東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

カテゴリ:白子川とその支流( 8 )

練馬区の北辺、板橋区と和光市との境界付近にある広大な公園「光が丘公園」は、南に接する光が丘団地とあわせて、かつての米軍住宅「グラントハイツ」さらにその前は陸軍成増飛行場だった土地だ。
小学生の頃神保町三省堂で買った2万五千分の1地形図では、光が丘一帯は確か「旧グラントハイツ」と付記された広大な空き地として描画されており、興味を惹かれる場所だった。1983年の夏に地下鉄有楽町線が営団成増まで開通したとき、クラスの友達をそそのかして城北中央公園に復元されている竪穴式住居と、光が丘の空き地に最近出来たという「光が丘公園」を見に行った。その翌春には、クラスのみんなで光が丘公園の原っぱに卒業記念お花見会をしに行った。その年の春の東京は記録的豪雪で、桜はひとつも咲いていなかったけど。
高校3年生の早春、大学受験が終わり卒業式までの、宙ぶらりんの日々にもこの原っぱを訪れ、出たばかりの仲井戸麗市の「絵」を聴きながら空を眺めていたことを思い出す。その原っぱの北側に、白子川へと注いでいた川の暗渠があることは、たぶんその頃には知っていたように思う。
そして、かつてその流域に川を堰き止めて作った池を囲むように「兎月園」と呼ばれる遊園地があったことも、働きはじめる頃までには古地図で確認はしていたはずだ。ただその後も、光が丘公園を訪れることはあっても、暗渠を訪れる機会には巡り合わなかった。
ひと月ほど前の晴れた日曜日の夕方、光が丘周辺を訪れた帰路に、ふとこの暗渠のことを思い出した。ちょうど地図も手許にある。時間も少し余裕がある。そんなわけで成増駅までの道のりを少し遠回りして、この暗渠を下ってみることにした。部分的に整備された暗渠は短いながらメリハリがあった。そしてふとした会話から「兎月園」が、東武鉄道による事業ではなく、一個人の事業から始まったということを知り、俄然興味が湧いた。そんなわけで、現地を訪れた後に兎月園について調べてわかったことを織り交ぜながら、川を源流から下って記事にしてみようと思う。

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川の名前は、そのかつての水源池から仮に「白子川於玉が池支流」としておこう。まずは現地の段彩図を(google earth経由「東京地形地図」をキャプチャ)。
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於玉が池支流は、光が丘公園から東武東上線成増駅/有楽町線の地下鉄成増駅にかけての成増台に深い谷を刻んで流れていた。谷が白子川に向かって西に折れる辺りに兎月園があった。東側には百々向川(ずずむきがわ)の谷が、西側には「旭町はんの木緑地」となっている谷が刻まれている。

於玉ヶ池

かつての川の源流だった「於玉ヶ池」は現在の光が丘公園敷地内の北にあった。「於玉ヶ池」を旭町2丁目アパート付近にも池があった時期があり(下の地図で2つならんだ水色の池)、これを「於玉ヶ池」としているネット情報もあるようだが、これは昭和初期の地図でのみ確認できる別の池で、詳細は不明だが一帯の区画整理と関係があるのかもしれない。
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「みどりと水の練馬」によれば、明治9年の下土支田村「明細書上帳」に、東西11間(20m)、南北21間(38m)、周囲66間(120m)の「於玉が池」として、明治7年の「東京府志料」に、周囲60間(109m)ほどの「御玉が池」として記録が見られるという。古地図を見ると池より更に南側にも谷筋が続いていたようだ。だが一帯は1943年、陸軍成増飛行場建設にあたって大規模に造成され、於玉ヶ池は谷ごと埋め立てられた。
飛行場は戦後アメリカ軍に押収され、1948年、広大な米軍住宅地「グラントハイツ」になった。このころの航空写真を見ると、於玉ヶ池支流の上流部が現在残るルートに付け替えられ、グラントハイツの敷地に少し食い込んでいる様子が映っている。敷地内に降った雨水や埋め立ててなお残る湧水などの排水路にしていたのかもしれない。
ちなみにグラントハイツの下水は、花岡学院(後述)のあった谷筋(現はんの木緑地)を潰してつくった下水処理場に集められ、谷筋にそって白子川に注がれていた。
グラントハイツは1950年代末から部分的にわずかな返還が始まったものの、すべての土地の返還は1973年にようやく終了した。広大な敷地の南側は都営住宅と公団住宅の団地(1983年入居開始)、そして北側が光が丘公園(1982年部分開業)となった。

於玉ヶ池支流暗渠を下る

光が丘公園の北側出口を出てすぐに、水路跡の道は始まる。最初は車道だが、少し北上した旭町2丁目アパートの脇から、シンプルな車止めの立てられた暗渠道が始まる。左右を見ると谷となっていることもはっきりわかる。
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暗渠はまっすぐ北に向かっていく。両側の土地とはわずかながら高低差があり、コンクリートブロックの踏み台なども見られる。
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この辺りの水路がまっすぐなのは、昭和初期の区画整理事業(赤塚第1、第2土地区画整理組合)にあわせて直線化されたものと思われる。一帯は風光明媚な住宅地として売りだされたという。
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暗渠が西に向きを変える前後の区間は、遊歩道として整備されている。婦警さんのイラスト付き看板がたっていた。
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川沿いの、台地上から谷底にかけての斜面が一部、草地で残っていた。午後の陽射しを受けて長閑だ。
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カーブの区間が終わると遊歩道も終わり、傾斜のきつい暗渠となる。横切っている道は「兎月園通り」。そして通りの向こう側はかつての兎月園の敷地だ。大正後期から終戦直前までのわずかな期間存在した、高級料亭を有する敷地一万坪の遊園地。暗渠を辿った時点ではその程度しか知らなかった。
かつては写真の地点から右へ行くと正門が、すぐ左には長屋門があった。長屋門は勝海舟の赤坂邸から移設したもので、何と現在でも石神井の三宝寺に移設されて現存しているという。
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兎月園通りから暗渠を下って、いったん平坦になった辺りから上流方向を振り返ってみる。道路の幅が不均等で不自然だ。この辺りに池があり、ボートや屋形舟が浮かべられていたという。池の広さは1500平米というから長さ50〜60m、幅30m〜40mくらいのものだったのだろう。
写真の右側、フレームから外れた辺りの池畔には立派な藤棚があったようだが、この藤棚は現在練馬東小学校に移設され、区の文化財になっているそうだ。
池の北側には兎月園の中核である料亭本館があった。和洋折衷の建屋には座敷があり、宴会場や結婚式場としても使われたという。そして池の周りの斜面には梅、桔梗、萩、竹、紅葉と名付けられたいくつかの数寄屋造りの離れが点在し、それらの間の移動には担ぎ駕籠が使われたという。
練馬区のサイトには当時の池の写真が掲載されている。おそらく池の南側から北に向かって撮影されたもので、奥に見える建物は離れとおもわれる。
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暗渠の谷の南側を下る階段。かなり急で、高低差もある。池の南側の丘の上には催事広場があって、運動場として使われたり、相撲の巡業やボクシングの興行もあったという。また、その更に南側には小動物園があって、ポニーや猿などが飼われていて、一角には簡素な遊具もあったようだ。
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かつて池だったところを抜けていく暗渠。アスファルトの継ぎ目が水路を示している。
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その先は立ち入れない、雑草生い茂る暗渠となっていて、猫が日向ぼっこをしていた。兎月園の池は川をこの辺りで堰き止めて水を溜めていたようだ。池から流れでる水は5mほどの滝になっていて、写真の右奥のあたりには露天の岩風呂を有する浴場があって、その滝を眺められるようになっていたという。今の風景からはとても想像がつかない。
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暗渠は通り抜けられないので、先ほどの階段を登って西側に回りこむ。谷を横切る道からは谷筋の窪地がはっきりわかる。この道の右側の手前から奥に見えるマンションの手前までが兎月園の料亭部分の敷地だった。
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坂を下って、先ほどの雑草暗渠を下流側から眺めてみる。道路や両側の土地は盛土がされているのだろう。暗渠の底はかなり深い。写真左側のあたりに四阿があって、その奥にはさきほどの浴場、そして右側の奥には宴席用の離れのひとつがあったという。
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下流側の暗渠は再び遊歩道となっている。道路から本来の川面の高さまで階段で下っていく。左岸側には台地から谷底への斜面が迫っている。下った右側の家の庭には小さな池があるようだった。
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途中で上流側を振り返る。左岸(写真右側)の擁壁の上は盛土をしてマンションとなっているが、かつては鬱蒼とした森林の斜面となっていて、その南側の台地の上には兎月園のテニスコートがあった。
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暗渠はバス通りを横切り、更に下っていく。
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通りに面した北側の台地の斜面には出世稲荷が鎮座している。境内にはかつて兎月園にあった大鷲神社の祠も祀られている。
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暗渠はどんどん下っていく。川だった頃、その水流は速かったのだろう。奥にはもう白子川沿いの段丘斜面の緑が見える。
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暗渠の道は白子川に突き当たって終わる。正面、柵の下のコンクリートの真ん中には切り込みが入っていて、取り外し可能な板がはめられている。
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柵から下を見ると、かつての暗渠の出口を塞いで、新しい弁付きの排水口がつけられていた。先ほどの板には取っ手が付いている。暗渠上の雨水を白子川に流すためだろうか。
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白子川に合流するまでの数メートルの区間だけは、水路が残されていた。於玉ヶ池支流唯一の開渠区間といっていいだろうか。川の向こうは埼玉県だ。
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こうして於玉ヶ池支流散策を終え、途中まで引き返して兎月園通りを成増駅に向かう帰路、「兎月まんじゅう」なるものを売っている和菓子屋さんを見かけた。店内に入ってまんじゅうを購入したついでに、おかみさんにまんじゅうの名前の由来を聞いてみた。それをきっかけに伺えた兎月園や於玉ヶ池支流の話は予想外に面白いものだった。

