東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

<   2012年 02月 ( 3 )   > この月の画像一覧

前回に引き続き深大寺用水西堀3回目の記事。最後となる今回は甲州街道以南、野川に合流するまでの区間をとりあげる。まずは地図を(google mapにプロットしたものをキャプチャ)。青い線と黄緑の線で用水路、紫色と水色の線で自然河川を示している。たくさん水路があるように見えるが、野川と、入間川の甲州街道以南の区間以外は全て現存せず、暗渠化されているか、埋め立てられている。
c0163001_2314352.jpg

深大寺用水西堀は、甲州街道の南側からコンクリートの蓋がけ暗渠となっている。暗渠沿いには植え込みが設けられ「菊野台緑道」といった名前もつけられているようだ。
途中からは、前回記事最後にとりあげた厳島神社からの流れと合流する。そちらは普通の舗装された道となっていて、一見水路跡とはわからない。この辺りより下流は、厳島神社からの川(かんがい用水)をそのまま利用している(地図で紫色となっている区間)。東堀の記事でも触れたように、甲州街道南側には西堀と東堀の間に網目状に水路が分かれて流れているが、これらは深大寺用水開通以前からすでに存在していた。それらは17世紀後半に開削された仙川用水(上仙川、中仙川、金子、大町四ケ村用水)の末流にあたる。深大寺用水東堀はその水路を利用している(地図で黄緑色となっている区間)。
c0163001_231441100.jpg

やがて暗渠は、緑道からガードレール付の歩道に変わる。護岸のあったところにそのまま蓋をしているせいか、並行する路面より高くなっている。橋のような痕跡もある。水路の左岸側(東側)は、かつての字名を曲田といい、東堀との間に水田が細長く伸びていた。(写真は上流方向を振り返った様子)。
c0163001_23144470.jpg

しばらく行くと、京王線の線路につきあたる。水路はそのまま線路の下を抜けているようだが、踏切も何もないので、反対側(南側)にはぐるっと迂回してまわりこむこととなる。
c0163001_23144756.jpg

線路の反対側は、周囲が空き地になっていて鄙びた雰囲気だ。
c0163001_23145112.jpg

暗渠上、線路際に設けられたマンホールには「うすい」の文字。雨水幹線として扱われているのだろう。
c0163001_23145627.jpg

夏は両脇は雑草が生い茂っている。周囲の緑がかつての水路の様子を偲ばせる。
c0163001_2314594.jpg

その先は、S字に蛇行しながら蓋暗渠が続いている。こちらは菊野台第2緑道と名付けられている。
c0163001_2315891.jpg

両岸の植え込みはそれなりに手入れされている。暗渠上には所々に鉄蓋があった。こっそり開けてみたが、水路に水は流れておらず乾いていた。
c0163001_23152246.jpg

深大寺用水西堀は、京王線の南側から、深大寺用水東堀の分流「大町堀」と40mほど離れて並行して流れていく。2つの水路の間は線路の北側からつづく、字「曲田」。その名の通り、流路にそって曲がった水田となっていた。この水田のところは金子村が大町村にプラグ状に食い込んだかたちとなっていた。
下の地図に、1955年ころの深大寺用水流域の水田と旧村名を示した。黄緑色に塗ったエリアが水田だった場所、黄緑色のラインは深大寺用水東堀(かつては仙川用水末流)の水系だ。この金子村の食い込みの他にも、深大寺村の飛び地がぽつりとあったりと、村々(神代村への統合後は大字か)の境界線はいりくんでいた。なお、西堀が京王線を越えたあたりから南西〜南に水路が分かれていたとの推測もあるようだが、そのような水路は資料や地籍図からは確認できない。地図からわかるように、大町村の水田は野川沿いに集中しており、そちらは野川から分水した通称「野川大町用水」を利用していた。地図では簡略化して記したが、実際には網の目状に水路が張り巡らされていた。野川沿いにいくつか口を開ける排水口はこの用水路の名残だ。こちらの水田には深大寺用水の水は一切引かれていなかったという。
c0163001_23153132.jpg

