東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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"MIZBERING"というサイトに、和泉川(神田川笹塚支流)の記事を寄稿しましたのでお知らせします。

「「水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方」第3回
西新宿からまぼろしの神田川支流をたどる。」
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「ミズベリング'」は財・官・民一体で水環境の見直しアクションに取り組もうといったプロジェクトのようです。そのポータルサイトが"MIZBERING"といった位置づけでしょうか。その中で少し異色の、暗渠をテーマとした連載「水のない水辺から」を、「東京peeling!」のlotus62さんを旗振りとして、「暗渠さんぽ」のnamaさん、「デイリーポータルZ」のライター三土たつおさんと連番で記事を書くことになっています。

「昭和のレトロ気分満載」などという若干不本意なキャプチャをつけられてしまいましたが、本blogではまだ途中までしか取り上げていない和泉川について、本流暗渠を河口から源流まで一気に紹介した記事となっていますので、ぜひご一読を。

なお、blog内の和泉川関連記事はこちらからまとめて。

ちなみに文中に触れた、はっぴいえんど1970年のファースト・アルバム、通称ゆでめんのジャケットはこちら。「ゆでめん 風間商店」が中央に据えられています。イラストは漫画家林静一の手によるもので、当時十二社に住んでいた氏が、松本隆からジャケット制作を依頼された際、近所の「クネクネと曲がった路地の奥に、まるで時代から置き忘れられたように建っていた奇妙な町工場」(※)がすぐに頭に浮かび、描いたものだといいます。右下張り紙の「池の下熊」は十二社池の下の熊野神社、「交和通」の字が見えますが、こちらは方南通りの西新宿付近での呼称。和泉川が交差する地点には「交和橋」が架かっていました。その左側の貼紙に見える「成子映劇」は近くの成子坂下に戦前からあった映画館の名前です。
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風間商店は現在は風間荘というアパートになっており、写真真中の建物となります。シャッターの降りている側が、かつてゆでめんの看板がかかげられていた正面となります。麺を茹でた排水は和泉川に流されていたのでしょうか。
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ちなみにこの近く、かつての十二社池のほとりで今も営業する蕎麦屋さんの店主も「風間」さんで、何らかの関係があるのかもしれません。

※林静一「奇妙な建物」(「ロック画報02」所収)より引用


2014.11.26追記

先日惜しくも亡くなられてしまった赤瀬川原平さんが1980年代に提唱されていた路上観察の概念「超芸術トマソン」。その集大成である「超芸術トマソン」を何となく読み返していたら、なんと和泉川暗渠の最上流のひとつ、遊び場96番脇のコンクリート蓋暗渠がトマソン物件として10ページにわたり紹介されていました。この場所はミズベリングの記事では都合上割愛しましたが、追記として紹介します。

※ブログ中ではこちらの記事で紹介していますので、あわせてどうぞ。
「神田川笹塚支流(和泉川)(2)最上流部・北側水路」

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こちらが2014年10月現在の暗渠。玉川上水新水路跡の北側に沿って一直線に流れる、排水路のような水路の最上流となります。ここより下流には開渠も見られます。

そしてこちらが、「超芸術トマソン」で紹介されている該当箇所。今と異なり、道路とはずいぶん段差があります。下の写真、階段の背後の建物の窓を見ると、現在と同じ建物のようです。
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赤瀬川原平「超芸術トマソン」(ちくま文庫 1987)p.388-389より

写真が撮られたのは1985年。今からおよそ30年前です。「階段付き長城物件」のトマソンとして紹介されています。そして、多くの人がわざわざ階段を昇り降りして暗渠の上を歩いている様子が観察されています。
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赤瀬川原平「超芸術トマソン」(ちくま文庫 1987)p.392-393より

和泉川暗渠の河口部の児童遊園は、このトマソンの報告とほぼ同時期に伊丹十三「タンポポ」のロケ地となっています。その一方で源流部の暗渠が、超芸術トマソン物件として「発見」されていた訳です。忘れられていた暗渠が意外なところで記録に残っていることに感慨を覚えずにはいられません。
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by tokyoriver | 2014-11-16 22:23 | お知らせ | Comments(2)
2年半ぶりの「神田川笹塚支流(和泉川)」シリーズ。今回は京王新線幡ヶ谷駅付近を流れていた支流をたどってみよう。

今までの記事はこちら
・神田川笹塚支流(和泉川)(1)「萩窪」の源流と幡ヶ谷分水
・神田川笹塚支流(和泉川)(2)最上流部・北側水路
・神田川笹塚支流(和泉川)(3)最上流部・南側水路