・1963年頃に兎月園通りに引っ越してきた。グラントハイツがすぐにも返還されると不動産屋に言われこの場所を選んだが、実際には返還までにそれから10年かかった。引っ越してきた当時は、家の裏手はニンジン畑で、肥溜めを肥料にしていた。

・池袋の方から来る年配の方々からは、ときおり、子供の頃遠足で兎月園に来たという話を聞く。引っ越してきた当時は兎月園のことにはあまり興味はなかったが、今になって考えると、もっと昔を知るお年寄りの話を聞いておけばよかったと思う。

・兎月園は東武鉄道ではなく、一個人が始めた。この一帯は妙安寺の土地で、兎月園も寺の土地を借りていた。なので、兎月園がなくなってからもあまり急には開発は進まなかったようだ。なので、少し前までは庚申塔などの石造物など、兎月園の痕跡が残っていた。

・兎月園に関する資料はなぜかほとんど残っていないらしい。残されている資料でも、該当する箇所が墨塗りになっているものもあると聞いた。成増飛行場などの軍事施設と関係があるのかもしれない。東条英機もお忍びで兎月園に来ていたそうだ。

・成増地域では唯一の茅葺き家屋が近くにあって、経営者の子孫が今でもそこに住んでいる。ただ、兎月園のことを聞いても話してくれないという。

・今では川も暗渠になってしまったが、もともと湧水が豊富な土地で、暗渠沿いで今でも湧水を引いた池がある家もある(途中で見かけた家か)。その家では最近池を小さくしたのだが、光が丘公園の池に住んでいるシロサギが鯉を狙いに来るので、入れないよう小さくしたのだという。

こんな話を聞けば、兎月園への興味が膨らまないわけがない。帰ってから数日後、図書館で古地図や資料を漁ることとなる。行き着いた資料のひとつ「月刊光が丘」に掲載された「幻の兎月園を探る」と題した記事には、和菓子屋のおかみさんに聴いた話の一部も含めて、兎月園のことが詳しく記されていた。

兎月園のなりたち

兎月園は1921(大正10)年に、貿易商花岡知爾の手によって開設された会員制農園「成増農園」がその前身だ。華族など、都心の裕福層の日曜菜園として作られた農園には、週末になると会員が訪れた。周囲に休憩できるような施設が何もないことから敷地内に茶店がつくられ、これが発展した料亭を中核にして兎月園が開設されたという。設備の拡張とともに兎月園はやがて行楽地として賑わうようになった。料亭のほか、今まで述べてきたようにボート池、浴場運動・催事広場、猿、熊の檻、放し飼いの兎、ポニーなどのいた小動物園、有料の遊具を配した小遊園といった施設、そして花園(百花園のようなものだろう)や映画館まであった。正門前には茶店、仕出しや、土産物屋が並んだという。池袋からは東上線のほか、直通のバスも運行され、和菓子屋のおかみさんも言っていたように、遠足の行き先にもなっていたという。
一方で料亭は、華族、政治家、財界人などの利用も多く、高級料亭としての位置づけを保っていたようだ。利用者の中には秩父宮殿下もいたという。

東武鉄道とのかかわり

「月刊光が丘」では、東武鉄道の社史をみる限り、東武鉄道と兎月園との関わりは見いだせないとしている。確かに「月刊光が丘」刊行時点での最新の社史「東武鉄道65年史」には兎月園については一言も触れられていない。一方で、東武鉄道による事業としている資料もある。
1998年に刊行された「東武鉄道百年史」を確認したところ、「会社として取り組むだけの規模をもたなかった2つの事業」のひとつとして、東武鉄道としてではなく、根津嘉一郎の個人事業として、兎月園の記述があった(もうひとつは「朝霞大寺院」)。花岡知爾が1921(大正10)年にはじめた「成増農園」を、成増付近の発展のため共同事業として再生したと記されており、この記述からは、出資はしたのだろうけど、やはり東武鉄道や根津の事業とは言えないだろう。
ちなみに初代根津嘉一郎は1940年に死去し、社長業を継いだ長男の藤太郎(当時27歳)が嘉一郎の名を襲名している。

兎月園の敷地

兎月園の敷地は大正末期から昭和前期の地図には必ず載っていて、その知名度が高かったことを伺わせる。ただ、その敷地の範囲は地図によって異なっている。地主の妙安寺の境内までがその敷地として描かれている地図もあった。詳細な地図でない場合はあまり正確には描かれていないのだろう。
その中で「光が丘の地歴図集」という郷土史料地図に、敷地内の施設の配置まで詳しく記した「成増農園と兎月園の復元図」が載っていた。それを参考に現在の地図に主な施設をプロットしたのが下の地図だ(暗渠探索本文中の施設の位置も、この復元図を参考に記した)。
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興味深いのは「大宴席」とも呼ばれた離れの場所だ。前の方で紹介した練馬区のサイトにある写真の真ん中に映っている大きな茅葺屋根の建物が、おそらくその大宴席だ。一方、現在のgoogle mapの空中写真を見ると、ちょうどこの辺りに茅葺屋根の家屋がある。和菓子屋さんのおかみさんの話にあった、子孫の方が住んでいるという家屋だ。つまり、兎月園の建物が今でも残っているということになる。
なお、当時の地図によっては、テニスコートの北側、出世稲荷の前を通る道までの於玉ヶ池支流流域も兎月園としているものもある。戦前の地形図や戦後直後の航空写真を見ると林だったようだが、実体はどうだったのだろう。いずれにしても兎月園と同じく、妙安寺の土地なのだろう。

