東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

カテゴリ:神田川とその支流( 22 )

 二十年ちょっと前の個人的な話をひとつ。学生だった時分、京王井の頭線の終点近くである久我山駅、三鷹台駅、井の頭公園駅といった辺りに、地方から出てきた同級生たちが幾人か、一人暮らしの住まいを借りていた。特に三鷹台のとあるワンルームマンションには、クラスメイト2人が別フロアに暮らしていて、学園祭の準備のときとか、終電を逃したときとかの皆の拠点となっていた。私もほかのクラスメイトたちとともに幾度となく出入りし、8mm映画を撮影したときには、ロケ地やアフレコ場所として使わせてもらったりもした。

 彼らの住むマンションの北側は数メートルの擁壁となっていて、その下には暗渠の細い道が東西に通っていた。暗渠を西へ進むと階段があって、登ると三鷹台の駅前通りが南北に抜けていた。彼らの部屋に行くとき、そして帰るときには、必ずこの階段を昇り降りして暗渠を抜けていった。階段の下はかつて川だったのだ、この道は「暗渠」なのだ、ということを一緒に昇り降りした同級生たちに話したのかどうだったか。今なら話したかもしれないが、当時は自分の中に留めていたような気がする。
 専門課程に進みクラスが分解すると、次第に彼らの部屋を訪れることも減り、インターネットはおろか携帯電話もまだ普及し始めたばかりの時代だから、卒業後は次第に疎遠になって、連絡もとれなくなっていき、大部分の消息は今ではわからなくなってしまった。マンションに暮らしていた同級生は今、どこで何をしているのだろうか。

よく晴れた初夏の朝、ふと思い立って三鷹台の駅に降り立ち、かつて通った暗渠を訪れてみた。ゆるやかな上り坂となっている駅前通りを南へ数分進むと、右手に雑草の生える、少し凹んだ細長い空き地が見える。二十数年前と変わらない、川跡の風景だ。
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通りの左手には、こちらも変わらない、暗渠へ下る階段があった。
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階段の方がかつての川の下流となるが、まずは右手未舗装の川跡を上流に向かってみることにした。定期的に草刈りを行っているのか、雑草は短く、容易に通り抜けられる。右側の大谷石の護岸は水路があった頃からのものだろうか。
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車道をひとつ横切って、その先にさらに未舗装の川跡は続く。当時は車止めの前を通り過ぎるだけだったが、思い切って足を踏み入れてみる。
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送電線と勢いのある植物の緑、そして柑橘類の橙色の実が、初夏らしさを漂わせる。防災時井戸の看板があったりして公共用地であることは明白なのだが、それでも奥に進むほど、川跡沿いの家々の私的空間が気配として浸透していて、行き止まりとなる少しだけ手前で水路跡の追跡はやめておいた。
この辺りがこの小川の源流だったのだろう。ただ、周囲より低地にはなってはいるものの明確な谷頭地形だったりするわけではなく、はっきりとした湧水というよりは、じわじわと水が染み出るような水源だったのだろう。
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通りまで戻り、いよいよ下流側へと進んでみることにした。階段を降り振り返ると、そこには懐かしい20数年前の風景があった。右手の木もそのままだ。多愛のない、意味のない会話を交わしながら何度この階段を上り下りしたことだろう。
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階段を降りてしばらく、どことなく長閑な住宅地の中を抜けていく。
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やがて暗渠は谷の南側の縁を流れるようになる。立派な擁壁の上を見上げると、2人の同級生が住んでいた細長い3階建のワンルームマンションが、やや古びてはいたものの当時のままに残っていた。台地の上にあがり、玄関先まで立ち寄ってみる。玄関の脇の屋根付き飲料自動販売機は、最新の機種に入れ替わっている。居ないことを確認するかのように、集合ポストに並ぶ名札をざっと眺めてみる。やはり当然ではあるが彼らの名前はない。
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谷筋の暗渠の路上へと戻る。記憶よりもずいぶんと明るく、そして道幅も広い。少し進むと、暗渠上にぽつりとベンチが置かれていた。路上の舗装と同じ赤茶色の座面。背もたれに印された「you are not alone」の文字は、暗渠を歩む者に何かを暗示しているかのようだ。
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擁壁の区間を通り過ぎ、当時はあまり通ることがなかった久我山方面へと暗渠を下っていく。しばらく曲がりくねった路地が続く。明治から戦前にかけての各地図をみると、川沿いには畑が広がっていたようだ。一応谷戸地形ではあるのだが、水田にするには川の水量が少なかったのだろう。
暗渠の南側の台地の上には玉川上水が流れている。現在の地名は暗渠沿いは三鷹市井の頭1丁目となっているが、かつては上水の南側と同じく牟礼に属し、字名は玉川通東であった。
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やがて暗渠沿いの旧字名は神田川東通に変わる。小公園を過ぎた先には暗渠上に階段が現れる。通常は道路などからの段差を階段で上る場合が多いのだが、ここは暗渠化後、路上に盛り土をしたのか、交差する道路に下っていくかたちとなっている。この辺りは急な流れだったようで、階段の先に見える暗渠も、ここまでよりも傾斜を増している。水量があれば水車が架かっていたような流れだったのだろう。
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両岸を擁壁に囲まれ、路面も下り坂となっていて、だいぶ渓谷感のある暗渠を下っていく。道は蛇行し、見通しはない。家々は背を向けており、暗渠度を高めている。車止めはシンプルな1本棒だ。
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しばらく進んでいくと、路面の傾斜はなくなり、谷底に降りきった感じとなる。暗渠の幅もやや広くなる。擁壁には水抜きの穴が並ぶ。
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古そうなコンクリートの擁壁に空く、排水管の穴。かつて水路に直接排水を落としていた痕跡だろうか。
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周囲の下水の中継地点である「井の頭ポンプ場」を過ぎると暗渠路地は普通の道路に合流する。この辺りになると、暗渠の流れる小さな谷は、より大きな神田川の谷にひらけて、なくなる。
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暫く進むと暗渠は三鷹市から杉並区に入り、神田川の旧水路(蛇行の跡)に合流して終わった(写真左の木の繁みの辺り)。現在の神田川沿いには直接の痕跡はないが、神田川旧水路の合流口が神田川の護岸に口を開けていた。
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暗渠は神田川に合流する直前、杉並区との境目で、右手に水路を分けている。この水路は神田川の南側を並行して流れ、神田川の「上げ堀」に接続していた。引き返してこちらの水路を上げ堀まで辿ってみることにした。
水路といっても当然暗渠なのだが、車止めにはしっかり「水路内にバイクを乗り入れないでください」と記されている。ここはあくまでも「水路」なのだという、毅然とした主張。
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神田川沿いには戦後しばらくまで、両岸に水田が連なっていた。それらに水を引き入れるために、神田川の両側には川から水を分け平行していわゆる上げ堀が流れていた。この「水路」は神田川の南側に沿った水田の縁を流れており、上げ堀の機能も果たしていたのだろう。暗渠左側がかつての水田で、右側は少しだけ小高くなっていて、畑地として利用されていたようだ。
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再び「水路内にバイクを」の車止めが現れ、この暗渠はいったん終わる。両端を「水路」と記された車止めで蓋され、両岸は畦道の代わりに塀や家々で挟み込まれた、水のない水路。nullな空間。
水路はここで、神田川の緑橋付近に設けられていた「大熊堰」から分流された上げ堀に合流していた。上げ堀は左側にある神田川から、車止めの向こう側の砂利道を通って奥の緑の繁みの方へと流れていたという。
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繁みを下流方向に回りこむと、袋小路の奥に、コンクリートのU字溝ではあるものの、一応開渠として涸れた水路がひっそりと残っていた。水の湧くような地形でもないから、偶然の積み重ねで偶々残されたのだろう。
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下流側を振り返ると、水路の続きが雑草の生える空き地となって残っている。シンメトリックなブロック塀のもたらす遠近感が、ここが忘れられ取り残された空間であることを際立たせる。ただ、そこに漂う空気感は淡く柔かく、暖かみがあるようにも思われる。
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水路跡は100mほど続いて人見街道の旧道に突き当たり、唐突に消える。右に進むと神田川にかかる宮下橋だ。渡ったその先、谷戸を登った台地の上には久我山稲荷神社が鎮座する。水路はここよりやや下流で神田川に合流していたようだ。
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ここから人見街道沿いを西に向かったところにはやはり二十数年前に別の友人が住んでいて、この水路跡も何度か横切っているはずだ。当時は三鷹台の同級生の家の前の暗渠がここまで繋がっていることには気がついていなかったように思う。
神田川の切り立った護岸沿いに設けられた歩道を数分あるけば、そこは井の頭線の久我山駅だ。駅は高架化されてかつてとだいぶ様子が変わっていたが、川と人見街道に挟まれた三角形の土地にたつサミットスーパーはかつてのままに営業していた。

