東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver
 暗渠を辿って街を歩いたり、地域の旧地名を調べていたりすると、しばしば「羽」のつく地名に遭遇する。何となく鳥の羽根が連想され、軽やかなような、気品のあるような地名に感じられたりする。練馬区内の豊島台を刻み、石神井川に流れ込んでいたいくつかの支流の暗渠のひとつにも、そんな「羽」のつく地名を流域とするものがある。1960年代に暗渠化されたその川は、流域の地名「羽沢」をとって「石神井川羽沢支流」と呼ばれている。
 羽沢支流にはその源頭部に、千川上水からの分水路が接続されていた。こちらの分水路は下練馬村分水とよばれていたため、羽沢支流全体を下練馬村分水、あるいは羽沢分水と呼ぶこともあったようだ。分水路は江戸中期には開通していたようで、羽沢の谷戸の底には細長い水田が拓かれていた。
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(google earth経由「東京地形地図」に川・川跡をプロット)
 「羽沢」は現在では「はざわ」と読むが、もともとの地名は「羽根澤」と書いて「はねさわ」と読んだ。下練馬村の字名の一つだ。昭和初期の板橋区編入時に消滅した地名だが、1962年に羽沢として復活したという経緯を持つ。どうせ復活するならそのまま羽根沢にすれば良かったのに、なにか思惑があったのか。
 練馬区のサイトによれば、地名の由来としては鶴がたくさん飛んできて羽を落としていったからというよくわからない伝承があり、一方で「埴沢」つまり、埴輪の素材となるような、粘土質の土が採れる場所だったからだろうとされている。
 羽沢といってまず思い出すのは、渋谷川の支流「いもり川」の流れていた「羽沢」だ。こちらには源頼朝の飼っていた鶴がここに飛来して営巣し、卵から孵った雛がはじめて羽ばたいたところ、と、やはり鶴にかこつけた由来が残っている。羽から鶴への連想・変換というのはひとつの型だったのだろうか。(いもり川の記事はこちら「いもり川再訪(1)」「いもり川再訪(2)」。)
 おそらくもともとはどちらも粘土や泥を指す「はに」が語源なのだろう。古地図をみると練馬の羽根沢から続く台地のヘリには「羽根木」という字名があり、同じ地層の粘土が露出していたであろうと思われる。ちなみに「赤羽」の羽も同様に赤い粘土質の土がとれたことが語源とされている。
 粘土が語源だとすると羽根のイメージとはまったく異なってきてしまうわけだが、それでもなおハネという言葉の響きにはなにか惹かれるものがある。そんなわけで羽沢支流を千川上水の分水地点付近から河口までたどってみた。

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千川上水からの分水地点は、現在千川通りと環七通りの交差する地点付近だった。分水路が西武線を越えた地点から、水路跡の道が現れる。線路沿いに古い欄干のような柵が残っているが、水路と関係あるのだろうか。終戦直後の航空写真をみると、交差点の東側付近から分岐していたようにも見えるが、練馬区のサイトによれば、は環七の西側の側道が水路跡だという。環七の建設時に付け替えられたのかもしれない。
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環七から離れてしばらく、分水路は古くからある道沿いを流れていた。現在はその道路と一体化していて一見その流路はわからなくなっている。
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しかし、江古田駅から氷川台駅に抜ける道と交差する直前、歩道にあたる部分が急になくなり、そこから左を見ると氷川台方面への道沿いの歩道が不自然なほどに幅広になっている。ちょうどここを水路が流れ、直角に曲がっていた痕跡が残っているのだ。
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水路のルートを書き込んで見るとこんな感じとなる。この痕跡から水路は道路の右側に沿って流れていたことが推定できる。そして実際に暗渠化直前の航空写真を見てみると、その推定が正しいことがわかる。
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氷川台方面への道沿いの不自然な歩道。車道と同じかそれ以上の幅があり、奥に行くにつれ狭くなっている。水路が道路に対し斜めに流れていたことを示す痕跡だ。そして歩道が狭くなった地点で、水路は「酒」の看板がある辺りに向かって右に折れ曲がっていた。
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酒の看板の脇には、車止めで仕切られた水路跡が残っていた。下り坂になっており、いかにもな川跡である。
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路上には、練馬区ならではの「水路敷」の字がしっかりペイントされている。
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水路敷は、カクカクとクランク状に曲がっている。右手の駐車場となっている場所には80年代初頭まで湧水が残っていたという。ここが本来の羽沢支流の源流だったのだろう。冒頭の地図ではそんなわけでここまでを下練馬村村分水として赤線で、それより下流を羽沢支流として青線で表記してみた。
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水路敷扱いの区間はすぐに終わり、普通の一車線程度の幅の道となる。暗渠化直前の航空写真を見ると、ちょうど歩道として仕切られたところに水路があったようだ。
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車道から離れる何ヶ所かでは、車止めの路地に戻ったりもする。ここの車止めの並び方は何となくボーリングのピンを思い浮かばさせる。
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途中にある「羽沢ふじ公園」。谷戸の斜面を利用した公園かと思いきや、「羽沢湯」という銭湯の跡地らしい。暗渠沿いに親水設備も作られている。現地を訪問したのは冬だが、夏には水が流されるのだろう。