品川通りに出て緑道は終わり、そこから先は普通に暗渠としての道が続く。畑の脇を抜けたり、花が咲き乱れていたりと、すこし長閑になってくるが、周囲の宅地化はここ数年でも進んでいるようだ。
c0163001_23154128.jpg

旧大町小学校の脇からは車道沿いを敷地にそって流れていく。大町小学校は1999年に、隣接する野川小学校に併合して調和小学校となった。すぐそばには旧大町村の鎮守社である八剱神社がある。14世紀の創建で、御神体は十一面観音像と、神仏習合の名残がみられる珍しい事例となっている。深大寺用水西堀は柴崎村、金子村、大町村の3つの村の鎮守社のそばを通っていることになる(柴崎、金子は前回記事参照)。
c0163001_23154795.jpg

この区間は、コンクリート蓋の並びが綺麗で印象的だ。こちらは上流方向に振り返った様子。脇に隙間のあるタイプが連なる様は蛇や竜のようにも見える。
c0163001_23155273.jpg

隙間から見ると、中の水路は梁を渡したコンクリート枠の水路で、蓋のすぐぎりぎりまで幅があることがわかる。
c0163001_23155757.jpg

旧大町小学校敷地の南東側で、暗渠は急カーブを描いて北に向きを変える。
c0163001_2316244.jpg

そしてS字に曲がって再び向きを変えた後は、野川に向かって南下していく。かつてはここで、ここまで並行してきた大町堀と合流していたが、大町堀の方は今では痕跡がなくなっている。
c0163001_2324718.jpg

調和小学校と東電の変電所の間を南下していく。川沿いに花壇があって気分を和ませる。
c0163001_23244461.jpg

ここは水路ですという看板があった。不法工作物とは何なのだろう。
c0163001_2325353.jpg

小学校の敷地の南西側に至ると、目の前に野川の護岸が見えてくる。
c0163001_23252368.jpg

そして野川に合流。蓋暗渠にもかかわらず合流地点は円管となっていて、弁が設けられている。
先の地図にも記したように、この辺りには野川から引かれた野川大町用水ともいうべき水路が幾筋かにわかれて流れており、大町田んぼと呼ばれた水田を潤した後、一部は西堀末流に合流していた。
c0163001_23254826.jpg

以上で、9回にわたり取り上げてきた深大寺用水を辿り終えたことになる。深大寺用水が開通したのは1871年。そして上流部の砂川用水も含めた「砂川村他7ヶ村水利組合」が解散したのは1962年2月だ。その水路が利用されたのは100年にも満たないが、その短い間には、水を巡る切実なドラマが数多く紡がれてきた。組合が解散して今月でちょうど50年。水路の大部分は失われ、流域の風景も激変して、もはや深大寺用水を省みる人はほとんどいない。今残る蓋暗渠などの痕跡も、近い将来その姿を消し、水路を巡る記憶もまた忘れ去られていくのだろう。

最後におさらいで、梶野新田用水から分流して以降の、全体の地図を掲載しておく。
c0163001_23263422.jpg

深大寺用水本流の記事はこれでいったん終わりだが、次回からは、品川用水の前身であり、深大寺用水とも深い関係のある「仙川用水」の上流部、そして「入間川」の中流部以降の区間について、何回かに分け取り上げていく予定だ。今回、参照した文献も多岐に渡るので最後にそのリストも付け加えようと思う。今しばらくのお付き合いを。
[PR]
by tokyoriver | 2012-02-22 23:33 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(7)
前回に引き続き、深大寺用水西堀を今度は甲州街道付近まで追っていく。まずは今回のとりあげる区間の地図を(google mapにプロットしたものをキャプチャ)。青い線(深大寺用水系といわゆる佐須用水系)と黄緑の線(もと仙川用水系)で用水路、紫色と水色の線で自然河川を示している。たくさん水路があるように見えるが、野川、マセ口川、逆川以外の水路は全て現存していない。台地上を流れていた深大寺用水西堀水路は、晃華学園の南側で国分寺崖線を下り野川沿いの低地に出ていた(前回記事最後)。
c0163001_22445517.jpg

