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東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?新刊「東京「暗渠」散歩改訂版」重版出来!


by tokyoriver

白子川於玉ヶ池支流(仮称)と幻の遊園地「兎月園」

練馬区の北辺、板橋区と和光市との境界付近にある広大な公園「光が丘公園」は、南に接する光が丘団地とあわせて、かつての米軍住宅「グラントハイツ」さらにその前は陸軍成増飛行場だった土地だ。
小学生の頃神保町三省堂で買った2万五千分の1地形図では、光が丘一帯は確か「旧グラントハイツ」と付記された広大な空き地として描画されており、興味を惹かれる場所だった。1983年の夏に地下鉄有楽町線が営団成増まで開通したとき、クラスの友達をそそのかして城北中央公園に復元されている竪穴式住居と、光が丘の空き地に最近出来たという「光が丘公園」を見に行った。その翌春には、クラスのみんなで光が丘公園の原っぱに卒業記念お花見会をしに行った。その年の春の東京は記録的豪雪で、桜はひとつも咲いていなかったけど。
高校3年生の早春、大学受験が終わり卒業式までの、宙ぶらりんの日々にもこの原っぱを訪れ、出たばかりの仲井戸麗市の「絵」を聴きながら空を眺めていたことを思い出す。その原っぱの北側に、白子川へと注いでいた川の暗渠があることは、たぶんその頃には知っていたように思う。
そして、かつてその流域に川を堰き止めて作った池を囲むように「兎月園」と呼ばれる遊園地があったことも、働きはじめる頃までには古地図で確認はしていたはずだ。ただその後も、光が丘公園を訪れることはあっても、暗渠を訪れる機会には巡り合わなかった。
ひと月ほど前の晴れた日曜日の夕方、光が丘周辺を訪れた帰路に、ふとこの暗渠のことを思い出した。ちょうど地図も手許にある。時間も少し余裕がある。そんなわけで成増駅までの道のりを少し遠回りして、この暗渠を下ってみることにした。部分的に整備された暗渠は短いながらメリハリがあった。そしてふとした会話から「兎月園」が、東武鉄道による事業ではなく、一個人の事業から始まったということを知り、俄然興味が湧いた。そんなわけで、現地を訪れた後に兎月園について調べてわかったことを織り交ぜながら、川を源流から下って記事にしてみようと思う。

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川の名前は、そのかつての水源池から仮に「白子川於玉が池支流」としておこう。まずは現地の段彩図を(google earth経由「東京地形地図」をキャプチャ)。
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於玉が池支流は、光が丘公園から東武東上線成増駅/有楽町線の地下鉄成増駅にかけての成増台に深い谷を刻んで流れていた。谷が白子川に向かって西に折れる辺りに兎月園があった。東側には百々向川(ずずむきがわ)の谷が、西側には「旭町はんの木緑地」となっている谷が刻まれている。

於玉ヶ池

かつての川の源流だった「於玉ヶ池」は現在の光が丘公園敷地内の北にあった。「於玉ヶ池」を旭町2丁目アパート付近にも池があった時期があり(下の地図で2つならんだ水色の池)、これを「於玉ヶ池」としているネット情報もあるようだが、これは昭和初期の地図でのみ確認できる別の池で、詳細は不明だが一帯の区画整理と関係があるのかもしれない。
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「みどりと水の練馬」によれば、明治9年の下土支田村「明細書上帳」に、東西11間(20m)、南北21間(38m)、周囲66間(120m)の「於玉が池」として、明治7年の「東京府志料」に、周囲60間(109m)ほどの「御玉が池」として記録が見られるという。古地図を見ると池より更に南側にも谷筋が続いていたようだ。だが一帯は1943年、陸軍成増飛行場建設にあたって大規模に造成され、於玉ヶ池は谷ごと埋め立てられた。
飛行場は戦後アメリカ軍に押収され、1948年、広大な米軍住宅地「グラントハイツ」になった。このころの航空写真を見ると、於玉ヶ池支流の上流部が現在残るルートに付け替えられ、グラントハイツの敷地に少し食い込んでいる様子が映っている。敷地内に降った雨水や埋め立ててなお残る湧水などの排水路にしていたのかもしれない。
ちなみにグラントハイツの下水は、花岡学院(後述)のあった谷筋(現はんの木緑地)を潰してつくった下水処理場に集められ、谷筋にそって白子川に注がれていた。
グラントハイツは1950年代末から部分的にわずかな返還が始まったものの、すべての土地の返還は1973年にようやく終了した。広大な敷地の南側は都営住宅と公団住宅の団地(1983年入居開始)、そして北側が光が丘公園(1982年部分開業)となった。

