東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver
またもや久々の記事となってしまったが、今回から玉川上水の分水「鈴木用水」について、3回ほど続けて更新していく予定なので、お付き合いいただければ幸いに思う。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

玉川上水と武蔵野台地の開発

 今回とりあげる「鈴木用水」は、武蔵野台地上に「新田開発」で出来た村への飲み水の供給を目的とした、玉川上水からの分水路のうちのひとつだ。

 もともと武蔵野台地の中央部は、川が無く地下水位も低かったため、近世まで人の住む集落は皆無に近かった。1654年、江戸市内への給水を目的とした玉川上水が武蔵野台地の中央を貫くように開通すると、この水を分水し呑水を得ることでようやく集落が形成されるようになった。最初の分水は1655年の野火止用水で、次いで1656年に小川用水が分水され、小平エリア最古の村である小川村が開拓された。
 小川村は台地上を東西に通る青梅街道の両側に集落を形成し、それぞれの家屋の背後に、南北に細長い短冊状の地割で、各家の敷地がわりふられている。これは小川用水からの給水の利便性を意図していたという側面があるようだ。小川用水は青梅街道の両側にふた手に分かれて平行して流れ、街道沿いの家々に呑水を給水するかたちとなっていた。1696年には田無用水が開通し、同様に青梅街道の両側に分かれて流れ、街道沿いの家々に給水するかたちをとった。この形態は、後に続く新田開発でも踏襲されていく。

 台地上の開拓は17世紀後半にいったん抑制されたが、江戸時代中期、いわゆる「亨保の改革」の時代に大規模に再開された。これは江戸幕府は財政再建のための税収増加をもくろんだためで、武蔵野台地の新田開発が奨励された。開発にあたっては飲水の供給源として玉川上水からの分水が活用され、新田開発に伴いいくつもの分水が開削された。これらの分水は利用料の徴収が免除され、入植した住民は無料で用水を利用できたという。

下の地図は、それらの用水路の全体図(google mapにプロットしたものをキャプチャ)。ピンク及び赤のラインが用水路、水色及び青のラインが川となる。玉川上水から放射状に分かれる用水は台地を廻り、谷を流れる川に落とされる。動脈と静脈の関係がはっきり見て取れる(といっても実際には用水にはなかなか十分な水量が流れず、流末に辿り着く前に涸れることもままあったようだ)。
c0163001_11122770.jpg

鈴木新田と鈴木用水

 今回とりあげる鈴木用水が引かれた「鈴木新田」は、貫井村(現小金井市)の名主鈴木利左衛門が中心となって、1722年に幕府の許可を得て開発され始めた新田だ。現在の地名では小平市鈴木町、御幸町、花小金井南町にあたる。開拓資金の多くを提供したのは木更津の商人、野中善左衛門。ちなみに新田開発は資産家にとってはいわば投資先でもあり、出資して無事に開拓が完了すると、高い値段で権利を転売するといったことも行われていた。鈴木新田に隣接する野中新田は、そのような形で野中善左衛門が開拓した村だ。

そして鈴木用水が開通したのは1730年。野中新田とあわせ「鈴木新田・野中新田組合飲水」として玉川上水の喜平橋の付近に分水口がつくられた。用水路は鈴木新田に入る前に、鈴木用水と野中用水に分岐し、各新田へと流れていく。鈴木用水は鈴木街道に到達すると、小川用水などと同様に街道の両側にわかれて鈴木新田の家々に水を供給しつつ東へと流れていき、流末は石神井川に落とされていた。
野中用水からは1734年、更に大沼田用水が分岐された。こちらは1724年に開拓が始まった大沼田新田のための用水で、呑水だけではなく、わずかながら水田にも利用され「大沼田新田田用水・呑用水」とも呼ばれた。当初は鈴木・野中用水の分水口の隣に別途取水口が設けられ、取水後に鈴木用水の流れに合流していた。

3つあった鈴木用水

 なお、「鈴木新田」「野中新田」は少し離れた玉川上水の南側にもひらかれ(上鈴木新田(現小平市上水本町)、堀野中新田(現小平市上水南町))こちらにも1732年に玉川上水より分水が引かれている(鈴木新田・野中新田・貫井新田・下小金井新田組合呑水用水)。
さらに、石神井川源流部の浅い谷戸に開かれた小平地区ほぼ唯一の水田も鈴木村の管轄で、こちらにも1734年に「鈴木新田「田」用水」がひかれている(「石神井川の源流を探して(4)源流解題ー鈴木遺跡・鈴木田用水・経理排水・石神井幹線」参照ので、ややこしいといえばややこしい。この一帯の用水路を紐解くには混同しないよう留意しなければならない。

明治以降の用水

 これらの用水はもともとはそれぞれ玉川上水から直接取水されていたが、明治初期に玉川上水への通船を行うため、取水口の集約が行われた。鈴木用水など上水左岸(北側)の分水路は、玉川上水に平行して開削された「新堀用水」から分水されるようになった(右岸(南側)の分水路は、砂川用水を、既存の他水路と接続しつつ東に延長し、そこからの分水となった)。これに伴い、各用水路の管理も一本化され、「北側新井筋組合」が設立された。

