東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver
またもや久々の更新となってしまいました。そのうえ告知で、スミマセン。サイト"MIZBERING"に、2回目の記事を寄稿しましたのでお知らせします。

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水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方」第7回 水のない水辺に残る水ー渋谷川水系ー

今回は暗渠に残るかつての川の姿でも最も象徴的な「湧水」を、渋谷川水系を例に取り上げています。記事にしたのは以下の4箇所です。
(1)新宿御苑の池と湧水(渋谷川本流の源流)
(2)明治神宮御苑(竹下通り裏手を流れていた一名「南の池川」の源流)
(3)白金自然教育園(三田用水白金分水のもととなった小川の源流)
(4)初台川(仮称)源流(宇田川初台支流の源流)

今回諸事情で載せきれなかった、渋谷川水系の他の湧水をいくつかかんたんにご紹介します。

根津美術館の湧水

青山の骨董通り突きあたり、根津美術館の庭園は谷戸地形を利用した池があり、そこにはいくつかの湧水が注いでいます。池から流れでた川はかつて渋谷川支流の笄川に注いでいました。下の写真は湧水のひとつ。崖の下からわずかですが湧きだしています。ただ、この写真は10年前のもの。美術館には近年大規模な改修が入っており、現状を確認するため赴いたのですが、ちょうど休館日にあたり取材できませんでしたので、今回記事には掲載できませんでした。
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有栖川宮記念公園の湧水

有栖川宮記念公園もまた小さな谷戸の谷頭の地形を利用した公園で、二つの川が池に注いでいます。現在ではいずれの川も汲み上げた地下水や循環水を使っているのですが、北側の川沿いに最近の調査で湧水地点が新たに確認されました。
下の写真は、北側の川で、左側の柵の中から汲み上げ地下水の川が流れてきています。その右側、谷の斜面の下の草が生い茂っているところをよく見ると、水がわき出しています。こちらは写真では判別することが難しいため、掲載を見送りました。興味のある方はぜひ現地でご確認下さい。なお、左側の川自体も、上流の滝壺状のところでは汲み上げ水の他に少しだけ湧水も加わっています(これも写真には撮りにくい)。
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麻布宮村町の湧水の小川

旧麻布宮村町界隈にはがま池や宮村児童遊園、その脇の路地裏等、湧水が残っています。その中で以前記事にした小川は26年前に見つけて以来私にとって、お気に入りの場所で、過去にも記事にしています。

「六本木、麻布十番、元麻布の川跡(2)旧麻布宮村町の湧水の流れ」

こちらも水源の場所は確認できないことや、オフィシャルなサイトでは掲載しにくい写真となってしまう場所が多いことから掲載を見送りました。
下の写真は旧宮村町の崖下を流れる小川。流れる水は湧水です。六本木ヒルズのすぐそばにこんな場所が残っていることは奇跡だと思います。なお、水路には簡単に近づけるものの一応無断立入禁止の公有地になっていますので、場所は明記しないでおきます。また、近づく際は自己責任で…
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# by tokyoriver | 2015-04-05 21:17 | お知らせ | Comments(0)
"MIZBERING"というサイトに、和泉川(神田川笹塚支流)の記事を寄稿しましたのでお知らせします。

「「水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方」第3回
西新宿からまぼろしの神田川支流をたどる。」
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「ミズベリング'」は財・官・民一体で水環境の見直しアクションに取り組もうといったプロジェクトのようです。そのポータルサイトが"MIZBERING"といった位置づけでしょうか。その中で少し異色の、暗渠をテーマとした連載「水のない水辺から」を、「東京peeling!」のlotus62さんを旗振りとして、「暗渠さんぽ」のnamaさん、「デイリーポータルZ」のライター三土たつおさんと連番で記事を書くことになっています。

「昭和のレトロ気分満載」などという若干不本意なキャプチャをつけられてしまいましたが、本blogではまだ途中までしか取り上げていない和泉川について、本流暗渠を河口から源流まで一気に紹介した記事となっていますので、ぜひご一読を。

