東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

カテゴリ:玉川上水とその支流( 11 )

鈴木用水をたどる第3回めは、ふたたび用水路が鈴木街道の両側に分かれる地点から。前回とりあげた街道南側の水路と街道を挟んで平行して流れる、街道北側の用水路を辿っていく。鈴木用水の概要および起点から分岐地点までのいわば上流区間については前々回記事を参照していただきたい。

用水の全体地図はこちら(google mapにプロットしたものをキャプチャ)
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■水の流れている区間
まずは上流部を拡大地図を見ながら追っていこう。
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鈴木街道の北側、街道沿いの家々の裏手を東に向かって流れていく鈴木用水。いい雰囲気だ。
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新小金井街道を越えると、水路は竹やぶの中に入っていく。街道側には大きな屋敷があり、この竹やぶやそれに続く林は、屋敷の防風林だったのだろう。近辺にはかつて「庄治郎水車」がかかっていたというが、ここがそうかもしれない。
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新小金井街道より先は、大部分で水路沿いを辿れないので、あちこちで鈴木街道から北にのびる道に入り込んで水路を確認していくことになる。「用水路の中では遊ばないように」という注意書きは、逆に今でも用水路で遊ぶ子供がいることを示していて、ちょっと頼もしい。
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水路沿いの緑が色濃い。
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鈴木街道沿い、西松屋の裏手付近で、上流方向を眺める。水路の幅がやや広くなっている。2014年5月時点では、鈴木用水に水が流れているのはここまでとなっていた。
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■空堀の区間

前の写真の地点から下流方向を見たところ。流れてきた水は、橋の下で下水に落とされているようだった。
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橋の先はご覧のとおり空堀となっている。川底が湿っていて雑草も倒れており、最近水が流れた様子がうかがえるが、撮影の数日前に降った大雨の影響かもしれない。
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小金井街道手前の区間を上流方向に望んだ様子。鈴木街道を挟んで南側には、田無用水と鈴木用水南側水路との立体交差がある(前回記事参照)。水路はかなり立派なつくりだが、水の気配は完全になくなっている。
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ここで下流部の地図も提示しておこう。
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暗渠化された田無用水と交差し、小金井街道東側に抜けた地点。さきほどまでの立派な水路とうって変わって、荒れ果ててとても水路には見えない状態になってしまう。写真左側、赤い木が生えているところが水路だ。トタン板の土留めでかろうじて水路であることが分かる状態。
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少し先に進むと水路は鈴木街道沿いに出る。ここから先は「大門橋緑道」として歩道とあわせて一応整備されている。しばらく街道沿いに流れていく(といっても水は全くない)。街道沿いの家々が水路上に敷地をとってはみ出している区間もあって、それらの場所ではなかば暗渠のようになっている。
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■緑道整備されている区間
200mほどで、用水路は再び街道から離れる。擬木の護岸や柵が設置されていて、水路沿いを歩けるようになっている。
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やがて水路は暗渠となり、「大門橋緑道」は暗渠道となる。
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緑道には街灯や「鈴木用水」の標識が設けられている。緑色の歩道はカーペットのようなつくりで、その下はコンクリート蓋となっているようで、歩くとガタガタする。
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■消滅しかけの区間
緑道の区間が終わると、再び水路が現れる。少し先までは、鉄パイプで留められたコンクリート板の護岸がつくられていて水路こそはっきりしているものの、やや荒れた雰囲気だ。奥の方は素掘りの水路に戻っている。水路は新田集落の形態を残した、北側に防風林を配した屋敷の中を抜けていく。
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鈴木街道を回りこみ、次に道路と交差する地点で水路を確認してみる。奥が上流側。素掘りの水路が残されているのはいいが、だいぶ埋まりかけており、単に畑の端が凹んでいるだけにしか見えない。
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下流側。上流側よりも更に水路はだいぶ埋まっており、雑草も生えている。ゴミが散乱しテレビまで捨てられており、かつて貴重な呑水を運んでいた姿とはかけ離れている。
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次に水路が確認できる地点は、多摩湖自転車歩行者道と交差する地点だ。写真左奥が上流側となる。鈴木用水は自転車歩行者道をくぐっていく。道路の下には、村山貯水池(多摩湖)から三鷹市の境浄水場までの10kmをほぼ一直線に結ぶ給水管が下に通っている。村山貯水池の水は途中まで玉川上水を経由して運ばれた多摩川の水で、その水がこの給水管を流れている。つまり、ここで玉川上水から分水された新旧の水路が交差していることとなる。
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多摩湖自転車歩行者道の下をくぐると、水路はほぼ消滅してしまう。写真奥から手前、道路の右側に沿って流れているはずなのだが、隣り合う畑地と完全に一体化してしまっている。
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畑地の東側の住宅地の中で、ようやく水路の続きを見つけることができる。
「ここは用水敷きです。通路ではありません、通りぬけしないでください。小平市 水と緑と公園課」
との看板がたてられている。しかし、これより下流、水路はわずかな鉄板蓋暗渠の区間を経て、砂利敷や未舗装の暗渠となってしまう。
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■消滅する区間

住宅地の隙間に、柵で囲まれた水路敷の空間が残る。
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ここでは鈴木用水の暗渠が右から左に横切っている。前後の区間は宅地に取り込まれていて不明瞭になっているが、道路の所だけははっきりと盛りあがっているのが面白い。アスファルトの下に、土管か何かとなって水路が通っているのだろう。この地点が、水路の痕跡がはっきりと判断できる最後の場所だ。
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住宅地を回りこみ、資料ではかつて水路が通っていたとされる道路に出る。中途半端な位置の電柱が思わせぶりではあるが、他には水路を示す痕跡は何一つない。
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開設当初の鈴木用水北側分水路は、この先で石神井川に落とされていたようだが、明治4年には田無用水から「田無村字芝久保呑用水」が分水され、そこに接続されるようになった。写真の道路の手前から鈴木用水の流末が、奥からは芝久保呑用水が流れ、奥に見える西武新宿線の踏切手前で、両用水が合流し東へと流れていた。歩道に残る古そうな側溝が用水路と何か関係はあるのだろうか。
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両用水の合流地点は今は企業の敷地となっていて、水路は確認できないが、その先断続的に芝久保分水の水路跡は残っており、石神井川合流直前の地点にはかなりしっかりしたコンクリート蓋暗渠が現存している。そちらについては長くなるので又の機会にあらためて紹介しよう。


(おわり)
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by tokyoriver | 2014-07-28 23:40 | 玉川上水とその支流 | Comments(3)
鈴木用水をたどる第2回めは、用水路が鈴木街道沿いに達し、街道の両側に分かれる地点から。今回は街道南側の用水路を辿っていく。鈴木用水の概要および起点から分岐地点までのいわば上流区間については前回記事を参照していただきたい。

用水の全体地図はこちら(google mapにプロットしたものをキャプチャ)
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前回の記事にも記したように、武蔵野台地の新田開発集落の多くは、街道に対して直角に短冊形の敷地を取り、屋敷を街道沿いに集中させるかたちをとっており、鈴木新田も同様のスタイルとなっていた。
下の図はその模式図。中央を東西に街道が通り(灰色ライン)、街道沿いに屋敷林に囲まれた家屋が配置され(図褐色の■)、その背後には短冊状の畑地(黄色の■)がのびる。用水路(青いライン)は各家の飲用水として利用されていたため、屋敷の敷地内、家屋の裏手(すなわち、台所側)を抜けてながれていく。
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鈴木街道沿いは今ではだいぶ宅地化が進み、屋敷林に囲まれた家屋はほとんど残っていないが、水路は今でも家々の裏手を抜けて流れていくため、水路に沿って歩くことはできず、鈴木街道から南北に延びる道路を随所で進み、水路を確認していくことになる。

