東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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今回は、三鷹市新川の品川用水と仙川用水(いわゆる「入間川養水」のルート)の分岐点から辿って行こう。今回取り上げる区間は下の地図で矢印で示した区間(google mapにプロットのうえキャプチャ)。黄緑のラインが仙川用水・品川用水に関連する水路だ。ここに、仙川(青緑のライン)や梶野新田用水野崎支線(水色のライン)が複雑に絡まっている。流域全体の地図については前回の記事を参照していただきたい。
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品川用水と分かれた仙川用水(入間川養水ルート)は、人見街道までの僅かな区間だけは、車止めに仕切られ舗装の色を変えた、暗渠や川跡によくあるような姿となっている。
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仙川の谷を越える築堤

人見街道を越えると水路跡は普通の道となって、新川の交差点の東~南を回りこみ、西へ向きを変える。そして、現在仙川が流れている谷を横切っていく。谷をまたぐ区間はかつては築堤が築かれていて、水路はその上を西に向かって流れていた。仙川に至る手前には新川児童遊園があり窪地となっている(写真右側)が、水路はこの窪地ではなく少し高くなっている道路のところを通っていた。
築堤はかなりの高さと幅があったようだ。武蔵野市史には、南側からみると二十数尺の高さ(6m以上)があったと記されている。また、築堤があった当時の地形図から判断すると、水路両岸の土手もかなりの幅と高さが取られていたようで、水路の水面よりもかなり高く築堤を築いた上で、そこに深い溝をつくって水路を通していたように見える。土地条件図では仙川沿いの谷は埋め立てられているように記されており、築堤の土手が削られ谷が埋めたてられたことで、現在はそこまでは高低差がないのだろう。
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新川児童遊園の西端で流路跡の道は仙川を渡る。車道側の橋には「長久保一之橋」とあるのだが、上流側(歩道側)にはもうひとつ名前のない橋が掛っていて、高さが異なっている。これはかつての築堤と関係あるのかもしれない。仙川用水を暗渠化・道路化した際に多少築堤が削られてこの橋が架けられ、その後さらに土手が削られて道路が拡幅され、橋だけがもとの高さで残ったのではないだろうか。
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橋の上から仙川の上流方向を眺めると、人見街道に架かる野川宿橋が見え、その下から川が急に太くなっているのがわかる。野川宿橋より上流側はほとんど水が流れておらず、カミソリ護岸の狭く深い水路となっているが、橋の東側の袂からは、下流部で取水した地下水を流して、川の流れを復活させている。こちらについては次回詳しく紹介する。
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仙川上流部の開削時期

かつて仙川はここより1kmほど下流の勝渕神社付近を源流としており、それより上流の水路はあとから開削されたと言われている。仙川用水が通っていた築堤の下の谷筋には、それまでは仙川は流れていなかったことになる。
「世田谷の河川と用水」には1950〜51年に上流部が開削とあるが、1935年頃の地籍図や1947年撮影の空中写真には、築堤より南側には水路がみえる。築堤北側の窪地は戦前は「ハキボリ」と呼ばれる湿地だったというが、おそらく「捌き堀」の意だろう。そこから築堤を潜って南側に排水する水路があったのだろうか。そして、築堤より上流の水路は、1947年7月の航空写真には影も形も見えず、一方1948年3月の航空写真には現在と同じルートの水路がはっきりと見えることから、少なくともこの近辺では1947年夏から1948年春の間に開削されたことになる。

