東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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狛江市南部一帯から世田谷区西南部、駅でいうと小田急線狛江駅から和泉多摩川駅の周囲とその南東側にかけてのエリアは、かつて清水川/岩戸川や宇奈根川/町田川と呼ばれる川やそれらから分かれていた水路が複雑に絡み合っていて、今でも多くの川跡・暗渠があちこちに残っている。このエリアの川跡・暗渠を辿り出すとそこはまさに迷宮だ。たどっているあいだにぐるっとまわって元の場所に戻ったりするし、どこかルートを定めて辿ろうとおもっても、あちこちに断続的に水路跡の空き地が残っていたりしてなかなか先に進めない。

普通なら宅地化が徐々に進み、主要な水路以外が埋め立てられたり主要な水路がより直線的に改修され、その後で暗渠化されるといったような何十年かかけた段階的なステップを辿りそうなものだが、このエリアは、水路に手を加える前に一気に宅地化と水路の廃止がおこったかのような様相となっている。

現在残存している暗渠・川跡や、古地図等から明確に川跡と判断できる道路に対して水路をプロットしたのが下の段彩図(カシミール3D経由の基盤地図にプロット)。網の目のように水路が絡みあい、何がなんだかよくわからない。戦前の地籍図を見ると、さらにたくさんの水路が描かれている。
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今回から何回かにわけて(断続的になるかもしれないが)、このエリアのうち主に狛江市内の川跡・暗渠を取り上げてみようと思う。まずさしあたって、上の水路図ではわけがわからないので、資料をもとにそれらの系統を推測し、色分けしてみたのが下の地図。わかりやすいよう主要な水路に絞って記してみた(多摩川、根川、野川以外はすべて現在暗渠もしくは川跡)。
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このエリアの川は「清水川」「岩戸川」とその支流として語られることが多いが、実は「六郷用水」からの分水が大きな位置を占めている。シリーズ「深大寺用水と入間川を紐解く」第16回でふれたように、六郷用水は1611(慶長16)年に開通し、1960年代から70年台初頭にかけて埋立て・暗渠化されるまでの間、多摩川の水を現在の世田谷・大田区方面に送り続けていた。

六郷用水はその名の通り、当初は六郷領のみに水利権があり、途中の世田谷領では1726(亨保11)年にようやく利用できるようになった。だが狛江では取水口があったためなのか、あるいは野川の流れが六郷用水で分断されたためなのか、開通直後から分水が引かれていたようだ。狛江市内の分水は大きく分けて3つあった。
まず「岩戸用水/岩戸川」。小田急線線路の南、駄倉保育園近辺で六郷用水から分岐した用水路は幾筋にも分かれて岩戸地区の水田を潤していた。この岩戸用水〜岩戸川のルートは、深大寺用水シリーズでも触れたように、六郷用水開通以前は野川の下流だったと推測される。
つぎに「内北谷用水」。こちらは現在の狛江駅北口付近で分水し、内北谷地区の水田を潤した後、岩戸川に接続していた。
そして「猪方用水」。こちらは前の2用水より後、寛文年間(1661〜72年)の開削と伝えられる。元和泉で六郷用水より分かれ、猪方地区を灌漑したのち駒井地区に流れていった。猪方用水からは「相の田用水堀」と呼ばれた用水路もわかれていて、泉龍寺の弁財天池から流れ出す清水川に接続されていた。
「清水川」はもともとは岩戸川につながっていたが、六郷用水開通後は岩戸、猪方、和泉の3地区の境界地点から掘割を開削して南下し、駒井地区と猪方地区の灌漑に利用されていた。この掘割の区間も清水川と呼ばれていたという。流末は猪方用水の一流と合流したのち町田川へと接続されていたようだ。

さらに「三給堀(さんきょうぼり)」と呼ばれる用水路もあった。これは六郷用水からではなく根川の水を導水していた。どういうことかというと、根川の流れを六郷用水取水地点付近で掛樋で越えさせて導水したのだ。今では涸れ川となっている根川だが、当時は上流部の灌漑に使っても余るほどの湧水が流れていたという。こちらは天保年間(1830〜43年)に開削され、西河原地区の水田を潤した後、和泉玉川駅の西方で猪方用水に接続していた。

