東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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荒木町の策の池に続き、花街を擁した池ということで、「十二社(じゅうにそう)の池」を取り上げる。

十二社(じゅうにそう)の池は、新宿中央公園の西側を南北に通る十二社通りの西側、北側に開ける深い谷戸の底にあった(十二社は一帯の旧地名で、現在でも地元ではその名で呼ばれることが多い)。もともとは1606年、近隣の農業用の溜池として湧水をせき止め造られた池(上の溜井と下の溜井)だが、すぐそばに新宿一帯の鎮守社熊野神社があること、1667年に玉川上水から神田上水(神田川)への助水堀が引かれ、ちょうど熊野神社の所に滝が出来たこと、更に神田上水助水堀から池へいくつか滝が落とされたことなどから、江戸近郊の景勝地として知られるようになった。池の周囲には茶屋が並び、明治以降は料亭や芸者置屋も数多く出来て、池の西側からそれに続く丘陵地にかけて、花街として賑わった。

下の溜井(小池、下池)は明治期には既にかなり小さくなっていたようだが、上の溜井(大池、上池)は弁天池とも呼ばれ、明治〜大正期の時期で南北300m、東西50mの規模があり、池ではボートや釣り、花火が楽しめた他、屋形船まで浮かべられていたという。一帯は1924年には二業地(料理屋、芸者置屋)、1927年には三業地(二業地+待合)として指定され、賑わった。

花街が最盛期を迎える一方で、池は徐々に規模を縮小していく。大正後期〜昭和初期には、一番北寄りの小さな池(下の溜井の名残)が埋め立てられた。1934年には十二社通りが開通、弁天池は熊野神社と分断され、池の東側が少し道路の下となって埋め立てられた。同時に池の南側部分(現在のニューシティホテル以南)も埋め立てられ、竜宮殿、弁天閣、神風閣といった大きな料亭が建ち並んだ。

その後花街は戦争末期の経済統制と東京の空襲で一旦消滅し戦後、再度復興。戦前ほどの規模ではないが1950年代に戦後の最盛期を迎えた。1958年には弁天閣が温泉を掘削し、「十二社温泉」としてオープンする。しかし、その頃をピークに料亭、待ち合いは減少。池を取り巻く環境も、淀橋浄水場の廃止と副都心の開発、近辺の宅地化などによって大きく変化する。池は北側を残して徐々に縮小していき、最後まで残っていた弁天池北側の十二社通りに面した一角も、水質の悪化から1968年7月に埋めたてられ、完全に消滅した。花街も1980年代半ばにはほとんどの料亭が廃業し、終焉を迎えた。2009年には十二社温泉もとうとう閉館してしまった。

十二社池と花街の痕跡を探し、池の跡地を南側から辿って行ってみよう。西新宿小学校の東、水道道路から北側に入る坂道から谷が始まっている。谷底には都営アパートが建っている。坂を下りきると、弁天池の南端だった場所に出る。池の東縁の道が今でも未舗装で残っている。


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ニューシティホテルの西側の角から南を見る。十二社通りの開通の際に埋め立てられ、料亭が建ち並んだ場所だ。今ではホテルの他、マンションが建ち並んでいる。道路がかつて池の西縁のラインだ。


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十二社通りから谷を東西に横切る道を望むと、池の窪みがはっきりとわかる。


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ニューシティホテルのはす向かいには、最後まで営業していた料亭「一松」の建物が残っている。つい最近まで営業していたようだ。かつては池を目の前にした好立地だったのだろうが、今では高いビルに見下ろされている。


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池の西縁の道を少し南に進むと、建物の間に大きな銀杏の木がかなり無理矢理だが残されている。普通なら明らかに切り倒してしまうような場所なのだが、なぜ残されているのか興味深いところだ。このあたりの十二社通り側が、最後まで池が残っていたところだ。もしかしたら、池の最期を見届けた木なのかもしれない。


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十二社通りから、池の跡地を望む。グレーの、住友不動産のビルが建っている場所が、もともと弁天池の最北端であり、かつ最後まで池が残っていたところだ。その奥のビルのところも、戦後しばらくまでは池だった場所である。そして十二社通りのところも、1934年に通りが出来る前は池だった。


