東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

カテゴリ:渋谷川とその支流( 17 )

諸般の事情で半年以上更新が滞ってしまいましたが、ぼちぼち再開していこうと思います。久々の記事は、最近一部で話題となっている、渋谷駅前の渋谷川暗渠のお話を。

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渋谷川やその水系の暗渠については、本サイトのもととなった1997年版の「東京の水」でとりあげ、その後2005年の「東京の水 2005 Revisited」でも詳細に辿った。また、暗渠本「東京「暗渠」散歩」でも1章を割いて記した。そんな風に個人的に馴染み深い水系だ。
一方で、近年のブラタモリや「アースダイバー」、地形ブームなどで、渋谷駅前、稲荷橋の下で暗渠区間から姿を現す渋谷川は、今や「暗渠」の代名詞とも言える風景として知られるようにもなった。
下の写真は2005年撮影の、渋谷駅南側のビルの谷間を流れる渋谷川。水はほとんど流れていない。
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■渋谷川の暗渠の中

2013年夏、テレビ番組の撮影で、この渋谷川の暗渠の中に少しだけだが潜入する機会があった。3月に東急渋谷駅が地下に移設され、6月には駅周辺の再開発事業計画が正式決定、いよいよ駅前の再開発が本格的に始まる時期。これを逃すともう中に入る機会は訪れないかもしれない、ということもあり引き受けた案件だった。

長靴を履き、稲荷橋の暗渠開口部脇から護岸を川底へと降りる。
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最初の写真でご覧のとおり、通常このあたりはほとんど水が流れていない(その理由は後述)のだが、この時は水かさが10cm以上はあった。前日の大雨の影響もあるだろうが、川底には藻も繁殖していて最近恒常的に水が流れていることを示している。渋谷駅周辺の工事の影響で地下水や漏水が出ているのだろうか。
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入り口から数十m進んだ暗渠内の様子。暗渠潜入自体が番組のテーマではないので、あまり奥までは潜入しなかったが、この先、宮益坂下のかつて「宮益橋」が架かっていた地点までは遡ることができるはずだ。
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暗渠内は蒸し暑く、暗く、そして少し下水のにおいがする。護岸や天井が比較的きれいなのに対して水路内はだいぶ荒れており、真ん中にはコンクリートの壁の残骸のようなものが残っている。これについても後述する。
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■蓋を外された暗渠

さて、その後渋谷駅前の再開発工事はいよいよ本格化し、旧東急渋谷駅の解体が進み、そして今年2014年1月、とうとう渋谷駅前バスターミナルの下を流れる渋谷川暗渠の一部の蓋が外された。
下の写真は渋谷駅とヒカリエを結ぶ通路の上から現場を眺めたもの。ぽっかりと穴が空いている。写真左奥、高速道路と歩道橋が画面から切れる辺りが、稲荷橋の暗渠の出口だ。
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穴に近づいてみる。川底には暗渠入り口と同じく水路をふたつに分ける壁の残骸が見える。下水の臭いが漂うが、水はあまり無い。
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この風景はtwitterなどでもかなり話題となり、実際に現地を訪れ確認する人も少なくなかったようだ。なぜ水がないのか、護岸は川が地上にあった頃のものなのか、といった話題もみかけた。渋谷川を知る者にとっては釈迦に説法になるだろうが、それらの解答を紐解いてみよう。

■渋谷の川跡と下水幹線

まず、あらためて、渋谷駅周辺エリアの渋谷川水系について見てみよう。下の地図は標高を表す段彩図に、かつての渋谷川及びその支流をプロットしたもの。青い線がかつて流れていた川、赤い線はかつての用水路、水色の線は現存する渋谷川だ(google earth経由「東京地形地図」にプロット)。渋谷はその名の通り谷底にあり、その谷底で宇田川と渋谷川(穏田川)が合流し南下していく地点となっている。
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これらの川は、一部は昭和初期に、そして大部分は1960年代に暗渠化され、下水幹線に転用されてしまった。ではなぜ下水の水が渋谷川の開渠区間に流れだしてこないかというと、暗渠から開渠に切り替わる直前で、別の下水幹線に下水が流されているためだ。

以下の図は、東京都下水道台帳より渋谷駅周辺の渋谷川に関連する下水幹線をgoogle mapにプロットしたものだ。
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図の右上から流れる渋谷川の暗渠は、現在下水道「千駄ヶ谷幹線」となっている。蓋を掛けられたかつての川には下水が流されているわけだが、宮下公園の北端で水路内に堰が設けられており、下水は明治通り下を流れる「渋谷川幹線」「古川幹線」へと迂回していく。なので、これより下流部の暗渠には、ふだんは上流からの水は流れず、大雨が降って下水の水かさが堰を越えた時だけ、あふれた水が雪崩れ込むようになっている。

一方で、渋谷川最大の支流、宇田川も、その暗渠は「宇田川幹線」として下水に転用されている。こちらも井の頭通りの入口付近に設けられた堰で公園通り〜ファイヤー通りの下に迂回し、同じく宮下公園北側で渋谷川幹線・古川幹線に接続されている。

こうして、通常は宮下公園以南の暗渠とそれに続く開渠区間では、地下で染みだした水や雨水だけが流れる、ほとんど水がない状態になっているわけだ(渋谷と恵比寿の中間、並木橋より下流は再生水が導水されていて、常時水が流れている)。

■2回めとなる流路の引越し

このように渋谷川の暗渠の大部分は下水道扱いとなっているのだが、宮益橋から稲荷橋までの区間240mだけは、最近まで開渠区間と同じく川として扱われていた。
宮益橋寄りの区間には1934年、東横百貨店(東急東横店東館)が川の上に建てられ、川は暗渠となった。一方、銀座線から稲荷橋までの区間は、上流部の暗渠化とほぼ同時期の1961年に暗渠化された。その際に東急渋谷駅の拡張や、首都高速3号渋谷線の用地を確保するため、流路の変更工事を行ったうえで蓋がかけられた。

実は、今回蓋が開けられたのはこの流路変更後の区間となる。したがって、そこはもともとの渋谷川開渠のルートではなく、暗渠用に改めて開削された水路だ。
近くからの写真に写っている、護岸縁のワッフル状の窪みは、おそらく暗渠の蓋の梁の接合部の痕跡だ。そして、水路の真ん中を分ける護岸は、最初の流路移設・暗渠化の際に、水の流れを制御していた仮水路の護岸の残骸なのである。

そして、53年ぶりに地上に姿を現したこの水路は、渋谷駅の拡張のため再び移設される運命にある。

下の地図には、(1)1961年までの流路、(2)現在の流路、そして(3)今回の再開発で付け替えられる予定ルートをプロットした。赤い矢印が今現在見られる開削地点となる。

数年前より検討されてきた渋谷駅周辺の再開発に関連する都市計画は、2013年夏に東京都により正式決定された。これにより渋谷駅東口には2020年を目処に、43階建て、高さ230mの駅ビルが建つこととなった。そして、現在の暗渠ルートはこのビルを横切ることとなるため、ルートの変更が行われることとなった。工事期間は5年ほど。1961年の移設区間だけでなく、東急東横店地下のルートもあわせて東寄りに移設され、あわせて地下には雨水貯留施設が建設されるという。
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この移設工事に先立ち、すでに2009年6月、暗渠の川扱いの区間がひそかに下水道扱いに変更されている。これは再開発をスムーズに進めるためだ(川扱いのままだと河川法が適用され、川の上部空間の利用に制約がかかる)。したがって、厳密に言えば現在では渋谷川は稲荷橋より下流の開渠区間だけとなり、「渋谷川の暗渠」は公的には存在しないこととなる。私が13年夏に潜入した時、そこはすでに下水扱いとなっていたわけだ。

