東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズの中で、「仙川用水」の暗渠/水路跡を辿る回としては最後となる今回は、前々回の記事のラスト、消防大学校から辿り、入間川(中仙川)にいったん合流したのち、再度分離して金子方面に向かうまでの区間を取り上げる。

まずは地図を(google mapよりキャプチャ)。ピンクの矢印で示したのが今回取り上げる区間だ。緑色のラインが仙川用水に関係する水路、途中で経由する入間川(中仙川)とその分流は赤紫のラインで示してある。仙川、野川、入間川の京王線以南の区間と中央高速付近の一部以外の水路についてはすべて暗渠か埋め立てにより現在は存在しない。
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仙川用水入間川養水ルート

写真は前々回の記事ラストでとりあげた消防大学校敷地の南縁。中に立ち入ることは出来ないが、送電線の脇に見える並木が、かつての鎌倉街道の名残で、そこに沿って奥から手前に仙川用水のいわゆる「入間川養水ルート」が流れていた。鎌倉街道跡は、現在では三鷹市と調布市の境界でもある。消防大学校の敷地内ではかつて、前回記事にした「島屋敷ルート」の水路が分かれていた。
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先の写真の南側(中仙川西原交差点)には、鎌倉街道跡の道がまっすぐに南へ下っている。こちらもひきつづき三鷹市と調布市の境界となっている。水路は道路の東側(写真だと左側)を流れていたようだ。住宅地図の記載を信じれば、80年代初頭まで残っていたようだ。鎌倉街道跡の道は中央高速道にぶつかるまでまっすぐに続き、そこで入間川養水は入間川に合流していた。
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写真は中央高速道にぶつかる手前の入間川の暗渠。シリーズ第3回目で取り上げた区間の続きとなる。第3回の記事で取り上げたように、「入間川」は深大寺東町の「諏訪久保」に流れを発し、通称「野が谷」と呼ばれる谷筋をここまで流れてきている。この「諏訪久保」には、仙川の丸池周辺と同様、「釜」と呼ばれ、水が地面から釜を伏せたような形で吹き出す湧水があり入間川の主水源となっていたが、これが1855(安政2)年の安政大地震で涸れ、野が谷地区の水田が干上がったことが深大寺用水開削の第一の理由だった(詳細は第3回記事参照)。
川名の「入間」は京王線以南のかつての村名であり、当然ながら上流部ではそのような呼び方はされていなかった。深大寺地区では大川と呼ばれていた。
入間川の源流部は車道となっていて痕跡を残していないが、原山交差点から下流はコンクリートの幅の広い暗渠となって、野が谷を南東に流れていく。
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そして、下の写真が入間川と仙川用水入間川養水ルートの合流地点だ。右側の消防車が止まっている道路がかつての鎌倉街道と、仙川用水、そして中央やや左の通り名の標識の裏側、2軒の家屋に挟まれた空間が入間川だ。
これより先、入間川は調布市深大寺東町から三鷹市中原へと移る。中原はかつての中仙川村にあたる。なお、第3回の記事に記した通り、深大寺用水から入間川上流部に供給されていた水は、中仙川村にはその水利権がないことから、仙川用水が合流する手前で深大寺用水に再び回収されていた。
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入間川を利用した「中仙川用水」の区間

