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東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?新刊「東京「暗渠」散歩改訂版」重版出来!


by tokyoriver

謎解き仙川用水その4ー入間川から金子方面導水路まで~深大寺用水と入間川を紐解く(13)

「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズの中で、「仙川用水」の暗渠/水路跡を辿る回としては最後となる今回は、前々回の記事のラスト、消防大学校から辿り、入間川(中仙川)にいったん合流したのち、再度分離して金子方面に向かうまでの区間を取り上げる。

まずは地図を(google mapよりキャプチャ)。ピンクの矢印で示したのが今回取り上げる区間だ。緑色のラインが仙川用水に関係する水路、途中で経由する入間川(中仙川)とその分流は赤紫のラインで示してある。仙川、野川、入間川の京王線以南の区間と中央高速付近の一部以外の水路についてはすべて暗渠か埋め立てにより現在は存在しない。
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仙川用水入間川養水ルート

写真は前々回の記事ラストでとりあげた消防大学校敷地の南縁。中に立ち入ることは出来ないが、送電線の脇に見える並木が、かつての鎌倉街道の名残で、そこに沿って奥から手前に仙川用水のいわゆる「入間川養水ルート」が流れていた。鎌倉街道跡は、現在では三鷹市と調布市の境界でもある。消防大学校の敷地内ではかつて、前回記事にした「島屋敷ルート」の水路が分かれていた。
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先の写真の南側(中仙川西原交差点)には、鎌倉街道跡の道がまっすぐに南へ下っている。こちらもひきつづき三鷹市と調布市の境界となっている。水路は道路の東側(写真だと左側)を流れていたようだ。住宅地図の記載を信じれば、80年代初頭まで残っていたようだ。鎌倉街道跡の道は中央高速道にぶつかるまでまっすぐに続き、そこで入間川養水は入間川に合流していた。
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写真は中央高速道にぶつかる手前の入間川の暗渠。シリーズ第3回目で取り上げた区間の続きとなる。第3回の記事で取り上げたように、「入間川」は深大寺東町の「諏訪久保」に流れを発し、通称「野が谷」と呼ばれる谷筋をここまで流れてきている。この「諏訪久保」には、仙川の丸池周辺と同様、「釜」と呼ばれ、水が地面から釜を伏せたような形で吹き出す湧水があり入間川の主水源となっていたが、これが1855(安政2)年の安政大地震で涸れ、野が谷地区の水田が干上がったことが深大寺用水開削の第一の理由だった(詳細は第3回記事参照)。
川名の「入間」は京王線以南のかつての村名であり、当然ながら上流部ではそのような呼び方はされていなかった。深大寺地区では大川と呼ばれていた。
入間川の源流部は車道となっていて痕跡を残していないが、原山交差点から下流はコンクリートの幅の広い暗渠となって、野が谷を南東に流れていく。
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そして、下の写真が入間川と仙川用水入間川養水ルートの合流地点だ。右側の消防車が止まっている道路がかつての鎌倉街道と、仙川用水、そして中央やや左の通り名の標識の裏側、2軒の家屋に挟まれた空間が入間川だ。
これより先、入間川は調布市深大寺東町から三鷹市中原へと移る。中原はかつての中仙川村にあたる。なお、第3回の記事に記した通り、深大寺用水から入間川上流部に供給されていた水は、中仙川村にはその水利権がないことから、仙川用水が合流する手前で深大寺用水に再び回収されていた。
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入間川を利用した「中仙川用水」の区間

