東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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さて、1回目、2回目と石神井川の「上流端」付近を探索してきたが、今回はその更に上流部、かつての水源であるとされる小平市鈴木町近辺を探索してみよう。ここを訪れたのは、前回の記事の更に1年後、2010年のこと。なお、当初は今回で完結の予定だったが、写真や文章が長くなりそうなので、探索の後の謎解きについてはまとめて次回に分けて記すこととする。

小金井街道の西側に更に広がる小金井カントリー倶楽部。かつて、その中を石神井川の最上流部が通っていたが、東側と同様立ち入ることはできないので、ぐるっと敷地の西側まで回りこむこととなる。カントリー倶楽部の西端に沿って南北に通る道は古地図にも記されている古い道だ。石神井川の源頭の窪地を横切る地点にはカントリー倶楽部の通用門があって、そこから西にT字路になっている(写真のカーブミラーのある地点)。
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そのT字路に入ると、いきなり路上に「下水道管理用地」の文字がペイントされている。しばらく先で道路は右へと反れていくが、管理用地の延長には未舗装の空間が先へと続いている。
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未舗装の空間を抜けた先から振り返るとこんな感じ。コンクリートの矩形の構造物が飛び出していて、上にはマンホールが設けられている。
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更に西に向かって、植え込みだったり雑草の生えた空間が細長く続いている。左側(南側)の柵の中は日立国際電機の工場だ。カントリー倶楽部の通用門からこの辺りまでは1970年代まで、開渠の水路があった。そして、日立国際電機工場の設立(1960年頃か。当時は日立電子)以降は、電子部品の洗浄に使われた水の排水が、石神井川の主な水源となっていたという。では、この開渠の水路が石神井川の源流で、「下水道管理用地」はその暗渠か、というと、結論からいえばそうではない。これについては次回にまとめて説明しよう。
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たどっていくと、途中には先ほどと同じような突き出しマンホール。
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この細長い空間はしばらくは石神井川の谷頭の南側に沿っているのだが、だんだん道路=谷底よりも高くなっていき、谷のどん詰まりで日立国際電機の北西端から農林中金研修所の敷地へと消えて行く。
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石神井川の源頭は、三方を囲まれ東(小金井カントリー倶楽部方面)に開けた窪地となっていて、窪地の底は「武蔵野団地」と呼ばれる住宅地となっている。団地といっても、そこに並ぶのは普通の一戸建ての家屋であるところが特徴的だ。どの路地に入っても道路の両端がRを帯びていてかまぼこの背のようになっており、両側にU字溝が設けられている。水はけの悪い土地であることを示しているといえる。ただ、石神井川の流れを想起させるような痕跡は全く残っていない。
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谷頭から西側の台地上に上がると、新小金井街道に出る。街道の東側には、鈴木小学校がある。谷底に建てられているので、街道から見えるのは3階くらいか。その脇には、鈴木遺跡の解説板が立っている。1974年、小学校が建設された際に、ここで3万年前から1万年前までにわたる旧石器時代の遺跡が発見され、数年にわたって発掘調査が行われた。
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解説板の裏側には小さな空き地。一見この空き地だけが鈴木遺跡のように見えるが、実際には石神井川の源流部、ちょうど武蔵野団地となっている窪地を取り囲むかのようにC字型に広がった大規模な遺跡であった。新小金井街道の反対側には鈴木遺跡資料館がある。石神井川の源流とこの遺跡の関係については、次回にまとめて記すことにする。
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さて、新小金井街道を少し南下していくと、「下水道管理用地」と、それに続く車止めの空間があった。奥に見える緑は農林中央金庫研修所。そして、ここはさきほどの日立国際電気小金井工場の脇の暗渠の延長線上にあたる。
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新小金井街道の反対側には、一直線に緑道が西へと伸びていた。
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沿道には果樹畑が残る場所もあり、一見のどかな暗渠のようだ。
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道路を横切る場所にも、路上に色分けがされている。
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緑道は回田町を横切って西へと続いている。途中玉川上水の分水である田無用水を横切っていく。この辺りの田無用水、は道路の歩道に組み込まれ整備されている。
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喜平町の小平団地につきあたって、緑道は終わった。脇には「下水道管理通路」の標石が埋め込まれていた。
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つきあたった道路に沿って、南北に鈴木用水(大沼田用水)のコンクリート蓋暗渠が通っていた。この暗渠はだいぶ老朽化しているが、その下にはしっかり水が流れていて、しばらく北に進むと、綺麗な水の流れる開渠となる(過去記事「どっこい生きてる鈴木用水」参照)
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さて、ここまで辿ってきた暗渠のような「下水道管理通路」は、石神井川と何か関係があるのか。1回目の記事で触れた、現在の主水源のひとつは何なのか。2回目の記事で記した、小金井街道脇にあった開渠はどこにつながっているのか。そして結局石神井川の源流はどこなのか。これらについては、説明が長くなりそうなので、回を分けて次回に記すこととしよう。予告として、石神井川上流域の水系図を最後に載せておく(google map 地形図を使用)。