神代中学校の南側から出てきた深大寺用水西堀は、上ノ原公園の南側を東に下っていく。ここでも斜面の下ではなく中腹を横切っているのがいかにも用水路らしい。このあたりから流域は旧佐須村エリアから柴崎村エリアへと変わる。
c0163001_2245017.jpg

公園の先に進むと、生コンクリート工場の裏手に未舗装の水路跡が残っていた。
c0163001_2245470.jpg

上流方向を振り返る。奥右手に見えるのが上ノ原公園だ。水路跡が現れる地点からは、かつては南(写真左方向)に、柴崎村内を南下し野川に注ぐ細い分流があった。水田用ではなく、生活用水として引かれていたという。
c0163001_2245856.jpg

車道が崖線を登っていくのに対し、水路跡はその下を進んでいく。
c0163001_22451098.jpg

工場の先、コープとうきょうの裏手からは、とうとう開渠が現れる。
c0163001_22451529.jpg

近寄ることはできないが、開渠の始まりの地点には土管が口を開けている。水は全く流れていない。
c0163001_22451893.jpg

開渠の水路はゆったりとカーブを描きつつ東へ流れていく。この深大寺用水全区間を通じて唯一水路の残る貴重な区間がなぜ残されているのかよくわからないが、おそらくたまたま、なのだろう。既に役割を終えたこの水路はきっとそう遠くない未来に、気がつかれないうちに消滅してしまうに違いない。
c0163001_22452190.jpg

下流側に迂回してみると、そこはすでにコンクリート蓋の暗渠になっていた。
c0163001_22452589.jpg

緑色のフェンスの奥が暗渠、奥に見えるのは柴崎稲荷神社だ。左手からやって来た暗渠はかつてここで、崖線の下をまっすぐに進む水路と、神社の参道(手前)に沿って南に向かう水路のに分かれていたが、現在は南への水路だけが残っている。
柴崎稲荷神社はかつての柴崎村の鎮守社で、もとは天満宮山王稲荷合社と呼ばれており、その名の通り、天満宮、山王社、稲荷社を併せ持った神社であった。創建年代は不祥だが、少なくとも16世紀頃からこの地にあったようだ。崖線の斜面、長い石段を登った上に拝殿がある。雑木林に囲まれ鎮守の森にふさわしい立地だ。
神社の背後の台地上、現在マンションとなっている一角にはかつて日本針布の工場があり、戦時中は風船爆弾に使う和紙の風船をつくっていたという。そして一説によれば、この工場からの排水が1950年代末から深大寺用水西堀に流れこむようになって、一気に水質が悪化したという。同時期に東掘には、仙川用水経由で三鷹の工場排水が流れ込むようになり、金子田んぼの廃業につながったようだ。
c0163001_22452844.jpg

参道沿いに古いコンクリート蓋暗渠が歩道となって続く。柴崎村にはあまり深大寺用水を利用した水田はなかったが、ここの水路の両岸には戦後まで水田が広がっていた。特に左岸側、現在島田理化工業となっている敷地はすべて水田で、崖線沿いに分かれた水路から水を引き入れていたと思われる。
c0163001_22453118.jpg

100mほど南下すると、広い車道(中溝通り)に出る。コンクリート蓋はここで消えるが、かつて水路はここで再び東に向きを変え、甲州街道方面に向かっていた。現在は普通に舗装された歩道となっている。
c0163001_22453416.jpg

旧金子村のエリアへ入ると、中溝通りから脇道にそれる。緩やかにカーブする道に少しだけ水路の名残がある。ブロック塀の下の土留めが思わせぶりだ。
c0163001_224538100.jpg

