東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

<   2014年 06月 ( 1 )   > この月の画像一覧

またもや久々の記事となってしまったが、今回から玉川上水の分水「鈴木用水」について、3回ほど続けて更新していく予定なので、お付き合いいただければ幸いに思う。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

玉川上水と武蔵野台地の開発

 今回とりあげる「鈴木用水」は、武蔵野台地上に「新田開発」で出来た村への飲み水の供給を目的とした、玉川上水からの分水路のうちのひとつだ。

 もともと武蔵野台地の中央部は、川が無く地下水位も低かったため、近世まで人の住む集落は皆無に近かった。1654年、江戸市内への給水を目的とした玉川上水が武蔵野台地の中央を貫くように開通すると、この水を分水し呑水を得ることでようやく集落が形成されるようになった。最初の分水は1655年の野火止用水で、次いで1656年に小川用水が分水され、小平エリア最古の村である小川村が開拓された。
 小川村は台地上を東西に通る青梅街道の両側に集落を形成し、それぞれの家屋の背後に、南北に細長い短冊状の地割で、各家の敷地がわりふられている。これは小川用水からの給水の利便性を意図していたという側面があるようだ。小川用水は青梅街道の両側にふた手に分かれて平行して流れ、街道沿いの家々に呑水を給水するかたちとなっていた。1696年には田無用水が開通し、同様に青梅街道の両側に分かれて流れ、街道沿いの家々に給水するかたちをとった。この形態は、後に続く新田開発でも踏襲されていく。

 台地上の開拓は17世紀後半にいったん抑制されたが、江戸時代中期、いわゆる「亨保の改革」の時代に大規模に再開された。これは江戸幕府は財政再建のための税収増加をもくろんだためで、武蔵野台地の新田開発が奨励された。開発にあたっては飲水の供給源として玉川上水からの分水が活用され、新田開発に伴いいくつもの分水が開削された。これらの分水は利用料の徴収が免除され、入植した住民は無料で用水を利用できたという。

下の地図は、それらの用水路の全体図(google mapにプロットしたものをキャプチャ)。ピンク及び赤のラインが用水路、水色及び青のラインが川となる。玉川上水から放射状に分かれる用水は台地を廻り、谷を流れる川に落とされる。動脈と静脈の関係がはっきり見て取れる(といっても実際には用水にはなかなか十分な水量が流れず、流末に辿り着く前に涸れることもままあったようだ)。
c0163001_11122770.jpg

鈴木新田と鈴木用水

 今回とりあげる鈴木用水が引かれた「鈴木新田」は、貫井村(現小金井市)の名主鈴木利左衛門が中心となって、1722年に幕府の許可を得て開発され始めた新田だ。現在の地名では小平市鈴木町、御幸町、花小金井南町にあたる。開拓資金の多くを提供したのは木更津の商人、野中善左衛門。ちなみに新田開発は資産家にとってはいわば投資先でもあり、出資して無事に開拓が完了すると、高い値段で権利を転売するといったことも行われていた。鈴木新田に隣接する野中新田は、そのような形で野中善左衛門が開拓した村だ。

そして鈴木用水が開通したのは1730年。野中新田とあわせ「鈴木新田・野中新田組合飲水」として玉川上水の喜平橋の付近に分水口がつくられた。用水路は鈴木新田に入る前に、鈴木用水と野中用水に分岐し、各新田へと流れていく。鈴木用水は鈴木街道に到達すると、小川用水などと同様に街道の両側にわかれて鈴木新田の家々に水を供給しつつ東へと流れていき、流末は石神井川に落とされていた。
野中用水からは1734年、更に大沼田用水が分岐された。こちらは1724年に開拓が始まった大沼田新田のための用水で、呑水だけではなく、わずかながら水田にも利用され「大沼田新田田用水・呑用水」とも呼ばれた。当初は鈴木・野中用水の分水口の隣に別途取水口が設けられ、取水後に鈴木用水の流れに合流していた。

3つあった鈴木用水

 なお、「鈴木新田」「野中新田」は少し離れた玉川上水の南側にもひらかれ(上鈴木新田(現小平市上水本町)、堀野中新田(現小平市上水南町))こちらにも1732年に玉川上水より分水が引かれている(鈴木新田・野中新田・貫井新田・下小金井新田組合呑水用水)。
さらに、石神井川源流部の浅い谷戸に開かれた小平地区ほぼ唯一の水田も鈴木村の管轄で、こちらにも1734年に「鈴木新田「田」用水」がひかれている(「石神井川の源流を探して(4)源流解題ー鈴木遺跡・鈴木田用水・経理排水・石神井幹線」参照ので、ややこしいといえばややこしい。この一帯の用水路を紐解くには混同しないよう留意しなければならない。

