入間川下流部と、周囲に残る支流の暗渠・痕跡~深大寺用水と入間川を紐解く(15)
2012年 05月 14日
緑色のラインは前回まで取り上げた仙川用水に関係する水路。地図の区間ではその大部分は深大寺用水に取り込まれている。いずれも暗渠化もしくは埋め立てられている。
現在の入間川下流部
さっそく前回の続きから辿っていこう。実篤公園の南東側には、車止めが設けられた遊歩道が設けられている。これはかつて入間川から灌漑用に分流されたあげ堀跡だ(上の地図で実篤公園南から始まる、やや濃い紫色のライン)。
遊歩道は短い区間で終わるが、水路の跡はその先の道路に沿って不自然な歩道となって続いている。写真に見えるガードレールで縁取られた歩道は、数年前まではもっといい加減な舗装でいかにも水路跡の雰囲気を漂わせていた。
あげ堀は若葉小学校の脇を通った後、その向いの調布市立第四中学校の敷地内に入ってしばらく痕跡を追えなくなるが、都営調布入間町2丁目アパートの南側付近から再び、よりはっきりした姿を現す。これについてはのちほど取り上げることにして、入間川本流に戻ろう。
第四中学校の脇の辺りでは、入間川の水路は谷筋の西側の崖線下を流れている。崖線の緑が色濃く残っている貴重なエリアだが、川沿いに道がなく見られないのが残念だ。
崖線の上に上り少し上流側に戻ると、崖線の斜面の林が残されていて、川を見下ろすことができる。ただ、護岸を支えるはしご状の梁が邪魔をして、川面はあまり見えない。
丘の上から南にしばらく下って行くと、ようやく入間川に沿った道となる。写真は上流側に向かって撮影したもの。道の両脇の木立がよい。
仙川駅から狛江駅方面に抜ける通りを越え、都営調布入間町2丁目アパート(団地)脇に入ると、入間川の流路は深く掘り下げられ路面よりもかなり高い護岸が設けられていて、普通に歩いていると川面が見えない状態となっている。この辺りまで来ると、乾季(写真は12年2月)には、水が枯れてしまい、コンクリート3面張りの水路が虚しく続いている。上流に流れていた水は護岸の隙間から徐々に地面に染みこんでしまったのだろうか。
水路の右岸(西)側は小高い急峻な丘となっていて、丘の上には明照院と糟嶺神社が鎮座している。明照院は室町時代後期(16世紀半ば)に創建された天台宗の寺院。今回見落としたが、入間川を挟んで反対側の国分寺崖線の下に弁天山と呼ばれる一角があり、この寺院が17世紀後半に竹生島より勧請した弁天祠が現存するという。当然ながらそこにはかつては湧水池があり、現在でも祠を囲むように池の痕跡が残っているそうだ(参考サイト)。
そして、糟嶺神社はそれより古く鎌倉時代の創建との伝承のある、かつての入間村エリアの鎮守社だ。糟嶺という名称は非常に珍しい。神社の縁起には農業の神「糟嶺大神」を祀るとあるというが、その神の名は他には聞かない。他の説としては、鎌倉時代に近隣に領地を持っていた糟谷氏が、ここの丘=嶺に先祖を祀るために、その1字をとって創建したという由来も伝わる。世田谷の地名粕谷もこの糟谷氏に由来する。また、神社の本殿が鎮座する場所は丘の上でもさらに一段小高くなっている(写真で石段が細くなる地点より上)が、これは古墳で、径40m、高さ5mの円墳となっている。
神社の立つ丘の上から、入間川を下流方向に望む。右奥に見えるマンションの下はもう野川の流路だ。
12年2月に訪れたときは水は完全に枯れ果てていて、野川の合流口から水路敷に入っていくことも出来た。
こちらは2008年6月、糟嶺神社脇の流路。鴨が水浴びを出来る程度には水が流れている。水質もよさそうだ。
野川との合流口はさらに水路が掘り下げられ、護岸がその分高くなっている。
合流口を上から見たところ。水が流れている時期はこのように、平らな斜面になった水路全体を水が下っている。
河口の辺りだけは狛江市が野川の北岸まではみ出していて、入間川が調布市と狛江市の境界となっている。
野川が現在の流路になったのは1967年。それより以前の野川は現在の流路よりもよりもだいぶ南西を流れていた(現在は緑道となって残っている)。したがって入間川もそれまでは、ここではなくもっと南東、小田急線の喜多見駅の南側で野川(正確には六郷用水)に合流していた。
現在の合流口より先の区間は、野川の右岸(西)側、狛江市東野川から世田谷区喜多見にかけて、ほぼ暗渠や水路跡として残っており、辿ることができる。そちらは次回に紹介するとして、今回は野川合流地点より北側の水路跡・暗渠を2ヶ所ほど取り上げよう。
上げ堀のコンクリート蓋暗渠
まずは前回、今回の冒頭と断片的に取り上げてきた入間川のあげ堀の下流部にあたる暗渠を。現在、甲州街道以南の入間川の流路はその流れる谷底の西側の縁に沿って流れているが、それに並行してかつて谷のほぼ真ん中に入間川の「あげ堀(分水路)」が流れていた。谷底はかつて「入間たんぼ」と呼ばれる水田となっていて、それらに水を引き入れるための用水路がこのあげ堀だ。水田が埋め立てられて宅地となった今では、あげ堀のほとんどは埋め立てられて道路となっているのだが、一部の区間だけは忘れられたようにコンクリート蓋をされた暗渠となって残っている。
暗渠は入間川左岸側、国分寺崖線の下に出来た小さな河岸段丘の縁に沿って曲がりくねりながら続いている。
人が通ることが滅多にないからなのか、コンクリートの蓋は随分ぞんざいに架けられていて、隙間がかなり開いている。隙間から見える水路はかなり浅く、中には水気はなかった。
暗渠は住宅地と再開発を待つ崖線下の空き地の間を300mほど続いた後、普通の道路の歩道に姿を変え、消える。たまたま残ってきたこの暗渠、隣接する空き地のマンション(?)建設が再開したらもしかすると道路になってしまうのかもしれない。
太古の入間川流路の痕跡?
