釣堀となった溜池から流れ出していた小川ーエンガ堀向原支流(上流部)を辿る
2013年 02月 27日
この窪地が上の地図で示した谷戸の谷頭で、かつて「田頭(でんがしら)」と呼ばれていた。そこには湧水を蓄えた溜池があり、谷の下流部の水田の水源となっていたという
古い地形図を見ると、溜池があったのは大谷口2−35付近。資料によれば上板橋に3箇所あった溜池のうちの2つで面積390坪ほどだったというが、地形図には1つしか描かれていない。
一帯の地名は暗渠を境に「大谷口」と「向原」に分かれる。向原では、干ばつの年には雨乞いが行われ、榛名神社の水を運びこの溜池に入れたという。榛名神社への講は他の地域でも聞いたことがあるが、100km以上離れた土地の山への信仰は何やら不思議な感じだ。谷頭から台地上に上がった千川通り沿いには、今でも雨乞地蔵が残されているという。google mapのストリートビューでもその姿が確認できるのだが、最近この地にマンションが建っており、現在も健在なのかは不明だ。
溜池は昭和初期には釣り堀になり、戦後もしばらく営業していたようで、「大谷口の釣堀」として親しまれていたという。信仰では向原なのに、通称が大谷口となったのはなぜなのか気になるところだ。
先の「鯉供養の碑」の裏面には昭和12年と刻まれておいたから、釣堀と何らかの関係があったのだろうか。水源となっていた湧水は近くを通る千川上水の暗渠化と同時期に涸れたといい、そのことから湧水は千川上水の漏水を受けていたと推測されている。
goo地図で1940年代末の航空写真を見ると、地形図に描かれた溜池と同じ場所に、中島のある池が確かに確認できる。池の中島には弁財天が祀られるのが普通だが、ここには不動尊が祀られていて、現在は八雲神社に移設されているという。
そして、先の鯉供養の碑がある辺りにもプールのような長方形の池や、それに隣接する台形の池の姿が認められる。昭和初期の地形図にも、昭和30年代の地図にも描かれていないこれらの池は、釣堀のために開削されたものだったのだろうか。1960年代初頭の航空写真ではこれらの池は消滅しており、中島のある溜池だけが写っている。溜池が埋め立てられたのはいつ頃なのだろうか。
参考資料:
板橋区地名調査団編 1995「文化財シリーズ第81集 板橋の地名」
板橋区教育委員会編 1986「文化財シリーズ第52集 いたばしの河川」
あのマンションの辺りに池があったことは、
時層地図で確認できましたが、まさか釣り堀だったとは・・・。
千川上水からの落水もあったのでは…とも思いましたが、
付近が工事中だったこともあり、痕跡はわかりませんでした。
その辺り、どうだったのでしょうね。
執筆準備段階でいろいろ調べてる時に、偶然会社の同僚でこの向原中出身という方を見つけました。ちょうど、校内に「希望の泉」ができた翌年に入学したそうです。「そういえばそういう池があったかも」という認識だったそうですが、なんだか身近に生き証人を見つけた気分でしたw
コメントありがとうございます。貴重な証言ありがとうございます!その場所はエンガ堀と呼ばれた川の源流にあたります。古地図等では釣堀は確認できないので、ある一時期に存在していたのだとおもいますが、湧水や川と関係があったのではないかと思います。
暗渠マニアほどではないですが、地形を読んで昔の川を推測したりするのが好きな昭和生まれですw
この近くの大谷口1丁目生まれで、6才まで住んでいました。
その後も祖父・叔父の家があったことから、数年前亡くなるまで毎年帰っており、思い入れがある場所です。
もう家はありませんが去年も帰省(?)して、まさしくこの川の痕跡を訪ね歩いたばかりです。
記憶では昭和50年代半ば頃までは、釣り堀がありました。
[大谷口から向原の谷筋へ屈曲して下りる道の右側=ブログの写真で「水田か池かわからない」とある場所です]
幼少時にはすでに川はなく、釣り堀跡と谷間地形から暗渠だと推測しましたが、当たりでした!
両親(共に大谷口出身)に聞くと、この川のことは覚えていませんでしたが、旧.向原住宅の辺りが田圃だったこと・そこを流れるエンガ堀(この名も初聞きで、「大川」と呼んでいたとか?)やそこに橋がかかっていた事は聞きました。
いろいろ探してこのHPを見つけましたが、鯉供養碑や「むか中(向原中学)」の泉など、元地元民でも知りませんでした。
素晴らしい情報をありがとうございます♪
これをもとにまた探訪してみようと思います。
貴重な証言ありがとうございます。釣り堀、比較的最近まで残っていたのですね。大川、という呼び方はここに限らずどの地域でも、そこで相対的にいちばん大きな川を呼ぶ名称としてあったようですが、エンガ堀もそう呼ばれていたというのもまた貴重な証言です。重ねてありがとうございます。
お返事ありがとうございます。
釣り堀跡地について調べなおしてみましたら、私の記憶違いで埋められたのはもっと古いことでした。
まず大谷口から向原へ向かう谷間を横切る道の左側(上流=谷頭部)は私の記憶前の昭和45年にマンションが建っていたようです。
また右側(下流部)にあった釣り堀も昭和49年に埋められてマンションが建ったようです。
釣り堀のあったことはよく覚えているのでもっと新しい時期かと思っていましたが、意外と古かったです・・・
それだけ印象深かったのでしょうね。
この大谷口辺りは昭和30年代は畑の広がるのどかな場所だったようで、釣り堀目当てにここへ引っ越してきた釣り好きな友人の話など、亡くなった祖父や叔父・父から色々話を聴いています。
近年立て替えられた大谷口の水道タンク、やはり近年まであった大谷口上町の貧民街(部落と呼んでいた)、このエンガ堀支流や千川上水跡の暗渠etc・・・
今年も生地帰還を兼ねて探訪してみようとおもいます。
30年ほど前まで向原に住んでいた者です。
確かにエンガ掘り上流に釣り堀があり、
大雨が降ると魚が下流に流れてきて、
魚とりができ楽しかった記憶があります。
しかし、実は釣り堀より道を挟んだ下流に
25メーターの民間営業のプールがありました。
夏になると近所の子供はみんな通っていました。
水が汚くて中耳炎になった記憶があります。
プールはあるとき突然終了してしまいました。
今は集合団地が立っています。
コメントありがとうございます。航空写真でプールのような四角い池が見えているものがありましたが、実際にプールだったんですね。貴重な証言です。