一方で、中央線の武蔵境駅付近より北側の水路は、それより前から存在していたようだ。江戸時代に開削された小金井分水や梶野新田分水から分岐した何本かの用水路の流末もこの水路につながっていることからも、その古さが伺える。小金井市誌によれば、現在の仙川は「長窪の水流」と呼ばれる悪水路で、大雨のたびにあふれていた。梶野新田分水が仙川の上を越える築堤が今でも残っているが、悪水路の氾濫で度々この築堤が破壊されたという。
一方で、境村(現武蔵野市境)では、水害を避けるためにこの悪水路(=現在の仙川)の流れる谷に3箇所にわたり厳重に築堤を築き、それより下流側の窪地に水が来ないようにしていたという。この築堤を巡って宝暦から明和にかけて梶野新田と堺村の間で争いが起こり、1754(宝暦4)年には「悪水堀築留取払いお願いの状」が出されている。
この仙川上流部の流路については武蔵野市史でも、低地帯にある昔からの出水路で、普段は枯渇していて降雨の後数日は水が流れたとし、砂漠の「ワジ」に例えられている。また、1919年(大正8)刊行の5万分の1東京西北部や1931(昭和6)年刊行の最新番地入東京郊外地図でも、小金井付近から武蔵境駅以北の区間までは水路が描かれていて、少なくとも江戸期から戦前に至るまで継続して水路が存在していたことがうかがわれる。
これらの事実から判断すると、人口的に開削されたとされる仙川上流部は、上流部から武蔵境付近までは悪水路として存在していたことは間違いない。そしてそこは降雨時のみ水が流れる、いわゆる「シマッポ」「マツバ」のような水路で、余程のことが無い限りは武蔵境付近より下流は伏流水として地中に消えていたのだろう。伏流水の区間はその後の開発に伴い、排水対策として1948年ころにしっかりした水路を開削して、仙川につなげたのだろう。(※「シマッポ」については白子川上流部の記事参照)。
なお、水路が開削され仙川につながった後も、勝渕神社より上流部はしばらくは仙川とは別扱いだったようだ(武蔵野市内では「武蔵川」として管理されていた)。全区間が「仙川」として管理されるようになったのは1964年のことだという。
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築堤がもたらした大浸水

境村に築かれていた築堤がどうなったのかは不明だが、仙川用水の築堤も谷をダムのように塞いでいることから、仙川上流部が開削される以前は大雨が降るとその上流側にあたる人見街道沿いが水浸しになったという。戦前の出水時の写真には、一帯が湖のようになって人々が舟で行き来する様子が写っており、おそらく1941年7月の水害の時のものと思われる。この水害は記録的なものだったという。7日間に続く豪雨の影響で中央線の北側では現在仙川上流部が流れる谷に沿って、長さ3km、幅が最大で200mにわたって湖のようになり、水深は深い所で4mにもなったという。そして三鷹町内でも仙川用水築堤の北側で、人見街道に沿って出水した。「三鷹の民俗6 下連雀」では、下連雀の子供たちが現三鷹市立第一小学校に通うため、井の頭公園の池からボートを5、6艘借りてきたことが記されている。
この築堤を巡っては、水浸しになって困る上流側と、逆に水が来られると被害を被る下流側で度々争いが起こったと伝えられている。「三鷹の民俗6 下連雀」では、仙川用水の土手が水を止めるため大雨の際に水浸しになること、新川の人が土手を切らせないために夜警を出し、けんかになったこともあったと記している。これは仙川沿いの水田への被害阻止を巡る攻防だろう。
また、「深大寺用水私考」には、「三鷹の新川の方の土手は、雨が降ると水が溢れて地元が困るので土手を切る。土手を切られると金子に田のあった内野氏などは、逆に水がきて困るので、土手を切られないように見張りにいったという」といった聞き書きが記されている。仙川用水の築堤を普通にをまるごと切ってしまうとその水は仙川方面に流れるので金子村方面には水は行かないし、仙川用水自体が使い物にならなくなってしまう。ここで言っているのは築堤上の仙川用水を挟む土手のうち、北側を切って、築堤の北側に溜まった水を仙川用水に逃すということではないかと思われる。

そんな築堤も今では撤去され、仙川も改修により深く掘り下げられて、このような水害が起こることはなくなった。
橋を渡ると道路に沿って右手(北側)に小高くなった細長い緑地帯があり、かつての築堤の名残を留めている。
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築堤の西端付近から仙川の谷を振り返ると、今でも高低差があることが分かる。水路は写真中央のコンクリート擁壁の上を中央から左手に抜けていた。
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ここで仙川の谷を渡りきった仙川用水は、今度は長久保と呼ばれる窪地を避けるようにその縁を西〜南へと向きを変えて進む。水路跡の道路の南側、数メートル段差のある窪地が長久保で、現在では農業公園とJA東京むさし三鷹緑化センターが設けられている。
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そしてここで仙川用水は「梶野新田用水野崎支線」と交差していた。仙川用水の北側には高低差がないため、どのようにして交差していたのか不明だが、おそらく野崎支線の方を掘り下げて仙川用水の下を抜け、長久保に出ていたのではないか。流路の跡は現在、農業公園と住宅地の境界線として残っている.下の写真は仙川用水と野崎支線が交差していた地点。手前の道路のところを仙川用水が左から右に流れており、青緑のフェンスのところを右手前から左奥に向かって野崎支線が流れていた。フェンスの裏側が長久保の低地で、2〜3mほどの高低差がある。
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梶野新田用水野崎支線