於玉ヶ池支流暗渠を下る

光が丘公園の北側出口を出てすぐに、水路跡の道は始まる。最初は車道だが、少し北上した旭町2丁目アパートの脇から、シンプルな車止めの立てられた暗渠道が始まる。左右を見ると谷となっていることもはっきりわかる。
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暗渠はまっすぐ北に向かっていく。両側の土地とはわずかながら高低差があり、コンクリートブロックの踏み台なども見られる。
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この辺りの水路がまっすぐなのは、昭和初期の区画整理事業(赤塚第1、第2土地区画整理組合)にあわせて直線化されたものと思われる。一帯は風光明媚な住宅地として売りだされたという。
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暗渠が西に向きを変える前後の区間は、遊歩道として整備されている。婦警さんのイラスト付き看板がたっていた。
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川沿いの、台地上から谷底にかけての斜面が一部、草地で残っていた。午後の陽射しを受けて長閑だ。
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カーブの区間が終わると遊歩道も終わり、傾斜のきつい暗渠となる。横切っている道は「兎月園通り」。そして通りの向こう側はかつての兎月園の敷地だ。大正後期から終戦直前までのわずかな期間存在した、高級料亭を有する敷地一万坪の遊園地。暗渠を辿った時点ではその程度しか知らなかった。
かつては写真の地点から右へ行くと正門が、すぐ左には長屋門があった。長屋門は勝海舟の赤坂邸から移設したもので、何と現在でも石神井の三宝寺に移設されて現存しているという。
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兎月園通りから暗渠を下って、いったん平坦になった辺りから上流方向を振り返ってみる。道路の幅が不均等で不自然だ。この辺りに池があり、ボートや屋形舟が浮かべられていたという。池の広さは1500平米というから長さ50〜60m、幅30m〜40mくらいのものだったのだろう。
写真の右側、フレームから外れた辺りの池畔には立派な藤棚があったようだが、この藤棚は現在練馬東小学校に移設され、区の文化財になっているそうだ。
池の北側には兎月園の中核である料亭本館があった。和洋折衷の建屋には座敷があり、宴会場や結婚式場としても使われたという。そして池の周りの斜面には梅、桔梗、萩、竹、紅葉と名付けられたいくつかの数寄屋造りの離れが点在し、それらの間の移動には担ぎ駕籠が使われたという。
練馬区のサイトには当時の池の写真が掲載されている。おそらく池の南側から北に向かって撮影されたもので、奥に見える建物は離れとおもわれる。
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暗渠の谷の南側を下る階段。かなり急で、高低差もある。池の南側の丘の上には催事広場があって、運動場として使われたり、相撲の巡業やボクシングの興行もあったという。また、その更に南側には小動物園があって、ポニーや猿などが飼われていて、一角には簡素な遊具もあったようだ。
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かつて池だったところを抜けていく暗渠。アスファルトの継ぎ目が水路を示している。
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その先は立ち入れない、雑草生い茂る暗渠となっていて、猫が日向ぼっこをしていた。兎月園の池は川をこの辺りで堰き止めて水を溜めていたようだ。池から流れでる水は5mほどの滝になっていて、写真の右奥のあたりには露天の岩風呂を有する浴場があって、その滝を眺められるようになっていたという。今の風景からはとても想像がつかない。
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暗渠は通り抜けられないので、先ほどの階段を登って西側に回りこむ。谷を横切る道からは谷筋の窪地がはっきりわかる。この道の右側の手前から奥に見えるマンションの手前までが兎月園の料亭部分の敷地だった。
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坂を下って、先ほどの雑草暗渠を下流側から眺めてみる。道路や両側の土地は盛土がされているのだろう。暗渠の底はかなり深い。写真左側のあたりに四阿があって、その奥にはさきほどの浴場、そして右側の奥には宴席用の離れのひとつがあったという。
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下流側の暗渠は再び遊歩道となっている。道路から本来の川面の高さまで階段で下っていく。左岸側には台地から谷底への斜面が迫っている。下った右側の家の庭には小さな池があるようだった。
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途中で上流側を振り返る。左岸(写真右側)の擁壁の上は盛土をしてマンションとなっているが、かつては鬱蒼とした森林の斜面となっていて、その南側の台地の上には兎月園のテニスコートがあった。
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暗渠はバス通りを横切り、更に下っていく。
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通りに面した北側の台地の斜面には出世稲荷が鎮座している。境内にはかつて兎月園にあった大鷲神社の祠も祀られている。
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暗渠はどんどん下っていく。川だった頃、その水流は速かったのだろう。奥にはもう白子川沿いの段丘斜面の緑が見える。
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暗渠の道は白子川に突き当たって終わる。正面、柵の下のコンクリートの真ん中には切り込みが入っていて、取り外し可能な板がはめられている。
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柵から下を見ると、かつての暗渠の出口を塞いで、新しい弁付きの排水口がつけられていた。先ほどの板には取っ手が付いている。暗渠上の雨水を白子川に流すためだろうか。
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白子川に合流するまでの数メートルの区間だけは、水路が残されていた。於玉ヶ池支流唯一の開渠区間といっていいだろうか。川の向こうは埼玉県だ。
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こうして於玉ヶ池支流散策を終え、途中まで引き返して兎月園通りを成増駅に向かう帰路、「兎月まんじゅう」なるものを売っている和菓子屋さんを見かけた。店内に入ってまんじゅうを購入したついでに、おかみさんにまんじゅうの名前の由来を聞いてみた。それをきっかけに伺えた兎月園や於玉ヶ池支流の話は予想外に面白いものだった。