まずは小金井街道までのいわば中流部の区間をたどっていこう。
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水の流れない水路

新堀用水分岐地点から鈴木用水を流れてきた水は、現在街道北側の水路のみに流されており、南側の水路は水が流れない状態となっている。下の写真は北側水路との分岐点から程無い地点。水は流れていないものの、コンクリートの橋が小さな欄干と共に残っており、鉄板の土留めで水路はしっかり保たれている。水路沿いにも緑が残る。
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しばらく進んだ地点。奥には屋敷林の名残が見え、水路は素掘りのまま保たれてはいるのだが、水が流れていないため、ちょっと荒れた感じになっている。水路だと気づかない人が大半なのではないか。
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ここではかつての屋敷の敷地が駐車場となっている。水路の底まで雑草が生えており、落ち葉も積もっている。知らなければ単なる細長い窪地に見えるかもしれない。この近くにはかつて「利左衛門水車」が設けられていたという。こんな細い水路に水車が掛けられていたとはにわかには信じがたい。
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ここでは水路の底を雑草が埋め尽くしているものの、再び土留めが設けられ、そのおかげで水路は明確になっている。
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水路の立体交差

小金井街道の西側では、田無用水との立体交差が見られる。コンクリート製の掛樋で上を通っているのが鈴木用水、下をくぐっているのが田無用水だ。
田無用水は前回も記した通り、鈴木用水の開通する34年前の1696年に開通している。田無地区への給水を目的としているので、この辺りはあくまで通過しているだけで、水を利用することは基本的にはできなかった。
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玉川上水からの分水には、谷筋や自然河川を越えるために土手や掛樋が設けられていた場所がいくつかあるが、このようにほぼ同じ平面で、しかも用水路同士が交差するのは珍しいのではないか。掛樋の側面には昭和5年10月と刻まれている。
下を潜る田無用水はだいぶ埋もれていて、樋の底との隙間が狭くなっている。樋の中の水路はかなり浅いが、水が溢れることはなかったのだろうか。
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上流側から下流方向を望む。鈴木用水は右奥へ、田無用水は左奥に流れていき、この先で鈴木街道を越え、小金井街道より東側は暗渠となる。その手前では鈴木用水の北側分流と交差していたはずだが、現在は全く痕跡はない。
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鈴木用水の方は、最近出来たばかりと思しき戸建て住宅が立ち並ぶ中、大きくコの字型に迂回するように続いていく。この近辺(小金井街道(府中道)の西)にはかつて「治右衛門水車」と呼ばれた水車が設けられており、そのために迂回していたのかもしれない。小金井街道の東側には「喜右衛門水車」も設けられていた。
これらの水車は自家用ではなく、商用の水車で、他所で収穫された米や穀物の脱穀、製粉を請負って利益をあげていた。
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荒れていく下流部

小金井街道を越えると、西武新宿線の花小金井駅から近くなることもあり、鈴木街道沿いはだいぶ宅地化が進んでいて、水路も様相を変えていく。
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小金井街道を越えた少し先。土がむき出しの水路。土揚敷の土が崩れ、水路がだいぶ浅くなっているようにも見える。手前のコンクリートの橋がなければ水路とわかるだろうか。
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さらに先では、水路の上をまたがってトタンの建物が建てられていた。その下をくぐってくる水路はコンクリートの護岸。そして手前には暗渠でよく見られるようなゴミの集積スペースまで設けられていて、かつて貴重な呑水をもたらしていた水路にしてはずいぶんとぞんざいな扱いを受けている。周囲も家々がびっちりと建ち、ここまで来るとかつての新田集落の面影は失くなってしまう。
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こんな典型的なコンクリート蓋暗渠の区間まで現れる。
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その先で一瞬、素掘りの素朴な水路が残る区間があったのだが、今年に入り一帯の土地が宅地用に造成され、失くなってしまった(写真は2008年撮影)。
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土地の造成中は水路は全く姿を消していたのだが、造成後には写真のような水路があらたに作りなおされていた。写真左側のあたりが、前の写真の素掘りだった区間だ。この辺りはもはや水が流れてくることはないと思われるのだが、それでもこうしてしっかりとした水路がつくられるのは、将来通水が復活する可能性があるということだろうか。
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前の写真の中央奥で左に曲がった水路はこの素掘りの水路に繋がっている(写真奥の右側から先の水路がやってくる)。そして写真で前で再び右に折れる。これだけ大きくコの字型に迂回しているということは、かつては大きな屋敷があったということだろう。
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右に折れた先はアスファルトの下の暗渠。道路を進んでいくと鈴木街道につきあたり、水路は右(東)に折れる。
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中央の、赤いアスファルトの下が鈴木用水の暗渠だ。鈴木街道に挟まれたスペースには水遊び場が設けられている。
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暗渠から出た鈴木用水は再び鉄板の土留め水路となり、東へと向かっていく。
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流末近くでは、かつての短冊形の畑地が、区画を残したまま新興住宅地となり、戸建ての家が隙間なく並んでいる。その間を縫うように水の流れない水路が抜けていく。
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かろうじて残る流末

新興住宅地の先で、水路は道路から大きく離れて大きな屋敷の中に入って追えなくなる。この先、水路は石神井川の流れる谷に下っていく。その途中で水路はいったん消滅してしまっているようだ。谷に下る斜面の途中では、こんな空き地となってかろうじてルートが確認できる。水路の窪みはなくなっている。深い谷のように見えるが、両側の住宅の下の擁壁は明らかに盛り土で、周りが高くなったことで相対的にそう見えるだけで、実際には谷の斜面をななめに下っている。
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谷底まで下ると、再び家々の隙間に水路の痕跡が現れる。だいぶ荒れていて、もはや側溝にしかみえないかもしれないが、これが延々と追ってきた鈴木用水の末端だ。
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先ほどの水路を下流側から見たところ。右側の道路が鈴木街道だ。そしてすぐ手前には石神井川が流れている。
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鈴木街道の長久保橋のたもとで、鈴木用水の南側水路は石神井川に到達し、終わる。起点からここまでの流路はおよそ4.3km。起点の標高がおよそ80mなのに対し、流末の標高は60mほど。20mほどの標高差になるが、そのうち5mは、最後の200mほどで一気に下っている。石神井川の護岸に空く小さな排水口がかつての合流口の名残だろうか。
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長久保橋から、石神井川上流方向を眺める。奥の森は小金井公園、数百m先は公式の石神井川上流端となる。
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この付近の石神井川はかつては悪水堀と呼ばれていた。現在では水源は涸れ、普段は水は流れていない。石神井川源流については、こちらの記事をぜひご参照いただきたい。

次回は鈴木街道の北側の水路を追っていく。

(つづく)
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by tokyoriver | 2014-07-03 23:30 | 玉川上水とその支流 | Comments(0)
またもや久々の記事となってしまったが、今回から玉川上水の分水「鈴木用水」について、3回ほど続けて更新していく予定なので、お付き合いいただければ幸いに思う。
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玉川上水と武蔵野台地の開発