「梶野新田用水」は今まで取り上げてきた深大寺用水の母体となった玉川上水の分水で、基本的には新田集落の飲用水として開削された。その開削時期は1734(享保19)年頃とされる。小金井で分けられた水路は「梶野新田外五ケ村呑用水組合」に属する梶野新田、染谷新田、南関野新田、境新田、井口新田、野崎新田を経由し、上仙川村に至っていた。上仙川村だけは灌漑用としての利用だったという。余水は仙川源流一帯の水田を巡る用水路に落とされていた。1825年の記録では「上仙川村畑直り新田用水」として「上仙川村本田用水」への助水も行なっていたとあるが、これは仙川もしくは仙川用水の"野川分水口ルート"を指すと思われる。1871(明治4)年に深大寺用水が開通して以降は、野崎から下仙川に至る水路は支流扱いとなったようで、「三鷹市史」(1970)によれば、戦後作成された「砂川用水実態図」には、野崎支線と記されているという。
梶野新田用水野崎支線は三鷹市野崎の交差点からしばらく人見街道に沿って流れたのち、現在の三鷹市役所付近で向きを変えて南東南東に直線に流れ、仙川用水をくぐり現在の仙川の上仙川橋付近で仙川用水野川分水口ルートの水路と合流したのち、勝渕神社方面に流れていた。
流路が複雑に交錯しているので、再度地図を掲載しよう。
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流路跡自体は全く残っていないが、上仙川橋付近までは土地区画の境界線として辿ることができる。また、上仙川橋より下流部はそのまま現在の仙川の流れと一致する。航空写真(google mapよりキャプチャ)の上は三鷹市役所の東側、下は仙川用水との交差地点付近。野崎支線の水路跡(水色のライン)がそのまま土地の区界となっていることがよくわかる。
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梶野新田用水野崎支線はいつ頃まで水が流れていたのだろうか。「三鷹の民俗10 新川」には玉川上水から新川の水田に至る2本の用水路として、ひとつは前回とりあげた仙川用水のの"野川分水口ルート"、もうひとつは「K家の方(から、新川本村の田の)西側にくる」ともある。K家の屋敷はかつて仙川用水と野崎支線が交差する地点の東側にあったことから、ここでのもうひとつの用水路が「梶野新田分水野崎支線」を指していると思われる。この記述は聞き書きをベースにしており、おそらく昭和初期の様子と思われる。ただ、1935(昭和10)年の地籍図にはすでに野崎支線の記載はない。一方で先に記したように戦後作成されたという「砂川用水実態図」には記載があるといい、1948年の航空写真でもそのルートははっきりと写っている。

JAの裏手で、仙川用水跡は再び車止めに遮られた暗渠らしい道となる。
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カーブを描いて南へと向きを変えていく。
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東八道路につきあたったところで水路跡は姿を消す。かつてはこの先、海上技術安全研究所の中へと続いていた。品川用水との分岐点から海上技術安全研究所に入るまでの区間は、仙川用水・品川用水の中でも最後まで水路が残っていた区間のようだ。住宅地図でその変遷を追う限りは、1976年ころまでは開渠として残っており、その後段階的に暗渠化が進み、最後まで残ったJAの北側の区間は1986年の地図で姿を消している。ただし、情報の更新にタイムラグはあって、実際にはもう少し早い時期に無くなっていたかもしれない。
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海上技術安全研究所を抜ける仙川用水と明治20年代開削説

海上技術安全研究所の構内に入った仙川用水は、三鷹市と調布市の境界に突き当たったのち、その境界にそってほぼまっすぐに、南南東に下って行っていた。この境界線は、かつての鎌倉街道でもあった。現在では水路の痕跡はほとんど残っていないようだが、鎌倉街道に沿った並木が続いていて水路のルートも示しているかたちとなっている。

ただ、海洋技術研究所の前身である中央航空研究所が作られた1940年頃、構内の南半分はルートを変更した上、暗渠化された。そして1958年には新たに造成された実験用プールを迂回するため北半分もルートが変更され、海洋技術研究所内の仙川用水は、実際には鎌倉街道沿いとは離れた場所を流れるようになった。