なお、blog内の和泉川関連記事はこちらからまとめて。

ちなみに文中に触れた、はっぴいえんど1970年のファースト・アルバム、通称ゆでめんのジャケットはこちら。「ゆでめん 風間商店」が中央に据えられています。イラストは漫画家林静一の手によるもので、当時十二社に住んでいた氏が、松本隆からジャケット制作を依頼された際、近所の「クネクネと曲がった路地の奥に、まるで時代から置き忘れられたように建っていた奇妙な町工場」(※)がすぐに頭に浮かび、描いたものだといいます。右下張り紙の「池の下熊」は十二社池の下の熊野神社、「交和通」の字が見えますが、こちらは方南通りの西新宿付近での呼称。和泉川が交差する地点には「交和橋」が架かっていました。その左側の貼紙に見える「成子映劇」は近くの成子坂下に戦前からあった映画館の名前です。
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風間商店は現在は風間荘というアパートになっており、写真真中の建物となります。シャッターの降りている側が、かつてゆでめんの看板がかかげられていた正面となります。麺を茹でた排水は和泉川に流されていたのでしょうか。
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ちなみにこの近く、かつての十二社池のほとりで今も営業する蕎麦屋さんの店主も「風間」さんで、何らかの関係があるのかもしれません。

※林静一「奇妙な建物」(「ロック画報02」所収)より引用


2014.11.26追記

先日惜しくも亡くなられてしまった赤瀬川原平さんが1980年代に提唱されていた路上観察の概念「超芸術トマソン」。その集大成である「超芸術トマソン」を何となく読み返していたら、なんと和泉川暗渠の最上流のひとつ、遊び場96番脇のコンクリート蓋暗渠がトマソン物件として10ページにわたり紹介されていました。この場所はミズベリングの記事では都合上割愛しましたが、追記として紹介します。

※ブログ中ではこちらの記事で紹介していますので、あわせてどうぞ。
「神田川笹塚支流(和泉川)(2)最上流部・北側水路」

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こちらが2014年10月現在の暗渠。玉川上水新水路跡の北側に沿って一直線に流れる、排水路のような水路の最上流となります。ここより下流には開渠も見られます。

そしてこちらが、「超芸術トマソン」で紹介されている該当箇所。今と異なり、道路とはずいぶん段差があります。下の写真、階段の背後の建物の窓を見ると、現在と同じ建物のようです。
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赤瀬川原平「超芸術トマソン」(ちくま文庫 1987)p.388-389より

写真が撮られたのは1985年。今からおよそ30年前です。「階段付き長城物件」のトマソンとして紹介されています。そして、多くの人がわざわざ階段を昇り降りして暗渠の上を歩いている様子が観察されています。
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赤瀬川原平「超芸術トマソン」(ちくま文庫 1987)p.392-393より