■変わり続ける風景

明治通りを横切る歩道橋の上から、蓋を開けられた暗渠を見下ろす。目の前の東急東横店東館は2013年3月に閉店し、周りを囲まれ取り壊しを待っている状態だ。その下をくぐる戦前からの暗渠も、今回の付け替えで取り壊される。
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馴染みのある風景が変わっていくのは寂しいが、この風景もまた、その前の風景を塗り替えてつくられた風景であった。暗渠が駅の下に潜る付近の渋谷川には、大正時代末期まで「宮益水車」とよばれる大きな水車が設置されていた。18世紀末につくられたこの水車は、明治初期には「三井八郎右衛門」(おそらく三井財閥中興の祖、8代高福)らの所有となり、水車経営の利益を充てて1875年、渋谷区初の公立小学校が設立・運営された。
この小学校(のちの渋谷小学校)は、現在ヒカリエの建つ敷地付近にあった。それらは今は何の痕跡もなく、眼前の風景からはまったく想像ができない。

ひとつづきの歩道橋の南側からは、稲荷橋、そして開渠の渋谷川を眺めることができる。こちらの風景もかつては全く異なるものだった。
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歩道橋の架かる国道246号線が通っている敷地には、かつて橋の名前の由来となった「川端稲荷(田中稲荷)」があって、銀杏などの木々が生い茂っていたという。その風景は、大正期にこの近辺に住んでいた大岡昇平の自伝小説「幼年」では以下のように描写されている。

「当時は境内の鬱蒼たる大木が渋谷川の流れに影を落としていた。「川端稲荷」の名にふさわしい、水辺の社であった。殊に夏は涼しいから、鳥居の傍の茶店で氷を売っていて、荷車曳きや金魚売りが休んでいる姿が見られた」

現在の川は3面張りのコンクリートで固められ、大木の代わりに高速道路の高架と歩道橋、そして暗渠の蓋と幾重にも構造物が重なり、左右も細長いビルに挟まれていて、100年前の風景を再生するような手がかりはない。
ここの区間の渋谷川は、再開発に伴い再生水の流れる水景施設として整備されるという。もしかすると今よりも多少は100年前の風景に近づくのかもしれない。ただ、現在のこのある意味殺伐とした風景もまた、渋谷の一風景として今を生きる人の一部には懐かしい風景として記憶に刻まれるのではないか。そしてその風景は、徐々に忘れられていくのだろう。



主要参考文献:
・「下水道台帳」東京都下水道局
・「渋谷の水車業史」渋谷区立白根郷土文化館
・「「春の小川」の流れた街 ・渋谷」渋谷区立白根郷土博物館
・「渋谷駅中心地区基盤整備方針」渋谷区
・「幼年」大岡昇平
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by tokyoriver | 2014-02-06 00:00 | 渋谷川とその支流 | Comments(8)

宇田川源流の湧水池

今回は、「東京ぶらり暗渠探検」の取材時の写真から、いわば「お蔵出し」として、「宇田川」源流の湧水池を取り上げてみよう。前回に引き続き渋谷川水系の源流である。この湧水池は小田急線代々木上原駅から北東におよそ500m、渋谷区西原のとある独立行政法人の施設の敷地内にひっそりと現存している。東京の水 2005 Revisitedで記事にした当時は遠くから見ることしかできなかったのだが、2010年、「東京ぶらり暗渠探検」の記事では編集T氏のご協力により写真を掲載することができた。今回の写真はその際のもの(2010年1月撮影)と2005年の取材時(5月撮影)からセレクトしたものであり、現状とはやや異なっているかもしれないがご容赦を。

まずは段彩図で宇田川上流部を見てみよう(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。宇田川は渋谷区西部、淀橋台に枝状にいくつも分かれて刻まれた谷「代々木九十九谷」に湧き出す小川の水を集め、JR山手線渋谷駅北側で渋谷川に合流していた、渋谷川最大の支流だ。現在はそのすべてが暗渠化されいている。九十九谷北側の台地上には玉川上水が流れていて、上水を挟んで反対の北側には、いくつもの小川が流れを発し、神田川笹塚支流(和泉川)に注いでいた。玉川上水はちょうど神田川水系と渋谷川水系のの分水嶺を縫うように通されていたといえる。

宇田川源流のすぐ近くにある西原小学校校歌(1955年制定)では
「みなもと清き渋谷川/細くはあれど一筋に/つらぬき進めば末遂に/海にもいたるぞ事々に/精魂かたむけ 当たらん我らも」
と歌われている。地形や流れこむ支流の数を考えると、本来の水量は渋谷川上流(穏田川)よりもこちらのほうが多かったのではないかと考えられ、この校歌のように宇田川=渋谷川の源流と捉えられてもおかしくないだろう。宇田川の支流には唱歌「春の小川」のモデルとして知られる河骨川や、初台支流(初台川)などがあるが、宇田川本流とされる流れは九十九谷の西端、「狼谷(大上谷)」と呼ばれていたH字型の谷から発していた(図の黄色い丸枠内)。このH字の左上の支谷にあるのが、今回取り上げる水源池である。
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谷頭側の窪地を横切る道路。右側が池のある施設の敷地で、深く切れ込んだ谷となっている。奥には新宿副都心のビル群が見える。
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施設は台地上から谷の斜面にかけて建てられている。台地上から敷地南東側の谷底を望むと、木陰に池がわずかに見える。
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木々に囲まれた谷底に降りると、ひっそりと佇む細長い池がその全貌を現す。かつての狼谷は斜面を森に囲まれ、谷底は水田となっていた。そして大正~戦前にかけて一帯は森永製菓創業者の屋敷となり、湧水を利用した池が2つつくられたという。現在ある池はこの池のひとつの名残だ。
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埋め立てられてもおかしく無いような小さな池。よく今まで残ってきたものだ。
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池の東側からは水路が続いている。川のはじまりだ。
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東京都の1991年の調査では一日40立方mほどの湧水が確認されているが、水がしっかり流れ出しているところを見ると、今でも水が湧いているのだろう。
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柵越しに、隣りの別の施設内にある丸い池が見える。こちらの池も屋敷だった頃からあったものだが、だいぶ整備されている。水はいったんこの池に溜まった後、更に奥に流れ出している。奥へと続く水路が見える。
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隣接し、台地上にある代々木大山公園から、水路の先にある人工的な池を見下ろす。写真奥の木陰から出てくる水路が、前の写真奥に見えていた水路の続き。写真左下の角あたりから画面外左にかけて、森永屋敷時代、もうひとつの池があったようだ。
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池の先にも代々木上原駅方面まで深い谷が続いている。写真奥の谷底左側が人工的な池のあるあたり、そして右側に向かって谷が下っている。
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宇田川はかつてこの先、谷底を代々木上原駅方面まで下っていた。かつて西原から初台にかけての一帯は「宇陀野(うだの)」と呼ばれており、ここから流れ出る川ということで宇田川の名がついたといわれている。「宇陀」「宇田」のつく地名は全国にあり、語源にも諸説あるようだ。ここの場合は湿地帯や河川流域の湿地を意味する地名だったと思わえる。宇田川の谷を囲む斜面は昭和初期に高級住宅地「徳川山」として造成され、その際に流路は道沿いに改修されたという。現在では駅北側から始まる暗渠路地までの区間、痕跡は全く残っていない。

