東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


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「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズの最終回は、失われた入間川の下流部を辿る。まずは前回の記事でも取り上げた、入間川の河口。現在の入間川は、調布市入間町と狛江市東野川の境目で、野川に合流して終わっている。前回の記事では水の流れる2008年6月、涸れている2012年2月の写真を載せたが、今回の写真は2012年5月のもの。水はしっかり流れている。右側に見える別の合流口は、かつての合流式下水道の排水口らしく、今では使っていないそうだ。
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入間川と野川の流路の変遷

下の地図は、京王線以南から小田急線を挟んで二子玉川付近までの一帯の、現在見られる河川の流路を示している(一部暗渠)。野川が北西から南東に横切り、そこに入間川、仙川が合流している。また仙川は野川に合流する手前で丸子川を分け、そちらには途中から谷沢川が合流している。これらの川が現在のような流路となったのは1967年以降のことだ。
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1967年以前の流路は、下の地図のようになっていた。大きく異なるのは「六郷用水」の存在だ。また、狛江市内の野川は今よりも西側を流れていた。そして、小田急線喜多見駅付近の、現在野川が流れている辺りには、入間川が流れていた。この失われた入間川下流部が今回の記事の主題だが、その前に一帯の河川・用水の変遷について簡単に触れておこう。
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六郷用水

六郷用水は、江戸時代初期、1597(慶長2)年から1611(慶長16)年にかけて15年の歳月をかけてによって作られた、多摩川から分水した灌漑用水だ。開削を主導した小泉次大夫吉次にちなみ、「次太夫堀」とも呼ばれている。なお、多摩川を挟んだ反対側(川崎側)には同時期に二ヶ領用水が開削されている。
取水口のある狛江近辺の水路は1605(慶長10)年に開削が始まり、1609(慶長14)年には開通して現在の狛江と蒲田の間の本流が繋がった。そののち引き続き小堀(六郷領内の分流)が開削され1611年に完成した。その延長は23kmに及ぶ。当初は六郷領21ヶ村にのみ水利権があったが、のち1726(享保11)年に、世田谷領の14ヶ村についても利用が認められた。

六郷用水の廃止と野川の改修

300年以上にわたり、現在の世田谷区南部と大田区の田畑を潤してきた六郷用水は、流域の都市化に伴い1950年頃には使われなくなったという。そして取水口から狛江駅付近までの上流部は1965年に暗渠化された。
一方野川は、戦後相次いだ氾濫を契機に1962年に改修工事が開始し、狛江市内では入間川の流路への付け替えと直線化という大幅な改修となった。この工事は1967年に完成した。
取り残された水路のうち六郷用水の区間は1971年ころまでには暗渠化し、世田谷区内の区間は滝下橋緑道になった。そして、旧野川の区間も1974年から77年にかけて緑道化され、最初の地図に見られるような現在の姿となった。
なお、あわせて仙川の流末も野川に接続するようになり、取り残された六郷用水は丸子川として再出発した。

六郷用水開削前の入間川と野川

では六郷用水が開削される前の入間川や野川はどのような流路を流れていたか。下の地図がその想定図である。ルートは現在残っている関連する水路や水路跡をつなぎ推定で描いた。実際に必ずしもこのとおりだったわけではないだろう。
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これを見ればわかるように。六郷用水が開削される前、野川は現在の岩戸川(〜清水川・町田川・宇奈根川。いずれもほぼ暗渠化)の流路を経て多摩川に注いでおり、一方で入間川は現在の野川の流路を経て多摩川に注いでいて、それぞれは独立した川だった。
そこに六郷用水が開削されたことで、野川と入間川は、下流部を切り離されて六郷用水に取り入れられた。六郷用水が再び分かれた後の入間川の最下流部は、野川として扱われるようになった。六郷用水には、他にも仙川や谷戸川が取り入れられ、切り離された仙川の下流部は荒井吐、谷戸川の下流部は谷川として扱われるようになった。

段彩図で土地の高低差を見ると、かつての野川と入間川の流路が一目瞭然に浮かび上がる(国土地理院基盤地図情報5mメッシュ地図をカシミール3Dで加工)。野川の旧流路と岩戸川/清水川の谷筋は連続している。一方で入間川の谷筋との間には微高地があってはっきり隔たれている。
通説では野川は宇奈根付近で多摩川に直接合流していたとされており、図の流路描写はそれにあわせてあるが、地形の微高低差を見るとそこではなく、入間川に合流していた可能性もある(それらの低地は現在清水川や宇奈根川のルートとなっている)。
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こうしてみると、入間川は時代を追うごとにその流路を奪われ縮めてきたこととなる。まずは六郷用水の開通で下流部が六郷用水と野川に奪われ、流路が縮まった。そして1960年代の野川の改修にでは更に上流部で断ち切られたうえに、野川の支流扱いとなってしまった。現在入間川とされている流れは、かつての長さの半分くらいにすぎない。

六郷用水の開通から廃止、そして関連する河川の改修による水路の遷移は探っていくと面白い。また、かつての野川の流路を含む、清水川/岩戸川/町田川/宇奈根川とも呼ばれた川の流れるエリアは水路が複雑に交錯し、更に猪方用水や岩戸用水といった六郷用水からの分水路も絡んで複雑だが、詳細を記すとそれだけで数回分の記事となってしまうので、今回はこの程度で留めておき、主役の入間川を六郷用水開削後の合流地点付近まで追っていく。下の地図の紫色のラインで描いた水路跡・暗渠が、今回取り上げる区間である。
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野川右岸に残る入間川旧流路跡