兎月園のあった時期

兎月園は当時豊島園と並ぶくらい知名度があったのだが、その存在した正確な期間ははっきりした記録が残っていないようだ。開設時期については1921(大正10)年の成増農園開園以降であることは間違いないが、「みどりと水の練馬」では1924(大正13)年、「光が丘の地歴図集」では1925(大正14)年以前、「月刊光が丘」では1926(大正15)年以前としている。
一方閉園については「みどりと水の練馬」では戦争による営業悪化で1942〜43(昭和17〜18)年に、「月刊光が丘」や「東武鉄道百年史」では戦争の影響で1943(昭和18)年に、「光が丘の地歴図集」では1944(昭和19)年で成増飛行場造成の影響によるものと推定している。果たして閉園の時期と理由はどうだったのだろう。
「月刊光が丘」では1943年閉園とする一方で、成増飛行場の特攻隊が、特攻の前夜に兎月園で楽しんでいたとの聞き書きも記されている。特攻隊が組織されたのは1944年秋であり、とすると閉園は成増飛行場開設後となる。表向きの閉園の後も、料亭が成増飛行場との関連で密かに営業を続けていたという可能性はないだろうか。おかみさんの話していた黒塗りの資料のこととあわせると、そこには何か秘密めいた気配も感じられなくはない。

花岡学院

そして兎月園のあった於玉ヶ池支流の西側、現在はんの木緑地となっている谷には、花岡知爾の兄で小児科医の花岡和雄が大正14年に寄宿制の私立小学校「花岡学院」を開設していた。広大な敷地内はモダンな校舎や体育館、湧水を利用したプールなどが点在し、鷺の池と呼ばれた湧水池や、そこから流れ出す「ほたる川」など自然も豊かで、夏期には林間学校も開校されていた。
しかしこちらは激化する戦況の中で経営が立ち行かなくなり、神田区立武蔵健児学園となった。そして終戦後は米軍に接収され、湧水や川は潰されてグラントハイツの汚水処理施設が作られてしまった。施設では大量のハエや悪臭が発生し、60年代には大きな問題となったという。

兎月園創設者の花岡知爾、そしてその兄で花岡学院創設者の花岡和雄。この二人は華岡青洲の甥の血筋にあたるという。知爾氏は海外渡航経験もある貿易商、和雄氏は小児科医と、当時では進歩的な人たちだっただろう。そして兎月園も花岡学院も、そういった二人の資質が具現化した施設だったように思える。そしてそれらの試みは戦争の荒波の中で挫折してしまった。
花岡知爾は、兎月園の閉園と同時期に家族も亡くし、失意の中で1945年に亡くなったという。

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白子川於玉ヶ池支流の暗渠沿いの静かな街並み。於玉ヶ池は完全に光が丘公園の敷地の下に埋没してしまっているし、兎月園の名残はおろか、成増飛行場やグラントハイツの面影も、今ではほとんど感じられない。ただ、兎月園通りの名前と、兎月まんじゅうが、そこにかつてあった幻の遊園地の存在を証言しているのみだ。買ってきた兎月まんじゅうを、兎月園のことを想いながら食べてみた。町の和菓子屋さんの、懐かしいような味がした。
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主要参考文献

東武鉄道社史編纂室編 1998「東武鉄道百年史」
株)協同クリエイティブ編 1992 「幻の兎月園を探る」『月刊光が丘 1992年10月号』所収
練馬区編 1989「みどりと水の練馬」
山之内光治 2007「光が丘の地歴図集」改訂増補
山之内光治 2008「光が丘昭和時代の地図帳」
山之内光治 2008「練馬村の変遷図集」

日本地形社 1940 「三千分の1地形図 成増」『帝都地形図第1集』所収
日本統制地図株式会社 1941「最新大東京明細地圖町界丁目界番地入」
日本地図株式会社 1947「新東京区分図板橋区詳細図」
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by tokyoriver | 2012-06-07 23:31 | 白子川とその支流 | Comments(22)
白子川上流シリーズの最後に、大泉堀の支流「宮ノ脇川」を紹介しよう。宮ノ脇川は、西武池袋線保谷駅の北西、西東京市下保谷4丁目近辺にその流れを発し、下保谷3-2で大泉堀に合流している細流だ。300メートルほどの長さしかないが、しっかりと名前がついているようだ。宮ノ脇は合流地点近辺の古い地名のようだ。前回取り上げた練馬区内を流れる「野水」とちがい、こちらは大部分の区間はコンクリート蓋の暗渠となっている。行政区による違いや、暗渠化の時期による違いによるものなのだろうか。

googlemapにプロットした流路はこちら

合流地点。手前を左から右に大泉堀の暗渠が流れている。宮ノ脇川の暗渠には立ち入り禁止の表示。ライオンの看板が結構インパクトがある。
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奥のほうを見てみると、コンクリート蓋の両岸に、玉石やコンクリートブロックの護岸が見える。手前のコンクリ護岸は大部分が苔に覆われていて、湿気の高さが伺える。
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上流側に回り込んでみると、こちらにも立ち入り禁止の看板が立っている。暗渠は道路から人の背丈ほど低くなっている。
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こちらから奥を見ると、柵で囲まれた区間が見える。そしてここにも玉石の護岸が。暗渠化される前の、わりと深い谷筋を流れていた様子がわかる。雑草の緑が色濃い。
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ここより南の上流側、いったん川は姿を消し、普通の道路となる。道路は民家に突き当たってしまうが、反対側に回りこんでみると延長線上に再びコンクリート蓋の暗渠が現れる(蓋暗渠の下流側はブロック塀に囲まれた民家で、その北側にさきほどの暗渠がある)。この場所だけ、暗渠上に鉄柵が見られた。
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上の写真の地点から上流方向を望む。暗渠沿いには土が露出し緑が見られる。両岸は最近まで畑だったようだ。造成中の住宅もあった。
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鉄柵から中を覗き込むと、わずかながら水が流れている。臭いもせず、濁りもない。下水ではないようだ。
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暗渠は虫食い状の宅地の中を曲がりながら流れている。日当りがよく、のどかな雰囲気がただよっているが、数年後には家々に囲まれてしまうのだろうか。
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東西に直線に伸びる新しい車道を越えると、暗渠はアスファルト舗装となり、マンションの裏手へと向かっている。舗装されているとはいえ道端には雑草が生い茂り、そこはかとない秘境感がただよっている。
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途中から下流方向を振り返る。アスファルト舗装はかなり適当なようで、雑草ははみ出しているし、コンクリート蓋が露出している場所もある。
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マンションの南側で西に折れると、再びコンクリート蓋が露出する。川幅ぎりぎりまで塀が迫っている。
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下保谷4-3で暗渠は消滅する。これより上流側には痕跡は残っていないが、かつてはもう少し西側まで伸びていたようだ。このあたりはかつては湿地だったという。
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以上で、白子川上流のシリーズはひとまずおわり。白子川本流の沿岸には第4回目でとりあげた源流部より下流にもあちこちに湧水が残っており、こちらもいずれ訪問してみたい。


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by tokyoriver | 2010-05-12 00:32 | 白子川とその支流 | Comments(4)
しばらく間があいてしまったが、白子川上流のシリーズの最後に、白子川の支流「大泉堀」の支流を取り上げる。今回紹介するのは練馬区南大泉5丁目から西大泉2丁目にかけて流れていた2つの小さな支流で、地元ではいずれも「野水(のみず)」と呼ばれていたという。下の段彩図で東側を横切る太い水色のラインが白子川で、東西に流れているのが大泉堀、そして小泉橋で合流している支流と丸山東橋で南側から合流しているのがその2つの「野水」だ。等高線を見ると、いずれも浅い谷筋を流れていることがわかる。どちらも暗渠化され、それもコンクリート蓋ではなく普通の道になっている。
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googlemapにプロットした流路はこちら