さて、研究所内に残る鎌倉街道跡沿いには、「仙川分水」の解説板が設置されているようだ。今回の取材で見学することはできなかったが、研究所のウェブサイトにその写真と、解説板に記された文章が掲載されている。そこには仙川分水は明治20年代に開削されたと書かれている。仙川用水に関する情報が皆無に近いためか、あるいは公的機関に掲示された解説板であるためか、この明治20年代開削説はネットを中心に各所で引用されている。これは一方で、仙川用水が品川用水よりも古い、江戸前期に開削されたということと矛盾するため、今まで個人的に謎であった。今回の調査で、この解説板の設置経緯と、情報の出所が明らかになった。結論から言えば、この明治20年代開削説はおそらく誤りであろう。
情報の出どころは、研究所内で刊行されていた、社内報のような刊行物「雑木林 」で1979年9月に刊行された23号を始め、何回かにわたって仙川用水と鎌倉街道のことが取り上げられている。ここで、仙川用水に関する公的な記録は1962年ころに「砂川水利組合」(砂川用水の水利組合か、あるいは品川用水の聞き間違いか不明)に一括譲渡されてしまい、三鷹市には一切何も残っていないこと、市の市民相談室職員の説として、仙川分水が明治20年代から30年代にかけて開削されたのではないかと述べていることが記されている。そしてその根拠は仙川用水が明治13年の地図には載っておらず、明治40年代の地図には掲載されていることだとしている。つまり、なにか文献に基づくものではなく、地図からの推測である。
ここで言われている明治13年の地図とは2万分の1縮尺の「東京近傍図 :東京近傍西部」(明治13年測量19年製版)、明治40年代の地図は5万分の1地形図「東京西北部」(明治42年測量)だと思われる。確かに前者には仙川用水のルートは描かれていない。しかし、東京近傍図にはほかにも入間川など描かれていない川や用水路も数多く有り、これを根拠にすることはできない。

前回記事でも記したように、仙川用水の入間川養水ルートは江戸期から存在し、江戸時代後期や末期の記録にも残っていることから、一時的なものならともかく、長期にわたって断絶した期間があるとも考えにくい。そして明治20年代説の直近で言えば、明治16年時点で、品川用水からの各村ごとの寸積(分水量)として以下の記録が残っている。

[字稲荷前口から=入間川養水ルート] 新川村:3坪5合2勺、中仙川村:3坪1合4勺、金子村:1坪5合3勺、大町村:1坪5合4勺
[野川分水口から] 新川村:6合9勺

新川村は1874年に野川村と上仙川村が合併してできた村だ。このことひとつをとってみても、明治20年以降ではないことがわかる。
ちなみにここで注意すべきは、入間川養水ルートにも新川村=旧上仙川村の水利権があるということだ。そして中仙川村以上の水利権が確保されていて、これが水田用であることが伺われる。一方で入間川養水ルート〜入間川沿いには旧上仙川村の水田はない。水田があるのは仙川沿いだ。つまり、入間川養水から旧上仙川村エリア=仙川流域に向かって分水路が引かれていたことになる。この分水路については次回に詳しく記そう。

明治20年代開削説はこのようにおそらく間違いなのだが、上記の「雑木林」の続く号では、鎌倉街道と仙川用水の保全の働きかけ、その結果としての解説板の設置といった経緯が記されている。解説文が参考にしたのは当然ながら「雑木林」での記述だった。その結果、明治20年代説がひとり歩きするようになったようだ。1980年代の三鷹市の広報紙でもこの説が採用されており、仙川用水を巡る情報が錯綜していく一因となったと思われる。

敷地内に残る鎌倉街道跡の並木道を塀越しに眺めてみる。水路の跡はなさそうだ。
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船舶技術研究所を抜けた仙川用水跡/鎌倉街道はいったん普通の車道となる。この近辺にも70年代まで開渠が残っていたそうだ。
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そして100mほど南下すると、今度は消防大学校の敷地に突き当たる。敷地の北側を横切る歩道にはなぜか水路の流れていたルートにそって斜めに敷石のようなものが埋められていた。
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消防大学校

消防大学校の中もひきつづき仙川用水跡/鎌倉街道は三鷹市と調布市の境目となって南南東に下っていく。こちらの敷地内にも街道沿いの並木が保存されている。その入口は遊歩道風となっていて、やはり解説板が設置されていた。守衛さんに頼んで入り口だけ撮影させてもらった。鎌倉街道を辿ってくる人は時々訪れるというが、用水路を辿ってくる人はいないようだ。
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構内図には街道跡を示す並木が描かれている(2列に連なる緑の点)。
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かつてこの敷地内で、先程ふれた仙川流域の水田へと向かう分水路が分かれていた。長くなったので、以降は次回の記事としよう。