2013.7.15訂正
羽沢湯はふじ公園の場所ではなく、100~200mほど下流寄りの四つ角を右に曲がった所にあったとのことです。TAKA様、ご指摘ありがとうございました。


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やがて谷戸の谷底の幅が広がり空が開けるところに出ると、都営住宅が現れる。「羽沢2丁目アパート」だ。都内各地の60~70年代に暗渠化された川沿いと同じく、1960年代に水田を潰して作られた団地のひとつだ。烏山川や北沢川、牟礼村用水といった大きな谷戸だけではなく、こんな小さな谷戸にも同じように団地が開かれたというのが当時の切迫した住宅事情をうかがわせる。
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都営住宅の敷地の東側にも並行した水路の跡とも言えるような道が通っている。斜面の上、写真に映るブロック塀の裏手には、一帯で信仰を集めた羽根澤稲荷神社が鎮座している。鎮守の森はなくなり、がらんと空いた空間に所在なげに社がたつのだが、神社名には「羽根澤」の地名がしっかり残されている。
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団地の北側は資材置き場や駐車場になっていて空間が開けていて、奥には谷戸の斜面に残る林も見え、かつての風景が何となくしのばれる。
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川は道路の左側、歩道となっているところを流れていたのだが、その脇には土が露出してちょっとした土手状になっているのもたまたま土が持ってあるのか或いは川が流れていた頃の名残なのかはわからないが長閑な雰囲気を醸し出している。土質が「埴」だったりすると面白いのだが、確認はしていない。
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その先の道路と交差するところでは、かつては左手から宿湿化味の谷から流れてきた支流が合流していた。川はそのまままっすぐ進み石神井川に合流していたが、宿湿化味支流が沿ってきた道沿いに右手に分水が伸び、石神井川との間に挟まれた水田への給水路になっていた時期もあったようだ(冒頭地図参照)。
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宿湿化味支流との合流地点から150mほど北上した地点で、川跡は石神井川にぶつかって終わる。「仲羽橋」のたもとには、ぽっかりと暗渠が口を開けている。
実際にたどってみると、何か取り立てて特徴や見どころのある川跡ではないが、何となく長閑でゆったりした空気が漂い、ふらと散歩するにはちょうどいい暗渠に思えたのはやはりその地名のもたらす感覚もあるのだろうか。宿湿化味の支流については前に記事にしているので、こちらもあわせてご一読あれ。

「水田のなかった谷戸。宿湿化味の谷の川跡を辿る。」
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# by tokyoriver | 2013-05-30 23:23 | 石神井川とその支流 | Comments(6)
今月より新潮社主催の「新潮講座」にて「東京「失われた川」散歩」と題した暗渠・川跡の講座を開講させていただくこととなりました。小規模なのであまり積極的に告知するつもりはなかったのですが、まだ定員に空きがあるとのことなのでブログでもお知らせします。
 「新潮講座」は今年の1月より始まった、朝日カルチャーセンター新宿教室にて新潮社さんが開講しているカルチャースクールです。一般的なカルチャースクール・カルチャーセンターでは入会金を支払い会員にならないと受講できないのですが、この「新潮講座」は入会等の手続きなく個々の講座を受講できるのが特徴とのこと。
 文芸系の講座が主ですが、その中で「東京スリバチ学会」会長の皆川さんの講座とともに、街歩き系の講座として開講されます。
 私の講座は4月〜6月の全4回。1回めは座学で、2回目以降は実際に暗渠を一緒に歩いていただくかたちとなります。
 4回と回数が多く、定員も少人数のためどうしても受講料が高くなってしまっており申し訳ないのですが(これでも一応交渉して相場よりも安くしてもらっています)、座学の資料等、気合をいれて鋭意作成しておりますので、ご都合があえばご参加下さい。

