東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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先月はおやすみしましたが、今月は「みちくさ学会」の記事を書くことができました。テーマは「消滅」。最近なくなってしまった2つの橋と1つの暗渠についての、エッセイのような記事です。いつもよりも軽めの記事ですが、よろしくおねがいします。
現地の状況を知るきっかけとなった庵魚堂日乗さんとA Midsummer Night's Holeさんの記事に、感謝の意を込めてリンクさせて頂きます。

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49,067,550円で消えた88年間の歴史。
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by tokyoriver | 2011-12-21 11:00 | お知らせ | Comments(2)
深大寺用水東堀・入間川シリーズの3回目は、上流の方に戻って東堀から分かれて野が谷の東縁を流れていた分流と、入間川の源流部を追っていこう。下の地図で、オレンジ色のラインで区切った区間が取り上げるおおよその範囲だ(用水路の全体の地図は第1回に掲載)。
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入間川源流地帯と、東堀分流

下の写真は1回目で取り上げた、野が谷の谷頭付近のすぐそば。右奥へと下るやや太い道が谷の真ん中で、奥のほうに入間川源流地跡の碑が設けられている。そして手前から左奥へと回りこんでいく道に沿って、深大寺用水東堀の分流が流れていた。深大寺用水東堀の本流とこの水路で、野が谷の谷の両縁を、入間川(いりまがわ)の源頭部をはさみ込むように流れるかたちとなっていた。
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入間川(大川)源流地跡の碑。野が谷の谷筋の源頭部には、諏訪久保という小字名がつけられていた。1回目に取り上げた諏訪神社に由来するものだろう。碑に記されているように、入間川はこの辺りでは大川と呼ばれていた。そもそも入間というのはかなり下流部の地名(旧村名)で、川がその名で呼ばれるようになったのはかなり最近のことではないかと推測されている。碑の立つ深大寺東町8−13近辺と、500mほど下流の深大寺東町6−31付近には「釜」と呼ばれる地中から水の湧き出る地点があっておもな水源となっており、川沿いにはその水を利用した水田が古くから開けていて、江戸時代には「野が谷たんぼ」と呼ばれ深大寺村の耕地となっていた。

だが、1855(安政2)年の安政大地震で「釜」の水涸れが起こり、野が谷田んぼは壊滅状態となった。当時は一帯は天領で年貢が少なかったことから、干上がった田んぼは畑に転用されていたようだ。しかし明治維新後品川県に編入されると課税が強化され、水枯れの影響を受けなかった村の他の水田の負担が重くなり、野が谷田んぼの復活が急務となった。これが、1871(明治4)年の深大寺用水開削の直接の契機となった。

その後、釜の湧水は復活したが、震災前の水準には戻らず、水源の碑近辺の釜は戦前には枯渇した。一方で、東町6丁目付近の釜は1960年頃までは水をたたえていたとの証言もあり、確かに戦後の航空写真や地籍図でもその姿が確認できる。しかし61年から野が谷田んぼは埋め立てられて住宅地となり、「釜」があった場所にも住宅がたち全く面影はない。
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谷の東縁に沿って流れていた深大寺用水東堀の分流は、幅は1mにも満たない細い流れだったという。東縁の斜面は西縁よりも急で、谷頭付近では森林になっていた。現在でもその名残の竹林が残る一角がある。斜面下の道沿いに、かつて東側の分流が流れていた。道の右側の住宅地は50年前までは一面の水田だった。
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分水路や入間川には随所に堰が設けられ、水田や、入間川との間を結ぶ横向きの水路を介して、水をジグザグに行き来させて水田を潤していたとのことだ。冒頭に載せた地図には主水路しか記していないが、実際には細かな水路が複雑に張り巡らされていた。下は1955年ころの地籍図に描かれた水路を、全てではないがだいたいプロットしてみた地図。深大寺用水の2本の流れの間はすべて水田だった。また、用水と入間川の流れの間にも更に水路が並行している。そして「釜」が健在であることもわかる。
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かつての入間川の流路である「野が谷通り」には、ほとんど川の気配はないが、2ヶ所ほど不自然な歩道が設けられている。写真の場所は消防大学通りを越えた地点。この歩道の区間は1980年代初頭まで開渠だったようだ。
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そして、歩道が突然尽きる地点の住宅地を裏側に回りこむと、なんと深大寺用水東堀分流跡の路地が残っていた。路地の両端は実質的に行き止まりとなっていて、途中数カ所、出入りできる場所があった。
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北端に近い地点から入り南下していくと、未舗装の路地になる。水路を埋め立てた後に作られたU字の側溝が続いている。
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進んでいくと、雑草の中に轍の残る、足を踏み入れるのに躊躇するような空間に。そんな場所だけど、勝手口が設けられている家もあって、一応通路として機能はしている様子。
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途中で通り抜けを断念、暗渠路地を離脱して、下流側の出口へと回りこむ。入り口には木が生え、侵入を拒んでいる。手前の道を左に進むと、入間川の暗渠道である野が谷通りを横切り、前回の最後に取り上げた暗渠路地へと出る。横切る地点から下流(南東)側の野が谷通りには、もう1箇所の「不自然な歩道」がある。こちらも80年代頃まで開渠だった区間だ。
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余水を回収する二段水路へ