こうして見ると、清水川/岩戸川は六郷用水からの分水に組み込まれていたこと、狛江エリアでは2つの川は別物として捉えられていたことがわかる。
なお「世田谷の河川と用水」では泉龍寺弁財天池の源流から喜多見で野川に合流するまでを「清水川」、慶現寺付近から分かれたのち宇奈根地区南側を回りこんで合流する流れを「町田川(宇奈根川)」としており、また岩戸川の名称の記載はない。当然ながら地域によってそれぞれの呼び方があったのだろう。今回の記事では狛江市での呼び方に倣ってすすめていく。

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ざっと全体像を把握したところで、いよいよ実際に暗渠・川跡を辿っていこう。
まず最初にとりあげるのは狛江駅のすぐ近く、揚辻稲荷から流れ出していた小川だ。下の地図の中央から右下にかけての細い青いラインがその川だ。すぐそばの紫色のラインは清水川である。
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狛江駅南口、ロータリーの北側の飲食店が雑然と並ぶ一角を奥に入って行くと、すぐに周囲は宅地となり、その一角に揚辻稲荷神社がある。敷地は狭いもののしっかりした鳥居や参道の敷石、刈り込まれた木などからは、今でも信仰されている様子が伺われる。
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揚辻稲荷は別名「谷田部稲荷」とも呼ばれ、狛江地区の旧家である谷田部一族の祀る稲荷社だ。狛江の谷田部氏は甲斐武田家に仕えた後、16世紀後半に狛江に土着した一族であるという。
社殿の裏側に回りこむと、かつての湧水池が石垣に囲まれた窪地となって残っている。
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現在はまったく涸れ果てているが、1960年代初頭までは滾々と水が湧き出していたという。狛江駅北側、泉龍寺の弁財天池からは200m足らず。同じ水脈だったのだろうか。社殿の裏手から湧水に降りる階段も設けられている。いわゆる釜のような湧水だったのだろうか。
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東側には川の流れ出していた跡も残っている。水路の幅は1.5mほどだったといい、農業用水として利用されていた。
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とても通り抜けられる様子ではないので、反対側に回りこむ。川跡の草叢が続いている。灌漑に利用されるようになってからは、水路はここで直角に左側の路地の方に折れていた。左手前の白いブロック塀の辺りには戦前には洗い場が設けられていたそうだ。
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その路地の入口には、水門の跡のような構造物がある。この辺りの水路跡を探索した人にはわりと知られている物件だが、半ばアスファルトに埋もれた部分はともかく上側のブロック塀に設けられている溝は何なのだろうか。
路地の突き当りは清水川の暗渠が右から左に流れている。
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突き当り左(東)側にぽっかりと現れる水路敷の風景。一見かなり幅広の川が流れていたように見えるが、実はここには2本の水路が並行して流れていた。
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水路のイメージを描き加えてみると、下の写真のようになる。幅の広い水路敷のうち右端を清水川が、左端を谷田部稲荷からの川が流れていた。地元では前者を「お寺の川」、後者を「お稲荷さんの川」とも呼んでいたようだ。二つの水路の間には土手が築かれていたという。
揚辻稲荷からの水は岩戸地区の灌漑に、清水川の水は岩戸地区には入らず猪方地区の灌漑に使われており、それぞれの水の用途を厳密に区分するためにこのような並行する2本の水路となったと思われる。
清水川源流の泉龍寺には駒井地区、猪方地区から毎年末に「水年貢」が納められたといい、なんと1967年までその慣習が続いたという。一方で揚辻稲荷にも稲荷講の際に岩戸地区などの湧水利用者からわずかながらやはり水年貢が献上されていたという。
この並行水路は1960年代空中写真でも確認でき、暗渠化直前まで残っていたのだろう。
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水路敷はやがて世田谷通りを越える。2本の水路を渡る橋は「溝橋」と呼ばれていた。ここから通りを150mほど北東に向かった狛江三叉路付近には、1900年に旭貯金銀行狛江支店が開業して以降、飲食店や商店、カフェ、芝居小屋が集積し「銀行町」と呼ばれる繁華街となっていた。先の揚辻稲荷は、銀行町で商いを営む人々からも信仰を集めたという。1960年代に世田谷通りが拡幅されたことで銀行町は衰退し、今ではほとんどその面影はない。
通りの先には砂利敷の道とその脇の奇妙な空き地が続いている。
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砂利道に入るとすぐに、右側に半ば埋もれた護岸つきの水路が現れる。清水川の流路だ。こちらも面白いのだが今回の主役は揚辻稲荷からの川。
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右隅に少し見えるコンクリート護岸が清水川の流路、そして左側の砂利道のところが揚辻稲荷からの川の跡となる。
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2本の川跡はゆっくりカーブを描いてその向きを南東から東に変える。下の写真は途中で振り返った様子。左側の茂みと草地の境目に清水川の空堀が窪地となって残っている。2本の水路に挟まれた草地のところはかつては水田だった。今でも何となくその姿が想像できる。
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こちらは空き地の終点付近。この辺りでは2本の川はかなり接近していた。右側に続く浅い窪みが清水川の跡だが、左側に埋もれて続いているコンクリートの構造物は揚辻稲荷からの川の護岸跡だろうか。
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空き地を抜けた地点。車止めのところを左右に抜ける道はかつての大山道だ。ここには
2本の水路に橋が連続して架かっていて「二つ橋」と呼ばれていたという。
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ここから先は、緑道となった暗渠が始まる。現在残る痕跡からは、清水川がこの暗渠につながっていたように見えるが、実際にこの暗渠の方に流れていたのは揚辻稲荷からの川の方だ。
清水川はここで南に向きを変え、南側の微高地を掘割で猪方の低地に抜けていた。写真右の車が止まっている道のところにかつてその掘割が通っていたのだが、現在は完全に埋め立てられて全くわからない状態になっている。
揚辻稲荷からの川跡は、緑道に入ってすぐに、左側から来る岩戸用水の分流+内北谷用水からの余水を受けた流れの暗渠に合流して終りとなる。
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最後に復習の地図を載せて今回の記事は終了。
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狛江の暗渠・川跡の全てを取り上げるのはまず不可能なので、こんな感じで次回以降もポイントをしぼって紹介していきたい。参考文献はどこかのタイミングでまとめて記すことにする。