日時と内容

第1回 「暗渠概論」
2013年4月13日(土) 15:30ー17:00
朝日カルチャーセンター新宿教室

第2回 野外講座「水窪川」 
2013年5月11日(土) 13:00ー15:30
現地集合・解散

第3回 野外講座「神田川笹塚支流・下流編」
2013年5月25日(土) 13:00ー15:30
現地集合・解散

第4回 野外講座「神田川笹塚支流・上流編」
2013年6月 8日(土) 13:00ー15:30
現地集合・解散


詳細情報及びお申し込みは下記リンク先をどうぞ。

ヨム・カク・ミル・シル 新潮講座


最後に製作途中ではありますが、サンプルとして暗渠概論のスライドから一部を紹介します。
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# by tokyoriver | 2013-04-01 20:52 | お知らせ | Comments(4)
練馬区と板橋区の区境付近を流れていた石神井川の支流「エンガ堀」。流路は1960年代末から70年代初頭にかけて暗渠化されているが、いくつもの支流をもち、特徴的な名前や地形も相待って多くの暗渠者たちが訪れている。今回はそれらの中で、板橋区向原と大谷口の境界に流れを発していた支流の暗渠の上流部を辿ってみることにする。
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先立って、エンガ堀の全体像を段彩図で見てみよう(google earth経由「東京地形地図」に流路をプロットしたものをキャプチャ)。エンガ堀やその支流は、台地を鹿の角のように枝分かれして刻んだ谷を流れていた。そして台地の上にはエンガ堀の谷を迂回するように、千川上水が流れていた。黄色い矢印で示したところが今回辿る支流の谷筋だ。この支流には特に名前はつけられていなかったというが、流域の地名から仮に「向原支流」とでもしておこう。
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地下鉄有楽町線千川駅から北に数分。千川通りから裏手に入ると、急に細長い窪地が現れる。底にはマンションが立っている。
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窪地の片隅の崖下には、怪しい石碑と石造物があった。
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近寄って見てみると、それは「鯉供養の碑」だった。右奥の石積み上げたところにはかつて水が流れていたかのような赤茶色の痕跡があるが、何だろうか。
この窪地が上の地図で示した谷戸の谷頭で、かつて「田頭(でんがしら)」と呼ばれていた。そこには湧水を蓄えた溜池があり、谷の下流部の水田の水源となっていたという
古い地形図を見ると、溜池があったのは大谷口2−35付近。資料によれば上板橋に3箇所あった溜池のうちの2つで面積390坪ほどだったというが、地形図には1つしか描かれていない。
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写真は石碑のあった地点からすこし谷を下った地点で、谷頭の方向を振り返ったところ。写真奥の、青いマンションのところがちょうど地形図に描かれた溜池があった場所だ。そして、そこから流れ出していた川跡が、暗渠となって残っている。

一帯の地名は暗渠を境に「大谷口」と「向原」に分かれる。向原では、干ばつの年には雨乞いが行われ、榛名神社の水を運びこの溜池に入れたという。榛名神社への講は他の地域でも聞いたことがあるが、100km以上離れた土地の山への信仰は何やら不思議な感じだ。谷頭から台地上に上がった千川通り沿いには、今でも雨乞地蔵が残されているという。google mapのストリートビューでもその姿が確認できるのだが、最近この地にマンションが建っており、現在も健在なのかは不明だ。

溜池は昭和初期には釣り堀になり、戦後もしばらく営業していたようで、「大谷口の釣堀」として親しまれていたという。信仰では向原なのに、通称が大谷口となったのはなぜなのか気になるところだ。
先の「鯉供養の碑」の裏面には昭和12年と刻まれておいたから、釣堀と何らかの関係があったのだろうか。水源となっていた湧水は近くを通る千川上水の暗渠化と同時期に涸れたといい、そのことから湧水は千川上水の漏水を受けていたと推測されている。