下の地図が現在残る水路や暗渠。青のラインが石神井川、ピンクのラインが玉川上水からの分水。オレンジのラインが先ほど辿ってきた「下水道管理通路」だ。
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そしてこちらが、かつてあった水路も含めて記した水系図だ。
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本文は数日中に公開する予定なので、しばしお待ちを。

(つづく)
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by tokyoriver | 2011-07-31 21:33 | 石神井川とその支流 | Comments(8)
(前回からのつづき)
次に訪れたのは16年後の2009年。前回と同じく花小金井駅から、上流端の標識へと向かう。途中横切る鈴木用水(玉川上水鈴木新田分水)も様子をうかがってみる。小平市では用水路の大部分は保全していく方針となっているので、一見今にもなくなってしまいそうな、こんな轍のような水路が残されている。
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久しく水の流れた形跡はないが、芥止めの柵もそのまま残されている。これらの水路の末端はかつて石神井川に流れ込んでいた。ここにもかつて動脈と静脈の関係があったのだ。
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16年ぶりの、小金井公園北側の、上流端。
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白濁した水はなくなっていて、三面コンクリート張りの水路の底に刻まれた溝にわずかに水が流れている。普及の遅れていた石神井川上流域の下水道は、この間に分流式で整備されて、川に下水が流れ込まなくなった。その分、水量はほとんどない。
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上流端の少し先では、右岸側の護岸に穴が開き、水が流れ込んでいた。
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すぐわきの小金井公園の敷地には、鬱蒼とした木々に囲まれた池がある。ここからの水が流れ込んでいるのだろうか(実はこの近隣には他にも現在の石神井川の「主水源」がある。それについては次回記事で)。
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池の傍らの区間は、三面コンクリート張りではなく、川底に土が露出していた。ただ、こんな上流だというのに水路はかなりの深さに掘り下げられており、背伸びをしないと川底が見えない。写真は背伸びの上にカメラを持った手を伸ばして撮影したもの。
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コンクリート蓋の区間はそのままだった。
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嘉悦大学の敷地に突き当たる。
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嘉悦大学の脇の開渠は残っていたが、水は枯れ果て、すっかり空堀となっていた。嘉悦大学自体も警備が厳しくなって、門は閉ざされており流路の先が現在どうなっているのかを確認することはできない。
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さて、前回たどったのはここまでだったのだが、この間に、インターネットの普及により、流路を検証する手立ては大きく変った。最大のツールは詳細まで判読できる地図や空中写真だろう。google mapを見ると小金井カントリー倶楽部内、ちょうどかつて石神井川の源流部があったと思われる谷に沿って、水路が描かれている(下図ピンク枠内。埋め込みができないのでキャプチャ。直接googlemapで見る場合はこちらを
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ピンク枠内を拡大して航空写真で見てみると、地図に描かれているよりも更に上流まで、水路がしっかり写っている。今でも水が流れているように見える。
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国土地理院の国土変遷アーカイブで戦前から1970年代にかけての空中写真を見ても、同じ場所に石神井川の流路が写っている。ネットの資料ではないが、1970年代前半の地図にも水路が記されていた。
鈴木町の源流が枯れた後長い間、小金井カントリー倶楽部内の湧水が源流であった時期があったというから、この小川はもともとは石神井川源流の流れであったのだろう。小金井カントリー倶楽部は会員制のゴルフ場の中でも格式が高いそうで、中に入ることはできず直接確認することができないのだが、様々な情報から推測すると、現在はカントリー倶楽部内の湧水は枯れていてまた現在流れている水は人工的なもので、また水路は今では直接石神井川にはつながっていないようだ。

そして、更に上流にも痕跡があった。カントリー倶楽部の敷地の中央を小金井街道が南北に横切っているのだが、ちょうど石神井川の流れる谷を横切るかたちとなっている。道が一番低くなる地点の道端。道路は盛土をして高くなっていて、敷地を見下ろすようになっている。
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道路の東側から見下ろすと、そこにはコンクリートに囲まれ、開渠があった。底には水が溜まっている。
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道路の西側にも、敷地を覗いてみると谷底にコンクリートで舛状に囲われた怪しい窪地が見えた。
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これらの窪地は石神井川の暗渠なのだろうか。その正体については、とある施設との関連が推測されるのだが、これについては次回記事の最後に記すこととしよう。