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-06-27 23:45 | 野川とその支流 | Comments(2)
練馬区の北辺、板橋区と和光市との境界付近にある広大な公園「光が丘公園」は、南に接する光が丘団地とあわせて、かつての米軍住宅「グラントハイツ」さらにその前は陸軍成増飛行場だった土地だ。
小学生の頃神保町三省堂で買った2万五千分の1地形図では、光が丘一帯は確か「旧グラントハイツ」と付記された広大な空き地として描画されており、興味を惹かれる場所だった。1983年の夏に地下鉄有楽町線が営団成増まで開通したとき、クラスの友達をそそのかして城北中央公園に復元されている竪穴式住居と、光が丘の空き地に最近出来たという「光が丘公園」を見に行った。その翌春には、クラスのみんなで光が丘公園の原っぱに卒業記念お花見会をしに行った。その年の春の東京は記録的豪雪で、桜はひとつも咲いていなかったけど。
高校3年生の早春、大学受験が終わり卒業式までの、宙ぶらりんの日々にもこの原っぱを訪れ、出たばかりの仲井戸麗市の「絵」を聴きながら空を眺めていたことを思い出す。その原っぱの北側に、白子川へと注いでいた川の暗渠があることは、たぶんその頃には知っていたように思う。
そして、かつてその流域に川を堰き止めて作った池を囲むように「兎月園」と呼ばれる遊園地があったことも、働きはじめる頃までには古地図で確認はしていたはずだ。ただその後も、光が丘公園を訪れることはあっても、暗渠を訪れる機会には巡り合わなかった。
ひと月ほど前の晴れた日曜日の夕方、光が丘周辺を訪れた帰路に、ふとこの暗渠のことを思い出した。ちょうど地図も手許にある。時間も少し余裕がある。そんなわけで成増駅までの道のりを少し遠回りして、この暗渠を下ってみることにした。部分的に整備された暗渠は短いながらメリハリがあった。そしてふとした会話から「兎月園」が、東武鉄道による事業ではなく、一個人の事業から始まったということを知り、俄然興味が湧いた。そんなわけで、現地を訪れた後に兎月園について調べてわかったことを織り交ぜながら、川を源流から下って記事にしてみようと思う。