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池の西側、丘に登る坂の途中に旅館「一直」がある。ここもかつては料亭だったという。


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かつての弁天池の北端から北には、暗渠を思わせる細い道が続いている。この道の途中の場所にも大正中頃まで下ノ池(小池)の名残の小さなひょうたん形の池があった。


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かつては下ノ池の池端に続いていたであろう階段。途中には待合の名残であろうホテル「ニュー寿」がある。荒木経惟の写真でも有名だろう。


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暗渠のような路地を抜けると、方南通りに並行した、明治以前からある曲がりくねった道沿いに出る。谷戸はここまでだ。もともとはここから小川が神田川まで続いていたものと思われる。この近辺にもかつての花街に続く急な坂道がいくつかあり、往年の名残をとどめている。


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十二社の池/弁天池のあった位置(青線で囲まれた部分)


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by tokyoriver | 2009-09-26 23:13 | 神田川とその支流 | Comments(11)

新鏡ヶ池(小沢川水源)

神田川の支流「小沢川」についてはいずれとりあげようと思っていたのだが、「暗渠さんぽ」さんより水源「新鏡ヶ池」の写真のリクエストをいただいたので、先にここだけとりあげておこう。

「新鏡ヶ池」は杉並区梅里にある真盛寺境内入って右手にある池だ。真盛寺はもともとは江戸時代初期に湯島で開創された寺で、大正11年にこの地に引っ越して来た。かなり広大な境内を持つ寺だ。


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もともとこの地には湧水池があり、杉並区和田を東進〜南下して丸ノ内線中野富士見町駅付近で神田川に合流する通称小沢川の主水源となっていた。この池を境内に取り込み、放生池としたのが「新鏡ヶ池」だ。命名者は当時の俳優だとか。なぜ新なのか、よくわからないが・・・現在は水は湧いてないと思われる。


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境内に入って左手、墓地の入口にももうひとつ池がある。この池の北西の延長線上、隣接する本佛寺〜妙祝寺との境界線に沿って、五日市街道方面からもうひとつの流れが来ていたようだ。これらの話も含め、小沢川自体についてはまたそのうち。


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なお、これらの写真は2007年3月、春の彼岸時のもので、現在寺の境内には一般の人は入れないそうであるのでご注意を。





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by tokyoriver | 2009-09-23 22:08 | 神田川とその支流 | Comments(3)
かつての花街としての雰囲気を色濃く残す四谷荒木町界隈。町の中心に南北に伸びる大きく深いスリバチ状の窪地があり、その谷底の一角にひっそりと「策(むち)の池」と呼ばれる小さな池が佇んでいる。現在は長さ10m弱、幅5m弱の小さな池だが、かつては長さ130m、幅も20〜40mある大きな池だった。





江戸時代、荒木町は街全体が松平摂津守の屋敷の敷地だった。その中にあった庭園の中心にあったのが、策の池だ。池の名前の由来には諸説あるが、いずれも「乗馬用の策(ムチ)」を池もしくは池の水源で洗ったことが由来とされている。

明治時代に入ると庭園は払い下げられた。池の一角に天然の滝があったことから明治初期には茶屋が出来、観光名所となった。滝は落差4mほどあったというが、周囲の急速な都市化で明治後期には既にほとんど枯れていたという。一方で町自体は歓楽街として発展し、数百人の芸者を擁する花街となった。

明治16年に測量された地形図を見ると、池は南側に丸い池が一つ、そして北側に大きく細長い池が伸びている。そして、池の北側にある等高線を見れば明らかなように、本来このスリバチ地形は南側を谷頭とする谷戸地形で、北側に高い土手を築いて谷戸を遮り水流を堰止め、池が造られていたことがわかる。この谷戸は「紅葉川」の枝谷である。紅葉川は富久町に発して曙橋付近から市ヶ谷に伸びる谷筋を流れていた川で、市ヶ谷より下流部は江戸時代以降は外堀として利用されている。
明治後期の地形図では既に池は姿を消しており、現在残っている部分だけとなっていたものと思われる。