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まずは小泉橋で合流している流れを遡ってみよう。

写真右から手前にのびている遊歩道が大泉堀の暗渠、そして左から合流する、車止めのついたアスファルトの道が「野水」の暗渠(川跡)だ。大泉堀と違ってこちらはヒューム管が埋められ下水道化されてしまっている。
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一見ただの道路にも見えるが、路上に「水路敷」の字が書かれている。杉並区の暗渠のランドマークが金太郎の車止めだとすれば、練馬区の暗渠のランドマークといえるのがこの路上の、ずばりそのものの表記だ。
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道に沿って不自然な未舗装のエリアが続いている。
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しばらく遡ると、川跡は白子川に並行して南西へと向きを変える。おそらくもともとは大泉堀ではなく、もう少し南で白子川に合流していたのだろう。それを水田の灌漑用につけかえたものと思われる。あるいはこの並行する区間は白子川の傍流だったのかもしれない。なにも知らなければ普通の道にしか見えないが、「水路敷」の字がここが川跡であることを主張している。
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川跡は妙福寺の南側で白子川を離れ西へと向かう。細い路地はいかにも川跡らしい。「水路敷」の字がだめ押ししている。水路上を塞ぐようにそびえ立つ木はいつから生えているのだろう。
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細い川跡を遡って行くと、蔦に覆われた一見廃屋のようにも見える古そうなアパートが数棟、現れる。アパートの間の道は中庭のように使われていて、かなり趣のある空間だったが、調べてみると主に外国人向けのゲストハウスだった。ホームページを見ると、外見に反して室内はかなり綺麗そうだ。
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ヨシダハウスの西側からは、車止めのついたいかにも川跡らしい路地が住宅の間を縫っていく。
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宅地を抜けると、ビニールハウスの裏手を未舗装の路地になって進んでいく。ここは私道風で入れそうにないので、回り込んで川跡を探してみる。
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西武池袋線の北側を並行して、大泉学園駅から保谷駅に向かう道路のそばに、干上がった水路を発見。ここはたぶん「白子川を知っていますか」に紹介されていた区間と思われる。20年以上前のその写真には畑の間を流れる水が写っていたが、今では看板と塀の影に隠れ、消滅寸前だ。
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水路の延長線上を探ると、「水路敷」の文字の書かれた路地が現れた。「この先行きどまり」の看板は入るなと言っているようなものだ。
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侵入していったものの、途中で路地を横切って張られたクモの巣が行く手を阻んでいた。すべての家々は背を向けていて、本当に誰も通らないようだ。それなら一体何のために舗装して整備したのやら・・・クモの巣を壊す気も起こらず、ここで誰も使えないトマソン路地の暗渠を引き返した。もともとこの路地のある南大泉5-32が最上流部で、浅い谷筋に集まる雨水や湧水が流れていたようだ。
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次に、丸山東橋で大泉堀に合流するもう一つの野水を簡単に紹介しよう。
写真右奥に見える緑の車止めの蓋付き暗渠が大泉堀の流れ、そして左側の遊歩道風の路地が野水の暗渠(川跡)だ。こちらも先の野水と同じく、ヒューム管が埋められ下水道化されてしまっている。
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川跡は遊歩道に整備されているが、住宅地の裏側の一段窪んだ場所を通っていて、何となく湿度が高く薄暗い。あまり積極的には通りたくないような雰囲気だ。写真のようにわずかに畑地も残っている。塀をみると意外と傾斜があるのが判る。
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暗渠沿いの民家に、井戸水でも利用していると思しき澄んだ水をたたえた池があった。丸々と太った鯉が泳いでいた。
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暗渠の上流端近くから下流方向(北)を見る。擁壁に突き出した排水パイプは、この川がドブ川となり、そして下水道化されたことを示している。この先、南大泉6-10の小さな公園のまわりを回り込んだのち、暗渠は住宅街の中で突然に姿を消す。この公園がかつての水源だったのだろうか。
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次回の「宮の脇川」で、長々とつづいた白子川上流シリーズを終わりとしたい。西東京市内を流れるこちらは、練馬区内の「野水」と異なりコンクリート蓋の暗渠となっている。


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by tokyoriver | 2010-05-09 23:38 | 白子川とその支流 | Comments(6)
今回は、練馬区西大泉1丁目で白子川に合流している「大泉堀 (だいぜんぼり/だいせんぼり)」を上流に向かって遡っていこう。大泉堀は「下保谷のシマッポ」あるいは「白子川支流」とも呼ばれる川で、西武池袋線ひばりヶ丘駅の東方から、下保谷窪地と呼ばれる浅い谷筋を東へ流れている4km弱ほどの流れだ。源流部の標高は55m、合流地点の標高は42m。1971年~78年にかけて暗渠化され、現在は全区間がコンクリート蓋の暗渠となっている。かなり最近(2000年代初頭?)まで生活排水路として使われ、白子川の汚染の原因にもなっていたというが、今では流域の下水が整備され、大雨のとき以外には排水が白子川に流れ込むことはなくなった。かつては合流地点からしばらくの白子川の川底に、汚水を浄化する仕組みがつくられていたという。今でもこのあたりは、最上流部の緑の多い河川敷とやや雰囲気が異なり、都市河川の姿となっている。

こちらもかつては新川と同じく、通常時には水が流れていないことが多い「シマッポ」だったというが、新川とは異なり、明治期の迅速速図やその後の1万分の1地形図などにも水路として波線で標記されている。そして新川上流と同様、大泉堀の上流部にも地下水位の浅いエリア「地下水堆」があった。「又六地下水堆」と呼ばれたこの地下水堆は西武新宿線ひばりが丘駅の南東から北東、西東京市栄町から住吉町にかけて、楕円形に横たわっていた。
一帯の地下水位は、戦後、宅地化や地下水の過剰な汲み上げにより低下した。その後水道の整備や地下水の保全策などにより、1990年代頃には新川上流の「上宿地下水堆」は復活したが、「又六地下水堆」はその時点では消滅しかかっていたという。現在では果たしてどうなっているのだろうか。
また、大泉堀の北側の微高地の地下には「大泉地下水瀑布線」が川に平行してあり、この「瀑布線」より北側では地下水位が急に深くなるという。地下水が地上の地形とは異なったかたちで流れているという事実は、なかなか興味深い。

「大泉堀 (だいぜんぼり/だいせんぼり)」という名前は、上流部の保谷市北町1-4付近にあった大泉坊が池に由来するようだ。池のあった一帯は坊が谷戸(ぼうがやと)と呼ばれていたという。「白子川を知っていますか」には、かつて池の付近に「大泉坊(大宣坊)」という寺があり、のちに現在練馬区西大泉にうつり大乗院となったという。
しかし、大泉坊から大乗院という名称の変化にはやや無理があるようにも思える。ここからは私の想像(妄想)だが、東日本各地に残る巨人「ダイダラボッチ」の伝承のバリエーションのひとつに「大善坊(ダイゼンボウ)」と呼ばれる巨人の伝承もあるようだ。大泉坊(大宣坊)」はそれと関係はないだろうか。「ダイダラボッチ」は各地に巨大な足跡を残し、それが池や窪地の由来として語られているが、「坊が谷戸」も「だいぜんぼう」の足跡がつくった谷戸だったと考えるとちょっと話が面白くなってくるのだが、残念ながら今回それを裏付ける資料には出会わなかったので、単なる妄想かもしれない。
いずれにしても、すぐ近くの地名「大泉(おおいずみ)」は明治時代にいくつかの村が合併したときに創られた地名であり、「大泉堀」と地名の「大泉」は直接の関係はなく、後から地名になぞってあてられた表記なのではないかと思われる。

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大泉堀には支流がいくつかあるが、それらについては別途追うことにして今回は本流を上流端まで遡ってみる。延々と続くコンクリート蓋は辿って行く分には面白いのだが、写真にすると単調になってしまうので、ポイントをかいつまんで紹介する。googlemapにプロットした流路はこちら。地図上方を東西に弧を描くように横切るラインが大泉堀だ。