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川の名前は、そのかつての水源池から仮に「白子川於玉が池支流」としておこう。まずは現地の段彩図を(google earth経由「東京地形地図」をキャプチャ)。
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於玉が池支流は、光が丘公園から東武東上線成増駅/有楽町線の地下鉄成増駅にかけての成増台に深い谷を刻んで流れていた。谷が白子川に向かって西に折れる辺りに兎月園があった。東側には百々向川(ずずむきがわ)の谷が、西側には「旭町はんの木緑地」となっている谷が刻まれている。

於玉ヶ池

かつての川の源流だった「於玉ヶ池」は現在の光が丘公園敷地内の北にあった。「於玉ヶ池」を旭町2丁目アパート付近にも池があった時期があり(下の地図で2つならんだ水色の池)、これを「於玉ヶ池」としているネット情報もあるようだが、これは昭和初期の地図でのみ確認できる別の池で、詳細は不明だが一帯の区画整理と関係があるのかもしれない。
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「みどりと水の練馬」によれば、明治9年の下土支田村「明細書上帳」に、東西11間(20m)、南北21間(38m)、周囲66間(120m)の「於玉が池」として、明治7年の「東京府志料」に、周囲60間(109m)ほどの「御玉が池」として記録が見られるという。古地図を見ると池より更に南側にも谷筋が続いていたようだ。だが一帯は1943年、陸軍成増飛行場建設にあたって大規模に造成され、於玉ヶ池は谷ごと埋め立てられた。
飛行場は戦後アメリカ軍に押収され、1948年、広大な米軍住宅地「グラントハイツ」になった。このころの航空写真を見ると、於玉ヶ池支流の上流部が現在残るルートに付け替えられ、グラントハイツの敷地に少し食い込んでいる様子が映っている。敷地内に降った雨水や埋め立ててなお残る湧水などの排水路にしていたのかもしれない。
ちなみにグラントハイツの下水は、花岡学院(後述)のあった谷筋(現はんの木緑地)を潰してつくった下水処理場に集められ、谷筋にそって白子川に注がれていた。
グラントハイツは1950年代末から部分的にわずかな返還が始まったものの、すべての土地の返還は1973年にようやく終了した。広大な敷地の南側は都営住宅と公団住宅の団地(1983年入居開始)、そして北側が光が丘公園(1982年部分開業)となった。