和泉川暗渠の河口部の児童遊園は、このトマソンの報告とほぼ同時期に伊丹十三「タンポポ」のロケ地となっています。その一方で源流部の暗渠が、超芸術トマソン物件として「発見」されていた訳です。忘れられていた暗渠が意外なところで記録に残っていることに感慨を覚えずにはいられません。
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# by tokyoriver | 2014-11-16 22:23 | お知らせ | Comments(2)
ひとつ前、鈴木用水の記事の第1回めでも取り上げたように、小平や田無といった武蔵野台地上のエリアは元来水が乏しく、玉川上水の通水以降ようやく本格的に開拓されたような土地だった(詳しくは「鈴木用水(玉川上水鈴木新田分水)(1)」参照)。下の地図を見るとわかるように、台地の中央部には川はなく、玉川上水や、そこからの分水だけが流れている状態となっている。放射状にのびる水路や、縦横に走る鉄道をみると、一帯は平坦な台地であるようなイメージがうかぶ。
(地理院地図に水路ルートを追加。桃色及び赤のラインが用水路のルート、水色、青のラインが川)
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ところが、地形を詳細にみていくと、実際には意外と凹凸があることがわかる。下の地図は上の地図とほぼ同じ範囲を、微地形がわかるよう色分けして表示した段彩図(カシミール3Dで基板地図情報5mメッシュを表示)。台地の中央には東西にのびるうっすらとした谷筋が見えるし、ところどころ出口のない窪地もある。
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これらの窪地には名前がつけられている。図の中央を西から東に横切る浅い谷筋は「ぐみ窪」「小川の窪」と続いた後、向きを北に替えて黒目川の源流、小平霊園内の「さいかち窪」まで続いている。
小平市役所東側にある大きな窪地「平安窪」は、いったん途切れた後小平駅東方の「アクスイ窪」へと続く。その延長線上には落合川の源流がある。平安窪の東の「天神窪」も「アクスイ窪」へと続いている。
平安窪の西側の「山王窪」は出口のないいわば "一級スリバチ" の窪地だ。名前こそついていないが他にもこのような窪地が散在していることが段彩図からは読み取れる。
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そして、一見平坦な場所を流れている用水路も、段彩図を重ねてみてみると、たくみに窪地を避けて通っていることがわかる。野火止用水の変な屈曲や「ぐみ窪」を避けるためだし、小川用水が向きを東に変えているのは青梅街道に沿うためだけではなく、野火止用水と同じく「ぐみ窪」〜「小川の窪」を避けるためだ。また、青梅街道沿いの用水路が小川用水から野中用水に切り替わるのは「天神窪」があったためだということもわかるだろう。
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ふだんは水に乏しい武蔵野台地上だが、これらの窪地には時に「野水」が出た。水の便が悪いのも困りモノだが、この野水も土地に暮らす人を悩ませた。水は降雨のあとしばらくしてから湧き出してときには窪地を満たす深さ1m以上の水たまりとなり、数日から数週間は水浸しになったという。数年に1回雨の多い年の秋にだけ湧水池が現れる黒目川の水源「さいかち窪」もこの「野水」の一種といえる。

武蔵野台地上にしばしば湧くこのような野水や、窪地に集まる雨水を排水するため、台地上には悪水路が悪水路が存在していた。保谷地区の「シマッポ」(白子川源流。「白子川上流部ー地下水堆とシマッポー(1)新川南支流」記事参照)が典型的な例だが、この小平地区にも2つの悪水路が存在していた。
ひとつは、青梅街道駅付近から現東村山市域を経て黒目川の源流さいかち窪につながるルート、もうひとつは小川新田から大沼田新田の「アクスイ窪」を通り、東久留米市域を経て落合川につながるルート。
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いずれも水路の幅は1m弱程度だったという。さいかち窪にいたるルートが開削された時期は不明で、現在では西武線青梅街道駅の脇に改修後と思われるコンクリート蓋暗渠が残る以外には痕跡はない。
大沼田新田の悪水路は江戸期に開削され、灌漑用も兼ねていて水路沿いには水田もひらかれていた。こちらは現在でも小川用水の水路のひとつとして暗渠となって残っている。

一方、生活排水は各家が庭に礫層まで達する穴を掘り、吸い込ませていた。しかし、昭和期に入り人口が増えてくるにしたがって、それでは間に合わなくなってきたという。戦前に陸軍経理学校が開かれた際には、石神井川へと続く排水路「経理排水」(「石神井川の源流を探して(4)源流解題ー鈴木遺跡・鈴木田用水・経理排水・石神井幹線」参照)が開削された。
そして戦後、1957年のブリジストンタイヤの工場建設を機に台地の中央の「小川の窪」から「アクスイ窪」をつなぐ排水路が開削された。この水路は1962年ころ完成し、幅およそ2mの素掘りの水路だった。正式には「基幹排水路」という名称をもっていたが、地元では「緑川」とも呼ばれていた。
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緑川は西武国分寺線小川駅の南方の地点から始まって「小川の窪」を通り、一旦尾根を切り裂いた後、「平安窪」〜「アクスイ窪」へと続く窪地まで通し、従来からあった大沼田新田方面の悪水路に接続していた。また、東久留米市内より下流の悪水路(おそらく滝山団地造成時に改修)とあわせて「小平排水」とも呼ばれていたようだ。