野川にかかる「谷戸橋」を渡る道路を過ぎた地点から、はっきりとした水路跡が現れる。写真の箇所は左岸側のマンションの建設にあわせて整備されたようだ。
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その先の谷戸橋広場の脇には、草の生い茂る空き地となった水路跡が残っている。この辺りでメインの流路は二手に分かれていた。高低差を考えると東側の水路が本流で、西側の水路があげ堀的な傍流だったのだろう。その他にも水田の灌漑用に、幾筋かに分かれた水路が交錯していたようだ。
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まずは西側の傍流を辿る。空き地の水路跡を下流側から望む。これより下流は世田谷区に突入。いったん道路の歩道になる。
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だが少し進むと、細い水路跡の道が現れる。
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道端にはコンクリート蓋の溝渠が続く。処々で排水管の継手が突き出す。
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細い暗渠路地の終端から上流側を振り返る。右側の空き地にも実は水路跡が残っている。
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写真ではわかりにくいが、細長い窪地が写真左奥から右手前に続いている。これは東側の本流からの分水路で、前の写真の手前で、西側の水路に合流していた。
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窪地を上流側から見ると、水路敷の幅の分だけ空き地となっていてよく分かる。
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先ほどの細い暗渠路地の下流側は、再び道幅が広くなる。写真は下流側から上流方向を望んだところ。奥に見える草地がさきほどの合流地点。一段低くなっていて、護岸風の擁壁からは排水管の継手が突き出している。
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車止めのついた暗渠道は、喜多見駅の方に南下していく。
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ここで少し遡って東側の本流を。小田急線の車両基地でもあるふれあい広場の西側に沿って写真手前を右から左に川跡の遊歩道が続く。正面は西側の傍流との間をつなぐ水路跡だろう。下流側に進むと、先ほどの草叢の窪地を通る水路が分かれていた。
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川跡は遊歩道を抜けると、小田急の車庫に沿った道の歩道となって南下していく。微妙な曲がり具合が川を彷彿させる。
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何本かに分かれていた入間川の水路は、小田急線の線路の手前で一本に合流し、線路をくぐっていた。線路の南側、ちょうどかつて水路が通っていた地点には高架下に不自然な空間がつくられている。前後は一面の壁面となっているのだが、ここだけ高架下を抜けられるようになっている。だが、抜けた先に何かあるわけでもなく、通路ではなさそうだ。水路敷と関係あるのだろうか。
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小田急線を潜ってすぐ南側の地点にはかつて水車が掛かっていた。1878(明治11)年の設置で、直径は1丈5尺(約4.5m)あったという。その先の入間川は、現在の野川の河川敷の付近を蛇行しながら流れていた。
野川に架かる上野田橋の袂には石橋供養塔が保存されていた。側面には文化八年(1811年)と記されている。かつての入間川の流路に架かっていた橋の供養塔だろう。
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入間川流末の分流の暗渠

ここから先は、石橋供養塔の辺りで西側に分岐していた分流を追ってみる。歩道を写真手前から奥に。道路が細くなり歩道がなくなる地点から「歩行者自転車専用道路」との標識のある細い路地が分かれる。
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路地に入って行くと、入って行くとすぐに階段が現れる。降りた先はフェンスに囲まれたコンクリート蓋の暗渠となっている。
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写真は下流側から上流方向を望んだ様子。浅い谷の西側の縁に沿って暗渠が続く。
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川沿いの民家に出入りするための小さな橋も残っている。
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蓋暗渠はその先、世田谷通りに突き当たって消える。
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滝下橋緑道へ

世田谷通りを越えると、水路跡風のやや太めの路地。近くには「水車」の名がつけられたアパートがあった。ここより少し先のあたりにもかつて直径6mもある大きな水車があったそうだが、関係あるのだろうか。
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そして路地を抜けると、滝下橋緑道に出る。かつての六郷用水は、取水口から狛江駅付近までは道路になったり世田谷通りの歩道に取り込まれてしまっていて全く痕跡はないが、世田谷通りから分かれた後の世田谷区内の僅かな区間は「滝下橋緑道」として整備されている。

滝下橋の由来である字名「滝の下」は、六郷用水が世田谷通りから離れて緑道が開始する地点にあった「たんげいの堰」から落ちる水が滝のようであったことに由来するという。堰では六郷用水の北側に用水路が分かれ、入間川を掛樋で越えて国分寺崖線の直下を流れ、成城三丁目緑地からの現在も残る湧水を合わせた後再度六郷用水に戻っていた。
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緑道を100メートルほど進むと、とうとう野川に出る。のれんのかかった暗渠の口がぽっかりと開いている。ここの手前で、入間川は六郷用水に合流していた。90年代初頭までは野川のすぐ脇に並行して水路敷の窪地が残っていたようだが、今は歩行者道となっている。
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暗渠の出口の先には野川とその河川敷が広がる。かつて六郷用水が開削されるまでは、この先の流路も入間川として、多摩川まで続いていたわけで、少し下流側にある次大夫堀公園に残る六郷用水の水路もいってみれば入間川の流れだったのだ。
1960年代なかばの整備を経た現在の野川はほぼまっすぐに南東へと流れていく。河川敷は広くとられていて、空が広い。一時期は下水同然と化したその流れも今では澄んだものとなっている。それでも大雨の後は下水が流れ込み水質が悪化するし、雨が少ない年は瀬切れしてしまうといった問題は抱えている。

なお、野川の直線化改修には水路に並行して計画された外郭環状道路も関係していたという。こちらは1970年に大泉以南の計画が凍結されたのだが、近年になって地下道路として計画が復活していて、地下水脈や湧水への影響が懸念される。すでに白子川水系沿いの貴重な湧水群である「八の釜憩いの森」の湧水が外郭環状道路の整備で消滅することが明言されている。
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これより下流、六郷用水の開削やその後の河川改修に絡んだ野川、仙川、谷沢川、丸子川、谷川といった川の流路変更や、あるいはかつての野川流路(もっと遡れば多摩川の流路)だった岩戸川/清水川や町田川/宇奈根川といった川の複雑に残る暗渠も興味深いが、それらは別の話題となるるので、又の機会としよう。
そして、深大寺用水としての開削区間より上流側の砂川用水〜梶野新田分水についても、また機会があれば記したい。

半年、16回にわたっての入間川と深大寺用水のシリーズ、当初の構想よりもかなり扱う範囲やボリュームが増えてしまったが、これにてひとまずお開きとなる。深堀りしすぎたこともあり、「fragments」(断片)とはだいぶかけ離れてしまった。読みにくくなってしまったことはお詫びしたい。
最後に参考文献一覧を記す予定だったが、今回の記事が想定外に長くなりすぎたので、数日中にシリーズ全体の目次とあわせて別の記事としてアップすることにする。

(もう1回だけつづく)
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by tokyoriver | 2012-05-20 22:50 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(4)
入間川の中下流部編、2回目は実篤公園付近から野川の合流地点までと、周囲に残る分流の痕跡について取り上げる。まずは全体地図を(google mapよりキャプチャ)。前回と同じ説明となるが、図の中央を左上から右下に流れる赤紫色のラインが入間川で、甲州街道以南から、野川に注ぐまでの本流の区間が開渠、それ以外は暗渠か埋め立てられている。ピンクの矢印で示したのが今回取り上げる区間だ。
緑色のラインは前回まで取り上げた仙川用水に関係する水路。地図の区間ではその大部分は深大寺用水に取り込まれている。いずれも暗渠化もしくは埋め立てられている。
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現在の入間川下流部