 今回とりあげる「鈴木用水」は、武蔵野台地上に「新田開発」で出来た村への飲み水の供給を目的とした、玉川上水からの分水路のうちのひとつだ。

 もともと武蔵野台地の中央部は、川が無く地下水位も低かったため、近世まで人の住む集落は皆無に近かった。1654年、江戸市内への給水を目的とした玉川上水が武蔵野台地の中央を貫くように開通すると、この水を分水し呑水を得ることでようやく集落が形成されるようになった。最初の分水は1655年の野火止用水で、次いで1656年に小川用水が分水され、小平エリア最古の村である小川村が開拓された。
 小川村は台地上を東西に通る青梅街道の両側に集落を形成し、それぞれの家屋の背後に、南北に細長い短冊状の地割で、各家の敷地がわりふられている。これは小川用水からの給水の利便性を意図していたという側面があるようだ。小川用水は青梅街道の両側にふた手に分かれて平行して流れ、街道沿いの家々に呑水を給水するかたちとなっていた。1696年には田無用水が開通し、同様に青梅街道の両側に分かれて流れ、街道沿いの家々に給水するかたちをとった。この形態は、後に続く新田開発でも踏襲されていく。

 台地上の開拓は17世紀後半にいったん抑制されたが、江戸時代中期、いわゆる「亨保の改革」の時代に大規模に再開された。これは江戸幕府は財政再建のための税収増加をもくろんだためで、武蔵野台地の新田開発が奨励された。開発にあたっては飲水の供給源として玉川上水からの分水が活用され、新田開発に伴いいくつもの分水が開削された。これらの分水は利用料の徴収が免除され、入植した住民は無料で用水を利用できたという。

下の地図は、それらの用水路の全体図(google mapにプロットしたものをキャプチャ)。ピンク及び赤のラインが用水路、水色及び青のラインが川となる。玉川上水から放射状に分かれる用水は台地を廻り、谷を流れる川に落とされる。動脈と静脈の関係がはっきり見て取れる(といっても実際には用水にはなかなか十分な水量が流れず、流末に辿り着く前に涸れることもままあったようだ)。
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鈴木新田と鈴木用水

 今回とりあげる鈴木用水が引かれた「鈴木新田」は、貫井村(現小金井市)の名主鈴木利左衛門が中心となって、1722年に幕府の許可を得て開発され始めた新田だ。現在の地名では小平市鈴木町、御幸町、花小金井南町にあたる。開拓資金の多くを提供したのは木更津の商人、野中善左衛門。ちなみに新田開発は資産家にとってはいわば投資先でもあり、出資して無事に開拓が完了すると、高い値段で権利を転売するといったことも行われていた。鈴木新田に隣接する野中新田は、そのような形で野中善左衛門が開拓した村だ。

そして鈴木用水が開通したのは1730年。野中新田とあわせ「鈴木新田・野中新田組合飲水」として玉川上水の喜平橋の付近に分水口がつくられた。用水路は鈴木新田に入る前に、鈴木用水と野中用水に分岐し、各新田へと流れていく。鈴木用水は鈴木街道に到達すると、小川用水などと同様に街道の両側にわかれて鈴木新田の家々に水を供給しつつ東へと流れていき、流末は石神井川に落とされていた。
野中用水からは1734年、更に大沼田用水が分岐された。こちらは1724年に開拓が始まった大沼田新田のための用水で、呑水だけではなく、わずかながら水田にも利用され「大沼田新田田用水・呑用水」とも呼ばれた。当初は鈴木・野中用水の分水口の隣に別途取水口が設けられ、取水後に鈴木用水の流れに合流していた。

3つあった鈴木用水

 なお、「鈴木新田」「野中新田」は少し離れた玉川上水の南側にもひらかれ(上鈴木新田(現小平市上水本町)、堀野中新田(現小平市上水南町))こちらにも1732年に玉川上水より分水が引かれている(鈴木新田・野中新田・貫井新田・下小金井新田組合呑水用水)。
さらに、石神井川源流部の浅い谷戸に開かれた小平地区ほぼ唯一の水田も鈴木村の管轄で、こちらにも1734年に「鈴木新田「田」用水」がひかれている(「石神井川の源流を探して(4)源流解題ー鈴木遺跡・鈴木田用水・経理排水・石神井幹線」参照ので、ややこしいといえばややこしい。この一帯の用水路を紐解くには混同しないよう留意しなければならない。

明治以降の用水

 これらの用水はもともとはそれぞれ玉川上水から直接取水されていたが、明治初期に玉川上水への通船を行うため、取水口の集約が行われた。鈴木用水など上水左岸(北側)の分水路は、玉川上水に平行して開削された「新堀用水」から分水されるようになった(右岸(南側)の分水路は、砂川用水を、既存の他水路と接続しつつ東に延長し、そこからの分水となった)。これに伴い、各用水路の管理も一本化され、「北側新井筋組合」が設立された。

 用水は明治末期まで飲水として利用されていたが、大正期になると用水の水流を媒介として赤痢やチフスなどの伝染病が流行したため、徐々に井戸に移行していった。ただし地下水位が低いため井戸の開削にはコストがかかり、なかなか普及はせず、水の苦労は続いた。戦後になって行政により深井戸がつくられるようになり徐々に水道が普及していく。こうして用水路は徐々に役目を終えていった。

消えた用水、生き残った用水

 用途を失った用水路は一方で水路沿いの宅地化が進み、排水が流されたり、ゴミが捨てられて荒れ果てたりといった状況も発生するようになった。田無市や小金井市、国分寺市などでは用水路の大半は暗渠化されたり埋め立てられたり、もしくは完全に消滅してしまった。
 ただ、水路の大半が通る小平市では、幸いにも水路の大半は生き残った。そして、1995年に「小平市用水路活用計画」が、2001年には「小平市上水路条例」が施行され、市として水路を保全していく方向性が明確にうちだされた。2006年には地方分権一括法により、用水路の所有権が国から市へ移管されている。
 小平市内に残る用水路は、この保全策により今でも水が流れている区間が多い。そして、小平監視所より下流の玉川上水が高度処理水、つまり下水の再生水を流されているのに対し、これらの用水路は多摩川からの水がそのまま流されており、いわば本物の分水が今でも生きているといえる。

現在の鈴木用水

 現在鈴木用水は途中までは水が流れていて、かつての新田の面影を残す風景も点在している。一方で、途中からは水が流れない空堀となり、緑道や暗渠となっていたり、埋まりかけていたり、あるいはほとんど消滅してしまった区間もある。そこには用水路の現在の姿のバリエーションがほぼ網羅されているといってよい。そこで、今回は鈴木用水を事例として、現在の武蔵野台地上の玉川上水からの分水路の様子を辿ってみることにしようと思う。