緑川は1970年代には暗渠化され、下水道の普及により1980年代なかばまでに埋め立てられてしまった。存在した期間が十数年程度と短く、また排水のための機能的な水路であったためか、この「緑川」についてはほとんど情報がない。しかし、川の全くなかった小平の台地上に、一応「川」と名のつく水路がほんの一時期とはいえあったという事実はただのドブ川であったとはいえ、なかなかに意外性がある。幻の川が流れていた跡は今はどうなっているのだろうか。実際にたどってみることにした。

緑川は西武線小川駅の南、国分寺線と拝島線の分岐する地点を起点としていた。1970年頃の住宅地図を見ると、ここから始まる水路がはっきりと描かれている。
西武国分寺線の線路の西側に平行して南北に走る道路。極々僅かながらV字の窪みとなっているのがわかるだろうか。そこがぐみ窪と小川の窪を結ぶ微低地だ。そしてその右側に見える緑の繁みが緑川の起点だ。
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現在では車止めに仕切られた中途半端な緑地となっている。奥で西武線の線路に突き当たっている。半ば私有地化されているようで、ちょっと入りづらい雰囲気となっている。
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下の写真は西武線の線路東側に廻り込んだところ。線路腰に見える木立が、さきほどの緑地だ。緑川は線路をくぐり手前方向に流れていた。
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振り返ると一直線に通りが続いている。通りはしばらく「小川の窪」の底を通っている。緑川はこの通りに沿ってまっすぐ東に流れていた。
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上の写真で、道路左側の歩道が急に始まる地点があるが、そこまで進んでみてみると、北側からいかにも暗渠な路地が合流しているのがわかる。この他にも何本か、南北から「小川の窪」の微低地に向かって同様の暗渠路地が合流している。いずれもかつて緑川に注いていた排水路だったのだろう。
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通りに立てられた標識には「緑川通り」の名がしっかりと記されている。
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看板と南北から合流する排水路暗渠の他にはとりたてて何の痕跡もないまま水路跡は東へまっすぐ進んでいる。
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緑川通りは青梅街道駅付近で西武多摩湖線に突き当たるが、その地点には、唯一緑川の痕跡と思われる物件が残っている。写真左下、路上に見えるコンクリートと、中途半端なガードレール状の柵だ。コンクリートはおそらく欄干の跡だろう。水路はその奥の小屋と木立の下を抜け、西武線の下を潜っていた。この区間はgoogle mapでは未だに水路として描かれている。
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青梅街道駅の東側に回りこむと、線路沿いの道にかなりしっかりしたつくりのコンクリート蓋暗渠がある。暗渠は青梅街道駅のすぐそばからはじまり、小川用水の北側水路と立体交差して谷筋へと下って行く。写真手前の鉄板の蓋と、向きが90度異なっている暗渠蓋が、小川用水だ。下りきった先は緑川の暗渠(跡)だ。
この暗渠はかつて、青梅街道に沿った溝渠の水をあつめて小川の窪〜さいかち窪へと落としていた悪水路の名残だろう。おそらく緑川が開通した際、下流部の廃止と流路の変更が行われこの暗渠になったと思われる。
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多摩湖線の線路のすぐ東、蓋暗渠が合流していた地点から緑川跡を下流方向に望む。左側の歩道がかつての緑川だ。唐突に始まる歩道の始点に、不自然なコンクリートの欄干のような物体が埋まっている。
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緑川はこの先で「小川の窪」からはなれて微高地を堀割で東進し、「アクスイ窪」の窪地へと移っていく。「アクスイ窪」を横切る地点では、江戸時代より流れていた大沼田新田へと続く悪水路と交差する。こちらの悪水路は青梅街道の北側を起点とするコンクリート蓋の暗渠として残っている。
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緑川はいったん「アクスイ窪」を越えて少し東進するため、この悪水路とも合流せず交差する。下の写真は交差地点からしばらく東進した緑川の暗渠から、悪水路の流れる方を見たもの。悪水路の流れる「アクスイ窪」が凹んでいるのがよくわかる。
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窪地を流れる悪水路は、幅はあまりなく、また、住宅地の中を何回も直角に折れ曲がりながら流れている。緑川が悪水路とぶつかってすぐに合流しないのは、この折れ曲がった細い区間を避けるためだったと思われう。
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アクスイ窪が北に向きを変える地点の少し南側で、窪の南側の微高地を抜けてきた緑川もようやく向きを北に変える。下の写真の歩道部を左から流れてきた緑川は中央の不自然な空地を奥へと北進している。この空き地の途中で先ほどの悪水路に合流し、その先はかつての悪水路のルートをそのまま辿って東久留米市方面へと抜けていく。
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西武新宿線の北側に抜けると、悪水路はかなり立派なコンクリート蓋暗渠となり、東久留米市との市境付近まで続いている。こちらの区間は緑川開通後は「小平排水」とも呼ばれ、今では小川用水の分流として扱われているようだ。
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ここから先、最終的には落合川の源流まで暗渠・水路跡が続いている。滝山団地内には暗渠に設けられた水門が残っている。
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この先の流末は「落合川を辿る(1)川のはじまり」で触れているのでご参照いただきたいが、この「小平排水」の区間を詳しく紹介するのはまたの機会としよう。

