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東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?新刊「東京「暗渠」散歩改訂版」重版出来!


by tokyoriver

謎解き仙川用水その2ー幾重に交差する水路を紐解く~深大寺用水と入間川を紐解く(11)

今回は、三鷹市新川の品川用水と仙川用水(いわゆる「入間川養水」のルート)の分岐点から辿って行こう。今回取り上げる区間は下の地図で矢印で示した区間(google mapにプロットのうえキャプチャ)。黄緑のラインが仙川用水・品川用水に関連する水路だ。ここに、仙川(青緑のライン)や梶野新田用水野崎支線(水色のライン)が複雑に絡まっている。流域全体の地図については前回の記事を参照していただきたい。
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品川用水と分かれた仙川用水(入間川養水ルート)は、人見街道までの僅かな区間だけは、車止めに仕切られ舗装の色を変えた、暗渠や川跡によくあるような姿となっている。
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仙川の谷を越える築堤

人見街道を越えると水路跡は普通の道となって、新川の交差点の東~南を回りこみ、西へ向きを変える。そして、現在仙川が流れている谷を横切っていく。谷をまたぐ区間はかつては築堤が築かれていて、水路はその上を西に向かって流れていた。仙川に至る手前には新川児童遊園があり窪地となっている(写真右側)が、水路はこの窪地ではなく少し高くなっている道路のところを通っていた。
築堤はかなりの高さと幅があったようだ。武蔵野市史には、南側からみると二十数尺の高さ(6m以上)があったと記されている。また、築堤があった当時の地形図から判断すると、水路両岸の土手もかなりの幅と高さが取られていたようで、水路の水面よりもかなり高く築堤を築いた上で、そこに深い溝をつくって水路を通していたように見える。土地条件図では仙川沿いの谷は埋め立てられているように記されており、築堤の土手が削られ谷が埋めたてられたことで、現在はそこまでは高低差がないのだろう。
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新川児童遊園の西端で流路跡の道は仙川を渡る。車道側の橋には「長久保一之橋」とあるのだが、上流側(歩道側)にはもうひとつ名前のない橋が掛っていて、高さが異なっている。これはかつての築堤と関係あるのかもしれない。仙川用水を暗渠化・道路化した際に多少築堤が削られてこの橋が架けられ、その後さらに土手が削られて道路が拡幅され、橋だけがもとの高さで残ったのではないだろうか。
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橋の上から仙川の上流方向を眺めると、人見街道に架かる野川宿橋が見え、その下から川が急に太くなっているのがわかる。野川宿橋より上流側はほとんど水が流れておらず、カミソリ護岸の狭く深い水路となっているが、橋の東側の袂からは、下流部で取水した地下水を流して、川の流れを復活させている。こちらについては次回詳しく紹介する。
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仙川上流部の開削時期

かつて仙川はここより1kmほど下流の勝渕神社付近を源流としており、それより上流の水路はあとから開削されたと言われている。仙川用水が通っていた築堤の下の谷筋には、それまでは仙川は流れていなかったことになる。
「世田谷の河川と用水」には1950〜51年に上流部が開削とあるが、1935年頃の地籍図や1947年撮影の空中写真には、築堤より南側には水路がみえる。築堤北側の窪地は戦前は「ハキボリ」と呼ばれる湿地だったというが、おそらく「捌き堀」の意だろう。そこから築堤を潜って南側に排水する水路があったのだろうか。そして、築堤より上流の水路は、1947年7月の航空写真には影も形も見えず、一方1948年3月の航空写真には現在と同じルートの水路がはっきりと見えることから、少なくともこの近辺では1947年夏から1948年春の間に開削されたことになる。

