東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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※今回は本文については2005年版の記事をベースに加筆修正しています。

六本木6丁目の南側、現在六本木ヒルズレジデンスが建っている一帯は、旧町名でいうと北日下窪町と麻布宮村町の境目にあたる。かつてこの一帯は谷底となっていて、湧水が各所でわき出し、細流が流れ出していた。再開発で六本木ヒルズが出来る前は、テレビ朝日通りから「玄碩坂(げんせきざか)」と呼ばれる急な坂が谷底まで下っていた。写真は1997年の玄碩坂の様子。
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周囲の地形は六本木ヒルズの造成で、跡形もなく改変され、玄碩坂が通っていたルートとだいたい同じ位置に「さくら坂」が通っている。坂の傾斜を緩やかにするためか、かなり盛り土がされているようだ。
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坂の西側~南側は急な斜面となっていて古い家屋が並び、風情のある石段がいくつか、宮村町の丘の上から下っていた。坂沿いの家や路地、駐車場にはあちこちに猫が見られた。これらの猫たちはどこに行ってしまったのだろう。写真は階段のひとつ(1997年撮影)。
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かつての風景のほとんどが失われた中で、さくら坂公園の西側の斜面に、下半分が埋まった階段が遺跡のようにひっそりと残っている。ブラタモリ最終回でも取り上げられていた。
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c0163001_00483.jpg坂沿いの一帯は字藪下と呼ばれていた。江戸時代より湧水による池が点在し、「岡場所」(私娼窟)があったという。かなり悪質なものだったらしく江戸後期、天保10年(1839年)にはぼったくられた久留米藩士達が取り壊しを行い、以後岡場所はなくなったというエピソードが残されている。一方入れ替わるように、江戸後期から下級武士たちの副業として、湧水池を利用した金魚養殖が始まった。明治初期の地図にはあちこちに湧水を利用した金魚の池が描かれている。左の地図は五千分の1地形図「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(明治16年)」より。その下は現在の同じエリアをgooglemapから。

岡本かの子の1937年の短編「金魚撩乱」では、冒頭に界隈の風景が描写されている。

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「崖の根を固めている一帯の竹藪の蔭から、じめじめした草叢があって、晩咲きの桜草や、早咲きの金蓮花が、小さい流れの岸まで、まだらに咲き続いている。小流れは谷窪から湧く自然の水で、復一のような金魚飼育商にとっては、第一に稼業の拠りどころにもなるものだった。その水を岐にひいて、七つ八つの金魚池があった。池は葭簾で覆ったのもあり、露出したのもあった。逞ましい水音を立てて、崖とは反対の道路の石垣の下を大溝が流れている。これは市中の汚水を集めて濁っている。」(「金魚撩乱」より)

再開発のときまで残っていた金魚店「原安太郎商店」は、ちょうど岡場所が取り壊された翌年の天保11年(1840年)創業で、「はらきんの釣り堀」として親しまれていた。金魚屋の主人は現在ヒルズに建つ高層マンションに住んでいるという。写真はかつて通り沿いに掲げられていたはらきんの看板。

はらきんの向かいの谷の南側斜面は、木の茂る大谷石の擁壁となっていて、崖下には湧水が流れ、側溝をせき止めた水たまりには金魚が泳いでいた。1991年に港区が刊行した書籍にはその写真が掲載されている。はっぴいえんどのドラマー兼作詞家であった松本隆の1972年刊行の単行本「風のくわるてっと」に収められたエッセイに、この湧水が描写されている。

「坂を下りおわったところに養魚場がある。ここでも水は渇いた石畳に叩きつけられる驟雨の叫びに似た音であたりをいっぱいにふくらましている。都市の近代化が置き忘れていったこの一画は、砂鉄が磁石によってある一点に引き寄せられるように、水の重いしずくのさやめきに満たされている。というのは、その先に行けば、やはり水に関するエピソードにぶつかることができるからである。ちょうど苔でぬめぬめと光っている石垣の下に、「湧き水を汚さないようにしましょう」と書かれた小さな立て札がたてかけてある。おまけにその綺麗な水の中には金魚まで放し飼いになっているのだ。何と風流な。きっと近所の人が世話を焼くのだろうなどと、つい道端にしゃがみ、その中を覗きこんで時間を潰してしまう。そこには都市の偶然や錯覚を許す余地の無い人為的な神秘がある。」(「ピーター・パンの街」より)