なお、緑川については不明な点がまだまだ多い。もし何か多少なりともご存知の方がいらしたら、コメント欄によせていただけると幸いである。
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# by tokyoriver | 2014-10-07 22:47 | 黒目川・落合川とその支流 | Comments(6)
鈴木用水をたどる第3回めは、ふたたび用水路が鈴木街道の両側に分かれる地点から。前回とりあげた街道南側の水路と街道を挟んで平行して流れる、街道北側の用水路を辿っていく。鈴木用水の概要および起点から分岐地点までのいわば上流区間については前々回記事を参照していただきたい。

用水の全体地図はこちら(google mapにプロットしたものをキャプチャ)
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■水の流れている区間
まずは上流部を拡大地図を見ながら追っていこう。
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鈴木街道の北側、街道沿いの家々の裏手を東に向かって流れていく鈴木用水。いい雰囲気だ。
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新小金井街道を越えると、水路は竹やぶの中に入っていく。街道側には大きな屋敷があり、この竹やぶやそれに続く林は、屋敷の防風林だったのだろう。近辺にはかつて「庄治郎水車」がかかっていたというが、ここがそうかもしれない。
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新小金井街道より先は、大部分で水路沿いを辿れないので、あちこちで鈴木街道から北にのびる道に入り込んで水路を確認していくことになる。「用水路の中では遊ばないように」という注意書きは、逆に今でも用水路で遊ぶ子供がいることを示していて、ちょっと頼もしい。
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水路沿いの緑が色濃い。
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鈴木街道沿い、西松屋の裏手付近で、上流方向を眺める。水路の幅がやや広くなっている。2014年5月時点では、鈴木用水に水が流れているのはここまでとなっていた。
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■空堀の区間