最初に全体図を示しておく。地図はgoogle mapにプロットしたものをキャプチャ。ピンク及び赤のラインが用水路(ピンクは現存、赤は暗渠もしくは水路跡)、水色及び青のラインが川(水色は現存、青は暗渠もしくは川跡)。鈴木新田のおおよそのエリアを緑の塗りつぶしにて現した。なお、地図外の玉川上水南側に、上鈴木新田がある(現小平市上水本町)。
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現在の鈴木用水は喜平橋での新堀用水からの分岐点に始まる。前文でふれたとおり、もともとは玉川上水から直接分水されていたが、1870年(明治3年)に玉川上水に平行する新堀用水が開通してからは、新堀用水の取水口でまとめて定まった量の水を取水し、ここで分けられるようになった。
新堀用水本流のほうは、ここから先は現在は田無用水にしか給水しておらず、水路もそれ以外は途切れてしまうため、実質的には鈴木用水と田無用水の分岐点といっていいだろう。鈴木用水の方に小さな水門が設けられている。
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水門を反対側から見たところ。分岐点のところだけは、コンクリートのしっかりした護岸となっている。
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水門で分かれた鈴木用水はまず北上する。通常は澄んだ水が流れているのだが、上の写真を撮影した2014年5月の時点では水は濁っていた。これは、新堀用水の水路底に亀裂ができたため2013年夏より送水が停止されており、今年5月に再開したばかりのためだ。
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水路は警察学校の前で暗渠へと入り込む。入り口の芥止めには雑草など大量のゴミが引っかかっている。一年足らずの停止期間の間に水路に生えた草や落ちた枯れ葉などが運ばれてきているのだ。
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右端に見える柵が、先の写真の芥止めの地点。水路は道路を横断し、直角に曲がって左側の歩道を暗渠になって写真奥方向、東へと流れていく。本来はここで曲がらず北東に流れていたが、1942年の陸軍経理学校の開設に伴って、敷地の南側〜東側を迂回するように付け替えられた。
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経理学校の敷地は現在警察学校や小平団地となっている。その区画の南側に、都区部でもよく見られるような、コンクリート蓋の暗渠が続く。蓋の上から中の様子はまったくわからず、知らなければ古びた暗渠にしか見えないが、この中には多摩川から運ばれた水が滔々と流れている。
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小平団地南東側の喜平図書館付近。暗渠の上にバス停がつくられている。
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暗渠は回田道に沿って北上した後、小平団地東交差点付近で道路から離れ、再び姿を現す。
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水路沿いには未舗装の歩道が続き、ちょっとした散歩道として整備されている。
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しばらく進むと、野中(及び大沼田)用水との分岐点が見えてくる。左側の大きい水門が野中用水、右側が鈴木用水だ。明治初期の記録では野中用水と鈴木用水の分水の比率はおよそ4:3。水門の手前の水路の分岐点には水を均等に分けるため堰が設けられているが、その幅の比率は4:3ほどとなっており、おそらく明治時代と変わりないのだろう。
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水門を下流側からみたところ。エメラルドグリーンの水門にペンキで描かれ青い水がシンプルながらよい雰囲気を出している。
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野中・大沼田用水はまっすぐ北に向かって流れていくが、分かれた鈴木用水は、北東方向に向い、民家の敷地内の森へと流れていく。ここから先は水路沿いを辿ることはできないので、道路と交差する地点を回り込みながら追っていくこととなる。
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民家の敷地を抜けてきた水路は一旦鉄板暗渠に入るが・・・
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道路を横切って再び姿を現すと、林の中を抜ける素掘りの水路となる。こちらもかつての武蔵野の用水の姿を残す素晴らしい風景だ。
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林を抜けたのち、水路は鈴木街道沿いに到達する。ここより東が鈴木新田の中心地となる。街道の西端には鈴木新田の鎮守である鈴木稲荷神社があり、水路はその境内を抜けていく。鈴木稲荷は1724年、開拓の中心人物である鈴木利左衛門の出身地貫井村の稲荷神社を新田の産土神として勧請した社である。
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参道が鈴木用水をまたぐ地点には、昭和12年竣工のコンクリート橋がかかっている。
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神社の境内を抜けていく鈴木用水。
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鈴木街道に出ると水路はほぼ直角に東に曲がり、真新しいコンクリート暗渠の中に入ってしまう。写真右側が鈴木稲荷の境内。そして道路を挟んだ反対側は宝寿院の敷地だ。宝寿院は鈴木稲荷神社と同じく鈴木利左衛門が、新田開発に尽力した父の菩提寺として1726年に府中より移設し開山した寺だ。
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鈴木用水はここより先、道沿いに並ぶ家々に呑水を給水するために、街道の両側に分かれて街道に並行し東進する。写真奥がその分岐点で、手前に見えるのは街道南側の水路だが、こちらは現在水が通されていない。
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こちらは街道北側の水路。道路を挟んだ奥が南側水路との分岐点だ。鈴木用水を流れてきた水は、2014年5月現在では北側水路のみに流されている。ではその水はどこまで流れているのだろうか。次回以降は南側水路、北側水路のそれぞれを追っていこう。
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(つづく)

主要参考文献

大日本印刷株式会社CDC事業部年史センター編 1994「小平市三〇年史」小平市
小平市中央図書館編 2001「小平市史料集 第26集 玉川上水と分水4 水車 絵図」小平市教育委員会
小平市史編さん委員会編 2013「小平市史 地理・考古・民俗編」小平市
小平市企画政策部編 2013「小平市史別冊図録 近世の開発と村のくらし」小平市
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by tokyoriver | 2014-06-26 12:00 | 玉川上水とその支流 | Comments(0)
前回に引き続き、比較的メジャーな場所を取り上げてみよう。武蔵小金井駅近辺で所用のあったとある春の夕暮れ、そういえば近くにあったということを思い出し、駅から歩くこと十数分、尋ね来たのがこの土手だ。
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パッと見、どこかの川の土手のようでもあるだが、これは築樋である。築樋の上にはかつて「玉川上水小金井分水」が流れていた。元禄年間(1688〜1704年)に玉川上水からの分水を許可されたこの分水は、小金井市貫井北町3丁目近辺から南東〜南へと流れ、小金井村方面の飲用水や灌漑用水として利用されていた。
築樋というからには、低地を跨いでいるわけで、進んでいくと築樋の下は窪地となり、そこを通る枯れた水路が見下ろせる。仙川だ。小金井村の南方まで水を引くためにはこの仙川の流れる「山王窪」を越えなければならない。そこでつくられたのがこの築樋だ。
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仙川の水路を上流方向に向かって見下ろすと、谷筋がはっきりわかる。そして高低差も結構ある。近くにある解説板には、築堤の建造当時の全長は102m、高さ5.4mと記されている。谷底は公社小金井住宅となっており、1968年に起きた3億円事件では、犯人の使った車がこの団地の一角に乗り捨てられていたという。
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下流方向を見下ろしてみる。左岸側の方が高低差がありそうだ。この近辺の仙川は最上流部にあたり、現在の仙川上流端はここから600mほど西にさかのぼった地点にある。ただ、三鷹市新川の野川宿橋までの区間は、通常時は全く水の流れない涸れ川となっている。現在見られる水路は、戦後開削されたものだというが、谷筋になっていることから、もともとかつての川の痕跡で、湿地や小流れとなっていたのだろうと思われる。小金井分水から分かれた分流のうちいくつかは、流末が仙川に繋がっており、戦後の開削以前から何らかの排水路があったのではないかとも思われる。動脈の小金井分水に対する、静脈の役割を果たす水路があったはずだ。
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さて、この山王窪の築樋から、上流方向(北)に遡っていってみよう。小金井分水は小金井市内で幾手かに分かれながら一帯を潤し、その末端は野川や仙川、深大寺用水に接続されていた。末流のひとつは以前こちらの記事で紹介している。