於玉ヶ池支流暗渠を下る

光が丘公園の北側出口を出てすぐに、水路跡の道は始まる。最初は車道だが、少し北上した旭町2丁目アパートの脇から、シンプルな車止めの立てられた暗渠道が始まる。左右を見ると谷となっていることもはっきりわかる。
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暗渠はまっすぐ北に向かっていく。両側の土地とはわずかながら高低差があり、コンクリートブロックの踏み台なども見られる。
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この辺りの水路がまっすぐなのは、昭和初期の区画整理事業(赤塚第1、第2土地区画整理組合)にあわせて直線化されたものと思われる。一帯は風光明媚な住宅地として売りだされたという。
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暗渠が西に向きを変える前後の区間は、遊歩道として整備されている。婦警さんのイラスト付き看板がたっていた。
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川沿いの、台地上から谷底にかけての斜面が一部、草地で残っていた。午後の陽射しを受けて長閑だ。
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カーブの区間が終わると遊歩道も終わり、傾斜のきつい暗渠となる。横切っている道は「兎月園通り」。そして通りの向こう側はかつての兎月園の敷地だ。大正後期から終戦直前までのわずかな期間存在した、高級料亭を有する敷地一万坪の遊園地。暗渠を辿った時点ではその程度しか知らなかった。
かつては写真の地点から右へ行くと正門が、すぐ左には長屋門があった。長屋門は勝海舟の赤坂邸から移設したもので、何と現在でも石神井の三宝寺に移設されて現存しているという。
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兎月園通りから暗渠を下って、いったん平坦になった辺りから上流方向を振り返ってみる。道路の幅が不均等で不自然だ。この辺りに池があり、ボートや屋形舟が浮かべられていたという。池の広さは1500平米というから長さ50〜60m、幅30m〜40mくらいのものだったのだろう。
写真の右側、フレームから外れた辺りの池畔には立派な藤棚があったようだが、この藤棚は現在練馬東小学校に移設され、区の文化財になっているそうだ。
池の北側には兎月園の中核である料亭本館があった。和洋折衷の建屋には座敷があり、宴会場や結婚式場としても使われたという。そして池の周りの斜面には梅、桔梗、萩、竹、紅葉と名付けられたいくつかの数寄屋造りの離れが点在し、それらの間の移動には担ぎ駕籠が使われたという。
練馬区のサイトには当時の池の写真が掲載されている。おそらく池の南側から北に向かって撮影されたもので、奥に見える建物は離れとおもわれる。
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暗渠の谷の南側を下る階段。かなり急で、高低差もある。池の南側の丘の上には催事広場があって、運動場として使われたり、相撲の巡業やボクシングの興行もあったという。また、その更に南側には小動物園があって、ポニーや猿などが飼われていて、一角には簡素な遊具もあったようだ。
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かつて池だったところを抜けていく暗渠。アスファルトの継ぎ目が水路を示している。
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その先は立ち入れない、雑草生い茂る暗渠となっていて、猫が日向ぼっこをしていた。兎月園の池は川をこの辺りで堰き止めて水を溜めていたようだ。池から流れでる水は5mほどの滝になっていて、写真の右奥のあたりには露天の岩風呂を有する浴場があって、その滝を眺められるようになっていたという。今の風景からはとても想像がつかない。
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暗渠は通り抜けられないので、先ほどの階段を登って西側に回りこむ。谷を横切る道からは谷筋の窪地がはっきりわかる。この道の右側の手前から奥に見えるマンションの手前までが兎月園の料亭部分の敷地だった。
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坂を下って、先ほどの雑草暗渠を下流側から眺めてみる。道路や両側の土地は盛土がされているのだろう。暗渠の底はかなり深い。写真左側のあたりに四阿があって、その奥にはさきほどの浴場、そして右側の奥には宴席用の離れのひとつがあったという。
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下流側の暗渠は再び遊歩道となっている。道路から本来の川面の高さまで階段で下っていく。左岸側には台地から谷底への斜面が迫っている。下った右側の家の庭には小さな池があるようだった。
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途中で上流側を振り返る。左岸(写真右側)の擁壁の上は盛土をしてマンションとなっているが、かつては鬱蒼とした森林の斜面となっていて、その南側の台地の上には兎月園のテニスコートがあった。
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暗渠はバス通りを横切り、更に下っていく。
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通りに面した北側の台地の斜面には出世稲荷が鎮座している。境内にはかつて兎月園にあった大鷲神社の祠も祀られている。
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暗渠はどんどん下っていく。川だった頃、その水流は速かったのだろう。奥にはもう白子川沿いの段丘斜面の緑が見える。
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暗渠の道は白子川に突き当たって終わる。正面、柵の下のコンクリートの真ん中には切り込みが入っていて、取り外し可能な板がはめられている。
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柵から下を見ると、かつての暗渠の出口を塞いで、新しい弁付きの排水口がつけられていた。先ほどの板には取っ手が付いている。暗渠上の雨水を白子川に流すためだろうか。
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白子川に合流するまでの数メートルの区間だけは、水路が残されていた。於玉ヶ池支流唯一の開渠区間といっていいだろうか。川の向こうは埼玉県だ。
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こうして於玉ヶ池支流散策を終え、途中まで引き返して兎月園通りを成増駅に向かう帰路、「兎月まんじゅう」なるものを売っている和菓子屋さんを見かけた。店内に入ってまんじゅうを購入したついでに、おかみさんにまんじゅうの名前の由来を聞いてみた。それをきっかけに伺えた兎月園や於玉ヶ池支流の話は予想外に面白いものだった。

・1963年頃に兎月園通りに引っ越してきた。グラントハイツがすぐにも返還されると不動産屋に言われこの場所を選んだが、実際には返還までにそれから10年かかった。引っ越してきた当時は、家の裏手はニンジン畑で、肥溜めを肥料にしていた。

・池袋の方から来る年配の方々からは、ときおり、子供の頃遠足で兎月園に来たという話を聞く。引っ越してきた当時は兎月園のことにはあまり興味はなかったが、今になって考えると、もっと昔を知るお年寄りの話を聞いておけばよかったと思う。

・兎月園は東武鉄道ではなく、一個人が始めた。この一帯は妙安寺の土地で、兎月園も寺の土地を借りていた。なので、兎月園がなくなってからもあまり急には開発は進まなかったようだ。なので、少し前までは庚申塔などの石造物など、兎月園の痕跡が残っていた。