三鷹市内に入った入間川はしばらく開渠となる。しかし、中央高速道の下をくぐる区間には水はなく、土も被されているようだ。25年ほど前は、白濁した水が流れていたような記憶がある。
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水が流れなくなってから随分たつのか、川底からかなり立派な木が生えていた。写真ではややわかりにくいかもしれないが、護岸の梁の間から幹が伸びているのが見える。
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この近辺の入間川の流路は、かつては大きくカーブを描いていて、川に沿って水田が細長く続いていた。仙川用水の水利組合に加入する、上仙川、中仙川、金子、大町のうち二番目の中仙川村の水田だ。仙川用水の水はそれらの水田に引き入れられていた。
だが1960年代末には、水田は川の水の汚染で作付ができなくなり、1970年代半ばに埋め立てられて、中原団地と中央高速の敷地となり、水路は中央高速高架下の南側に沿って直線に改修された。
水がなく荒れ果てた水路をしばらく追っていくと、川底の真ん中に細い溝が作られてわずかに水が現れ始め、中原4−18の辺りからは護岸からかなりの量の水が流れこんで、水流が復活する。
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水は澄んでいて、季節により水量に変動はあるようだがコンスタントに流れ込んでいるようだ。上の写真は2011年秋、下の写真は2008年初夏の様子。どこかで湧き出した水を導水しているのか、あるいは雨水の貯留池でもあるのか、いずれにしても臭いや濁りは全くなく、水質は悪くはなさそうだ。
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川は水が流れるようになった地点で中央高速から離れ、向きを変えて中原4丁目団地の裏手を流れていく。せっかく綺麗な水が流れているのに、川沿いに道はなく、様子はところどころから垣間見ることしかできない。梁の上に置かれた植木鉢が落ちることはないのだろうか。
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そしてようやく様子を見られる様になったかと思うと、中原4−17に入る地点から先は暗渠となってしまう。写真は「中仙川遊歩道」となっている暗渠の区間から、上流方向の開渠区間を見たところ。フェンスの向こう側が水路だ。
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現在、三鷹市内では三鷹市内では入間川は「中仙川」と呼ばれていて、遊歩道の名前はそれに由来する。これは「仙川」に直接関係している訳ではなく、流域のかつての地名「中仙川」(中仙川村に由来)から名前をとったものだ。中仙川は1965年の住居表示施行時に現在の「中原」と改名された。
そして、かつては入間川の呼び名は特にはなく、単に「用水路」、あるいは「中仙川用水路」などと呼ばれたり、あるいは深大寺エリアと同様に「大川」と呼ばれていたようだ。

遊歩道の東側には、住宅地の隙間にかつての上げ堀の痕跡である溝渠が残っている。「郷土中仙川」(1982)によれば、水田に水を入れる4月になると、川の各所に土俵で堰を作り、上げ堀に水を分けて、川沿いに帯状に伸びる水田に水を引き入れていたという。中原4−10付近の「トヨのセキ」など、いくつかの堰には通称もつけられていたという。水田の水を抜く8月にはこれらの堰は撤去された。
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一方秋から冬にかけては、何ヶ所かに設けられた洗い場で、大根などの農作物を洗っていたという。かつては蛍の舞飛ぶ澄んだ流れだったというが、今では面影もなく、水田はすべて住宅地となっている。
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途中の植え込みに、橋の銘板がモニュメントのように残されていた。この「近幸橋」は1982年7月竣工と、かなり新しい橋だった。橋には歩道橋のような鉄柵の欄干が設けられていて、銘板はそこにとりつけられていた。その時点ではまだ暗渠化されていなかったということだ。
三鷹市内の入間川の暗渠化は1976年に始まったが、80年代後半までかなりの区間の水路が開渠のままだったようだ。近幸橋のあたりは1988年に暗渠化されたという。
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しばらく進み中仙川通りを越える地点には、中仙川橋の親柱が残されている。こちらは1953年3月竣工と、それなりに古い。この辺りのかつての字名は「羽毛」で、「ハケ」との関連を思わせる。
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再び入間川から分かれる仙川用水

中原1−13で、仙川用水は再び入間川から分かれ、水利権を持つ第3、第4番目の村、金子と大町方面に水を導いていく。
水路は入間川の谷の西側に沿って流れていく。暗渠には「中仙川遊歩道」と標識が掲げられているのだが、実際には中仙川(入間川)ではなく、用水路であるということは知る人ぞ知る、といった感じだろう。本来の中仙川=入間川は谷の東側の縁を流れていき、甲州街道の南側で再び開渠となる。暗渠の区間にもコンクリート蓋暗渠が残っていて、下を水が流れている。こちらについては次回辿ることにする。
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中仙川村の水田はこれより南にも続いているが、仙川用水の水路自体は金子、大町方面への導水路であるため、東側に並行してもう一本の水路が通っていて、そちらと入間川の間が水田となっていた。入間川とこの水路を利用して水田への給排水を行っていたのだろう。下の地図に、かつての入間川と仙川用水、そしてそれらから分かれていた主要な分水路と、水田のエリアを記した。
地図右下の緑色のラインが再び分かれた仙川用水。その右側の赤いラインが入間川本流で、間にある青いラインが水田の排水用水路。水田の排水用水路と仙川用水の間には水田がなかったことが分かるだろう。
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谷底の水田は1960年代初頭に京王電鉄の手により開発され、「つつじヶ丘住宅」と名付けられた分譲住宅となった。これに先立ち1957年には、「金子駅」が「つつじヶ丘駅」に改称された。水田をつぶし新たに区画から整理されたため、現在ではかつての水田の面影は全くなく、水田からの排水路も一部に名残を留める程度である。それにしても谷底なのに「丘」とはよくも名付けたものだ。