「国分寺崖線・野川に注ぐ湧水&ミニ支流たち(5)玉川上水小金井分水の末流」

下の地図はgoogle mapのプロットよりキャプチャしたもの。細いオレンジのラインが小金井分水の水系となる。今回たどるのは水色で囲んだ部分だ。
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小金井分水は、1970年代までにはその役目を終え、大半は埋められてしまい、一部は遊歩道となって痕跡を残している。写真は築樋上につながる遊歩道の入り口を南に向かって見たところ。数分進むと先ほどの築樋になる。
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そして、大半は埋められたと記したが、この築堤入り口より北側は、水こそ流れていないものの、水路の大半がそのまま残されている。写真は水路が築樋手前で暗渠に入る地点。
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畑がところどころに残る静かな住宅地の中を、緑に囲まれた空堀が続いている。
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ここも手入れされた植え込みと桜並木の間で、よい雰囲気。水が流れていたらさぞかしよかろうに。
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どんどん遡っていくと、都区内でみられるようなコンクリート梁がはしご状に続く水路となる。
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水路はやがて、短い鉄板蓋暗渠に入る。
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わずかな区間、植え込みに囲まれた蓋暗渠となったのち・・・
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水路は何の変哲もない側溝になってしまった。ここから先は数年前までは畑の中の道沿いにコンクリート蓋の水路が続いていたのだが、あっという間に住宅が立ち並び、道路の再舗装に合わせて側溝にされてしまったようだ。google mapのストリートビューでは、まだ数年前の様子を見ることが出来る。
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味気ない側溝を遡っていくと、途中側溝すらなくなってしまうが、しばらく先には水門が見えてくる。奥に見える背の高い並木は、玉川上水沿いの緑だ。
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ここが、小金井分水の最終的な分水地点だ。左奥から右手前に流れているのは玉川上水砂川分水(深大寺用水)。小金井分水は当初は奥に見える玉川上水から直接分水されていた。しかし、1870年の玉川上水通船時の分水口整理により、現在の立川市から小金井市にかけて玉川上水南側に分かれる分水は、分水口を1箇所に集約された。つまり、砂川分水(深大寺用水)の分水口で各用水の水をまとめて取水し、砂川分水を本来の区間よりも下流方向に延長して、玉川上水に並行する分水専用の水路をつくり、そこから各用水を分水するようにしたのだ。小金井分水口も、その際に、砂川分水からの分水に変更された。
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玉川上水の北側にも同様にしてつくられた「新堀用水」があり、こちらは今でも水が流れている。ちなみに、砂川分水の分水口は柴崎分水と同じ場所にある。こちらの記事1枚目の写真に映る水門うち、左側のものが砂川分水だ。

「柴崎分水(立川分水)(1)分水地点〜昭和記念公園まで」

砂川分水(深大寺用水)には古い大理石の橋がかかっている。手前は鉄板になってるのは、後から道路を拡幅したのだろう。
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分水地点より、砂川分水(深大寺用水)を上流方向に向かって眺めてみる。水路の幅はかなりあるが、残念ながら全く水は流れていない。この近辺の区間はすでに砂川を通り越しているので、深大寺用水と呼んだ方がいいのかもしれないが、先の分水口集約など複雑な経緯により、呼び方は統一されていないようだ。
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暗渠をたどるのも楽しいが、武蔵野台地上にはこのように空堀となって用水路がいくつも残っていて、これらを辿るのもなかなか面白い。中には素掘りの素朴な水路や、今でも水の流れる水路もある。以前の記事では鈴木用水を紹介したが、また追々紹介していきたい。

「どっこい生きてる鈴木用水(玉川上水鈴木新田分水) 」

なお、主な水路については「東京北西部の中小河川」さんがコンパクトに紹介されている。またimakenpressさんのブログでも、今回取り上げた小金井分水をはじめ、丁寧に追われている。
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by tokyoriver | 2011-05-28 00:19 | 玉川上水とその支流 | Comments(4)
西武新宿線上井草駅から西に200mほどの線路上に、千川上水橋梁と記された小さな鉄橋がある。全長10mにも満たない小さな鉄橋だが、1926年竣工の古い橋だ。西武新宿線の開業が1927年だから、開業以来ずっと使われているということになる。
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橋の名前からわかるように、この下には、千川上水が流れているのだが、前後の区間が暗渠化されているのに、なぜかこの鉄橋を潜る区間の開渠のまま残されている。
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千川上水は1696年に玉川上水から分水された用水路だ。当初は小石川御殿や湯島聖堂、上野寛永寺、浅草寺などの飲料水を供給するための上水路としてひかれたが、後には現在の練馬区や豊島区のエリアの農業用水、そして明治以降は工業用水としても利用され、1971年に送水が停止されるまで、途中何度か中断をはさみながらもおよそ270年もの間流れ続けてきた。
1989年に玉川上水の清流復活事業が行われた際、千川上水のせせらぎも復活しているが、流れが見られるのは上流の5kmほどで、それより下流は、昭和初期から戦後にかけて暗渠化されたまま今に至っている。

千川上水は、青梅街道を越える関町一丁目交差点のところから千川通りの歩道の下を暗渠となって流れていくのだが、そこから1.2kmほどの西武新宿線を踏切で越えるこの場所で、再びヒューム管から顔を出す。
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暗渠から流れ出す水は1日3000トンほどだという。清流復活により千川上水には1日1万トンの高度処理水が流されているのだが、そのうち7000トンは暗渠となる青梅街道交差点のすぐ先で善福寺川へと導水されており、残りがここを流れているというわけだ。
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水路は西武新宿線が建設された際に、なるべく鋭角に川を渡るように、つまり鉄橋の長さが短くなるように付替えられたとのことだ。川底の幅は1mほどだが、V字型に深い水路敷となっていて、敷地の幅は5mくらいはある。
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鉄橋の下を流れていく。
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開渠の区間は35mほど。鉄橋を潜ってすぐの地点で、水路は再び地中に潜ってしまう。顔を出す地点とおそらく同じ太さのヒューム管に水が流れ込んでいく。
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線路の北側に続く千川通り。不自然に幅広の歩道の下を暗渠が流れているが、知らなければ地上からはまったく判らない。
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千川上水に流れる3000トンの水は、この先13kmあまりを再び暗渠で流れていく。そして、JR埼京線板橋駅の東側で、谷端川放水路の暗渠に接続され、北上した後石神井川に放水されている。ちなみに谷端川放水路の暗渠は、1924年に谷端川の氾濫対策としてつくられた水路で、現在では谷端川幹線の雨水幹線として使われている。

高度処理水とはいえ。せっかく水が流れているのだから途中の区間で水路を復活できないものだろうか、と思ってしまうが、現実的にはなかなか難しいようだ。それにしても、13kmもの距離にわたって比較的きれいな水が人知れず地下を滔々と流れていくさまは、まさに暗渠であり、なにやら秘密めいた感じがする。

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by tokyoriver | 2011-05-23 23:51 | 玉川上水とその支流 | Comments(2)
柴崎分水を辿るシリーズの最終回。

googlemapにプロットした柴崎分水流路図はこちら

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多摩川にかかる日野橋へと続く、立川通りの東側。根川が暗渠から姿を現す地点には3つの暗渠が合流している。その中で、中央に見える土管が柴崎分水の合流点だという。柴崎分水はここで根川に合流し終わりとなるが、その水の流れる先をしばし追ってみよう。
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根川は複雑な経歴を持つ川だ。根川は、もともとは立川段丘の崖線下に湧き出る水を集め、昭島市中神付近から、多摩川に並行するように東に流れていたと思われる。そこに、明治時代中期、残堀川が接続された。玉川上水に合流していた残堀川は、水質の悪化から玉川上水に流れ込まないようにするため、上水を越えて南下する下流部の新水路が開削された。その際に立川市富士見町付近で立川段丘を下って以降、根川に流れ込むようになった。このため根川の水量は一気に増したという。その後、残堀川に由来する度重なる氾濫から、1972年には残堀川の流路が変更され、途中から多摩川にショートカットする流路がつくられた。この際、根川の下流部は上流部と切り離され短い川となってしまった。そのうえ、上流部は埋め立てられた上で小川の流れる緑道として、地下水と下水処理水の混合水が流れるせせらぎがつくられた。さらに1990年代に入って、根川緑道沿いにある立川市錦町下水処理場から混合水の10倍の水量となる無色無臭の高度処理水が流されるようになり、これにあわせて再整備され、現在の姿になったなったという。