一方で、中央線の武蔵境駅付近より北側の水路は、それより前から存在していたようだ。江戸時代に開削された小金井分水や梶野新田分水から分岐した何本かの用水路の流末もこの水路につながっていることからも、その古さが伺える。小金井市誌によれば、現在の仙川は「長窪の水流」と呼ばれる悪水路で、大雨のたびにあふれていた。梶野新田分水が仙川の上を越える築堤が今でも残っているが、悪水路の氾濫で度々この築堤が破壊されたという。
一方で、境村(現武蔵野市境)では、水害を避けるためにこの悪水路(=現在の仙川)の流れる谷に3箇所にわたり厳重に築堤を築き、それより下流側の窪地に水が来ないようにしていたという。この築堤を巡って宝暦から明和にかけて梶野新田と堺村の間で争いが起こり、1754(宝暦4)年には「悪水堀築留取払いお願いの状」が出されている。
この仙川上流部の流路については武蔵野市史でも、低地帯にある昔からの出水路で、普段は枯渇していて降雨の後数日は水が流れたとし、砂漠の「ワジ」に例えられている。また、1919年(大正8)刊行の5万分の1東京西北部や1931(昭和6)年刊行の最新番地入東京郊外地図でも、小金井付近から武蔵境駅以北の区間までは水路が描かれていて、少なくとも江戸期から戦前に至るまで継続して水路が存在していたことがうかがわれる。
これらの事実から判断すると、人口的に開削されたとされる仙川上流部は、上流部から武蔵境付近までは悪水路として存在していたことは間違いない。そしてそこは降雨時のみ水が流れる、いわゆる「シマッポ」「マツバ」のような水路で、余程のことが無い限りは武蔵境付近より下流は伏流水として地中に消えていたのだろう。伏流水の区間はその後の開発に伴い、排水対策として1948年ころにしっかりした水路を開削して、仙川につなげたのだろう。(※「シマッポ」については白子川上流部の記事参照)。
なお、水路が開削され仙川につながった後も、勝渕神社より上流部はしばらくは仙川とは別扱いだったようだ(武蔵野市内では「武蔵川」として管理されていた)。全区間が「仙川」として管理されるようになったのは1964年のことだという。
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築堤がもたらした大浸水

境村に築かれていた築堤がどうなったのかは不明だが、仙川用水の築堤も谷をダムのように塞いでいることから、仙川上流部が開削される以前は大雨が降るとその上流側にあたる人見街道沿いが水浸しになったという。戦前の出水時の写真には、一帯が湖のようになって人々が舟で行き来する様子が写っており、おそらく1941年7月の水害の時のものと思われる。この水害は記録的なものだったという。7日間に続く豪雨の影響で中央線の北側では現在仙川上流部が流れる谷に沿って、長さ3km、幅が最大で200mにわたって湖のようになり、水深は深い所で4mにもなったという。そして三鷹町内でも仙川用水築堤の北側で、人見街道に沿って出水した。「三鷹の民俗6 下連雀」では、下連雀の子供たちが現三鷹市立第一小学校に通うため、井の頭公園の池からボートを5、6艘借りてきたことが記されている。
この築堤を巡っては、水浸しになって困る上流側と、逆に水が来られると被害を被る下流側で度々争いが起こったと伝えられている。「三鷹の民俗6 下連雀」では、仙川用水の土手が水を止めるため大雨の際に水浸しになること、新川の人が土手を切らせないために夜警を出し、けんかになったこともあったと記している。これは仙川沿いの水田への被害阻止を巡る攻防だろう。
また、「深大寺用水私考」には、「三鷹の新川の方の土手は、雨が降ると水が溢れて地元が困るので土手を切る。土手を切られると金子に田のあった内野氏などは、逆に水がきて困るので、土手を切られないように見張りにいったという」といった聞き書きが記されている。仙川用水の築堤を普通にをまるごと切ってしまうとその水は仙川方面に流れるので金子村方面には水は行かないし、仙川用水自体が使い物にならなくなってしまう。ここで言っているのは築堤上の仙川用水を挟む土手のうち、北側を切って、築堤の北側に溜まった水を仙川用水に逃すということではないかと思われる。

