品川用水流末の断片と点在する赤煉瓦
2013年 02月 07日
「しながわ観光協会」のサイトによれば、この段差の高い方の道は、品川用水の末流の痕跡だという。品川用水では低地を越えるために築堤を設けたり、迂回するために斜面の途中に段を設けて水路を通したりといった事例がしばしば見られる。ここもそれらのひとつなのだろうか。
さて、この水路跡の上流部と下流部はどうなっていたのだろうか。そもそもどちら側が上流なのか。古地図や地籍図を手当たり次第に確認してみたのだが、水路沿いの道を描いているものはいくつかあっても、それに並行する水路を描いた地図はひとつも見つからなかった。そしてこの水路に関する記述も、先にあげたサイト以外では見つからなかった。目黒川から100mほどしか離れていないこの場所で、低地を迂回させた目的は何だったのだろうか。そもそもここはほんとうに水路跡なのか。
いずれにせよ、品川区内でこのように品川用水の痕跡が残っているところはほとんどない。用水路は基本的には尾根筋を通っていたため、埋め立てられると地形的に跡形もなくなってしまうからだ。
また、特に東海道線以東については、古くから開発の進んだエリアであることも痕跡の消滅に拍車をかけたのだろう。例えばこの痕跡の少し西からJR東海道線の脇にかけてを敷地にしている「日本ペイント」は1896(明治)年以来この地に工場を構えている。
日本ペイントと東海道線を挟んで並ぶ「三共製薬」の工場も明治後期にすでに操業していた。これらの工場は「碑文谷道」と呼ばれる古くからある道沿いに位置している。
碑文谷道沿いから離れたエリアは、大正初期までは水田が残っていたようだ。その水源は主に品川用水の下蛇窪村・北品川宿・南品川宿・二日五日市村方面の分水路によっていたと思われる。分水路の流末はいく筋にも分かれ、それらの水田を潤しながら目黒川へと注いでいた。水田は大正後期には宅地化で消滅し、水路もなくなってしまった。ただ、その一部は路地や道路として断片的に残っている。
この南品川宿方面への分水は、ゼームス坂下で向きを北に変え、ゼームス通りが碑文谷道にぶつかるまで通り沿いを流れていたのだが、そのぶつかる地点のすぐそばに、冒頭の水路跡がある。水路跡はこの分水路の流末だったのだろうか。
線路の西側には、JR東京総合車両センターの広大な敷地が広がっている。かつての国鉄大井工場だ。1915(大正4)年に、広大な水田を潰して作られた。その水田の中で何本かに分かれていた品川用水は、その際に付け替えられたり埋め立てられたりして跡形なく消えた。
最後に今回のエリアの段彩図を(google earth経由で東京地形地図をキャプチャしたものにプロット)。地図に示した水路のうち、目黒川以外はすべて現存していない。また濃い青は痕跡が確認できるもの、水色は推定のルートとなる。それらのうち黄色の矢印で示した3か所が今回とりあげた水路跡だ。左上に描かれた、冒頭にとりあげた水路跡のルートをみると、台地の末端の縁を、低地を避けるように通っていることがよくわかるし、そこに至る南品川宿方面分水も、浅間台の裾を経由したのち微高地を選んで北上していていることがわかる。そして、JR東京総合車両センターが大規模な造成地の上につくられていることも一目瞭然だ。
車両センターの西側に再び断片的に痕跡を残す水路跡については回を改めてとりあげることにして、今回の記事はひとまずここまで。
ここいらへんは、拙宅の近くなので、何となく見かけた風景のような気がしていますが、このような意味があるとは存じませんでした。いつも勉強になります :-)
特に、赤レンガの壁、とても気になるので、今度いってみます~
コメントありがとうございます。お近くだったのですね。この辺りの品川用水の痕跡はなかなかわかりにくいですよね。赤レンガは他にも旧東海道沿いの裏道に点在してました。
本としては、池上裕子「宿・市と村」『考古学と中世史研究7 中世はどう変わったか』p.126、これは再掲で、『平成九年度品川区文化財調査報告書』の付図からとったもの、原本は北品川宿名主宇田川家の所蔵だとそうです。
推定された水路と比べると大体そのようですが、他の水路もあったみたいです。なかなか面白いです。最も東側の末端部は、もしかすると、品川宿の西側の目黒川屈曲部を改修した際に、ある程度つくり直したのかもしれません。
興味があれば、お試し用に(笑)図像のファイルをお送りできます。メールででも連絡ください。
絵図でみるかぎり、用水の一番東がわの水路は京急の線路下にかなり重なるみたいです。痕跡がとぎれるのはその影響ではないでしょうか。最後はさらに少し東にずれて、目黒川南岸にあった池(現在の新馬場駅の東側ぐらい)に流れ込んでいたようです。
コメントありがとうございます。京急の東側の水路は確か地籍図でも断片的に確認できたのですが、今や痕跡がなく場所の比定が難しいですね。図像、観てみたいです。
実は以前、大井から北上する古代・中世の道痕を探していたときに見つけたのですが、絵図なので現在の道路との照合がむずかしく。この記事読んだときに、「あれ、なんか関連する史料をみたことがある」と思ったのですが、なかなかどの本か思い出せず(笑)。
道路のルート復元は大井町車両基地の巨大な空白に悩まされて、まだうまくいかないのですが、水路から攻めてみると、もっとよく復元できるかもしれませんね。続編、楽しみにしています~~。