(つづく)

※参考文献リストはシリーズの最後にまとめて掲載します。
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by tokyoriver | 2012-03-22 23:33 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(4)
【一部追記修正】3月10日、11日にかけ、記述・地図の追加、修正をしています。

今まで9回にわたって深大寺用水(一部入間川も)を追ってきたが、今回からは深大寺用水と入間川に関係の深い「仙川用水」と入間川の残る区間について取り上げていく。紛らわしいが「仙川用水」は「千川上水」とも「仙川」とも異なる、かなり古い時期に玉川上水より分けられた用水路である。

仙川用水とは

「仙川用水」は「上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水」とも呼ばれた玉川上水の分水で、現武蔵野市境で分水され、現三鷹市中部で入間川の中流部と仙川の(本来の)源流部に接続されていた。引かれた水は、仙川の源流部に広がる上仙川村(現三鷹市新川)の水田、入間川の中流沿いに広がる中仙川村(現三鷹市中原)の水田を潤し、また、入間川へ引き込まれた水は途中で再び別の用水路に分かれて、野川沿いの金子村(現調布市西つつじヶ丘)、大町村(現調布市菊野台)の水田を潤した後、野川に注いでいた。用水の開削時期は17世紀半ばと推定されるが、正確な時期はなぜか記録に残っていない。玉川上水より上仙川村に入るまでの区間は17世紀後半に「品川用水」に、そして下流の入間川から分かれて以降は明治初期に「深大寺用水東堀」に利用された。

下の地図で黄緑色のラインが仙川用水と品川用水の水路である。左上から右下に横切る青緑色のラインが仙川、右下のエリアが今まで取り上げてきた深大寺用水と、入間川の流れるエリアだ。
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仙川用水と品川用水の関係

深大寺用水東堀については前回までの記事をみていただくこととし、ここでは「品川用水」について軽くふれておこう。品川用水は「戸越上水」を前身とする灌漑用水路だ。「戸越上水」は玉川上水開通(1654年)の10年後の1663年から1664年にかけて、品川領戸越、蛇久保両村入会地(現品川区豊町、戸越、東中延)にあった熊本藩細川家の下屋敷の庭内の泉池(現在の戸越公園と元国文学研究資料館(過去記事参照))の用水として、仙川用水からの分水のかたちで開削された。庭園のためだけに延々20km以上もの水路を開削した戸越上水だが、わずか2年後の1666年には廃止されてしまった。敷地内の湧水で事足りたからとも、維持費が負担になったからともいわれるが真相はわからない。いずれにしてもせっかく通した水路を灌漑用水として利用したいとの要請が品川領各村より幕府に上がり、1667年に許可がおりる。そして1669年には細かった水路が拡張整備され、戸越上水は品川用水として再出発することとなる。玉川上水からの分水地点から品川用水と仙川用水が分岐する現三鷹市新川までの区間は、もともと仙川用水だったが、このときに品川用水として扱われることとなり主従関係が逆転したようだ。
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品川用水から三鷹用水へ

品川用水を巡るあれこれについては本題ではないのでここではふれず、時代は一気に1947年に飛ぶ。戦後の食糧危機により仙川用水沿いの水田でも耕作強化が図られることとなり、品川用水普通水利組合に対して三鷹町長、神代村長から水利権譲渡申請書が出された。品川用水の水はこの時点ですでに仙川用水系でしか利用されていなかったため、この要望はスムーズに通り、用水路は1948年、三鷹町長管轄下におかれ、1952年に品川用水は三鷹用水土地改良区として再出発した。この際に旧金子村地区の農家でも水利権買収金の負担があったというから「三鷹用水」は実質的に「仙川用水」の復活だったといってよいだろう。ただ、このしばらく後から三鷹市内の工業地化、宅地化が進み、汚水が流入することで用水路の水質は急速に悪化していく。仙川上流部の旧上仙川村エリアでは、水質が稲作に適さないとして、1956年に三鷹用水からの取水を取りやめた。そして三鷹用水と深大寺用水の水を利用していた旧金子村、大町村エリアの「金子田んぼ」でも、深大寺用水の記事で記したように1961年には稲作をとりやめ、は神代団地となった。こうして1960年代初頭には用水はその役割を終えたと思われる。既に水の流れなくなった品川用水は1960年代後半から1970年代にかけ暗渠または埋め立てられていった。三鷹用水にはしばらくは水の流れはあったようだが、70年代前半までには暗渠化されたようだ。
※なお、70年代などの一部の地図には、烏山川の支流である水無川(中川)を三鷹用水と記しているものもあるが、正しくはこの品川用水/仙川用水が三鷹用水である。