そんな築堤も今では撤去され、仙川も改修により深く掘り下げられて、このような水害が起こることはなくなった。
橋を渡ると道路に沿って右手(北側)に小高くなった細長い緑地帯があり、かつての築堤の名残を留めている。
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築堤の西端付近から仙川の谷を振り返ると、今でも高低差があることが分かる。水路は写真中央のコンクリート擁壁の上を中央から左手に抜けていた。
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ここで仙川の谷を渡りきった仙川用水は、今度は長久保と呼ばれる窪地を避けるようにその縁を西〜南へと向きを変えて進む。水路跡の道路の南側、数メートル段差のある窪地が長久保で、現在では農業公園とJA東京むさし三鷹緑化センターが設けられている。
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そしてここで仙川用水は「梶野新田用水野崎支線」と交差していた。仙川用水の北側には高低差がないため、どのようにして交差していたのか不明だが、おそらく野崎支線の方を掘り下げて仙川用水の下を抜け、長久保に出ていたのではないか。流路の跡は現在、農業公園と住宅地の境界線として残っている.下の写真は仙川用水と野崎支線が交差していた地点。手前の道路のところを仙川用水が左から右に流れており、青緑のフェンスのところを右手前から左奥に向かって野崎支線が流れていた。フェンスの裏側が長久保の低地で、2〜3mほどの高低差がある。
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梶野新田用水野崎支線

「梶野新田用水」は今まで取り上げてきた深大寺用水の母体となった玉川上水の分水で、基本的には新田集落の飲用水として開削された。その開削時期は1734(享保19)年頃とされる。小金井で分けられた水路は「梶野新田外五ケ村呑用水組合」に属する梶野新田、染谷新田、南関野新田、境新田、井口新田、野崎新田を経由し、上仙川村に至っていた。上仙川村だけは灌漑用としての利用だったという。余水は仙川源流一帯の水田を巡る用水路に落とされていた。1825年の記録では「上仙川村畑直り新田用水」として「上仙川村本田用水」への助水も行なっていたとあるが、これは仙川もしくは仙川用水の"野川分水口ルート"を指すと思われる。1871(明治4)年に深大寺用水が開通して以降は、野崎から下仙川に至る水路は支流扱いとなったようで、「三鷹市史」(1970)によれば、戦後作成された「砂川用水実態図」には、野崎支線と記されているという。
梶野新田用水野崎支線は三鷹市野崎の交差点からしばらく人見街道に沿って流れたのち、現在の三鷹市役所付近で向きを変えて南東南東に直線に流れ、仙川用水をくぐり現在の仙川の上仙川橋付近で仙川用水野川分水口ルートの水路と合流したのち、勝渕神社方面に流れていた。
流路が複雑に交錯しているので、再度地図を掲載しよう。
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流路跡自体は全く残っていないが、上仙川橋付近までは土地区画の境界線として辿ることができる。また、上仙川橋より下流部はそのまま現在の仙川の流れと一致する。航空写真(google mapよりキャプチャ)の上は三鷹市役所の東側、下は仙川用水との交差地点付近。野崎支線の水路跡(水色のライン)がそのまま土地の区界となっていることがよくわかる。
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梶野新田用水野崎支線はいつ頃まで水が流れていたのだろうか。「三鷹の民俗10 新川」には玉川上水から新川の水田に至る2本の用水路として、ひとつは前回とりあげた仙川用水のの"野川分水口ルート"、もうひとつは「K家の方(から、新川本村の田の)西側にくる」ともある。K家の屋敷はかつて仙川用水と野崎支線が交差する地点の東側にあったことから、ここでのもうひとつの用水路が「梶野新田分水野崎支線」を指していると思われる。この記述は聞き書きをベースにしており、おそらく昭和初期の様子と思われる。ただ、1935(昭和10)年の地籍図にはすでに野崎支線の記載はない。一方で先に記したように戦後作成されたという「砂川用水実態図」には記載があるといい、1948年の航空写真でもそのルートははっきりと写っている。

