東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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前回に引き続き、比較的メジャーな場所を取り上げてみよう。武蔵小金井駅近辺で所用のあったとある春の夕暮れ、そういえば近くにあったということを思い出し、駅から歩くこと十数分、尋ね来たのがこの土手だ。
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パッと見、どこかの川の土手のようでもあるだが、これは築樋である。築樋の上にはかつて「玉川上水小金井分水」が流れていた。元禄年間(1688〜1704年)に玉川上水からの分水を許可されたこの分水は、小金井市貫井北町3丁目近辺から南東〜南へと流れ、小金井村方面の飲用水や灌漑用水として利用されていた。
築樋というからには、低地を跨いでいるわけで、進んでいくと築樋の下は窪地となり、そこを通る枯れた水路が見下ろせる。仙川だ。小金井村の南方まで水を引くためにはこの仙川の流れる「山王窪」を越えなければならない。そこでつくられたのがこの築樋だ。
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仙川の水路を上流方向に向かって見下ろすと、谷筋がはっきりわかる。そして高低差も結構ある。近くにある解説板には、築堤の建造当時の全長は102m、高さ5.4mと記されている。谷底は公社小金井住宅となっており、1968年に起きた3億円事件では、犯人の使った車がこの団地の一角に乗り捨てられていたという。
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下流方向を見下ろしてみる。左岸側の方が高低差がありそうだ。この近辺の仙川は最上流部にあたり、現在の仙川上流端はここから600mほど西にさかのぼった地点にある。ただ、三鷹市新川の野川宿橋までの区間は、通常時は全く水の流れない涸れ川となっている。現在見られる水路は、戦後開削されたものだというが、谷筋になっていることから、もともとかつての川の痕跡で、湿地や小流れとなっていたのだろうと思われる。小金井分水から分かれた分流のうちいくつかは、流末が仙川に繋がっており、戦後の開削以前から何らかの排水路があったのではないかとも思われる。動脈の小金井分水に対する、静脈の役割を果たす水路があったはずだ。
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さて、この山王窪の築樋から、上流方向(北)に遡っていってみよう。小金井分水は小金井市内で幾手かに分かれながら一帯を潤し、その末端は野川や仙川、深大寺用水に接続されていた。末流のひとつは以前こちらの記事で紹介している。

「国分寺崖線・野川に注ぐ湧水&ミニ支流たち(5)玉川上水小金井分水の末流」

下の地図はgoogle mapのプロットよりキャプチャしたもの。細いオレンジのラインが小金井分水の水系となる。今回たどるのは水色で囲んだ部分だ。
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小金井分水は、1970年代までにはその役目を終え、大半は埋められてしまい、一部は遊歩道となって痕跡を残している。写真は築樋上につながる遊歩道の入り口を南に向かって見たところ。数分進むと先ほどの築樋になる。
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そして、大半は埋められたと記したが、この築堤入り口より北側は、水こそ流れていないものの、水路の大半がそのまま残されている。写真は水路が築樋手前で暗渠に入る地点。
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畑がところどころに残る静かな住宅地の中を、緑に囲まれた空堀が続いている。
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ここも手入れされた植え込みと桜並木の間で、よい雰囲気。水が流れていたらさぞかしよかろうに。
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どんどん遡っていくと、都区内でみられるようなコンクリート梁がはしご状に続く水路となる。
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水路はやがて、短い鉄板蓋暗渠に入る。
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わずかな区間、植え込みに囲まれた蓋暗渠となったのち・・・
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水路は何の変哲もない側溝になってしまった。ここから先は数年前までは畑の中の道沿いにコンクリート蓋の水路が続いていたのだが、あっという間に住宅が立ち並び、道路の再舗装に合わせて側溝にされてしまったようだ。google mapのストリートビューでは、まだ数年前の様子を見ることが出来る。
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味気ない側溝を遡っていくと、途中側溝すらなくなってしまうが、しばらく先には水門が見えてくる。奥に見える背の高い並木は、玉川上水沿いの緑だ。
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ここが、小金井分水の最終的な分水地点だ。左奥から右手前に流れているのは玉川上水砂川分水(深大寺用水)。小金井分水は当初は奥に見える玉川上水から直接分水されていた。しかし、1870年の玉川上水通船時の分水口整理により、現在の立川市から小金井市にかけて玉川上水南側に分かれる分水は、分水口を1箇所に集約された。つまり、砂川分水(深大寺用水)の分水口で各用水の水をまとめて取水し、砂川分水を本来の区間よりも下流方向に延長して、玉川上水に並行する分水専用の水路をつくり、そこから各用水を分水するようにしたのだ。小金井分水口も、その際に、砂川分水からの分水に変更された。
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玉川上水の北側にも同様にしてつくられた「新堀用水」があり、こちらは今でも水が流れている。ちなみに、砂川分水の分水口は柴崎分水と同じ場所にある。こちらの記事1枚目の写真に映る水門うち、左側のものが砂川分水だ。