 用水は明治末期まで飲水として利用されていたが、大正期になると用水の水流を媒介として赤痢やチフスなどの伝染病が流行したため、徐々に井戸に移行していった。ただし地下水位が低いため井戸の開削にはコストがかかり、なかなか普及はせず、水の苦労は続いた。戦後になって行政により深井戸がつくられるようになり徐々に水道が普及していく。こうして用水路は徐々に役目を終えていった。

消えた用水、生き残った用水

 用途を失った用水路は一方で水路沿いの宅地化が進み、排水が流されたり、ゴミが捨てられて荒れ果てたりといった状況も発生するようになった。田無市や小金井市、国分寺市などでは用水路の大半は暗渠化されたり埋め立てられたり、もしくは完全に消滅してしまった。
 ただ、水路の大半が通る小平市では、幸いにも水路の大半は生き残った。そして、1995年に「小平市用水路活用計画」が、2001年には「小平市上水路条例」が施行され、市として水路を保全していく方向性が明確にうちだされた。2006年には地方分権一括法により、用水路の所有権が国から市へ移管されている。
 小平市内に残る用水路は、この保全策により今でも水が流れている区間が多い。そして、小平監視所より下流の玉川上水が高度処理水、つまり下水の再生水を流されているのに対し、これらの用水路は多摩川からの水がそのまま流されており、いわば本物の分水が今でも生きているといえる。

現在の鈴木用水

 現在鈴木用水は途中までは水が流れていて、かつての新田の面影を残す風景も点在している。一方で、途中からは水が流れない空堀となり、緑道や暗渠となっていたり、埋まりかけていたり、あるいはほとんど消滅してしまった区間もある。そこには用水路の現在の姿のバリエーションがほぼ網羅されているといってよい。そこで、今回は鈴木用水を事例として、現在の武蔵野台地上の玉川上水からの分水路の様子を辿ってみることにしようと思う。

最初に全体図を示しておく。地図はgoogle mapにプロットしたものをキャプチャ。ピンク及び赤のラインが用水路(ピンクは現存、赤は暗渠もしくは水路跡)、水色及び青のラインが川(水色は現存、青は暗渠もしくは川跡)。鈴木新田のおおよそのエリアを緑の塗りつぶしにて現した。なお、地図外の玉川上水南側に、上鈴木新田がある(現小平市上水本町)。
c0163001_11123775.jpg

現在の鈴木用水は喜平橋での新堀用水からの分岐点に始まる。前文でふれたとおり、もともとは玉川上水から直接分水されていたが、1870年(明治3年)に玉川上水に平行する新堀用水が開通してからは、新堀用水の取水口でまとめて定まった量の水を取水し、ここで分けられるようになった。
新堀用水本流のほうは、ここから先は現在は田無用水にしか給水しておらず、水路もそれ以外は途切れてしまうため、実質的には鈴木用水と田無用水の分岐点といっていいだろう。鈴木用水の方に小さな水門が設けられている。
c0163001_111247100.jpg

水門を反対側から見たところ。分岐点のところだけは、コンクリートのしっかりした護岸となっている。
c0163001_11125570.jpg

水門で分かれた鈴木用水はまず北上する。通常は澄んだ水が流れているのだが、上の写真を撮影した2014年5月の時点では水は濁っていた。これは、新堀用水の水路底に亀裂ができたため2013年夏より送水が停止されており、今年5月に再開したばかりのためだ。
c0163001_111328.jpg

水路は警察学校の前で暗渠へと入り込む。入り口の芥止めには雑草など大量のゴミが引っかかっている。一年足らずの停止期間の間に水路に生えた草や落ちた枯れ葉などが運ばれてきているのだ。
c0163001_1113826.jpg

右端に見える柵が、先の写真の芥止めの地点。水路は道路を横断し、直角に曲がって左側の歩道を暗渠になって写真奥方向、東へと流れていく。本来はここで曲がらず北東に流れていたが、1942年の陸軍経理学校の開設に伴って、敷地の南側〜東側を迂回するように付け替えられた。
c0163001_11131467.jpg

経理学校の敷地は現在警察学校や小平団地となっている。その区画の南側に、都区部でもよく見られるような、コンクリート蓋の暗渠が続く。蓋の上から中の様子はまったくわからず、知らなければ古びた暗渠にしか見えないが、この中には多摩川から運ばれた水が滔々と流れている。
c0163001_11132237.jpg

小平団地南東側の喜平図書館付近。暗渠の上にバス停がつくられている。
c0163001_11132899.jpg

暗渠は回田道に沿って北上した後、小平団地東交差点付近で道路から離れ、再び姿を現す。
c0163001_1113356.jpg

水路沿いには未舗装の歩道が続き、ちょっとした散歩道として整備されている。
c0163001_11135382.jpg

しばらく進むと、野中(及び大沼田)用水との分岐点が見えてくる。左側の大きい水門が野中用水、右側が鈴木用水だ。明治初期の記録では野中用水と鈴木用水の分水の比率はおよそ4:3。水門の手前の水路の分岐点には水を均等に分けるため堰が設けられているが、その幅の比率は4:3ほどとなっており、おそらく明治時代と変わりないのだろう。
c0163001_11135885.jpg