ここで再度、前回の記事最後の暗渠路地に戻る。前回も少し記したが、この暗渠路地は、いったん入間川に落ちた深大寺用水の水を再び回収する水路のひとつの痕跡と思われる。
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なぜそんなことをするのかというと。入間川中下流の中仙川村、入間村などは深大寺用水の水利権をもっていなかったためだ。深大寺用水東堀は、深大寺村のほかは、金子村、大町村、覚東村と、いずれも入間川の谷筋ではなく、野川方面の低地に水田を持つ村が水利権を持っていた。そこで、深大寺用水から野が谷田んぼに引かれた水の余りはすべて深大寺村内で回収され、尾根を越えて金子村方面へと送水されていたのだ。
少々わかりにくいので、この水を回収する仕組みが設けられているエリアをクローズアップした地図を。太いラインが今でも何らかの痕跡のある水路、細いラインは現在まったく痕跡のわからない水路だ。中央を横切っている太い道路は「原山通り」で、比較的近年につくられた新しい道だ。図の上端、分水路と記してあるラインが先ほどの細い暗渠、中央の水色のラインが、余った水を回収する水路となる。深大寺用水は野が谷のいちばん西側、少し高くなったところを流れている。両者は「二段水路」を経て合流し、水車を回した後、隧道で丘陵を越えて入間川の谷を脱していく。
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余水回収水路の暗渠路地は、原山通りを斜めに横切ってさらに続く。このしばらく先からは侵入できなくなるが、暗渠(水路跡)は南へと続いている。
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さて、原山通りを40mほど北東にシフトすると、原山交差点のそばに、入間川の暗渠の続きの入り口がある。このガードレールより下流側は、コンクリート蓋の幅の広い暗渠が出現し、ようやく入間川が川としての体裁を持った姿で現れるかたちとなる。
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ぐぐっとカーブする蓋暗渠。幅は結構広い。
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入間川の暗渠沿いは緑が色濃く、そして妙に亜熱帯っぽい雰囲気を漂わせていて面白い。南向きで、周囲の家々も低いので、木々が茂っている割には妙に日当たりがよいのも特徴的だ。
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クワズイモに蕗の葉。先ほどの地図にも記したが、この辺り(深大寺東町3−30)に入間川に落とした水を最終的に回収する堰があったという。この少し先からは中仙川村(現在の三鷹市中原)となって水利権がないからだ。先の地図にも記したが、この堰から150mほど下ると、仙川用水が合流していた。中仙川村は仙川用水の水利権は持っていて、入間川に流れ込んだその水を、水田に引き込んでいた。しかし、貴重な水を巡る綱引きは激しく、田植えの時期になると、夜暗に乗じて中仙川村の人が深大寺用水の水を奪うために、堰を切りにきたという。これを防ぐために、堰には下流の金子村の人たちが、夜通し見張り番をつけたという。これが決して明治期や戦前の話ではなく、昭和30年代、水田がなくなる直前まで続いたというから、驚きだ。
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堰から引きこまれた水は、さきほどの回収水路に合流していた。その回収水路が東掘と合わさる手前の水路跡。先の地図中央で、水路が西に折れ東堀の方に向かう手前の地点だ。侵入は厳しいがしっかり空き地となって残っている。
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水路が折れるところ。左から暗渠がきて、車道に出て直角に手前に曲がるのだが、水路の幅の分、急に歩道スペースが現れているのがわかる。
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回収水路は写真手前から。そして、右奥からの道がかつての深大寺用水東堀本流のルート。ここのT字路で、水路は両方共直角に折れ、左方向へ流れていた。ここにはかつて「二段水路」もしくは「二重水路」と呼ばれる、谷筋から水を回収する仕組みがあったという。余水の回収水路は、深大寺用水本流よりも低いところを流れていたために、本流の下(隣り?)に掘られた、ローム層を繰り抜いた隧道を通って高さを調整し、東堀に合流していた。隧道の長さはおよそ50mほど。先の地図で2つの水路が隣り合って平行している区間がそれである。村の境界ギリギリまで水田を潤しつつ、一滴の水たりとも権利のないエリアには流さないという執念が二重水路を生み出したのだろう。現在その痕跡は全くなく、土地も造成され以前の高低差がよくわからないのでどのような水路だったのか想像しがたいのが非常に残念だ。
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二重水路の合流地点のすぐ先には「内野水車」があった。深大寺用水は、開通当初は田用水として、稲作の時期のみ通水していたが、1878(明治11)年に水が通年流れるようになり、水車などにも利用できるようになった。「内野水車」が設置されたのは1882(明治15)年。主に精麦を営んでいて、「水車仲間」が決められた料金を支払って使っていた。
写真はかつて水車があった場所。中央を奥に進む道沿いに深大寺用水の本流が流れていた。水路は幅1m弱で両岸に1mずつの土揚敷があったという。そして、左手前から、水車に水を引くための分水路が左側に分かれていた。こちらも幅1m弱。そして、写真正面の畑のあたりに水車小屋があった。水車を回した水は、その先数十mほどで、再度本流に戻されていた。
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水車の直径は最終的には5mほどのものとなり、1942,3年頃まで稼働していたという。水車が廃止となったのは、戦時下の食料統制のため精麦ができなくなったからだというから、都区内の水車の廃止事情とはちょっと異なっている。