三鷹市内に入った入間川はしばらく開渠となる。しかし、中央高速道の下をくぐる区間には水はなく、土も被されているようだ。25年ほど前は、白濁した水が流れていたような記憶がある。
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水が流れなくなってから随分たつのか、川底からかなり立派な木が生えていた。写真ではややわかりにくいかもしれないが、護岸の梁の間から幹が伸びているのが見える。
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この近辺の入間川の流路は、かつては大きくカーブを描いていて、川に沿って水田が細長く続いていた。仙川用水の水利組合に加入する、上仙川、中仙川、金子、大町のうち二番目の中仙川村の水田だ。仙川用水の水はそれらの水田に引き入れられていた。
だが1960年代末には、水田は川の水の汚染で作付ができなくなり、1970年代半ばに埋め立てられて、中原団地と中央高速の敷地となり、水路は中央高速高架下の南側に沿って直線に改修された。
水がなく荒れ果てた水路をしばらく追っていくと、川底の真ん中に細い溝が作られてわずかに水が現れ始め、中原4−18の辺りからは護岸からかなりの量の水が流れこんで、水流が復活する。
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水は澄んでいて、季節により水量に変動はあるようだがコンスタントに流れ込んでいるようだ。上の写真は2011年秋、下の写真は2008年初夏の様子。どこかで湧き出した水を導水しているのか、あるいは雨水の貯留池でもあるのか、いずれにしても臭いや濁りは全くなく、水質は悪くはなさそうだ。
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川は水が流れるようになった地点で中央高速から離れ、向きを変えて中原4丁目団地の裏手を流れていく。せっかく綺麗な水が流れているのに、川沿いに道はなく、様子はところどころから垣間見ることしかできない。梁の上に置かれた植木鉢が落ちることはないのだろうか。
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そしてようやく様子を見られる様になったかと思うと、中原4−17に入る地点から先は暗渠となってしまう。写真は「中仙川遊歩道」となっている暗渠の区間から、上流方向の開渠区間を見たところ。フェンスの向こう側が水路だ。
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現在、三鷹市内では三鷹市内では入間川は「中仙川」と呼ばれていて、遊歩道の名前はそれに由来する。これは「仙川」に直接関係している訳ではなく、流域のかつての地名「中仙川」(中仙川村に由来)から名前をとったものだ。中仙川は1965年の住居表示施行時に現在の「中原」と改名された。
そして、かつては入間川の呼び名は特にはなく、単に「用水路」、あるいは「中仙川用水路」などと呼ばれたり、あるいは深大寺エリアと同様に「大川」と呼ばれていたようだ。

遊歩道の東側には、住宅地の隙間にかつての上げ堀の痕跡である溝渠が残っている。「郷土中仙川」(1982)によれば、水田に水を入れる4月になると、川の各所に土俵で堰を作り、上げ堀に水を分けて、川沿いに帯状に伸びる水田に水を引き入れていたという。中原4−10付近の「トヨのセキ」など、いくつかの堰には通称もつけられていたという。水田の水を抜く8月にはこれらの堰は撤去された。
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一方秋から冬にかけては、何ヶ所かに設けられた洗い場で、大根などの農作物を洗っていたという。かつては蛍の舞飛ぶ澄んだ流れだったというが、今では面影もなく、水田はすべて住宅地となっている。
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途中の植え込みに、橋の銘板がモニュメントのように残されていた。この「近幸橋」は1982年7月竣工と、かなり新しい橋だった。橋には歩道橋のような鉄柵の欄干が設けられていて、銘板はそこにとりつけられていた。その時点ではまだ暗渠化されていなかったということだ。
三鷹市内の入間川の暗渠化は1976年に始まったが、80年代後半までかなりの区間の水路が開渠のままだったようだ。近幸橋のあたりは1988年に暗渠化されたという。
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しばらく進み中仙川通りを越える地点には、中仙川橋の親柱が残されている。こちらは1953年3月竣工と、それなりに古い。この辺りのかつての字名は「羽毛」で、「ハケ」との関連を思わせる。
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再び入間川から分かれる仙川用水

中原1−13で、仙川用水は再び入間川から分かれ、水利権を持つ第3、第4番目の村、金子と大町方面に水を導いていく。
水路は入間川の谷の西側に沿って流れていく。暗渠には「中仙川遊歩道」と標識が掲げられているのだが、実際には中仙川(入間川)ではなく、用水路であるということは知る人ぞ知る、といった感じだろう。本来の中仙川=入間川は谷の東側の縁を流れていき、甲州街道の南側で再び開渠となる。暗渠の区間にもコンクリート蓋暗渠が残っていて、下を水が流れている。こちらについては次回辿ることにする。
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中仙川村の水田はこれより南にも続いているが、仙川用水の水路自体は金子、大町方面への導水路であるため、東側に並行してもう一本の水路が通っていて、そちらと入間川の間が水田となっていた。入間川とこの水路を利用して水田への給排水を行っていたのだろう。下の地図に、かつての入間川と仙川用水、そしてそれらから分かれていた主要な分水路と、水田のエリアを記した。
地図右下の緑色のラインが再び分かれた仙川用水。その右側の赤いラインが入間川本流で、間にある青いラインが水田の排水用水路。水田の排水用水路と仙川用水の間には水田がなかったことが分かるだろう。
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谷底の水田は1960年代初頭に京王電鉄の手により開発され、「つつじヶ丘住宅」と名付けられた分譲住宅となった。これに先立ち1957年には、「金子駅」が「つつじヶ丘駅」に改称された。水田をつぶし新たに区画から整理されたため、現在ではかつての水田の面影は全くなく、水田からの排水路も一部に名残を留める程度である。それにしても谷底なのに「丘」とはよくも名付けたものだ。