 暗渠沿いの彼らの部屋で交わし合った言葉や移ろっていったそれぞれの感情。今となっては、それらの何ひとつとして、はっきりとしたことは思い出せない。ただ夜明け前の薄明かりのような、薄曇りのひだまりのような、ぼんやりとしたモノクロームの記憶が心の奥底に眠っている。暗渠を歩くことでそれらを少しは掬い上げられたのだろうか。

「いつの日か長い時間の記憶は消えて、優しさを僕らはただ抱きしめるのか」

そんな、当時の歌の一節を思い出しながら、渋谷行きの急行電車に乗って街を離れた。


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by tokyoriver | 2015-06-13 00:06 | 神田川とその支流 | Comments(8)
2年半ぶりの「神田川笹塚支流(和泉川)」シリーズ。今回は京王新線幡ヶ谷駅付近を流れていた支流をたどってみよう。

今までの記事はこちら
・神田川笹塚支流(和泉川)(1)「萩窪」の源流と幡ヶ谷分水
・神田川笹塚支流(和泉川)(2)最上流部・北側水路
・神田川笹塚支流(和泉川)(3)最上流部・南側水路

「神田川笹塚支流」もしくは「和泉川」という呼び方

 暗渠者の間で「神田川笹塚支流」もしくは「和泉川(いずみかわ)」と呼ばれるこの川は、杉並区和泉の地にその流れを発し、新宿区西新宿五丁目で神田川に合流する全長3kmほどの流れで、1960年代半ばに暗渠化されている。
 川は本流の他、並行する傍流や右岸側の台地に谷を刻む数多くの支流、そして玉川上水からの分水もあって、流域も杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区にまたがっており結構な規模があるのだが、なぜか固有の呼び名がなく、流路の大半を占める渋谷区の行政資料や地域資料では長いこと単に「神田川支流」という呼称で記されてきた。神田川の支流は他にもたくさんあるわけで、固有名詞というにはにはやや無理があるし、無個性で味気ない。
 一方でその暗渠は遺構が多く変化にも富み、数多くの暗渠者を引き寄せてきた。彼らの間ではいつしか「神田川支流」ではなく「神田川笹塚支流」と場所が分かる形で呼ばれるようになり、現在その呼び方は一般的にも定着してきているように思える。
 そんな「神田川支流」に「和泉川」という呼び方があったらしい、と判明したのは6、7年ほど前だっただろうか。庵魚堂さんの「世田谷の川探検隊」に当時あったBBSで、中野区の戦前の資料で見つかった名前として報告された「和泉川」の名称はかなり反響を呼んだ記憶がある。現在では和泉川の名前も少しづつ浸透している。本サイトではそんな経緯を踏まえて「神田川笹塚支流(和泉川)」として記載してきた。
 この「中野区の戦前の資料」の掲載箇所が長らく見つけられなかったのだが、今回記事を記すにあたって再度資料を確認して見たところ、やっと1943年に刊行された「中野区史上巻」において、中野区の地形をなす丘陵の説明の項に「幡ヶ谷丘陵」を分かつ河川として北に神田川、南に和泉川と記されているのを見つけることができた(ちなみにこの資料では桃園川を中野川としている)。ただ、この名称は他の資料には見当たらず、実際に現地でそう呼ばれていたのか、便宜上文中でそう記していたのか定かではない。いずれにせよ、川の流域に含まれていない中野区の資料だけに川の名前が記されているということは興味深い。
 
唯一名前の無い、幡ヶ谷の谷

 下の地図は神田川笹塚支流(和泉川)流域の段彩図だ(google earth経由東京地形地図にプロットしたものをキャプチャ)。青が河川の暗渠/川跡、赤が用水・上水の暗渠/川跡、水色が現存する河川、桃色が現存する用水路・上水路となる。
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 源流部や支流の流れる谷戸には鶴が久保、萩窪、牛窪、地蔵窪、小笠原窪、とそれぞれ地名がついている。しかし、今回記事にする幡ヶ谷の支流の谷(上の地図で黄色い矢印で指したところ)には、古地図や資料をざっと調べた限りでは、地名がみあたらない。水田として利用されていなかったこともその理由かもしれないが、短いながら比較的はっきりした谷筋なだけにこれまた不思議な感じもする。ひとまずここでは「幡ケ谷支流」とでも呼んでおく。辿るに先立って、幡ヶ谷付近を拡大した段彩図をあげておこう。
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 川は玉川上水の近くに発し、京王線、甲州街道、水道道路を横切り和泉川に合流している。上流部は僅かな窪地となっている程度だが、中・下流の谷筋は幅が狭く、そして高低差がはっきりしている。そしてかつて淀橋浄水場に水を送っていた玉川上水の新水路だった「水道道路」が谷を横切ってダムのように塞ぎ、スリバチ界隈の方々が呼ぶところの「一級スリバチ」ができている。さっそく下流部から遡っていこう。