・1963年頃に兎月園通りに引っ越してきた。グラントハイツがすぐにも返還されると不動産屋に言われこの場所を選んだが、実際には返還までにそれから10年かかった。引っ越してきた当時は、家の裏手はニンジン畑で、肥溜めを肥料にしていた。

・池袋の方から来る年配の方々からは、ときおり、子供の頃遠足で兎月園に来たという話を聞く。引っ越してきた当時は兎月園のことにはあまり興味はなかったが、今になって考えると、もっと昔を知るお年寄りの話を聞いておけばよかったと思う。

・兎月園は東武鉄道ではなく、一個人が始めた。この一帯は妙安寺の土地で、兎月園も寺の土地を借りていた。なので、兎月園がなくなってからもあまり急には開発は進まなかったようだ。なので、少し前までは庚申塔などの石造物など、兎月園の痕跡が残っていた。

・兎月園に関する資料はなぜかほとんど残っていないらしい。残されている資料でも、該当する箇所が墨塗りになっているものもあると聞いた。成増飛行場などの軍事施設と関係があるのかもしれない。東条英機もお忍びで兎月園に来ていたそうだ。

・成増地域では唯一の茅葺き家屋が近くにあって、経営者の子孫が今でもそこに住んでいる。ただ、兎月園のことを聞いても話してくれないという。

・今では川も暗渠になってしまったが、もともと湧水が豊富な土地で、暗渠沿いで今でも湧水を引いた池がある家もある(途中で見かけた家か)。その家では最近池を小さくしたのだが、光が丘公園の池に住んでいるシロサギが鯉を狙いに来るので、入れないよう小さくしたのだという。

