口の中でも別格扱いだったようだ。1689(元禄2)年、品川領9ヶ村の訴えにより井伊領(現世田谷区内)の各村の分水口は閉塞されたときも、上仙川村の分水口は対象外であり、翌年上仙川分水口が訴えられたときも、分水量の調整と厳格な管理を実施するということで話が付けられている。
「品川用水沿革史」に収められている現地の視察記(1941年11月)ではこの分岐点は「新川分水口」として厳格に管理されたコンクリート造りの樋口だと記されている。そして、この時点で品川用水側の水路は砂俵でせき止められて通水していなかったという。そちら側の水路がこうして残っているのはどういった経緯があったのだろうか。
c0163001_0174161.jpg

水路が残っているのは20mほどだろうか。その先は土に埋もれて曖昧になり、新川宿公会堂とその裏手の八幡社に続いている。
ここは玉川上水とその分水で最初の水車が設置された場所でもある。1697(元禄10)年、現千代田区麹町にあった粉屋がここに挽臼 2 台を備えた水車を設置した。この水車は無許可で設置されたもので、すぐに撤去されたという。
c0163001_018294.jpg

新川宿公会堂の南側。前を横切っているのが人見街道だ。そして品川用水の水路は公会堂の左側に見える電話ボックスのあたりから街道沿いに出て、手前に写っている歩道のところを東(右手前)に流れていた。公会堂の周りには八幡社や古い石像を収めた祠などが集まっていて、古くからの地域の要所であったことをうかがわせる。
c0163001_0185468.jpg



仙川への導水路はどこか

さて、分水地点で分かれた「仙川用水」「入間川養水」とも呼ばれ、最後は入間川へ注ぐ水路だ。仙川用水は4つの村の水田の灌漑用に引かれたわけだが、そのうち上仙川村以外の3村の水田については、この「入間川養水」経由で水が供給されていた。一方で上仙川村は入間川流域ではなく仙川流域なので、仙川用水から仙川方面に至る別の水路もあったことになる。
三田義春「世田谷の川と用水」には、品川用水開通以前は仙川用水との分岐点の地点より南下し勝渕神社脇の丸池に注ぐ水路があり、品川用水開通時に廃止された(仙川養水)とあるが、出典が不明であり、ほかの資料にはこのような記述は見当たらない。
仙川への導水路については長らく私の中で謎だったが、今回記事をまとめるにあたって調べた結果、少なくとも2つのルートがあったことが判明した。

2つあった分水口

まず一つ目のルートだが、品川用水絵図(1858(安政5))には、仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)取水口1尺2寸(36cm)のほかに、野川村之内、仙川用水口として埋樋で高2寸五分(7.5cm)横4寸(12cm)の取水口があったことが記されている。仙川用水には2つの分水口があったということになる。また、「品川用水沿革史」(1943)に引用されている江戸期の別の資料にも「上仙川分水口」として、上仙川村字稲荷前に4寸四方の分水口が、「野川分水口」として野川村字北裏耕地に2寸四方の分水口があると記されている。明治16年の記録でも変わりはなく、2つの分水口が記録されている。そしてどうやら、それぞれの記録に記されている2つの分水口のうち後者が、仙川へ水を導く分水口だったようなのだ。

水路のルート

ではそれは具体的にはどこだったのか。「野川分水口」があったと記されている野川村字北裏耕地は、現在の市立第一小学校以東のエリアにあたる。そして、「三鷹の民俗10 新川」(1987)に掲載されている戦前の新川宿を記した概略図には、第一小学校の東側に、品川用水から分かれ南下する水路が途中まで描かれ、幅6尺(1.8m)ほどの水路が新川本村の田に引かれていたと記されている。
一方で「品川用水沿革史」の現状視察記(1941年11月)には、国民学校の手前の分水口も敷石が崩れ荒廃しているといった状況が記されている。この国民学校は市立第一小学校のことだ。
そして、1947年に撮影された空中写真では、第一小学校の南側から、現在の仙川のルートを通ってもともと仙川の水源地帯だった勝渕神社周辺に至る水路が写っている。
野川分水口からの水路がいつから存在していたのかどうかは不明だ。品川用水開通後に後追いで作られた可能性もあるし、戸越上水が「野川村」から分けられた、という記録からすると最初からあった可能性もある。だが少なくとも江戸時代後期から戦前にかけて、入間川方面の分水口とは別に、品川用水から仙川に分かれる水路が存在していたことになる。そしておそらくこういった水路が存在したゆえか、仙川自体を「仙川用水」として記す文献も散見される。先の三鷹用水もそうだが、このような呼称の錯綜が、水路の関係をわかりにくくしている側面がある。
c0163001_0193267.jpg