水車を回した後、深大寺用水は開削時の最難関であった隧道区間に入っていく。

(つづく)
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by tokyoriver | 2011-12-17 23:22 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(6)
前回に引き続き、深大寺用水東堀を下っていく。水路が入り組んでいるので、地図に前回とりあげた区間と今回記事にする区間を記した。いずれもたどっているのは深大寺用水東堀の本流、野が谷の谷の西縁を流れていた水路の跡である。
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三鷹通りを越えると、ほとんど車が通らないのに、両側に歩道がある道が、谷戸の段差に沿って曲がりながら続いている。西側の、段差に沿った歩道が水路の跡だ。地図を見るかぎり、1970年代前半までは、開渠で残っていたようだ。
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舗道上には、通常L字溝にありそうな四角い枡の蓋。そして縁石にも雨水枡のところに不自然な凸み。コンクリートの擁壁の水抜き穴からは水が流れでた跡が染み付いている。
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暫く行くと歩道が消滅して川跡が不明瞭になるが、古地図を見ると、そのまままっすぐに流れていたようだ。水路脇には暗渠沿いにつきものの銭湯が登場。用水沿いの水田は1960年代初頭に埋め立てられ野が谷団地(団地といっても戸建ての宅地)となったのだが、その頃に出来たのだろうか。銭湯の周りは商店がいくつか集積していて、小さな田舎町の駅前のような雰囲気。
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銭湯の先、深大寺用水はコの字型に西側にはみ出して、TM家邸宅の中を通っていた(冒頭地図の中央やや右下)。深大寺用水が個人宅の中を流れるのは、東堀ではここだけ、西堀では用水の開削に尽力した富沢家及び佐須村のTK家の3ヶ所しか無い。富沢家以外の2つの家も用水開削にあたり多額の費用を負担したのだろう。現在もTM家の邸宅は健在のようだ。そして南側に進んでいくと、突然コンクリート蓋暗渠が現れる。
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コンクリート蓋の始まる地点を下流側から見たところ。左奥の木の茂みの先がT家邸だ。かつて水路は左側の路地から直角に曲がって蓋暗渠となっている区間につながっていた。
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蓋暗渠は隙間もなくはめられていて、遠目には普通の歩道に見えなくもない。浅い谷戸の西縁に沿って自然に蛇行する様子はなかなかだ。ぴったり沿っているのは、谷戸を囲む丘の上から流れこむ雨水を余すところ無く取り込み利用するといった意図もあったという。
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所々には鉄製の蓋が設けられている。
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谷戸の斜面から暗渠状に降りる階段もぽつぽつ。浅く緩やかな谷なので、あっても短いものが多い。境目の植物が彩りを添える(写真は上流方向に向かって撮影)。
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道路を越えるところは橋のような一体型のコンクリート。ボックスカルバートが埋められているのかもしれない。
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下って行くにつれ、いつの間にか暗渠の幅が広くなっている。先ほどの鉄蓋は長方形が2枚だったのが、ここでは正方形が2枚。用水路ならば、幅はあまり変わらないはずなのだが、雨水や湧水も取り入れていたからなのか、それとも排水路化先した後の変化なのか。そばではスズメが草叢をつついていた。
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原山通りの手前で再び蓋暗渠は姿を消す。かつて水路はこのまま直進した後、やや複雑に曲がりくねって、「二段水路」、そして「隧道」へと向かっていたが、現在その痕跡はない。一方で、ここのすぐそば、写真中央の、道が右側にシフトする突き当りにある家の手前を左(北東)に下る道に進むと、別の暗渠(水路跡)が姿を現す。
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写真右奥が先ほどまでたどってきた蓋暗渠、手前左がその暗渠の道。クランク状(_┃ ̄)の位置関係となっている。右の家沿いには側溝とも暗渠とも言える幅1m弱のコンクリート蓋が先の暗渠から続いてきている。
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見るからに暗渠や川跡であることがわかる路地である。先の深大寺用水東堀から、東に20mほどずれて並行している。そして更にこの東20mに平行して、入間川の暗渠が流れている。この路地はいったん入間川に落ちた深大寺用水の水を再び回収する水路のひとつの痕跡と思われる。
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そこには水を巡るシビアな闘いが浮かび上がるのだが、その話は次回に。次回は上流方向に戻り、野が谷の谷戸東縁を通っていた深大寺用水東堀の分流と、入間川源流部の川跡をたどってからこの水路に戻ってみよう。