中原1−13で暗渠の遊歩道は一旦車道沿いを離れる(というか、車道の方が離れていくといったほうが正確か)。
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水路跡の遊歩道は入間川の流れる谷の西側の崖下を南下していく。この辺りは、谷底よりもわずかに高いところを通っていて、人工の導水路であることがわかる。写真に見える橋は、個人宅の出入り用の橋で、谷底に建つ家の2階に繋がっている。
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中仙川遊歩道は車道沿いに出ると、車道よりも幅のある歩道となる。ここでも左側の林の方が地面が低い。戦前の地図を見ると、この区間は2本の水路が並行して流れていたようだが、詳細はよくわからない。
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暗渠の東側に少し入ると、先ほどの地図で示した水田の排水路の痕跡がわずかに未舗装の路地となって残っている。
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甲州街道の滝坂下交差点の手前では、南西から流れてきた小川の暗渠とぶつかる。この川沿いはかつて「狢沢」と呼ばれていた。この地点で水路が複雑に入り組むが、これについては第5回の記事で触れた。
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そして水路跡の遊歩道は、滝坂下交差点に行き着く。ここから先、仙川用水は甲州街道に沿って西へと流れていて、数十m西側では深大寺用水東堀が合流していた。何度かふれたように、それより先の区間は1871(明治4)年の深大寺用水開通以降は、深大寺用水としての扱いとなる。第5回の記事で取り上げているのでそちらをご参照いただきたい。
なお、「深大寺用水私考(5)」には大正15年生まれの方の証言として「この用水(注:深大寺用水)は砂川用水といった。山岡鹿嶋屋酒店の東の方から来た用水(注;滝坂下以西の仙川用水)は品川用水といった」といった言葉が記されていて、仙川用水の水路が入間川(中仙川)とはっきり区別され、かつ品川用水から分水されていることも認識されていることがわかる。
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仙川用水については以上で終わりとなる。品川用水、仙川、入間川、梶野新田用水、深大寺用水など関連する川・用水路が複雑に絡み合うため、なるべく理解しやすいよう記したつもりではあったが、あまり反響がなかったのは、やはりわかりにくかったのかもしれない。ただ、謎の多い仙川用水について、今回の記事にあたっての調査でかなりの事実が判明したと思う。よろしければ再度目を通していただけたらと思う。

さて、深大寺用水と入間川にまつわる水路を紐解いていく一連のシリーズの最後として、入間川(中仙川)のうち、深大寺用水東堀の記事及び仙川用水の記事で取り上げなかった、仙川用水が分かれる地点より下流側の区間について、次回以降、2、3回ほどにわけて記事にしていく。入間川にはあまり知られていない支流や分流の痕跡もあり、それらもあわせて紹介していきたい。

※参考文献についてはシリーズの最後にまとめて掲載します。

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-04-17 23:34 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(3)
仙川用水の暗渠/水路跡を辿る3回目は、仙川用水のいわゆる「入間川養水ルート」から分水し、仙川源流域の水田に給水していた水路をたどる。あわせて、それに関係する仙川のかつての水源地帯についても紹介しよう。

何度か記したように、仙川用水は、またの名を「上仙川・中仙川・金子・大町四ケ村用水」ともいうとおり、(A)入間川(中仙川)に水を引き入れることで(1)旧中仙川村エリアの水田に、そして(B)入間川から再度水を分けて、尾根筋を跨いで野川沿いの低地まで水路を引くことで(2)旧金子村・(3)旧大町村エリアの水田に給水していた。(B)については、甲州街道沿いに出て以西の区間は、深大寺用水東堀に転用されている。
そして、仙川沿いにある(4)旧上仙川村の水田への給水は、前々回の記事に記したとおり、入間川養水ルートとは別に「野川分水口」で品川用水から分水されるルートが存在していた。

一方で、前回の記事で触れたように、入間川養水ルートの分水口に設定された村別の水利権の中にも上仙川村(新川村)が含まれている。入間川養水は上仙川村エリアの水田を経由していないから、どこかから仙川に向かって分かれる水路があったことになる。

今回紹介するのはその水路の痕跡だ。まずはいつものように地図を(googlemapにプロットしたものをキャプチャ)。黄緑色のラインが仙川用水の水系、そして水色に塗ったエリアが、仙川用水が給水していた水田だ。この地図には旧上仙川村の水田と、旧中仙川村の水田の一部が入っている。
分水路は消防大学校の敷地内で仙川用水から東に分かれ、かつて島屋敷と呼ばれ、現在新川団地となっている丘のまわりを迂回するように幾筋かに分かれ、仙川に合流していた。以下、この水路を仮称「仙川用水島屋敷ルート」としておく。
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はっきり残る島屋敷ルート水路跡