前の写真の地点から下流方向を見たところ。流れてきた水は、橋の下で下水に落とされているようだった。
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橋の先はご覧のとおり空堀となっている。川底が湿っていて雑草も倒れており、最近水が流れた様子がうかがえるが、撮影の数日前に降った大雨の影響かもしれない。
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小金井街道手前の区間を上流方向に望んだ様子。鈴木街道を挟んで南側には、田無用水と鈴木用水南側水路との立体交差がある(前回記事参照)。水路はかなり立派なつくりだが、水の気配は完全になくなっている。
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ここで下流部の地図も提示しておこう。
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暗渠化された田無用水と交差し、小金井街道東側に抜けた地点。さきほどまでの立派な水路とうって変わって、荒れ果ててとても水路には見えない状態になってしまう。写真左側、赤い木が生えているところが水路だ。トタン板の土留めでかろうじて水路であることが分かる状態。
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少し先に進むと水路は鈴木街道沿いに出る。ここから先は「大門橋緑道」として歩道とあわせて一応整備されている。しばらく街道沿いに流れていく(といっても水は全くない)。街道沿いの家々が水路上に敷地をとってはみ出している区間もあって、それらの場所ではなかば暗渠のようになっている。
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■緑道整備されている区間
200mほどで、用水路は再び街道から離れる。擬木の護岸や柵が設置されていて、水路沿いを歩けるようになっている。
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やがて水路は暗渠となり、「大門橋緑道」は暗渠道となる。
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緑道には街灯や「鈴木用水」の標識が設けられている。緑色の歩道はカーペットのようなつくりで、その下はコンクリート蓋となっているようで、歩くとガタガタする。
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■消滅しかけの区間
緑道の区間が終わると、再び水路が現れる。少し先までは、鉄パイプで留められたコンクリート板の護岸がつくられていて水路こそはっきりしているものの、やや荒れた雰囲気だ。奥の方は素掘りの水路に戻っている。水路は新田集落の形態を残した、北側に防風林を配した屋敷の中を抜けていく。
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鈴木街道を回りこみ、次に道路と交差する地点で水路を確認してみる。奥が上流側。素掘りの水路が残されているのはいいが、だいぶ埋まりかけており、単に畑の端が凹んでいるだけにしか見えない。
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下流側。上流側よりも更に水路はだいぶ埋まっており、雑草も生えている。ゴミが散乱しテレビまで捨てられており、かつて貴重な呑水を運んでいた姿とはかけ離れている。
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次に水路が確認できる地点は、多摩湖自転車歩行者道と交差する地点だ。写真左奥が上流側となる。鈴木用水は自転車歩行者道をくぐっていく。道路の下には、村山貯水池(多摩湖)から三鷹市の境浄水場までの10kmをほぼ一直線に結ぶ給水管が下に通っている。村山貯水池の水は途中まで玉川上水を経由して運ばれた多摩川の水で、その水がこの給水管を流れている。つまり、ここで玉川上水から分水された新旧の水路が交差していることとなる。
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多摩湖自転車歩行者道の下をくぐると、水路はほぼ消滅してしまう。写真奥から手前、道路の右側に沿って流れているはずなのだが、隣り合う畑地と完全に一体化してしまっている。
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畑地の東側の住宅地の中で、ようやく水路の続きを見つけることができる。
「ここは用水敷きです。通路ではありません、通りぬけしないでください。小平市 水と緑と公園課」
との看板がたてられている。しかし、これより下流、水路はわずかな鉄板蓋暗渠の区間を経て、砂利敷や未舗装の暗渠となってしまう。
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■消滅する区間

住宅地の隙間に、柵で囲まれた水路敷の空間が残る。
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ここでは鈴木用水の暗渠が右から左に横切っている。前後の区間は宅地に取り込まれていて不明瞭になっているが、道路の所だけははっきりと盛りあがっているのが面白い。アスファルトの下に、土管か何かとなって水路が通っているのだろう。この地点が、水路の痕跡がはっきりと判断できる最後の場所だ。
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住宅地を回りこみ、資料ではかつて水路が通っていたとされる道路に出る。中途半端な位置の電柱が思わせぶりではあるが、他には水路を示す痕跡は何一つない。
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開設当初の鈴木用水北側分水路は、この先で石神井川に落とされていたようだが、明治4年には田無用水から「田無村字芝久保呑用水」が分水され、そこに接続されるようになった。写真の道路の手前から鈴木用水の流末が、奥からは芝久保呑用水が流れ、奥に見える西武新宿線の踏切手前で、両用水が合流し東へと流れていた。歩道に残る古そうな側溝が用水路と何か関係はあるのだろうか。
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両用水の合流地点は今は企業の敷地となっていて、水路は確認できないが、その先断続的に芝久保分水の水路跡は残っており、石神井川合流直前の地点にはかなりしっかりしたコンクリート蓋暗渠が現存している。そちらについては長くなるので又の機会にあらためて紹介しよう。