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道は六本木高校(旧城南高校)の崖下で、ほぼ平坦になる。現在は崖の反対側はヒルズの敷地となって開けているが、かつては塀に囲まれたやや殺伐とした風景だった。
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同じ場所の現在の様子。奥に見える5階建てほどのビルだけが、今も姿をとどめている。六本木高校の看板がある辺りの崖面からは、わずかであるが湧水が染み出して、道路の側溝に流れ出していた。かつて豊富だった湧水の痕跡なのだろう。
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薮下の谷が六本木交差点方面からのびる芋洗坂の谷とあわさる辺りの北側、六本木ヒルズの敷地内には、「毛利庭園」がある。かつてこの場所は窪地となっていて湧水池があった。江戸期には毛利家上屋敷となっていて、1702年には赤穂浪士のうち10名が預けられ、敷地内で切腹している。その後明治期には中央大学創始者の邸宅に、そして戦後はニッカウヰスキー東京工場の敷地となった。この時代に池は「ニッカ池」と呼ばれるようになり、1977年にテレビ朝日の敷地となったのちもニッカ池と呼ばれ続けていたが、近年では湧水はほとんど枯れていたようだ。六本木ヒルズが造成された際、ニッカ池は防護シートで覆われて「埋土保存」され、その上に新たにつくられたのが現在の毛利庭園の池だ。この池からの流れは特になかったようだ。
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薮下の湧水や養魚池、六本木方面からの谷やニッカ池のあたりの窪地からの水を集めた流れは、麻布十番を東に流れていた。現在も路地裏となって水路敷が残っている。ゴミがあったりしてだいぶ荒れた感じであはあるが、まぎれもなく川の跡である。古川(渋谷川)の下流域の別名として赤羽川という呼び名があるが、資料によってはこの麻布十番の流れを赤羽川と呼んでいる。
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流路は更に、先にとりあげたがま池(→こちらの記事)や宮村町からの流れ(→こちらの記事)もあわせて流れていた。流路の両岸はかつては「宮下町」という町名だった。現在の「麻布十番」という地名は江戸期の古川の拡張工事時のエピソードに由来する。
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流路跡の暗渠は途中でなくなってしまうが、旧宮下町と旧新網町の境目からはクランチ状( ̄|_型)に曲がって、以東は十番商店街の南側に沿っていわゆるドブ板状となっていながれており、昭和の初期には暗渠化されたという。ちょうど写真の歩道のところをかつて川が流れていた。
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麻布十番稲荷の敷地内の片隅には、麻布十番商店街の流路に架かっていた「網代橋」の欄干の柱石が特に説明もなく放置されている。境内にはがま池からの流れの項で紹介したガマガエルの伝承にちなむカエルの石像もある。写真は05年撮影だが、現在柱石の前には柱や柵が出来、ますますその存在は隅へと追いやられている。
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水路は一の橋のたもとで古川に合流していた。江戸時代には、橋のたもとから麻布十番商店街の方に向かって船運用の堀留があった。明治にはこの堀留は埋められたようだが、川の暗渠の方は現在でもその口を古川の護岸に開いている。断面がかまぼこ型をしており、昭和初期の暗渠化時の姿をとどめていると思われる。このあたりは感潮域で、満ち潮の時には暗渠内まで水が入り込んでいる。暗渠の口の横の護岸からは、湧水が染み出している。すぐ上は一の橋公園だ。
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「一の橋公園」の場所には、戦前までは銭湯「一の橋湯」と活動写真館「福宝館」があった。一の橋湯の前には水が吹き上げる井戸があって名水として知られ、銭湯にもこの水を使っていたという。現在公園には湧水を利用した噴水があるが、この自噴の井戸と同じ水源なのかもしれない。なお、2010年3月より、古川の川筋の地下に、洪水用の遊水地を建設する大規模な工事が始まり、一の橋公園は今後数年間、工事現場となり、立ち入ることができなくなっってしまった。噴水の湧水は工事で枯れてしまうのだろうか。
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by tokyoriver | 2010-03-31 00:15 | 渋谷川とその支流 | Comments(6)
前回の更新直後、何の前触れもなくPCのディスクが不穏な音をたて、クラッシュしてしまいました(とはいえ、なぜか当日の朝、そろそろ本格的にバックアップをとらなくてはまずいなあなどとふと思い浮かんだのは、虫の知らせだったのでしょうか)。物理的な故障のようで、データ復旧は市販のリカバリーソフトでは無理で専門の業者へ依頼して何とかなるかどうかとのこと。半年前までの環境はフルバックアップがあったのが不幸中の幸いといえば幸いで、ハードディスクを差し替えPC自体は去年の10月頭時点での状態に復旧しましたが、ここ半年のデータがおじゃんに・・・高い費用をかけてデータリカバリにトライするかどうか、悩みどころです。
とりあえず最近の一部の写真については、カメラのSDカードの方からファイル復旧ソフトを使って一部のファイルは復元できましたので、前回の記事の続きは近々アップできるかと思います。それにしても、記事のための写真ストックがかなり無くなってしまいました。再度取材にでかけなくては・・・そんなわけで、しばらく小ネタになったり、更新頻度が落ちるかもしれません(そもそもそんなに頻繁には更新してませんが)。

