東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

<   2012年 07月 ( 2 )   > この月の画像一覧

狛江市内にひろがる暗渠・水路跡の迷宮を辿る3回目は、前回の「内北谷用水」にひきつづき六郷用水の分水「相の田用水堀」をとりあげる。現在の小田急線狛江駅西方にあった旧和泉村田中地区の「相の田」と呼ばれた水田を灌漑し、泉龍寺の弁財天池から流れ出す清水川に合流していた用水路だ。下の地図でピンクの枠で囲った中の、青色のラインとなる。なお、地図上に描かれた水路はいずれも現存しない。
相の田用水堀はもともとは六郷用水から直接分水されていたが、寛文年間(1661〜72年)に猪方用水が開削されて以降は、猪方用水から分水されるかたちとなった。廃止時期ははっきりしないが遅くとも1960年代にはなくなっていたと推測される。
c0163001_23365825.jpg

現地を辿って見る前に、段彩図で地形を見てみよう(カシミール3Dで基盤地図情報を読み込み作成。緑が濃くなるほど低地)。先日の「東京人」の地形特集で訳の分からない記述があったが、六郷用水は段丘の下ではなく上を、掘割を開削して横切っていた。猪方用水も狛江駅南東の猪方の灌漑が主目的なので、和泉地区では本流は微高地上を通り、効率良く送水できるようになっている。一方、相の田用水堀は微低地を縫うように抜け相の田の低地に入り、その低地は清水川の谷筋の谷頭に繋がっている。
c0163001_2337796.jpg

前回の内北谷用水同様、この相の田用水堀についても資料は少ない、というかほとんどない。また、痕跡も断片的にしか残っておらず、知っていなければ水路がどのルートを流れていたのか判断するのが難しいかもしれない。しかし、この用水路が流域の水田の灌漑だけではなく、清水川の源流に接続して湧水を補うという重要な役割も果たしていた。そんな訳で地味ではあるが上流側よりその痕跡を辿っていくことにする。

*********

現在六郷さくら通りとなっている六郷用水跡。かつて猪方用水が分水されていた地点の付近から上流方向を望む。右手の林の公園一帯はかつては大塚山と呼ばれた高台で、六郷用水を偲んでか、人工のせせらぎが設けられている。猪方用水は分水された後4mほどの深い掘割で大塚山を抜けていたという。
c0163001_23371348.jpg

分水地点のすぐ東側には狛江市の運営する「むいから民家園」がある。敷地の北側、写真の道に沿って猪方用水が右手前から左奥に流れていた。むいから民家園は、かつて小田急線沿いにあった江戸後期の古民家江戸後期の古民家を移設し、2002年に開園した。庭先を含めて長閑な農家の風景が再現されている。
c0163001_23371679.jpg

民家園の茅葺き農家の中には、1935年前後の猪方用水分水地点付近の絵地図が展示されている。猪方用水の取水口のすぐ下流側に描かれている「日本水道採水場」では、ここから500mほど南東の狛江第三中学校のところにあった「狛江浄水場」の水を取り入れていた。狛江浄水場は1932年、日本水道株式会社が給水を開始した。当初は多摩川の伏流水を汲み上げて使用していたが、1934年〜36年にかけて拡張工事を行い、六郷用水からも導水するようになったという。採水場だった場所は現在田中橋児童遊園と名づけられた小さな公園になっている。そして絵地図の民家園の下、猪方用水から下にわかれるように描かれているのが相の田用水堀だ。
c0163001_23372470.jpg

下の写真が現在の相の田用水堀の分岐点。右奥に進む道が猪方用水で、中央で分かれている道がかつての相の田用水堀だ。水が流れていた頃を偲ばせるものは何一つ無い。
c0163001_23372871.jpg

猪方用水開削以前の相の田用水は、猪方用水分水地点よりやや下流の田中橋付近、「橋場」と呼ばれた辺りで分水されていたという。田中橋は全長10m、幅4mほど。橋の下の六郷用水は水面まで4mほどあったといい、橋の袂に洗い場があったものの、登り降りが大変だったという。現在は交差点にその名が残るほか、すぐそばの稲荷社の脇にコンクリート橋の親柱が残されている。写真手前の親柱には「田中橋」の名が、奥の親柱には「昭和4年2月」の竣工年が刻まれている。
c0163001_23373143.jpg

現在田中橋の交差点を南北に横切る新道が造成されている最中だが、その東側には相の田用水堀の水路跡が未舗装のまま残されている。
c0163001_23373827.jpg

未舗装区間はほんの数十mだが、なかなか風情がある。かつて水が流れていた頃の風景を想像できる唯一の場所かもしれない。
c0163001_23374466.jpg

下の写真は未舗装区間の終点を振り返ったところ。左右に横切っている道はかつて鎌倉道とも高井戸道とも呼ばれた古道で、高井戸から祖師谷を経由し、南下して多摩川を船で渡り登戸まで続いていたという。細いながらも現在でも都道扱いとなっている。
用水路は鎌倉道を潜ったのち写真左から右へ流れ、右端で手前に折れていた。その折れる地点に石造りの欄干が映っているのがわかるだろうか。
c0163001_23374852.jpg