渋谷川水系は、渋谷駅以南の本流以外全てが暗渠化されているのに、その水源は各地で残されているのが面白い。新宿御苑然り、神宮外苑然り、初台支流の湧水然り。そして宇田川の水源もこのように人知れずひっそりと残っている。
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by tokyoriver | 2011-10-07 00:38 | 渋谷川とその支流 | Comments(4)
みちくさ学会に「明治神宮「清正の井」から流れだす川とその先の暗渠。」と題した記事を書きました。渋谷川の明治神宮南池支流です。基本的には「東京の水2005 Revisited」の記事の該当セクションのリライトではありますが、最新の写真に入れ替え、新たに判明した事実などを反映させて全面的に書き換えています。非常に話題のつきないエリアで例の如く写真も文も多めになってしまいましたが、それでも載せ切れなかったものを以下に上流側からご紹介します。基本的な情報はみちくさ学会記事に記しましたので、そちらをお読みの上、どうぞ。

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最初に段彩図で川の全体像を(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。画面左上が明治神宮の敷地で、そこに食い込む谷戸から右下(南東)に向かって通じている青いラインが今回記事にした明治神宮南池支流。途中山手線の土手が谷を塞いでいるのがわかるだろう。その北側にある神宮東池からもかつて川が流れだし、竹下通り周辺では南池支流と平行して渋谷川へと通じていた。2つの川の間がちょうど谷戸の谷底で、水田が広がっていた。南池支流は飴屋橋で二手に分かれ、ひとつは南下していた。
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ではまずは、記事で少し触れた、清正の井からの流れの西側にあって菖蒲田につながるもうひとつの水路から紹介しよう。明治神宮本殿の西側、西参道をみると途中がわずかに凹地になっていることがわかる。その左右に柵が写っているのがお分かりだろうか。これが水路に架かる橋だ。
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近づいてみるとこのように小さいながら石の欄干も設けられている。
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下を覗くと水は流れていない。だが落ち葉は積もっておらず、土には礫も混じっていて、時折ここを流れる水があることがわかる。写真は下流側を見たものだが、上流側にも同様に欄干があって、水路は森の中に曖昧に消えていっている。雨が降った後などに流れが生まれるのだろう。
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こちらは清正の井のすぐ下流側の地点。写真右から左下にかけて、清正の井から流れ出した、丸太の土留めの水路が通っている。右端の緑が濃いところが菖蒲田だ。写真ではややわかりにくいが、その奥にほぼ並行するように先の水路の続きが通っていて、菖蒲田の反対側に接続されている。
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次は同じく記事で触れた、代々木公園のバード・サンクチュアリの池からの流れ。神宮御苑の西側を抜ける道からその水路を垣間見ることができる。写真右下、暗渠を抜けた水路から水が流れ、南池に注いでいる。公園の池は地下水を汲み上げたもので、見ての通り水質は悪くなさそうだ。戦前までは代々木公園は「代々木練兵場」で、今の池のあたりには調整池があったという。明治42年、練兵場が開設された際、雨が降ると濁った水が谷戸を流れて直接南池に流れこむという事態が度々発生し、問題となった。その解決策として、雨水を一旦貯めて泥を沈殿させる調節池がつくられたという。
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続いては原宿駅東側の暗渠区間で載せられなかった写真を。

まずは「ブラームスの小径」の由来となったブラームス像。脇の飲食店が設置しているようだ。
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続いて、「フォンテーヌ通り」の由来となった噴水(フランス語でフォンテーヌ)。こちらは商業ビルの中庭に設けられている。
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病院の塀の黒いプレートに刻まれた「モーツァルト通り」の標識。背後の玄関(電信柱左側)上にモーツァルトのレリーフがある。もしかして左側の坂道のほうが「モーツァルト通り」?
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続いては、明治神宮東池と東郷神社からの川を。

まずは東郷神社の神池。一帯は、東郷神社が設立される以前は鳥取藩主であった池田氏の邸宅となっていて、当時の池は800坪あまりの広さがあり、冬には百羽を越える鴨の群れが来訪していたという。池は湧水を利用したほか、明治神宮東池からの川の水も引き込んでいた。東池からの川は池のある窪地とは丘を隔てて一本西側の谷筋を流れていたため、丘を暗渠で抜けさせ、滝をつくって池に水を引いていたという。
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東郷神社境内に残る「神橋」。かつてはここから川が流れ出て、東池からの川に合流していた。
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神橋の先には川の痕跡はないが、竹下通りの南側に怪しい私道がある。勝手に上下水道工事などをするなという標識がいくつも並ぶ。
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少し南下すると、明治神宮東池からの川跡の路地が現れる。東池からの流れは暗渠化時に別ルートに流されるなど大幅に改変されていて、川跡がはっきりとわかるのは竹下通り以南からとなる。
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明治通りを越えた先にも路地となって残っている。
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最後に、飴屋橋で南にわかれた支流界隈を。