水門を下流側からみたところ。エメラルドグリーンの水門にペンキで描かれ青い水がシンプルながらよい雰囲気を出している。
c0163001_1114439.jpg

野中・大沼田用水はまっすぐ北に向かって流れていくが、分かれた鈴木用水は、北東方向に向い、民家の敷地内の森へと流れていく。ここから先は水路沿いを辿ることはできないので、道路と交差する地点を回り込みながら追っていくこととなる。
c0163001_1114119.jpg

民家の敷地を抜けてきた水路は一旦鉄板暗渠に入るが・・・
c0163001_1114186.jpg

道路を横切って再び姿を現すと、林の中を抜ける素掘りの水路となる。こちらもかつての武蔵野の用水の姿を残す素晴らしい風景だ。
c0163001_11142541.jpg

林を抜けたのち、水路は鈴木街道沿いに到達する。ここより東が鈴木新田の中心地となる。街道の西端には鈴木新田の鎮守である鈴木稲荷神社があり、水路はその境内を抜けていく。鈴木稲荷は1724年、開拓の中心人物である鈴木利左衛門の出身地貫井村の稲荷神社を新田の産土神として勧請した社である。
c0163001_11253510.jpg

参道が鈴木用水をまたぐ地点には、昭和12年竣工のコンクリート橋がかかっている。
c0163001_11263611.jpg

神社の境内を抜けていく鈴木用水。
c0163001_1127599.jpg

鈴木街道に出ると水路はほぼ直角に東に曲がり、真新しいコンクリート暗渠の中に入ってしまう。写真右側が鈴木稲荷の境内。そして道路を挟んだ反対側は宝寿院の敷地だ。宝寿院は鈴木稲荷神社と同じく鈴木利左衛門が、新田開発に尽力した父の菩提寺として1726年に府中より移設し開山した寺だ。
c0163001_11271639.jpg

鈴木用水はここより先、道沿いに並ぶ家々に呑水を給水するために、街道の両側に分かれて街道に並行し東進する。写真奥がその分岐点で、手前に見えるのは街道南側の水路だが、こちらは現在水が通されていない。
c0163001_11272854.jpg

こちらは街道北側の水路。道路を挟んだ奥が南側水路との分岐点だ。鈴木用水を流れてきた水は、2014年5月現在では北側水路のみに流されている。ではその水はどこまで流れているのだろうか。次回以降は南側水路、北側水路のそれぞれを追っていこう。
c0163001_1127395.jpg


(つづく)

主要参考文献

大日本印刷株式会社CDC事業部年史センター編 1994「小平市三〇年史」小平市
小平市中央図書館編 2001「小平市史料集 第26集 玉川上水と分水4 水車 絵図」小平市教育委員会
小平市史編さん委員会編 2013「小平市史 地理・考古・民俗編」小平市
小平市企画政策部編 2013「小平市史別冊図録 近世の開発と村のくらし」小平市
[PR]
# by tokyoriver | 2014-06-26 12:00 | 玉川上水とその支流 | Comments(2)
諸般の事情で半年以上更新が滞ってしまいましたが、ぼちぼち再開していこうと思います。久々の記事は、最近一部で話題となっている、渋谷駅前の渋谷川暗渠のお話を。

+++++++++++++++

渋谷川やその水系の暗渠については、本サイトのもととなった1997年版の「東京の水」でとりあげ、その後2005年の「東京の水 2005 Revisited」でも詳細に辿った。また、暗渠本「東京「暗渠」散歩」でも1章を割いて記した。そんな風に個人的に馴染み深い水系だ。
一方で、近年のブラタモリや「アースダイバー」、地形ブームなどで、渋谷駅前、稲荷橋の下で暗渠区間から姿を現す渋谷川は、今や「暗渠」の代名詞とも言える風景として知られるようにもなった。
下の写真は2005年撮影の、渋谷駅南側のビルの谷間を流れる渋谷川。水はほとんど流れていない。
c0163001_23544024.jpg

■渋谷川の暗渠の中

2013年夏、テレビ番組の撮影で、この渋谷川の暗渠の中に少しだけだが潜入する機会があった。3月に東急渋谷駅が地下に移設され、6月には駅周辺の再開発事業計画が正式決定、いよいよ駅前の再開発が本格的に始まる時期。これを逃すともう中に入る機会は訪れないかもしれない、ということもあり引き受けた案件だった。

長靴を履き、稲荷橋の暗渠開口部脇から護岸を川底へと降りる。
c0163001_0195149.jpg

最初の写真でご覧のとおり、通常このあたりはほとんど水が流れていない(その理由は後述)のだが、この時は水かさが10cm以上はあった。前日の大雨の影響もあるだろうが、川底には藻も繁殖していて最近恒常的に水が流れていることを示している。渋谷駅周辺の工事の影響で地下水や漏水が出ているのだろうか。
c0163001_2355972.jpg

入り口から数十m進んだ暗渠内の様子。暗渠潜入自体が番組のテーマではないので、あまり奥までは潜入しなかったが、この先、宮益坂下のかつて「宮益橋」が架かっていた地点までは遡ることができるはずだ。
c0163001_02757100.jpg

暗渠内は蒸し暑く、暗く、そして少し下水のにおいがする。護岸や天井が比較的きれいなのに対して水路内はだいぶ荒れており、真ん中にはコンクリートの壁の残骸のようなものが残っている。これについても後述する。
c0163001_23552956.jpg