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(goo地図1948年航空写真より)
goo地図で1940年代末の航空写真を見ると、地形図に描かれた溜池と同じ場所に、中島のある池が確かに確認できる。池の中島には弁財天が祀られるのが普通だが、ここには不動尊が祀られていて、現在は八雲神社に移設されているという。
そして、先の鯉供養の碑がある辺りにもプールのような長方形の池や、それに隣接する台形の池の姿が認められる。昭和初期の地形図にも、昭和30年代の地図にも描かれていないこれらの池は、釣堀のために開削されたものだったのだろうか。1960年代初頭の航空写真ではこれらの池は消滅しており、中島のある溜池だけが写っている。溜池が埋め立てられたのはいつ頃なのだろうか。
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現地では気がつかなかったのだが、知人より、電信柱に名残の標識があると聞いた。上の写真右端の電柱の標識を拡大してみると確かに「釣堀支線」の字が読める。かつてここに釣堀があったことを示す確固たる痕跡だ。
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溜池のあった場所から、流れ出していた小川の暗渠を眺めてみる。右岸側には台地の斜面が迫っており、谷底となる左岸側もあまり開けてはいない。かなり狭い谷戸だ。
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暗渠を進んでいくと擁壁に突き出す排水管や鉄梯子が見られる。たまたま保管してあったのだろうが、ボートの置いてある家もあった。
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しばらく先の右岸側では、切り立った擁壁ではなく、斜面になった緑地としてかつて川が流れていたころの風景の名残をとどめていた。この斜面から丘の上にかけての一帯は「よし山」と呼ばれていたようだ。
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かなりしっかり「歩道」として整備された暗渠なのだが、それでも暗渠沿いの家から洗濯物がはみ出し、半私有地化している。
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暗渠を横切る道。谷戸というよりV字谷に近い。こんな谷筋にも細々と水田が開かれ、昭和30年頃まで残っていたというから驚きだ。
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暗渠は向原中学校に突き当たって一旦消滅する。
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向原中学校は、後者が丘陵の上、校庭が谷戸の谷底となっている。一帯はエンガ堀沿いに逆Yの字に分かれ広がっていた「向原たんぼ」の、東南端にあたり、「いずみ田」とも呼ばれていた。川は1970年頃までには暗渠化され校庭の下に消えたが、1979年、校庭の隅にいきなり水が湧き出し、調査の結果自然の湧水だということが判明した。湧水は「希望の泉」として整備されたという。今回その存在は確認できなかったのだが、今でも水は湧いているのだろうか。
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学校の敷地の北側に回り込むと車止めが現れ、再び暗渠道が始まる。
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暗渠の両側には比較的新しい建物が並んでいるが、そんな暗渠であっても、道沿いの足元には半私物化された暗渠路地の定石である鉢植えが並んでいるのが面白い。
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路地を抜けると「向原田んぼ」を埋め立てて作られた公団住宅の一角に出る。ここから先の暗渠は道路の歩道としてしばらく続いたのち、エンガ堀本流へ合流する流れと、台地の縁を流れ、大谷口上町の谷からの流れを合わせて大回りして石神井川に合流する流れに分かれる。後者の下流部にはnamaさん@暗渠さんぽがかつて「風呂釜支流」と名付けたコンクリート蓋暗渠も残っているがこちらは機会を改めて取り上げることにしよう。


参考資料:
板橋区地名調査団編 1995「文化財シリーズ第81集 板橋の地名」
板橋区教育委員会編 1986「文化財シリーズ第52集 いたばしの河川」
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# by tokyoriver | 2013-02-27 23:21 | 石神井川とその支流 | Comments(13)
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京浜急行で品川駅から2駅、目黒川の流路に跨る新馬場駅から徒歩数分のところに、第一京浜と目黒川に挟まれて寺社が集まったエリアがある。そのなかのひとつ、大龍寺の参道途中から住宅地の中に分かれる路地に、奇妙な段差が出来ている。
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路地の入口はではさほどの段差ではないが、奥に進むとその差は広がる。左側の道が高さを維持し、右側の道が下がっていっているようだ。