この支流の痕跡は明治通りの開通によって大部分が消滅してしまったようで、はっきりしない。穩田商店街など、暗渠のような雰囲気の路地はいくつかあって、それぞれ風情がある。下の写真はそれらの路地の一つ。道の中央にコーンが置かれている。私道だろうか。コーンの先には道の真中に雨水枡があった。
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渋谷川暗渠のY字路。支流はこの近辺で左側から渋谷川に合流していた。写真右側が渋谷川の暗渠だ。左側に別れる道もやや怪しいが、川跡かどうかは不明。
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渋谷川の暗渠を少し下った地点にある、有名な戦前の消火用給水孔。東京府の紋章が見える。この場所には「八千代橋」が架かっていて、1960年代の暗渠化後も橋の構造が残っているが、給水孔はその橋の上に2ヶ所ある。川沿いから水を取るのが困難で、欄干越しだとホースが折れてしまうので橋上に設置したのだろうか。
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他にもいくつか紹介したい場所があるが、本編よりも写真の枚数が多くなってしまったので、この辺で終わりとしておこう。
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by tokyoriver | 2011-09-23 10:40 | 渋谷川とその支流 | Comments(2)
「みちくさ学会」「「新宿の秘境・玉川上水余水吐跡の暗渠をたどる」という記事を書きました。みどころの多いルートで掲載しきれなかったスポットも多いので、こちらで補完してみます。流路の全体像や詳しい説明は「みちくさ学会」の方に記しましたので、そちらの記事とあわせてお読みいただけたらと思います。
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まずは流路の段彩図を(段彩図は数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。画面左上から右下にのびているのが渋谷川源流の谷。現在は新宿御苑内の5つの池となっていて、いちばん東側の池のはじっこから渋谷川が流れ出している。そして、中央右寄りから下にのびているのが玉川上水余水吐。深い谷筋となっているのがわかるだろう。御苑内の玉藻池もこの谷の枝谷だ。玉藻池の反対側で少し台地上にはみ出しているのが水車のための分水路。
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玉川上水の終点、四谷大木戸の水番所跡に立つ、四谷区民センターから余水吐を望む。正面の森が新宿御苑で、余水吐森と住宅地の境界を、画面下から左奥に流れていた。
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その区民センターの敷地内に、怪しげな囲いがある。囲いの前には黒いプレート。玉川上水の説明が書かれている。背後のコンクリート壁は新宿御苑トンネル。
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囲いの中にはこのような水門のバルブが2基。このバルブのある地点は、まさに玉川上水から、余水吐が分岐していた場所だ。現在は雨水路扱いとなっている玉川上水の暗渠が、下水幹線扱いとなっている余水吐の暗渠に接続する地点となっているようだ。
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ここには1991年に新宿御苑トンネルが開通するまで、玉川上水から余水へ水を落とす水門が残されていて、その前後のわずかな区間だけ、玉川上水の水路が開渠となって残っていた。下は「江戸の水 玉川上水と新宿ー新宿歴史博物館企画展図録」(新宿区教育委員会篇 1993年)掲載の写真。右側写真は奥が新宿駅側で、暗渠から顔を出した水路は手前で左側に水路が曲がって余水吐に繋がっていて、そこに水門が設置されている。左側の写真は上からみたところで、左上に行くと余水吐。どうも幅2-3mほどの水路の真ん中にコンクリート板で更に水路をつくり、結果水路が縦に3分割されているようにみえる。
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こちらは、余水吐の暗渠の最上流部。みちくさ学会の記事に掲載した階段地点の少し北側。朽ち始めたコンクリートの護岸が残る。この風化具合からすると、水路が開渠だったころからあったものだろう。
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みちくさ学会の記事にも掲載した、急に斜面となる地点。ここで流路は一気に4m近く標高を下げる。かなりの急流だったのだろう。写真ではわかりにくいが、右岸、御苑側の柵の向こうは土の斜面、左岸はコンクリートの高い擁壁となっていて、深いV字谷の名残がある。
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一気に下って、中央線の土手北側。渋谷川と合流して土手を潜る地点。レンガの壁の真ん中あたりに黒ずんだコンクリートが見えるが、かつてちょうどその下を川が通っていた。
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ここからは、渋谷川を遡ってみる。中央線北側に沿った、ぼろぼろの舗装の私道風の道。これが渋谷川の暗渠だ。今でも水路敷扱いとなっている。
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外苑西通りを挟んで反対側。御苑の敷地に隣接する道の、歩道のところが暗渠。写真は下流方向を見ているが、御覧の通り歩道は突然消える。渋谷川が暗渠となる前、この先はつきあたりの某宗教団体の敷地となっているところを抜けて、外苑西通りを越え、先のボロボロ暗渠へと繋がっていた。
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振り返ると御苑の柵。柵の向こう側を覗きこんでみると・・・
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森の茂みの中、御苑の「下の池」から流れ出した渋谷川が、暗渠へと吸い込まれていた。水の落ちる音が響く。
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御苑の中からその水路を見たところ。渋谷川の最上流部にして、唯一、川らしい姿を見せる区間だ。わずか数十メートルにすぎないが、貴重な流路である。この写真は今年1月のもので、「下の池」の水位が下がっていたため池から水は流れ出ておらず、写真手前のところにある土管から流れ出た水が川を下っていた。この土管からの水は結構な水量があるのだが、湧水なのではないかと思われる。
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そして、こちらは今年11月の写真。手前に「下の池」があって、水が流れ出して橋の下を潜っていく。橋は日本最古の擬木橋(コンクリートで木を模した橋)。1905年(明治38年)にフランスから購入され、3人の技師が来日して組み立てたという。
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「下の池」からの流出地点。渋谷川はここから始まる。
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池から流れ出す水を眺めていると、水面の動きがおかしい場所があることに気づいた。近づいてみると、なんとそれは湧水だった。河床から勢いよく水が流れ出していた。すぐ目の前に池があるわけで、その水がいったん地下を通って流れ出しているだけといえばそうなのかもしれないが、池から流れ出す水よりも綺麗そうで、水温もやや冷たかった。下の写真奥の、川岸の石の間からも水が湧き出していた。
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ちょっと感動してしまったので、動画も撮ってみた。




最後に、外苑西通り沿いに残っているポンプ式井戸を2つ。ひとつは内藤町大京町バス停の前のもの。ちょっと動かすだけで沢山水が出る、現役の井戸。土台まわりの緑がよい雰囲気だ。
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もうひとつは四谷四丁目交差点近くの井戸。隣にゴミ箱が置かれていたりしてやや風情に欠けるが、ポンプ自体は比較的新しく、手入れもよくなされている。こちらも水量は豊富だった。御苑の森に涵養された地下水なのだろうか。
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とりとめないですが、以上、「みちくさ学会」の記事に載せきれなかったスポットをピックアップしてみました。なお、渋谷川上流域については「東京の水 2005 revisited」のほうで詳しくとりあげていますので、そちらもご覧いただければと思います。
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by tokyoriver | 2010-11-17 12:41 | 渋谷川とその支流 | Comments(12)
梅雨明け後の東京は蒸し暑い日が続いていて、森の中のせせらぎや湧水ならともかく、暗渠巡りなどとてもする気力がおきない毎日ですが、みなさまはいかがでしょうか。
今回は、東京の水2005Revisitedで取り上げ、暗渠本「東京ぶらり暗渠探検」でも記事にした「古川白金三光町支流(仮称)」について再度取り上げてみます。昨年末から今年はじめにかけ、ムックの記事のために渋谷川水系を再訪したのですが、ムック掲載用の他にもブログ記事用に多めに写真を撮っていました。ところがその後、2度に渡るパソコンのハードディスククラッシュによりこの時に撮った写真のほとんど全てがふっとんでしまいました(涙)。が、ムック掲載用候補として送付していた写真については編集Tさんの手元に残っていたことがわかり、幸いにも復旧ができました(Tさん、ありがとうございました)。
そんなわけで「古川白金三光町支流(仮称)」、復旧できた写真の性格上、かなりのものは暗渠本と重なりますが、ムックではモノクロだったところをカラー写真で、ということでご容赦下さい。また本文については「東京の水2005Revisited」の記事をベースにしています。

なお、暗渠本を手にこの白金三光町支流を辿られたという「非天然色東京画」さんのブログで、この暗渠の素敵な写真が先日公開されていたので、リンクしておきます。

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港区白金台4丁目、三田用水白金分水よりも1つ東側の谷から、かつて小さな川が流れ出し、1kmほど北に下って、白金5丁目で、渋谷川下流である古川に注いでいた。この川の水源は東京大学医科学研究所(元・伝染病研究所)と、国立公衆衛生院跡地の間にある窪地にかつてあった池だ。
この川の名前は資料などを見る限りわからなかったのだが、川の流域は旧町名で「白金三光町」にあたる。そして、戦前に刊行された「芝区誌」の白金三光町の項に「この町の中央を東西に二分する渓谷が聖心女学院、伝染病研究所の構内に奥深く食い込んでいる。」と記されていることから、ここでは古川(渋谷川)白金三光町支流と呼ぶことにしよう。

なお、医科学研究所の池跡よりやや西、白金台4ー11付近の窪地には明治中ごろまで旧白金台町3丁目から11丁目(現目黒通り沿い)の下水を集め地面に浸透させていた「悪水溜」と呼ばれる池があったが、明治後期には埋め立てられ住宅地となっている。