消防大学校から中原3丁目交差点までの区間は、1940年代後半の航空写真や地形図でそのルートを確認することができるが、現在ではほとんど痕跡を留めていない。わずかに交差点の南東側の、敷地の区画にその名残が残っている。写真奥から手前左に向かってコンクリート塀が続いているが、これがかつて水路が流れていたルートだ。
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中原3丁目交差点の北東側からは、車止めで仕切られ、緩やかに曲がりくねりながら東へ進む、水路跡の暗渠道が現れる。尾根筋を流れる仙川用水から仙川に向かう下り坂になっているのがはっきりわかる。水路跡の北側には畑地が残っている。
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途中で道を横切るところでも、しっかりと車止めが設けられている。写真の場所から北側に少しだけ離れたところにも、別の水路跡が残っているが、そちらは綺麗に整備された遊歩道となっている。
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一方こちらは下って行くとだんだんといかにも暗渠っぽい、少し荒れたというか放置されたような雰囲気が増してくる。
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そして、新川団地の西側に突き当たって暗渠っぽい道は消滅する。新川団地の周りを道路が円状に囲んでいるが、水路はかつてそこにそって南北二手に分かれていた。今回は南側をたどっていく。写真は団地の南側を曲がりながら進む道。曲がりくねっているのは水路の名残か。団地側が高くなっているが、ここがかつて「島屋敷」と呼ばれた丘で、文字通り水田の中に島のように小高く盛り上がって浮かび上がっていた。
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島屋敷と仙川用水

島屋敷は、もともとは中世の武士団であった金子氏の居城だったという。そして、前々回にも記したように、1615年に柴田勝家の孫、勝重(1579-1632)が仙川の地を領地として与えられ、島屋敷に居を構えた。これらは長い間その実在が確認されず、伝承の域にとどまっていたのだが、2000年代に新川団地が建て替えられた際の発掘調査で、大規模な遺跡が見つかり、屋敷が実在していたことが確かめられた。島屋敷の地には古くは旧石器・縄文時代より人が暮らした痕跡があり、13世紀以降は継続して生活が営まれていたようだ。下の写真は、新川団地内に設置された説明板に掲載された、島屋敷遺跡の全景。中央の茶色になっているところが発掘されたエリアだ。仙川用水島屋敷ルートに関連する水路のうち、今回たどっている水路を青いラインで書き加えた。
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屋敷は島屋敷東部の小高くなったところに設けられ、心字の池もつくられていた。ここで思いつくのが、この柴田家屋敷と仙川用水の関係だ。玉川上水からの分水は、灌漑を目的とするものが多いが、しかし初期に開削された分水はいずれも飲用水目的が第一であった。そして前々回に記したように、仙川用水の開削時期は1663年以前とかなり早い。このような早い時期に仙川用水が開削できたのは柴田家の力によるものではないかとする説もあるようなのだが、もしそうだとすると、この島屋敷に至る分水ルートは、屋敷の飲用水を確保するために、仙川用水開削当初につくられたものだという可能性はないだろうか。
島屋敷一帯はそばに仙川の源流があり水は豊富なのだが、島屋敷自体は小高い丘となっていて、三方を低地が取り囲み、仙川流域から水を引くことはできない。そんな中で唯一水を引けそうなのが、西側の台地からのルートだ。仙川用水島屋敷ルートはまさにそこを通っている。

柴田家の統治は1698年まで続き、以後、上仙川、中仙川は幕府の直轄地となった。一方で、遺跡の発掘調査の中で、18世紀に入って玉川上水の水を引くようになり、客土で嵩上げして水田を拡張したことが判明した場所がある。そんなことから、もしかすると仙川用水は当初柴田家屋敷の飲用水として開削され、17世紀末に柴田家から直轄地になってから灌漑にも本格利用され始めた、そして灌漑の効果を上げるために野川口分水が補助的に追加された、といった経緯があったのかもしれないt、といったような想像も思い浮かぶ。