さて、石神井川のかつての水源は、この地点の更に西、小金井カントリー倶楽部の西側の窪地なのだが、かなりの遠回りをしないと辿り着くことができない。そのため、このときは小金井街道で力尽きてしまった。そちらを訪れたのはさらにその1年後、2010年となった。

(つづく)
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by tokyoriver | 2011-07-27 00:08 | 石神井川とその支流 | Comments(0)
この7月10日で、東京の水の「2009 fragments」バージョンを開設して2周年となりました。途中何度か中弛みしつつも続けてくることができたのは、他の暗渠好きの皆様のブログや、寄せていただいたコメントのおかげです。感謝の念に堪えません。東京の水オリジナル版から数えるとはや15年目、スローペースではありますが、今後も地味に更新を続けていく所存ですので、何卒よろしくお願いします。

今回は、石神井川の源流部を、18年前に訪問したときの写真からはじまります。
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石神井川は小平市、西東京市、練馬区、板橋区、北区にまたがって流れる、都内北部の代表的な中小河川だ。小平市花小金井南町1-2の小金井公園と小金井カントリー倶楽部の境界の地点に上流端の標識が立っている。ここが現在公式な「上流端」であるが、かつてはその源流はさらに西の、小平市鈴木町であったという。

旧滝野川区のエリアで育った自分にとっては、滝野川の地名の由来となった石神井川は、近所を流れているというわけでは無かったものの、比較的身近な存在であった。小学校4、5年の頃だったか、学生社刊の「北区史跡散歩」旧版に掲載されていた「石神井川の源流」の写真を目にして、いたく関心を惹かれた。
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(「北区史跡散歩」(学生社刊 1978年) より)

川と比較できるものが写っていないのでどのくらいの川幅なのかさっぱり見当がつかないが、森の中から流れ出しているのか、水がたまっているのか、いずれにしても自然のままの姿と思われる川の姿がそこには写されていた。これを見て以来、石神井川の源流が気になっていた。

気になったまま時を経て1993年、思い立ってようやくその源流地帯を訪問した。西武新宿線花小金井駅を南側に出て、途中、多摩湖から境浄水場に至る水道管上に設けられた多摩湖自転車道(狭山・境緑道)を経由し南東へ700mほど。鈴木街道の両側を通る鈴木用水の遺構を渡り、都立小金井公園の中央を南北に横切る道に入ると、谷地形が現れる。谷底の、小金井公園への入り口脇に「石神井川 上流端」の標識があった。
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標識から東に向かって、梁の渡されたコンクリート張りの水路があった。幅、深さとも意外とあり、白濁した水が流れていた。小平市東部は下水道整備が遅れており、この頃はまだ川に汚水が流れ込んでいたようだ。上流端の雰囲気にはあまりそぐわない汚れた水は、覚悟はしていたものの残念であった。
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上流端の標識の西側には小金井公園の敷地に沿ってコンクリート蓋の幅広の暗渠が続いていたので、さらに上流へと遡ってみる。
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暗渠を100mほど遡ると、嘉悦大学の境内で蓋がとれた。
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その先には、護岸のされていない自然のままの水路が残っていた。
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残念ながら、そこを流れる水は先ほどと同じく白濁していたけれど、水路自体は「北区歴史散歩」掲載の写真のイメージに近く、源流にふさわしい。
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嘉悦大学と小金井カントリー倶楽部の間を流れる水路を200mほど遡ると、カントリー倶楽部の柵の向こうになってしまった。柵越しには、かなり古そうな、トンネルのような暗渠から流れ出る石神井川が見えたが、その先の様子は木の茂みに隠れてわからない。このときは、ここまで辿って終わった。
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次に現地を訪れたのは更に16年たった、2009年。前回と同じく花小金井駅から、上流端の標識へと向かった。