「しながわ観光協会」のサイトによれば、この段差の高い方の道は、品川用水の末流の痕跡だという。品川用水では低地を越えるために築堤を設けたり、迂回するために斜面の途中に段を設けて水路を通したりといった事例がしばしば見られる。ここもそれらのひとつなのだろうか。
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100mほどたどっていくと、低い方の道も高い方の道も、民家の敷地にぶつかって行き止まりとなる。
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低い方の道から、来た方向を振り返るとこんな感じ。石垣は苔むし、石積みの隙間を押し分けるように草が生えている。
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水路跡だという高い方の道から振り返ると、言われてみれば確かにそれらしい雰囲気の漂うカーブを描いている。

さて、この水路跡の上流部と下流部はどうなっていたのだろうか。そもそもどちら側が上流なのか。古地図や地籍図を手当たり次第に確認してみたのだが、水路沿いの道を描いているものはいくつかあっても、それに並行する水路を描いた地図はひとつも見つからなかった。そしてこの水路に関する記述も、先にあげたサイト以外では見つからなかった。目黒川から100mほどしか離れていないこの場所で、低地を迂回させた目的は何だったのだろうか。そもそもここはほんとうに水路跡なのか。

いずれにせよ、品川区内でこのように品川用水の痕跡が残っているところはほとんどない。用水路は基本的には尾根筋を通っていたため、埋め立てられると地形的に跡形もなくなってしまうからだ。
また、特に東海道線以東については、古くから開発の進んだエリアであることも痕跡の消滅に拍車をかけたのだろう。例えばこの痕跡の少し西からJR東海道線の脇にかけてを敷地にしている「日本ペイント」は1896(明治)年以来この地に工場を構えている。
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工場の一角には1909(明治42)年に竣工した煉瓦作りの建物が残っている。日本最古のニス工場であったこの建物は、国指定重要文化財となっていて、内部は現在明治記念館として公開されている。
日本ペイントと東海道線を挟んで並ぶ「三共製薬」の工場も明治後期にすでに操業していた。これらの工場は「碑文谷道」と呼ばれる古くからある道沿いに位置している。
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碑文谷道に面した天龍寺の墓地には赤煉瓦の塀が残っている。これも正確な時期は不明だが明治時代の建造という。

碑文谷道沿いから離れたエリアは、大正初期までは水田が残っていたようだ。その水源は主に品川用水の下蛇窪村・北品川宿・南品川宿・二日五日市村方面の分水路によっていたと思われる。分水路の流末はいく筋にも分かれ、それらの水田を潤しながら目黒川へと注いでいた。水田は大正後期には宅地化で消滅し、水路もなくなってしまった。ただ、その一部は路地や道路として断片的に残っている。
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日本ペイントの敷地の向かいに、ちょっとかわった雨水溝が設けられた路地がある。こちらも品川用水からわけられた分水路の痕跡のひとつだ。奥に見える木のあたりは戦前までちょっとしたお屋敷で、その敷地を挟むように2本の水路が流れ、碑文谷道に出て合流し、日本ペイントの敷地内を抜けていたようだ。
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碑文谷道の南400mほどには、浅間台と呼ばれた控えめな台地がせり出している。その北側のふもとを西から東に向かって品川用水の南品川宿方面への分水が流れていた。写真の道沿いに、かつてその分水があった。分水より北側(写真左側)がかつて水田地帯で、1枚前の写真の分水路はこの分水から分けられていた。

この南品川宿方面への分水は、ゼームス坂下で向きを北に変え、ゼームス通りが碑文谷道にぶつかるまで通り沿いを流れていたのだが、そのぶつかる地点のすぐそばに、冒頭の水路跡がある。水路跡はこの分水路の流末だったのだろうか。
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水路跡の道を西へ遡上していくと、浅間台小学校の北側でJR東海道線の線路にぶつかり途切れるかたちになる。そこには欄干に見えなくもないようなコンクリートの構造物があった。欄干ではないのかもしれないけれど、かつて水路と道がこの先にも続いていたことを示す何らかの痕跡なのだろう。
線路の西側には、JR東京総合車両センターの広大な敷地が広がっている。かつての国鉄大井工場だ。1915(大正4)年に、広大な水田を潰して作られた。その水田の中で何本かに分かれていた品川用水は、その際に付け替えられたり埋め立てられたりして跡形なく消えた。
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コンクリート構造物の南側は浅間台に上る階段となっている。台地と低地の境目がはっきりわかる。
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そして階段の上から車両センター内を覗くと、そこにもまた煉瓦作りの建物が残っている。かつての大井町変電所で、1922(大正11)年に竣工したという。水路跡巡りがいつのまにか煉瓦巡りになっているような、そんなエリアだった。