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(地図は「五千分之一東京図測量原図 東京府武蔵國四谷区四谷伝馬町近傍 明治16年(1883年)より)


初夏の夕暮れ時、策の池を訪れてみた。新宿通りに面する車門通りから荒木町の歓楽街に入ると、早速緩やかな下り坂となっている。突き当たりの金丸稲荷神社の右脇から、石畳の坂道が谷底に向かってジグザグに伸びている。明治時代の地図にもこの道は描かれており、坂の右側の窪地はかつて丸い池となっていた場所だ。


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谷底まで降りきると、東側に階段の坂が見え、かなりの高低差があることがわかる。モンマルトルの坂とも呼ばれているとか。


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谷底はひっそりとした住宅地となっているが、ところどころ石畳の道も残っていて、かつての花街の気配が残っている。料亭のある一角に出ると、その向かいに、ビルと崖に囲まれたちょっとした空間があり、何本かの赤い幟に囲まれて策の池がある。現在残っている池は、明治時代の地図で北側の大きい池が西にすこし出っ張っているところの先端のところ。そして、おそらくここに滝があったと思われる。池の後背に崖となっているところがあるが、かつては三方を崖に囲まれていた。その崖の中腹から地下水脈が露出し、滝となって落ちていたのだろう。


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以前は周囲は駐車場だったが、最近整備されたようで、休憩用の椅子も置かれている。池の片隅には小さな中島がつくられ、津の守(つのかみ)弁財天が祀られている。


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池を出て、谷底を北東に向かうと長い階段が現れる。ここが谷戸をせき止めた土手だ。階段を上って振り返ると、谷の深さがよくわかる。


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この他にも、谷底に降りる風情のある階段や石畳の道がいくつかある。また、谷の上に現在も残るややレトロな飲み屋街も、猫が好みそうな路地裏が縦横に走っていて、あてどなく彷徨い歩くには絶好の場所だ。


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by tokyoriver | 2009-09-20 18:42 | 神田川とその支流 | Comments(9)
1985年8月に神田川を撮影した写真からの紹介シリーズ、3回目は神田川の最上流部である。以前別のクローズドな所でも紹介した写真だが、好きな風景なので再掲載。神田川が水源の井の頭池から流れ出て、井の頭線のガードをくぐってすぐの場所だ。1985年時点でもこの場所だけは、下流のコンクリート護岸に固められた姿からは想像できない、川らしい姿をとどめていた。


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2009年現在では親水施設風に、小奇麗に整備されている。写真には写っていないが、子供たちがザリガニ取りをしていた。85年の夏にも網をもった子供たちがうろうろしており、この辺りでは人と川の距離感は変わらず近い。


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こちらは夕焼け橋から上流方向、上の写真と同じ場所を見たもの。


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小学校3年生のとき、遠足で井の頭線に乗って井の頭公園に行った。緑色の片開きドアの電車の窓から、井の頭公園の近くで見えた神田川はとても印象的だった。そのときの川が、まさにこのような姿だった。もう少し下流、三鷹台を過ぎた辺りからこんな感じの風景が続いていたような記憶があるのだがどうだったのだろう。写真の場所は井の頭線からは見えないので、記憶は間違っていないようには思えるのだが。
写真右側に工事のプレハブ小屋が見えるが、ちょうどこのとき夕焼け橋より下流の水路改修工事を行っている最中だった。水路をまっすぐにし、コンクリート護岸で固める工事だった。もしかしたら、この工事の前は、小学生のときの記憶のような姿だったのかもしれない。

現在も雰囲気は決して悪くはないが、やはり本物の川としてのリアリティにはやや欠ける。


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by tokyoriver | 2009-09-19 23:35 | 神田川とその支流 | Comments(2)
環八方向からの支流の合流地点より下流は、蛇行して松渓中学校の北側を回りこんでいる。このあたりは水路の跡や暗渠が複雑に入り組んでいるが、暗渠の残存の様子の違いなどを見ると、以下のような流路の変遷の過程があったのではないかと想像される。