・兎月園に関する資料はなぜかほとんど残っていないらしい。残されている資料でも、該当する箇所が墨塗りになっているものもあると聞いた。成増飛行場などの軍事施設と関係があるのかもしれない。東条英機もお忍びで兎月園に来ていたそうだ。

・成増地域では唯一の茅葺き家屋が近くにあって、経営者の子孫が今でもそこに住んでいる。ただ、兎月園のことを聞いても話してくれないという。

・今では川も暗渠になってしまったが、もともと湧水が豊富な土地で、暗渠沿いで今でも湧水を引いた池がある家もある(途中で見かけた家か)。その家では最近池を小さくしたのだが、光が丘公園の池に住んでいるシロサギが鯉を狙いに来るので、入れないよう小さくしたのだという。

こんな話を聞けば、兎月園への興味が膨らまないわけがない。帰ってから数日後、図書館で古地図や資料を漁ることとなる。行き着いた資料のひとつ「月刊光が丘」に掲載された「幻の兎月園を探る」と題した記事には、和菓子屋のおかみさんに聴いた話の一部も含めて、兎月園のことが詳しく記されていた。

兎月園のなりたち

兎月園は1921(大正10)年に、貿易商花岡知爾の手によって開設された会員制農園「成増農園」がその前身だ。華族など、都心の裕福層の日曜菜園として作られた農園には、週末になると会員が訪れた。周囲に休憩できるような施設が何もないことから敷地内に茶店がつくられ、これが発展した料亭を中核にして兎月園が開設されたという。設備の拡張とともに兎月園はやがて行楽地として賑わうようになった。料亭のほか、今まで述べてきたようにボート池、浴場運動・催事広場、猿、熊の檻、放し飼いの兎、ポニーなどのいた小動物園、有料の遊具を配した小遊園といった施設、そして花園(百花園のようなものだろう)や映画館まであった。正門前には茶店、仕出しや、土産物屋が並んだという。池袋からは東上線のほか、直通のバスも運行され、和菓子屋のおかみさんも言っていたように、遠足の行き先にもなっていたという。
一方で料亭は、華族、政治家、財界人などの利用も多く、高級料亭としての位置づけを保っていたようだ。利用者の中には秩父宮殿下もいたという。

東武鉄道とのかかわり

「月刊光が丘」では、東武鉄道の社史をみる限り、東武鉄道と兎月園との関わりは見いだせないとしている。確かに「月刊光が丘」刊行時点での最新の社史「東武鉄道65年史」には兎月園については一言も触れられていない。一方で、東武鉄道による事業としている資料もある。
1998年に刊行された「東武鉄道百年史」を確認したところ、「会社として取り組むだけの規模をもたなかった2つの事業」のひとつとして、東武鉄道としてではなく、根津嘉一郎の個人事業として、兎月園の記述があった(もうひとつは「朝霞大寺院」)。花岡知爾が1921(大正10)年にはじめた「成増農園」を、成増付近の発展のため共同事業として再生したと記されており、この記述からは、出資はしたのだろうけど、やはり東武鉄道や根津の事業とは言えないだろう。
ちなみに初代根津嘉一郎は1940年に死去し、社長業を継いだ長男の藤太郎(当時27歳)が嘉一郎の名を襲名している。

兎月園の敷地

兎月園の敷地は大正末期から昭和前期の地図には必ず載っていて、その知名度が高かったことを伺わせる。ただ、その敷地の範囲は地図によって異なっている。地主の妙安寺の境内までがその敷地として描かれている地図もあった。詳細な地図でない場合はあまり正確には描かれていないのだろう。
その中で「光が丘の地歴図集」という郷土史料地図に、敷地内の施設の配置まで詳しく記した「成増農園と兎月園の復元図」が載っていた。それを参考に現在の地図に主な施設をプロットしたのが下の地図だ(暗渠探索本文中の施設の位置も、この復元図を参考に記した)。
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興味深いのは「大宴席」とも呼ばれた離れの場所だ。前の方で紹介した練馬区のサイトにある写真の真ん中に映っている大きな茅葺屋根の建物が、おそらくその大宴席だ。一方、現在のgoogle mapの空中写真を見ると、ちょうどこの辺りに茅葺屋根の家屋がある。和菓子屋さんのおかみさんの話にあった、子孫の方が住んでいるという家屋だ。つまり、兎月園の建物が今でも残っているということになる。
なお、当時の地図によっては、テニスコートの北側、出世稲荷の前を通る道までの於玉ヶ池支流流域も兎月園としているものもある。戦前の地形図や戦後直後の航空写真を見ると林だったようだが、実体はどうだったのだろう。いずれにしても兎月園と同じく、妙安寺の土地なのだろう。

