東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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前回の続きから。コンクリート蓋の暗渠は住宅地の中を真っ直ぐ北にのびている。
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奥は立ち入り禁止となっていて、その先で左(西)に直角に曲がっていた。
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暗渠上を辿れないので、「コの字ウォーク」(lotus62@東京peelingさん命名)にて回り込んでみる。シュロの木が茂る個人宅の前を通っていた。
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暗渠はその先で、再び北(右)へと直角に曲がっていた。
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再度コの字ウォークにて回り込み、暗渠の先を探してみると、どうもしばらく北に進んだ後、甲州街道の手前で更に西へと折れ曲がってるようで、道を横切る続きらしき細長い空き地が見つかった。この空き地の先でまたもや北(右)に折れているようだ。
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折れた先がおそらくこちら。手前は甲州街道の南側の歩道だ。流路はここまで実に4回、ジグザグに折れ曲がっていたこととなる。
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甲州街道の北側を望む。高速道路がのしかかっている先にいなげやが見える。その横、木の繁っているところの左側に怪しい隙間が見える。
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足下には「あめ」と記してあるマンホール。雨水管なのだろう。
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西に僅かに進むと、朽ちかけた「水道局用地」の標石の立つ道があった。荒玉水道道路がここを南北に抜けているのだ。
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甲州街道を渡り、先の「怪しい隙間」のところに行ってみると、荒玉水道道路から左にそれる細い隙間があった。
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中を覗いたところ。水路跡とみてよいだろう。
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そのすぐ先には玉川上水緑道が東西に通っている。
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緑道の上から先の細い空間を見てみる。見づらいが画面中央の黒い柵のところだ。玉川上水に直接ぶつかっていることがわかる。
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この辺りの玉川上水は台地のへりのギリギリのところを通っている。写真は荒玉水道道路が玉川上水を横切る地点を北側に向って見たところだが、上水を越えたすぐ先が急な下り坂になっている。
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桜上水支流(仮)の東側の流れは、前回今回と見て来たように、ほぼ全区間が痕跡として残っており、かつそれは玉川上水に達している。地形的にも、ここから松沢中学校まではゆるやかな下りとなっており自然だ。

このルートが北沢分水の最初の分水ルートであり、水路跡が玉川上水緑道にぶつかる地点が最初の分水口であった可能性は十分にあると思われる。甲州街道を越える地点は、資料にある用水抜石橋の位置とも一致しているように見える。

最終的な北沢分水のルートが経由している北沢川上流部にはこのルートからだと給水されないが、当初の上北沢分水が飲用目的だったこと考えると、前回記したように集落中心部に最短距離で直接繋がるこのルートはおかしくないはずだ。長い距離を流れるほど、水のロスは多いはず。その場合「牛窪」にあたる窪地は、鉄板暗渠のあたりの窪地ということになるだろうか。
(段彩図は、数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)
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ここで今度は同じく中心地への桜上水支流の西側の流れについても分水路の候補のひとつとして見てみたい。こちらははっきりとした細長い谷筋が続いている。この谷「入谷’」が「牛窪」である可能性も考えられる。そして、東側の支流ほどではないが、こちらも最終的な北沢分水のルートに較べれば集落中心地への距離は遥かに短い。

(つづく)
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by tokyoriver | 2011-03-30 22:30 | 北沢川とその支流 | Comments(4)
しばらく間があいてしまった。こんな状況下ではあるが、自分が今出来ることをする、という意味で、更新を再開することにする。