最後に今回のエリアの段彩図を(google earth経由で東京地形地図をキャプチャしたものにプロット)。地図に示した水路のうち、目黒川以外はすべて現存していない。また濃い青は痕跡が確認できるもの、水色は推定のルートとなる。それらのうち黄色の矢印で示した3か所が今回とりあげた水路跡だ。左上に描かれた、冒頭にとりあげた水路跡のルートをみると、台地の末端の縁を、低地を避けるように通っていることがよくわかるし、そこに至る南品川宿方面分水も、浅間台の裾を経由したのち微高地を選んで北上していていることがわかる。そして、JR東京総合車両センターが大規模な造成地の上につくられていることも一目瞭然だ。
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車両センターの西側に再び断片的に痕跡を残す水路跡については回を改めてとりあげることにして、今回の記事はひとまずここまで。
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# by tokyoriver | 2013-02-07 23:31 | 品川用水とその支流 | Comments(6)
2年半ぶりの「神田川笹塚支流(和泉川)」シリーズ。今回は京王新線幡ヶ谷駅付近を流れていた支流をたどってみよう。

今までの記事はこちら
・神田川笹塚支流(和泉川)(1)「萩窪」の源流と幡ヶ谷分水
・神田川笹塚支流(和泉川)(2)最上流部・北側水路
・神田川笹塚支流(和泉川)(3)最上流部・南側水路

「神田川笹塚支流」もしくは「和泉川」という呼び方

 暗渠者の間で「神田川笹塚支流」もしくは「和泉川(いずみかわ)」と呼ばれるこの川は、杉並区和泉の地にその流れを発し、新宿区西新宿五丁目で神田川に合流する全長3kmほどの流れで、1960年代半ばに暗渠化されている。
 川は本流の他、並行する傍流や右岸側の台地に谷を刻む数多くの支流、そして玉川上水からの分水もあって、流域も杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区にまたがっており結構な規模があるのだが、なぜか固有の呼び名がなく、流路の大半を占める渋谷区の行政資料や地域資料では長いこと単に「神田川支流」という呼称で記されてきた。神田川の支流は他にもたくさんあるわけで、固有名詞というにはにはやや無理があるし、無個性で味気ない。
 一方でその暗渠は遺構が多く変化にも富み、数多くの暗渠者を引き寄せてきた。彼らの間ではいつしか「神田川支流」ではなく「神田川笹塚支流」と場所が分かる形で呼ばれるようになり、現在その呼び方は一般的にも定着してきているように思える。
 そんな「神田川支流」に「和泉川」という呼び方があったらしい、と判明したのは6、7年ほど前だっただろうか。庵魚堂さんの「世田谷の川探検隊」に当時あったBBSで、中野区の戦前の資料で見つかった名前として報告された「和泉川」の名称はかなり反響を呼んだ記憶がある。現在では和泉川の名前も少しづつ浸透している。本サイトではそんな経緯を踏まえて「神田川笹塚支流(和泉川)」として記載してきた。
 この「中野区の戦前の資料」の掲載箇所が長らく見つけられなかったのだが、今回記事を記すにあたって再度資料を確認して見たところ、やっと1943年に刊行された「中野区史上巻」において、中野区の地形をなす丘陵の説明の項に「幡ヶ谷丘陵」を分かつ河川として北に神田川、南に和泉川と記されているのを見つけることができた(ちなみにこの資料では桃園川を中野川としている)。ただ、この名称は他の資料には見当たらず、実際に現地でそう呼ばれていたのか、便宜上文中でそう記していたのか定かではない。いずれにせよ、川の流域に含まれていない中野区の資料だけに川の名前が記されているということは興味深い。
 