■蓋を外された暗渠

さて、その後渋谷駅前の再開発工事はいよいよ本格化し、旧東急渋谷駅の解体が進み、そして今年2014年1月、とうとう渋谷駅前バスターミナルの下を流れる渋谷川暗渠の一部の蓋が外された。
下の写真は渋谷駅とヒカリエを結ぶ通路の上から現場を眺めたもの。ぽっかりと穴が空いている。写真左奥、高速道路と歩道橋が画面から切れる辺りが、稲荷橋の暗渠の出口だ。
c0163001_23555648.jpg

穴に近づいてみる。川底には暗渠入り口と同じく水路をふたつに分ける壁の残骸が見える。下水の臭いが漂うが、水はあまり無い。
c0163001_23592059.jpg

この風景はtwitterなどでもかなり話題となり、実際に現地を訪れ確認する人も少なくなかったようだ。なぜ水がないのか、護岸は川が地上にあった頃のものなのか、といった話題もみかけた。渋谷川を知る者にとっては釈迦に説法になるだろうが、それらの解答を紐解いてみよう。

■渋谷の川跡と下水幹線

まず、あらためて、渋谷駅周辺エリアの渋谷川水系について見てみよう。下の地図は標高を表す段彩図に、かつての渋谷川及びその支流をプロットしたもの。青い線がかつて流れていた川、赤い線はかつての用水路、水色の線は現存する渋谷川だ(google earth経由「東京地形地図」にプロット)。渋谷はその名の通り谷底にあり、その谷底で宇田川と渋谷川(穏田川)が合流し南下していく地点となっている。
c0163001_2357682.jpg

これらの川は、一部は昭和初期に、そして大部分は1960年代に暗渠化され、下水幹線に転用されてしまった。ではなぜ下水の水が渋谷川の開渠区間に流れだしてこないかというと、暗渠から開渠に切り替わる直前で、別の下水幹線に下水が流されているためだ。

以下の図は、東京都下水道台帳より渋谷駅周辺の渋谷川に関連する下水幹線をgoogle mapにプロットしたものだ。
c0163001_23573813.jpg

図の右上から流れる渋谷川の暗渠は、現在下水道「千駄ヶ谷幹線」となっている。蓋を掛けられたかつての川には下水が流されているわけだが、宮下公園の北端で水路内に堰が設けられており、下水は明治通り下を流れる「渋谷川幹線」「古川幹線」へと迂回していく。なので、これより下流部の暗渠には、ふだんは上流からの水は流れず、大雨が降って下水の水かさが堰を越えた時だけ、あふれた水が雪崩れ込むようになっている。

一方で、渋谷川最大の支流、宇田川も、その暗渠は「宇田川幹線」として下水に転用されている。こちらも井の頭通りの入口付近に設けられた堰で公園通り〜ファイヤー通りの下に迂回し、同じく宮下公園北側で渋谷川幹線・古川幹線に接続されている。

こうして、通常は宮下公園以南の暗渠とそれに続く開渠区間では、地下で染みだした水や雨水だけが流れる、ほとんど水がない状態になっているわけだ(渋谷と恵比寿の中間、並木橋より下流は再生水が導水されていて、常時水が流れている)。

■2回めとなる流路の引越し

このように渋谷川の暗渠の大部分は下水道扱いとなっているのだが、宮益橋から稲荷橋までの区間240mだけは、最近まで開渠区間と同じく川として扱われていた。
宮益橋寄りの区間には1934年、東横百貨店(東急東横店東館)が川の上に建てられ、川は暗渠となった。一方、銀座線から稲荷橋までの区間は、上流部の暗渠化とほぼ同時期の1961年に暗渠化された。その際に東急渋谷駅の拡張や、首都高速3号渋谷線の用地を確保するため、流路の変更工事を行ったうえで蓋がかけられた。

実は、今回蓋が開けられたのはこの流路変更後の区間となる。したがって、そこはもともとの渋谷川開渠のルートではなく、暗渠用に改めて開削された水路だ。
近くからの写真に写っている、護岸縁のワッフル状の窪みは、おそらく暗渠の蓋の梁の接合部の痕跡だ。そして、水路の真ん中を分ける護岸は、最初の流路移設・暗渠化の際に、水の流れを制御していた仮水路の護岸の残骸なのである。

そして、53年ぶりに地上に姿を現したこの水路は、渋谷駅の拡張のため再び移設される運命にある。

下の地図には、(1)1961年までの流路、(2)現在の流路、そして(3)今回の再開発で付け替えられる予定ルートをプロットした。赤い矢印が今現在見られる開削地点となる。

数年前より検討されてきた渋谷駅周辺の再開発に関連する都市計画は、2013年夏に東京都により正式決定された。これにより渋谷駅東口には2020年を目処に、43階建て、高さ230mの駅ビルが建つこととなった。そして、現在の暗渠ルートはこのビルを横切ることとなるため、ルートの変更が行われることとなった。工事期間は5年ほど。1961年の移設区間だけでなく、東急東横店地下のルートもあわせて東寄りに移設され、あわせて地下には雨水貯留施設が建設されるという。
c0163001_23581314.jpg