さっそく前回の続きから辿っていこう。実篤公園の南東側には、車止めが設けられた遊歩道が設けられている。これはかつて入間川から灌漑用に分流されたあげ堀跡だ(上の地図で実篤公園南から始まる、やや濃い紫色のライン)。
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遊歩道は短い区間で終わるが、水路の跡はその先の道路に沿って不自然な歩道となって続いている。写真に見えるガードレールで縁取られた歩道は、数年前まではもっといい加減な舗装でいかにも水路跡の雰囲気を漂わせていた。
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あげ堀は若葉小学校の脇を通った後、その向いの調布市立第四中学校の敷地内に入ってしばらく痕跡を追えなくなるが、都営調布入間町2丁目アパートの南側付近から再び、よりはっきりした姿を現す。これについてはのちほど取り上げることにして、入間川本流に戻ろう。
第四中学校の脇の辺りでは、入間川の水路は谷筋の西側の崖線下を流れている。崖線の緑が色濃く残っている貴重なエリアだが、川沿いに道がなく見られないのが残念だ。
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崖線の上に上り少し上流側に戻ると、崖線の斜面の林が残されていて、川を見下ろすことができる。ただ、護岸を支えるはしご状の梁が邪魔をして、川面はあまり見えない。
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丘の上から南にしばらく下って行くと、ようやく入間川に沿った道となる。写真は上流側に向かって撮影したもの。道の両脇の木立がよい。
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仙川駅から狛江駅方面に抜ける通りを越え、都営調布入間町2丁目アパート(団地)脇に入ると、入間川の流路は深く掘り下げられ路面よりもかなり高い護岸が設けられていて、普通に歩いていると川面が見えない状態となっている。この辺りまで来ると、乾季(写真は12年2月)には、水が枯れてしまい、コンクリート3面張りの水路が虚しく続いている。上流に流れていた水は護岸の隙間から徐々に地面に染みこんでしまったのだろうか。
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水路の右岸(西)側は小高い急峻な丘となっていて、丘の上には明照院と糟嶺神社が鎮座している。明照院は室町時代後期(16世紀半ば)に創建された天台宗の寺院。今回見落としたが、入間川を挟んで反対側の国分寺崖線の下に弁天山と呼ばれる一角があり、この寺院が17世紀後半に竹生島より勧請した弁天祠が現存するという。当然ながらそこにはかつては湧水池があり、現在でも祠を囲むように池の痕跡が残っているそうだ(参考サイト)。
そして、糟嶺神社はそれより古く鎌倉時代の創建との伝承のある、かつての入間村エリアの鎮守社だ。糟嶺という名称は非常に珍しい。神社の縁起には農業の神「糟嶺大神」を祀るとあるというが、その神の名は他には聞かない。他の説としては、鎌倉時代に近隣に領地を持っていた糟谷氏が、ここの丘=嶺に先祖を祀るために、その1字をとって創建したという由来も伝わる。世田谷の地名粕谷もこの糟谷氏に由来する。また、神社の本殿が鎮座する場所は丘の上でもさらに一段小高くなっている(写真で石段が細くなる地点より上)が、これは古墳で、径40m、高さ5mの円墳となっている。
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神社の立つ丘の上から、入間川を下流方向に望む。右奥に見えるマンションの下はもう野川の流路だ。
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12年2月に訪れたときは水は完全に枯れ果てていて、野川の合流口から水路敷に入っていくことも出来た。
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こちらは2008年6月、糟嶺神社脇の流路。鴨が水浴びを出来る程度には水が流れている。水質もよさそうだ。
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野川との合流口はさらに水路が掘り下げられ、護岸がその分高くなっている。
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合流口を上から見たところ。水が流れている時期はこのように、平らな斜面になった水路全体を水が下っている。
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河口の辺りだけは狛江市が野川の北岸まではみ出していて、入間川が調布市と狛江市の境界となっている。
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野川が現在の流路になったのは1967年。それより以前の野川は現在の流路よりもよりもだいぶ南西を流れていた(現在は緑道となって残っている)。したがって入間川もそれまでは、ここではなくもっと南東、小田急線の喜多見駅の南側で野川(正確には六郷用水)に合流していた。
現在の合流口より先の区間は、野川の右岸(西)側、狛江市東野川から世田谷区喜多見にかけて、ほぼ暗渠や水路跡として残っており、辿ることができる。そちらは次回に紹介するとして、今回は野川合流地点より北側の水路跡・暗渠を2ヶ所ほど取り上げよう。

上げ堀のコンクリート蓋暗渠

まずは前回、今回の冒頭と断片的に取り上げてきた入間川のあげ堀の下流部にあたる暗渠を。現在、甲州街道以南の入間川の流路はその流れる谷底の西側の縁に沿って流れているが、それに並行してかつて谷のほぼ真ん中に入間川の「あげ堀(分水路)」が流れていた。谷底はかつて「入間たんぼ」と呼ばれる水田となっていて、それらに水を引き入れるための用水路がこのあげ堀だ。水田が埋め立てられて宅地となった今では、あげ堀のほとんどは埋め立てられて道路となっているのだが、一部の区間だけは忘れられたようにコンクリート蓋をされた暗渠となって残っている。
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暗渠は入間川左岸側、国分寺崖線の下に出来た小さな河岸段丘の縁に沿って曲がりくねりながら続いている。
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人が通ることが滅多にないからなのか、コンクリートの蓋は随分ぞんざいに架けられていて、隙間がかなり開いている。隙間から見える水路はかなり浅く、中には水気はなかった。
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暗渠は住宅地と再開発を待つ崖線下の空き地の間を300mほど続いた後、普通の道路の歩道に姿を変え、消える。たまたま残ってきたこの暗渠、隣接する空き地のマンション(?)建設が再開したらもしかすると道路になってしまうのかもしれない。

太古の入間川流路の痕跡?