こんな話を聞けば、兎月園への興味が膨らまないわけがない。帰ってから数日後、図書館で古地図や資料を漁ることとなる。行き着いた資料のひとつ「月刊光が丘」に掲載された「幻の兎月園を探る」と題した記事には、和菓子屋のおかみさんに聴いた話の一部も含めて、兎月園のことが詳しく記されていた。

兎月園のなりたち

兎月園は1921(大正10)年に、貿易商花岡知爾の手によって開設された会員制農園「成増農園」がその前身だ。華族など、都心の裕福層の日曜菜園として作られた農園には、週末になると会員が訪れた。周囲に休憩できるような施設が何もないことから敷地内に茶店がつくられ、これが発展した料亭を中核にして兎月園が開設されたという。設備の拡張とともに兎月園はやがて行楽地として賑わうようになった。料亭のほか、今まで述べてきたようにボート池、浴場運動・催事広場、猿、熊の檻、放し飼いの兎、ポニーなどのいた小動物園、有料の遊具を配した小遊園といった施設、そして花園(百花園のようなものだろう)や映画館まであった。正門前には茶店、仕出しや、土産物屋が並んだという。池袋からは東上線のほか、直通のバスも運行され、和菓子屋のおかみさんも言っていたように、遠足の行き先にもなっていたという。
一方で料亭は、華族、政治家、財界人などの利用も多く、高級料亭としての位置づけを保っていたようだ。利用者の中には秩父宮殿下もいたという。

東武鉄道とのかかわり

「月刊光が丘」では、東武鉄道の社史をみる限り、東武鉄道と兎月園との関わりは見いだせないとしている。確かに「月刊光が丘」刊行時点での最新の社史「東武鉄道65年史」には兎月園については一言も触れられていない。一方で、東武鉄道による事業としている資料もある。
1998年に刊行された「東武鉄道百年史」を確認したところ、「会社として取り組むだけの規模をもたなかった2つの事業」のひとつとして、東武鉄道としてではなく、根津嘉一郎の個人事業として、兎月園の記述があった(もうひとつは「朝霞大寺院」)。花岡知爾が1921(大正10)年にはじめた「成増農園」を、成増付近の発展のため共同事業として再生したと記されており、この記述からは、出資はしたのだろうけど、やはり東武鉄道や根津の事業とは言えないだろう。
ちなみに初代根津嘉一郎は1940年に死去し、社長業を継いだ長男の藤太郎(当時27歳)が嘉一郎の名を襲名している。

兎月園の敷地

兎月園の敷地は大正末期から昭和前期の地図には必ず載っていて、その知名度が高かったことを伺わせる。ただ、その敷地の範囲は地図によって異なっている。地主の妙安寺の境内までがその敷地として描かれている地図もあった。詳細な地図でない場合はあまり正確には描かれていないのだろう。
その中で「光が丘の地歴図集」という郷土史料地図に、敷地内の施設の配置まで詳しく記した「成増農園と兎月園の復元図」が載っていた。それを参考に現在の地図に主な施設をプロットしたのが下の地図だ(暗渠探索本文中の施設の位置も、この復元図を参考に記した)。
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興味深いのは「大宴席」とも呼ばれた離れの場所だ。前の方で紹介した練馬区のサイトにある写真の真ん中に映っている大きな茅葺屋根の建物が、おそらくその大宴席だ。一方、現在のgoogle mapの空中写真を見ると、ちょうどこの辺りに茅葺屋根の家屋がある。和菓子屋さんのおかみさんの話にあった、子孫の方が住んでいるという家屋だ。つまり、兎月園の建物が今でも残っているということになる。
なお、当時の地図によっては、テニスコートの北側、出世稲荷の前を通る道までの於玉ヶ池支流流域も兎月園としているものもある。戦前の地形図や戦後直後の航空写真を見ると林だったようだが、実体はどうだったのだろう。いずれにしても兎月園と同じく、妙安寺の土地なのだろう。