水道道路北側の深い谷

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和泉川本流の暗渠を遡って行き、六号通りを過ぎて中幡小学校の前で暗渠が車道と合流する地点が、幡ヶ谷支流が和泉川に合流していた場所だ。写真の手前は和泉川の橋跡で、右から左に向かって川が流れていた。そして写真左奥の住宅地の中から出てくる路地がかつての幡ヶ谷支流だ。
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 暗渠路地の入り口には、欄干の痕跡のようなものが残っている。明治中頃から大正後期にかけては、この地点より20mほど西寄りに水車用の分水路の合流口があり、字中幡ヶ谷と字原の共用水車が回っていた。この水車については後ほど記す。
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 路地の入り口は直線だったが、遡って行くとすぐに優雅なカーブを描く暗渠道となる。
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 角ばったS字に曲がっていく。この少し先で、両側に家々が迫る路地からいったんぽっかりと空が開けた窪地となる。そこには「原中橋」(おそらく「原」と「中幡ヶ谷」の字名からとったのだろう)と呼ばれた小さな橋が架かっていて、先の水車用の分水路がそこから分けれられていたようだ。
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 原中橋が架かっていた地点を過ぎてすぐに、暗渠は再び崖下に沿う路地となる。
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 暗渠は奥に進んでいくにつれてどんどんプライベート感を増し、やがて半ば家の裏庭になりかかっ先で、水道道路に阻まれて行き止まりとなる。
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  振り返るとこんな感じだ。鉢植えや自転車、梯子、そして何故か扇風機。この暗渠路地に入ってくる部外者は郵便配達くらいなものなのだろう。

玉川上水新水路と、谷に落とされた水車用の水

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 途中まで引き返し、谷底から水道道路の上に上がる。道沿いには都営住宅が続き、その先には初台のオペラシティのビルが見える。左側の歩道沿いにみえる緑のフェンスのあるところが、暗渠の谷が横切っている地点だ。
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 フェンスのところまでくると高低差がよくわかる。水道道路はかつての玉川上水新水路の跡だ。玉川上水新水路は、東京の上水道近代化を目的としてつくられた淀橋浄水場へ水を供給するために1897(明治31)年に完成した。水路は従来の玉川上水と異なりほぼ直線で建設され、そのため、従来の玉川上水が迂回していた谷筋を越えるため土手が築かれた。ここで見られる高低差はまさにその土手の名残だ。新水路の高い土手は幡ヶ谷の地を分断し、住民はかなりの不便を強いられたという。
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 水路沿いの住民は新水路建設にあたり労役も提供したというから、いわば骨折り損のくたびれ儲けだったわけだが、わずかながらの見返りとして、新水路の落水を水車の動力に使用することが許可されたという。その水車が先に記した幡ヶ谷支流(の分水)と和泉川の合流地点に設けられた水車だ。
 和泉川流域に水車が登場したのは明治初期だったという。流域は全体的に高低差が少なかったため設けられた水車も3箇所のみだった。そのうちの一つの中幡ヶ谷水車が移設され、新水路の水を利用するようになった。写真の通り高低差が大きかったため水流が早く、水車の回転も速かったという。水車は大正末まで20軒ほどの農家に共同利用されていたという。
 専ら浄水場への送水を目的とした新水路から水が落とされていたというのはにわかには信じがたいが、わざわざ水車を移転したのだから事実なのだろう。そうだとするならば普通に考えればこの写真の地点で水が落とされていたことになるだろう。
 なお、玉川上水新水路は関東大震災の際には堤防が決壊し幡ヶ谷一帯に洪水をもたらした。これを機に住民からは水路の撤去要請の声が高まり、甲州街道の拡幅時に淀橋浄水場への送水管が地下に埋設され1932(昭和7)年に新水路は廃止された。しかし土手はその撤去途中で戦争に突入し、大部分はそのまま残って水道道路となっている。

水道道路南側のスリバチエリア

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 さて、六号通りを経由して、水道道路の南側の「一級スリバチ」状になった谷筋に続く上流部を目指す。水道道路沿いの都営住宅の裏には、水道道路に並行して谷筋へと降りていく側溝があった。
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 側溝を下り切った地点から振り返る。こちらも谷の断面がよくわかる。
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 谷底に再び現れる暗渠らしき路地。水道道路の土手の擁壁とその上に建てられた都営住宅が聳え立つ。
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 そこから上流方向を眺めたところ。いかにも暗渠な雰囲気だ。ただ、戦前の地籍図を見ると、実際の水路はこの路地よりもやや西寄りに描かれていて、この先の地点でクランク状に曲がってからこの路地のルートとなっている。一方で戦後の地図や航空写真ではこの路地が水路となっている。どこかのタイミングで付け替えられたのだろう。
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  暗渠道がやや太くなる地点の脇には「観音湯」。戦前の地図にも別の名称ではあるが銭湯が確認できる。写真には写っていないが東側(右側)には上り坂が六号通りに続いていて、スリバチ地形がよくわかる。
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 幡ヶ谷の駅近く、飲み屋などを伴いながら緩やかな登り坂となって暗渠が続く。路地自体は甲州街道まで続くが、水路は甲州街道の手前でクランク状に折れ曲がり西方にシフトしていた(冒頭2枚目地図参照)。現在は土地の境界にその名残を残す程度で暗渠はいったん痕跡を消す。

甲州街道の南側の痕跡と玉川上水

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 甲州街道を越え、京王線の線路の南側の住宅地の中に入っていくと水路跡は三たび姿を現す。この辺りでは川沿いはほぼ平坦になっている。自然河川の上流部を排水用に延長したパターンにも思えるが、幡ヶ谷郷土史によると、一帯では水が湧いていたようだ。
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 狭い路地だが、駅への近道になっているのか絶え間なく人通りがある。水の流れが人の流れに入れ替わったとでも言えようか。
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 数十mで車止めが現れ、水路跡は終わる。すぐ先には玉川上水の暗渠が通っている。ここが幡ヶ谷支流の痕跡の最上流端だ。
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  すぐそばの玉川上水の暗渠には、1980年代末期にリニューアルされ半ばモニュメント化された山下橋が架かる。奇遇にもその意匠には水車のモチーフが取り入れられている。左奥の植え込みの後ろに道路を挟んで先ほどの幡ヶ谷支流の暗渠がある。
 これだけ玉川上水と幡ヶ谷の支流の水源が接近していると分水が引かれていたのではないかという気にもなるが、先に記したとおり一応湧水があったようだ。ただ、上水がその湧水を涵養していた可能性は否定できないだろう。