この移設工事に先立ち、すでに2009年6月、暗渠の川扱いの区間がひそかに下水道扱いに変更されている。これは再開発をスムーズに進めるためだ(川扱いのままだと河川法が適用され、川の上部空間の利用に制約がかかる)。したがって、厳密に言えば現在では渋谷川は稲荷橋より下流の開渠区間だけとなり、「渋谷川の暗渠」は公的には存在しないこととなる。私が13年夏に潜入した時、そこはすでに下水扱いとなっていたわけだ。

■変わり続ける風景

明治通りを横切る歩道橋の上から、蓋を開けられた暗渠を見下ろす。目の前の東急東横店東館は2013年3月に閉店し、周りを囲まれ取り壊しを待っている状態だ。その下をくぐる戦前からの暗渠も、今回の付け替えで取り壊される。
c0163001_23583048.jpg

馴染みのある風景が変わっていくのは寂しいが、この風景もまた、その前の風景を塗り替えてつくられた風景であった。暗渠が駅の下に潜る付近の渋谷川には、大正時代末期まで「宮益水車」とよばれる大きな水車が設置されていた。18世紀末につくられたこの水車は、明治初期には「三井八郎右衛門」(おそらく三井財閥中興の祖、8代高福)らの所有となり、水車経営の利益を充てて1875年、渋谷区初の公立小学校が設立・運営された。
この小学校(のちの渋谷小学校)は、現在ヒカリエの建つ敷地付近にあった。それらは今は何の痕跡もなく、眼前の風景からはまったく想像ができない。

ひとつづきの歩道橋の南側からは、稲荷橋、そして開渠の渋谷川を眺めることができる。こちらの風景もかつては全く異なるものだった。
c0163001_23594140.jpg

歩道橋の架かる国道246号線が通っている敷地には、かつて橋の名前の由来となった「川端稲荷(田中稲荷)」があって、銀杏などの木々が生い茂っていたという。その風景は、大正期にこの近辺に住んでいた大岡昇平の自伝小説「幼年」では以下のように描写されている。

「当時は境内の鬱蒼たる大木が渋谷川の流れに影を落としていた。「川端稲荷」の名にふさわしい、水辺の社であった。殊に夏は涼しいから、鳥居の傍の茶店で氷を売っていて、荷車曳きや金魚売りが休んでいる姿が見られた」

現在の川は3面張りのコンクリートで固められ、大木の代わりに高速道路の高架と歩道橋、そして暗渠の蓋と幾重にも構造物が重なり、左右も細長いビルに挟まれていて、100年前の風景を再生するような手がかりはない。
ここの区間の渋谷川は、再開発に伴い再生水の流れる水景施設として整備されるという。もしかすると今よりも多少は100年前の風景に近づくのかもしれない。ただ、現在のこのある意味殺伐とした風景もまた、渋谷の一風景として今を生きる人の一部には懐かしい風景として記憶に刻まれるのではないか。そしてその風景は、徐々に忘れられていくのだろう。



主要参考文献:
・「下水道台帳」東京都下水道局
・「渋谷の水車業史」渋谷区立白根郷土文化館
・「「春の小川」の流れた街 ・渋谷」渋谷区立白根郷土博物館
・「渋谷駅中心地区基盤整備方針」渋谷区
・「幼年」大岡昇平
[PR]
# by tokyoriver | 2014-02-06 00:00 | 渋谷川とその支流 | Comments(8)
 暗渠を辿って街を歩いたり、地域の旧地名を調べていたりすると、しばしば「羽」のつく地名に遭遇する。何となく鳥の羽根が連想され、軽やかなような、気品のあるような地名に感じられたりする。練馬区内の豊島台を刻み、石神井川に流れ込んでいたいくつかの支流の暗渠のひとつにも、そんな「羽」のつく地名を流域とするものがある。1960年代に暗渠化されたその川は、流域の地名「羽沢」をとって「石神井川羽沢支流」と呼ばれている。
 羽沢支流にはその源頭部に、千川上水からの分水路が接続されていた。こちらの分水路は下練馬村分水とよばれていたため、羽沢支流全体を下練馬村分水、あるいは羽沢分水と呼ぶこともあったようだ。分水路は江戸中期には開通していたようで、羽沢の谷戸の底には細長い水田が拓かれていた。
c0163001_23363659.jpg
(google earth経由「東京地形地図」に川・川跡をプロット)
 「羽沢」は現在では「はざわ」と読むが、もともとの地名は「羽根澤」と書いて「はねさわ」と読んだ。下練馬村の字名の一つだ。昭和初期の板橋区編入時に消滅した地名だが、1962年に羽沢として復活したという経緯を持つ。どうせ復活するならそのまま羽根沢にすれば良かったのに、なにか思惑があったのか。
 練馬区のサイトによれば、地名の由来としては鶴がたくさん飛んできて羽を落としていったからというよくわからない伝承があり、一方で「埴沢」つまり、埴輪の素材となるような、粘土質の土が採れる場所だったからだろうとされている。
 羽沢といってまず思い出すのは、渋谷川の支流「いもり川」の流れていた「羽沢」だ。こちらには源頼朝の飼っていた鶴がここに飛来して営巣し、卵から孵った雛がはじめて羽ばたいたところ、と、やはり鶴にかこつけた由来が残っている。羽から鶴への連想・変換というのはひとつの型だったのだろうか。(いもり川の記事はこちら「いもり川再訪(1)」「いもり川再訪(2)」。)
 おそらくもともとはどちらも粘土や泥を指す「はに」が語源なのだろう。古地図をみると練馬の羽根沢から続く台地のヘリには「羽根木」という字名があり、同じ地層の粘土が露出していたであろうと思われる。ちなみに「赤羽」の羽も同様に赤い粘土質の土がとれたことが語源とされている。
 粘土が語源だとすると羽根のイメージとはまったく異なってきてしまうわけだが、それでもなおハネという言葉の響きにはなにか惹かれるものがある。そんなわけで羽沢支流を千川上水の分水地点付近から河口までたどってみた。