下の段彩図で、中央の青いラインが白金三光町支流。右側は玉名川、左側は三田用水白金分水。台地を刻む谷がよくわかるかと思う。悪水溜のあった場所も、いまでも窪地となっていることもわかる。(段彩図はgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。
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医科学研究所は、1892年(明治25年)北里柴三郎が設立した「大日本私立衛生会附属伝染病研究所」が前身で、のち内務省所管となり1906年(明治39年)現在の場所に移転してきた。1916年(大正5年)には東京帝国大学付属になり、1967年には伝染病研究所から医科学研究所に改組された。戦前に東大安田講堂などと同じ内田祥三の設計で造られたゴシック風の重厚な建物が今でも現役で残っている(1号館)。医科学研究所には隣接して旧国立公衆衛生院があるのだが、こちらもほぼ同デザインの建物となっている(1940年竣工)。取り壊しの予定だったが、保存運動などの結果、所有が国から港区へと移ることとなり、改修工事を経て2011年度中には地域施設として再オープンするとのことだ。
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国立公衆衛生院の建物は高層建築となっているのが特徴的で、一部は8階建てとなっている。裏手の住宅地からみると、かなりの威圧感をもち聳え立って見える。
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医科学研究所と旧国立公衆衛生院に挟まれ、木々の生い茂る窪地となっているところに、かつて川の水源の池があった。ここから北へと伸びる谷の谷頭にあたっており、もともとは湧水のたまる池だったのだろう。大岡昇平の「幼年」には、伝染病研究所に入院したときの池周辺の様子が描かれている。

「門を入るとすぐ右側が漏斗形に落ち込んだ地形で、付属病院はその向い側右手の傾斜に臨んで建っていた。対面は聖心女学院であるが、斜面の下の方に池があり、実験用動物小屋があって、夜が更けるとそれら動物たちの何ともいえない悲しげな鳴き声が聞こえた。」

1918年(大正7)、アメリカから持ち帰られた食用ウシガエルのオス12匹、メス5匹が伝染病研究所の池に放たれ、そこで産まれた卵から日本中にウシガエルが広まった。この「伝染病研究所」の池がおそらくこの池だと思われる。ウシガエルは一時期日本各地で養殖され、輸出までされていた。また、1927年にはアメリカザリガニが渡来したが、これはウシガエルの餌にするためだったという。今は亡き小さな川の源の池に、現在も日本各地にいる「ウシガエル」と「アメリカザリガニ」が関係していたということになる(アメリカザリガニの方は大船で繁殖された)。
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池は1960年代半ばまでは存在していたようだ。窪地の北側には、谷筋が続いている。谷の斜面には稲荷の祠があり、鳥居が並んでいる。
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白金4丁目と白金台4丁目の境目となっている古くからある道から川の流れていた谷を望むと、見事なV字谷となっている。谷底左側が医科学研究所敷地、右側は聖心女子学院の敷地だ。谷の東側の台地上には高級そうな住宅やマンション、大使館などが建ち並んでいる。
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谷は聖心女子学院の敷地を南北に横切っている。学院は1915年(大正4)、現在の聖心女子大学の前身、聖心女子専門学校としてこの地に開校した。正門を入ってすぐ右手が谷底となっており、戦前まで池だったというが、現在はテニスコートになっている。知人の祖母が聖心出身ということで昔の様子を聞いてもらったところ、「あの辺は昔は湿地で、葦だかヨシだかが生えた沼があって、はまったら危険だから、生徒はあのエリアに近寄っちゃいけないと言われていた」とのことで、雨が降るとすぐ水浸しになっていたそうだ。
地形図を見ると1916年(大正5年)の1万分の1地形図で、この場所に池が描かれていて、終戦直後に刊行された3千分の1地形図でも湿地として描かれており、証言を裏付けている。

テニスコートの北東側にあたる住宅地の中を彷徨って行くと、谷底に降りる西向きの階段が現れる。
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階段を下りきると、谷底には未舗装の暗渠が南北にのびていた。傍らには下水道局管理敷地と書かれた看板がたっている。以前は工事中でショベルカーが立ちふさがり、ここより上流方向には入れなかったのだが、今回は大丈夫そうだったので、南の上流方向に進んで行ってみた。
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谷底は明治後期まで浅い池だったようで、昭和22年補修の3千分の1地形図では湿地として描かれ、東縁の現在の暗渠の場所に沿って川の流れが描かれている。遡って行くと、先のテニスコートの直下で行き止まりとなっていた。左側の斜面の上は東大の白金寮だ。
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引き返し、北へと戻って行く。周囲から隔絶された秘境の趣がある。
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細く深かった谷はやがて、朝日中学校の校庭のわきで、古川沿いの低地に口を開ける。校庭の東側を、曲がりくねりながら暗渠が通っている。朝日中学校の敷地はもともとは、日本初の生命保険会社である明治生命の創始者、阿部泰蔵の屋敷地だった。学校のホームページによると、谷沿いの校庭は屋敷の庭となっていて生い茂る庭木の間に石を配した庭園で、その中に川が流れていたとか。この川が今暗渠となっている流れのことなのだろうか。現在、名残のケヤキの大木が校庭の真ん中に生えている。
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上流方向を振り返る。大谷石の擁壁となっている左側の丘の上は最高裁判所三光町宿舎。
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三光通りを越えると、タイル状のブロックで舗装された暗渠が残っていて、植木が並び家々の勝手口が面した、生活感のある路地裏となっている。この区間はかなり早い時期(遅くとも戦前)に暗渠化されたようだが、川跡の雰囲気が色濃い。暗渠につきものの猫もうろうろしていた。
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途中路地が直角に曲がる地点には、錆びかかった立派なマンホールが、存在感を放っていた。
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暗渠は先の路地を抜けると直角に曲がって白金3丁目と5丁目の境の「五の橋通り商店街」道路下となり、まっすぐ進んで五之橋のたもとで古川に合流している。橋の下に口を開けた排水口はかつての合流口だろう。一見普通の土管に見えるが、その縁取りは石の組み合わせでできているようで、古さを感じさせる。この付近の古川の護岸は戦前につくられたものがそのまま残っている。
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五之橋の上流側すぐ隣には「青山橋」が残っている。かつて川沿いの個人住宅用に架けられた橋のひとつだ。今では橋の北側には空間はあるものの入ることはできず、南側にいたっては道路も何もない、トマソン状態。ここの上流部では改修工事が始まっており、もしかするとこの橋の余命も長くないかもしれない。
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白金三光町支流は何かの話題にのぼることもなくほとんど知られていない暗渠だが、実際に辿ってみてその空間に触れてみたり、そこにまつわる歴史を紐解いていくと、なかなかに味わい深い暗渠のように思える。



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by tokyoriver | 2010-08-04 00:05 | 渋谷川とその支流 | Comments(12)
山手通りと甲州街道の交差する初台交差点の東側。玉川上水の暗渠を三字橋で越えた道は、旧代々木山谷町の深く切れ込んだ谷へと下っていく。道の左手(東側)一帯は、かつて旧土佐藩の山内公爵家の屋敷だった場所。敷地内には水田もあり、敷地に食い込む谷頭には宇田川の支流「河骨川」の水源だった池があった。池から流れ出た川は、谷底に下りきった右手で、初台駅南側の谷からの流れと合流し、谷を南東へと流れていた。

※河骨川など宇田川水系については、詳しくは東京の水2005 Revisitedの記事をご参照下さい。

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谷底を横切る道を、南東から北西に向けて谷底を望む。河骨川の暗渠(川跡)は、右側の電信柱、道路が一番低くなっているところを左から右に横切っている。
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暗渠は最近では「春の小川」の標識も設けられ、すっかり有名になっている。何年か前に廃業になってしまった銭湯「第五良の湯」の脇は、川の面影を残していて、風情のある一角だ。銭湯は井戸水を利用していたという。そしてその排水は川にながされていたのだろうか。
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かつては、このいわば本流の暗渠に平行して、両側に2本の川が流れていた。先の谷を横断する写真でみると、手前(下)のちょうど写真が切れるあたりと、真ん中の横断歩道があるあたりになる。