まずは合流地点から。上を通過する自転車でだいたいの大きさは想像がつくだろう。暗渠の上はここから150mほどは、緑道風に整備されている。この区間の暗渠は下水の雨水幹線として扱われている。排水が白子川に流れ込むことはなくなったというが、わずかながらあまり綺麗でない水が暗渠から流れ出ている。
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かつて「小泉橋」が架かっていた場所。ここより上流はコンクリート蓋暗渠となり、水路の扱いも「公共溝渠暗渠」となっている。大泉堀の北側に並行する「したみち通り」の交差点に「小泉橋」の名前が残っている。
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欄干こそないものの、各所に橋の跡が残っている。
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流域は宅地化が進んでいるが、あちこちに雑木林や畑が残っている。暗渠は塀に囲まれた住宅街の裏道になったかと思うと、このように林のそばを抜ける小川のような姿も見せる。
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暗渠沿いの畑にあった無人売店。昼近くなのでほとんど売れてしまっているが、売り方がちょっと風流だ。タケノコまで売っている。
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住宅地を抜ける一角のコンクリート蓋の上に、ぽつりとコンクリート製の古そうな小さなベンチがあった。暗渠化された時についでにつくられたのだろうか。
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したみち通りの交差点には「小泉橋」「丸山東橋」「丸山西橋」の3つの橋名が残っている。こちらは「丸山西橋」。
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「丸山西橋」から300mほど西に進むと流域は練馬区から西東京市へと変り、川の向きも西から南西へと変わる。このあたりは暗渠から畑地越しに遠くまで見渡せる。奥に見える林の向こう側あたりが「大泉地下水瀑布線」だ。
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西東京市に入ると暗渠の蓋に鉄柵が混じるようになり、中を覗くことができるようになる。川底までは2mくらいだろうか。コンクリートの円柱を並べたような護岸も見える。円柱の間からは植物が伸びている。水が滔々と流れており、水自体は澄んでいる。この場所ではニオイはしなかったが、上流に進んで行くと場所によっては多少ドブ臭さが感じられた。残念ながら今でも一部に生活排水が流れ込んでいるようだ。それでもこの水量と水質から考えると、メインは雨水や湧水なのではないだろうか。完全なドブ川の場合は水が白濁していたり、透明でも泡立っていたり、川底にヘドロが溜まっていそうなものだ。この写真の地点の近く、しもほうや保育園のあたりは「シタアゼ」と呼ばれる湿地帯だったといい、今でも水が滲み出し易い場所なのかもしれない。流れている水は白子川の合流点では見られなかったから、手前のどこかで、下水に落とされているのだろう。
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開渠の頃の水路のコンクリート枠に、そのまま蓋をしたかのような一角。蓋の縁には苔がむしている。
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都営下保谷2丁目アパートの脇。このあたりの方が下流よりもドブ臭がやや強いように思える(といっても普通に暗渠の上を歩いている限りでは臭わない程度)。途中で自然水が混じり緩和されているのだろうか。このアパートの北方一帯が「坊が谷戸」と呼ばれ、「大泉坊が池」があったという。他にもこのあたりにはいくつか沼や池があったといい、地下水堆から水が湧き出していたのかもしれない。
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暗渠沿いは上流部の方が駅に近いせいか宅地化が進んでいるようだ。新日鉄の社宅より上流では、暗渠の蓋が緑色のしっかりしたものになる。近年川底を掘り下げる改修工事をし、その際に蓋も変えられたようだ。
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ひばりヶ丘駅の南東400mほど、道路につきあたって階段となり、大泉堀の暗渠は消滅する。「東京西北部の中小河川」さんによれば、この上流端の区間は1990年代末まで蓋がされておらず、白濁した生活排水が流されていたという。まだ大泉堀から白子川に生活排水が流れ出していた頃だ。戦前の3千分の1地形図を見ると、この先流路は道路の西側にある畑の中を通り、西武池袋線の線路の南側に抜け、すみよし保育園のところを通った後クランク状に曲がって、ひばりヶ丘駅の南100mほどの住吉町3-12まで描かれている。「白子川を知っていますか」などにも、この場所に広い敷地を構えるN家の話として、雨が降ると敷地の窪地から水が湧いて流れ出し、すみよし保育園のあたりにあった沼地を経て大泉堀まで流れていたと書かれており、地図と一致する。そしてちょうどこのあたりが「又六地下水堆」の西側となっている。かつては地下水堆からあふれ出した水が大泉堀の水源となっていたのだろう。
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これにて、白子川上流の2つの支流についての紹介を終わるが、次回以降で、大泉堀の支流「宮の脇川」と二つの「野水」と呼ばれた流れを取り上げようと思う。もうしばらくおつきあい願いたい。


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by tokyoriver | 2010-04-26 07:59 | 白子川とその支流 | Comments(4)
旧田無市側からずっと続いて来た新川の暗渠がぷっつりと途絶える天神山交差点は、保谷駅から東伏見駅を結ぶかえで通りと、ひばりヶ丘駅の東側から武蔵関駅を結ぶ都道234号前沢保谷線が交差している場所だ。ここは、新川の流れてきた窪地がちょうどボトルネック上に狭まっている場所でもある。