c0163001_7365863.jpg
千川上水からの分水地点は、現在千川通りと環七通りの交差する地点付近だった。分水路が西武線を越えた地点から、水路跡の道が現れる。線路沿いに古い欄干のような柵が残っているが、水路と関係あるのだろうか。終戦直後の航空写真をみると、交差点の東側付近から分岐していたようにも見えるが、練馬区のサイトによれば、は環七の西側の側道が水路跡だという。環七の建設時に付け替えられたのかもしれない。
c0163001_737274.jpg
環七から離れてしばらく、分水路は古くからある道沿いを流れていた。現在はその道路と一体化していて一見その流路はわからなくなっている。
c0163001_737551.jpg
しかし、江古田駅から氷川台駅に抜ける道と交差する直前、歩道にあたる部分が急になくなり、そこから左を見ると氷川台方面への道沿いの歩道が不自然なほどに幅広になっている。ちょうどここを水路が流れ、直角に曲がっていた痕跡が残っているのだ。
c0163001_23382149.jpg
水路のルートを書き込んで見るとこんな感じとなる。この痕跡から水路は道路の右側に沿って流れていたことが推定できる。そして実際に暗渠化直前の航空写真を見てみると、その推定が正しいことがわかる。
c0163001_73785.jpg
氷川台方面への道沿いの不自然な歩道。車道と同じかそれ以上の幅があり、奥に行くにつれ狭くなっている。水路が道路に対し斜めに流れていたことを示す痕跡だ。そして歩道が狭くなった地点で、水路は「酒」の看板がある辺りに向かって右に折れ曲がっていた。
c0163001_7371192.jpg
酒の看板の脇には、車止めで仕切られた水路跡が残っていた。下り坂になっており、いかにもな川跡である。
c0163001_7371392.jpg
路上には、練馬区ならではの「水路敷」の字がしっかりペイントされている。
c0163001_7371613.jpg
水路敷は、カクカクとクランク状に曲がっている。右手の駐車場となっている場所には80年代初頭まで湧水が残っていたという。ここが本来の羽沢支流の源流だったのだろう。冒頭の地図ではそんなわけでここまでを下練馬村村分水として赤線で、それより下流を羽沢支流として青線で表記してみた。
c0163001_7371925.jpg
水路敷扱いの区間はすぐに終わり、普通の一車線程度の幅の道となる。暗渠化直前の航空写真を見ると、ちょうど歩道として仕切られたところに水路があったようだ。
c0163001_7372138.jpg
車道から離れる何ヶ所かでは、車止めの路地に戻ったりもする。ここの車止めの並び方は何となくボーリングのピンを思い浮かばさせる。
c0163001_7372430.jpg
途中にある「羽沢ふじ公園」。谷戸の斜面を利用した公園かと思いきや、「羽沢湯」という銭湯の跡地らしい。暗渠沿いに親水設備も作られている。現地を訪問したのは冬だが、夏には水が流されるのだろう。

2013.7.15訂正
羽沢湯はふじ公園の場所ではなく、100~200mほど下流寄りの四つ角を右に曲がった所にあったとのことです。TAKA様、ご指摘ありがとうございました。


c0163001_7372687.jpg
やがて谷戸の谷底の幅が広がり空が開けるところに出ると、都営住宅が現れる。「羽沢2丁目アパート」だ。都内各地の60~70年代に暗渠化された川沿いと同じく、1960年代に水田を潰して作られた団地のひとつだ。烏山川や北沢川、牟礼村用水といった大きな谷戸だけではなく、こんな小さな谷戸にも同じように団地が開かれたというのが当時の切迫した住宅事情をうかがわせる。
c0163001_7372916.jpg
都営住宅の敷地の東側にも並行した水路の跡とも言えるような道が通っている。斜面の上、写真に映るブロック塀の裏手には、一帯で信仰を集めた羽根澤稲荷神社が鎮座している。鎮守の森はなくなり、がらんと空いた空間に所在なげに社がたつのだが、神社名には「羽根澤」の地名がしっかり残されている。
c0163001_7373977.jpg
団地の北側は資材置き場や駐車場になっていて空間が開けていて、奥には谷戸の斜面に残る林も見え、かつての風景が何となくしのばれる。
c0163001_7373566.jpg
川は道路の左側、歩道となっているところを流れていたのだが、その脇には土が露出してちょっとした土手状になっているのもたまたま土が持ってあるのか或いは川が流れていた頃の名残なのかはわからないが長閑な雰囲気を醸し出している。土質が「埴」だったりすると面白いのだが、確認はしていない。
c0163001_7374268.jpg
その先の道路と交差するところでは、かつては左手から宿湿化味の谷から流れてきた支流が合流していた。川はそのまままっすぐ進み石神井川に合流していたが、宿湿化味支流が沿ってきた道沿いに右手に分水が伸び、石神井川との間に挟まれた水田への給水路になっていた時期もあったようだ(冒頭地図参照)。
c0163001_7374534.jpg
宿湿化味支流との合流地点から150mほど北上した地点で、川跡は石神井川にぶつかって終わる。「仲羽橋」のたもとには、ぽっかりと暗渠が口を開けている。
実際にたどってみると、何か取り立てて特徴や見どころのある川跡ではないが、何となく長閑でゆったりした空気が漂い、ふらと散歩するにはちょうどいい暗渠に思えたのはやはりその地名のもたらす感覚もあるのだろうか。宿湿化味の支流については前に記事にしているので、こちらもあわせてご一読あれ。