JAの裏手で、仙川用水跡は再び車止めに遮られた暗渠らしい道となる。
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カーブを描いて南へと向きを変えていく。
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東八道路につきあたったところで水路跡は姿を消す。かつてはこの先、海上技術安全研究所の中へと続いていた。品川用水との分岐点から海上技術安全研究所に入るまでの区間は、仙川用水・品川用水の中でも最後まで水路が残っていた区間のようだ。住宅地図でその変遷を追う限りは、1976年ころまでは開渠として残っており、その後段階的に暗渠化が進み、最後まで残ったJAの北側の区間は1986年の地図で姿を消している。ただし、情報の更新にタイムラグはあって、実際にはもう少し早い時期に無くなっていたかもしれない。
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海上技術安全研究所を抜ける仙川用水と明治20年代開削説

海上技術安全研究所の構内に入った仙川用水は、三鷹市と調布市の境界に突き当たったのち、その境界にそってほぼまっすぐに、南南東に下って行っていた。この境界線は、かつての鎌倉街道でもあった。現在では水路の痕跡はほとんど残っていないようだが、鎌倉街道に沿った並木が続いていて水路のルートも示しているかたちとなっている。

ただ、海洋技術研究所の前身である中央航空研究所が作られた1940年頃、構内の南半分はルートを変更した上、暗渠化された。そして1958年には新たに造成された実験用プールを迂回するため北半分もルートが変更され、海洋技術研究所内の仙川用水は、実際には鎌倉街道沿いとは離れた場所を流れるようになった。

さて、研究所内に残る鎌倉街道跡沿いには、「仙川分水」の解説板が設置されているようだ。今回の取材で見学することはできなかったが、研究所のウェブサイトにその写真と、解説板に記された文章が掲載されている。そこには仙川分水は明治20年代に開削されたと書かれている。仙川用水に関する情報が皆無に近いためか、あるいは公的機関に掲示された解説板であるためか、この明治20年代開削説はネットを中心に各所で引用されている。これは一方で、仙川用水が品川用水よりも古い、江戸前期に開削されたということと矛盾するため、今まで個人的に謎であった。今回の調査で、この解説板の設置経緯と、情報の出所が明らかになった。結論から言えば、この明治20年代開削説はおそらく誤りであろう。
情報の出どころは、研究所内で刊行されていた、社内報のような刊行物「雑木林 」で1979年9月に刊行された23号を始め、何回かにわたって仙川用水と鎌倉街道のことが取り上げられている。ここで、仙川用水に関する公的な記録は1962年ころに「砂川水利組合」(砂川用水の水利組合か、あるいは品川用水の聞き間違いか不明)に一括譲渡されてしまい、三鷹市には一切何も残っていないこと、市の市民相談室職員の説として、仙川分水が明治20年代から30年代にかけて開削されたのではないかと述べていることが記されている。そしてその根拠は仙川用水が明治13年の地図には載っておらず、明治40年代の地図には掲載されていることだとしている。つまり、なにか文献に基づくものではなく、地図からの推測である。
ここで言われている明治13年の地図とは2万分の1縮尺の「東京近傍図 :東京近傍西部」(明治13年測量19年製版)、明治40年代の地図は5万分の1地形図「東京西北部」(明治42年測量)だと思われる。確かに前者には仙川用水のルートは描かれていない。しかし、東京近傍図にはほかにも入間川など描かれていない川や用水路も数多く有り、これを根拠にすることはできない。

前回記事でも記したように、仙川用水の入間川養水ルートは江戸期から存在し、江戸時代後期や末期の記録にも残っていることから、一時的なものならともかく、長期にわたって断絶した期間があるとも考えにくい。そして明治20年代説の直近で言えば、明治16年時点で、品川用水からの各村ごとの寸積(分水量)として以下の記録が残っている。

[字稲荷前口から=入間川養水ルート] 新川村:3坪5合2勺、中仙川村:3坪1合4勺、金子村:1坪5合3勺、大町村:1坪5合4勺
[野川分水口から] 新川村:6合9勺