(つづく)
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by tokyoriver | 2011-07-23 22:41 | 石神井川とその支流 | Comments(6)
前回に引き続き、国分寺崖線から丸子川に流れ込む湧水起源の水路を遡ってみよう。
今回取り上げる小流は、23区内唯一の渓谷として有名な等々力渓谷のすぐ隣りの小さな谷を流れている。今回訪問した時点では、合流点では水が枯れていたものの、しっかりとした水路が残っていた。そしてこの水路は地図にも描かれていて、仙川傍流の記事の場所と同じく、前々から気になっていた場所だ。
丸子川が、等々力渓谷から出てきた谷沢川と交差する地点の少し上流側。護岸の間に渡された不思議な青いパイプの向こうに天神橋が見える。今回辿る水路は、その橋の直下で丸子川に接続されている。
ちなみに丸子川と谷沢川の交差、サイフォン式にでもなっていれば面白いのだが、現在では実際には丸子川が谷沢川の上流側と下流側に分割されていて、上流側の水は谷沢川と合流して南下し、下流側については改めて谷沢川から揚水して流している。
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天神橋のたもと、「浄音寺坂」の道に沿った真新しく丈の長いコンクリート蓋暗渠は橋の歩道と連続していて、暗渠とは気づきにくいかもしれない。
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だが、少し遡ると、古びたコンクリートの橋が、ここが暗渠であることをはっきりと主張している。自転車の先は町工場で、暗渠上は作業場所になっていた。
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坂が少し傾斜を増す地点で蓋は一旦終わり。暗渠は坂沿いを離れ、未舗装の私道と墓地に挟まれた空間へと分かれて行き、辿ることができなくなる。暗渠上の柵の中を見てみたが水が流れている様子は伺えない。
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未舗装道の脇(前の写真の中央奥の植え込みのところ)には、古そうな川本式ポンプ井戸が佇んでいた。
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暗渠から分かれた坂道を登って、フの字で水路の流れる谷筋を横切る道へ回りこんでみた。浅い窪地の底に降り立つ。
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谷底から下流側を見ると、おなじみの寂れたコンクリート蓋が並んでいた。何ヶ所か柵もあって、こちらからも侵入は出来ない模様。
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上流側を振り返ると、野菜の無人販売所の傍らに錆びた短いガードレール。その奥にはコンクリートの欄干。
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傍らに花咲くバラの刺を避けながら中を覗き込むと、コンクリート3面張りに梁を渡したおなじみハシゴ式水路があった。水は流れていないが、湿っている。
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再度コの字で上流へと回り込んでいく。先の道から1本北側の道から水路を眺めてみる。下流側は水がないが・・・
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上流側には水が流れていた。特に汚水は流れ込んでいないようだ。護岸の苔が水々しい。水路を下ってきた水は道路の下で下水か雨水菅に落とされてしまっているようだ。
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更にコの字に遡っていくと、水路の上流端らしき窪地に出た。水路は写真真中やや左寄りに見える水色の柵から左(南東)に向かって流れている。
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柵から水路を見る。右岸側につながれた雨水溝から水が流れ込んでいた。汚れてはおらず、泡だったりもしていないが、湧水なのかどうかは判断がつかない。
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道を挟んで水路の反対側を見ると、民家の前に「湧水」と刻まれた「てくたく」の石碑が立っていた。
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民家と石碑の間の、柵に囲まれた空間を覗き込んでみると、中には水が溜まっていた。もともとは近隣の洗い場だったのだろう。澄んではいるが、水面に動きはない。涸れてしまったのだろうか。
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しばらく眺めていると、洗い場の傍らの民家に暮らしているらしき人がやって来て、話しかけてきてくれた。湧水はここで湧いているわけではなく、裏手の擁壁の下に湧き出した水を、パイプでここまで引いてきていたものだという。向いの水路の水源について尋ねると、ここから溢れた水が流れ込んでいたとのお答えで、この湧水が川の水源だということになる。
そして、最近その擁壁を作り替える工事があって、それ以来湧水が止まってしまったそうだ。施工業者は、2〜3週間したらまた水が出てくるはずだと言ったけれど、まだ全然出てこないんだ・・・と仰っていたので、工事があったのは数週〜数ヶ月前くらいなのだろうか。
西側の敷地が更地になっていたので、問題の擁壁を見てみた。写真左側の灰色の真新しいコンクリートが問題の擁壁のようだ。側面には水抜きの穴が点在している。湧水の洗い場は写真右端となる。斜面を階段状に造成して住宅を立てたことがわかる。
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擁壁の背後は木が疎らに茂る斜面となっていた。googleの空中写真を見ると、数年前まで斜面の木々は鬱蒼としていて、手前の更地も邸宅になっていたようだ。今後の更地の開発次第では、擁壁工事だけではなくって、そんな環境の変化も湧水に影響を及ぼしていくかもしれない。まずは擁壁からの湧水が見込み通り復活することを祈りたい。
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最後に例のごとく段彩図を。(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)
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図中央、等々力渓谷(谷沢川)の西側の、短い青いラインが今回たどった水路だ。等高線をみると、この界隈では国分寺崖線は2段構成になっていて、上段と下段の境目から湧き出す水が水源となっていたように見える。水路の延長線上、上の段丘上には野毛大塚古墳の等高線が浮かび上がっている。そして流れが丸子川に合流する直前の東側、谷沢川との間に挟まれた丘の上にもかつて「天神山古墳」があった。源流の洗い場は、かつては近隣の農家が利用していたというが、古墳をつくった古代人たちもこの湧水を生活に利用していたのだろうか。
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by tokyoriver | 2011-07-07 23:04 | 丸子川とその支流 | Comments(6)