明治以降の用水

 これらの用水はもともとはそれぞれ玉川上水から直接取水されていたが、明治初期に玉川上水への通船を行うため、取水口の集約が行われた。鈴木用水など上水左岸(北側)の分水路は、玉川上水に平行して開削された「新堀用水」から分水されるようになった(右岸(南側)の分水路は、砂川用水を、既存の他水路と接続しつつ東に延長し、そこからの分水となった)。これに伴い、各用水路の管理も一本化され、「北側新井筋組合」が設立された。

 用水は明治末期まで飲水として利用されていたが、大正期になると用水の水流を媒介として赤痢やチフスなどの伝染病が流行したため、徐々に井戸に移行していった。ただし地下水位が低いため井戸の開削にはコストがかかり、なかなか普及はせず、水の苦労は続いた。戦後になって行政により深井戸がつくられるようになり徐々に水道が普及していく。こうして用水路は徐々に役目を終えていった。

消えた用水、生き残った用水

 用途を失った用水路は一方で水路沿いの宅地化が進み、排水が流されたり、ゴミが捨てられて荒れ果てたりといった状況も発生するようになった。田無市や小金井市、国分寺市などでは用水路の大半は暗渠化されたり埋め立てられたり、もしくは完全に消滅してしまった。
 ただ、水路の大半が通る小平市では、幸いにも水路の大半は生き残った。そして、1995年に「小平市用水路活用計画」が、2001年には「小平市上水路条例」が施行され、市として水路を保全していく方向性が明確にうちだされた。2006年には地方分権一括法により、用水路の所有権が国から市へ移管されている。
 小平市内に残る用水路は、この保全策により今でも水が流れている区間が多い。そして、小平監視所より下流の玉川上水が高度処理水、つまり下水の再生水を流されているのに対し、これらの用水路は多摩川からの水がそのまま流されており、いわば本物の分水が今でも生きているといえる。

現在の鈴木用水

 現在鈴木用水は途中までは水が流れていて、かつての新田の面影を残す風景も点在している。一方で、途中からは水が流れない空堀となり、緑道や暗渠となっていたり、埋まりかけていたり、あるいはほとんど消滅してしまった区間もある。そこには用水路の現在の姿のバリエーションがほぼ網羅されているといってよい。そこで、今回は鈴木用水を事例として、現在の武蔵野台地上の玉川上水からの分水路の様子を辿ってみることにしようと思う。

最初に全体図を示しておく。地図はgoogle mapにプロットしたものをキャプチャ。ピンク及び赤のラインが用水路(ピンクは現存、赤は暗渠もしくは水路跡)、水色及び青のラインが川(水色は現存、青は暗渠もしくは川跡)。鈴木新田のおおよそのエリアを緑の塗りつぶしにて現した。なお、地図外の玉川上水南側に、上鈴木新田がある(現小平市上水本町)。
c0163001_11123775.jpg

現在の鈴木用水は喜平橋での新堀用水からの分岐点に始まる。前文でふれたとおり、もともとは玉川上水から直接分水されていたが、1870年(明治3年)に玉川上水に平行する新堀用水が開通してからは、新堀用水の取水口でまとめて定まった量の水を取水し、ここで分けられるようになった。
新堀用水本流のほうは、ここから先は現在は田無用水にしか給水しておらず、水路もそれ以外は途切れてしまうため、実質的には鈴木用水と田無用水の分岐点といっていいだろう。鈴木用水の方に小さな水門が設けられている。
c0163001_111247100.jpg

水門を反対側から見たところ。分岐点のところだけは、コンクリートのしっかりした護岸となっている。
c0163001_11125570.jpg

水門で分かれた鈴木用水はまず北上する。通常は澄んだ水が流れているのだが、上の写真を撮影した2014年5月の時点では水は濁っていた。これは、新堀用水の水路底に亀裂ができたため2013年夏より送水が停止されており、今年5月に再開したばかりのためだ。
c0163001_111328.jpg

水路は警察学校の前で暗渠へと入り込む。入り口の芥止めには雑草など大量のゴミが引っかかっている。一年足らずの停止期間の間に水路に生えた草や落ちた枯れ葉などが運ばれてきているのだ。
c0163001_1113826.jpg