「柴崎分水(立川分水)(1)分水地点〜昭和記念公園まで」

砂川分水(深大寺用水)には古い大理石の橋がかかっている。手前は鉄板になってるのは、後から道路を拡幅したのだろう。
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分水地点より、砂川分水(深大寺用水)を上流方向に向かって眺めてみる。水路の幅はかなりあるが、残念ながら全く水は流れていない。この近辺の区間はすでに砂川を通り越しているので、深大寺用水と呼んだ方がいいのかもしれないが、先の分水口集約など複雑な経緯により、呼び方は統一されていないようだ。
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暗渠をたどるのも楽しいが、武蔵野台地上にはこのように空堀となって用水路がいくつも残っていて、これらを辿るのもなかなか面白い。中には素掘りの素朴な水路や、今でも水の流れる水路もある。以前の記事では鈴木用水を紹介したが、また追々紹介していきたい。

「どっこい生きてる鈴木用水(玉川上水鈴木新田分水) 」

なお、主な水路については「東京北西部の中小河川」さんがコンパクトに紹介されている。またimakenpressさんのブログでも、今回取り上げた小金井分水をはじめ、丁寧に追われている。
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by tokyoriver | 2011-05-28 00:19 | 玉川上水とその支流 | Comments(4)
西武新宿線上井草駅から西に200mほどの線路上に、千川上水橋梁と記された小さな鉄橋がある。全長10mにも満たない小さな鉄橋だが、1926年竣工の古い橋だ。西武新宿線の開業が1927年だから、開業以来ずっと使われているということになる。
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橋の名前からわかるように、この下には、千川上水が流れているのだが、前後の区間が暗渠化されているのに、なぜかこの鉄橋を潜る区間の開渠のまま残されている。
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千川上水は1696年に玉川上水から分水された用水路だ。当初は小石川御殿や湯島聖堂、上野寛永寺、浅草寺などの飲料水を供給するための上水路としてひかれたが、後には現在の練馬区や豊島区のエリアの農業用水、そして明治以降は工業用水としても利用され、1971年に送水が停止されるまで、途中何度か中断をはさみながらもおよそ270年もの間流れ続けてきた。
1989年に玉川上水の清流復活事業が行われた際、千川上水のせせらぎも復活しているが、流れが見られるのは上流の5kmほどで、それより下流は、昭和初期から戦後にかけて暗渠化されたまま今に至っている。

千川上水は、青梅街道を越える関町一丁目交差点のところから千川通りの歩道の下を暗渠となって流れていくのだが、そこから1.2kmほどの西武新宿線を踏切で越えるこの場所で、再びヒューム管から顔を出す。
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暗渠から流れ出す水は1日3000トンほどだという。清流復活により千川上水には1日1万トンの高度処理水が流されているのだが、そのうち7000トンは暗渠となる青梅街道交差点のすぐ先で善福寺川へと導水されており、残りがここを流れているというわけだ。
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水路は西武新宿線が建設された際に、なるべく鋭角に川を渡るように、つまり鉄橋の長さが短くなるように付替えられたとのことだ。川底の幅は1mほどだが、V字型に深い水路敷となっていて、敷地の幅は5mくらいはある。
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鉄橋の下を流れていく。
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開渠の区間は35mほど。鉄橋を潜ってすぐの地点で、水路は再び地中に潜ってしまう。顔を出す地点とおそらく同じ太さのヒューム管に水が流れ込んでいく。
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線路の北側に続く千川通り。不自然に幅広の歩道の下を暗渠が流れているが、知らなければ地上からはまったく判らない。
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千川上水に流れる3000トンの水は、この先13kmあまりを再び暗渠で流れていく。そして、JR埼京線板橋駅の東側で、谷端川放水路の暗渠に接続され、北上した後石神井川に放水されている。ちなみに谷端川放水路の暗渠は、1924年に谷端川の氾濫対策としてつくられた水路で、現在では谷端川幹線の雨水幹線として使われている。