兎月園のあった時期

兎月園は当時豊島園と並ぶくらい知名度があったのだが、その存在した正確な期間ははっきりした記録が残っていないようだ。開設時期については1921(大正10)年の成増農園開園以降であることは間違いないが、「みどりと水の練馬」では1924(大正13)年、「光が丘の地歴図集」では1925(大正14)年以前、「月刊光が丘」では1926(大正15)年以前としている。
一方閉園については「みどりと水の練馬」では戦争による営業悪化で1942〜43(昭和17〜18)年に、「月刊光が丘」や「東武鉄道百年史」では戦争の影響で1943(昭和18)年に、「光が丘の地歴図集」では1944(昭和19)年で成増飛行場造成の影響によるものと推定している。果たして閉園の時期と理由はどうだったのだろう。
「月刊光が丘」では1943年閉園とする一方で、成増飛行場の特攻隊が、特攻の前夜に兎月園で楽しんでいたとの聞き書きも記されている。特攻隊が組織されたのは1944年秋であり、とすると閉園は成増飛行場開設後となる。表向きの閉園の後も、料亭が成増飛行場との関連で密かに営業を続けていたという可能性はないだろうか。おかみさんの話していた黒塗りの資料のこととあわせると、そこには何か秘密めいた気配も感じられなくはない。

花岡学院

そして兎月園のあった於玉ヶ池支流の西側、現在はんの木緑地となっている谷には、花岡知爾の兄で小児科医の花岡和雄が大正14年に寄宿制の私立小学校「花岡学院」を開設していた。広大な敷地内はモダンな校舎や体育館、湧水を利用したプールなどが点在し、鷺の池と呼ばれた湧水池や、そこから流れ出す「ほたる川」など自然も豊かで、夏期には林間学校も開校されていた。
しかしこちらは激化する戦況の中で経営が立ち行かなくなり、神田区立武蔵健児学園となった。そして終戦後は米軍に接収され、湧水や川は潰されてグラントハイツの汚水処理施設が作られてしまった。施設では大量のハエや悪臭が発生し、60年代には大きな問題となったという。

兎月園創設者の花岡知爾、そしてその兄で花岡学院創設者の花岡和雄。この二人は華岡青洲の甥の血筋にあたるという。知爾氏は海外渡航経験もある貿易商、和雄氏は小児科医と、当時では進歩的な人たちだっただろう。そして兎月園も花岡学院も、そういった二人の資質が具現化した施設だったように思える。そしてそれらの試みは戦争の荒波の中で挫折してしまった。
花岡知爾は、兎月園の閉園と同時期に家族も亡くし、失意の中で1945年に亡くなったという。

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白子川於玉ヶ池支流の暗渠沿いの静かな街並み。於玉ヶ池は完全に光が丘公園の敷地の下に埋没してしまっているし、兎月園の名残はおろか、成増飛行場やグラントハイツの面影も、今ではほとんど感じられない。ただ、兎月園通りの名前と、兎月まんじゅうが、そこにかつてあった幻の遊園地の存在を証言しているのみだ。買ってきた兎月まんじゅうを、兎月園のことを想いながら食べてみた。町の和菓子屋さんの、懐かしいような味がした。
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主要参考文献

東武鉄道社史編纂室編 1998「東武鉄道百年史」
株)協同クリエイティブ編 1992 「幻の兎月園を探る」『月刊光が丘 1992年10月号』所収
練馬区編 1989「みどりと水の練馬」
山之内光治 2007「光が丘の地歴図集」改訂増補
山之内光治 2008「光が丘昭和時代の地図帳」
山之内光治 2008「練馬村の変遷図集」

日本地形社 1940 「三千分の1地形図 成増」『帝都地形図第1集』所収
日本統制地図株式会社 1941「最新大東京明細地圖町界丁目界番地入」
日本地図株式会社 1947「新東京区分図板橋区詳細図」
Commented by lot at 2012-06-08 09:19 x
地元の方のお話、おもしろいですね。それと、「兎月園」も。この時代の○○園、○○苑的な娯楽施設っていくつか耳にしますが、こんな場所での当時のゴラクって、どんなものだったんだろうなあといつも想像しては楽しんでいます。男の人はスーツに帽子、女の人は着物に日傘。暑いけど冷房もなく、でも木陰から爽やかな風が流れてきてちょっとだけ煮炊き物の匂いが混じってる…。一度味わってみたかったです。
Commented by 猫またぎ at 2012-06-08 09:34 x
ああ、来られましたねー。この暗渠。
2年前まで私の最寄り暗渠だったところです。