 幡ヶ谷支流の探索はこれにておわり。名無しの支流ではあるが、玉川上水新水路からおそらく唯一の分水を受け、そして旧水路からはその漏水を受け、と新旧ふたつの玉川上水と縁深かったこの川。果たして呼び名はあったのだろうか。いつしか「和泉川」のようにその名前が発見されてもおかしくない、個性のある川であったように思う。

【主要参考文献】

「幡ヶ谷郷土誌」 堀切森之助編 1978 渋谷区立渋谷図書館刊
「東京市渋谷区地籍図下巻」1935 内山模型製図社刊
「渋谷の水車業史」 渋谷区立白根記念郷土文化館編 1986 渋谷区教育委員会刊
「中野区史 上巻」 1943 東京市中野区役所編・刊

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(おまけ)山下橋の傍には、かつての橋の親柱がひっそりと保存されていた。
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by tokyoriver | 2013-01-27 01:42 | 神田川とその支流 | Comments(1)
小沢川、第3回は神田川との合流地点まで、蛇窪と呼ばれた谷からの支流の暗渠、そして蚕糸の森公園のそばに残る、支流の痕跡らしき路地をとりあげる。

小沢川の暗渠が道路と一体化した区間は、それ自体は味気ないが、すぐ脇には、こんな雰囲気のある路地が残っている。
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100mほど東へ進むと、南にほぼまっすぐにのびる暗渠が現れる。
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暗渠上には測量点も。そばにはなぜか電子レンジが廃棄されていた。
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車止めで仕切られた暗渠を200mほど南下していくと、最後に金太郎の車止めが出迎えてくれる。
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その先は行き止まりの暗渠路地。通り抜けができないためか、放置気味の雰囲気だ。
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暗渠の最奥。突き当たりに見えるのは神田川の護岸だ。
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引き返して、丸ノ内線中野富士見町駅のすぐ近く、神田川に架かる富士見橋から下流側を見てみると、左岸に小沢川の合流口を塞いだ四角い痕跡が残っている。下にある小さな水抜きの穴からわずかに水が流れ落ちている。実際の合流口(正確には川ではなく大雨時の雨水合流口だが)は現在富士見橋の下に矩形の口を開いている。
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蛇窪の川跡

さて、続いては「蛇窪」と呼ばれた谷筋を流れていた川の跡を遡ってみよう。下の地図の中で囲んだ2つの谷のうち東側(右側)が蛇窪だ。(段彩図は、数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)
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先ほどの、小沢川本流の暗渠が再び姿をあらわし真直ぐに南下する地点で北側を見ると、そちらからもまっすぐな暗渠が合流してきているのがわかる。これが蛇窪からの流れだ。
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遡っていくと、十貫坂下からの通りの北側に、こんな谷筋へ向う暗渠道が現れる。
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んでいくと、左手は珍しく未舗装の土手の斜面。遊んでいる子供がいた。
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更に奥に進むと、だれもがツッコミたくなる「自動車通行禁止」の看板が。通れる訳がない場所。そして看板の右下には中野区の文字。蛇窪の谷の北側は中野区と杉並区の境界線となっている。この看板より先は、暗渠は中野区に属している、ということだろう。
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とうとうアスファルトの舗装が尽きた。この先は草むらだ。
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冬なので、草は枯れ、足下はしっかりしている。谷筋はだいぶ細くなってきている。
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辿ることのできるいちばん奥はこんな感じ。左側の家の柵がはみ出してきている。写真はいったん谷を出て、右側に見える駐車場に回り込んで撮影したもの。中野区と杉並区の境界線はこの先で西(左)へ曲がっているが、川跡のスペースはまっすぐ北にのびていた。
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その駐車場から見える強烈なインパクトのある家。namaさんの暗渠さんぽでもとりあげられていた、建て増しに建て増しを重ね、カオス状態。家の下部を覆う蔦とブロック塀の間に、さきほどの川跡が通っている。
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2つ前の写真の場所から更に北上したところにある、行き止まりの路地。奥の車が止まっているところの裏手が先ほどのところに繋がっているようだ。古地図を見ると大正時代まで、ちょうどこの辺りに小さな池があったようだ。蛇窪の流れの水源だったのだろうか。
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蚕糸の森公園近くの支流跡?

最後は丸ノ内線東高円寺駅のそばにある蚕糸の森公園の東側の谷筋をとりあげてみる。蛇窪支流のところで掲載した段彩図上、丸でかこった2つの谷のうち、左側のほうだ。小さな枝谷があるのがわかるだろうか。ここの谷筋に、小沢川に注いでいた支流の痕跡ではないかと思われる細い路地が通っている。
蚕糸の森公園はかつて蚕糸試験場だった場所で、今でも立派な門が残されている。ここの谷筋に川があったという文献は見つけられなかったのだが、こちらのサイトの記事では、大雨の際に蚕糸試験場内の池が溢れて小沢川に流れ込み、とある。古地図を見る限り蚕糸試験場内に池は見当たらず、記事の出典もわからないのだが、これがほんとうだとすると、何かしら流れがあったのではなかろうか。

実際に現地に向かい谷筋を探して見ると、どうも水路の跡であってもおかしくはないのではないかと思われる路地が見つかった。谷の底を南へ向って緩やかな下り坂となっている。
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マンホールは点在しているのだが、下水道台帳には下水はおろかこの路地自体が表示されていない。
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車道が横切るその先にもなお、路地は続いている。車道奥側の歩道スペースが路地のところでぷっつりと切れている。
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路地はしばらくまっすぐ進んだのち、西に折れ高南中学校前の通りに出て一旦消滅する。
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少し南下すると再び左手に、車止めで仕切られたあやしいスペースが出現。
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奥にはこのような中途半端に舗装された路地が。ここのマンホールも下水道台帳には載っていない。更に奥はアパートの敷地となって行き止まりとなっていたが、その延長線上には小沢川本流が控えている。果たしてこれらの一連の路地は川跡なのだろうか。それとも妄想なのか。引き続き調べてみたいところだ。
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3回にわたってお届けした小沢川はこれにておしまい。1回目にも記したが、小沢川は暗渠好きの間で比較的人気が高いようだ。それは、ほどよい長さで、変化に富んでいて見所も多く、独特の雰囲気を持っているからだろう。暗渠に興味を持ち、試しにどこか辿ってみようかなと思っている方が行ってみても楽しめるように思える。
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by tokyoriver | 2011-02-08 00:22 | 神田川とその支流 | Comments(8)
さて、小沢川の第2回である。ですます調からもとの文体に戻して、前回の続き、環七通りの東側から始めていくこととしよう。明治初期の迅速測図を見ると、真盛寺(明治時代はまだ無いが)の池から流れ出た小沢川は、すぐに2本に分かれて並行して流れていたようだ。現在暗渠となって残っているのは南側の方の流路で、北側に並行して通る道もかつては水路だったと思われる。2本の水路の間には細長い水田が拓かれていた。