暗渠部より下流の根川は、昭和初期に整備された土手と桜並木の名残が残っているようで、なかなか風情のある景色となっている。
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根川は立川球場の北側を500mほど流れた後、多摩川に合流する。合流地点直前は川岸まで立川段丘の崖線が迫っており、貝殻坂橋という吊り橋がかかるあたりはちょっとした渓谷風になっている。橋のところで流域は立川市から国立市へと変わる。川岸ではサギが魚を狙っていた。
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この辺りは既に多摩川の河川敷内に入っている。傍らには、こんな看板があった。
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吊り橋の少し先で、根川は多摩川に合流しているのだが、正確には日野橋付近で、府中用水に水を引くために多摩川の本流から分かれた流れに合流している。そして、200mも進まないうちに、その分流が府中用水に取り入れられる地点に至る。取水口の手前は淀んだ淵になっていて、南側には堤防を越えて余水が流れ落ちている。
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府中用水の取水口には、大正初期につくられたと思われる、由緒ある取水樋門が3つ並んでいる。多摩川流域でも最古の部類に入るものだそうだ。もともとは4つの樋門が連なっていたが、北側のひとつは現在では埋められている。この水門は毎年5月から9月にかけて開けられ、それ以外の時期は閉まっている。
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府中用水は取水口から取り込まれた後、少しの間暗渠となっている。その上から多摩川の河川敷を望む。遥か遠くに右から左へと多摩川の本流が流れているのだが、遠すぎる上に手前の河川敷には木々が生い茂り、水面を望むことは出来ない。右側から画面中央奥に向かって先の余水が流れている。手前から奥に向かうコンクリートの無骨な水路は緑川だ。
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その緑川の暗渠の出口が立川段丘の崖線にぽっかりと口を開けている。上部には「緑川排水樋管」と記されたプレートがはめられている。矢川の項でも少し触れたが、緑川は立川駅北側一帯の排水路としてつくられた人工河川だ。おそらく終戦直前につくられたこの川は1960年代にはその大部分は暗渠化され、上にはみのわ通りがつくられた。十年ほどまで下流の数百メートルは開渠だったようだが、いまではこうして完全に暗渠となっている。このすぐ下を先の府中用水が潜って越えている。
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こうして辿って来てみると、柴崎分水を流れて来た水のなかには、もしかすると根川と多摩川の分流を経由して、府中用水へと流れ込んでいるものもあるかも知れない。水の旅の壮大さを垣間見るような、そんな感じだ。


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さて、最後に柴崎分水の分水路の遺構をいくつか取り上げよう。下の地図の赤い点の地点を上流側(左側)から。
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まずは、柴崎分水東側水路の暗渠というか流路跡。西立川駅の南東で分かれていた分水路は、水車が4カ所ほど設けられ、途中柴崎町1丁目の諏訪神社付近では二手に分流するなど、こちらも重要な役割を果たしていたようだ。現在では埋め立てられその面影はほとんど残っていないが、この水路が再び本流に合流する直前の地点には暗渠が残っていた。水は涸れているものの、細いコンクリート蓋の水路が路地の真ん中を通っている。
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よく見ると、コンクリート蓋の外側のアスファルトに玉石が埋もれているのが見える。もともとはこの玉石のところまでが水路で、玉石の右側のコンクリートに玉石がはめ込まれていたようだ。暗渠化される際に、水路を埋め立てたのち、一回り幅の狭いコンクリート溝を埋め込んで暗渠としたのだろう。
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次に取り上げるのは、前回紹介した、柴崎分水が滝のように流れ落ちる邸宅の中で分岐していた、立川段丘の上を流れて行く分水路跡。
敷地の北東角、水路が屋敷から外に出て行っていた地点に、石垣の下に水路の抜けていた痕跡が残っていた。石垣の中をのぞいて見たが、埋め立てられてしまったのか、水路の痕跡はなさそうだった。
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その痕跡の向いの家の玄関前には石蓋の暗渠の跡が残っていた。一見ただの敷石にも見えるが、隙間があって中は空洞だった。
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更にその延長線上にある、別のお屋敷の脇には未舗装の細長い空き地が。ここに水路があったようだ。
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この水路は細長い空き地のある屋敷の中を抜けた後、モノレールの柴崎体育館駅の東側に抜け、立川段丘の崖線を下って、柴崎分水本流に合流していた。柴崎体育館駅の東側の崖線には高い木が茂っている。
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崖線の直下に行ってみると、分水路が暗渠から顔を出している地点が残っていた。ここのすぐ南側は前回紹介した菖蒲田となっている。水路はかつて崖線下をしばらく南東に向かって、前回紹介した田圃のそばで本流に合流していた。
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長くなったが以上で玉川上水柴崎分水(立川用水)のシリーズを終わりとする。玉川上水からは数多くの分水路が引かれていたが、取水口から末端まで現在でも水が通じている分水路は、現在ではほとんどないのではないだろうか。そういった意味で柴崎分水は非常に貴重だと思われる。そして、往時の姿を留める素堀の水路、様々なタイプの暗渠、線路を渡る水路橋、斜面を直に降下する水路、最後に現れる水田など、みどころに富んでおり、地図上でも住宅地図レベルにならないと記載されておらず、迷路を辿るように流路を解明していく楽しみもある。興味を持たれた方がいたら、ぜひ辿ってみていただきたい。
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by tokyoriver | 2010-07-27 23:38 | 玉川上水とその支流 | Comments(2)
googlemapにプロットした柴崎分水流路図はこちら