続いて、入間川の西側に並行する浅い谷に残る水路の痕跡をとりあげよう。
武蔵野台地上の浅い窪地に流れを発した入間川は中央高速道付近の一旦開渠となる辺りから谷を深く刻んで降り始め、甲州街道いなんで再度開渠になる辺りで国分寺崖線の下に出る。現在はその後崖線下の一段高くなった段丘上を流れて、野川沿いの低地に出ている。だが、段彩図をよくみるとその段丘上、入間川の流路の南東側にもう一つ浅い谷筋があるのがわかるだろう。
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そのあたりを拡大したのが下の段彩図。つつじヶ丘駅付近から、入間川の谷から二手に分かれた浅い谷が始まり、糟嶺神社の辺りで再度入間川の谷に接近して野川沿いの低地に繋がる。地形から推測すると、かつて入間川がこちら側の谷を流れていた時期があったのではないだろうか。また、狢沢から流れだした川が、甲州街道の北側では入間川に繋がらずに、入間川に並行してこちらの谷を流れていた可能性も考えられる。ただ、谷の規模を考えると前者のほうがより可能性が高いように思われる。
この谷筋に、かろうじて水路の痕跡が残っている。図にピンクで記したラインがそれだ。これを下流側から辿っていく。
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まずは図のピンクのラインの末端の少しだけ北側。かつての水路がクランク状に折れ曲がっていた地点。道端にガードレールで仕切られた未舗装の地面が残っている。これがかつての水路の痕跡だ。水路は写真左下から来て右下で直角に折れ曲がり、ガードレールの切れる少し先、自転車が止まっている辺りで再度直角に右に折れ下っていた。自転車の先にも水路跡の路地が残っている。
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下の写真は同じ場所から上流側を見たところ。直角に曲がる地点に暗渠に使われていたとおもわれるコンクリート蓋が3枚だけ重ねて置かれている。その先、道路を横断する部分はアスファルトが敷き直されている。
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敷き直されたアスファルトの先にはこのように水路敷が半ば私有化されて残っている。
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その水路敷を上流側に回りこんで下流方向を見てみると、このように路地が続いてきている。
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更に上流側。もはや路地すら無くなってしまうが、畑の中に水路跡のような窪地が続いている。写真は上流側から。左手前から右奥の雑木林の中に、窪地が続いている。下流側に行くほど窪地がはっきりしているようだ。
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畑の窪地の先には、住宅地の裏手に痕跡が残っている。写真の正面の家の左側、畑地に挟まれた雑然とした空き地がそれだ。ここが確認できる最上流端で、これより先は一旦痕跡がなくなったのち、道路となっている。延長線上を北上していくと、つつじヶ丘駅の南側にも痕跡らしき細長い路地があるが、資料からは水路跡かどうかの確認はとれなかった。
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この水路は戦後しばらくまで残っていたようだ。周囲は畑地だし、湧水があったわけでもなさそうなので、実際は川というよりは雨水などを流す溝渠だったのだろう。ただ、そこは明らかに谷筋となっていて、かつて流れていた川の成れの果ての姿であったのあろうと思われる。

さて、次回は延々と続いてきた「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズの最終回として、入間川の失われた下流部について取り上げる。シリーズ全体の参考文献もあわせて最後にリストアップしたい(記事としては別立てとするかもしれない)。

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-05-14 21:11 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(4)
半年近く続けてきた「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズもいよいよ終盤。これから3回にわけて、入間川の中流部から野川合流地点まで、そして更に、野川で分断されたかつての下流部をたどっていく。長々と続けてきてだいぶ飽きられているような気もするが、もう少しだけお付き合いを。文章少な目でお送りしたい。

まずは全体地図を(google mapよりキャプチャ)。図の中央を左上から右下に流れる赤紫色のラインが入間川だ。甲州街道以南から、野川に注ぐまでの本流の区間が開渠、それ以外は暗渠か埋め立てられている。ピンクの矢印で示したのが今回取り上げる区間だ。
緑色のラインは前回まで取り上げた仙川用水に関係する水路。地図の区間ではその大部分は深大寺用水に取り込まれている。いずれも暗渠化もしくは埋め立てられている。
入間川源流部についてはこちらの記事を、上流部については前回の記事をご参照を。
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中原の分流から甲州街道まで

入間川は、三鷹市中原1−13で仙川用水金子・大町方面ルートを分けている。今回辿るのはそれより下流側となるが、その前に中原公会堂裏の分流の暗渠だけ紹介しよう。上の地図では現在はっきり痕跡が残る区間だけを示しているため両端の接続先を記していないが、もともとは入間川沿いの水田に水を引き入れるための水路だった。住宅地の裏手、谷の斜面の縁を遊歩道となった暗渠が曲がりくねりながら抜けている。短い区間だが暗渠独特の寂しさや秘境感があり、風情がある。
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この分流が再び本流に合流するあたりが、入間川が仙川用水と分岐する地点だ。分岐の痕跡はほとんどないが、下の写真の地点では道路の幅にわずかに川の流れの名残がある。写真左奥で仙川用水を分けた川は現在道路となっているところにそって右下に向かって流れていたのだが、奥の民家の敷地に不自然に食い込む道路と、そこから並ぶマンホールが水路の名残だと思われる。
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そしてマンホールの並びが向かう方向を振り返ると、幅の広いコンクリート蓋が並ぶ暗渠が現れる。暗渠沿いのブロック塀を見るとやや下りとなっているのがわかるだろう。
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暗渠化されたのが比較的最近(80年代後半〜90年代初頭か)ということもあり、ほとんどの家々が暗渠に背を向けている。そしてそれ以前にこの暗渠上はふだんは通行禁止となっている。
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こちらは蓋暗渠の区間を下流側から眺めた様子。金網のゲートが設けられていて、普段は閉まっていて、大雨のときだけ開くという。この写真では開いているが、ロープが張られている。
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ゲートの下流側は再び「中仙川遊歩道」となる。前回の記事にも記した通り、「中仙川」は入間川の流れる三鷹市中原のかつての地名(村名)で、入間川自体は単に「用水路」や「中仙川用水」「大川」と呼ばれていたようだ。したがって「中仙川」と「仙川」の間に川として直接の関連性はない。
少し前まで川には汚水が流れ込んでいたが、現在では分流式の下水道が整備され、暗渠は雨水路の扱いとなっている。途中何ヶ所か、中に流れる水が見えるところがあるが、確かに雨水や湧水しか流れていないようだ。
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暗渠は入間川の谷の東側の崖線下を通っていく(前回取り上げた仙川用水は西側の崖線下を通っている)。かつてこの崖の近辺には、「弁天様」と呼ばれる湧水があったというが、その場所を見つけることはできなかった。他にもかつては何ヶ所か湧水があったようだが、今ではいずれも消滅している。
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甲州街道の手前で崖線の直下から離れる。道路と段差があるのは、川の護岸にそのまま蓋をしたからだろう。右の道路沿いには、かつて並行する水路が分かれていた。
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少し南下すると、西側からやや細い遊歩道が合流する。
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こちらは前回記事でとりあげた入間川のあげ堀と、狢沢からの流れが合流した水路の暗渠だ。この辺りは水路が複雑に入り組んでいるので、前回記事の地図を再掲載。丸で囲んだ辺りとなる。
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さかのぼっていくと細かく蛇行しながら前回記事ラストの地点にぶつかる。こちらも中仙川遊歩道と名付けられていて、複雑に入り組んだ暗渠・水路跡の解釈を難しくさせている。
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公式な「入間川」の区間