右端に見える柵が、先の写真の芥止めの地点。水路は道路を横断し、直角に曲がって左側の歩道を暗渠になって写真奥方向、東へと流れていく。本来はここで曲がらず北東に流れていたが、1942年の陸軍経理学校の開設に伴って、敷地の南側〜東側を迂回するように付け替えられた。
c0163001_11131467.jpg

経理学校の敷地は現在警察学校や小平団地となっている。その区画の南側に、都区部でもよく見られるような、コンクリート蓋の暗渠が続く。蓋の上から中の様子はまったくわからず、知らなければ古びた暗渠にしか見えないが、この中には多摩川から運ばれた水が滔々と流れている。
c0163001_11132237.jpg

小平団地南東側の喜平図書館付近。暗渠の上にバス停がつくられている。
c0163001_11132899.jpg

暗渠は回田道に沿って北上した後、小平団地東交差点付近で道路から離れ、再び姿を現す。
c0163001_1113356.jpg

水路沿いには未舗装の歩道が続き、ちょっとした散歩道として整備されている。
c0163001_11135382.jpg

しばらく進むと、野中(及び大沼田)用水との分岐点が見えてくる。左側の大きい水門が野中用水、右側が鈴木用水だ。明治初期の記録では野中用水と鈴木用水の分水の比率はおよそ4:3。水門の手前の水路の分岐点には水を均等に分けるため堰が設けられているが、その幅の比率は4:3ほどとなっており、おそらく明治時代と変わりないのだろう。
c0163001_11135885.jpg

水門を下流側からみたところ。エメラルドグリーンの水門にペンキで描かれ青い水がシンプルながらよい雰囲気を出している。
c0163001_1114439.jpg

野中・大沼田用水はまっすぐ北に向かって流れていくが、分かれた鈴木用水は、北東方向に向い、民家の敷地内の森へと流れていく。ここから先は水路沿いを辿ることはできないので、道路と交差する地点を回り込みながら追っていくこととなる。
c0163001_1114119.jpg

民家の敷地を抜けてきた水路は一旦鉄板暗渠に入るが・・・
c0163001_1114186.jpg

道路を横切って再び姿を現すと、林の中を抜ける素掘りの水路となる。こちらもかつての武蔵野の用水の姿を残す素晴らしい風景だ。
c0163001_11142541.jpg

林を抜けたのち、水路は鈴木街道沿いに到達する。ここより東が鈴木新田の中心地となる。街道の西端には鈴木新田の鎮守である鈴木稲荷神社があり、水路はその境内を抜けていく。鈴木稲荷は1724年、開拓の中心人物である鈴木利左衛門の出身地貫井村の稲荷神社を新田の産土神として勧請した社である。
c0163001_11253510.jpg

参道が鈴木用水をまたぐ地点には、昭和12年竣工のコンクリート橋がかかっている。
c0163001_11263611.jpg

神社の境内を抜けていく鈴木用水。
c0163001_1127599.jpg

鈴木街道に出ると水路はほぼ直角に東に曲がり、真新しいコンクリート暗渠の中に入ってしまう。写真右側が鈴木稲荷の境内。そして道路を挟んだ反対側は宝寿院の敷地だ。宝寿院は鈴木稲荷神社と同じく鈴木利左衛門が、新田開発に尽力した父の菩提寺として1726年に府中より移設し開山した寺だ。
c0163001_11271639.jpg

鈴木用水はここより先、道沿いに並ぶ家々に呑水を給水するために、街道の両側に分かれて街道に並行し東進する。写真奥がその分岐点で、手前に見えるのは街道南側の水路だが、こちらは現在水が通されていない。
c0163001_11272854.jpg

こちらは街道北側の水路。道路を挟んだ奥が南側水路との分岐点だ。鈴木用水を流れてきた水は、2014年5月現在では北側水路のみに流されている。ではその水はどこまで流れているのだろうか。次回以降は南側水路、北側水路のそれぞれを追っていこう。
c0163001_1127395.jpg


(つづく)

主要参考文献

大日本印刷株式会社CDC事業部年史センター編 1994「小平市三〇年史」小平市
小平市中央図書館編 2001「小平市史料集 第26集 玉川上水と分水4 水車 絵図」小平市教育委員会
小平市史編さん委員会編 2013「小平市史 地理・考古・民俗編」小平市
小平市企画政策部編 2013「小平市史別冊図録 近世の開発と村のくらし」小平市
[PR]
by tokyoriver | 2014-06-26 12:00 | 玉川上水とその支流 | Comments(0)