今まで一度もこのような事態に遭遇したことはなかったのですが、やはりこまめなバックアップはとっておくべきですね。

※写真は3月20日、水道道路(玉川上水新水路跡)沿いの「遊び場80番」の桜。
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by tokyoriver | 2010-03-28 23:15 | お知らせ | Comments(7)
麻布十番商店街の西端、そのすぐ先は六本木ヒルズのエリアとなる一角。最近ビルが取り壊され、真新しいアスファルトの敷かれた駐車場が広がっているが、その北側の崖の下に沿って、細長く伸びるコンクリートの敷地が姿を現している。これは、旧麻布宮村町の谷から流れ出ていた川の痕跡だ。前回とりあげた「がま池」からの小川もこの川に合流していた。今回はこの川を上流に遡っていこう。
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遡る、とはいっても、先の区間より上流部は、道路から離れていて住宅地の裏側を通っており、痕跡をみることはできない。平行して谷底を通る道路を、がま池のある西に向かって進む。次に流路が見られるのは、元麻布3-6。前回取り上げたがま池からの小川の痕跡の終点のすぐ近くだ。狸坂とちょうど対になる坂の袂に、小さな欄干がある(この写真は2005年撮影)。
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下を覗き込むと、大谷石の崖の下に沿って、西から澄んだ水が流れてきている。そう、ここは暗渠や川跡ではなく、現役の水路なのである。この水路をはじめて見たのは21年前(1989年)の夏だった。六本木のすぐそばの街中にこのような水路が残っていることに非常に驚いた。当時よりもやや水量は落ちたように思うが、現在でも健在なのはうれしいところだ。
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水路に流れる湧水は勿体無いことに、欄干の下で下水に落ちている。水の音が絶え間なく響いている。
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上流側に進むと、住宅地の間に「元麻布三丁目緑地」がある。湧水を利用した流れと池は、メダカやアメンボ、水生植物などが生息するビオトープとなっていて、池は地元の小学生たちによって「宮村池」と名づけられている。5年前(2005年)に訪れたときには水が澄んでいたが、今回は流れ込む水量が少なくなっていて、水もよどんでいる。それでもメダカが群れをなし泳ぐ姿が見られた。
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宮村池の北側には、5年前には家が建っていた空き地を挟んで、大谷石の崖が見える。水面は見えないが、先ほどの水路はその下を流れている。崖の途中に窓のようなものがあるのは何だろうか。
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13年前(1997年)に訪れたときには、宮村池の場所には木造家屋が何軒か並んでおり、その脇、元麻布3−5番地と3−6番地の境目の道路下からは、かなりの量の湧水が流れ出していた。明治後期の地図を見ると、この水路は道路を挟んだ元麻布3−5の長玄寺境内から流れ出ていたようだ。下の写真は当時の湧水の流出口。
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その後水路の流れる谷底はこの湧水地点以北が、再開発により低層の高級マンション群に変った。現在もかろうじて湧水口は残っているが、水量は激減している。下の写真が現在の流出口。
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かつては湧水は民家の敷地の端の水路を流れ、崖に突き当たったところで先ほどの崖下の小川に合流していた。写真ではわかりにくいが、水量は多く、水流もかなり早かった。写真は当時の水路。
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現在も水路自体は何とか残っているが、崖下まで流れつくほどの水量はないようだ。2005年の訪問時には、すぐそばのビオトープへは、この湧水ではなく崖下の本流の水を、パイプで導いていた。現在もその導水管はあるが、水は出ていなかった。崖下の湧水自体は枯渇していない様子なので、取水が上手くできていないのだろうか。
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宮村坂を挟む谷間には2001年竣工の、低層の高級マンション群が並ぶ。外人の居住者が多いという。 
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一帯は今でこそ綺麗に整備されているが、1997年に訪問した際は更地となっていて駐車場などに利用されており、大谷石の擁壁の崖下を流れる水路の周りには雑草が生い茂り、家具が捨てられていたりして荒涼感が漂っていた。2005年に再訪したときにはその変貌ぶりに目を疑ったものだ。
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マンション群の裏手、わずかに水路を確認できそうな場所から崖の下を見ると、水路は以前よりもむしろ綺麗になっていた。澄んだ湧水が更々と流れている。水がどこから湧き出しているのかは確認できない。
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宮村坂を登っていくと、マンション群の北端、道の舗装がアスファルト敷に戻る地点に、なぜか取り壊されずに残っている古そうな欄干がある。向かい(西側)の崖の下にも同じような欄干があり、もしかすると向かいの崖下からも細流が流れ出し、東側の崖下の小川に合流していたのかもしれない。
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次回はこの旧麻布宮村町の小川が合流していた、六本木ヒルズとなった谷、旧日下窪町藪下から麻布十番にかけての小川を取り上げる。