柴田家と仙川用水開削時期の関係

先に記したように、仙川用水の開削は戸越上水の引かれた1663年以前であることは確かだが、その正確な時期ははっきりしない。玉川上水からの分水は、上水開通翌年に出来た野火止用水(1655年)が最初で、その後に砂川分水(1657年)、北沢分水(1658年)、烏山分水(1659年)、青山上水(1660年)、三田上水(1664)と続く。この間に仙川用水も開通していたことになる。このような早い時期に分水をひくことができたのは、上仙川村・中仙川村を領地とした柴田家の力によるものではないかという説もあるようだ。柴田勝家の孫、勝重(1579-1632)がこの地を領地としたのは1615年。大坂の役(1615)の戦功により幕府より与えられたという。勝重は中世の武士団金子氏の居城だったと伝えられる「島屋敷」に居を構え、仙川水源近くの勝渕神社には柴田勝家の兜が埋められ祀られてたと伝わっている。柴田家は1698年に三河に移るまでこの地を統治し、以後は上仙川、中仙川は幕府の直轄地となった。玉川上水からの分水は、その初期はいずれも飲用水としての利用がメインであり、仙川用水もそうだったとすると、柴田家との関わりもあながち無くはなさそうだ。これに関連するかもしれない水路については次回に取り上げる。
そして、仙川用水が明治20年代に深大寺用水への補水を目的として開削された、という説もネット上に出回っているのだが、今回調べてみて、これは間違いであることがはっきりした。こちらについても追々取り上げる。

そのほかにも、仙川用水を巡っては今までわからないことが多かったのだが、今回調査してみてだいぶ判明してきたので、記事の中で順を追って記していく。現在品川用水/仙川用水の痕跡はほとんど残っていないので、上流から要所要所をかいつまんで紹介していこう。

境の分水地点

まずは境の分水地点から。武蔵境通りが玉川上水を渡る桜橋から下流に向かって東に100mほど下った地点、武蔵野市境3丁目に、今でも品川用水/仙川用水の分水口が残っている。すぐそばは境浄水場だ。下の写真は左岸(北)側から見た取水口の全体像。玉川上水は写真右手前から左奥に流れており、左上に見える堰で水かさを上げて、右端の凹んだ護岸の中腹に開いた水門から取水していた。
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取水用の堰。支柱の上流側は水流の勢いを削ぐために三角形となっている。そして堰の板を差し込む溝が残っている。
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取水口をクローズアップ。この前後の玉川上水はコンクリートの護岸がつくられているが、ここだけは古い石積みの護岸となっている。そして枯葉に埋もれて赤く錆びた鉄の水門で塞がれた、四角い取水口があるのがわかるだろうか。取水口の大きさは時代により何度も変遷があったようだ。江戸時代末期の記録では2尺5寸(75cm)四方と記されている。今残っているのもそのくらいの規模に見える。ここで取り込まれた水はしばらく地中を流れてから開渠となっていた。
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こちらは右岸側、真上から取水口を見たところ。写真右上の端に堰が写っている。取水口の上には水門を開閉するハンドルの残骸が残っている。かたわらの土手には品川区と武蔵野市が連名で設置した「品川用水取水口跡」の説明板があるが、戸越上水や仙川用水のことは触れられていない。
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堀合通り

玉川上水から離れた水路は市立第六中学校となっているところを横切り、その裏手の八坂神社の敷地を抜けて、南東へと下っていた。中央線の線路の辺りまで続く、玉川上水との間に挟まれた細長い土地は堀合と呼ばれていた。用水路は変哲のない道路となっていて水路の痕跡は見る影もないが、交差点名や通りそのものの名前として堀合の名が残り、かつて水路があった証となっている。

 2012.3.10追記
かつて玉川上水から分かれたばかりの品川用水が通っていた場所にあたる、武蔵野市立第6中学校の敷地内に「水吐橋の碑」がある。1971年、学校の校舎を建設中にみつかった橋の遺構を使ったものだという。水吐橋は大正12年8月31日に完成したが、翌日関東大震災で破壊された。このため一夜橋とも呼ばれた(コメントいただいた「な」さん、ありがとうございました)。