「水田のなかった谷戸。宿湿化味の谷の川跡を辿る。」
[PR]
# by tokyoriver | 2013-05-30 23:23 | 石神井川とその支流 | Comments(6)
今月より新潮社主催の「新潮講座」にて「東京「失われた川」散歩」と題した暗渠・川跡の講座を開講させていただくこととなりました。小規模なのであまり積極的に告知するつもりはなかったのですが、まだ定員に空きがあるとのことなのでブログでもお知らせします。
 「新潮講座」は今年の1月より始まった、朝日カルチャーセンター新宿教室にて新潮社さんが開講しているカルチャースクールです。一般的なカルチャースクール・カルチャーセンターでは入会金を支払い会員にならないと受講できないのですが、この「新潮講座」は入会等の手続きなく個々の講座を受講できるのが特徴とのこと。
 文芸系の講座が主ですが、その中で「東京スリバチ学会」会長の皆川さんの講座とともに、街歩き系の講座として開講されます。
 私の講座は4月〜6月の全4回。1回めは座学で、2回目以降は実際に暗渠を一緒に歩いていただくかたちとなります。
 4回と回数が多く、定員も少人数のためどうしても受講料が高くなってしまっており申し訳ないのですが(これでも一応交渉して相場よりも安くしてもらっています)、座学の資料等、気合をいれて鋭意作成しておりますので、ご都合があえばご参加下さい。

日時と内容

第1回 「暗渠概論」
2013年4月13日(土) 15:30ー17:00
朝日カルチャーセンター新宿教室

第2回 野外講座「水窪川」 
2013年5月11日(土) 13:00ー15:30
現地集合・解散

第3回 野外講座「神田川笹塚支流・下流編」
2013年5月25日(土) 13:00ー15:30
現地集合・解散

第4回 野外講座「神田川笹塚支流・上流編」
2013年6月 8日(土) 13:00ー15:30
現地集合・解散


詳細情報及びお申し込みは下記リンク先をどうぞ。

ヨム・カク・ミル・シル 新潮講座


最後に製作途中ではありますが、サンプルとして暗渠概論のスライドから一部を紹介します。
c0163001_20424151.jpg
 
c0163001_20435956.jpg
c0163001_20434471.jpg
c0163001_20433440.jpg

[PR]
# by tokyoriver | 2013-04-01 20:52 | お知らせ | Comments(4)
練馬区と板橋区の区境付近を流れていた石神井川の支流「エンガ堀」。流路は1960年代末から70年代初頭にかけて暗渠化されているが、いくつもの支流をもち、特徴的な名前や地形も相待って多くの暗渠者たちが訪れている。今回はそれらの中で、板橋区向原と大谷口の境界に流れを発していた支流の暗渠の上流部を辿ってみることにする。
c0163001_22501426.jpg
先立って、エンガ堀の全体像を段彩図で見てみよう(google earth経由「東京地形地図」に流路をプロットしたものをキャプチャ)。エンガ堀やその支流は、台地を鹿の角のように枝分かれして刻んだ谷を流れていた。そして台地の上にはエンガ堀の谷を迂回するように、千川上水が流れていた。黄色い矢印で示したところが今回辿る支流の谷筋だ。この支流には特に名前はつけられていなかったというが、流域の地名から仮に「向原支流」とでもしておこう。
c0163001_22502662.jpg
地下鉄有楽町線千川駅から北に数分。千川通りから裏手に入ると、急に細長い窪地が現れる。底にはマンションが立っている。
c0163001_22503371.jpg
窪地の片隅の崖下には、怪しい石碑と石造物があった。
c0163001_22503961.jpg
近寄って見てみると、それは「鯉供養の碑」だった。右奥の石積み上げたところにはかつて水が流れていたかのような赤茶色の痕跡があるが、何だろうか。
この窪地が上の地図で示した谷戸の谷頭で、かつて「田頭(でんがしら)」と呼ばれていた。そこには湧水を蓄えた溜池があり、谷の下流部の水田の水源となっていたという
古い地形図を見ると、溜池があったのは大谷口2−35付近。資料によれば上板橋に3箇所あった溜池のうちの2つで面積390坪ほどだったというが、地形図には1つしか描かれていない。
c0163001_22504475.jpg
写真は石碑のあった地点からすこし谷を下った地点で、谷頭の方向を振り返ったところ。写真奥の、青いマンションのところがちょうど地形図に描かれた溜池があった場所だ。そして、そこから流れ出していた川跡が、暗渠となって残っている。