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by tokyoriver | 2010-03-23 00:54 | 渋谷川とその支流 | Comments(10)
六本木、麻布十番、元麻布の谷筋の水を集めて流れて古川(渋谷川)に注いでいた小川の痕跡を再訪してきました。東京の水2005revisitedで、5年前にすでに詳しく記事にしていますが、なかなか面白いエリアですので、最新の写真をメインに2005年の写真、1997年の写真も織り交ぜて、何度かに分け、再度紹介してみます。六本木のところは、先日ちょうどブラタモリ最終回でも取り上げられていました。

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まずは元麻布2丁目の「がま池」から流れ出していた小流を追ってみよう。

麻布十番から枝上に分かれる谷の一つに、有栖川宮記念公園の南側、谷頭の窪地には江戸時代より有名な「がま池」(「蝦蟇ケ池」)が残っている。「がま池」の名は、池に棲んでいた大きなガマガエルに由来するとされており、いくつか伝説が残っている。がま池の由来やその変遷については、こちらのサイトが詳しい。

明治時代の地図には、大きな池の姿が描かれている。この時点で池の広さは1600平方メートル。池の北側からは川が流れ出し、北側の谷へと続いている。
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「五千分の一東京図測量原図 東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(明治16年)」より

現在の池の姿は、googlemapの空中写真で確認できる。池の広さはおよそ600平米。池の北側が埋め立てられ、池の上にせり出すかたちでマンションが建っている。中島はおそらく明治の地図に描かれているのと同じものだ。どんな旱魃の時でもかれたことがないと言われた池の湧水も、1990年代に入るとほとんど枯渇してしまい、現在は、循環水で水面を維持しているようだ。
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大きい地図はこちら

現在、住宅街の道路端と、とあるマンションの玄関脇にがま池の説明版が掲示されているものの、先のマンションの中庭となっていて、入ることはおろか見ることもできない。マンション入り口の看板には池を公開している旨書かれているが、聞いてみたところ公開していないとの回答。5年前に訊いたときにも、一時的に取りやめているといっていたが・・・現在のマンションは2002年に建替えられたもの。その際は建設業者が池の公開を約束したというが、どうも有名無実になっているようだ。