高度処理水とはいえ。せっかく水が流れているのだから途中の区間で水路を復活できないものだろうか、と思ってしまうが、現実的にはなかなか難しいようだ。それにしても、13kmもの距離にわたって比較的きれいな水が人知れず地下を滔々と流れていくさまは、まさに暗渠であり、なにやら秘密めいた感じがする。

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by tokyoriver | 2011-05-23 23:51 | 玉川上水とその支流 | Comments(2)
こちらを全然更新できていない中ですが、「みちくさ学会」に記事を書きました。今回はちょっと毛色を変えた題材かつ、"アイテム"寄りの切り口をやや強調した記述としてみました。発表会で言っていたことと違う、と感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、あくまで番外編的というか、変化球、余興ということでお赦し下さい。
とりあげたのは、下の写真のような物件です。
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こちらのブログの方も、なんとか月4記事くらいのペースに戻していきたいと思っております。今後も地味な記事が続くかと思いますが、よろしくお願いします。
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by tokyoriver | 2011-05-20 11:00 | お知らせ | Comments(0)
記事の前に御礼を。「みちくさ学会の発表会」にご来場いただいた皆様、ならびにustreamでご視聴いただいた皆様、ありがとうございました。おかげさまで客席は満員(200人弱くらいか)、ustream視聴者も400人に達していたとのことです。私の発表につきましては、丁寧に説明すると30分以上はかかりそうなスライドを10分で説明してしまったので、判り難いところも多々あったかと思いますし、もう少し個々の写真の説明もできればよかったなと思いました。もし機会があれば、ゆっくりと説明してみたいものです。

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連休を挟みだいぶ間があいてしまったが、北沢分水の最初のルートを探るシリーズ、最後に京王線上北沢駅を挟んで残る川跡/暗渠を辿ってみよう。「北沢分水の最初の分水口とルート」を巡る謎については、こちらの記事に再度お目通しいただけたらと思う。