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品川用水の水路は跡形もなく平凡な道路となっているが、途中まるで水路跡のような細長い公園を2つ横切る。一つは境浄水場への専用線跡。大正後期に浄水場への資材運搬用として敷設されたものだという。そして武蔵野市から三鷹市に入るともうひとつ、グリーンパーク遊歩道(堀合遊歩道)と交差するが、ここは戦後のごく一時期、三鷹駅から武蔵野競技場前駅まで運行されていた武蔵野競技場線の線路敷跡である。

歩道の一部には、古そうな四角い蓋が残っていた。品川用水の暗渠と関係はあるのだろうか。
→2012.3.11追記:関係ないとのことです(T様、情報有難うございました)。
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堀合地下道

品川用水跡の堀合通りはやがて三鷹駅の西側で中央線の線路に突き当たる。
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突き当たった先には「堀合地下道」があって駅の南側に通り抜けできるようになっている。
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この地下道は、三鷹市史によればもともと品川用水の水路だったものを改造した地下道だという。
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言われてみれば、側壁の微妙なすぼみや天井の低さと線路までの薄さは、水路を彷彿とさせる。
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さくら通り

地下道を抜けた南側には、堀合通りから連続したカーブを描いて、徐々に南東に向きを変えていく。
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品川用水の跡の通りは三鷹駅南側からは「さくら通り」となる。かつてこの通り沿いを流れていた品川用水は、1952年に暗渠化された。これは失業対策の土木事業として施工されたといい、この工事によってさくら通りは市内初のアスファルト舗装道になったという。
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さくら通りより先、品川用水の水路はむらさき橋通りでて通り沿いを南下し、下連雀6丁目で離れ南南東へ、そして現在三鷹市立第6小学校の校庭となっているところを横切り、更に東に向きを変えて吉祥寺通り近辺を再び南下、人見街道の北側に並行する三鷹市新川と下連雀の境界となっている道に突き当たったところで品川用水と仙川用水に分岐していた。この区間は特に痕跡はないので、一気に仙川用水の分岐点まで飛ぶことにしよう。

品川用水と仙川用水の分岐点

東西に抜ける古くからの街道「人見街道」の両側にはかつて「アイノミチ」と呼ばれた小径が並行していた。新川と下連雀の境目の道はそれらの名残のひとつである、そしてその道の傍らに、品川用水と仙川用水の分岐点が残っている。右側に曲がる赤茶色の舗装の道がかつての仙川用水跡、そして正面の草の生えた窪地が品川用水の跡だ。背後はかつては日産の工場で、現在は高層マンションとなっている。
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品川用水の跡はよく見ると、半ば埋もれてはいるようだが水路がそのまま残っている。ここはおそらく品川用水で唯一水路が現存している場所だ。仙川用水の方の痕跡はないが、もともとここまでの水路は仙川用水であったこともあり、ここの分水口は品川用水の数ある分水口の中でも別格扱いだったようだ。1689(元禄2)年、品川領9ヶ村の訴えにより井伊領(現世田谷区内)の各村の分水口は閉塞されたときも、上仙川村の分水口は対象外であり、翌年上仙川分水口が訴えられたときも、分水量の調整と厳格な管理を実施するということで話が付けられている。
「品川用水沿革史」に収められている現地の視察記(1941年11月)ではこの分岐点は「新川分水口」として厳格に管理されたコンクリート造りの樋口だと記されている。そして、この時点で品川用水側の水路は砂俵でせき止められて通水していなかったという。そちら側の水路がこうして残っているのはどういった経緯があったのだろうか。
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水路が残っているのは20mほどだろうか。その先は土に埋もれて曖昧になり、新川宿公会堂とその裏手の八幡社に続いている。
ここは玉川上水とその分水で最初の水車が設置された場所でもある。1697(元禄10)年、現千代田区麹町にあった粉屋がここに挽臼 2 台を備えた水車を設置した。この水車は無許可で設置されたもので、すぐに撤去されたという。
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新川宿公会堂の南側。前を横切っているのが人見街道だ。そして品川用水の水路は公会堂の左側に見える電話ボックスのあたりから街道沿いに出て、手前に写っている歩道のところを東(右手前)に流れていた。公会堂の周りには八幡社や古い石像を収めた祠などが集まっていて、古くからの地域の要所であったことをうかがわせる。
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仙川への導水路はどこか