環七通りの歩道から階段を下りると、先ほどまでの寺町や、絶え間なく車の行き交う環七通りとは全く別の空気が漂った暗渠道となる。そこは街の表皮の縫い目が綻びて、中身が露出しているような、時空のずれたような、独特の雰囲気のある場所だ。
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一応舗装されてはいるものの、一見そうとは判らないくらい荒れた路上。右岸側には数メートルおきに異なる護岸。
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つっかえ棒のある家。この棒を外すと家が倒れて来たりするのか・・・?
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谷底らしく、苔むした一角も。
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無造作に積み上げられた護岸、蔦、笹、そして壁にはよくわからないミラー。
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あちこちに、暗渠沿いの家から、暗渠に降りる階段が見られる。
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暗渠沿いで最もまともな部類の立派な階段。
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道路との交差。路面の盛り上がり、マンホールを囲む格子、緑の車止め。暗渠は途中から、下水道和田本町幹線となっている。
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右岸の木製の階段も気になるが、左岸側の路面のでこぼこもなにやら怪しげ。
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でこぼこに接近。間隔を空けて、地中から何かが押し出ようとしている。何者だ!?
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暗渠沿いで最も細い部類の貧相な階段。
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暗渠に身を乗り出す擁壁。そのうち倒れそうだ。
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ここで一旦幅広の道路に出て写真左方向へ。写真右方向からは蚕糸の森公園方面から支流が流れて来ていたと思われる(次回にとりあげる)。
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鍋屋横丁から妙法寺へと抜ける古道を越える地点から、再び暗渠が始まる。迅速測図では、ここで2本の水路が1本にまとまるように描かれている。アスファルトの舗装が真新しく、なにやら違和感を覚える風景だったが、帰宅後2007年の写真を見ると、ここには以前、金太郎の車止めがあった(写真右側)。
小沢川とは「小沢」と呼ばれていた谷に流れていたことがその名の由来のようだ。高円寺村は江戸時代初期までは小沢村だったそうで、小沢の地名はその後も字名として昭和初期まで残り続けた。現在の和田3丁目が東小沢、中小沢、そして梅里1丁目が西小沢にあたる。ただ、この妙法寺道より下流側の和田1丁目は「小沢」ではなく和田本村であり、川の呼び名ももしかすると下流では別のものがあったかもしれない。
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その先、和田中央公園の脇。古そうな大谷石の擁壁がアスファルトに埋まって頭だけ出している。
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進んでいくと、だんだん擁壁が姿を現して来た。
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いつのまにかこんな高さに。それだけ暗渠が下り坂になっているということだ。かつて水が流れていた頃は、早瀬だったのだろうか。この辺りから流路は東向きへと変わっている。
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車道の脇を抜けていく。ポールやアスファルトに埋まった境界線がはっきり川跡を峻別している。
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道は登り坂へ、暗渠は下りへ。
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都営和田アパートの前は見事な蛇行暗渠。右岸側は崖となっている。
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左岸側だけが、蛇行の形を残している。古地図を見ると小沢川沿いにはこの辺りを含めいくつも池があったようで、水の豊富な土地であったことを伺わせる。
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十貫坂上からの道との交差点で、小沢川の谷筋は神田川の谷筋に繋がっていて、周囲の見通しが開ける。そして暗渠は再び道路と一体化して姿を消す。
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次回は、神田川との合流地点まで、蛇窪と呼ばれた谷からの支流の暗渠、そして蚕糸の森公園のそばに残る、支流の暗渠らしき路地をとりあげる。
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by tokyoriver | 2011-02-01 00:12 | 神田川とその支流 | Comments(11)
小沢川は、丸ノ内線新高円寺駅近く、杉並区梅里から流れ出し、杉並区和田の丸ノ内線(支線)中野富士見町駅近くで神田川に注いでいた全長2kmほどの小川で、現在では全区間暗渠となっています。小さな支流ながら独立した呼称を持ち、なぜか暗渠好きの間では比較的有名な川(跡)でもあります。

川は、段彩図(数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)でみるとわかるように、桃園川と善福寺川〜神田川に挟まれた台地にかなりはっきりと刻まれた谷を流れています。主な水源は、谷が環七通りを横切るすぐ東側に現存する湧水池「新鏡ヶ池」とされていますが、それより上流にも谷が伸び、さらにその先の台地上にも人工と思われる水路の痕跡が残っています。
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年末に時間ができたので、4年ぶりにこの「小沢川」の暗渠を辿ってみました。上流部のカオスぶりは相変わらずでしたし、縁あって最上流部に密かに残る蓋暗渠や今まで行ったことのなかった"蛇窪"の支流跡にも足をのばすことができましたので、記事にしてみます。

既にいくつもの暗渠系サイト/ブログでとりあげられており(本ブログでも以前、主水源だった「新鏡ヶ池」を紹介しました)、あまり新鮮味はないかとは思いますが、おつきあいいただければ幸いです。