さて、甲州街道の南側に渡り、流域が三鷹市から調布市となると、ようやく入間川の水が再び姿を現す。公式な河川としての「入間川」はここが最上流端となる。コンクリート3面張りの味気ない水路だが、暗渠から澄んだ水が流れ出している。水量は2000年の計測では年間平均で毎秒0.005立方メートルだったという。野川中流で0.2立方メートルというから、水量は少ない。また、見た限りでは季節によってもかなり変動があるようで、浅い地下水と同様冬に少なく夏に多い傾向があるようだ。なお、水質自体は野川や仙川よりも良好だというから、やはり湧水と雨水しか流れていないのだろう。
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「入間川」の名は、これより下流域のかつての地名(村名)からとられたものだ。以前は川と地名の読み方の違いがトリビア的に言及されることが多かったが、最近統一されたようだ。下の写真の左側は2008年、右側が今年2012年のもの。上流端の標識が「いるまがわ」から「いりまがわ」に書き換えられていた。
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川沿いにはしばらく道がない。京王線の線路北側で回り込んでみると、右岸側にはかつての川沿いの風景を彷彿させる土手が残っている。この辺りから、川は谷筋の東縁から西縁へと場所を変える。つまり、右岸側が急斜面となっている。
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京王線の南側。斜面の下に見える緑色の柵が、入間川だ。谷を横切る京王線の土手をみると、逆台形状をした谷の断面がよく分かる。
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線路の下をくぐった水路は、梁が設けられた大型のハシゴ式水路となっている。
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ちなみにこの地点の東側には、前の方で取り上げた、段差のある地点から分かれる分水路の続きの痕跡が、行き止まりの路地として残っている。こちらは水田に水を引き入れるためのあげ堀で、入間川に並行して南東へながれ、実篤公園のそばで入間川に合流していた(後述)。
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住宅地の中を梁の渡された水路が続く。左岸側、先ほどのあげ堀とのあいだはかつては水田
となっていた。
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下の写真は夏期(08年6月)の撮影。水量は多く、護岸も湿気を含んだ苔が青々としている。梁の上を猫が歩いていた。
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実篤公園からの湧水

若葉町1−8付近で水路はクランク状に曲がるが、右岸側の護岸に開いた排水口から水が流れ込んでいるのが見られる。ここは本来、先ほどとりあげた京王線の南側の行き止まり水路跡から続く、水田用のあげ堀が合流していた地点だが、現在は近くにある実篤公園から流れでた湧水の流入口となっている。見かけは味気ないが、季節によってはそれなりの量の水が注いでいる。写真は夏期(08年6月)のもので、冬場はかなり水量が少なくなる。
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実篤公園はかつての武者小路実篤の旧宅を1985年に公園として開放したものだ。実篤は水の湧く土地を探してこの国分寺崖線の斜面に居を構えたという。敷地内には2つの池がある。下の写真は崖線の下の池。この池は一段高くなった場所にある池から水を引いている。池の主水源はそちらにある。
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こちらがその湧水池。「上の池」とも「にじますの池」とも呼ばれていて、1匹だけだがニジマスがすいすいと泳いでいた。そして写真奥の崖線の下から、水がわき出している。
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こちらがその湧水地点だ。崖線の斜面、ニジマスの池よりも更に少し高い地点に小さな窪地があって、そこからこんこんと水が湧き出している。近くに立ち入ることができないため水の湧く場所をはっきりと特定することはできなかったが、水は絶え間なく流れだし、ニジマスの池に注いでいた。
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湧水地点の近くからニジマスの池を見下ろす。写真左下、樹の根元のあたりで湧水が池に注いでいる。池の周りには武蔵野の雑木林が残されていて、鳥の鳴き声が長閑に響く。かつて入間川沿いにはこのような風景があちこちにひろがっていたのだろう。
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最後に今回取り上げた区間の段彩図をのせておく。本文と照らしあわせて理解の手助けになればと思う。
(googleearth経由東京地形地図に流路をプロット)

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次回は野川の合流口までと周囲に残る支流の痕跡を取り上げる。

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-05-07 23:40 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(4)
「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズの中で、「仙川用水」の暗渠/水路跡を辿る回としては最後となる今回は、前々回の記事のラスト、消防大学校から辿り、入間川(中仙川)にいったん合流したのち、再度分離して金子方面に向かうまでの区間を取り上げる。

まずは地図を(google mapよりキャプチャ)。ピンクの矢印で示したのが今回取り上げる区間だ。緑色のラインが仙川用水に関係する水路、途中で経由する入間川(中仙川)とその分流は赤紫のラインで示してある。仙川、野川、入間川の京王線以南の区間と中央高速付近の一部以外の水路についてはすべて暗渠か埋め立てにより現在は存在しない。
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仙川用水入間川養水ルート

写真は前々回の記事ラストでとりあげた消防大学校敷地の南縁。中に立ち入ることは出来ないが、送電線の脇に見える並木が、かつての鎌倉街道の名残で、そこに沿って奥から手前に仙川用水のいわゆる「入間川養水ルート」が流れていた。鎌倉街道跡は、現在では三鷹市と調布市の境界でもある。消防大学校の敷地内ではかつて、前回記事にした「島屋敷ルート」の水路が分かれていた。
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先の写真の南側(中仙川西原交差点)には、鎌倉街道跡の道がまっすぐに南へ下っている。こちらもひきつづき三鷹市と調布市の境界となっている。水路は道路の東側(写真だと左側)を流れていたようだ。住宅地図の記載を信じれば、80年代初頭まで残っていたようだ。鎌倉街道跡の道は中央高速道にぶつかるまでまっすぐに続き、そこで入間川養水は入間川に合流していた。
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写真は中央高速道にぶつかる手前の入間川の暗渠。シリーズ第3回目で取り上げた区間の続きとなる。第3回の記事で取り上げたように、「入間川」は深大寺東町の「諏訪久保」に流れを発し、通称「野が谷」と呼ばれる谷筋をここまで流れてきている。この「諏訪久保」には、仙川の丸池周辺と同様、「釜」と呼ばれ、水が地面から釜を伏せたような形で吹き出す湧水があり入間川の主水源となっていたが、これが1855(安政2)年の安政大地震で涸れ、野が谷地区の水田が干上がったことが深大寺用水開削の第一の理由だった(詳細は第3回記事参照)。
川名の「入間」は京王線以南のかつての村名であり、当然ながら上流部ではそのような呼び方はされていなかった。深大寺地区では大川と呼ばれていた。
入間川の源流部は車道となっていて痕跡を残していないが、原山交差点から下流はコンクリートの幅の広い暗渠となって、野が谷を南東に流れていく。
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そして、下の写真が入間川と仙川用水入間川養水ルートの合流地点だ。右側の消防車が止まっている道路がかつての鎌倉街道と、仙川用水、そして中央やや左の通り名の標識の裏側、2軒の家屋に挟まれた空間が入間川だ。
これより先、入間川は調布市深大寺東町から三鷹市中原へと移る。中原はかつての中仙川村にあたる。なお、第3回の記事に記した通り、深大寺用水から入間川上流部に供給されていた水は、中仙川村にはその水利権がないことから、仙川用水が合流する手前で深大寺用水に再び回収されていた。
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入間川を利用した「中仙川用水」の区間