前回記したように、これより下流側は練馬区東大泉の白子川上流端まで、断続的にしか川の痕跡が残っていない。それらをプロットしたのが下の図となる。google map/google earthのはめ込みが出来ないので、google earth画面キャプチャから。濃い青線が暗渠/川跡、そして井頭池と記した地点より北の太い青線が白子川となる。画面上を横切る西武池袋線上のマークは保谷駅だ。画面左下で新川の暗渠が都道234号線に突き当たって途切れた後、北に2カ所ほど断続的な暗渠があり、その先は白子川上流端のすこし上流から再び暗渠が始まっている。この区間、新川はどのように流れていたのかは、わずかな痕跡と地形、資料からミッシングリンクを探すしかない。
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同じ範囲に「東京地形地図」で公開している、国土地理院刊行5mメッシュ地図に基づく段彩図と等高線を重ね、痕跡のない流路を地形や資料から推定しプロットしたもの(水色の線)を加えたのが下の図だ。
「白子川を知っていますか」などによると、かつて水路は天神山交差点からかえで通りに沿って北上していたという。
ただ、プロットされた微地形をみると、窪地は直接北に延びているのではなく、天神山交差点の東側をいったん200mほど東進し、練馬区との境界線近辺からぐるっと北〜西へと回りこんで、天神山交差点の北150〜200mほどで、かえで通り沿いに戻った後北上している。ちょうどそのライン上に交差点北側の断続的な水路跡が乗っている。もしかすると、新川は本来この回り込む窪地に沿って流れていたのではないだろうか。図面にはまっすぐかえで通りを行くルートとぐるっと回り込んで行くルートの2つを記してある。
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先に触れた西東京市東町5-4に残る水路跡の区間には、googlemapなどにも描かれている短いコンクリート枠水路がある。この水路、全く水は流れていないが、両端が非常に特徴的だ。というのは、水路が掘り下げられているのではなく、ベースの地面に対して水路のあるところだけ、その両側が護岸分の高さだけ盛り上がっているような形になっているのだ。なぜこんなことになっているのか、詳細は不明だ。なお、1970年代前半の地図をみると、ここのすぐ北側に保谷フィッシングセンターの釣り堀池があった。
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この水路の痕跡を辿るとかえで通りにぶつかる。かえで通り側から草の生えた水路跡の空き地が伸びているのが見える。果たしてこれは新川の水路だったのだろうか。
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この先、新川の流れていた窪地の底にかえで通りが通っている。おそらく東側の歩道の辺りが水路だったのだろうが、痕跡はまったくない。ただ、何カ所か歩道の幅が不自然になっている箇所があった。
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通りを600mほど北上していくと、東町4-11で東へと向かうコンクリート蓋暗渠が出現する(最初の図の中央左上寄り)。
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しかしこの暗渠は畑に沿ってしばらく進んだ後、練馬区との区界の道路にぶつかったところで消滅してしまう。
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ここから先は練馬区内となる。流路の痕跡は再び全くなくなってしまう。終戦直後の航空写真や資料から推定される流路はgooglemapプロットの通りだ。畑や、畑を潰してつくられたであろう住宅地の中を抜ける道路に沿って流れていたようだ。再び暗渠がはっきりと現れるのは南大泉1-49だ(ここより西にも、住宅地の中に流路を利用した短い遊歩道のような空間が残っており、古地図を見るとそこに新川の流路がある)。
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ここから先は蓋暗渠ではなく、緑道となっている、下水道台帳を見てもこの区間はヒューム管が埋設され完全に下水道として利用されている。擁壁からは排水管が突き出していたりして、都心部の暗渠(川跡)に近い雰囲気だ。暗渠沿いにある南大泉図書館は何年か前の集中豪雨で水浸しになったという。谷の中に半地下構造でつくられており、いかにも浸水しそうなつくりだ。
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緑道はゆるやかに弧を描き、東大泉7丁目で白子川の公式な上流端である「七福橋」へと出る。橋の上に設けられたフェンスには「一級河川 白子川 上流起点」と記した看板が取り付けられている。ここで新川は終点となり、ここから先は白子川となるのだ。白子川側から橋を見ると、暗渠の合流地点が見られる。ただ、下水道台帳を見る限り、新川の下の下水から雨水管などとして直接繋がっているという訳ではなさそうだ。近隣の道路端の雨水溝からの水がここから出てくるようになっているのかもしれない。
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さて、「七福橋」から白子川が始まるわけだが、橋から下流側を見ると、最初の30mほどは三面を石に囲まれ、川底を底上げした全く水のない水路となっている。そして橋のすぐ先には、川底に穴が開いている。先の新川の暗渠口からあふれた水は、よほどの水量にならないかぎりはこの穴に入り、下水道大泉幹線から分かれる雨水管に合流して白子川の河川敷の西側にある大泉井頭公園の下を幅2.4mの暗渠で回りこんだのち、井頭橋の手前で白子川に合流するようになっている。なるべく井頭公園の湧水地を汚さないようにしているのだろうか。それにしてもなんだか意味がよくわからない構造だ。(※合流式下水道の雨水管は、大雨などが下水に流れ込み下水道の能力を超えると、溢れた下水を川に流す役目を持っている。したがって普段水は流れていないが、大雨の際には下水の混じった雨水が川に流れ込むこととなる)。
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底上げ区間は30mほどで終わり、川底が突然深くなるとともに土となり、水が現れる。湧水が滲み出しているようだ。ここからいよいよ白子川が流れ出す。
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川幅は急に広くなり、水草の生い茂る池状の場所となる。水深は浅いが、川底や護岸の間から水が湧き出しているのが見える。このあたりから北に向かってかつて、井頭池があったという。
江戸時代には弁財天を祀った中島を擁するひょうたん形の池だったというが、明治期の迅速測図をみると、現在の公園と同じ範囲に細長い池が描かれている。明治期の記録には「溜井」とあり、灌漑用に湧水の流れを堰止めた池のようでもある。後述するが、現在の公園の北端の「火の橋」のところに堰があったという。大正期には幅20m長さ200m程度の規模だったようだ。
池は1965年ころ埋め立てられ、大泉井頭公園ができたというが、埋め立てというよりは池を川の形に整備したようなかたちだったのだろうか。
写真は池状になっているところを上流に向かって撮影したもの。左奥に、先ほどの急に川が始まる地点がある。水面に近寄れるよう木道が設けられており、子供たちが網を持って水面を覗きこんでいる。
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池状の場所から下流方向を見てみる。この先、井頭橋の下までは池のようになっていて、その先から白子川が流れ出している。
ここは神田川源流の「井の頭池」や善福寺川源流の「善福寺池」、石神井川源流のひとつである「三宝寺池」などと同じく、湧水を囲む台地の標高が50mほどの、武蔵野台地の地下水脈が露出する谷頭地形となっている。前3つの池の湧水が枯れてしまい汲上げの地下水に頼っているのに対し、ここは池こそ残っていないが逆に湧水が健在なのが不思議だ。湧水の量は季節変動はあるようだが、90年代初頭の初夏の調査では一日2600立方キロリットルもの水が湧き出していたという。
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川岸には植物が生い茂り、水中にも水草が揺れている。ここに流れている水には汲み上げの地下水も、高度処理された再生水も、そしてもちろん下水も含まれていない。ここに流れる水はまぎれもなくすべて自然に湧き出した湧水なのだ。川にはところどころ蓋がされ、上は公園として利用されている。
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白子川は火の橋で大泉井頭公園から出て、住宅地の中を北上して行く。かつては火の橋の下に堰があって、そこから本流の両脇に分水路を引き、川沿いの水田に利用していたという。川の両側の住宅地の裏手を通る道が分水路の痕跡だ。古地図を見ると、新川〜白子川流域でここから下流で初めて水田が出現する。白子川流域は、練馬区内でも最も遅く、1960年代まで水田が残っていたという。
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川を下って行くと水量がどんどん増えていく。都などの調査では、河床部や川岸の多くの場所からの湧水が記録されている。見ていても護岸と川底の境目のあちこちから水が湧き出しているのが判る。水中にはホトケドジョウなど綺麗な水にしか住まない貴重な生物が棲息し、水草も希少種が群生しているという。1980年代にこの美しい流れが、汚染度全国ワーストワンになるほど汚れていたとは信じられない。
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流路は西武池袋線を越え、向きを北東に変える。この辺りから川沿いは垂直のコンクリート護岸となる。これだけ水がきれいで川辺に緑もあるのだから、水害対策とはいえ水に近づくことの出来る場所をつくることはできないものかと思う。
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護岸に記された水位計を見ると、川底まで3m以上あることが判る。
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白子川の上流端からおよそ1.2km、練馬区西大泉1丁目で、左岸から大泉堀(白子川支流、下保谷のシマッポ)が合流する。暗渠が大きな口を開けているが、ほとんど水は流れていない。数年前まではここから生活排水が流れ込んでいて、ここより下流のしばらくの区間は、白子川の水質が一気に悪くなっていたという。
ここで白子川本流から離れ、大泉堀を遡っていくこととする。
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(以下次回)