新川村は1874年に野川村と上仙川村が合併してできた村だ。このことひとつをとってみても、明治20年以降ではないことがわかる。
ちなみにここで注意すべきは、入間川養水ルートにも新川村=旧上仙川村の水利権があるということだ。そして中仙川村以上の水利権が確保されていて、これが水田用であることが伺われる。一方で入間川養水ルート〜入間川沿いには旧上仙川村の水田はない。水田があるのは仙川沿いだ。つまり、入間川養水から旧上仙川村エリア=仙川流域に向かって分水路が引かれていたことになる。この分水路については次回に詳しく記そう。

明治20年代開削説はこのようにおそらく間違いなのだが、上記の「雑木林」の続く号では、鎌倉街道と仙川用水の保全の働きかけ、その結果としての解説板の設置といった経緯が記されている。解説文が参考にしたのは当然ながら「雑木林」での記述だった。その結果、明治20年代説がひとり歩きするようになったようだ。1980年代の三鷹市の広報紙でもこの説が採用されており、仙川用水を巡る情報が錯綜していく一因となったと思われる。

敷地内に残る鎌倉街道跡の並木道を塀越しに眺めてみる。水路の跡はなさそうだ。
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船舶技術研究所を抜けた仙川用水跡/鎌倉街道はいったん普通の車道となる。この近辺にも70年代まで開渠が残っていたそうだ。
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そして100mほど南下すると、今度は消防大学校の敷地に突き当たる。敷地の北側を横切る歩道にはなぜか水路の流れていたルートにそって斜めに敷石のようなものが埋められていた。
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消防大学校

消防大学校の中もひきつづき仙川用水跡/鎌倉街道は三鷹市と調布市の境目となって南南東に下っていく。こちらの敷地内にも街道沿いの並木が保存されている。その入口は遊歩道風となっていて、やはり解説板が設置されていた。守衛さんに頼んで入り口だけ撮影させてもらった。鎌倉街道を辿ってくる人は時々訪れるというが、用水路を辿ってくる人はいないようだ。
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構内図には街道跡を示す並木が描かれている(2列に連なる緑の点)。
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かつてこの敷地内で、先程ふれた仙川流域の水田へと向かう分水路が分かれていた。長くなったので、以降は次回の記事としよう。

(つづく)

※参考文献リストはシリーズの最後にまとめて掲載します。
Commented by ウエ at 2012-05-21 17:51 x
素晴らしいページを提供してくださってありがとうございます。この回で取り上げられたエリアのすぐ南側に住んでおりまして、ジョギングのときに用水路探索を楽しむようになりました。
ふと気付いたのですが、この回で取り上げられた分水量の「中仙川村:3坪1合4勺」って取水口が3.14平方寸になりますね。半径1寸のパイプ状だったのかな、円周率3.14を使っていたのかな、なんて想像して楽しくなってしまいました。
Commented by tokyoriver at 2012-05-22 22:53
ウエさん。
コメントありがとうございました。ジョギングついでの水路探索、よさそうですね。分水量の「寸積」の概念はなかなかわかりにくく、理解に苦労します。
Commented by どて at 2014-01-28 11:03 x
楽しく読ませてもらいました。私はK家の親戚です。40年前の記憶では仙川の長久保一の橋のところには「土管の橋」がありました。幼児が中に入れるくらいの大きさで、ごみが詰まっていたのを覚えています。それが現在の高さの違う橋かどうかはわかりません。野崎支線の青いラインのところには、確かに水路の跡がありました。水は流れていませんでした。当時はなぜ溝があるのか不思議でしたが、疑問が解決しました。
Commented by tokyoriver at 2014-01-28 22:36
どてさま。
コメントありがとうございます。土管の橋、そして野崎支線の水路跡のお話、いずれもたいへん貴重な証言だと思います。推測の裏付けがとれ、嬉しいです。
by tokyoriver | 2012-03-22 23:33 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(4)