水路跡の道は自動車教習所やワンダーシティ調布など商業施設の集まる一角の中を抜けて、甲州街道に突き当たる。そしてその南側から再びコンクリート蓋暗渠が始まる。写真は甲州街道南側から上流方向を望んだもの。
c0163001_22454152.jpg

ここから先、野川への合流地点までは次回に取り上げることとして、いったん柴崎稲荷神社の近辺まで戻ろう。神社の前で分かれた水路は、崖線の下を東進して、厳島神社の湧水池から流れ出す小川に接続していた。深大寺用水西堀下流部は、この小川の流れを利用している。厳島神社は柴崎神社から200mあまり東の、崖線下の窪地に立つ神社で、こちらは旧金子村の鎮守社だ。
創建年代は不明であるが、この地に土着し湧水を飲用や生活に利用していた人々が池端に祀った弁天祠が発祥となったといわれている。新編武蔵風土記稿には、この地に「牛首」と呼ばれる周囲7m、深さ6mの井戸のような水の溢れ出す湧水があり、童子が牛の首に乗って出現したという伝承が記されている。
c0163001_2245489.jpg

鳥居の右手には、小さな乾涸びた池が残っている。かつては崖線下に湧く豊富な湧水をためた130平米ほどの池があり、田用水に利用していたが、1960年代前半の社殿改築時にその大部分が埋め立てられてしまったという。古い地図を見ると神社本殿の周りにぐるっと水路を回してから流れだすように描かれている。
神社の周囲はかつて「経水山」と呼ばれ、池の水で弁慶等が大般若経を書写したという言い伝えも残っている(このような伝説は府中の「弁慶硯之水井」など各地にあるようだ)。しかし今では湧水はおろか水の気配は一切無く、崖線の上にはマンションが立ち並んでいる。
c0163001_22504218.jpg

東南東にまっすぐのびる神社の参道沿いには、暗渠が歩道となっていて、ところどころには小さな蓋が設けられている。
c0163001_2251145.jpg

歩道の尽きたところから、ごくささやかなものではあるが、小さなコンクリート蓋暗渠が現れる。何も知らなければただの側溝だが、かつてはここを湧水が流れていたのだ。
c0163001_2251391.jpg

更にその奥からは、水路はU字溝の開渠となる。水路自体の細さに比べ広く取られた左右の土揚敷のスペースは、かつて水が豊かに流れていたことを偲ばせる。
c0163001_2252246.jpg

その水路の行き着く先は突き出したマンホールだった…。かつてはここで、柴崎稲荷前で分かれた水路が左から来ていて、厳島神社からの流れに合流し右(南東)へ流れていた。
c0163001_2253913.jpg

この流路は車道になってしまっていてほとんど痕跡はないが、一部は車止めの設けられた路地として残っている。水路は甲州街道を越えた先で西堀本流と合流していた。甲州街道脇の本流と挟まれた区間は中溝と呼ばれる低湿地帯だったという。
c0163001_22534260.jpg


(以下つづく。次回で深大寺用水西堀編は完結します。)
[PR]
by tokyoriver | 2012-02-14 22:58 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(4)
前回まで6回にわたり深大寺用水東堀を辿ってきたが、こんどは深大寺用水西堀をたどってみよう。西堀は、現在の東八道路の南側の「水わかれ」で、T字に東掘と分かれ、深大寺村、佐須村、柴崎村、大町村を流れて野川に注いでいた。
深大寺用水東堀が、用水開削の直接の引き金となった野が谷田んぼや下流部の金子田んぼといった水田の灌漑用としての性格が強かったのに対して、西堀は上流部には水田はなく、下流部も比較的水に恵まれていた土地が多く、どちらかというと生活用水としての要素が大きかったように思える。「水わかれ」での水の配分量はおよそ5対3で西堀のほうが少なかった。
まず全体の地図を(google mapにプロットしたものをキャプチャ)。
c0163001_23544159.jpg