池の周囲も住宅に囲まれていて、その姿を見ることは不可能だったのだが、数年前に池の南側の建物が取り壊されコインパーキングとなり、ここから木々の隙間越しに池を見下ろすことができるようになったのは割と知られている話。ちょっとお邪魔して眺めてみる。水面にはマンションが映っている。
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池の北側、かつて池からの小川が流れていた谷は、三方を崖に囲まれた小さく深い窪地となっている。再開発の手も今のところ入っておらず、小さな家屋が密集し、周囲から取り残された風景。谷の向こうに見える六本木ヒルズとは対照的だ。
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谷の東側の崖に沿う宮村児童遊園の一角には、わずかであるが崖の下から湧水が流れ出ていて、溝を伝って小さな水溜りのような池に注いでいる。
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公園から更に一段下がった谷底の住宅地には細い路地が何本か伸びている。一番奥の路地から公園の方向(東)を見ると、木造家屋の向こうに元麻布ヒルズが聳え立っている。手前の路上に見える雨水桝(?)には、右(北)側から湧水らしき澄んだ水が流れ込んでいる。
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写真奥、白い柵の向こう側から、蓋をされたU字溝がここまで延びている。先の公園の湧水とは別に、住宅地の裏側の崖から流れ出しているようだ。
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かつてがま池やこれらの谷に湧く水を集めて流れていた小川は、公園の西側に沿ってその痕跡を残している。路地の細さに比してマンホール径が大きい。
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未舗装の川跡は、道路を越えて更に北へ、舗装された路地となってのびている。
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人がすれ違えないくらいの細い路地の川跡。右側には崖が迫る。崖の上は高級マンションだ。
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水路端にポンプ式井戸をつぶした痕跡が残っていた。
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狸坂のたもとで川跡の路地は道路に出る。川はここで元麻布プレイスの谷筋から流れ出していた別の小川に合流し、麻布十番方面へと流れていっていた(時代によっては、合流せず平行して流れていたのかもしれない)。次回はそちらを取り上げよう。
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最後に狸坂の写真を。人を化かす狸が出没したことがその由来という、そのままの名前の坂だが、ごらんの通りかなりの急坂。坂の下の標高13mに対し坂の上は26m。がま池の谷の深さがわかる。
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by tokyoriver | 2010-03-17 00:24 | 渋谷川とその支流 | Comments(8)

笄川夕景

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笄川(こうがいがわ)の詳しい情報については、「東京の水2005revisited」の以下の記事をご参照下さい。
・川の概要と地図についてはこちら。
・各本支流の詳細はこちら。
なお、暗渠ムック「東京ぶらり暗渠探検 消えた川をたどる!」にも簡単ですが解説してあります。
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とある夕刻。久々に訪れた、笄川の暗渠。用事のついでだったので、源流部からではなく途中から辿るかたちとなった。青山橋を潜って本流を南下すると、立山墓地の南の風情のあるY字路に出る。左側が笄川の跡だ。Y字の付け根にポンプ式の井戸があったのだが・・・
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ポンプはいつの間にか外されて、土台だけが残っていた。
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青山墓地西側、笄川が流れる広い谷の東縁の水路がいったん西側の水路に合流していたあたりには、古い木造家屋が何軒か残っている。ここもそろそろなくなるのだろうか。
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少し南下すると、暗渠(川跡)は、一本裏の東側の路地に移る。
路地のカーブや雰囲気に川跡っぽさが漂う。
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この暗渠路地、途中から私道になるようだ。
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川がもとの道沿いに戻る地点が私道の終点のようで、先ほどと同様アスファルトに字が書かれている。でも、両方向に向かって私道の表示が・・・いったいどっちなんだ!
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西麻布霞町交差点北側では、2本の道が並行している。左側の低い方が暗渠だ。挟まれた細長い敷地には、和菓子や蕎麦屋が並んでいる。
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広尾に入りしばらく下ると、右岸側に土手が現れる。暗渠に沿う土地にある、宮代学園の敷地だ。この区間は戦後しばらく、開渠で残っていたそうだ。現在は幅3mほどの暗渠が道路の下を流れている。かつての川の流れを彷彿させる、好きな場所だ。
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このしばらく先で、暗渠は外苑西通りの下へと消えていき、川の痕跡は姿を消してしまう。


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by tokyoriver | 2010-03-12 00:18 | 渋谷川とその支流 | Comments(4)

弦巻川断章

土曜日のイベント「『東京ぶらり暗渠探検 消えた川をたどる!』刊行記念「東京ぶらり暗渠探検」」@東京カルチャーカルチャー、何とか無事終了いたしました。こんなイベント、人来るのかなぁ・・・→やっぱりチケット売れてないよ!から、蓋を開けてみればあの盛況。お越し頂いた皆様、ほんとうに、ありがとうございました。