三鷹市内に入った入間川はしばらく開渠となる。しかし、中央高速道の下をくぐる区間には水はなく、土も被されているようだ。25年ほど前は、白濁した水が流れていたような記憶がある。
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水が流れなくなってから随分たつのか、川底からかなり立派な木が生えていた。写真ではややわかりにくいかもしれないが、護岸の梁の間から幹が伸びているのが見える。
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この近辺の入間川の流路は、かつては大きくカーブを描いていて、川に沿って水田が細長く続いていた。仙川用水の水利組合に加入する、上仙川、中仙川、金子、大町のうち二番目の中仙川村の水田だ。仙川用水の水はそれらの水田に引き入れられていた。
だが1960年代末には、水田は川の水の汚染で作付ができなくなり、1970年代半ばに埋め立てられて、中原団地と中央高速の敷地となり、水路は中央高速高架下の南側に沿って直線に改修された。
水がなく荒れ果てた水路をしばらく追っていくと、川底の真ん中に細い溝が作られてわずかに水が現れ始め、中原4−18の辺りからは護岸からかなりの量の水が流れこんで、水流が復活する。
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水は澄んでいて、季節により水量に変動はあるようだがコンスタントに流れ込んでいるようだ。上の写真は2011年秋、下の写真は2008年初夏の様子。どこかで湧き出した水を導水しているのか、あるいは雨水の貯留池でもあるのか、いずれにしても臭いや濁りは全くなく、水質は悪くはなさそうだ。
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川は水が流れるようになった地点で中央高速から離れ、向きを変えて中原4丁目団地の裏手を流れていく。せっかく綺麗な水が流れているのに、川沿いに道はなく、様子はところどころから垣間見ることしかできない。梁の上に置かれた植木鉢が落ちることはないのだろうか。
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そしてようやく様子を見られる様になったかと思うと、中原4−17に入る地点から先は暗渠となってしまう。写真は「中仙川遊歩道」となっている暗渠の区間から、上流方向の開渠区間を見たところ。フェンスの向こう側が水路だ。
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現在、三鷹市内では三鷹市内では入間川は「中仙川」と呼ばれていて、遊歩道の名前はそれに由来する。これは「仙川」に直接関係している訳ではなく、流域のかつての地名「中仙川」(中仙川村に由来)から名前をとったものだ。中仙川は1965年の住居表示施行時に現在の「中原」と改名された。
そして、かつては入間川の呼び名は特にはなく、単に「用水路」、あるいは「中仙川用水路」などと呼ばれたり、あるいは深大寺エリアと同様に「大川」と呼ばれていたようだ。

遊歩道の東側には、住宅地の隙間にかつての上げ堀の痕跡である溝渠が残っている。「郷土中仙川」(1982)によれば、水田に水を入れる4月になると、川の各所に土俵で堰を作り、上げ堀に水を分けて、川沿いに帯状に伸びる水田に水を引き入れていたという。中原4−10付近の「トヨのセキ」など、いくつかの堰には通称もつけられていたという。水田の水を抜く8月にはこれらの堰は撤去された。
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一方秋から冬にかけては、何ヶ所かに設けられた洗い場で、大根などの農作物を洗っていたという。かつては蛍の舞飛ぶ澄んだ流れだったというが、今では面影もなく、水田はすべて住宅地となっている。
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途中の植え込みに、橋の銘板がモニュメントのように残されていた。この「近幸橋」は1982年7月竣工と、かなり新しい橋だった。橋には歩道橋のような鉄柵の欄干が設けられていて、銘板はそこにとりつけられていた。その時点ではまだ暗渠化されていなかったということだ。
三鷹市内の入間川の暗渠化は1976年に始まったが、80年代後半までかなりの区間の水路が開渠のままだったようだ。近幸橋のあたりは1988年に暗渠化されたという。
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しばらく進み中仙川通りを越える地点には、中仙川橋の親柱が残されている。こちらは1953年3月竣工と、それなりに古い。この辺りのかつての字名は「羽毛」で、「ハケ」との関連を思わせる。
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再び入間川から分かれる仙川用水

中原1−13で、仙川用水は再び入間川から分かれ、水利権を持つ第3、第4番目の村、金子と大町方面に水を導いていく。
水路は入間川の谷の西側に沿って流れていく。暗渠には「中仙川遊歩道」と標識が掲げられているのだが、実際には中仙川(入間川)ではなく、用水路であるということは知る人ぞ知る、といった感じだろう。本来の中仙川=入間川は谷の東側の縁を流れていき、甲州街道の南側で再び開渠となる。暗渠の区間にもコンクリート蓋暗渠が残っていて、下を水が流れている。こちらについては次回辿ることにする。
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中仙川村の水田はこれより南にも続いているが、仙川用水の水路自体は金子、大町方面への導水路であるため、東側に並行してもう一本の水路が通っていて、そちらと入間川の間が水田となっていた。入間川とこの水路を利用して水田への給排水を行っていたのだろう。下の地図に、かつての入間川と仙川用水、そしてそれらから分かれていた主要な分水路と、水田のエリアを記した。
地図右下の緑色のラインが再び分かれた仙川用水。その右側の赤いラインが入間川本流で、間にある青いラインが水田の排水用水路。水田の排水用水路と仙川用水の間には水田がなかったことが分かるだろう。
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谷底の水田は1960年代初頭に京王電鉄の手により開発され、「つつじヶ丘住宅」と名付けられた分譲住宅となった。これに先立ち1957年には、「金子駅」が「つつじヶ丘駅」に改称された。水田をつぶし新たに区画から整理されたため、現在ではかつての水田の面影は全くなく、水田からの排水路も一部に名残を留める程度である。それにしても谷底なのに「丘」とはよくも名付けたものだ。