もともと、河骨川の流れる谷底には細長く水田が拓かれていた。そして、谷の両斜面の直下に水路が設けられて水田に水を引き込み、中央の流れは、水田からの余水・排水を受ける役割を担っていた。流域の宅地化に伴って、導水路は不要となり、排水路であった中央の流れが最後まで残って暗渠化されたというわけだ。それらの流れをプロットしたのが下の地図となる。
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(google earth経由「東京地形地図」の段彩図をキャプチャ)
これら2本の傍流の痕跡も、断片的ではあるが、本流の影に隠れてひっそりとその姿をとどめている。まずは西側の流路。河骨川本流の暗渠の隣の路地が、その痕跡だ。川の流れていたときのままに蛇行している(上の図のポイント「西側の流路」付近)。
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川跡はいったん車の通れる程度の道に出るが、しばらく進むと再び、道から分かれる未舗装の細い路地として現れる(上の図のポイント「西側の流路2」付近)。
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次に東側の流路。住宅街の中をクランク状に抜ける未舗装の路地の脇に、U字溝のような水路が残っている。これが東側の水路の痕跡だ(上の図のポイント「東側の流路」付近)。
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小田急線参宮橋駅の南西側には、この水路とつながっていた別の水路の、はっきりとした暗渠が残っている。この場所は10年位前までは、今よりも放置された感が漂っていた(上の図のポイント「東側の流路2」付近)。
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奥まで入っていくと参宮橋駅のホームに突き当たって終わってしまう。ホームの脇には小さな区民菜園がある。擁壁の下部には大谷石の石積みが残り、川跡の雰囲気を色濃く残している。
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大谷石の上で、ニホントカゲが日向ぼっこをしていた。
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河骨川に限らず、宇田川流域はかつて水田だったこともあり、その流路は幾筋にも分かれ、網の目のように絡み合っていた。関東大震災後の宅地化に伴う区画整理などにより、流路は次第に改廃整理され、東京オリンピック前後の暗渠化直前には、現在暗渠として辿れるような各支流1本の流路にまとめられた状態となっていた。流路がまとめられる前は、それぞれの流路はもしかしたら今の川の呼び名とは異なる様々な名前で呼ばれていたかもしれないし、逆に、当たり前にそこにあるものとして、特に呼び名などなかったのかもしれない。
これらの流路を、1935年(昭和10年)に刊行された地籍図をもとにプロットして、段彩図に重ねてみた。初台川流域はすでに区画整理が済んでおり川筋が1本にまとめられているが、河骨川や宇田川の上流部など、谷幅いっぱいに水路が錯綜していたことがわかる。
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google mapにプロットしたものはこちらを(目視プロットで、元の図が縮尺や方位がバラバラで断片化されているため、必ずしも正確ではない部分があることにご留意を)。

宇田川水系の暗渠を辿っていると、本流以外にもあちこちに怪しげな路地が見つかるのだが、それらはかつての網の目に分かれていた流路の痕跡なのだろう。いずれそういった痕跡も紹介していきたい。

なお、この地籍図では初台川に架かる「初台橋」が「金冠橋」と記されていた。新たな謎がまたひとつ・・・
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by tokyoriver | 2010-05-26 00:02 | 渋谷川とその支流 | Comments(11)

いもり川再訪(2)

前回にひき続きいもり川沿いの風景を紹介していこう。

いもり川の暗渠は羽沢の谷の東側に沿って南下している。そのため、暗渠の左岸側(東側)が急峻な斜面となっている。

いもり川の谷の東側の崖に残る、大谷石の階段。登りきった先にも緩やかな階段が続いている。
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2005年撮影のこちらの写真は、いもり川東側沿いの坂とそこに面した、風情のある塀。タモリのTOKYO坂道美学入門にも、口絵に掲載されていて、さすが目の付けどころが、と思っていた。
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ところが今回訪れてみると、この家も塀も取り壊され、大規模な造成が始まっていた。
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先ほどの塀のあった場所といもり川の暗渠を挟んで反対側に、旧「羽沢ガーデン」の敷地の森がある。満鉄総裁や東京市長を務めた中村是公の邸宅を利用した、大正時代の家屋や庭園のある、結婚式場/レストランだったが、5年ほど前に閉園した。
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こちらも高層マンションになる計画があり、表示板には2010年5月竣工予定とあるが、今のところまだ着工されていないようだ。近隣住民からの反対により凍結されているらしい。
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地元の方々による「羽沢ガーデンの保全を願う会」のブログを見ると、豊かな緑を全てつぶしてしまうようだ。もったいない。地元の方々の会の他にも、文化人らによって結成された「羽澤ガーデンの文化財と景観を守る会」もあるようだ。

暗渠の左岸沿いの崖には新旧入り乱れた擁壁が続く。この辺りは、思っていたよりは変化はなさそうだ。
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上の写真の奥に見えている真新しい白い擁壁の下には、水抜きの穴が並んでいたが、その一角に
常に水が染み出しているらしき場所があり、流れ出た水を雨水枡に導くように傾斜をつけた、ちょっとした仕掛けが縁石上に作られていた。
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もう少し下流に行くと、大谷石の擁壁とその上に見事な緑。崖の上には古い木造の屋敷が見える。
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見上げてみるとかなり高い。
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その下流側には、ふるいコンクリートの擁壁。蔦や苔が覆っている。
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暗渠から西に伸びる、細い路地。以前見たときは単なるコンクリートの敷石の路地だと思っていたが、lotus62さんの「東京peeling!」の記事で暗渠と書かれていたので、あれっ?と思っていた。
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確かに近付いてよく見てみると、敷石に見えていたのは護岸の枠にはめ込まれたコンクリート蓋だった。中は埋まっているようだが、かつていもり川が流れていた頃は機能していたのだろう。うれしい発見。
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暗渠の流れる羽沢の谷は、臨川小学校の北西で渋谷川の谷へと合流する。写真の左奥に伸びるのがいもり川の暗渠。ここの五叉路は好きな風景だ。
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臨川小学校前の道の、暗渠歩道。アスファルトは新しくなっているが、マンホールは古いままだった。この先数十メートル南下すると、渋谷川に突き当たる。
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今回のいもり川に限らず、うっかり油断している間にどんどん変わり続けて行く東京の風景、気に入った場所はこまめに訪れて味わっておいた方がよいかもしれない・・・

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by tokyoriver | 2010-05-20 23:54 | 渋谷川とその支流 | Comments(12)

いもり川再訪(1)

ある晴れた日の朝、ひさびさにいもり川を訪れてみた。いもり川の詳細については「東京の水2005Revisited」の記事を。水源についてはこちら、由来についてはこちら