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by tokyoriver | 2011-12-09 00:26 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(0)
またもや久々の更新です。10月、11月としばらく間が開いてしまいましたが、今月から何とかペースを取り戻したいと思います。今回から何回かにわたって、かつて三鷹市から調布市にかけて流れていた玉川上水の分水「深大寺用水」の暗渠/川跡を、関係の深い野川の支流「入間川」とあわせて紹介していきます。深大寺用水に関連する水系は、東京の水2009バージョンを再開する前から探訪を重ねていたのですが、なかなかに奥が深くて、記事にするタイミングを測りかねていました。先日久々に現地を訪れ、またも新たな発見があったりしたので、思い切って記事を開始してみることにします。

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まずは関連する水路の全体を地図で見てみよう。深大寺用水の玉川上水からの取水口は、流末の京王線つつじヶ丘駅付近から遡ること約30km、昭島市つつじヶ丘(!)の松中橋のたもとだ。といってもここから分水されているのは「砂川分水」(地図上部を玉川上水に平行して横切るオレンジ色のライン)だ(※この分水口については、柴崎分水の記事中に写真を掲載)。砂川分水は五日市街道に沿って、一旦玉川上水から離れた後に再び上水に接近して並行し、小金井分水(細いオレンジ色ライン)を分けた後、梶野新田分水(水色のライン)につながり南下、そしてその末端に深大寺用水がつながっている(青いライン)。(※なお、小金井分水と梶野新田分水の間を縫うように折れ曲がって通っている青緑のラインは仙川の上流部で、悪水路として機能していたと思われる。)
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「砂川分水」は1657(明暦3)年と、玉川上水開通のわずか3年後に開削されたかなり古い分水だ。また、「小金井分水」は元禄年間(1688〜1704年)、「梶野新田(呑用水)分水」も1734(享保19)年頃と江戸時代中期以前に開通している。これらはいずれも開通当時は玉川上水から直接取水されていたが、1870年(明治3年)、玉川上水通船事業に伴う分水口の統合が施行された際に、玉川上水右岸(南側)側は砂川分水が上水沿いに延長されて、各分水の分水口はそこに接続され、その分だけ砂川分水の取水口での取水量が増やされた。
「深大寺用水」の開削はその翌年の1871年。砂川分水の取水口は、更に深大寺用水に流す水の分も広げられ、深大寺用水に至るまでの水路も拡幅された。そんな訳で、砂川分水の中下流部まで含めて深大寺用水と呼ばれる場合(国土地理院の地図などで表記)や逆に下流部まで砂川分水と呼ばれる場合もあるようだが、ここではひとまず、新規に開削された"狭義の意味"での深大寺用水、つまり、梶野新田分水の末端より下流側をたどっていくことにする。

なお、砂川分水の区間も含めた広義の深大寺用水については、本サイトからもリンクを貼らせていただいてるimakenpressさんが丹念な調査結果に基づいた記事を書かれている。推測の部分もほぼ同意できるし、とても読みやすくまとめられていておすすめだ。