googlemapにプロットした流路はこちら
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by tokyoriver | 2010-04-19 00:35 | 白子川とその支流 | Comments(6)
合流地点に戻り、再び新川を下っていこう。googlemapにプロットした流路のうち、中央やや下のエリアとなる。
2本の流れを合流したコンクリート蓋水路はしばらく道路沿いを進んだ後、如意輪寺の南から東側を回りこむかたちで流れていく。中を覗くと、水量は更に増しているようだが、水質はやや悪くなっているようにもみえる。暗渠上は一応遊歩道の扱いとなっている。如意輪寺に沿って背の高い生垣風に木が並び、土の上には枯れ葉が落ちていて、風情がある。
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寺の南東まで進んでいくと暗渠の上に突然歩道橋が現れる。道の東側にある泉小学校の生徒のためにつくられたらしい。歩道橋の上から東側(下流側)をみると、暗渠の水路が一段低くなって続いているのが見える。
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歩道橋をわたった地点。暗渠の真上に歩道橋の柱がたっている。この場所だけは車道よりもかなり低くなっていて、柵で囲まれていて入れない。この暗渠はしばらく進むと、この高さのまま車道と同じレベルの幅広のコンクリート蓋の下へと入っていく。 その接続部はまるで暗渠の上に更に蓋をした二重暗渠のようになっている。
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再び暗渠沿いに東へ進んでいく。暗渠は道沿いに東へと流れていく。畑や屋敷林が点在し、のどかな風景が広がる。歩道橋より東は暗渠上の鉄柵がなく、中の水流の様子を窺うことは出来ない。
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川が道路から分かれる地点には、水道の水源があった。湧水の上にポンプを設置していると記しているサイトもあるが、このあたりの地下水位はたぶん7~10m程度であることを考えると平らな場所に水が湧き出るとは考えにくい。地下水をポンプで汲み上げているのだろう。
東京都の水道の水源に占める地下水の割合は1%にも満たないが、旧保谷市のエリアでは2割程度が地下水だといい、上水道のための井戸水源が19本あるという。このうち新川の流域の水道を供給する保谷浄水場は8本の井戸の水を東村山浄水場からの水にブレンドしているそうだ。ここの水源もそのひとつだ。
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暗渠は建設中の多摩南北道路のひとつ「調布保谷線」を横切る。道路が完成したとき、この区間の水路はどうなるのだろうか。この先で市役所保谷庁舎(旧保谷市役所)の敷地内へと入っていく。
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暗渠は西東京市スポーツセンターのエントランスの下をくぐっている。というより暗渠の上に無理矢理エントランスが造られているといった方がよさそうだ。普通なら水路を付け替えたり、痕跡を消されてしまいそうなものだが、しっかり蓋があり、「この下は水路です。車の乗り入れ禁止」と注意書きまで記されているのが面白い。
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反対側に抜けると再び蓋暗渠。再び鉄柵が現れたので中を覗いてみるが、水は流れていなかった。先の歩道橋のあたりで別ルートに流されているのだろうか。1970年代、新川よりも南側を流れていた、富士街道沿いの田柄用水を暗渠化した際、水路の氾濫対策として石神井川にショートカットの地下水路を作り、水をそちらに流れるようにしたという。新川の暗渠化も1970年代前半〜半ばだが、同じように水を途中で石神井川の方に流しているのかもしれない。
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暗渠は役所を回りこみ南下していく。庁舎の南東側では、川沿いにまた地下水の水道水源「中町一号水源」があった。この先の区間は、右岸(西側)は島久保と呼ばれた低地、左岸は天神山と呼ばれた丘となっている。島久保は今でも植木畑や梅林として緑が保たれているが、徐々に宅地化されているようだ。
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暗渠沿いには梅林も残っていた。もう少し早い時期に来れば梅の花が見られただろう。
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流路は梅林の先でぐるっとΩ字に蛇行し、住宅地の中を抜けて碧山小学校の校庭にぶつかる。暗渠は校庭の地下を抜けているようだ。暗渠や川跡上に学校があるのはよくあるパターンだ。
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学校側から暗渠を見る。橋の痕跡が残っている。暗渠上は一応自転車・歩行者道の扱いなので、欄干の上にスローブが付けられており、蓋が高くなっているので橋に対し下りになっている。
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校庭の東側から再び暗渠が始まるが、その地点の校庭には震災時用の井戸があった。306号ということは300本以上、このような井戸があるのだろうか。
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小学校の東から現れた暗渠は住宅街の中を抜けていく。
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200mほど進むと天神山交差点でかえで通りにぶつかる地点で暗渠はぷっつりと姿を消す。この先、白子川源流地点までは、わずかに残された痕跡と古い地図や航空写真、資料から推定して辿っていくことになる。
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(以下次回)

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by tokyoriver | 2010-04-16 07:00 | 白子川とその支流 | Comments(2)
続いて、今度は合流地点から谷戸町から流れて来る新川北支流をさかのぼってみよう。googlemapにプロットした流路のうち、中央やや左下寄りの、「谷戸小学校」辺りから東にのびている流れとなる。「ひばりが丘中」の南側で、南から合流している流れが前回取り上げた新川南支流だ。

南側の暗渠とほぼ同じ幅のコンクリート蓋暗渠が緩やかに蛇行しながら西へとのびている。分かれてすぐに渡る道は古くからの交通路で駒止橋という橋が架かっていて、その北側(写真正面の家の裏手辺り)には「弁天池」が1960年頃まであったという。このあたりは先の記事に記した「上宿地下水堆」の東端にあたり地下水位が非常に浅く、大雨が降ったあとにはかなりの水が湧き出し、一帯が水浸しになりなかなか水が引かないこともあったという
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地名が谷戸、という割にはさほど明確な谷戸地形であるわけではないが、暗渠の両側は緩やかな斜面となっていて、暗渠が谷を流れているのはわかる。暗渠沿いには各所に畑が残っており、農作業に来た老人が暗渠の縁で休憩していた。
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蓋が微妙にカーブ内側に傾いていて、幾何学的な美しさがある。
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こちらの暗渠も数メートルおきに鉄柵が設けられ、中を水が流れているのが見える。水は臭いもなく、水流が淀んでいるところでも水は透明で、南側の流れよりも水がきれいなように見える。鉄柵の中に見える護岸からは、入り込む光を受けてか、植物が生えているところもある。川底はたぶん地上から1~1.5mくらいといったところか。
おそらく、生活排水路として利用されていた時期に、川底が掘り下げられている。その頃には地下水位も過剰な地下水汲み上げなどにより低かったはずだが、その後下水道の整備で生活排水は流れなくなり、一方で地下水位は回復した。特に新川の下にある「上宿地下水堆」は戦前レベルに近い水位まで回復したという。かつての窪地での地下水位は地上から1m程度ということだから、そこから考えると現在の水路の川底は地下水堆に達している場所もあるはずだ。そういった場所から今でも水が湧き出しているのではないだろうか。
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遡っていくと暗渠の幅は段々と狭くなっていく。両脇が舗装されておらず、雑草の新緑が目を和ませる。
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途中暗渠上に雨水槽らしきコンクリートの構造物とマンホールがあった。蓋の「雨水」の文字が、
下水扱いではないことを示している。ここで雨水をいったん溜めた後に暗渠に流しているのだろうか。
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路面をみると、コンクリートの水路の梁の間に蓋をはめているだけの場所もある。写真の場所では梁の間には蓋が5枚ずつはめられていて、中央の蓋だけ色違いになっていた。
流れの南側に隣接した谷戸町1-15には先の弁天池とは別に「ツルマの弁天池」と呼ばれる池があり、主と呼ばれる大ウナギが棲息していたという。水に関係する「鶴」「弦」「水流」(つる)に由来する名称だろうか。
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暗渠は最上流部で、南側の流れの上流部と同様、幅1mに満たない細い水路となる。
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谷戸新道につきあたる手前、住宅の工事現場の横で蓋暗渠は土の中に消えていた。ここが確認できる最上流端のようだ。数年前までは道の反対側、谷戸小学校の前に窪地があってそこが水源だったようだが、谷戸新道の拡幅と直線化の工事により埋め立てられてしまったという。窪地にはわずかに湧水があり、小さな水神の祠も祀られていたということだ。
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谷戸町は旧田無市エリアで最初に集落が形成された場所だといわれている。水に乏しい武蔵野台地の上で、「上宿地下水堆」があって、他のエリアよりも地下水の利用が容易だったこと、そして暗渠沿いに点在していた池に見られるように、地下水の存在が目に見えて判る場所だったことが、集落の形成と継続に大きな意味を持っていたということだ。普段は水が流れていなかったというこの新川の「シマッポ」も、水を探すうえでヒントになっただろう。住宅地の裏をひっそりと流れる小さな暗渠には、田無の歴史を紐解く鍵が隠されているといったら大袈裟だろうか。

次回は合流地点に戻り、新川を下って行く。


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by tokyoriver | 2010-04-12 23:46 | 白子川とその支流 | Comments(7)
白子川は練馬区、板橋区、そして一部が埼玉県和光市を流れる、荒川の支流「新河岸川」の更に支流の川だ。源流は、西武池袋線大泉学園駅の南西約1km、練馬区東大泉7の大泉井頭公園の湧水。練馬区内北西部を北東に流れ、更に板橋区と和光市の境(東京都と埼玉県の県境)に沿って進み、板橋区の北西端である三園で新河岸川に合流する。石神井川、神田川、渋谷川、目黒川などとならぶ、武蔵野台地を流れる代表的な中小河川のひとつだ。