兎月園のあった時期

兎月園は当時豊島園と並ぶくらい知名度があったのだが、その存在した正確な期間ははっきりした記録が残っていないようだ。開設時期については1921(大正10)年の成増農園開園以降であることは間違いないが、「みどりと水の練馬」では1924(大正13)年、「光が丘の地歴図集」では1925(大正14)年以前、「月刊光が丘」では1926(大正15)年以前としている。
一方閉園については「みどりと水の練馬」では戦争による営業悪化で1942〜43(昭和17〜18)年に、「月刊光が丘」や「東武鉄道百年史」では戦争の影響で1943(昭和18)年に、「光が丘の地歴図集」では1944(昭和19)年で成増飛行場造成の影響によるものと推定している。果たして閉園の時期と理由はどうだったのだろう。
「月刊光が丘」では1943年閉園とする一方で、成増飛行場の特攻隊が、特攻の前夜に兎月園で楽しんでいたとの聞き書きも記されている。特攻隊が組織されたのは1944年秋であり、とすると閉園は成増飛行場開設後となる。表向きの閉園の後も、料亭が成増飛行場との関連で密かに営業を続けていたという可能性はないだろうか。おかみさんの話していた黒塗りの資料のこととあわせると、そこには何か秘密めいた気配も感じられなくはない。

花岡学院

そして兎月園のあった於玉ヶ池支流の西側、現在はんの木緑地となっている谷には、花岡知爾の兄で小児科医の花岡和雄が大正14年に寄宿制の私立小学校「花岡学院」を開設していた。広大な敷地内はモダンな校舎や体育館、湧水を利用したプールなどが点在し、鷺の池と呼ばれた湧水池や、そこから流れ出す「ほたる川」など自然も豊かで、夏期には林間学校も開校されていた。
しかしこちらは激化する戦況の中で経営が立ち行かなくなり、神田区立武蔵健児学園となった。そして終戦後は米軍に接収され、湧水や川は潰されてグラントハイツの汚水処理施設が作られてしまった。施設では大量のハエや悪臭が発生し、60年代には大きな問題となったという。

兎月園創設者の花岡知爾、そしてその兄で花岡学院創設者の花岡和雄。この二人は華岡青洲の甥の血筋にあたるという。知爾氏は海外渡航経験もある貿易商、和雄氏は小児科医と、当時では進歩的な人たちだっただろう。そして兎月園も花岡学院も、そういった二人の資質が具現化した施設だったように思える。そしてそれらの試みは戦争の荒波の中で挫折してしまった。
花岡知爾は、兎月園の閉園と同時期に家族も亡くし、失意の中で1945年に亡くなったという。

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白子川於玉ヶ池支流の暗渠沿いの静かな街並み。於玉ヶ池は完全に光が丘公園の敷地の下に埋没してしまっているし、兎月園の名残はおろか、成増飛行場やグラントハイツの面影も、今ではほとんど感じられない。ただ、兎月園通りの名前と、兎月まんじゅうが、そこにかつてあった幻の遊園地の存在を証言しているのみだ。買ってきた兎月まんじゅうを、兎月園のことを想いながら食べてみた。町の和菓子屋さんの、懐かしいような味がした。
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主要参考文献

東武鉄道社史編纂室編 1998「東武鉄道百年史」
株)協同クリエイティブ編 1992 「幻の兎月園を探る」『月刊光が丘 1992年10月号』所収
練馬区編 1989「みどりと水の練馬」
山之内光治 2007「光が丘の地歴図集」改訂増補
山之内光治 2008「光が丘昭和時代の地図帳」
山之内光治 2008「練馬村の変遷図集」

日本地形社 1940 「三千分の1地形図 成増」『帝都地形図第1集』所収
日本統制地図株式会社 1941「最新大東京明細地圖町界丁目界番地入」
日本地図株式会社 1947「新東京区分図板橋区詳細図」
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by tokyoriver | 2012-06-07 23:31 | 白子川とその支流 | Comments(22)