島屋敷への分水路の開削時期については全く資料がなく、以上はまったくの推測ではある。柴田家とは関係なく、もっと後に追加して開削されたルートなのかもしれない。ただ、いずれにしても入間川養水ルートに引き入れられた水量のうち明治前期の時点で、三分の1が上仙川村の水利権となっており、その水量は直接仙川上流部に繋がる野川口ルートの5倍近くもあることから、この島屋敷ルートの分水が上仙川村エリアの水田の灌漑用水としてのメインルートであったことは明らかだ。

幕府の直轄地になってからの島屋敷は畑地となり、柴田家の屋敷も江戸後期には痕跡を残すのみだったようだ。1924(大正13)年には、畑地の中に漢方薬で知られる津村順天堂(現ツムラ)の薬用植物園が開設され、終戦直後まで続いた。そして、その後、1959年には、新川団地が完成した。島屋敷の地はもともとは今よりも凹凸があり、屋敷跡を囲むように緩やかに馬蹄形をした丘となっていたが、団地造成時にだいぶ削られたという。

さて、島屋敷の南東から仙川までの間、再び水路跡らしい区間が現れる。見るからにそれらしい路地だ。
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そして、住宅地の中をS字に曲がる、くたびれたアスファルトの道がその先に続く。両脇は50年前までは島屋敷を囲むようにドーナツ状に広がる水田だった。
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道を抜けると仙川に行き着く。すぐ南側には中央高速道が通り、向かいにはかつての砦跡ともいわれる天神山の緑地が残る。護岸に口を開ける土管はかつての島屋敷ルート合流口の名残だろうか。
仙川用水島屋敷ルートについての話題はここでひとまず終わるが、続いてここから仙川を少しさかのぼり、仙川の水源にまつわるポイントをいくつか辿って行こう。まずは、写真右側、川面から護岸に繋がる水色の配管に注目して欲しい。
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野川宿橋への導水

この配管は、仙川の河床の伏流水を取水し、仙川の上流部に送水する施設「樋口取水場」のものだ。1970年代初頭の大規模な改修以降、仙川の上流部は水量が減り、水質悪化や悪臭が発生した。これらを解消するために、下流部の豊富な湧水を上流に送って流すという解決策がとられ、1989年に稼働が開始された。この「樋口取水場」では川底の4箇所から伏流水を汲み上げ、一旦貯留した後に、1.6km上流の野川宿橋のたもとまで送水している(野川宿橋については前回記事で取り上げている)。「樋口」の名は、かつてこの場所に下流部のあげ堀に水を取り入れれる堰があったことに由来しているという。当初は3000立方m/日、現在では1300立方m/日が取水されており、これにより水質、水量とも大幅に改善し、川には魚や水鳥が戻ったという。

ユニークなのは、川沿いに導水管を通す土地がなかった区間では、河川敷の中、護岸に沿って導水管を通していることだ。下の写真は樋口取水場から800mほど上流の勝渕橋から下流方向を望んだものだが、護岸の下に白い導水管があるのがわかるだろう。これより上流は、川沿いの道の下を通しているという。
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勝渕神社と仙川の水源「丸池」

そして勝渕橋のたもと、やや小高くなった場所に、勝渕神社(勝淵神社とも)が鎮座している。もともと水神が祀られた地だったようだが、柴田勝重が社殿を設け、祖父柴田勝家の兜を埋めて勝渕神社として祀ったという。現在の祭神は灌漑用水や井戸の神として信仰されている、水波能売命(ミヅハノメ)だという。本殿の脇には兜塚が再建されている。
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鳥居の脇には「御神水」としてなぜか古びたポンプ井戸があった。しかし、残念ながら水は完全に涸れていた。
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勝渕神社のまわりはかつて湿地となっていて、あちこちで湧水が湧き出していたという。その様子はいくつもの釜を伏せたようであったことから「千釜」と呼ばれ、一般的には、これがのちに訛って「仙川」になったとされている。
湖沼学者吉村信吉の調査(1940)によって、一帯の地下には「仙川地下水堆」があることがわかっている。「地下水堆」は局所的に地下水位が浅くなっている場所で、千釜の湧水もこの地下水堆の水が地上に現れたものだったのだろう。勝渕神社付近から先ほどの樋口取水場辺りまでは「どぶっ田」と呼ばれるぬかるんだ田圃で、特に勝渕神社周辺は沼地のようになっていたという。