(おわり)
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# by tokyoriver | 2014-07-28 23:40 | 玉川上水とその支流 | Comments(3)
鈴木用水をたどる第2回めは、用水路が鈴木街道沿いに達し、街道の両側に分かれる地点から。今回は街道南側の用水路を辿っていく。鈴木用水の概要および起点から分岐地点までのいわば上流区間については前回記事を参照していただきたい。

用水の全体地図はこちら(google mapにプロットしたものをキャプチャ)
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前回の記事にも記したように、武蔵野台地の新田開発集落の多くは、街道に対して直角に短冊形の敷地を取り、屋敷を街道沿いに集中させるかたちをとっており、鈴木新田も同様のスタイルとなっていた。
下の図はその模式図。中央を東西に街道が通り(灰色ライン)、街道沿いに屋敷林に囲まれた家屋が配置され(図褐色の■)、その背後には短冊状の畑地(黄色の■)がのびる。用水路(青いライン)は各家の飲用水として利用されていたため、屋敷の敷地内、家屋の裏手(すなわち、台所側)を抜けてながれていく。
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鈴木街道沿いは今ではだいぶ宅地化が進み、屋敷林に囲まれた家屋はほとんど残っていないが、水路は今でも家々の裏手を抜けて流れていくため、水路に沿って歩くことはできず、鈴木街道から南北に延びる道路を随所で進み、水路を確認していくことになる。

まずは小金井街道までのいわば中流部の区間をたどっていこう。
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水の流れない水路

新堀用水分岐地点から鈴木用水を流れてきた水は、現在街道北側の水路のみに流されており、南側の水路は水が流れない状態となっている。下の写真は北側水路との分岐点から程無い地点。水は流れていないものの、コンクリートの橋が小さな欄干と共に残っており、鉄板の土留めで水路はしっかり保たれている。水路沿いにも緑が残る。
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しばらく進んだ地点。奥には屋敷林の名残が見え、水路は素掘りのまま保たれてはいるのだが、水が流れていないため、ちょっと荒れた感じになっている。水路だと気づかない人が大半なのではないか。
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ここではかつての屋敷の敷地が駐車場となっている。水路の底まで雑草が生えており、落ち葉も積もっている。知らなければ単なる細長い窪地に見えるかもしれない。この近くにはかつて「利左衛門水車」が設けられていたという。こんな細い水路に水車が掛けられていたとはにわかには信じがたい。
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ここでは水路の底を雑草が埋め尽くしているものの、再び土留めが設けられ、そのおかげで水路は明確になっている。
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水路の立体交差

小金井街道の西側では、田無用水との立体交差が見られる。コンクリート製の掛樋で上を通っているのが鈴木用水、下をくぐっているのが田無用水だ。
田無用水は前回も記した通り、鈴木用水の開通する34年前の1696年に開通している。田無地区への給水を目的としているので、この辺りはあくまで通過しているだけで、水を利用することは基本的にはできなかった。
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玉川上水からの分水には、谷筋や自然河川を越えるために土手や掛樋が設けられていた場所がいくつかあるが、このようにほぼ同じ平面で、しかも用水路同士が交差するのは珍しいのではないか。掛樋の側面には昭和5年10月と刻まれている。
下を潜る田無用水はだいぶ埋もれていて、樋の底との隙間が狭くなっている。樋の中の水路はかなり浅いが、水が溢れることはなかったのだろうか。
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上流側から下流方向を望む。鈴木用水は右奥へ、田無用水は左奥に流れていき、この先で鈴木街道を越え、小金井街道より東側は暗渠となる。その手前では鈴木用水の北側分流と交差していたはずだが、現在は全く痕跡はない。
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鈴木用水の方は、最近出来たばかりと思しき戸建て住宅が立ち並ぶ中、大きくコの字型に迂回するように続いていく。この近辺(小金井街道(府中道)の西)にはかつて「治右衛門水車」と呼ばれた水車が設けられており、そのために迂回していたのかもしれない。小金井街道の東側には「喜右衛門水車」も設けられていた。
これらの水車は自家用ではなく、商用の水車で、他所で収穫された米や穀物の脱穀、製粉を請負って利益をあげていた。
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荒れていく下流部