唯一名前の無い、幡ヶ谷の谷

 下の地図は神田川笹塚支流(和泉川)流域の段彩図だ(google earth経由東京地形地図にプロットしたものをキャプチャ)。青が河川の暗渠/川跡、赤が用水・上水の暗渠/川跡、水色が現存する河川、桃色が現存する用水路・上水路となる。
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 源流部や支流の流れる谷戸には鶴が久保、萩窪、牛窪、地蔵窪、小笠原窪、とそれぞれ地名がついている。しかし、今回記事にする幡ヶ谷の支流の谷(上の地図で黄色い矢印で指したところ)には、古地図や資料をざっと調べた限りでは、地名がみあたらない。水田として利用されていなかったこともその理由かもしれないが、短いながら比較的はっきりした谷筋なだけにこれまた不思議な感じもする。ひとまずここでは「幡ケ谷支流」とでも呼んでおく。辿るに先立って、幡ヶ谷付近を拡大した段彩図をあげておこう。
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 川は玉川上水の近くに発し、京王線、甲州街道、水道道路を横切り和泉川に合流している。上流部は僅かな窪地となっている程度だが、中・下流の谷筋は幅が狭く、そして高低差がはっきりしている。そしてかつて淀橋浄水場に水を送っていた玉川上水の新水路だった「水道道路」が谷を横切ってダムのように塞ぎ、スリバチ界隈の方々が呼ぶところの「一級スリバチ」ができている。さっそく下流部から遡っていこう。

水道道路北側の深い谷

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和泉川本流の暗渠を遡って行き、六号通りを過ぎて中幡小学校の前で暗渠が車道と合流する地点が、幡ヶ谷支流が和泉川に合流していた場所だ。写真の手前は和泉川の橋跡で、右から左に向かって川が流れていた。そして写真左奥の住宅地の中から出てくる路地がかつての幡ヶ谷支流だ。
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 暗渠路地の入り口には、欄干の痕跡のようなものが残っている。明治中頃から大正後期にかけては、この地点より20mほど西寄りに水車用の分水路の合流口があり、字中幡ヶ谷と字原の共用水車が回っていた。この水車については後ほど記す。
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 路地の入り口は直線だったが、遡って行くとすぐに優雅なカーブを描く暗渠道となる。
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 角ばったS字に曲がっていく。この少し先で、両側に家々が迫る路地からいったんぽっかりと空が開けた窪地となる。そこには「原中橋」(おそらく「原」と「中幡ヶ谷」の字名からとったのだろう)と呼ばれた小さな橋が架かっていて、先の水車用の分水路がそこから分けれられていたようだ。
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 原中橋が架かっていた地点を過ぎてすぐに、暗渠は再び崖下に沿う路地となる。
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 暗渠は奥に進んでいくにつれてどんどんプライベート感を増し、やがて半ば家の裏庭になりかかっ先で、水道道路に阻まれて行き止まりとなる。
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  振り返るとこんな感じだ。鉢植えや自転車、梯子、そして何故か扇風機。この暗渠路地に入ってくる部外者は郵便配達くらいなものなのだろう。

玉川上水新水路と、谷に落とされた水車用の水

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 途中まで引き返し、谷底から水道道路の上に上がる。道沿いには都営住宅が続き、その先には初台のオペラシティのビルが見える。左側の歩道沿いにみえる緑のフェンスのあるところが、暗渠の谷が横切っている地点だ。
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 フェンスのところまでくると高低差がよくわかる。水道道路はかつての玉川上水新水路の跡だ。玉川上水新水路は、東京の上水道近代化を目的としてつくられた淀橋浄水場へ水を供給するために1897(明治31)年に完成した。水路は従来の玉川上水と異なりほぼ直線で建設され、そのため、従来の玉川上水が迂回していた谷筋を越えるため土手が築かれた。ここで見られる高低差はまさにその土手の名残だ。新水路の高い土手は幡ヶ谷の地を分断し、住民はかなりの不便を強いられたという。
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 水路沿いの住民は新水路建設にあたり労役も提供したというから、いわば骨折り損のくたびれ儲けだったわけだが、わずかながらの見返りとして、新水路の落水を水車の動力に使用することが許可されたという。その水車が先に記した幡ヶ谷支流(の分水)と和泉川の合流地点に設けられた水車だ。
 和泉川流域に水車が登場したのは明治初期だったという。流域は全体的に高低差が少なかったため設けられた水車も3箇所のみだった。そのうちの一つの中幡ヶ谷水車が移設され、新水路の水を利用するようになった。写真の通り高低差が大きかったため水流が早く、水車の回転も速かったという。水車は大正末まで20軒ほどの農家に共同利用されていたという。
 専ら浄水場への送水を目的とした新水路から水が落とされていたというのはにわかには信じがたいが、わざわざ水車を移転したのだから事実なのだろう。そうだとするならば普通に考えればこの写真の地点で水が落とされていたことになるだろう。
 なお、玉川上水新水路は関東大震災の際には堤防が決壊し幡ヶ谷一帯に洪水をもたらした。これを機に住民からは水路の撤去要請の声が高まり、甲州街道の拡幅時に淀橋浄水場への送水管が地下に埋設され1932(昭和7)年に新水路は廃止された。しかし土手はその撤去途中で戦争に突入し、大部分はそのまま残って水道道路となっている。