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「小沢川」の暗渠は、丸ノ内線新高円寺駅の近く、青梅街道から五日市街道が分かれる交差点のすぐ東側から始まります。といってもここから200mほどは直線の水路敷が続いており、本来の水源よりも上流部につくられた、人工的な水路だと思われます。かつて青梅街道沿いには南阿佐ヶ谷駅付近まで、千川上水の分水「六か村分水」がひかれていましたが、その余水がここまで到達していたのか、あるいは街道沿いの排水路がつながっていたのでしょうか。
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暗渠沿いの緑地は木々が生い茂っています。
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そして、この暗渠沿いには「金太郎の車止め」が集中しています。青梅街道からの入口にあるのはもちろん、このように暗渠につながる道の方に金太郎が設置されています(奥を左から右に横切っているのが暗渠です)。絵の状態も比較的良好です。
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進んでいくと、右岸側には僅かですが段差がある場所も出てきます。
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珍しい、2連の金太郎。しかもここも絵柄がしっかり残っています。
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その先、右岸側の斜めのアスファルトがちょっと面白い。この辺りから暗渠は少し不規則に曲がったりしていて、これより先は自然の流れだったように思われます。
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南南東へと向っていた暗渠は、堀ノ内斎場の脇で向きを東に変え、真盛寺の敷地にぶつかって塀の向こうに姿を消します。ぶつかった先の塀が一部分だけトタンとなっていて、その下の路上には変な構造物が見えます。
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真盛寺とそこから南へ400mほどの妙法寺にはさまれた環七通りの西側はちょっとした寺町になっています。妙法寺以外の寺院は、大正初期から戦前にかけて都心部より移転してきました。寺院の境内にはポンプ井戸もちらほら見られます。下の写真では猫が井戸番をしていました。
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こちらは古そうな掘り抜き井戸らしき石の枠組の中に、なぜか釜がはめられていました。釜には金網製の蓋まで用意されています。
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それらの寺院のなかのひとつで、特別に許可を頂き、境内を通っている小沢川の暗渠を見学させて頂きました。そもそも川が流れていたということ自体が理解して頂けるかどうか不安でしたが、ああ川ですね、ありますよ、といって案内された先には、驚いたことにコンクリート蓋の水路が残っていました。小沢川全区間で唯一の蓋暗渠です。脇に隙間のあるタイプで、水路の上にそのまま蓋をしただけのような感じです。写真奥の方から流れて来ていますが、奥は土に埋まっているようです。
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緑に囲まれ、ゆったりと蛇行する水路。蓋の下には小沢川の水路が残っている、と考えると、蓋を開けてみたい衝動に駆られます。
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途中には点検用の取っ手のついた小さな縦五連蓋も見えます。
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ここから先は寺院の私宅の庭先を通って、真盛寺の境内へと入っていくそうです。真盛寺の境内にはもはや痕跡はまったく残っていないと思われますので、蓋暗渠の区間はここだけということになります。
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 お寺の方に伺った話では、区より歩行車道として整備したいとの話があったが、真盛寺で行き止まりになっていて通り抜けできないので意味がないことや、家の庭先を通っているため断ったとのこと。区からは水路敷は公有地だから、とごり押しされたが、では寺の前の道路は私道ではないか、と言ったところ引っ込んだとか。実は、真盛寺前を環七から堀ノ内斎場に抜ける道は近隣の寺院の私道(おそらくこのお寺の所有地も含まれるのでしょう)ですが、通行者の利便を図って開放しているそうなのです。確かに公有地だからといって杓子定規に行き止まりの歩道をつくるくらいなら、この私道を買い上げてもらった方がよっぽど住民の利便性にかなってますよね。

 そして、もともとは小沢川の南側までが堀ノ内だったのが、住居表示のときにこの私道が境界線になるように変更され、寺の敷地が梅里となってしまったという話も伺いました。調べてみると、この辺りの小沢川の流路はかつて、「杉並村~杉並町」と「和田堀内村~和田堀町」の境界線だったようです。川の南側は堀ノ内、北側は高円寺でした。そして、住居表示法にもとづいた、1966年の住居表示施行で「梅里」という地名が生まれた際に、境界線が変更されました(ちなみに梅里は青梅街道の通る里(=町)という意味で作られた地名だそうです)。そう聞くとますます、私道の方は放っておいて暗渠は公有地だから歩道に、というのが都合のいい話に思えます。ともあれ、歩道にならなかったおかげでこのコンクリート蓋水路が奇跡的に生き残ったわけです。

さて、暗渠の行き先真盛寺は、1631年湯島に開創し、1922年(大正11)にこの地に移転してきました。山門からして広大な境内が容易に想像できるこの寺は、三井財閥の三井家の菩提寺としても有名で、「三井寺」とも呼ばれているとか。そして、境内に現存する「新鏡ヶ池」は、最初に記したように、かつて小沢川の主な源流でした。池は寺が移転してくる前からあり、現在の池のおよそ倍の広さで、中島に弁天堂を祀る弁天池だったといいます。東側の現在環七通りとなっているところにも、かつて同じくらいの湧水池があり同じく小沢川の水源となっていたようですが、今では跡形もありません。
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真盛寺は現在、この手の広大な境内を持つ寺院としては珍しく、檀家以外の立ち入り禁止の表示が掲げられていますが、4年前に訪れた時には特に表示もなく普通に出入りできました(単に見落としていただけなのかもしれませんが、他にも普通の散歩客らしき人が参拝していました)。その時に撮影した「新鏡ヶ池」の様子です。放生池(捕獲した鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式「放生会」で、魚を放つ池)なので、魚が鳥に獲られないよう糸が張り巡らされています。「新鏡ヶ池」の名称は、寺が移転して来た時に当時の新劇俳優によって改めて名付けられたそうです。かつては豊富な湧水を誇っていたようですが、現在はおそらく枯れていると思われます。
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「新鏡ヶ池」の西側、墓地の入口にももうひとつ池がつくられていました。小沢川の水路は、これら二つの池の南側を流れていたようです。
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境内には水路の痕跡らしきものは見当たりませんでしたが、真盛寺に隣接する公園に、境内から流れ出ていた小沢川の水路跡の道が残っています。写真の柵の奥右側あたりが「新鏡ヶ池」で、水路は池の水を合わせて、手前の方に流れていました。
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下流側を振り返るとこんな感じです。川は真盛寺山門の参道沿いの塀の東側に沿って流れていました。写真の奥が環七通りになります。
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環七通りを越えると、はっきりとした谷筋が現れます。階段で下る谷底には、小沢川の暗渠が通っています。ここから先しばらくの区間は、見所にとんだ暗渠道が待ち構えています。
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(次回につづく)


2009fragmentsになってから初めて全編ですます調で通してみましたが、何だか調子が狂いますね、これ。自分で書いた文章に見えません。次回から今まで通りに戻すかもしれませんが、あしからず・・・
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by tokyoriver | 2011-01-23 22:18 | 神田川とその支流 | Comments(20)
「みちくさ学会」「これもまた川の痕跡。杉並の住宅地を縫う極細の暗渠/川跡をたどる」という記事を書きました。とりあげたのは、杉並区/中野区界隈の暗渠探訪者の間ではおなじみとなりつつある「桃園川たかはら支流(仮)」です。namaさんや味噌maxさんの秀逸な記事の後での二番煎じとなりましたが、ご容赦を。

桃園川支流を歩く その17たかはら支流(仮)は七変化(「暗渠さんぽ」)
桃園川たかはら支流(仮)の驚愕。(A Midsummer Night's Hole)