さて、分水地点で分かれた「仙川用水」「入間川養水」とも呼ばれ、最後は入間川へ注ぐ水路だ。仙川用水は4つの村の水田の灌漑用に引かれたわけだが、そのうち上仙川村以外の3村の水田については、この「入間川養水」経由で水が供給されていた。一方で上仙川村は入間川流域ではなく仙川流域なので、仙川用水から仙川方面に至る別の水路もあったことになる。
三田義春「世田谷の川と用水」には、品川用水開通以前は仙川用水との分岐点の地点より南下し勝渕神社脇の丸池に注ぐ水路があり、品川用水開通時に廃止された(仙川養水)とあるが、出典が不明であり、ほかの資料にはこのような記述は見当たらない。
仙川への導水路については長らく私の中で謎だったが、今回記事をまとめるにあたって調べた結果、少なくとも2つのルートがあったことが判明した。

2つあった分水口

まず一つ目のルートだが、品川用水絵図(1858(安政5))には、仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)取水口1尺2寸(36cm)のほかに、野川村之内、仙川用水口として埋樋で高2寸五分(7.5cm)横4寸(12cm)の取水口があったことが記されている。仙川用水には2つの分水口があったということになる。また、「品川用水沿革史」(1943)に引用されている江戸期の別の資料にも「上仙川分水口」として、上仙川村字稲荷前に4寸四方の分水口が、「野川分水口」として野川村字北裏耕地に2寸四方の分水口があると記されている。明治16年の記録でも変わりはなく、2つの分水口が記録されている。そしてどうやら、それぞれの記録に記されている2つの分水口のうち後者が、仙川へ水を導く分水口だったようなのだ。

水路のルート

ではそれは具体的にはどこだったのか。「野川分水口」があったと記されている野川村字北裏耕地は、現在の市立第一小学校以東のエリアにあたる。そして、「三鷹の民俗10 新川」(1987)に掲載されている戦前の新川宿を記した概略図には、第一小学校の東側に、品川用水から分かれ南下する水路が途中まで描かれ、幅6尺(1.8m)ほどの水路が新川本村の田に引かれていたと記されている。
一方で「品川用水沿革史」の現状視察記(1941年11月)には、国民学校の手前の分水口も敷石が崩れ荒廃しているといった状況が記されている。この国民学校は市立第一小学校のことだ。
そして、1947年に撮影された空中写真では、第一小学校の南側から、現在の仙川のルートを通ってもともと仙川の水源地帯だった勝渕神社周辺に至る水路が写っている。
野川分水口からの水路がいつから存在していたのかどうかは不明だ。品川用水開通後に後追いで作られた可能性もあるし、戸越上水が「野川村」から分けられた、という記録からすると最初からあった可能性もある。だが少なくとも江戸時代後期から戦前にかけて、入間川方面の分水口とは別に、品川用水から仙川に分かれる水路が存在していたことになる。そしておそらくこういった水路が存在したゆえか、仙川自体を「仙川用水」として記す文献も散見される。先の三鷹用水もそうだが、このような呼称の錯綜が、水路の関係をわかりにくくしている側面がある。
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幻の「野川」

そしてもうひとつ、入間川ルートから分かれて仙川に至る水路の存在も確認できたのが、こちらについては次回の仙川用水入間川ルートの記事に記すことにする。最後に「野川」について触れておこう。これは国分寺から流れてくる「野川」とは全く別の川で、伝承によればこの川は品川用水と仙川用水の分岐点の辺りから流れだし、人見街道から60mほど奥まった、かつての牟礼村と野川村の境目に沿って、新川2丁目の天神社のあたりの窪地まで流れていたという。この川は仙川用水からの分水だったとも、また品川用水の開通でなくなったとも言われているが、資料に乏しく詳細は定かではない。そして、野川村の名の由来がこの水路で、新川という地名(のち、1874年に上仙川村と野川村が合併して新川村となる)は品川用水に由来するとの伝承もあるという。
なお、この野川が通じていたという窪地は、地形図で見ると周囲より1mほど低くなってる程度の非常に浅いものだが、谷筋のかたちとなっていてかつて川のルートであった可能性がある。そしてその谷筋を下っていくと「東京peeling!」さんが記事にしていた水無川の北野3丁目方面からの支流の上流部につながっている、ということも非常に興味深い。

→実際に水路があったことが判明しましたので、下地図を修正しました(流路は1935年頃の時点のルート)。品川用水からの悪水を落としていたと思われます。(2012.5.19)。

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(2012.3.11地図追加。2012.5.19修正。窪地の表記は標高51mライン。)

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-03-10 00:25 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(9)