神田川笹塚支流(和泉川)(4)幡ヶ谷の名無し谷戸支流
2013年 01月 27日
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・神田川笹塚支流(和泉川)(1)「萩窪」の源流と幡ヶ谷分水
・神田川笹塚支流(和泉川)(2)最上流部・北側水路
・神田川笹塚支流(和泉川)(3)最上流部・南側水路
「神田川笹塚支流」もしくは「和泉川」という呼び方
暗渠者の間で「神田川笹塚支流」もしくは「和泉川(いずみかわ)」と呼ばれるこの川は、杉並区和泉の地にその流れを発し、新宿区西新宿五丁目で神田川に合流する全長3kmほどの流れで、1960年代半ばに暗渠化されている。
川は本流の他、並行する傍流や右岸側の台地に谷を刻む数多くの支流、そして玉川上水からの分水もあって、流域も杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区にまたがっており結構な規模があるのだが、なぜか固有の呼び名がなく、流路の大半を占める渋谷区の行政資料や地域資料では長いこと単に「神田川支流」という呼称で記されてきた。神田川の支流は他にもたくさんあるわけで、固有名詞というにはにはやや無理があるし、無個性で味気ない。
一方でその暗渠は遺構が多く変化にも富み、数多くの暗渠者を引き寄せてきた。彼らの間ではいつしか「神田川支流」ではなく「神田川笹塚支流」と場所が分かる形で呼ばれるようになり、現在その呼び方は一般的にも定着してきているように思える。
そんな「神田川支流」に「和泉川」という呼び方があったらしい、と判明したのは6、7年ほど前だっただろうか。庵魚堂さんの「世田谷の川探検隊」に当時あったBBSで、中野区の戦前の資料で見つかった名前として報告された「和泉川」の名称はかなり反響を呼んだ記憶がある。現在では和泉川の名前も少しづつ浸透している。本サイトではそんな経緯を踏まえて「神田川笹塚支流(和泉川)」として記載してきた。
この「中野区の戦前の資料」の掲載箇所が長らく見つけられなかったのだが、今回記事を記すにあたって再度資料を確認して見たところ、やっと1943年に刊行された「中野区史上巻」において、中野区の地形をなす丘陵の説明の項に「幡ヶ谷丘陵」を分かつ河川として北に神田川、南に和泉川と記されているのを見つけることができた(ちなみにこの資料では桃園川を中野川としている)。ただ、この名称は他の資料には見当たらず、実際に現地でそう呼ばれていたのか、便宜上文中でそう記していたのか定かではない。いずれにせよ、川の流域に含まれていない中野区の資料だけに川の名前が記されているということは興味深い。
唯一名前の無い、幡ヶ谷の谷
下の地図は神田川笹塚支流(和泉川)流域の段彩図だ(google earth経由東京地形地図にプロットしたものをキャプチャ)。青が河川の暗渠/川跡、赤が用水・上水の暗渠/川跡、水色が現存する河川、桃色が現存する用水路・上水路となる。
源流部や支流の流れる谷戸には鶴が久保、萩窪、牛窪、地蔵窪、小笠原窪、とそれぞれ地名がついている。しかし、今回記事にする幡ヶ谷の支流の谷(上の地図で黄色い矢印で指したところ)には、古地図や資料をざっと調べた限りでは、地名がみあたらない。水田として利用されていなかったこともその理由かもしれないが、短いながら比較的はっきりした谷筋なだけにこれまた不思議な感じもする。ひとまずここでは「幡ケ谷支流」とでも呼んでおく。辿るに先立って、幡ヶ谷付近を拡大した段彩図をあげておこう。
川は玉川上水の近くに発し、京王線、甲州街道、水道道路を横切り和泉川に合流している。上流部は僅かな窪地となっている程度だが、中・下流の谷筋は幅が狭く、そして高低差がはっきりしている。そしてかつて淀橋浄水場に水を送っていた玉川上水の新水路だった「水道道路」が谷を横切ってダムのように塞ぎ、スリバチ界隈の方々が呼ぶところの「一級スリバチ」ができている。さっそく下流部から遡っていこう。
水道道路北側の深い谷
和泉川本流の暗渠を遡って行き、六号通りを過ぎて中幡小学校の前で暗渠が車道と合流する地点が、幡ヶ谷支流が和泉川に合流していた場所だ。写真の手前は和泉川の橋跡で、右から左に向かって川が流れていた。そして写真左奥の住宅地の中から出てくる路地がかつての幡ヶ谷支流だ。
玉川上水新水路と、谷に落とされた水車用の水
和泉川流域に水車が登場したのは明治初期だったという。流域は全体的に高低差が少なかったため設けられた水車も3箇所のみだった。そのうちの一つの中幡ヶ谷水車が移設され、新水路の水を利用するようになった。写真の通り高低差が大きかったため水流が早く、水車の回転も速かったという。水車は大正末まで20軒ほどの農家に共同利用されていたという。
専ら浄水場への送水を目的とした新水路から水が落とされていたというのはにわかには信じがたいが、わざわざ水車を移転したのだから事実なのだろう。そうだとするならば普通に考えればこの写真の地点で水が落とされていたことになるだろう。
なお、玉川上水新水路は関東大震災の際には堤防が決壊し幡ヶ谷一帯に洪水をもたらした。これを機に住民からは水路の撤去要請の声が高まり、甲州街道の拡幅時に淀橋浄水場への送水管が地下に埋設され1932(昭和7)年に新水路は廃止された。しかし土手はその撤去途中で戦争に突入し、大部分はそのまま残って水道道路となっている。
水道道路南側のスリバチエリア
甲州街道の南側の痕跡と玉川上水
これだけ玉川上水と幡ヶ谷の支流の水源が接近していると分水が引かれていたのではないかという気にもなるが、先に記したとおり一応湧水があったようだ。ただ、上水がその湧水を涵養していた可能性は否定できないだろう。
幡ヶ谷支流の探索はこれにておわり。名無しの支流ではあるが、玉川上水新水路からおそらく唯一の分水を受け、そして旧水路からはその漏水を受け、と新旧ふたつの玉川上水と縁深かったこの川。果たして呼び名はあったのだろうか。いつしか「和泉川」のようにその名前が発見されてもおかしくない、個性のある川であったように思う。
【主要参考文献】
「幡ヶ谷郷土誌」 堀切森之助編 1978 渋谷区立渋谷図書館刊
「東京市渋谷区地籍図下巻」1935 内山模型製図社刊
「渋谷の水車業史」 渋谷区立白根記念郷土文化館編 1986 渋谷区教育委員会刊
「中野区史 上巻」 1943 東京市中野区役所編・刊
(おまけ)山下橋の傍には、かつての橋の親柱がひっそりと保存されていた。