北沢川桜上水支流(仮)は、京王線桜上水駅近辺から流れ出している支流で、かつて「入谷」と呼ばれていた谷筋を流れている。駅の東側と西側から流れ出た2つの細流は松沢中学校の南西角で合流し、日大文理学部の北側から西側を下り、日大桜ヶ丘高校の南、経堂赤堤団地の北側で北沢川本流に合流する。この地点では北沢川上流部のいくつかの支流がひとつにまとまり、大きな流れとなる。
すぐ近くには16世紀末にこの地に移り住んだ実力者である鈴木佐内家の屋敷があったといい、菩提寺密蔵院は今でも健在だ。また近くの勝利八幡神社は1026年勧請と、鎌倉の鶴岡八幡宮よりも古く、世田谷区内最古の八幡社だという。
このように、北沢川の流れが集積する一帯は古くから集落が営まれ上北沢の中心地だったようだ(下図の○のあたり)。北沢分水は当初はおそらくこの辺りの飲用水(のちに灌漑用水)の必要性から引かれたのではないかと思われる。
そのことを前提に、いちばん最初の「上北沢分水」のルートを考えた時に、玉川上水からダイレクトに中心地に繋がる最短ルートともいえるこの支流に「上北沢分水」が接続されていた可能性は十分にあると思われる。
まずは東側支流を辿ってみよう。こちらがまさに玉川上水からの最短ルートとなる。(段彩図は、数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)
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松沢中学校南西の角で、2つの支流が合流している。左手の車止めが、桜上水駅南/西側からの流れ。今回追うのは駅東側の流れで、右奥へのびる路地がその暗渠。
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土止めが水路跡らしい。
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暗渠は松沢中学校の敷地沿いを回り込むようにジグザグに通っている。かつては敷地をまっすぐに横切って南へ流れていたが、学校の建設時に迂回させたようだ。
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飛び出す排水管、古そうな護岸。この区間が暗渠化されたのは比較的最近のようで、手許の1989年刊行の1万分の1地形図にはまだ水路として描かれている。家々はみな背を向けている。
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路地は学校の北側で向きを北に変え、その先は立ち入り禁止の区間となる。
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アスファルト舗装の凸凹は、もしかすると水路の梁が浮き出ているのかもしれない。そして立ち入れない暗渠に定番の物置。その裏は京王線の線路となっている。
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線路の北側に回り込むと、このような鉄板蓋の暗渠があった。正確には、隣の駐車場を水路の上に広げたようなかたちとなっていて、水路との間にずいぶんと隙間がある。
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鉄板より南寄り(線路寄り)は、開渠の上に資材置き場が造られている。
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その更に南側を見ると、水路の中にタイヤがしまわれていた。もちろん水は涸れているが、水路を完全に私物化している・・・
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鉄板暗渠の北側はこのように、歩道の分だけ道が太くなっていて、かつて道沿いに西(奥)から流れて来ていたであろうことがわかる。
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西へ少し進むと、突然歩道が無くなる。ここで水路が曲がっているようだ。
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右側(北側)を見ると、コンクリート蓋の暗渠が住宅地の中を通っていた。
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(以下、次回につづく)
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by tokyoriver | 2011-03-22 21:43 | 北沢川とその支流 | Comments(0)
◆北沢川

北沢川は、世田谷区上北沢2丁目、現在、都立松沢病院の敷地となっている一帯に滲み出していた湧水を水源とし、世田谷区内北東部を東へと流れていた全長6kmほどの川だ。川は北側から合流する何本もの支流の水を集め、世田谷区池尻で烏山川と合流し、目黒川となっていた。1960年代から70年代にかけ、暗渠化と下水幹線への転用が進み、現在はほぼ全区間が緑道となっていて、下流部には再生水を使ったせせらぎが続いている。(ただし、扱いとしては今でも「二級河川」のままだという)。また支流についてもほとんどの区間が暗渠化されている。
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◆北沢分水

川の流域は主に水田として利用されていたが、谷筋が浅いことからも分かるように水量は少なかった。そのために玉川上水から北沢川に水を引き入れるために分水されたのが、北沢分水だ。玉川上水が開通したのは1654(承応3)年だが、北沢分水はそのわずか4年後の1658(万治元)年に「上北沢分水」として供用を開始した。まずは飲料水として、そして玉川上水拡張後の1670年には農業用水に転用され、後には北沢川自体とあわせて「北沢用水」と呼ばれるようになった。段彩図の青いラインが北沢川水系、オレンジ色のラインが、それに接続された最終的な北沢分水の流路となる。(段彩図は、数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)
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◆分水口の変遷

分水への給水が途絶えたのはいつの頃か定かではないが、現在、杉並区久我山1丁目の玉川上水岩崎橋の近くに、北沢分水の分水口遺構が残っている(上の段彩図で3代目分水口と記してある地点)。写真奥が堰跡で、せき止めて水位を上げ、手前の取水口から地下に埋められた伏樋に水を引き入れていた。少し西側には、烏山分水の分水口も残っている。
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実は分水口がこの場所になったのは1871(明治4)年のことで、ここを含めて3回、分水口の場所は変えられている。北沢分水はここで分水された後1.5kmほど、玉川上水の南側に並行して流れたのち、上高井戸2丁目(※下高井戸と誤記していたため、訂正しました)で南下していたのだが、2番目の分水口は1788(天明8)年から1871(明治4)年までの間、その南下する地点、かつての下高井戸村字第六天前にあった(上の段彩図で2代目分水口と記してある地点)。玉川上水通船のための水路拡張工事の結果、現在の場所に移ったという(ちなみにこのように玉川上水に並行して水路を延ばし、分水口を付け替える手法は他の分水でも行われている)。では1788(天明8)年より前、分水が開通した当初の分水口はどこだったのだろうか。