小金井街道を越えると、西武新宿線の花小金井駅から近くなることもあり、鈴木街道沿いはだいぶ宅地化が進んでいて、水路も様相を変えていく。
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小金井街道を越えた少し先。土がむき出しの水路。土揚敷の土が崩れ、水路がだいぶ浅くなっているようにも見える。手前のコンクリートの橋がなければ水路とわかるだろうか。
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さらに先では、水路の上をまたがってトタンの建物が建てられていた。その下をくぐってくる水路はコンクリートの護岸。そして手前には暗渠でよく見られるようなゴミの集積スペースまで設けられていて、かつて貴重な呑水をもたらしていた水路にしてはずいぶんとぞんざいな扱いを受けている。周囲も家々がびっちりと建ち、ここまで来るとかつての新田集落の面影は失くなってしまう。
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こんな典型的なコンクリート蓋暗渠の区間まで現れる。
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その先で一瞬、素掘りの素朴な水路が残る区間があったのだが、今年に入り一帯の土地が宅地用に造成され、失くなってしまった(写真は2008年撮影)。
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土地の造成中は水路は全く姿を消していたのだが、造成後には写真のような水路があらたに作りなおされていた。写真左側のあたりが、前の写真の素掘りだった区間だ。この辺りはもはや水が流れてくることはないと思われるのだが、それでもこうしてしっかりとした水路がつくられるのは、将来通水が復活する可能性があるということだろうか。
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前の写真の中央奥で左に曲がった水路はこの素掘りの水路に繋がっている(写真奥の右側から先の水路がやってくる)。そして写真で前で再び右に折れる。これだけ大きくコの字型に迂回しているということは、かつては大きな屋敷があったということだろう。
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右に折れた先はアスファルトの下の暗渠。道路を進んでいくと鈴木街道につきあたり、水路は右(東)に折れる。
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中央の、赤いアスファルトの下が鈴木用水の暗渠だ。鈴木街道に挟まれたスペースには水遊び場が設けられている。
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暗渠から出た鈴木用水は再び鉄板の土留め水路となり、東へと向かっていく。
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流末近くでは、かつての短冊形の畑地が、区画を残したまま新興住宅地となり、戸建ての家が隙間なく並んでいる。その間を縫うように水の流れない水路が抜けていく。
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かろうじて残る流末

新興住宅地の先で、水路は道路から大きく離れて大きな屋敷の中に入って追えなくなる。この先、水路は石神井川の流れる谷に下っていく。その途中で水路はいったん消滅してしまっているようだ。谷に下る斜面の途中では、こんな空き地となってかろうじてルートが確認できる。水路の窪みはなくなっている。深い谷のように見えるが、両側の住宅の下の擁壁は明らかに盛り土で、周りが高くなったことで相対的にそう見えるだけで、実際には谷の斜面をななめに下っている。
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谷底まで下ると、再び家々の隙間に水路の痕跡が現れる。だいぶ荒れていて、もはや側溝にしかみえないかもしれないが、これが延々と追ってきた鈴木用水の末端だ。
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先ほどの水路を下流側から見たところ。右側の道路が鈴木街道だ。そしてすぐ手前には石神井川が流れている。
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鈴木街道の長久保橋のたもとで、鈴木用水の南側水路は石神井川に到達し、終わる。起点からここまでの流路はおよそ4.3km。起点の標高がおよそ80mなのに対し、流末の標高は60mほど。20mほどの標高差になるが、そのうち5mは、最後の200mほどで一気に下っている。石神井川の護岸に空く小さな排水口がかつての合流口の名残だろうか。
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長久保橋から、石神井川上流方向を眺める。奥の森は小金井公園、数百m先は公式の石神井川上流端となる。
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この付近の石神井川はかつては悪水堀と呼ばれていた。現在では水源は涸れ、普段は水は流れていない。石神井川源流については、こちらの記事をぜひご参照いただきたい。

次回は鈴木街道の北側の水路を追っていく。

(つづく)
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# by tokyoriver | 2014-07-03 23:30 | 玉川上水とその支流 | Comments(0)