近くから見ると側面に「鎌倉橋」の名が刻まれている。以前「「道角橋」と「田端橋」–失われた川に架かっていた2つの石橋の運命 」の記事で紹介したのと同じタイプの欄干だ。この欄干は昭和初期のものと伝えられており、前の写真の未舗装道終点のところに架かっていたと思われる。名前が鎌倉道に由来するのは間違い無いだろう。
c0163001_23375286.jpg

鎌倉橋欄干より先、相の田用水堀は写真の道に沿って東へと流れていた。右岸側(写真で道路の右側)がかつて相の田と呼ばれた水田だったところで、水田を挟んで南側には分水路が分かれていて、水田への水の出入りを制御していた。
c0163001_23375776.jpg

用水堀の本流はただの道路となっているが、こちらの分水の痕跡らしきものは住宅地の合間にぽつりぽつりと残っている。下の写真は水路敷と思われる細長い空き地。
c0163001_2338337.jpg

そしてこちらは水路敷が通っていたと思われる地点で両側の家の塀が不自然に切れている。
c0163001_2338920.jpg

泉龍寺の山門に続く道のところではついにはっきりした水路跡(暗渠?)が現れる。
c0163001_23381561.jpg

よくよく見てみると、雑草に囲まれてコンクリート蓋が続いているのがわかる。近づいて確認したいところだが、さすがにこの中に入っていくのは厳しい。
c0163001_23382236.jpg

反対側に回りこむとそこはもう狛江駅の目の前だ。水路跡の出口は防災倉庫で塞がれている。
c0163001_23395882.jpg

北東側に引いて見るとこんな感じ。水路は左奥の防災倉庫のところからおそらく手前に流れ、手前の不自然な車止めのあるあたりで、相の田用水堀本流と、写真右側外れにある泉龍寺の弁財天池・ひょうたん池から流れ出した清水川に合流していたと思われる。清水川はこの不自然な二重の車止めの辺りを右から左に向かって流れていた。
c0163001_23401340.jpg

ここから先は清水川の記事で改めて扱うことにしよう。最後に復習の地図を掲載。
c0163001_23403594.jpg


(つづく)
[PR]
by tokyoriver | 2012-07-24 23:12 | 野川とその支流 | Comments(0)
狛江市内にひろがる暗渠・水路跡の迷宮を辿る2回目は、六郷用水の分水「内北谷用水」。内北谷は旧和泉村の字名で、北側では同じ和泉村の北谷、南側では旧岩戸村に接している。かつてそこにあった水田を潤していた用水路が内北谷用水だ。下の地図でピンクの枠で囲った中の、青色のラインとなる。
※なお、地図に描画した水路はすべて現在では埋め立てもしくは暗渠化されている。
c0163001_22544565.jpg

前回も記したように、六郷用水は当初、六郷領のみに水利権があり、途中の世田谷領では1726(亨保11)年にようやく利用できるようになった。しかし、狛江では取水口提供の見返り、もしくは六郷用水で分断された野川の代替なのか、開通直後から分水が許されており、最終的には3本の分水路が引かれていた。内北谷用水はそのひとつにあたる。

内北谷用水について触れた文献は少なく、またネット上でもざっと見た限りこの用水路を取り上げたサイトはなかった。そんな忘れられた水路なのだが、今でもその痕跡は部分的に残っている。それらを辿っていこう。

内北谷用水本流

エコルマホールのそびえる狛江駅北口。現在ではかつての風景は抹消されているが、写真中央の歩道を手前から奥左側に向かって、1965年まで六郷用水が流れていた。写真の右側外れにはかつて狛江尋常高等小学校(現狛江市立第一小学校)があり、その前の通称「堰場」と呼ばれていた場所(おそらく写真手前か、正面の植え込みあたり)で、内北谷用水が分水されていた。
c0163001_22545931.jpg

歩道を東に歩いて行くと、エコルマホールの向いに、六郷用水に架かっていた「駄倉橋」の親柱が保存されている。明治後期には「めがね橋」と呼ばれたアーチ状の構造の橋。その駄倉橋のすぐ南側に、内北谷用水に架かる和泉橋があった。六郷用水は深い掘割を流れていたのに対し、内北谷用水はかなり浅かったようだ。
二つの橋の上を通っていたのは品川道/筏道と呼ばれる古道。多摩川を筏で下った筏乗りが、六郷の河口で筏を材木として引き渡した後、この道をたどって奥多摩まで帰ったことから筏道と呼ばれ、また、府中の大国魂神社での年1回の祭礼に使う海水を品川の海から運んだ道でもあることから、品川道とも呼ばれているという。
c0163001_2255579.jpg