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1)もともとは地図A地点からの支流がE、D、を経てB地点で松庵川に合流。松庵川は東へ流れていた。

2)C地点より下流の松庵川が埋め立てられ、水を善福寺川に流すためにCからDへの水路と、EからFへの水路がつくられた。

3)DからEの区間は、水路に手を加え、水が流れる方向が逆になった。DからBの区間は埋め立てられた。

4)結果、松庵川はCからもともとの水路より西にそれ、A地点からの支流をEであわせてFで善福寺川に注ぐようになった。

DからEの区間に、橋の痕跡が残っていた。


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EからFへの水路。なお、A地点は、住宅街の真ん中の道路端でコンクリート蓋暗渠が唐突に終っており、そこから上流部の痕跡は全くない。


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Fの合流地点。善福寺川の護岸に丸い穴があいている。大雨時に水量が多くなることもあったのか、穴の直下の川底が水でえぐられないようにコンクリートで固められている。


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本来の松庵川流路は、松渓中学校の北側に回りこんだあと、善福寺川の松渓橋のすぐそばまで来るが、ここでは合流せずに、現在老人ホームが建っているところを抜けて善福寺川の蛇行にそって、その右岸を蛇行し南下していた。
この区間はもともとは善福寺川のあげ堀(灌漑用の、並行分水路)だったのかもしれない。水路は普通の道路となってしまっており、道の曲がり具合以外に川の痕跡はないが、下水道台帳を見るとしっかり「水路敷」扱いとなっている。

そして、最後の最後、道路から左に分かれるコンクリート蓋の暗渠が現れる。金太郎の車止めつきだ。


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暗渠は善福寺緑地入口にかかる神通橋の手前で善福寺川に合流している。護岸には穴があいているが、水はまったく枯れ果てている。


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松庵川は、大正後期に開削されたが、昭和初期には周囲の急速な宅地化ですでに下水化していたという。そして、戦後には氾濫対策として、中流域(川が神明通りからいったん離れて南に向かっている地点)から北に向かう暗渠をつくって、直接善福寺川に水が流れるようにしたという(合流地点直前の暗渠は現在でも水路敷扱いとなっている)。その時点で上流部と下流部は分離されたのだろう。その後下水道の整備で不要となった川は、蓋をされ、あるいは埋め立てられて姿を消した。
(下流部が比較的痕跡をとどめているのは、前にも記したようにもともと柳窪から流れていた小流があったからではないかと思われる。)
そのような意味では、松庵川が全区間つながってひとつの川として存在していたのは、ほんの数十年の期間だったといえる。
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by tokyoriver | 2009-09-14 23:28 | 善福寺川とその支流 | Comments(4)
大宮前体育館の北側、川幅のガードレールで仕切られた細長い空間がある。木々や雑草が生い茂っているが、これが松庵川の水路の跡だ。この先しばらくの区間は、松庵川のルートはまったく判らなくなる。


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古い地図によれば、水路は、大宮前体育館近辺を南限にして張り出した微高地を回りこむようにして、宮前けやき緑地のあたりで再び北上、神明通り沿いにぶつかった後は再び通り沿いに環八方面に向かっていた。

googlemapの航空写真を見ると、民家と民家の間に、道路に平行してコンクリート蓋の水路のようなものが北上しているのが見える。別の地図でも、水路敷らしき道が描かれている。これ自体は家に囲まれまったく近づいたり踏み入ることはできなさそうだが、どこかで神明通りに出るところがあるはずだ。

散々探し回った結果、とある民家の庭先でそれを発見した。水路は神明通りにぶつかる直前で、右(東)に曲がっていた。


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北に向かっていた水路はこの民家の裏手で右に直角に曲がっているようで、曲がった直後のコンクリート蓋水路が柵越しに見える。しかし、水路は民家の敷地内、道路にぶつかる地点で途絶えており、そこから先(東)は確認できない(ちなみに道路に面したところはブロック塀で塞がれている)。