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中央線沿いから離れた柴崎分水の水路は、住宅の密集する隙間を縫うようにジグザグに流れていく。流路沿いに道はないので、横切る道を探しながら辿っていくと、やがて、草むらの中を普済寺の境内へと向かっていく。
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普済寺は立川一帯を領有していた立川氏の菩提寺として1353年に建立された寺で、敷地は立川氏の居城跡だという。境内には防御用の高さ2mほどの土塁が今でも残っている。
広々とした境内を西向きに通る参道を本堂に向かって行くと、本堂の直前に立派な石でできた太鼓橋が架かっていて、その下を柴崎分水が流れていた。
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墓地との境目をクランク状に流れて行く。川底も玉石で覆われている。
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墓地へ向かう小さな橋がいくつも架かっている。右岸側はちょっと開けた空間。ここも寺の敷地のようだ。
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道路沿いを下って行く。やや傾斜があるせいもあってか、水の流れは早い。この辺りも流路はジグザグで行ったり来たり。
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宅地の中をところどころ蓋掛けされながら抜けて行く。すぐ左側(南側)には立川段丘の崖線がせまり、崖線の下には残堀川が流れている。
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ここへきてようやく、用水沿いに畑が現れる。市民農園らしく、用水路の水が使われているという。畑の少し先ではかつて、青梅線の南側で分かれた分水が再度合流していた。こちらの分水はほぼ埋め立てられてしまっているようだが、合流点の近くだけ痕跡が残っていた。これについては次回とりあげよう。
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流路は宅地の間を抜け、やがて木の生い茂る大きな敷地を持つ邸宅内へと入って行く。敷地内には用水路の水をひいた池があり、その脇にはかつて水車もあったという。また、本流は敷地内で立川段丘を下るが、かつてはしばらくそのまま段丘の上を流れて行く分水が敷地内で分岐していた。この痕跡についても次回取り上げる。
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邸宅の南側は立川段丘の斜面。柴崎分水はここで一気に段丘を下る。画面の奥、ちょっとわかりにくいが斜めに水が流れているのが見えるだろうか。水路が滝というか、すべり台状になっていて、凄い勢いで水が流れ落ちている。
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塀の向こうが邸宅の敷地。水は写真右上から左下へ流れ落ち、塀の下から出て来ている。流れ落ちた地点の水が白くしぶきを上げている。下った後は直角に曲がって、邸宅の南側に沿って東へ流れて行く。
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川沿いの車の出入りのためか、一部は蓋をされて暗渠になっている。ブロック塀の右側には溜池もあって、用水から水を引いているようだ(見に行った時点ではまだ水が引かれておらず、からっぽだった)。
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崖線から少し離れると、流路はコンクリート護岸の平凡な水路となる。ここだけ見ると、はるか拝島方面から水が引かれているようには見えない。
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多摩モノレールの柴崎体育館駅の下をコンクリート蓋暗渠で潜って行く。何も知らなければただの蓋付きの側溝にしか見えない。
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駅の東側は立川公園となっていて、公園の中央を素掘りの水路が抜けて行く。北側に菖蒲田がつくられていて、用水の水が引かれている。かつては公園全体が水田だった。公園の南側にもかなり立派な水路がある。柴崎体育館駅の西側で分岐している分水路だが、こちらの水は止められている。そして、菖蒲田の北側、立川崖線の直下にも水路の痕跡が残っている。こちらは先の邸宅で分水された分水路だ(この痕跡については次回)。
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菖蒲田の南側に至ってはじめて、柴崎分水の水が本来の用途で使われている風景があった。小さな水田に、柴崎分水の水が張られている。分水沿いに唯一残っている水田だ。極端に言えば、この小さな水田のために、はるばる遠くから水が引かれていることになる。
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ちょうど老人がひとりで田植えをしていた。
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水田を南側から見る。奥には菖蒲田があり、その背後には崖線を覆う緑がこんもりと見える。
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柴崎分水は水田の北側の崖線の下をコンクリート水路になって南下し、立川公園南側の分水路と合流する。ここでは分水路に水田の余水が流れ込み、水が流れている。
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水田を離れた柴崎分水は、柴崎体育館の北側を東進していく。水深は浅いが幅のある、コンクリート梁付き水路。
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流路は根川橋の北側で、根川沿いにつくられた根川公園の敷地内へ。根川は残堀川に水源を奪われた数奇な運命を持つ川だ(詳しくは次回)。公園の隅、目立たない一角に最近整備されたビオトープと柴崎分水の看板があった。柴崎分水の説明板にはどこもなぜか「ほとんどが暗渠化」と書かれているのだが、実際には暗渠化されているのはせいぜい半分くらいの区間。
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根川橋の南側の流路。あまり用水路らしくなく、普通の川のようだ。
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南東にしばらく流れたのち、流路は根川公園の池にぶつかる。この池は鬱蒼とした緑に囲まれているが、根川の暗渠の上につくられた人工池だ。柴崎分水は池に流れ込んでいるようにもみえるが、実際にはここでは合流せずに池に沿って更に東へ進み、根川が暗渠から姿を現している地点で、根川に合流している。根川への合流地点については、次回に紹介しよう。
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by tokyoriver | 2010-07-20 23:38 | 玉川上水とその支流 | Comments(6)
柴崎分水シリーズの第3回目は、奥多摩街道沿いを中央線沿いまで追ってみる。今回の範囲は流路があっちこっちへと曲がり複雑なので、最初にgooglemapにプロットした流路図を示しておこう。例のごとく埋め込みリンクが出来ないので画像で表示。
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googlemapにプロットした柴崎分水流路図はこちら

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奥多摩街道沿いに出て姿を現した柴崎分水は、街道沿いに暗渠と開渠を交えながら南東へと下って行く。道路の南側を通る区間では、微妙に街道から離れ、街道沿いの民家の敷地内を通っていたりする。下の写真の民家では庭の池に分水の水を引き込んでいた。
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しばらく進むと水路は奥多摩街道から離れて北東へと静かな住宅街の中を進んで行く。古い民家の立派な門の前には、小振りだがしっかりした造りの石橋が架けられていた。
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道路の脇を流れて行く用水路。一見ただの側溝に見えなくもないが、遥か羽村で多摩川から取水された水がここまで流れてきているのだ。
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水路は中途半端に穴のあいた変な暗渠〜コンクリート蓋暗渠〜鉄板暗渠となって住宅地の中を回り込み、東へと進んでいく
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そして、中央線の切通しにぶつかると、細長いコンクリート蓋の暗渠となって、線路に沿って南下していく。蓋は比較的新しそうで、道路にぴったりと嵌っていて中を流れる水の気配はまったく感じられない。
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あまり暗渠の蓋らしからぬコンクリート板の先に、左に曲がる蓋が。
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曲がった先には、中央線の切通しを鉄橋で越える水路があった。中央線は立川段丘の台地を日野方面に下るために、台地を切り開いて下っている。その台地の上を柴崎分水が流れているため、このように橋となっているわけだが、よくあるような送水管ではなく、水面が露出した状態で越えるのはそう多くはないのではないか。かつて恵比寿駅の西方で三田用水が旧山手通りを越えるところで同じような水路橋となっていた事例を思い出させる。
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水は深さこそ浅いものの勢いよく流れている。雨で増水したときなど、溢れやしないのだろうか。
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線路を渡りきると、玉石の護岸の水路が姿を現す。線路沿いに少し北上したのち、再び暗渠となり、個人宅の敷地内を東へと抜ける。
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抜けた先は再び道路沿いに東進。水路端に説明板が設置されていた。今年の1月に建てられたばかりのものだった。
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そばには洗い場の跡もあった。脇は駐車場になっているが、かつては民家か畑だったのだろう。
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石でできた、丸みを帯びた欄干があった。かなり古そうだ。この少し先で水路は南へと向きを変え、再び奥多摩街道沿いに出ると今度は西向きへと流れて行く。
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街道からやや離れて個人宅の中に入っていったり、建物の下を通ったりしたのち、奥多摩街道の脇へ。水路は少し深り下げたところを通っている。
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街道沿いに熊手や簀の子、籠などの竹細工の店があった。もともと近隣の農家の農具を売っていたのだろう。店の前は鉄板暗渠となっている。
奥に見えるのは奥多摩街道が中央線を越える陸橋の欄干だ。少し先(西)にいけば、最初に紹介した池や石橋のあったエリアだ。流路がずいぶんと迂回してきたことを示している。
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水路は竹細工店の敷地内を経由した後、再び中央線沿いに戻り、未舗装の道端を南下して行く。そして、写真の青緑の柵のところで中央線を離れ、東に曲がり住宅地の中へと流れて行く。
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(以下次回)


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by tokyoriver | 2010-07-12 23:32 | 玉川上水とその支流 | Comments(7)
googlemapにプロットした柴崎分水流路図はこちら

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昭和記念公園の北方で暗渠となって行方をくらました柴崎分水の水路が再び姿を現すのは、昭和記念公園中ほどの残堀川遊水池の南側からだ。