V字谷がけっこう鮮やかな暗渠、というのが私の第一印象で、光が丘のすぐ北の大通りのところですでにかなりへこんでいますよね。
私のブログのV字谷特集でも取り上げました。
http://ankyoneko.exblog.jp/14345402/
(上のページの画像の7、8枚目)

あと、グラン「ド」ハイツとグラン「ト」ハイツの表記が混在してますが、グラント将軍(のち大統領)にちなむので、正しくは「ト」の方ですよね。
余分なことを言ってしまってすみません。
細かいことが気になる性分でしてお許し下さい。
Commented by 谷戸ラブ  at 2012-06-08 09:54 x
兎月園という行楽地の謎めいた部分!
離れを駕籠で移動?とか粋な面や明るい行楽地としての部分がある一方で・・・
かん口令でも敷かれたのでしょうか。余計に好奇心を掻き立てられます。
花岡学院の谷戸も興味深い形ですね。確か「メドールの会」さんが出された資料で当時の学園生活や敷地の形状等を読んだ事があるのですが、涌水以外のお話も面白かった記憶があります。
冒頭でtokyoriverさんの思い出話が書かれていたのが、今回面白かったです。開園当初はまだ今日みたいに木が鬱蒼としていなかったのかな・・・そしてうさぎのお菓子、食べるのが申し訳ないくらい可愛いですね。
Commented by nama at 2012-06-08 14:45 x
すっごい面白かったっす!

まずは猫またぎさんと同じく、わたしも「グラントハイツ」と呼んでいるので、表記が混在しているのはちょっと気になっていましたw 「グランドハイツ」って書かれているものも結構目にしますものね。