駐車場の境界線など、怪しい空間がいくつか東に断続的に続いているが、これらを通って最終的に神明通り沿いに出ていたようだ。通り沿いには全く痕跡は残されていない。

松庵川は、通常の河川や水路と違い、もともと水路敷のほとんどが私有地であったという。このため、水路が使用されなくなると、土地所有者の都合によっては敷地はすぐに転用された。これが、痕跡が断続的である原因のひとつのようだ。

環状八号線を越え、高井戸東4丁目の交差点を過ぎてすぐのところで、北上するはっきりとした水路跡が現れる。この一帯は柳窪と呼ばれていた窪地で、ここから下流は松庵川が掘削される以前から存在していたのかもしれない。細い路地が時折曲がりくねりながら、北上している。


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途中、左側(南西)から支流が合流する。支流の合流地点は三角形の空間になっていて、松庵川も支流もコンクリ蓋の暗渠になっている。


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支流の方は全区間、コンクリート蓋の暗渠が続いている。暗渠はまっすぐ南西にのびており、環状8号線の東側すぐそばのマンホールでぷっつりと切れている。


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今回辿った区間


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by tokyoriver | 2009-09-12 21:26 | 善福寺川とその支流 | Comments(7)

松庵川(3)中流域

(2)の金太郎看板区間はすぐに終わり、川は直角に北北東(左)に曲がり、更にすぐに再び東南東(右)に。ここでいったん痕跡が消えるが、古い地図を見るとNTT社宅(最近取り壊され更地に)の中をジグザグに流れ郵便局のところで神明通りに出ていたようだ。ここからしばらくは神明通りの南側沿いを南東に向かって流れていた。郵便局を過ぎるとすぐに、川の痕跡が現れる。

商店の軒先に、コンクリート蓋の暗渠が残っていたり、川幅分のスペースがあったり。


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水路敷を部分的に民間に払い下げたのか、建物や民家が水路敷まで張り出している部分もあるが、しばらく行くと、(1)で紹介したような、橋や川沿いの欄干などが残された区間も出現する。


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やがて神明通りが微高地にさしかかりわずかに登り坂になると、松庵川は微高地を迂回するように通りを離れ、南南西(右)に直角に曲がる。

コンクリート蓋の水路は民家の立ち並ぶ隙間を縫うように、ジグザグに曲がりながら、南南西に進んで行く。


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微高地の南端にあたる慈宏寺境内で、川は南東に向きを変える。境内の墓地から続く、一見ただの石畳に見える道。これが暗渠である。


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暗渠は寺の境内を抜けると、大宮前体育館の北側に草薮となってその痕跡をとどめているが、その先姿を消してしまう。


今回とりあげた区間
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前回とりあげた区間
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by tokyoriver | 2009-09-08 23:32 | 善福寺川とその支流 | Comments(0)

松庵川(2)上流域

前回記した通り、松庵川は、西荻窪駅北西にあった「松庵窪」に流れを発していた。現在、西荻窪駅の南西側の道路沿いから南に伸びる何本かの道を見ると、その先が明らかに窪地となっているのがわかる。


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窪地の最低部を南東に走る路地の中に、川跡らしき道が見受けられるが、はっきりと確認できるのは西荻南2丁目に残る開渠からだ。


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住宅の立ち並ぶ隙間に、北北東から細いコンクリート溝が伸びて来ているのが確認できる。当然ながら水は全くなく、草が生い茂っている。


水路はこの地点で東南東に直角に向きを変え、通称そよかぜ通りと呼ばれる高井戸第四小学校の前を通る一直線の道沿いに流れていた。現在通りの北側に不自然に太い歩道があるが、これが水路敷だ。

途中、川が通りをくぐって道の北側から南側に移っていた場所では、歩道がそのままに南側に移っている。


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そして、開渠が見える地点から800メートルほど進み、再び川が通りの北側に移った地点から、いよいよ暗渠らしい姿となってくる。


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ぼろぼろではあるが、杉並区でおなじみの、金太郎の車止めで囲われた区間。杉並区内で暗渠を見つけるときのランドマークだ。
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by tokyoriver | 2009-09-03 00:06 | 善福寺川とその支流 | Comments(8)