残堀川は昭和記念公園と、まだ空き地となっている立川基地跡敷地の境界を流れており、川沿いにつくられた遊水池がつくられている。遊水池そばの看板に柴崎用水路の字が見える。
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普段は遊水池はもちろん川にもほとんど水はない。川沿いには雑草が生い茂り、荒涼感を漂わせている。遠くには、立川基地跡に残る陸軍航空廠の煙突が小さく見える。
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遊水池の南西角に接して、残堀川に「やまぶき橋」がかかっており、その左岸側(東側)から、鉄柵で蓋をされた柴崎分水が、残堀川に並行して流れている。写真右側には残堀川の護岸が見える。立川基地跡北側では残堀川の右岸側を流れていたので、どこかで残堀川を渡っているはずなのだが、地図や空中写真を見る限り、どこで渡っているのかわからない。もしかすると「やまぶき橋」の下に懸樋や導水管があるのかもしれないが、確認を失念。
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柵の下を水がさらさらと流れている。枯れ果てた残堀川とは対照的だ。
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しばらく進むと、水路は再び完全な暗渠となってしまうが、写真のようにところどころ、顔を出しているところもあり、残堀川の左岸に並行してずっと続いている。
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花木園のあたりで、石積み護岸の水路が姿を現す。
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公園の緑の中を緩やかに曲がりながら流れていく。川の上にかかっている木の中にはものすごい数のムクドリがとまっていて、下を通るといっせいに飛び立っていった。
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花木園を抜けるあたりで、水路は再び鉄柵の覆う「半渠」へと入っていく。
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「半渠」は残堀川に沿って南下し、公園の南側にかかるふれあい橋の下付近で再び完全な暗渠となって姿を消してしまう。
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公園の外に出て、JR青梅線の残堀川橋脚のそばまで行くと、その脇に柴崎分水が姿を現していた。線路をくぐるところだけは、開渠になってるのだ。線路の北側には、水かさが増したときに残堀川に余水を流す短い水路があった(写真右奥の青い柵のところが残堀川)
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青梅線を越えると、柴崎分水は残堀川から東へと離れていく。写真の場所にはかつて水車があったそうだが、今では水路の幅の空き地があるだけだ。
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青梅線と並行する道路に沿ってしばし東へ。この区間の水路は完全に暗渠となっていて、地上のマンホールしか目印がないが、残念ながらこの区間のマンホールは下水道と全く同じ「下水」と書かれた蓋となっている。実際には下水は混入していないはずなのに、残念。蓋の穴からは、勢いよく流れる水が見え、中に流れているのが下水ではないことがわかる。
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しばらく東に進むと、こんどは南下する道へ沿っていく(かつてはここで分かれ、もう少し東に進んでから南下する支流もあった)。ここでは暗渠はガードレールに囲われた歩道の下を通っている。さっきの区間よりはやや暗渠っぽさがある。
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青梅線の支線を越えた先から、ようやくコンクリート蓋付の暗渠となる。時折設けられた柵からは中の水流が覗ける。
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水路は奥多摩街道にぶつかって再び東へと流れていくが、ここでようやく水路はその水面を現す。
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玉石できれいに護岸された水路は、以後しばらく、ところどころ暗渠となりながらも奥多摩街道に沿って流れていく。
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(以下次回)

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by tokyoriver | 2010-07-06 23:58 | 玉川上水とその支流 | Comments(5)
柴崎分水(立川用水)は、玉川上水から数多く引かれた灌漑・生活用の分水のひとつで、1737年、現在の立川駅南西側にあたる、柴崎村の飲用と水田用の用水として開鑿された水路だ。昭島市と立川市の境界にあたる、松中橋から分水され、立川市の南端で多摩川の支流根川に合流するまで、本流の全長は約8kmほど。上流部では立川分水とも呼ばれていたようだ。

最上流部以外の区間は地図の記載もなく、間に昭和記念公園が挟まることから、もはや水が止められていたり、埋め立てられているものだと思っていたのだが、認識を改めたのが、namaさんの「暗渠さんぽ」での昭和記念公園の記事

残堀川に沿って流れる立川用水の暗渠と「半渠(namaさん命名)」が紹介され、いまだに水が通っていることに驚いた。そして、先日矢川の失われた源流部を辿った際に、偶然遭遇した柴崎分水の末端にも勢いよく水が流れていた。これはつまり、全区間、現役で水が流されているということなのではないかと、俄然興味がわき全区間を辿ってみたところ、実際に分水地点から最後まで水流が途切れることはなく、開渠と暗渠が入り混じったり、迷路のように入り組んだり、中央線を水路橋で越えたりと、実に見所が多く辿り甲斐のある水路だった。そんなわけで、今回から、数回にわけて紹介してみうようと思う。

まずはgooglemapより全体図(組み込みリンクができないので、画面コピーで)
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googlemapにプロットした地図はこちらを。

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柴崎分水は西武拝島線の西武立川駅から南東に300mほどの地点にある「松中橋」で玉川上水から分水されている。分水地点には2つ水門が並んでいるが、左側は砂川分水で、右側が柴崎分水の水門だ。
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松中橋の下流側には2つの用水の取水用に水位をあげるための堰が設けられている。
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砂川分水は、しばらくの間玉川上水に並行して流れているが、柴崎分水はすぐに分かれて南東へと下っていく。松中橋を通る諏訪松中通りを越えたところで、見えにくいがコンクリートの擁壁の下の土管から水が流れ出している。
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水面を見下ろすと、魚がうようよ。流れに逆らって泳いでいる。
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しばらくは深い掘割の護岸の中を進む。右岸側には敷島製パン、左岸はグリコ乳業の工場がある。
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工場を抜けると水面は地表とほぼ同じ高さとなり、素掘りののどかな水路となる。
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水路沿いには洗い場が。
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道路のすぐそばに、全く柵もなければ護岸もない素掘りの水路が流れているのはちょっと感動的だ。水中には適度に水草があり、浅い水路だがあちこちにびゅんびゅんと魚が泳いでいる。
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ちなみにこのあたりの地名は何故か「武蔵野」。武蔵野の車道脇を水がざぶざぶと流れていく。
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最近できたと思われるマンションの前では、水路は堰きとめられて濠のようになっていた。柵に囲まれていて中には鯉が泳いでいる。今までの風景からするとちょっと残念な感じ。かつてはここには土手が築かれていて、その上を流れていたようだ。
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濠の先、水路はいったん屋敷の林の中に入ったのち、再び素掘りの水路となって姿を現す。
どうやら屋敷の中で水路は二手に分かれていて、片方が滝になっているようだ。
先の場所にかつてあったという土手とあわせ、おそらく水車を回していたものと思われる。
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ゆがんだベニヤ板の貼られた橋。いつ落ちることやら。
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このあたりは昭島市と立川市の境界を流れている。水路は細いが、水流は早い。
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「武蔵野」を抜け、中神町に入ったところで、流れは暗渠の中に姿を消してしまう。
分水地点からここまで約1km。
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スーパーの脇に、タイル敷きの暗渠が続いている。
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暗渠はまっすぐ進み、昭和記念公園西側の広大な空き地にぶつかる。この先しばらくは道路の北側にある幅広の歩道を東へと進んでいっているようだ。この広大な空き地は昭和記念公園などと同じくもともと米軍の立川基地(戦前は日本軍の立川飛行場)だった場所だ。1977年の全面返還以降放置されたままで自然林や背の高い雑草の生い茂る荒野となっているが、最近では「国際法務総合センター」の計画が持ち上がっているそうだ。
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暗渠の痕跡はないが、「立川分水」と書かれたマンホールが暗渠の場所を示している。
道路の真ん中にマンホールがあることから、途中で歩道から離れていることがわかる。
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東進すると、残堀川にぶつかる。
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残堀川沿いに設置された案内板を見ると、柴崎分水はこの先いったん残堀川を離れ基地跡の空き地を南下したのち、直角に曲がって残堀川を渡り、その後残堀川左岸に沿って昭和記念公園の南に抜けているように描かれている。一見分水のほうが残堀川にあわせているようにみえるが、矢川のところでも触れたように現在の残堀川中下流は数度にわたる改修によって作られた人工水路で、柴崎分水の流路に沿って現在の残堀川の流路のほうが作られたという。
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ここから先しばらく、柴崎分水の水路を辿ることはできないので、ひとまず残堀川に沿って昭和記念公園へと向かってみる。残堀川はところどころ水がたまっている他は枯れ川となっているが、これは度重なる改修工事の結果川底が透水層に達してしまい、水が底抜けしてしまったり、伏流水になってしまているためだという。
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(以下次回)

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by tokyoriver | 2010-07-01 23:58 | 玉川上水とその支流 | Comments(4)