会場で時間切れとなった「弦巻川」について、少しだけ、とりあげてみます。「弦巻川」は池袋駅西口、ホテルメトロポリタンなどのビルが建ち並ぶ一帯にあった湧水池「丸池」を主源流とし、雑司ヶ谷の谷を東に下り、護国寺にて向きを南南東に変え音羽の谷の西縁を下り、江戸川橋付近で水窪川と合流してすぐに神田川へと流れ込んでいた川で、池袋駅西口の美久仁小路近辺からサンシャインシティ付近を経て同じく音羽谷の東縁を下る「水窪川」といわば双子の関係にあります。詳しくは、「東京の水2005Revisited」の弦巻川・水窪川のカテゴリで詳述してあります。また、『東京ぶらり暗渠探検 消えた川をたどる!』にも簡単ながら掲載していますので、ご参照下さい。

また、流路のgooglemapはこちらをどうぞ。

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1.音羽谷西縁の区間

弦巻川は、暗渠化直前には神田川の直前で水窪川に合流していたようだが、明治中ごろまでは直接神田川に合流していたようだ。明治16年の5000分の1地形図には、その流路が掲載されている。地図左上から中央を南北に通るのが護国寺の参道。その左右の崖沿いに流れるのが弦巻川(左)と水窪川(右)だ。地図の下を東西に流れているのが神田川。川に並行して神田川から分水された神田上水が流れており、護国寺の参道以東は道路の下の暗渠となっている(点線で表示)。水窪川と弦巻川は暗渠の「神田上水」のさらに下を伏樋でくぐって神田川に合流している。(地図は「五千分之一東京図測量原図 明治16年(1883年)より)
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弦巻川は高速の1本東側の直線の道路に沿って流れていた。
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上の地図上で水路が道沿いから西に逸れる地点が、ちょうど現在の道路でも道幅が狭くなっていた。狭くなるところに飛び出している家は、水路跡の上に建てられていることになる。
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高速道路沿いには、暗渠が未舗装の荒地で残っていた。5年前に記事にしたときにはここが暗渠だという確信は持てなかったのだが、古地図や下水道の敷設状況、現地の様子から判断すると、どうやら間違いないようだ。高速は川を埋めて作られたのではなく、目白台/関口台の斜面上に作られたようで、そのため暗渠の空間が残されたのだろう。大谷石の擁壁からは排水管が突き出し、微妙に蛇行もしている。80年前に暗渠化されたとは思えない空間だ。
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暗渠沿いの側溝をよく見ると、湧水が湧き出して流れていた。写真ではわかりにくいが、ちょろちょろと澄んだ水が流れている。
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2.護国寺の西側の区間

このあたりは、弦巻川跡の道路では、唯一暗渠らしさが残る区間だ。かつてはホタルが飛び交っていたという。写真は1998年の様子。現在も余り変ってはいないが、放置自転車が増えたり、沿道の家が建替えられたりして暗渠らしさはやや薄まっている。
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この区間の道端にある、鍋を伏せて塞いである井戸。横につけられた管から、水がくみ出さなくても自然に流れ出していて、井戸というより湧水といったほうがいいかもしれないくらいだ。水量も多い。
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すぐそばの清土鬼子母神の星の井戸。蓋が新しくなっていた。蓋を開けるとたっぷりを水を湛えていた。雑司が谷の鬼子母神に祀られている鬼子母神像は1561年、この場所の畑の中から発見されたという伝承がある。そして、出土した鬼子母神像をこの井戸の水で洗ったそうだ。
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3.弦巻通り〜雑司が谷