中原1−13で暗渠の遊歩道は一旦車道沿いを離れる(というか、車道の方が離れていくといったほうが正確か)。
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水路跡の遊歩道は入間川の流れる谷の西側の崖下を南下していく。この辺りは、谷底よりもわずかに高いところを通っていて、人工の導水路であることがわかる。写真に見える橋は、個人宅の出入り用の橋で、谷底に建つ家の2階に繋がっている。
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中仙川遊歩道は車道沿いに出ると、車道よりも幅のある歩道となる。ここでも左側の林の方が地面が低い。戦前の地図を見ると、この区間は2本の水路が並行して流れていたようだが、詳細はよくわからない。
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暗渠の東側に少し入ると、先ほどの地図で示した水田の排水路の痕跡がわずかに未舗装の路地となって残っている。
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甲州街道の滝坂下交差点の手前では、南西から流れてきた小川の暗渠とぶつかる。この川沿いはかつて「狢沢」と呼ばれていた。この地点で水路が複雑に入り組むが、これについては第5回の記事で触れた。
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そして水路跡の遊歩道は、滝坂下交差点に行き着く。ここから先、仙川用水は甲州街道に沿って西へと流れていて、数十m西側では深大寺用水東堀が合流していた。何度かふれたように、それより先の区間は1871(明治4)年の深大寺用水開通以降は、深大寺用水としての扱いとなる。第5回の記事で取り上げているのでそちらをご参照いただきたい。
なお、「深大寺用水私考(5)」には大正15年生まれの方の証言として「この用水(注:深大寺用水)は砂川用水といった。山岡鹿嶋屋酒店の東の方から来た用水(注;滝坂下以西の仙川用水)は品川用水といった」といった言葉が記されていて、仙川用水の水路が入間川(中仙川)とはっきり区別され、かつ品川用水から分水されていることも認識されていることがわかる。
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仙川用水については以上で終わりとなる。品川用水、仙川、入間川、梶野新田用水、深大寺用水など関連する川・用水路が複雑に絡み合うため、なるべく理解しやすいよう記したつもりではあったが、あまり反響がなかったのは、やはりわかりにくかったのかもしれない。ただ、謎の多い仙川用水について、今回の記事にあたっての調査でかなりの事実が判明したと思う。よろしければ再度目を通していただけたらと思う。

さて、深大寺用水と入間川にまつわる水路を紐解いていく一連のシリーズの最後として、入間川(中仙川)のうち、深大寺用水東堀の記事及び仙川用水の記事で取り上げなかった、仙川用水が分かれる地点より下流側の区間について、次回以降、2、3回ほどにわけて記事にしていく。入間川にはあまり知られていない支流や分流の痕跡もあり、それらもあわせて紹介していきたい。

※参考文献についてはシリーズの最後にまとめて掲載します。

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-04-17 23:34 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(3)
深大寺用水東堀・入間川シリーズの3回目は、上流の方に戻って東堀から分かれて野が谷の東縁を流れていた分流と、入間川の源流部を追っていこう。下の地図で、オレンジ色のラインで区切った区間が取り上げるおおよその範囲だ(用水路の全体の地図は第1回に掲載)。
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入間川源流地帯と、東堀分流

下の写真は1回目で取り上げた、野が谷の谷頭付近のすぐそば。右奥へと下るやや太い道が谷の真ん中で、奥のほうに入間川源流地跡の碑が設けられている。そして手前から左奥へと回りこんでいく道に沿って、深大寺用水東堀の分流が流れていた。深大寺用水東堀の本流とこの水路で、野が谷の谷の両縁を、入間川(いりまがわ)の源頭部をはさみ込むように流れるかたちとなっていた。
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入間川(大川)源流地跡の碑。野が谷の谷筋の源頭部には、諏訪久保という小字名がつけられていた。1回目に取り上げた諏訪神社に由来するものだろう。碑に記されているように、入間川はこの辺りでは大川と呼ばれていた。そもそも入間というのはかなり下流部の地名(旧村名)で、川がその名で呼ばれるようになったのはかなり最近のことではないかと推測されている。碑の立つ深大寺東町8−13近辺と、500mほど下流の深大寺東町6−31付近には「釜」と呼ばれる地中から水の湧き出る地点があっておもな水源となっており、川沿いにはその水を利用した水田が古くから開けていて、江戸時代には「野が谷たんぼ」と呼ばれ深大寺村の耕地となっていた。

だが、1855(安政2)年の安政大地震で「釜」の水涸れが起こり、野が谷田んぼは壊滅状態となった。当時は一帯は天領で年貢が少なかったことから、干上がった田んぼは畑に転用されていたようだ。しかし明治維新後品川県に編入されると課税が強化され、水枯れの影響を受けなかった村の他の水田の負担が重くなり、野が谷田んぼの復活が急務となった。これが、1871(明治4)年の深大寺用水開削の直接の契機となった。

その後、釜の湧水は復活したが、震災前の水準には戻らず、水源の碑近辺の釜は戦前には枯渇した。一方で、東町6丁目付近の釜は1960年頃までは水をたたえていたとの証言もあり、確かに戦後の航空写真や地籍図でもその姿が確認できる。しかし61年から野が谷田んぼは埋め立てられて住宅地となり、「釜」があった場所にも住宅がたち全く面影はない。
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谷の東縁に沿って流れていた深大寺用水東堀の分流は、幅は1mにも満たない細い流れだったという。東縁の斜面は西縁よりも急で、谷頭付近では森林になっていた。現在でもその名残の竹林が残る一角がある。斜面下の道沿いに、かつて東側の分流が流れていた。道の右側の住宅地は50年前までは一面の水田だった。
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分水路や入間川には随所に堰が設けられ、水田や、入間川との間を結ぶ横向きの水路を介して、水をジグザグに行き来させて水田を潤していたとのことだ。冒頭に載せた地図には主水路しか記していないが、実際には細かな水路が複雑に張り巡らされていた。下は1955年ころの地籍図に描かれた水路を、全てではないがだいたいプロットしてみた地図。深大寺用水の2本の流れの間はすべて水田だった。また、用水と入間川の流れの間にも更に水路が並行している。そして「釜」が健在であることもわかる。
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かつての入間川の流路である「野が谷通り」には、ほとんど川の気配はないが、2ヶ所ほど不自然な歩道が設けられている。写真の場所は消防大学通りを越えた地点。この歩道の区間は1980年代初頭まで開渠だったようだ。
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そして、歩道が突然尽きる地点の住宅地を裏側に回りこむと、なんと深大寺用水東堀分流跡の路地が残っていた。路地の両端は実質的に行き止まりとなっていて、途中数カ所、出入りできる場所があった。
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北端に近い地点から入り南下していくと、未舗装の路地になる。水路を埋め立てた後に作られたU字の側溝が続いている。
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進んでいくと、雑草の中に轍の残る、足を踏み入れるのに躊躇するような空間に。そんな場所だけど、勝手口が設けられている家もあって、一応通路として機能はしている様子。
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途中で通り抜けを断念、暗渠路地を離脱して、下流側の出口へと回りこむ。入り口には木が生え、侵入を拒んでいる。手前の道を左に進むと、入間川の暗渠道である野が谷通りを横切り、前回の最後に取り上げた暗渠路地へと出る。横切る地点から下流(南東)側の野が谷通りには、もう1箇所の「不自然な歩道」がある。こちらも80年代頃まで開渠だった区間だ。
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余水を回収する二段水路へ