◆最初の分水口と上北澤分水

ざっと資料をあたった限りでは、分水口の変遷については、「東京市史稿 上水篇(水道篇)第1」(東京市役所編 1919)の記事がもっとも詳しかった。北沢分水はそこでは下北澤分水として紹介され、「新編武蔵風土記稿」「郡村誌(荏原郡村誌か)」「武蔵通志」より該当部分が抜粋転載されている。最も詳しい「郡村誌」によれば、当初の分水口は「上北澤地内字牛窪」 方1尺4寸、長さ9尺の樋口を伏せ、とある。「新修世田谷区史 上巻」(世田谷区 1962)及び「世田谷の河川と用水」(世田谷区教育委員会 1977)にも同様に記されているが、いずれもこの「東京市史稿」を出典としたものだろう。

ということで「上北澤地内字牛窪」が当初の分水口となるのだが、ここで問題がある。まず、玉川上水は上北澤村内を通っていないのだ。そして、「上北澤地内字牛窪ヘ(略)樋口ヲ伏セ、玉川上水ヲ分水ス」を「牛窪へ向って」と解釈すると、では分水口自体のあった場所はどこなのか、ということと、牛窪とはどこなのか、という問題が生じる。分水口自体もさることながら、この「牛窪」がどこだったのかが全く分からない。近隣で牛窪といえば、京王線笹塚駅南側、神田川笹塚支流(和泉川)の枝谷があり玉川上水が大きく迂回している地点くらいしかみあたらないが、こちらは幡ヶ谷村だし、ずいぶん離れていて全く関係ない。

◆最初の分水口はどこか?

「世田谷の河川と用水」では、当初の分水地点について、京王線上北沢駅の北東に1カ所、北西に1カ所、そして八幡山駅の北方に1カ所の計3カ所の候補を挙げている。上北沢駅の北西には確かに痕跡らしきものが残っているし、駅の南東に残る北沢川の支流を北へ延長してみると、駅北東の玉川上水にぶつかる(下の段彩図で「三田説A〜C」)。
また「甲州道中高井戸宿(文化財シリーズ26)」(杉並区教育委員会 1981)に掲載されている「下高井戸宿復元鳥瞰図(江戸後期)」には玉川上水と北沢川流域の間を東西に通る甲州街道に、3カ所の「用水抜石橋」が描かれている(下の段彩図で「用水抜石橋」のポイント)。
一方「杉並の川と橋」(杉並区立郷土博物館 2009)に掲載されている「五街道分間延絵図」からの高井戸宿の概略図にも、甲州街道を横切る水路を渡る「用水抜石橋」や「悪水抜石橋」がいくつも描かれている。こちらでは「甲州道中高井戸宿」の「用水抜石橋」に対応すると思われる橋はいずれも「悪水抜石橋」となっていて(下の段彩図で「悪水抜石橋」のポイント)、現在の北沢分水流路(暗渠)に対応する地点が「字山谷石橋」となっている。
これらの橋の位置からは、「世田谷の河川と用水」で挙げている上北沢駅の北西に対応するであろう用水路、そして上北沢駅北東の地点からやや東にずれた用水路、そして桜上水駅の北東の用水路が甲州街道を横切っていたことがわかる。そして、それらに対応するように、甲州街道の南側には北沢川の支流が何本か、その痕跡を残している。このなかのひとつが最初の分水路の名残なのではないか。
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◆謎めいた分水路を探して

北沢川/北沢分水は比較的著名な存在でありながら、この最初の分水口については資料・文献もあまりなく、話題にする人も少なく、謎めいている。現世田谷区のエリア内の利水のための分水でありながら、分水口が杉並区の南端に位置していることも、資料や研究が手薄になっている一因かもしれない。
この北沢分水最初の分水口探索については、 「世田谷の川探検隊」の庵魚堂さんのブログ 「庵魚堂日乗」でずいぶん前に断続的に探索の成果が発表されていたが、今のところまとまった形での発表には至っていないようだ。