駄倉橋の北側、エコルマ3の裏手には「駄倉塚」がかろうじて残されている。狛江は狛江百塚とも呼ばれるほど古墳が非常に多い土地で、駄倉塚も5世紀半ばにつくられた全長40m、高さ4mほどの円墳だった。明治後期の一時期には、この塚の松の木に旗をあげた天気予報告知が行われていたという。
c0163001_2255914.jpg

内北谷用水は和泉橋の先で、六郷用水を離れ南へと下っていた。少し前までは駅前に水路跡が残っていたようだが、現在は狛江エコルマ2ビルが建ち消滅してしまった。ただ、小田急線の線路の北側に、わずかな区間だけ行き止まりとなって水路の痕跡が残っている。
c0163001_22551676.jpg

そして線路の反対側に回ると、ちょうどその痕跡の延長線上に、砂利道となった水路跡が続いている。
c0163001_22552055.jpg

砂利道の区間が終わる地点から上流方向を振り返る。マンホールがあるが、暗渠(下水)となっているのだろうか。
c0163001_22554810.jpg

下流方向を見ると、中途半端な空き地があって、民家の庭の木戸へと続いているのだが、ここをかつて内北谷用水が流れていた。
c0163001_22555717.jpg

ここから先、水路は品川道/筏道のかたちに沿って逆「く」の字に曲がりながら流れていた。水路跡上を辿ることはできないので、コの字ウォークで回り込みながら確認していく。写真の地点では、水路の跡と思しき窪みが残っていた。
c0163001_2256464.jpg

その品川道/筏道は、今では静かな住宅地を通る何の変哲もない道となっているが、Y字路に庚申塔がぽつんと残っていた。花が供えられ、取り囲む木々も良い感じだ。
左を通るのが品川道/筏道、右は前回記した大山道へと繋がっている道で、庚申塔にもその旨道標が刻まれているようだ。かつて多くの筏師たちが、この庚申塔の前を府中方面へと向かい通りすぎていったのだろう。
c0163001_22561369.jpg

更にコの字で下っていくと、水路跡が宅地の間から道路沿いへと出てくる。写真奥から、手前の道路沿いの未舗装地に続くラインが水路跡だ。木々の生え具合からは、程よく放置され、程よく手を入れられている様子が伺われる。
c0163001_22561987.jpg

その先は再び砂利道となって狛江通り(写真奥のバスが見えるところ)に出る。はっきりとした水路の痕跡はここで終わる。
c0163001_22562438.jpg

内北谷用水分流

ここまでたどっていきた水路跡の東側(右岸側)にはかつて「内北谷のたんぼ」と呼ばれた水田が広がっていて、その中に内北谷用水からさらに分かれた用水路が数本流れていた。小田急線北側の旧野川沿いの「北谷」地区が耕地整理された際、この「内北谷のたんぼ」もあわせて整理され、条理状の区画となった。その際に内北谷用水からの分水路も、区画にあわせ直線に改修された。その水路跡が1本残っている。
小田急線線路の南側、車止めに遮られた道がまっすぐに続いている。これが内北谷用水の分水跡だ。道端に未舗装のエリアが帯状に残っている。これがおそらく、最後にのこった水路の痕跡と思われる。
c0163001_22562964.jpg

未舗装のエリアは雑草が生えたり、植え込みに利用されたりしながらずっと道端に続いている。写真の地点では砂利敷になっており、マンホールもある。
c0163001_22563691.jpg

世田谷通りの手前で、この未舗装エリアは姿を消す。そして先の内北谷用水本流と合流したのち、さらにもう1本の内北谷用水分流と合流して、狛江三叉路の北東側で、六郷用水から分かれてきた岩戸用水と合流していた。大正時代までその水路は複雑だったが、昭和初期の耕地整理で、これらの合流水路も単純に整理されたようだ(地図参照)。
写真はその内北谷用水の3つの流れが合流していた辺り。奥から本流と奥右側から未舗装エリアつき分流が流れてきて合流し、手前に流れてもう1本の分流に合わさっていたようなのだが、全然痕跡はない。
c0163001_22564164.jpg

ただ、路上には「狛」の字が刻まれた古そうなマンホールがあった(現在のタイプは「こ」の字」)。
c0163001_22564634.jpg

狛江三叉路の辺りは前回の記事でも触れたようにかつて「銀行町」と呼ばれ、大正から戦前にかけては狛江随一の繁華街だった。現在はすっかり廃れているが、写真にうつる「鳥政」や「高麗家蕎麦」はその当時から続く店だ。
c0163001_2384117.jpg

その三叉路北東側で内北谷用水が合流する岩戸用水には、駅近辺では唯一のコンクリート蓋暗渠が残っているが、それについては次回以降とし、最後に復習の地図を。
c0163001_239299.jpg


(つづく)
[PR]
by tokyoriver | 2012-07-07 23:10 | 野川とその支流 | Comments(4)