水道道路南側のスリバチエリア

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 さて、六号通りを経由して、水道道路の南側の「一級スリバチ」状になった谷筋に続く上流部を目指す。水道道路沿いの都営住宅の裏には、水道道路に並行して谷筋へと降りていく側溝があった。
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 側溝を下り切った地点から振り返る。こちらも谷の断面がよくわかる。
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 谷底に再び現れる暗渠らしき路地。水道道路の土手の擁壁とその上に建てられた都営住宅が聳え立つ。
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 そこから上流方向を眺めたところ。いかにも暗渠な雰囲気だ。ただ、戦前の地籍図を見ると、実際の水路はこの路地よりもやや西寄りに描かれていて、この先の地点でクランク状に曲がってからこの路地のルートとなっている。一方で戦後の地図や航空写真ではこの路地が水路となっている。どこかのタイミングで付け替えられたのだろう。
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  暗渠道がやや太くなる地点の脇には「観音湯」。戦前の地図にも別の名称ではあるが銭湯が確認できる。写真には写っていないが東側(右側)には上り坂が六号通りに続いていて、スリバチ地形がよくわかる。
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 幡ヶ谷の駅近く、飲み屋などを伴いながら緩やかな登り坂となって暗渠が続く。路地自体は甲州街道まで続くが、水路は甲州街道の手前でクランク状に折れ曲がり西方にシフトしていた(冒頭2枚目地図参照)。現在は土地の境界にその名残を残す程度で暗渠はいったん痕跡を消す。

甲州街道の南側の痕跡と玉川上水

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 甲州街道を越え、京王線の線路の南側の住宅地の中に入っていくと水路跡は三たび姿を現す。この辺りでは川沿いはほぼ平坦になっている。自然河川の上流部を排水用に延長したパターンにも思えるが、幡ヶ谷郷土史によると、一帯では水が湧いていたようだ。
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 狭い路地だが、駅への近道になっているのか絶え間なく人通りがある。水の流れが人の流れに入れ替わったとでも言えようか。
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 数十mで車止めが現れ、水路跡は終わる。すぐ先には玉川上水の暗渠が通っている。ここが幡ヶ谷支流の痕跡の最上流端だ。
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  すぐそばの玉川上水の暗渠には、1980年代末期にリニューアルされ半ばモニュメント化された山下橋が架かる。奇遇にもその意匠には水車のモチーフが取り入れられている。左奥の植え込みの後ろに道路を挟んで先ほどの幡ヶ谷支流の暗渠がある。
 これだけ玉川上水と幡ヶ谷の支流の水源が接近していると分水が引かれていたのではないかという気にもなるが、先に記したとおり一応湧水があったようだ。ただ、上水がその湧水を涵養していた可能性は否定できないだろう。

 幡ヶ谷支流の探索はこれにておわり。名無しの支流ではあるが、玉川上水新水路からおそらく唯一の分水を受け、そして旧水路からはその漏水を受け、と新旧ふたつの玉川上水と縁深かったこの川。果たして呼び名はあったのだろうか。いつしか「和泉川」のようにその名前が発見されてもおかしくない、個性のある川であったように思う。

【主要参考文献】

「幡ヶ谷郷土誌」 堀切森之助編 1978 渋谷区立渋谷図書館刊
「東京市渋谷区地籍図下巻」1935 内山模型製図社刊
「渋谷の水車業史」 渋谷区立白根記念郷土文化館編 1986 渋谷区教育委員会刊
「中野区史 上巻」 1943 東京市中野区役所編・刊

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(おまけ)山下橋の傍には、かつての橋の親柱がひっそりと保存されていた。
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# by tokyoriver | 2013-01-27 01:42 | 神田川とその支流 | Comments(1)