今後数回にわたって、北沢川源流域/北沢分水をとりあげていこうと思うが、この最初の分水口〜分水路との関係を念頭に置きながら、まずは桜上水駅付近の、かつて「入谷」と呼ばれていた谷筋を流れる、北沢川の支流「桜上水支流(仮称)」を辿ってみようと思う。下の段彩図中央やや右、二股に分かれている青いラインがそれにあたる。次回は東側の流れについてとりあげてみる。
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by tokyoriver | 2011-03-10 12:32 | 北沢川とその支流 | Comments(0)
中野区大和町の2つの妙正寺川支流跡を辿る2回目は、大和町4丁目の蓮華寺にある湧水池から流れ出ていた支流を、源流側から辿ってみる。地図については前回の記事を。

前回とりあげた大和街3丁目支流(仮)の上流端から西へ400mほど行くと、蓮華寺支流(仮称)の水源である蓮華寺の池に辿り着く。蓮華寺の正式名は「泉光山蓮華寺」。日蓮宗の寺院だ。1658(万治元)年に現在の文京区関口台にて創建され、1908(明治41)年に現在地に移転してきた。西に1.4kmほど離れた、妙正寺川本天沼支流(仮)の上流部にもまったく別の「蓮華寺」があり、境内には小さな池もあるが、こちらの蓮華寺の池はちょっとした谷頭に位置し、東京都の湧水台帳にも掲載されているれっきとした湧水池だ。池は寺が移転してくる前からあり、灌漑用に利用されていたという。
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池の南側に立つと水面までの距離がけっこうあり、谷頭になっていることがわかる。中島もある。この奥、北側からかつて川が流れ出ていた。
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流路跡の暗渠は住宅地と蓮華寺の墓地の境界線を北上している。蓮華寺の北東でその暗渠を見ることができるが、柵が設けられていて入ることができない。
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奥を覗いてみると、未舗装の暗渠が池の方から続いている。街灯があるところをみると、以前は通れたのではないだろうか。
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柵より北側は、いかにもな暗渠道となっていて、こちらは通り抜けできる。車止めが独特だ。そして、意外に下り坂となっていて、かつての流れの速さを想像させる。
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大谷石の護岸は水路があったころのものだろうか。古い住宅地図などを見る限り、1970年代半ばまでは開渠だったようだ。
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郊外にありそうな、独特な屋根のかたちをした、古い木造の洋風家屋があった。
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微妙な曲がり具合と路面近くの護岸が雰囲気を出している。
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わずか100mほど北上したところで、暗渠道は東西に走る幅広の道に合流する。
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かつてはこの道を斜めに横切り、妙正寺川へと合流する流れの他、道に沿って東に流れ、前回とりあげた大和町3丁目からの流れに合流する分流もあったようだ。車道よりも幅広の歩道はおそらくその分流の痕跡だ。
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幅広の歩道は中野区立大和小学校の門につきあたって消滅する。かつて水路はこの先、小学校の敷地を貫いて更に東へと続いていた。
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本流の方は、庵許可されたのは1970年代半ばとさほど昔ではないにもかかわらず、区画整理により全く痕跡を留めていない。大和小学校の北側を流れる妙正寺川に口をあける四角い合流口だけがその名残だ。
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合流口近辺の妙正寺川。見事なS字カーブは美しいがコンクリートの3面張り水路には、むしろ暗渠よりも哀しさを感じる。下流部で行われて来た大規模な改修工事は、まだここまでは及んでいない。上流部だけでも、もう少しまともな姿にならないものだろうか。
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蓮華寺支流合流地点の少し上流側には、このような柵付きの合流口もある。これは鷺ノ宮駅付近で分流し、妙正寺川右岸を流れて来たあげ堀(傍流)の合流口だ。こちらの暗渠/流路跡を辿って鷺ノ宮駅から帰路についた。
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余談だが、前回、今回ととりあげた2つの川が流れていた中野区大和町、文字面からみると由緒ありそうな地名だが、実は比較的あたらしく、しかも土地とはあまり関係のない地名だそうだ。一帯はもともと上沼袋村から野方村へと変遷を辿ったが、字名は大場だった。1933(昭和9)年に地名を改称した際に、その字名「だいば」と音読み「だいわ」が似ていることも考慮し、当時のご時世も反映して日本を意味する「大和(やまと)」を採用したという。1965(昭和40)年の住居表示法施行時にも生き残り、現在も大和町となっている。
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by tokyoriver | 2011-03-04 12:44 | 妙正寺川とその支流 | Comments(2)