左上から中央を横切り右下に流れる青の太いラインが西堀本流だ。下流部は、厳島神社からの川(紫色のライン)を利用し、深大寺用水東堀流末(緑色のライン)と並行しながら野川に注いでいた。中央左の緑は神代植物公園だ。西堀からもいくつか分水が分かれていたが、それらは都立農業高校神代農場を水源とする「マセ口川(ませぐちかわ)」や深大寺を水源とする「逆川」、そしてそれらから分かれた灌漑用分水と絡み合いながら、国分寺崖線下の水田を潤して野川へと注いでいた。
西堀の上流部、台地上のルートは現在では1箇所を除いて全く痕跡が残っていない。一方で、崖線を下って野川沿いの低地に出た以降はコンクリート蓋暗渠や開渠水路などの痕跡が比較的残っている。今回はまず上流部の紹介となる。
c0163001_23544649.jpg

「水わかれ」から西に流れた西堀は、調布北高校の北西角で直角に曲がり、武蔵境通りにそって南下していた。かなり深い掘割となっていた箇所もあったというが、最近武蔵境通りが拡張されたこともあり、その痕跡は皆無だ。神代植物公園正門付近まで来ると、水路は再度直角に曲がり、神代植物公園の真ん中を横断するバス通りに沿って東進していた。正門付近では南側に向かって深大寺方面への分水路も分かれていた。こちらは深大寺周辺の湧水を集めるマセ口川に落とされていた。だが水が豊富であまり必要性がなく、1940年頃には水が止まっていたという。

ちなみに、「神代」は一帯の旧町名で、1889(明治24)年の町村合併施行時、新村名候補が「深大寺村」と「狛江村」に割れた末、妥協案として「神代」の字があてられ「じんだい」とも「かみよ」とも呼べるようにしたのだという。その後、戦後占領軍がローマ字表記を義務付けたときに、神代村役場が「JINDAI」と表記したことで結局「じんだい」となったそうだ。

バス通り沿い、神代植物公園を抜け、深大寺五叉路を過ぎたあたりから、何となく水路の名残が感じられる。不自然に、片側だけに設けられたガードレールの歩道。これがかつての水路跡だ。1970年代初頭の地図ではまだ水路が描かれており、その後埋められたか暗渠化されたのだろう。
c0163001_23545168.jpg

歩道の上には、調布市のマークの入ったマンホール。水路の痕跡なのか、それとも関係ないのか。
c0163001_23545564.jpg

歩道がなくなるところで、水路はバス通りを離れて南に向かっていた。写真奥に向かう道に沿って、かつて西堀が流れていた。
c0163001_23545853.jpg

緑の多い住宅地をゆるやかに曲がりながら進んでいく。水わかれからこの辺りにかけての集落はかつて深大寺村に属していたが、水利権を持っておらず、用水の水は利用できなかった。水路の清掃(川さらい)は下流部で水利権を持つ柴崎村から人が来ていたという。
c0163001_2355215.jpg

やがて水路は絵堂(えんど)地区に入る。突き当りの森は、深大寺用水の開削を主導した富澤松之助の一族の屋敷地だ。ここで水路は二手に分かれ、ひとつは直進して屋敷地に取り込まれていたが、その跡は残っていない。
c0163001_2355530.jpg

もう片方は、屋敷地の東側にそって流れていた。水路の跡なのかどうかはわからないが、アスファルトの舗装の脇に、比較的幅広の、土の露出した空間が続いている。
c0163001_235589.jpg

屋敷地が一旦途切れるところを横切る道には、不自然な位置に電信柱や雨水枡があった。2本の水路を結ぶ水路跡の敷地かなにかなのか。
c0163001_23554440.jpg