ここで再度、前回の記事最後の暗渠路地に戻る。前回も少し記したが、この暗渠路地は、いったん入間川に落ちた深大寺用水の水を再び回収する水路のひとつの痕跡と思われる。
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なぜそんなことをするのかというと。入間川中下流の中仙川村、入間村などは深大寺用水の水利権をもっていなかったためだ。深大寺用水東堀は、深大寺村のほかは、金子村、大町村、覚東村と、いずれも入間川の谷筋ではなく、野川方面の低地に水田を持つ村が水利権を持っていた。そこで、深大寺用水から野が谷田んぼに引かれた水の余りはすべて深大寺村内で回収され、尾根を越えて金子村方面へと送水されていたのだ。
少々わかりにくいので、この水を回収する仕組みが設けられているエリアをクローズアップした地図を。太いラインが今でも何らかの痕跡のある水路、細いラインは現在まったく痕跡のわからない水路だ。中央を横切っている太い道路は「原山通り」で、比較的近年につくられた新しい道だ。図の上端、分水路と記してあるラインが先ほどの細い暗渠、中央の水色のラインが、余った水を回収する水路となる。深大寺用水は野が谷のいちばん西側、少し高くなったところを流れている。両者は「二段水路」を経て合流し、水車を回した後、隧道で丘陵を越えて入間川の谷を脱していく。
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余水回収水路の暗渠路地は、原山通りを斜めに横切ってさらに続く。このしばらく先からは侵入できなくなるが、暗渠(水路跡)は南へと続いている。
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さて、原山通りを40mほど北東にシフトすると、原山交差点のそばに、入間川の暗渠の続きの入り口がある。このガードレールより下流側は、コンクリート蓋の幅の広い暗渠が出現し、ようやく入間川が川としての体裁を持った姿で現れるかたちとなる。
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ぐぐっとカーブする蓋暗渠。幅は結構広い。
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入間川の暗渠沿いは緑が色濃く、そして妙に亜熱帯っぽい雰囲気を漂わせていて面白い。南向きで、周囲の家々も低いので、木々が茂っている割には妙に日当たりがよいのも特徴的だ。
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クワズイモに蕗の葉。先ほどの地図にも記したが、この辺り(深大寺東町3−30)に入間川に落とした水を最終的に回収する堰があったという。この少し先からは中仙川村(現在の三鷹市中原)となって水利権がないからだ。先の地図にも記したが、この堰から150mほど下ると、仙川用水が合流していた。中仙川村は仙川用水の水利権は持っていて、入間川に流れ込んだその水を、水田に引き込んでいた。しかし、貴重な水を巡る綱引きは激しく、田植えの時期になると、夜暗に乗じて中仙川村の人が深大寺用水の水を奪うために、堰を切りにきたという。これを防ぐために、堰には下流の金子村の人たちが、夜通し見張り番をつけたという。これが決して明治期や戦前の話ではなく、昭和30年代、水田がなくなる直前まで続いたというから、驚きだ。
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堰から引きこまれた水は、さきほどの回収水路に合流していた。その回収水路が東掘と合わさる手前の水路跡。先の地図中央で、水路が西に折れ東堀の方に向かう手前の地点だ。侵入は厳しいがしっかり空き地となって残っている。
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水路が折れるところ。左から暗渠がきて、車道に出て直角に手前に曲がるのだが、水路の幅の分、急に歩道スペースが現れているのがわかる。
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回収水路は写真手前から。そして、右奥からの道がかつての深大寺用水東堀本流のルート。ここのT字路で、水路は両方共直角に折れ、左方向へ流れていた。ここにはかつて「二段水路」もしくは「二重水路」と呼ばれる、谷筋から水を回収する仕組みがあったという。余水の回収水路は、深大寺用水本流よりも低いところを流れていたために、本流の下(隣り?)に掘られた、ローム層を繰り抜いた隧道を通って高さを調整し、東堀に合流していた。隧道の長さはおよそ50mほど。先の地図で2つの水路が隣り合って平行している区間がそれである。村の境界ギリギリまで水田を潤しつつ、一滴の水たりとも権利のないエリアには流さないという執念が二重水路を生み出したのだろう。現在その痕跡は全くなく、土地も造成され以前の高低差がよくわからないのでどのような水路だったのか想像しがたいのが非常に残念だ。
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二重水路の合流地点のすぐ先には「内野水車」があった。深大寺用水は、開通当初は田用水として、稲作の時期のみ通水していたが、1878(明治11)年に水が通年流れるようになり、水車などにも利用できるようになった。「内野水車」が設置されたのは1882(明治15)年。主に精麦を営んでいて、「水車仲間」が決められた料金を支払って使っていた。
写真はかつて水車があった場所。中央を奥に進む道沿いに深大寺用水の本流が流れていた。水路は幅1m弱で両岸に1mずつの土揚敷があったという。そして、左手前から、水車に水を引くための分水路が左側に分かれていた。こちらも幅1m弱。そして、写真正面の畑のあたりに水車小屋があった。水車を回した水は、その先数十mほどで、再度本流に戻されていた。
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水車の直径は最終的には5mほどのものとなり、1942,3年頃まで稼働していたという。水車が廃止となったのは、戦時下の食料統制のため精麦ができなくなったからだというから、都区内の水車の廃止事情とはちょっと異なっている。

水車を回した後、深大寺用水は開削時の最難関であった隧道区間に入っていく。

(つづく)
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by tokyoriver | 2011-12-17 23:22 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(6)