常陸宮邸前の東4丁目交差点の六叉路の南側にぽつんと残る秘密基地暗渠。以前は階段を下りて行くところから秘境じみていたが・・・(写真は2005年)
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階段脇の建物が取り壊され、日射しが差し込んでいた。
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階段の先は幸いにもそのまま。
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暗渠が崖下で大きく曲がる地点。路上に異様に苔が発育しているのも、謎の鉢植えが並べられているのも変わりない。
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かつての蛇行のかすかな痕跡である路地沿い。周辺では唯一の木造民家も健在だった。
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渋谷区ならではの看板。右側のイラストが何とも・・・
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かつて湧水池「羽沢の池」があった東京女学館の南側からいよいよ、いもり川階段に始まる川跡があるのだが(画面右端の車止めのところがいもり川階段)何だか雰囲気が違う。
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こちらが2005年の写真。階段を下りるとあたかも森の中の異界へと入って行くような雰囲気があったが・・・
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現在はこの通り。そう。左岸(東側)にあった緑がすっかりなくなってしまい、盛り土をされて駐車場になってしまったのだ。
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かつては下の写真のように、森の中から優雅に蛇行した暗渠が下っていた。護岸の大谷石のカーブも美しく、また流路の傾斜を強調していた。
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それが今では、右岸側(西側)はそのままであるものの、東側のきれいな大谷石は直線的に折れ曲がったコンクリートの壁になり、緑のかわりにフェンスが格子状の影を暗渠状に落としている。日が差し込むようになったことと緑が減ったことで、暗渠に漂う、森の中に入って行ったときのような空気までも失われてしまった。
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右岸側の石積みには何かを再利用したような石も組み込まれていたり、何かの痕跡めいたものもあったりして雰囲気があるのだが、これらもいずれ無くなってしまうのかもしれない。
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いもり川階段の先の区間は、長さにするとわずかではあるのだけど、かつての川が流れていた風景を彷彿とさせるような秘境感があって、とても気に入っていた。それだけに今回の変化はショッキングだった。絶え間なく変わり続けていくのが東京の風景の宿命だとはいえ、いもり川沿いは既に都市化や開発も進み、ある意味これ以上あまり変化のない安定した風景だとばかり思っていたが・・・
今回より下流側でも風景の変化が見られたので、変わっていない風景もあわせて次回にも紹介することとする。


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by tokyoriver | 2010-05-16 22:15 | 渋谷川とその支流 | Comments(6)
※今回は本文については2005年版の記事をベースに加筆修正しています。

六本木6丁目の南側、現在六本木ヒルズレジデンスが建っている一帯は、旧町名でいうと北日下窪町と麻布宮村町の境目にあたる。かつてこの一帯は谷底となっていて、湧水が各所でわき出し、細流が流れ出していた。再開発で六本木ヒルズが出来る前は、テレビ朝日通りから「玄碩坂(げんせきざか)」と呼ばれる急な坂が谷底まで下っていた。写真は1997年の玄碩坂の様子。
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周囲の地形は六本木ヒルズの造成で、跡形もなく改変され、玄碩坂が通っていたルートとだいたい同じ位置に「さくら坂」が通っている。坂の傾斜を緩やかにするためか、かなり盛り土がされているようだ。
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坂の西側~南側は急な斜面となっていて古い家屋が並び、風情のある石段がいくつか、宮村町の丘の上から下っていた。坂沿いの家や路地、駐車場にはあちこちに猫が見られた。これらの猫たちはどこに行ってしまったのだろう。写真は階段のひとつ(1997年撮影)。
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かつての風景のほとんどが失われた中で、さくら坂公園の西側の斜面に、下半分が埋まった階段が遺跡のようにひっそりと残っている。ブラタモリ最終回でも取り上げられていた。
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c0163001_00483.jpg坂沿いの一帯は字藪下と呼ばれていた。江戸時代より湧水による池が点在し、「岡場所」(私娼窟)があったという。かなり悪質なものだったらしく江戸後期、天保10年(1839年)にはぼったくられた久留米藩士達が取り壊しを行い、以後岡場所はなくなったというエピソードが残されている。一方入れ替わるように、江戸後期から下級武士たちの副業として、湧水池を利用した金魚養殖が始まった。明治初期の地図にはあちこちに湧水を利用した金魚の池が描かれている。左の地図は五千分の1地形図「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(明治16年)」より。その下は現在の同じエリアをgooglemapから。

岡本かの子の1937年の短編「金魚撩乱」では、冒頭に界隈の風景が描写されている。

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「崖の根を固めている一帯の竹藪の蔭から、じめじめした草叢があって、晩咲きの桜草や、早咲きの金蓮花が、小さい流れの岸まで、まだらに咲き続いている。小流れは谷窪から湧く自然の水で、復一のような金魚飼育商にとっては、第一に稼業の拠りどころにもなるものだった。その水を岐にひいて、七つ八つの金魚池があった。池は葭簾で覆ったのもあり、露出したのもあった。逞ましい水音を立てて、崖とは反対の道路の石垣の下を大溝が流れている。これは市中の汚水を集めて濁っている。」(「金魚撩乱」より)

再開発のときまで残っていた金魚店「原安太郎商店」は、ちょうど岡場所が取り壊された翌年の天保11年(1840年)創業で、「はらきんの釣り堀」として親しまれていた。金魚屋の主人は現在ヒルズに建つ高層マンションに住んでいるという。写真はかつて通り沿いに掲げられていたはらきんの看板。

はらきんの向かいの谷の南側斜面は、木の茂る大谷石の擁壁となっていて、崖下には湧水が流れ、側溝をせき止めた水たまりには金魚が泳いでいた。1991年に港区が刊行した書籍にはその写真が掲載されている。はっぴいえんどのドラマー兼作詞家であった松本隆の1972年刊行の単行本「風のくわるてっと」に収められたエッセイに、この湧水が描写されている。

「坂を下りおわったところに養魚場がある。ここでも水は渇いた石畳に叩きつけられる驟雨の叫びに似た音であたりをいっぱいにふくらましている。都市の近代化が置き忘れていったこの一画は、砂鉄が磁石によってある一点に引き寄せられるように、水の重いしずくのさやめきに満たされている。というのは、その先に行けば、やはり水に関するエピソードにぶつかることができるからである。ちょうど苔でぬめぬめと光っている石垣の下に、「湧き水を汚さないようにしましょう」と書かれた小さな立て札がたてかけてある。おまけにその綺麗な水の中には金魚まで放し飼いになっているのだ。何と風流な。きっと近所の人が世話を焼くのだろうなどと、つい道端にしゃがみ、その中を覗きこんで時間を潰してしまう。そこには都市の偶然や錯覚を許す余地の無い人為的な神秘がある。」(「ピーター・パンの街」より)