中原1−13で暗渠の遊歩道は一旦車道沿いを離れる(というか、車道の方が離れていくといったほうが正確か)。
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水路跡の遊歩道は入間川の流れる谷の西側の崖下を南下していく。この辺りは、谷底よりもわずかに高いところを通っていて、人工の導水路であることがわかる。写真に見える橋は、個人宅の出入り用の橋で、谷底に建つ家の2階に繋がっている。
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中仙川遊歩道は車道沿いに出ると、車道よりも幅のある歩道となる。ここでも左側の林の方が地面が低い。戦前の地図を見ると、この区間は2本の水路が並行して流れていたようだが、詳細はよくわからない。
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暗渠の東側に少し入ると、先ほどの地図で示した水田の排水路の痕跡がわずかに未舗装の路地となって残っている。
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甲州街道の滝坂下交差点の手前では、南西から流れてきた小川の暗渠とぶつかる。この川沿いはかつて「狢沢」と呼ばれていた。この地点で水路が複雑に入り組むが、これについては第5回の記事で触れた。
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そして水路跡の遊歩道は、滝坂下交差点に行き着く。ここから先、仙川用水は甲州街道に沿って西へと流れていて、数十m西側では深大寺用水東堀が合流していた。何度かふれたように、それより先の区間は1871(明治4)年の深大寺用水開通以降は、深大寺用水としての扱いとなる。第5回の記事で取り上げているのでそちらをご参照いただきたい。
なお、「深大寺用水私考(5)」には大正15年生まれの方の証言として「この用水(注:深大寺用水)は砂川用水といった。山岡鹿嶋屋酒店の東の方から来た用水(注;滝坂下以西の仙川用水)は品川用水といった」といった言葉が記されていて、仙川用水の水路が入間川(中仙川)とはっきり区別され、かつ品川用水から分水されていることも認識されていることがわかる。
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仙川用水については以上で終わりとなる。品川用水、仙川、入間川、梶野新田用水、深大寺用水など関連する川・用水路が複雑に絡み合うため、なるべく理解しやすいよう記したつもりではあったが、あまり反響がなかったのは、やはりわかりにくかったのかもしれない。ただ、謎の多い仙川用水について、今回の記事にあたっての調査でかなりの事実が判明したと思う。よろしければ再度目を通していただけたらと思う。

さて、深大寺用水と入間川にまつわる水路を紐解いていく一連のシリーズの最後として、入間川(中仙川)のうち、深大寺用水東堀の記事及び仙川用水の記事で取り上げなかった、仙川用水が分かれる地点より下流側の区間について、次回以降、2、3回ほどにわけて記事にしていく。入間川にはあまり知られていない支流や分流の痕跡もあり、それらもあわせて紹介していきたい。

※参考文献についてはシリーズの最後にまとめて掲載します。

(つづく)
Commented by くぶ at 2012-05-09 12:22 x
私の実家は、ちょうど入間川と仙川用水の間にあるのですが、亡くなった祖母の話では昭和40年頃まで、仙川用水で野菜を洗っていたとか。入間川より仙川用水の方が水がきれいだったそうです。
Commented by tokyoriver at 2012-05-10 23:56
くぶさん。
貴重な証言ありがとうございます。そのころまで玉川上水の水が通水していたのでしょうね。今のあの辺りの風景からは想像がつきませんね。
Commented at 2014-10-21 23:54 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by tokyoriver | 2012-04-17 23:34 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(3)