「北沢川源流域/北沢分水を辿る(1)はじめに。謎めいた分水口。」

今回とりあげた流れは下の段彩図で、黄色い○で囲んだあたり(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。2回目から5回目にかけてとりあげたのは、その右側、桜上水駅付近の流れだ。なお、前半の写真は携帯電話のカメラでの撮影なので、余り綺麗に撮れていないがご容赦を。
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今回辿る川跡は、京王線上北沢駅付近に発し、桜上水5丁目の都営上北沢アパートの一角で北沢川の北側の流れに合流している。もともと浅い谷筋となっていて、仮にこれが北沢分水の最初のルートだった場合、玉川上水から水路を引いて谷頭の源流に接続したようなかたちであったと思われる。合流地点は桜上水公園になっていて、雨水を循環させた池とせせらぎがつくられている。ここから上流方向へ遡っていくことにしよう。川跡はアスファルトに覆われた普通の歩道となっているが、曲がり具合がかつてここが川であったことを示している。
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曲がりながら続いている。この辺りは浅い谷筋となっていて、自然河川だったことを伺わせる。
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歩道が車道から分かれていく川跡/暗渠ならではの風景。
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再び車道に沿ってジグザグに。歩道の上の花壇が暗渠の証。
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車道から離れて路地に。護岸の痕跡らしきコンクリートが残っていた。ここの区間は手許にある1984年の1万分の1地形図では開渠として描かれている。
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桜上水駅の南側で暗渠らしい路地は終っており、地形もほぼ平坦になる。1970年代の住宅地図では水路がここで西(写真右)に曲がって十数mほど続いているように描かれているものもある。さて、この先にも水路は続いていたのだろうか。駅の反対側を探索してみることにする。
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駅の北側に回り込んでみると、銭湯「北沢湯」があった。
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北沢湯の向いの路地に沿って、北へ続くコンクリート蓋の水路が残っていた。
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数十mほどで蓋暗渠は途切れてしまい、再び水路の痕跡は無くなる。北側を東西に通る甲州街道まで出てみる。一帯はかつての下高井戸宿で、現在甲州街道と首都高速4号線が分かれている辺りには、かつて日本橋から四里目(16km)の一里塚があった。そこから少し西に進むと、東京中央卸売市場・淀橋市場松原分場の跡地だ。1939年より営業を続けていた青果市場だったが、2008年に閉鎖。敷地は立ち入り禁止となっているが、建物はまだ残っている。
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この青果市場跡地の敷地の東側に、柵で閉ざされ、歩道内なのにガードレールが設置されたところがある。
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中をのぞくと、塀と柵に挟まれた細長い空間。奥は、玉川上水の暗渠上を通る首都高4号線が見え、そして地面には細いもののコンクリートの蓋をされた水路の遺構があった。
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北側に回り込んでみたが、こちらも塀で封鎖されていた。振り返ればもうそこは首都高速=玉川上水の暗渠だ。つまり、この水路跡は、玉川上水からの分水だった可能性がある。
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ここで、周囲の地図を見てみよう。赤い星印が、水路の遺構の北端で、そのすぐ北を通る紫色のラインが首都高速4号線かつ玉川上水の暗渠である。

地図に記された破線は世田谷区と杉並区の境界線なのだが、これはかつての上北沢村と高井戸村の境界線をそのまま踏襲したものだという。そして、見れば判る通り、この地点だけ、世田谷区=上北沢村のエリアが玉川上水の暗渠に接している。実はこの地点は、上北沢村が、唯一玉川上水に接していた場所なのだ。

1回目の記事に記した通り、北沢分水の取水口は当初「上北沢地内字牛窪ヘ、方一尺四寸、長九尺ノ樋口ヲ伏セ、玉川上水ヲ分水ス」(郡村誌)と、上北沢村のエリア内、もしくはそのすぐそばで玉川上水から分水されていたように記されている。ところが玉川上水は上北沢村内を通ってはいないので、この記述の解釈が非常に難しかった。
もしこの地点が最初の取水口だったらどうだろう。水路を管理するための上水沿いの敷地は水路と同じく高井戸村であっただろう。そしてその幅が9尺(約3m)程度だったとすると、ちょうど記録と辻褄があう。つまり、9尺の伏せ樋で上水の管理敷地を潜り、上北沢村地内から開渠水路となっていたようなイメージだ。あくまで推測に過ぎないのだが、いずれにしても、前回までとりあげた桜上水支流ルートではややすっきりとしない、上北沢地内に水を引いた、という記録が、こちらのルートにあてはめるとぴったりと来る。
また、2つ前の写真(先の閉ざされた空間の南端)の地点は、甲州街道のいくつかある「用水抜石橋」のうちのひとつがあった場所と一致していると思われ、この水路が甲州街道の北側から南側に抜けていたことははっきりしている。
ただし、一帯が牛窪と呼べるような窪地とはなっていないということと、上北沢駅南側までのルートが判らない、という点で疑問は残る。ちなみに「世田谷の河川と用水」では、この近辺を最初のルートとして推定している。

果たして1658(万治元)年に開削された北沢分水の最初のルートは、どれだったのだろうか。あるいは今回候補としてたどった3つのルート以外に、全く別のルートがあったのだろうか。

北沢川上流部や分水口が移設された1788年以降の北沢分水についても引き続き記事にしていくつもりだが、しばらく続いたのでここでひとまず区切る事としたい。

北沢川水系全体図
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by tokyoriver | 2011-05-11 23:40 | 北沢川とその支流 | Comments(6)