兎月園のことは知りませんでした。「幻の」とか言われちゃうと俄然食いつきます。黒く塗りつぶされた文字とか眺めてみたい!もとが「農園」っていうのもちょっと面白いです。こういう昔の行楽地、温泉が湧いた場所とか、有名な寺社の周辺とか、釣堀発祥とか、なんか水にかかわるものが多い気がするんですが、農園・・・(ちょっと艶めかしさに欠ける)。でも川の近くではあるんですねぇ。
Commented by tokyoriver at 2012-06-08 23:46
lotusさん。
当時の遊園地、今のものとはずいぶん違っていたんでしょうね。特に兎月園の高級料亭は何となく椿山荘を想像しました。
Commented by tokyoriver at 2012-06-08 23:48
猫またぎさん。
ほんとだ、V字谷特集の記事に、暗渠ともどもご紹介されてましたね!グラン「ト」ハイツのご指摘ありがとうございました。校正で直したはずなんですが、全然ダメダメでした。。。
Commented by tokyoriver at 2012-06-08 23:50
namaさん。
グラン「ト」が正しいです。他にも同じ接続詞が続いてたりするし、今回校正がダメダメです。すみません。産地直送の契約農園みたいなのが昭和初期ちょっと流行ったみたいです。
Commented by tokyoriver at 2012-06-08 23:54
谷戸ラブさん。
花岡学院については全然知らなかったのですが、ネット上を含めいくつか詳しい情報がありました。光が丘、始めて訪れたころは木々も低くまばらだったし、まだあちこち整備中で荒涼としてました。植物の成長って早いですよね。
Commented by リバーサイド at 2012-06-09 19:22 x
先日、白子川を下っていった時に、この流出口に気づきました。
気になったのですが、白子川を下るのが目的だったため、しぶしぶ、通過するだけに留めておいたのですが、上流はこんなになっていたのですね。
兎月園の記事も興味深く読ませていただきましたが、途中の雑草暗渠も気になりました。
白子川の湧水に魅せられ、今後も折を見て白子川の支流を攻めてみようと思っていたところに、この記事。参考にさせていただきたく思います。
Commented by tokyoriver at 2012-06-10 22:12
リバーサイドさん。
白子川沿いの湧水、いいところたくさんありますよね。「八の釜憩いの森」の湧水はもうすぐ潰されてしまいます。その前に行きたいです。
Commented at 2012-07-18 16:23 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by tokyoriver at 2012-07-19 23:45
n52 さん。
コメントありがとうございます。戦前の和洋折衷の家屋、興味深いです。おそらく区役所よりは図書館の郷土資料のコーナーの方が資料が見つかるのではないでしょうか。今回私が使用した資料はいずれも都立中央図書館の蔵書にあったものですが、練馬区の中央図書館にいけば地域の古い地図や現地の方からの聞き書きのような資料ももっとあるのではないかと思います。
Commented by RASAL at 2012-12-22 03:07 x
白子川の暗渠を扱ったHPはいくつかありますが、どれも興味深く見させていただいてます。ずーっと地元に住んでおりますが、もっと枝分かれしてた記憶があります。今でも川沿いでは井戸水が出るお宅もあります。近代化して流れを変えられてしまう川、今は暗渠になっているのか枯渇してしまったのがわかりませんが、かつての川の形跡が後々残るように残して欲しいものですね。
Commented by tokyoriver at 2012-12-22 23:03
RASALさん。
コメントありがとうございます。改修前の白子川はいくつかに分流して流れていたようですし、支流も数多くありましたが、今は悉く暗渠化されてしまっていますね。
Commented at 2013-09-25 21:01 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2016-05-02 03:16 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by tokyoriver at 2016-05-02 06:55
serena さま。
旭町2丁目の2つの池は、昭和初期刊行の陸地測量部(現在の国土地理院)1万分の1地形図にて確認できます。大正期以前の地形図には記載がなく、またその後も一帯の区画整理で池はなくなっていますので、一時的なものと推測しています。
Commented at 2016-05-03 02:00 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by beerboy47 at 2016-09-04 11:41 x
先日、大宴会場があったとされる敷地を外からすこし覗いてみたのですが、中に石塔?二つとその間に大きなお地蔵さまがありました。出世稲荷にある狛犬(兎月園にあったとされる)と同じようなかんじだったので、兎月園の遺物では?と思います。
Commented by tokyoriver at 2016-09-11 09:31
beerboy47さま

コメントありがとうございます。返信がおそくなりすみません。何やら残ってますよね。最近、茅葺きの家の屋根が普通の屋根に変えられてしまったようで、残念です。
Commented by まき at 2016-09-25 18:10 x
今やっている石神井公園ふるさと文化館の企画展で兎月園が取り上げられていました。花岡家の協力を得たようです。
Commented by tokyoriver at 2016-10-05 22:37
まきさま。
情報ありがとうございます。間に合えば観に行ってみたいと思います。
Commented by 街道より緑道を歩きたい at 2021-05-05 15:54 x
先日、城北中央公園から田柄川暗渠上の田柄川緑道を辿り、終着地の光が丘・秋の陽公園まで歩きました。次回は光が丘公園から白子川を辿って東大泉の源流まで歩こうと思い、こちらの記事を拝読しました。とても面白かったです。ありがとうございました。
兎月園、謎に包まれている分想像をかき立てますね。丁度練馬区の「練馬わが町資料館」というサイトの「古老が語るねりまのむかし」にて花岡学院と兎月園について記載されていました。ご存知かと思いますが、
花岡学院 https://www.nerima-archives.jp/column/1616/
兎月園 https://www.nerima-archives.jp/column/1617/
花岡学院は全寮制の養護学校で、健康の回復を図りながら、同時に体力に合わせた教育を行なったとのこと。今の時代でも類を見ない病児教育の最先端ですね。
今後も素晴らしい記事楽しみにしております。
by tokyoriver | 2012-06-07 23:31 | 白子川とその支流 | Comments(23)