更にその南側にも、更に一族の屋敷地が続く。中央高速の脇の一角には市指定の天然記念物「絵堂のカゴノキ(鹿子木)」の標識があった。標識の背後の辺りがかつての富澤松之助宅だ。敷地内にはかつて西堀から引き込まれた水路で池がつくられていており、川ン戸と呼ばれる洗い場もあったという。また、明治後期から大正後期にかけては水路に水車(直径3.6m)を設置して「あげ場(製糸工場)」も運営され、神代村製糸組合に加入する養蚕農家がここで生糸を紡ぎ八王子に出荷していたという。
c0163001_23555037.jpg

標識のすぐ南側には中央高速道が深い切通しを抜けている。道路の向こう、左の濃い緑の木がカゴノキだ。その右側はすべてかつての松之助の屋敷で、切通しの場所も屋敷の敷地だったという。そして現在切通しに架かる池ノ谷橋の辺りで、二手に分かれていた水路は再び合流していた。
c0163001_23555461.jpg

中央高速の南側も畑や宅地となっているが、水路跡はまったくわからなくなっている。古地図を頼りに、かつての水路跡と並行する道を南進していく。
c0163001_23555832.jpg

道は鬱蒼とした屋敷地を抜けてやがて未舗装になり、「かに山」と呼ばれる崖線の緑地に出る。そして、「かに山キャンプ場」から合流する道沿いに素掘りの水路の痕跡が残っていた。わかりにくいが、写真中央、黒い柵の左側が深大寺用水西堀の水路跡だ。
c0163001_2356219.jpg

上流側から見る。奥の柵沿いを左からここまで辿ってきた形になる。水路はだいぶ埋もれてしまっているが、わずかに凹んでいる。
c0163001_2356640.jpg

辿ってきた道の反対(東)側は私有地となっているが、水路の窪地に竹が並べられているのが見える。
c0163001_23561133.jpg

水路のすぐ南側は国分寺崖線の崖縁となっている。写真中央、斜面の上の緑色のフェンスの奥が水路跡だ。奥からやってきた水路はこの崖線にぶつかって、直角に写真右方向に折れていた。かつては、ここから二筋にわかれて滝のように落ちる分水もあり、その水路はマセ口川へと注いでいた。
c0163001_005663.jpg

竹の並べられた先をぐるっと回りこんでみると、晃華学園の西側を通る道路に面して私有地があった。先の水路はこの辺りまで続いていた。奥に水路の痕跡がありそうな気配もあるが、立ち入り禁止なので様子は伺えない。
c0163001_0120100.jpg

かつて水路はここで坂の方向に折れ、晃華学園の西側から南側の国分寺崖線を斜めに下って行っていた。
c0163001_015698.jpg

坂の途中にある祠。この上のあたりから水路は現在晃華学園の敷地となっているとこえろを東に流れていた。晃華学園の場所では明治時代中期より「竹内製糸工場」が営まれ、先の富澤家屋敷内と同じく直径3.6mの水車により生糸生産が行われていた。
c0163001_023966.jpg

更にその先では、「山越水車」が設けられていた。山越水車の正確な設立時期は不明だが、深大寺用水開通後かなり早い時期に設けら、1943年頃まで稼動していたという。崖線の落差を利用した、直径7.2mという大きな水車で搗き臼14個、挽き臼を3個動かす大規模なものだった。現在でも写真右手の崖線斜面上に、水車を回すため複雑に配されたコンクリート造りの水路遺構が残っているという。
c0163001_032912.jpg

西堀は崖線の上で、山越水車を回す水路、いったん池に溜り崖線を下った後、西側、かつての佐須村方面に向かう水路、そして直接東に下る水路の3つに分かれて台地上から崖線の下へと下っていた。直接下る水路は、写真奥の竹林の中の斜面を、左奥から右にかけて流れていたようだ。
c0163001_042944.jpg

そして下りきった先、神代中学校の南側でようやく、はっきりとした水路跡の敷地が現れる。この先は、開渠や蓋暗渠、池跡などが次々と現れていく。
c0163001_044922.jpg


(つづく)
[PR]
by tokyoriver | 2012-02-07 00:06 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(0)