水田のなかった谷戸。宿湿化味の谷の川跡を辿る。
2013年 01月 11日
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
練馬区内を西から東に向かって流れる石神井川の右岸(南)側には、かつて数多くの支流が台地に小さな谷戸を刻んでいた。過去の記事でも「練馬白山神社支流」、「豊島弁財天支流」、「向山ケ谷戸支流」(いずれも仮称)と何箇所か取り上げてきた。今回たどった川跡もそんな谷戸を流れていた川のひとつだ。流域の旧字名「宿湿化味」から仮に「宿湿化味支流」とでも呼んでおこう。
「宿湿化味」は「シクジッケミ」と読むようだ。他に石神井川の北側、現在の城北中央公園の西側一帯がかつて「湿化味(しけみ、しっけみ、しっかみ)」もしくは「前湿化味」という小字で、石神井川に架かる橋の名前に今でも「湿化味橋」として残っている。練馬区のサイトでは「宿湿化味」を石神井川沿いの低湿地を指す珍しい旧地名として紹介している。
そのような由来を聞くと、「宿湿化味」の谷も水が豊富で水田に利用されていたのではなかろうかと思うのだが、明治以降の地形図を見る限り、谷筋に水田が開かれた様子はみられない。わずか200mほどしか離れていない西隣りの谷戸には水田があったし、東隣りの羽沢の谷戸にも水田が連なり、あまつさえ千川上水から分水さえ加えられていたのにである。両隣の谷戸は水田として利用されていたのに、この宿湿化味の谷は違っていたのはなぜなのだろうか。水量が足りなかったのか、土地が適さなかったのか。
ちょっとだけ調べてみると「シケミ」に関係有りそうな地名「ケミ」につきあたった。「ケミ」は信州に多い小字名で、湿地や沼地、水辺や水田の中にある林地を示すという。その語源は不明だが「シッケミ」という言葉に関係があるのではないかという。そして興味深いのは「ケミ」には特に、
「日陰や湿地となっていて、田畑として使用できないような土地」
を指すことがあるという(以上は塩入秀敏 (1998)「ヤチ地名とケミ地名 : 長野県の湿地地名方言について」『上田女子短期大学紀要 21号』による)。「宿湿化味」の地名もしかするとそのような語源を持つのではないだろうか。
川跡を調べていると、水が湧くような土地であっても泥地や湿地となっていて耕作に適さず、水温も稲の生育には低すぎて水田に適さなかったという場所に時折行き当たる。地名との関連は不明だが、きっと「宿湿化味」の谷もそんなところだったのだろう。
余談だが、千葉県の「検見川」はこの「ケミ」系の地名で、また、花見川の「花見」も、もともとの読みは「ケミ」だったという。
さて、「湿化味」という地名のイメージがなんとなく掴めたような気になりながら、川跡を下流側から遡っていこう。
その先はいよいよ練馬区名物「水路敷」路地のお出ました。路上にくっきり書かれた青地に白文字の主張。細さといい寂寥感といい申し分ない。
さて、先ほどのバイクフェンスの反対側には普通に住宅が建っていて、一見これより上流に水路があったようには見えないのだが、古い住宅地図などには更に上流に続く水路が描かれている。何か痕跡が残っていないか気を張りながら歩いて行くと、ぽっかりと開けた真新しい更地があった。そしてその奥に何やら怪しい気配があったので、ちょっと失敬して覗いてみた。
川や水路は本来公有地であり、それは暗渠化されても変わらない。そこを利用したり建物を建てたりするには払い下げを受けるのが正しい手順なのだろうが、実際にはこうしてなし崩し的に私有地化されていくケースもあるのだろう(もしかしたらここもきちんと手続きを経ている可能性もなくはないけれど)。
そのようにして上流側と下流側を塞がれたこの開渠は、入り口も出口もなく、誰も見ることの出来ない水路としてこの場所に残されてきたのだろう。今回たまたまその姿が見えるようになったわけだが、更地に建物が建てば再び人知れぬ水路に戻っていくことになるのだろう。
さすがにそれより上流はもはや何の痕跡もなかった。昔の住宅地図には写真の道路沿いに水路が描かれているて、すぐ近くがその上流端となっている。おそらくその水路は、自然河川というよりは、本来の川の上流部を排水路として延長した公共溝渠だったのだろう。
石神井川の排水口から遡って、一旦姿を消したのち、再び徐々にその痕跡を明確にし、最後には開渠となったのち、ぷっつりとその痕跡を消した水路跡。次々と変化する宿湿化味のカワノボリは、その地名とも相まってなかなかに味わい深い探索となった。
道路の反対側も開渠が残っていたのですね!
これは大発見な気がします。
私が最後に訪問した時も更地でしたが、中に入ろうとは思いませんでした・・・。
そのうち建物が建ってしまうでしょうから、本当に貴重な発見だと思います。
ありがとうございました。
そうなんです。何か痕跡でも残っていないかと目を皿にして探していたら見えました。
江古田の地盤の緩い土地はエンガ堀上流部でしょうか。昭和40年代まで牧場が残っていたとは、今の風景からは信じられないですね。貴重なコメントありがとうございました。
あ、なるほど、失礼しました。