下の地図は"狭義の意味"での深大寺用水の流れるエリアをクローズアップしたもの。図の左上が梶野新田分水の流末で、それにつながる深大寺用水はすぐに西堀と東堀の二手に分かれる。中央に向かう青ラインが深大寺用水東堀、いったん神代植物公園方面に南下した後東進しているのが西堀だ。東堀上流部では入間川の水源を挟んで二手に分かれている。紫色のラインと濃い緑のラインは自然河川。深大寺用水東堀と付かず離れずの位置に流れるのが入間川である。黄緑色のラインは「仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)」に関連する水路。一見、品川用水から分水されているようにみえるが、実は仙川用水は品川用水よりも古く、分岐点まではもともと仙川用水だったといわれている。用水は途中入間川の流れを利用した後、再度そこから分かれて野川に注いでいる。深大寺用水東堀の下流部は、この仙川用水流末をそのまま利用している。仙川用水は情報が少ない上に、資料によって記述が異なったり名称の紛らわしさによる混乱も見られ、未解明な点も多い。その存在は深大寺用水/入間川の水路の変遷の謎解きを複雑なものとしている。追々記事の中でふれていく。
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深大寺用水は、先に記したように1871(明治4)年に開削された。水路開削の発端は1855(安政2)年の安政大地震で「入間川」の水源の湧水「釜」が地震の影響で止まってしまったことにある。これらの経緯についても追々触れていく。用水は戦後しばらくまでの間は利用されていたが、昭和38(1963)年2月に水利権組合である「砂川村外七ヶ村用水組合」が解散してその役割を終え、排水路化したり埋め立て・暗渠化された。現在残っているのその痕跡を以下、たどっていく。
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人見街道と武蔵境通りが交差する三鷹市野崎交差点の北西、梶野新田用水(の野崎分流)であった区間の流末。ここだけなぜかコンクリートの蓋暗渠が残されている(09年3月撮影)。このすぐ先、野崎交差点から深大寺用水が南下していた。
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野崎八幡の北側で武蔵境通りと別れてまっすぐ南下していく(写真左側の道)。70年代までは埋もれかけた水路が残っていたようだが、現在は歩道となっている。写真は2008年6月撮影のもので、現在は武蔵境通りが拡幅されている。
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水路跡の道は東八道路を越え、ドン・キホーテの脇を南下していく。この区間は痕跡らしきものは見当たらない。強いて言えば、ドン・キホーテ敷地と道路の間にある、所々に木の生えた帯状の空き地だろうか。深大寺用水はこの先で、T字で「東堀」と「西堀」の二手に分かれていた。西堀は一旦分かれた武蔵境通り沿いに再び戻り、深大植物公園の方へ流れていく。そして今回追う東堀は、東の入間川源流地帯へと向かっていく。
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水路の分岐点だったT字路を東に向かうと、道路から分かれた水路との敷地が姿を現す。入り込むことはできないが、周囲を回りこんでいくと、民家の裏手を抜け、佐川急便の配送センターの敷地内では砂利敷となって残っているのが見える。
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佐川急便配送センターの東側の水路跡はこのような未舗装の路地となる。ここは抜けられる。
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抜けた先、カクンと短い坂を降りると、入間川源流の浅い谷戸「諏訪久保」の突端に出る。水路はかつてここで更に二手に分かれ、谷戸の中央を流れていた入間川を囲むように、谷戸の東縁と西縁を南に降っていたという。谷戸は水田となっていて、入間川は水路から田に引き入れた水の排水路の役割を果たしていたようだ。入間川源流と東縁の水路はいまやほとんど痕跡を残していない(次々回あたりでとりあげる予定)が、西側の水路は70年代頃まで排水路として残っていたようで、この辺りでは不自然な歩道にその面影を残している。
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不自然とはどういうことかというと、車道と歩道の段差がやけに高いのだ。段差は護岸状のコンクリートとなっていて、穴を埋めたような跡もある。
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沿道の家の出入り口などでは、歩道の路面はスロープがつけられているが、このコンクリートはそのまま高さを保った後にバッサリと切り取られている。この様子から察するに、コンクリートはもともと水路があった頃から存在していて、護岸の役割を果たしていたのではないかと思う。
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歩道の上には古びたコンクリートのマンホール。
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道路はそのまましばらくまっすぐ南下していくが、水路は地形に沿って東にそれていく。ちょうどそれに合うように歩道が尽きて、東(写真左奥)に雰囲気のある水路跡の道が下っていく。
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水路跡の道は、諏訪神社の脇を緩やかに下っていく(流れは写真奥から手前)。諏訪久保の地名はこの神社に由来するのだろう。そしてここにはかつて水車が設けられていたそうだ。
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そして諏訪神社の参道入口で三鷹通りに出る。白い車止めがささやかに水路跡を主張している。ここから先、コンクリート蓋暗渠や二段水路跡、隧道跡など興味深いポイントが続くが今回はここまで。
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(つづく)
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by tokyoriver | 2011-12-04 23:39 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(6)