続いて、入間川の西側に並行する浅い谷に残る水路の痕跡をとりあげよう。
武蔵野台地上の浅い窪地に流れを発した入間川は中央高速道付近の一旦開渠となる辺りから谷を深く刻んで降り始め、甲州街道いなんで再度開渠になる辺りで国分寺崖線の下に出る。現在はその後崖線下の一段高くなった段丘上を流れて、野川沿いの低地に出ている。だが、段彩図をよくみるとその段丘上、入間川の流路の南東側にもう一つ浅い谷筋があるのがわかるだろう。
そのあたりを拡大したのが下の段彩図。つつじヶ丘駅付近から、入間川の谷から二手に分かれた浅い谷が始まり、糟嶺神社の辺りで再度入間川の谷に接近して野川沿いの低地に繋がる。地形から推測すると、かつて入間川がこちら側の谷を流れていた時期があったのではないだろうか。また、狢沢から流れだした川が、甲州街道の北側では入間川に繋がらずに、入間川に並行してこちらの谷を流れていた可能性も考えられる。ただ、谷の規模を考えると前者のほうがより可能性が高いように思われる。
この谷筋に、かろうじて水路の痕跡が残っている。図にピンクで記したラインがそれだ。これを下流側から辿っていく。
まずは図のピンクのラインの末端の少しだけ北側。かつての水路がクランク状に折れ曲がっていた地点。道端にガードレールで仕切られた未舗装の地面が残っている。これがかつての水路の痕跡だ。水路は写真左下から来て右下で直角に折れ曲がり、ガードレールの切れる少し先、自転車が止まっている辺りで再度直角に右に折れ下っていた。自転車の先にも水路跡の路地が残っている。
下の写真は同じ場所から上流側を見たところ。直角に曲がる地点に暗渠に使われていたとおもわれるコンクリート蓋が3枚だけ重ねて置かれている。その先、道路を横断する部分はアスファルトが敷き直されている。
敷き直されたアスファルトの先にはこのように水路敷が半ば私有化されて残っている。
その水路敷を上流側に回りこんで下流方向を見てみると、このように路地が続いてきている。
更に上流側。もはや路地すら無くなってしまうが、畑の中に水路跡のような窪地が続いている。写真は上流側から。左手前から右奥の雑木林の中に、窪地が続いている。下流側に行くほど窪地がはっきりしているようだ。
畑の窪地の先には、住宅地の裏手に痕跡が残っている。写真の正面の家の左側、畑地に挟まれた雑然とした空き地がそれだ。ここが確認できる最上流端で、これより先は一旦痕跡がなくなったのち、道路となっている。延長線上を北上していくと、つつじヶ丘駅の南側にも痕跡らしき細長い路地があるが、資料からは水路跡かどうかの確認はとれなかった。
この水路は戦後しばらくまで残っていたようだ。周囲は畑地だし、湧水があったわけでもなさそうなので、実際は川というよりは雨水などを流す溝渠だったのだろう。ただ、そこは明らかに谷筋となっていて、かつて流れていた川の成れの果ての姿であったのあろうと思われる。
さて、次回は延々と続いてきた「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズの最終回として、入間川の失われた下流部について取り上げる。シリーズ全体の参考文献もあわせて最後にリストアップしたい(記事としては別立てとするかもしれない)。
(つづく)
実篤公園からのガードレールは怪しいと思ってましたが、やはり川跡だったのですね。
コンクリート蓋のところはツイッターでも拝見しましたが、すごい景色ですね。
近いうちに必ず行ってみたいと思います。
コメントありがとうございます。コンクリート蓋のところ、いつまで残っているのかわからないので、ぜひ近いうちに行ってみてください。
復元されている昔の水路の姿もそうですが、この辺りは23区よりも一層歴史が旧く、かつその痕跡が残っているんですね……。現在の私たちの感覚の向こう岸にある「昔」がうかびあがってくる感じがして、いつもわくわく読ませてもらっています。
コメントありがとうございます。この辺りは江戸時代以前、中世の歴史がいろいろと絡んでくるのが面白いです。宅地化されたのが比較的最近であることもあるのでしょうね。
つつじヶ「丘」というのはこの川に挟まれた台地の部分のことなんですかね。
おっと東京「暗渠」散歩の作者様ですか? 本持ってます。
つつじヶ丘駅北側の入間川沿いの低地に、1960年代初頭に京王電鉄の手により開発された分譲住宅「つつじヶ丘住宅」に由来します。地形とは何の関係もありません。
詳しくは「謎解き仙川用水その4ー入間川から金子方面導水路まで~深大寺用水と入間川を紐解く(13)」の記事をご参照ください。