1980年代前半までは都内の河川の汚染ワースト1だったが、現在では下水道の普及や流域住民・行政の努力で、清流が取り戻されていること、沿岸の崖線に沿って湧水が数多く残されていることなど、興味を惹かれる部分も多く、あまり馴染みや土地勘のないエリアではあるが訪ねてみたい川のひとつだった。

今回、白子川の源流部と、そこにつながる2つの川の暗渠を辿ってみた。かなり面白かったものの記事にするには延々と蓋暗渠が続き、やや単調になるかなと思っていたのだが、その後これらの川を調べていくと「地下水堆」と「シマッポ」という興味深いキーワードが出て来たので、それらと絡めて紹介したい。

今回辿った2つの川のひとつは、白子川源流の大泉井頭公園から更に上流部に向かって伸びる、いわば白子川の幻の源流ともいうべき「新川」(上保谷のシマッポ)。そしてもうひとつは、大泉井頭公園から1.2kmほど下ったところで合流している「大泉堀」(下保谷のシマッポ)。いずれもその全て、もしくはほとんどの区間が暗渠化されている。

流路のイメージがつくよう、googlemapにプロットしたものを作成したのでご参照を。また、白子川、新川、大泉堀の流路については、都内北部〜西部の川や暗渠のレファレンスサイトといえる「東京西北部の中小河川」が簡潔かつ詳しいのでそちらもご参照を。

主な参考文献としては、「白子川を知っていますかー水辺再生に向けて」(白子川汚染対策協議会、1994年刊)や古地図、「みどりと水の練馬」(練馬区土木部公園緑地課、1990年刊)「田無市史」(1995年刊)「保谷市史」(1988年刊)など。なお、田無市と保谷市は現在合併して西東京市となっている。

まずは、白子川の上流部「新川」(上保谷のシマッポ)から辿ってみよう。新川の上流部は2つに分かれている。西東京市(旧田無市)谷戸町1丁目に発する北側の流れと、そこから南に500mほど下った北原町3丁目から発する南側の流れ。いずれも、西武新宿線田無駅と西武池袋線ひばりヶ丘駅を結ぶ谷戸新道沿いから流れ出し、すぐ西側には東大農場の広大な敷地がある。最初に南側の流れを源流から辿ってみる。

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田無駅から谷戸新道を北北東に進むこと1km。道路がわずかな窪地を通過する地点の西側に、住宅街の隙間を抜ける細い路地があり、その中央にひっそりと、細いコンクリート蓋暗渠が伸びている。これが現在確認できる新川の最上流端だ。写真は暗渠の開始地点から下流側(東)をみたところ。後ろは東大農場で、かつては農場の構内まで水路が延びていたという話もあるようだ。
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蓋暗渠の開始地点を隙間から覗くと、塩化ビニール管が接続されていて、わずかにちょろちょろと水が流れ込んでいる。蓋が柵になっている場所が何カ所かあったが、川底は土で、水は流れるというより地面にしみ込んでいるようだ。
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谷戸新道を反対側(東)に渡ると、道路に沿って細いコンクリート蓋暗渠がジグザグと続いている。ところどころ、蓋だけは新しくなっているところがあるものの、水路はかなり老朽化している。中はところどころ汚水が溜まっていて、流れてはいない様子。
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暗渠は都営田無北原町アパートの南側を回りこんだのち、細い路地の真ん中を東に進む。暗渠沿いは土が露出し、花壇もあったりしていい雰囲気だ。通る人も意外と多いようだ。
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暗渠は田無第2中学校前の通りに突き当たると、直角に曲がって道沿いを北上する。真新しい蓋が続いた後途中で蓋が消滅しただの歩道となってしまうが、しばらく進んでいくと再び古びたコンクリート蓋暗渠が現れる。
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田無第2中学校の正門前で、東に伸びる暗渠が分かれる。道沿いの暗渠も更に北へのびているが、こちらが本流のようだ。両側を塀に囲まれ本来なら殺風景なのだろうが、ハナダイコンが咲き乱れていて、花園へと誘う暗渠のよう。奥へ進んでいくと、住宅の塀のところで行き止まりとなる。ここはちょうど旧田無市と旧保谷市の境目となっている。
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通り抜けられないので、北へ延びる暗渠のほうから回りこんでいく。コチラの暗渠は中学校北東側の、商店の密集したエリアで消えている。旧字名を上宿といい古くからあった集落のようだ。1本の通りに沿った商店街ではなく、何本かの路地に沿って店が並んでいるのが不思議な感じがする。このエリアを南側に回り込むと、ハナダイコンの暗渠の続きが住宅地の中から現れる。蓋の幅がずいぶんと広くなっている。わずかな区間だが道路沿いを流れる。短いが桜並木があって、川が姿を見せて流れていた頃の風景を想像させる。
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桜の木の幹をよけるためか、蓋がずれているのが面白い。
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しばらく進むと橋の痕跡が出現する。
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そのすぐ先、鉄柵の向こうに突然開渠区間が現れる。水路の幅は蓋の幅よりも狭いことがここで判る。
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水路には水は流れていないが、護岸を補強するような、真新しい構造物が作られている。これから蓋を閉めるための準備なのだろうか、それとも単なる補強なのだろうか。水路沿いを進むことは出来なさそうなので、道を東側に回りこんでみる。
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反対側に回り込むと、よくある梁を渡したコンクリート水路となっていた。この地点の東側から再びコンクリート蓋暗渠となる。
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暗渠は道沿いにしばらく流れた後、住宅地の中へと北上していく。この区間から一段低くなっている。
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数メートルおきに暗渠の蓋が鉄柵となっているところがあり、中を覗くと何と水が流れている。川底は土で、水は澄んでいて、臭いも特にない。かつては下水道代わりに使われ悪臭が漂っていたようだが、現在は下水が整備されており、基本的には暗渠には流れ込んでいないはずだ。ではここに流れる水は何なのだろう。
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実はこの近辺、泉町(旧保谷市)から谷戸町1丁目(旧田無市)〜東大農場にかけては、地下水位が地表から2〜3mと浅くなっており、特に窪地ではかつては地下水位が0.5m程度と非常に浅かったという。これは、地下水が凸レンズ状に盛り上がっている「地下水堆」に拠るものだ。新川の2本の流れはまさにその「上宿地下水堆」の真上の窪地を通っている。
そして新川はもともと、常に水の流れている川だったというわけではなく、雨の後などにこの地下水堆の水位が上がり地上に湧き水として溢れ出した時にその水が流れる、いわゆる悪水路だったという。保谷地域ではそのような水路を「シマッポ」と呼んでいる。戦前の調査によれば、シマッポは幅1m、深さ50cm程度の空堀だったという。
地下水位は戦後、宅地化や工場の進出に伴う地下水の過剰な汲み上げで低下したものの、現在ではかなり回復しているそうだ。新川の水路は覗きこんだ限りでは地上から大人の背丈ほどは掘り下げてあるように見える。とすると、川底が「地下水堆」に達している地点もあり、今流れている水はそこから滲み出している水だという可能性があるのではないだろうか。現在新川は雨水排水路として扱われているようだが、そんな水も混ざっているかもしれないと考えるとなかなか面白い。

新川の南側の流れは、泉町2-12で、谷戸町1丁目から流れ出している北側の流れと合流する。こちらもまさにその地下水堆に関係する「谷戸」からの流れだ。そして、この合流点の北側には、かつて、地下水堆が地上に姿を現し池となっていた「マツバ池」があったという。写真右奥から新川南側支流、手前から新川北側支流、そして合流後は左へ流れている。
(以下次回)
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by tokyoriver | 2010-04-08 00:06 | 白子川とその支流 | Comments(14)