一帯の地名は暗渠を境に「大谷口」と「向原」に分かれる。向原では、干ばつの年には雨乞いが行われ、榛名神社の水を運びこの溜池に入れたという。榛名神社への講は他の地域でも聞いたことがあるが、100km以上離れた土地の山への信仰は何やら不思議な感じだ。谷頭から台地上に上がった千川通り沿いには、今でも雨乞地蔵が残されているという。google mapのストリートビューでもその姿が確認できるのだが、最近この地にマンションが建っており、現在も健在なのかは不明だ。

溜池は昭和初期には釣り堀になり、戦後もしばらく営業していたようで、「大谷口の釣堀」として親しまれていたという。信仰では向原なのに、通称が大谷口となったのはなぜなのか気になるところだ。
先の「鯉供養の碑」の裏面には昭和12年と刻まれておいたから、釣堀と何らかの関係があったのだろうか。水源となっていた湧水は近くを通る千川上水の暗渠化と同時期に涸れたといい、そのことから湧水は千川上水の漏水を受けていたと推測されている。

c0163001_23162347.jpg
(goo地図1948年航空写真より)
goo地図で1940年代末の航空写真を見ると、地形図に描かれた溜池と同じ場所に、中島のある池が確かに確認できる。池の中島には弁財天が祀られるのが普通だが、ここには不動尊が祀られていて、現在は八雲神社に移設されているという。
そして、先の鯉供養の碑がある辺りにもプールのような長方形の池や、それに隣接する台形の池の姿が認められる。昭和初期の地形図にも、昭和30年代の地図にも描かれていないこれらの池は、釣堀のために開削されたものだったのだろうか。1960年代初頭の航空写真ではこれらの池は消滅しており、中島のある溜池だけが写っている。溜池が埋め立てられたのはいつ頃なのだろうか。
c0163001_22504957.jpg
現地では気がつかなかったのだが、知人より、電信柱に名残の標識があると聞いた。上の写真右端の電柱の標識を拡大してみると確かに「釣堀支線」の字が読める。かつてここに釣堀があったことを示す確固たる痕跡だ。
c0163001_22505352.jpg
溜池のあった場所から、流れ出していた小川の暗渠を眺めてみる。右岸側には台地の斜面が迫っており、谷底となる左岸側もあまり開けてはいない。かなり狭い谷戸だ。
c0163001_22505920.jpg
暗渠を進んでいくと擁壁に突き出す排水管や鉄梯子が見られる。たまたま保管してあったのだろうが、ボートの置いてある家もあった。
c0163001_2251468.jpg
しばらく先の右岸側では、切り立った擁壁ではなく、斜面になった緑地としてかつて川が流れていたころの風景の名残をとどめていた。この斜面から丘の上にかけての一帯は「よし山」と呼ばれていたようだ。
c0163001_2251985.jpg
かなりしっかり「歩道」として整備された暗渠なのだが、それでも暗渠沿いの家から洗濯物がはみ出し、半私有地化している。
c0163001_22511467.jpg
暗渠を横切る道。谷戸というよりV字谷に近い。こんな谷筋にも細々と水田が開かれ、昭和30年頃まで残っていたというから驚きだ。
c0163001_22512099.jpg
暗渠は向原中学校に突き当たって一旦消滅する。
c0163001_22512654.jpg
向原中学校は、後者が丘陵の上、校庭が谷戸の谷底となっている。一帯はエンガ堀沿いに逆Yの字に分かれ広がっていた「向原たんぼ」の、東南端にあたり、「いずみ田」とも呼ばれていた。川は1970年頃までには暗渠化され校庭の下に消えたが、1979年、校庭の隅にいきなり水が湧き出し、調査の結果自然の湧水だということが判明した。湧水は「希望の泉」として整備されたという。今回その存在は確認できなかったのだが、今でも水は湧いているのだろうか。
c0163001_22513241.jpg
学校の敷地の北側に回り込むと車止めが現れ、再び暗渠道が始まる。
c0163001_22513811.jpg
暗渠の両側には比較的新しい建物が並んでいるが、そんな暗渠であっても、道沿いの足元には半私物化された暗渠路地の定石である鉢植えが並んでいるのが面白い。
c0163001_22514477.jpg
路地を抜けると「向原田んぼ」を埋め立てて作られた公団住宅の一角に出る。ここから先の暗渠は道路の歩道としてしばらく続いたのち、エンガ堀本流へ合流する流れと、台地の縁を流れ、大谷口上町の谷からの流れを合わせて大回りして石神井川に合流する流れに分かれる。後者の下流部にはnamaさん@暗渠さんぽがかつて「風呂釜支流」と名付けたコンクリート蓋暗渠も残っているがこちらは機会を改めて取り上げることにしよう。


参考資料:
板橋区地名調査団編 1995「文化財シリーズ第81集 板橋の地名」
板橋区教育委員会編 1986「文化財シリーズ第52集 いたばしの河川」
[PR]
# by tokyoriver | 2013-02-27 23:21 | 石神井川とその支流 | Comments(13)