弦巻川の暗渠「弦巻通り」沿いにある雑二ストア。雑二は、雑司が谷2丁目の略。終戦直後からある古い小さなアーケードだ。自分が子供の頃にはまだまだ、アーケードの下に小さな店舗が密集する「ストア」が沢山あったと思うが、今では珍しい。
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雑司が谷鬼子母神境内にある有名な駄菓子屋。江戸時代から続くという。ちなみにここの鬼子母神には角がないということで正式には「鬼」の字の上の点は書かない。
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弦巻川の源流近く、池袋駅南側の「ビックリガード」そばの壁に描かれている、池袋にちなむかるたの絵のうちのひとつ。弦巻川にかかる橋の絵が描かれている。由緒ありそうな橋名が列ぶ中で、「丸太差し渡し橋」が異彩を放っている。
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水窪川の暗渠が当時の流路そのままで残っているのに対し、弦巻川の流路はあまり痕跡がない。これは、川の直線化と暗渠化、そして周囲の区画整理が同時に行われたことが大きな原因だろう。雑司が谷界隈の曲がりくねった流路はその際に埋め立てられて住宅が建ち、かつての流路はわからなくなってしまっている。そんなわけで、弦巻川流域は、町歩きとしては面白いエリアだが、暗渠歩き自体の面白さは残念ながら水窪川には及ばない。

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このほか、予備でいくつかテーマ別に写真を用意していましたが、これらについてはまた機会があれば載せてみようと思います。もし万が一にもイベントの第2回が開催されることがあるなら、そのときにでもいいかもしれませんね・・・
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by tokyoriver | 2010-03-08 23:49 | 神田川とその支流 | Comments(8)
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本編の前に、『東京ぶらり暗渠探検 消えた川をたどる!』刊行記念イベントのお知らせを。

暗渠ムック「東京ぶらり暗渠探検」の刊行を記念して、出版社主催のイベントが開催されます。今週末土曜日、3月6日の13時より、お台場のライブスペース「東京カルチャーカルチャー」にて。私も一応出演予定です。入場料がかかってしまうので恐縮ですが、ムックには掲載できなかった写真などをご紹介できればと思っておりますので、お時間が許せばぜひお立ち寄り下さい。

詳細はこちら

チケットはこちら(前売りチケットがお得です)。
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暗渠ムックの執筆にあたって久々に渋谷川上流部を辿ったとき、原宿橋跡のすぐそば、左岸(東側)にある細い路地の奥に車止めがあるのを見つけた。写真中央の店舗左端の路上に見えるのが、原宿橋の親柱、そして店舗右側から奥にのびるのが問題の路地である。今まで、右岸側から合流する原宿村分水の方にばかり気をとられていて気がつかなかったが、もしやこれは暗渠なのでは・・・?

(※2012年追記:この暗渠はかつて清水川と呼ばれていた小流だったそうです)

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奥へと進んでいってみる。結構な傾斜のある細い路地。真ん中には大きめなマンホール。
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しばらくいくと、路地は私有地の中へと消えていく。このあいまいさも暗渠らしい。
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回り道をして、暗渠の先を探ってみる。路地はないが、浅く小さな谷が伸びており、立ち並ぶ住宅の壁を見ると、間に等幅の空きスペースがあるようだ。
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道端には、不自然な位置にマンホールがあった。谷は手前左側から右奥に伸びている。
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谷を追って東へ進んでいくと、谷底に墓地が広がる場所に出た。妙円寺というお寺の墓地。向かいの丘の上に見えるのは原宿団地。50年以上前に建てられた都営住宅だが、高層マンションへの建替え計画があり、反対運動が起こっているようだ。
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墓地から振り返ると、怪しい路地出現。
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奥に入ってみると、家々は背を向け、路上にはマンホール。通路として使われているとは思えない荒廃感。これは暗渠だろう。
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通り抜けられそうになかったので、反対側に回り込んでみる。小さな駐車場の奥に先ほどの暗渠の続きがあった。一段低くなっており、舗装もされていない。ここで暗渠は途切れていた。
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谷底を探しながら周囲の道に入ると、暗渠っぽい路地があった。しばらく直線に続いた後、途切れていた。途切れた場所で、谷もなくなっていた。このあたりが最上流端のようだ。
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この暗渠の正体を求めて明治期、大正期、戦前などのいくつかの古地図にあたってみたが、わずかに3000分の1地形図に、最上流部の路地が水路のように描かれていたのみで、他に流路が描かれたものは見当たらなかった。しかし、白根記念渋谷区郷土博物館での特別展「「春の小川」の流れた街・渋谷」の図録を見ると、巻頭に載せられた渋谷川流路図に、この暗渠が川として青い線で描かれていた。東京地形地図の段彩図でもはっきりとした谷となっていて、川があったことは間違いないようだ。


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by tokyoriver | 2010-03-01 20:00 | 渋谷川とその支流 | Comments(4)