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道は六本木高校(旧城南高校)の崖下で、ほぼ平坦になる。現在は崖の反対側はヒルズの敷地となって開けているが、かつては塀に囲まれたやや殺伐とした風景だった。
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同じ場所の現在の様子。奥に見える5階建てほどのビルだけが、今も姿をとどめている。六本木高校の看板がある辺りの崖面からは、わずかであるが湧水が染み出して、道路の側溝に流れ出していた。かつて豊富だった湧水の痕跡なのだろう。
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薮下の谷が六本木交差点方面からのびる芋洗坂の谷とあわさる辺りの北側、六本木ヒルズの敷地内には、「毛利庭園」がある。かつてこの場所は窪地となっていて湧水池があった。江戸期には毛利家上屋敷となっていて、1702年には赤穂浪士のうち10名が預けられ、敷地内で切腹している。その後明治期には中央大学創始者の邸宅に、そして戦後はニッカウヰスキー東京工場の敷地となった。この時代に池は「ニッカ池」と呼ばれるようになり、1977年にテレビ朝日の敷地となったのちもニッカ池と呼ばれ続けていたが、近年では湧水はほとんど枯れていたようだ。六本木ヒルズが造成された際、ニッカ池は防護シートで覆われて「埋土保存」され、その上に新たにつくられたのが現在の毛利庭園の池だ。この池からの流れは特になかったようだ。
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薮下の湧水や養魚池、六本木方面からの谷やニッカ池のあたりの窪地からの水を集めた流れは、麻布十番を東に流れていた。現在も路地裏となって水路敷が残っている。ゴミがあったりしてだいぶ荒れた感じであはあるが、まぎれもなく川の跡である。古川(渋谷川)の下流域の別名として赤羽川という呼び名があるが、資料によってはこの麻布十番の流れを赤羽川と呼んでいる。
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流路は更に、先にとりあげたがま池(→こちらの記事)や宮村町からの流れ(→こちらの記事)もあわせて流れていた。流路の両岸はかつては「宮下町」という町名だった。現在の「麻布十番」という地名は江戸期の古川の拡張工事時のエピソードに由来する。
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流路跡の暗渠は途中でなくなってしまうが、旧宮下町と旧新網町の境目からはクランチ状( ̄|_型)に曲がって、以東は十番商店街の南側に沿っていわゆるドブ板状となっていながれており、昭和の初期には暗渠化されたという。ちょうど写真の歩道のところをかつて川が流れていた。
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麻布十番稲荷の敷地内の片隅には、麻布十番商店街の流路に架かっていた「網代橋」の欄干の柱石が特に説明もなく放置されている。境内にはがま池からの流れの項で紹介したガマガエルの伝承にちなむカエルの石像もある。写真は05年撮影だが、現在柱石の前には柱や柵が出来、ますますその存在は隅へと追いやられている。
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水路は一の橋のたもとで古川に合流していた。江戸時代には、橋のたもとから麻布十番商店街の方に向かって船運用の堀留があった。明治にはこの堀留は埋められたようだが、川の暗渠の方は現在でもその口を古川の護岸に開いている。断面がかまぼこ型をしており、昭和初期の暗渠化時の姿をとどめていると思われる。このあたりは感潮域で、満ち潮の時には暗渠内まで水が入り込んでいる。暗渠の口の横の護岸からは、湧水が染み出している。すぐ上は一の橋公園だ。
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「一の橋公園」の場所には、戦前までは銭湯「一の橋湯」と活動写真館「福宝館」があった。一の橋湯の前には水が吹き上げる井戸があって名水として知られ、銭湯にもこの水を使っていたという。現在公園には湧水を利用した噴水があるが、この自噴の井戸と同じ水源なのかもしれない。なお、2010年3月より、古川の川筋の地下に、洪水用の遊水地を建設する大規模な工事が始まり、一の橋公園は今後数年間、工事現場となり、立ち入ることができなくなっってしまった。噴水の湧水は工事で枯れてしまうのだろうか。
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by tokyoriver | 2010-03-31 00:15 | 渋谷川とその支流 | Comments(6)
麻布十番商店街の西端、そのすぐ先は六本木ヒルズのエリアとなる一角。最近ビルが取り壊され、真新しいアスファルトの敷かれた駐車場が広がっているが、その北側の崖の下に沿って、細長く伸びるコンクリートの敷地が姿を現している。これは、旧麻布宮村町の谷から流れ出ていた川の痕跡だ。前回とりあげた「がま池」からの小川もこの川に合流していた。今回はこの川を上流に遡っていこう。
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遡る、とはいっても、先の区間より上流部は、道路から離れていて住宅地の裏側を通っており、痕跡をみることはできない。平行して谷底を通る道路を、がま池のある西に向かって進む。次に流路が見られるのは、元麻布3-6。前回取り上げたがま池からの小川の痕跡の終点のすぐ近くだ。狸坂とちょうど対になる坂の袂に、小さな欄干がある(この写真は2005年撮影)。
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下を覗き込むと、大谷石の崖の下に沿って、西から澄んだ水が流れてきている。そう、ここは暗渠や川跡ではなく、現役の水路なのである。この水路をはじめて見たのは21年前(1989年)の夏だった。六本木のすぐそばの街中にこのような水路が残っていることに非常に驚いた。当時よりもやや水量は落ちたように思うが、現在でも健在なのはうれしいところだ。
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水路に流れる湧水は勿体無いことに、欄干の下で下水に落ちている。水の音が絶え間なく響いている。
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上流側に進むと、住宅地の間に「元麻布三丁目緑地」がある。湧水を利用した流れと池は、メダカやアメンボ、水生植物などが生息するビオトープとなっていて、池は地元の小学生たちによって「宮村池」と名づけられている。5年前(2005年)に訪れたときには水が澄んでいたが、今回は流れ込む水量が少なくなっていて、水もよどんでいる。それでもメダカが群れをなし泳ぐ姿が見られた。
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宮村池の北側には、5年前には家が建っていた空き地を挟んで、大谷石の崖が見える。水面は見えないが、先ほどの水路はその下を流れている。崖の途中に窓のようなものがあるのは何だろうか。
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13年前(1997年)に訪れたときには、宮村池の場所には木造家屋が何軒か並んでおり、その脇、元麻布3−5番地と3−6番地の境目の道路下からは、かなりの量の湧水が流れ出していた。明治後期の地図を見ると、この水路は道路を挟んだ元麻布3−5の長玄寺境内から流れ出ていたようだ。下の写真は当時の湧水の流出口。
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その後水路の流れる谷底はこの湧水地点以北が、再開発により低層の高級マンション群に変った。現在もかろうじて湧水口は残っているが、水量は激減している。下の写真が現在の流出口。
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かつては湧水は民家の敷地の端の水路を流れ、崖に突き当たったところで先ほどの崖下の小川に合流していた。写真ではわかりにくいが、水量は多く、水流もかなり早かった。写真は当時の水路。
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現在も水路自体は何とか残っているが、崖下まで流れつくほどの水量はないようだ。2005年の訪問時には、すぐそばのビオトープへは、この湧水ではなく崖下の本流の水を、パイプで導いていた。現在もその導水管はあるが、水は出ていなかった。崖下の湧水自体は枯渇していない様子なので、取水が上手くできていないのだろうか。
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宮村坂を挟む谷間には2001年竣工の、低層の高級マンション群が並ぶ。外人の居住者が多いという。 
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一帯は今でこそ綺麗に整備されているが、1997年に訪問した際は更地となっていて駐車場などに利用されており、大谷石の擁壁の崖下を流れる水路の周りには雑草が生い茂り、家具が捨てられていたりして荒涼感が漂っていた。2005年に再訪したときにはその変貌ぶりに目を疑ったものだ。
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マンション群の裏手、わずかに水路を確認できそうな場所から崖の下を見ると、水路は以前よりもむしろ綺麗になっていた。澄んだ湧水が更々と流れている。水がどこから湧き出しているのかは確認できない。
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宮村坂を登っていくと、マンション群の北端、道の舗装がアスファルト敷に戻る地点に、なぜか取り壊されずに残っている古そうな欄干がある。向かい(西側)の崖の下にも同じような欄干があり、もしかすると向かいの崖下からも細流が流れ出し、東側の崖下の小川に合流していたのかもしれない。
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次回はこの旧麻布宮村町の小川が合流していた、六本木ヒルズとなった谷、旧日下窪町藪下から麻布十番にかけての小川を取り上げる。

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by tokyoriver | 2010-03-23 00:54 | 渋谷川とその支流 | Comments(10)