短いながら変化と見所に富んだたかはら支流、本文中にスペースや都合上掲載できなかった写真が多かったので、こちらに補完として掲載してみます。流路の全体像や詳しい説明は「みちくさ学会」の方に記しましたので、そちらの記事とあわせてお読みいただけたらと思います。
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まずは段彩図。特に中央線以南の谷筋はかなりはっきりしていることがわかる。(段彩図は数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。
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夜の最上流暗渠。さすがにこの中に入って行く勇気はない。
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夜の中央線南側暗渠。猫に出会った。
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夜の橋遺構。奥は闇だ。
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最上流の開渠。大谷石の護岸に挟まれた、埋まりかけの細い水路。
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やはりここの区間はハイライト。
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なぜか暗渠状に放置されていた「止まれ」標識。
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出鱈目に載せられた蓋の上を枯れた雑草が這い、護岸もいろいろと塗り重ねられていて、訳が判らない状態。
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工事現場足場を蓋にしている。
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もうひとつの欄干の遺構。
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妙に気になった扉。
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鉄板の蓋。
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ブロック状の蓋。
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開渠。
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たかはら支流の南東で発見した怪しい路地。
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by tokyoriver | 2010-12-22 10:00 | 神田川とその支流 | Comments(8)

弦巻川断章

土曜日のイベント「『東京ぶらり暗渠探検 消えた川をたどる!』刊行記念「東京ぶらり暗渠探検」」@東京カルチャーカルチャー、何とか無事終了いたしました。こんなイベント、人来るのかなぁ・・・→やっぱりチケット売れてないよ!から、蓋を開けてみればあの盛況。お越し頂いた皆様、ほんとうに、ありがとうございました。

会場で時間切れとなった「弦巻川」について、少しだけ、とりあげてみます。「弦巻川」は池袋駅西口、ホテルメトロポリタンなどのビルが建ち並ぶ一帯にあった湧水池「丸池」を主源流とし、雑司ヶ谷の谷を東に下り、護国寺にて向きを南南東に変え音羽の谷の西縁を下り、江戸川橋付近で水窪川と合流してすぐに神田川へと流れ込んでいた川で、池袋駅西口の美久仁小路近辺からサンシャインシティ付近を経て同じく音羽谷の東縁を下る「水窪川」といわば双子の関係にあります。詳しくは、「東京の水2005Revisited」の弦巻川・水窪川のカテゴリで詳述してあります。また、『東京ぶらり暗渠探検 消えた川をたどる!』にも簡単ながら掲載していますので、ご参照下さい。

また、流路のgooglemapはこちらをどうぞ。

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1.音羽谷西縁の区間

弦巻川は、暗渠化直前には神田川の直前で水窪川に合流していたようだが、明治中ごろまでは直接神田川に合流していたようだ。明治16年の5000分の1地形図には、その流路が掲載されている。地図左上から中央を南北に通るのが護国寺の参道。その左右の崖沿いに流れるのが弦巻川(左)と水窪川(右)だ。地図の下を東西に流れているのが神田川。川に並行して神田川から分水された神田上水が流れており、護国寺の参道以東は道路の下の暗渠となっている(点線で表示)。水窪川と弦巻川は暗渠の「神田上水」のさらに下を伏樋でくぐって神田川に合流している。(地図は「五千分之一東京図測量原図 明治16年(1883年)より)
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弦巻川は高速の1本東側の直線の道路に沿って流れていた。
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上の地図上で水路が道沿いから西に逸れる地点が、ちょうど現在の道路でも道幅が狭くなっていた。狭くなるところに飛び出している家は、水路跡の上に建てられていることになる。
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高速道路沿いには、暗渠が未舗装の荒地で残っていた。5年前に記事にしたときにはここが暗渠だという確信は持てなかったのだが、古地図や下水道の敷設状況、現地の様子から判断すると、どうやら間違いないようだ。高速は川を埋めて作られたのではなく、目白台/関口台の斜面上に作られたようで、そのため暗渠の空間が残されたのだろう。大谷石の擁壁からは排水管が突き出し、微妙に蛇行もしている。80年前に暗渠化されたとは思えない空間だ。
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暗渠沿いの側溝をよく見ると、湧水が湧き出して流れていた。写真ではわかりにくいが、ちょろちょろと澄んだ水が流れている。
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2.護国寺の西側の区間

このあたりは、弦巻川跡の道路では、唯一暗渠らしさが残る区間だ。かつてはホタルが飛び交っていたという。写真は1998年の様子。現在も余り変ってはいないが、放置自転車が増えたり、沿道の家が建替えられたりして暗渠らしさはやや薄まっている。
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この区間の道端にある、鍋を伏せて塞いである井戸。横につけられた管から、水がくみ出さなくても自然に流れ出していて、井戸というより湧水といったほうがいいかもしれないくらいだ。水量も多い。
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すぐそばの清土鬼子母神の星の井戸。蓋が新しくなっていた。蓋を開けるとたっぷりを水を湛えていた。雑司が谷の鬼子母神に祀られている鬼子母神像は1561年、この場所の畑の中から発見されたという伝承がある。そして、出土した鬼子母神像をこの井戸の水で洗ったそうだ。
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3.弦巻通り〜雑司が谷

弦巻川の暗渠「弦巻通り」沿いにある雑二ストア。雑二は、雑司が谷2丁目の略。終戦直後からある古い小さなアーケードだ。自分が子供の頃にはまだまだ、アーケードの下に小さな店舗が密集する「ストア」が沢山あったと思うが、今では珍しい。
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雑司が谷鬼子母神境内にある有名な駄菓子屋。江戸時代から続くという。ちなみにここの鬼子母神には角がないということで正式には「鬼」の字の上の点は書かない。
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弦巻川の源流近く、池袋駅南側の「ビックリガード」そばの壁に描かれている、池袋にちなむかるたの絵のうちのひとつ。弦巻川にかかる橋の絵が描かれている。由緒ありそうな橋名が列ぶ中で、「丸太差し渡し橋」が異彩を放っている。
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水窪川の暗渠が当時の流路そのままで残っているのに対し、弦巻川の流路はあまり痕跡がない。これは、川の直線化と暗渠化、そして周囲の区画整理が同時に行われたことが大きな原因だろう。雑司が谷界隈の曲がりくねった流路はその際に埋め立てられて住宅が建ち、かつての流路はわからなくなってしまっている。そんなわけで、弦巻川流域は、町歩きとしては面白いエリアだが、暗渠歩き自体の面白さは残念ながら水窪川には及ばない。

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このほか、予備でいくつかテーマ別に写真を用意していましたが、これらについてはまた機会があれば載せてみようと思います。もし万が一にもイベントの第2回が開催されることがあるなら、そのときにでもいいかもしれませんね・・・
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by tokyoriver | 2010-03-08 23:49 | 神田川とその支流 | Comments(8)
「文京区本郷・菊坂の暗渠と井戸(東大下水)」の記事の後半でとりあげた、ポンプ式井戸。
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「20年前、初めてこの場所を訪れた時、この井戸はポンプさえなく、木の蓋がしてあるだけだった。そして井戸端には先端に木桶がぶらさがった2.5m ほどの竿が立てかけてあって、これを井戸の底に入れて水を汲んでいたのだ。」
と記したが、残念ながらその当時の写真がなく、現在の様子を示すにとどまった。