幻の「野川」

そしてもうひとつ、入間川ルートから分かれて仙川に至る水路の存在も確認できたのが、こちらについては次回の仙川用水入間川ルートの記事に記すことにする。最後に「野川」について触れておこう。これは国分寺から流れてくる「野川」とは全く別の川で、伝承によればこの川は品川用水と仙川用水の分岐点の辺りから流れだし、人見街道から60mほど奥まった、かつての牟礼村と野川村の境目に沿って、新川2丁目の天神社のあたりの窪地まで流れていたという。この川は仙川用水からの分水だったとも、また品川用水の開通でなくなったとも言われているが、資料に乏しく詳細は定かではない。そして、野川村の名の由来がこの水路で、新川という地名(のち、1874年に上仙川村と野川村が合併して新川村となる)は品川用水に由来するとの伝承もあるという。
なお、この野川が通じていたという窪地は、地形図で見ると周囲より1mほど低くなってる程度の非常に浅いものだが、谷筋のかたちとなっていてかつて川のルートであった可能性がある。そしてその谷筋を下っていくと「東京peeling!」さんが記事にしていた水無川の北野3丁目方面からの支流の上流部につながっている、ということも非常に興味深い。

→実際に水路があったことが判明しましたので、下地図を修正しました(流路は1935年頃の時点のルート)。品川用水からの悪水を落としていたと思われます。(2012.5.19)。

c0163001_21263138.jpg

(2012.3.11地図追加。2012.5.19修正。窪地の表記は標高51mライン。)

(つづく)
[PR]
Commented by at 2012-03-10 02:06 x
武蔵野市立第六中学校内には品川用水の橋の欄干とおぼしき痕跡がありますよ
Commented by tokyoriver at 2012-03-10 21:10
なさん。
情報ありがとうございました。調べてみたら、水吐橋という橋の欄干で、別名「一夜橋」と呼ばれるものでした。詳細を本文内に追加しました。
Commented at 2012-03-11 00:13 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by yr at 2012-03-12 00:43 x
こんにちは。今回の記事も非常にマニアックかつ学術的で、大変興味深く読ませていただきました。

さて、幻の「野川」についてですが、この「野川」や水無川北野方面支流の源流を解くカギは、どうやら現・下連雀5丁目や牟礼4丁目付近にあるようです。下連雀4丁目は、ほぼ全域が盛土地や平坦化地の人工地盤です。特に怪しそうなのが、下連雀4丁目南側のマンション所在地です。付近の牟礼団地が田んぼを造成して建てられたことを考えると、利用しにくい土地は大規模利用の際に造成さることが多いようでもありますので、このあたりが非常に怪しく感じます。日本無線の工場も、この一帯の谷筋に位置しています。また、付近には「狐久保」なる興味深い地名も残存しています。この付近の全容を把握するためには、この付近の土地利用の経緯がポイントになってきそうな気がします。
Commented by tokyoriver at 2012-03-12 23:21
yrさん。
人工地盤の話は初めて知りました。日本無線やマンション(下連雀5丁目ですよね?)のあたりは戦前に大工場がいくつも出来た時に造成されたのでしょうか。この辺りは詳細な古地図がなかなか無いので微地形の変遷を追うのがむつかしいですが、調べてみたいです。
Commented by yr at 2012-03-13 09:35 x
 返信ありがとうございます。

 国土地理院の土地条件図『吉祥寺』( http://www1.gsi.go.jp/geowww/landcondition/lcm_renewal/img/kichijoji.pdf )を参照すると、周辺の地形が一目瞭然です。下連雀5丁目南側(間違えちゃいましたw)はグレーの平坦化地です。(人工地盤というより人工地形という語の方がふさわしいかもしれません。)品川用水と仙川用水の分岐点付近が源流であるとされることと、土地条件図から読み取れることを考慮すると、ここにかつて極めて緩やかな谷頭地形とともに「野川」の源流があったのではないかと思われます。

 水無川源流部と水無川北野方面支流の源流が近接していることと、水無川北野方面支流が牟礼を経由することから、玉川上水牟礼村分水が水無川北野方面支流に接続されていた可能性についても気になってきます。
Commented by tokyoriver at 2012-03-15 23:22
yrさん。
土地条件図のご紹介ありがとうございます。ここでみられる谷筋(に限らず武蔵野台地の中小河川全般にあてはまりますが)はおそらくかつて多摩川の扇状地だった頃の、伏流水が流れ出ていた痕跡なのでしょうね。いろいろと想像が広がります。
Commented by aatw at 2012-09-29 19:55 x
上の地図の水無川支流とある「水」の文字のところだけ開渠の水路が現存しています。道の反対側は畑です。開渠の奥のほうも畑です。やっとこの開渠の正体が分かり安心しました。
Commented by tokyoriver at 2012-10-03 00:02
aatwさん。
リンク先記事に開渠区間の写真が掲載されています。
by tokyoriver | 2012-03-10 00:25 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(9)