そして、これらの湧水のうち、勝渕神社の南東にあった湧水池「丸池」が、もともとの仙川の源流だったとされる。丸池は「勝ヶ渕」とも呼ばれていたようだ。現在ある丸池は場所や形は以前とほぼ同じではあるが、2000年に復元されたものだ。
かつての丸池は、そばを流れる仙川が改修工事により河床が掘り下げられた結果、池に湧き出すべき水が仙川に流出して干上がってしまい、1970年前後に埋め立てられた(その仙川に湧く水自体もその後の宅地化により地下水位が下がって仙川上流では湧き出さなくなり、先に紹介した導水に至る)。
その後丸池を復活させる動きがおこり、埋められた後も地下水が健在であることが確認されたことから、池が復元された。現在、3つの浅井戸から、あわせて1日80立方mの水が供給されている。湧水の吹き出し口は、池の底につくられていて、かつての「釜」で水が湧く様子が再現されている。
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池のまわりは「丸池の里」として整備されており、仙川のほとりには水田も作られている。水田の両脇には水路がつくられていて、かつての周囲の水環境を偲ばせる。
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忘れられた仙川もうひとつの水源「ベンテンヤ」

丸池から流れだした水は、梶野新田用水の末端と、仙川用水野川口ルートからの水の流れ、そして辺りの湧水や雨水を排水する水路(現在の勝渕橋以北の仙川とほぼ同じルート)に合流し、仙川となって下って行っていた。
さて、この近辺には丸池のほかにもうひとつ、仙川の主な水源だった湧水池があったという。その池は「ベンテンヤ」と呼ばれていた。「三鷹の民俗10 新川」には、「昔の仙川は丸池の水と、丸池から50mくらい離れたベンテンヤの水が合流したものを水源としていた。水位は同じくらい。ベンテンヤはカマ(水の湧く所)があちこちにあって水がたまっており、湿地帯のようになっていた。」と記されている。これによれば、はっきりした池というよりは湿地状になっていたのだろう。
一方で、三鷹市史(1970)には、1950年代に入って、上仙川地区に引かれた三鷹用水(つまり仙川用水)に汚水が流入するようになり、苗代用として不適当になったため、新川本村の「弁天池」を仙川に導水する「仙川用水路頭首工」が1956年に竣工し、灌漑に利用したと記されている。「頭首工」とは用水路の取水口施設のことだ。また「仙川用水路」とは仙川を指していると思われる。また、400mの用水路整備もあわせて三鷹用水土地改良区により実施されたとあるが、これがどこの区間を指しているのかはわからない。
こちらの記述が正しいとすると、弁天池はもともとは仙川にはつながっていなかったことになる。真相はどうだったのか。

下の地図は、東京都北多摩郡三鷹村土地宝典(1939)から水路を抽出し、googlemapに重ねあわせたものだ。仙川用水島屋敷ルートや、改修前の仙川の流れがよくわかるのだが、これを見ると、丸池の西に、ひょうたん型のような池があったこともわかる。丸池からの距離はちょうど50mほどあり、これが「ベンテンヤ」なのではないか。
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池からは二手に分かれて水路が流れ出していて、戦前から仙川につながっていたことがわかる。では三鷹市史の記述をどう捉えるのか、ということになってくる。「ベンテンヤ」は湧水池とはいえ湿地状だったということから、これを池として整備し、水路もはっきりと区画されたものに改修して、灌漑に利用できるようにしたのではないかとの推測もしてみたが、これ以上の情報が得られず、よくわからない。

ベンテンヤのあった場所は、今ではアパートや駐車場となっている。その一角、勝渕橋の西側に、道路の脇が凹んだ区画となっていて、そこに古びた祠が祀られている(5枚前の、勝渕橋からの写真で、右端護岸上のガードレールとカーブミラーが見える所)。
祠の中には変なお地蔵さんのようなものが置かれているが、これはおそらくかなり最近、かってに置かれたもので、本来この祠は弁天様だったと思われる。ベンテンヤの名前の由来はおそらくこの祠だ。側面にははっきり読み取れないものの安政年間に再建、との刻字があり、台座には上仙川村をはじめ仙川流域下流に至るまでの多くの村々の名前が彫られている。
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丸池や勝渕神社が今でも大切に扱われているのに対し、この祠は半ば放置され、特に標識や説明板もなく、存在感は薄い。しかし、台座に刻まれた村名からは、ここで湧き出し仙川を流れた水は、かつて流域の村々の水田を潤す貴重な水であったこと、そして小さな祠には、その水が涸れないようにという切実な祈りが込められていたであろうことが伝わってくる。
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次回からは再び仙川用水入間川養水ルートに戻り、入間川(中仙川)の流末までたどっていく。

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-04-01 00:20 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(0)