実は当時この場所を訪れたのは、高校の文化祭で上映するための8mm映画を撮影するためのロケハンがきっかけだったのだが、今回ようやく、その当時の風景が映る8mmフィルムをDVDにコンバートすることが出来たので、画像のキャプチャで紹介しよう。撮影は21年前、1989年の初秋。昭和から平成に変った年である。
(※動画で載せられればいちばんよいのだが、出演者に許可を得たわけではないので、顔がはっきりとは判らない画像を選んで静止画で掲載した。)


========
まずは遠景。奥の路地から近所のお年寄りが歩いてくるのが見える。
井戸の向かいの家の扉が、現在と違い木造となっている。
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そして近景。井戸には木の蓋がされ、木の竿につけられた木の桶がその上に置かれている。
背後の柱に立てかけられているときもあったように記憶している。
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蓋を開ける。水位は地面よりは低かったと思う。
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中を覗き込む。澄み切った水をたっぷり湛えていた。
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水をくみ出す。
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くみ出した水を流してみる。水は冷たかった。
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映画ではこの後、細野晴臣の「恋は桃色」をBGMに、井戸のある路地と並行する路地を通り、鐙坂を上って、樋口一葉旧居跡前の木造家屋の間の階段を下り、一葉の井戸へと至るシーンとなる。

♪ここは前に来た道 川沿いの道
  雲の切れ目からのぞいた 見覚えのある町・・・

その中で、前の記事でも紹介した平屋の並ぶ路地の写真を最後に紹介しよう。ちょうど平屋に住むお婆さんが洗濯物を干している様子が写っている。今よりも平屋の家々が多く、植木鉢も多い。路地全体が今よりも生活感にあふれている感じがする。
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あらためて20年ぶりに映画を見てみると、脚本の、特にせりふの稚拙さには赤面モノで、聴けたもんではないが、ロケ先が多岐にわたっているのはわれながら感心する。本郷菊坂のほかに、根津界隈や国立の谷保天満宮の湧水、ママ下湧水界隈、つつじが丘の入間川流域、荒川区の荒川土手、渋谷、原宿、代々木、西麻布・麻布十番・広尾界隈、山梨県の韮崎、東北本線内、上野駅、駒込、春日、駒場・・・
われながらよくこれだけあちこちに行ったものだと思う。時はバブルのピーク。都内の景観が大きく変っていく中で捜し求めた、昭和と平成の狭間に残された風景達も多く含まれているが、今では菊坂の井戸のほかにも、更に風景が変わってしまった場所もあるだろう。そもそもすでに、8mmフィルムというメディア自体がとうに終焉を迎えているし。


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余談だが、16歳の古地図好き少女、というなかなか面白い設定の主人公の漫画を本屋で見かけ、買ってみたところ、そこの1話で本郷菊坂が舞台となっていた。暗渠好き、散歩好きならきっと面白い作品だと思うので、書評記事にリンクしておく。

「ちづかマップ」著:衿沢世衣子
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by tokyoriver | 2010-02-10 21:40 | 神田川とその支流 | Comments(6)
国分寺崖線の湧水シリーズの途中だが、ちょっと別の話題。

「暗渠さんぽ」のnamaさんの、「桃園川支流を歩く その9北側支流(仮)、極狭支流(仮)」を読んでいてふと気がついた。11枚目の、舗装が新しくなっていて、おそらく以前はカーブのコンクリ暗渠があっただろうと書かれているところ、もしかしてあの場所ではないか・・・・

写真を引っ張り出してみると、民家のブロック塀&鉄柵が一致する。やっぱりここだ。
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川のカーブに合わせて丁寧にコンクリート蓋の隙間をひとつづつ埋めてあり、ある種芸術的とも言えるような見事なS字カーブを描いた暗渠だった。5年ほど前暗渠探検仲間に連れて行っていただいた場所で、近々再訪してみようと思っていたのだが、なくなってしまったとは・・・

下の写真は10枚目の写真と同じ場所だから、こっちは健在ということだ。
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杉並区内はコンクリート蓋暗渠の宝庫だが、このようにだんだんなくなっていっているのだろうか。やはり行けるときに行っておかなくては。


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by tokyoriver | 2010-01-14 00:02 | 神田川とその支流 | Comments(6)
1985年8月に神田川を撮影した写真からの紹介シリーズ、忘れた頃にやって来た4回目は谷端川の合流部である。

今までの記事はコチラ
神田川1985(1)桃園川合流地点
神田川1985(2)川の上の送電線
神田川1985(3)神田川最上流

谷端川(やばたがわ)はかつて豊島区から文京区にかけて流れていた川だ。豊島区要町2丁目の粟島神社に現存する弁天池などを水源とし、そこから千川上水の分水を併せていったん南下したのち、西武池袋線椎名町駅付近より北上、JR埼京線板橋駅付近で向きを南東に変え、山手線大塚駅を経由し、小石川を流れて水道橋で神田川に合流していた。下流部では小石川、礫川、西大下水、また千川上水の水を引いていたことからか千川とも呼ばれていた。

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中・下流部は戦前に、上流部も1970年代までには全区間が暗渠化された。現在上流部は遊歩道に、中下流部は大塚三業通りや千川通りといった道路になっている。最下流部は現在雨水幹線「千川幹線」となっていて、幅4.2m深さ4.7mの矩形暗渠が東京ドームシティを横切っている。

1985年当時、水道橋駅北側の神田川北岸に、河岸が十数メートルほどだけ凹んだ形で、谷端川の合流部が開渠で残っていた。感潮域であるためか河口にも水があり、鯉が泳いでいるのが見える。

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2009年現在、河口は船着場となってしまった。「神田市兵衛河岸防災船着場」の看板が掲げられ、浮き桟橋が設置されていて、河岸には階段がつくられている。向かいに見える水道橋駅の駅舎は窓の配置まで以前のままだ。
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駅のホームから見ると様子がよくわかる。凹みはずいぶん短くなってしまっており、河口も塞がれている。
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谷端川の河口はどこへ行ってしまったのか?調べてみると、谷端川の暗渠(千川幹線)は、どうやら現在は神田川に平行して、北側の外濠通りの下に流れている暗渠「水道橋分水路」に合流しているようだ。神田川の下流部は川幅を広げる土地の余裕がないため、並行する道路の下などにバイパスの暗渠をつくることで洪水対策を行っている区間がいくつかある。おそらく水道橋分水路が出来た時点で、この合流口は用無しになりふさがれたのだろう。今ではここがかつて川の合流地点だったということに気がつく人はいないのではないだろうか。


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by tokyoriver | 2009-12-14 23:24 | 神田川とその支流 | Comments(4)