「神田川笹塚支流」もしくは「和泉川」という呼び方

 暗渠者の間で「神田川笹塚支流」もしくは「和泉川(いずみかわ)」と呼ばれるこの川は、杉並区和泉の地にその流れを発し、新宿区西新宿五丁目で神田川に合流する全長3kmほどの流れで、1960年代半ばに暗渠化されている。
 川は本流の他、並行する傍流や右岸側の台地に谷を刻む数多くの支流、そして玉川上水からの分水もあって、流域も杉並区、世田谷区、渋谷区、新宿区にまたがっており結構な規模があるのだが、なぜか固有の呼び名がなく、流路の大半を占める渋谷区の行政資料や地域資料では長いこと単に「神田川支流」という呼称で記されてきた。神田川の支流は他にもたくさんあるわけで、固有名詞というにはにはやや無理があるし、無個性で味気ない。
 一方でその暗渠は遺構が多く変化にも富み、数多くの暗渠者を引き寄せてきた。彼らの間ではいつしか「神田川支流」ではなく「神田川笹塚支流」と場所が分かる形で呼ばれるようになり、現在その呼び方は一般的にも定着してきているように思える。
 そんな「神田川支流」に「和泉川」という呼び方があったらしい、と判明したのは6、7年ほど前だっただろうか。庵魚堂さんの「世田谷の川探検隊」に当時あったBBSで、中野区の戦前の資料で見つかった名前として報告された「和泉川」の名称はかなり反響を呼んだ記憶がある。現在では和泉川の名前も少しづつ浸透している。本サイトではそんな経緯を踏まえて「神田川笹塚支流(和泉川)」として記載してきた。
 この「中野区の戦前の資料」の掲載箇所が長らく見つけられなかったのだが、今回記事を記すにあたって再度資料を確認して見たところ、やっと1943年に刊行された「中野区史上巻」において、中野区の地形をなす丘陵の説明の項に「幡ヶ谷丘陵」を分かつ河川として北に神田川、南に和泉川と記されているのを見つけることができた(ちなみにこの資料では桃園川を中野川としている)。ただ、この名称は他の資料には見当たらず、実際に現地でそう呼ばれていたのか、便宜上文中でそう記していたのか定かではない。いずれにせよ、川の流域に含まれていない中野区の資料だけに川の名前が記されているということは興味深い。
 
唯一名前の無い、幡ヶ谷の谷

 下の地図は神田川笹塚支流(和泉川)流域の段彩図だ(google earth経由東京地形地図にプロットしたものをキャプチャ)。青が河川の暗渠/川跡、赤が用水・上水の暗渠/川跡、水色が現存する河川、桃色が現存する用水路・上水路となる。
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 源流部や支流の流れる谷戸には鶴が久保、萩窪、牛窪、地蔵窪、小笠原窪、とそれぞれ地名がついている。しかし、今回記事にする幡ヶ谷の支流の谷(上の地図で黄色い矢印で指したところ)には、古地図や資料をざっと調べた限りでは、地名がみあたらない。水田として利用されていなかったこともその理由かもしれないが、短いながら比較的はっきりした谷筋なだけにこれまた不思議な感じもする。ひとまずここでは「幡ケ谷支流」とでも呼んでおく。辿るに先立って、幡ヶ谷付近を拡大した段彩図をあげておこう。
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 川は玉川上水の近くに発し、京王線、甲州街道、水道道路を横切り和泉川に合流している。上流部は僅かな窪地となっている程度だが、中・下流の谷筋は幅が狭く、そして高低差がはっきりしている。そしてかつて淀橋浄水場に水を送っていた玉川上水の新水路だった「水道道路」が谷を横切ってダムのように塞ぎ、スリバチ界隈の方々が呼ぶところの「一級スリバチ」ができている。さっそく下流部から遡っていこう。

水道道路北側の深い谷

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和泉川本流の暗渠を遡って行き、六号通りを過ぎて中幡小学校の前で暗渠が車道と合流する地点が、幡ヶ谷支流が和泉川に合流していた場所だ。写真の手前は和泉川の橋跡で、右から左に向かって川が流れていた。そして写真左奥の住宅地の中から出てくる路地がかつての幡ヶ谷支流だ。
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 暗渠路地の入り口には、欄干の痕跡のようなものが残っている。明治中頃から大正後期にかけては、この地点より20mほど西寄りに水車用の分水路の合流口があり、字中幡ヶ谷と字原の共用水車が回っていた。この水車については後ほど記す。
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 路地の入り口は直線だったが、遡って行くとすぐに優雅なカーブを描く暗渠道となる。
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 角ばったS字に曲がっていく。この少し先で、両側に家々が迫る路地からいったんぽっかりと空が開けた窪地となる。そこには「原中橋」(おそらく「原」と「中幡ヶ谷」の字名からとったのだろう)と呼ばれた小さな橋が架かっていて、先の水車用の分水路がそこから分けれられていたようだ。
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 原中橋が架かっていた地点を過ぎてすぐに、暗渠は再び崖下に沿う路地となる。
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 暗渠は奥に進んでいくにつれてどんどんプライベート感を増し、やがて半ば家の裏庭になりかかっ先で、水道道路に阻まれて行き止まりとなる。
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  振り返るとこんな感じだ。鉢植えや自転車、梯子、そして何故か扇風機。この暗渠路地に入ってくる部外者は郵便配達くらいなものなのだろう。

玉川上水新水路と、谷に落とされた水車用の水

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 途中まで引き返し、谷底から水道道路の上に上がる。道沿いには都営住宅が続き、その先には初台のオペラシティのビルが見える。左側の歩道沿いにみえる緑のフェンスのあるところが、暗渠の谷が横切っている地点だ。
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 フェンスのところまでくると高低差がよくわかる。水道道路はかつての玉川上水新水路の跡だ。玉川上水新水路は、東京の上水道近代化を目的としてつくられた淀橋浄水場へ水を供給するために1897(明治31)年に完成した。水路は従来の玉川上水と異なりほぼ直線で建設され、そのため、従来の玉川上水が迂回していた谷筋を越えるため土手が築かれた。ここで見られる高低差はまさにその土手の名残だ。新水路の高い土手は幡ヶ谷の地を分断し、住民はかなりの不便を強いられたという。
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 水路沿いの住民は新水路建設にあたり労役も提供したというから、いわば骨折り損のくたびれ儲けだったわけだが、わずかながらの見返りとして、新水路の落水を水車の動力に使用することが許可されたという。その水車が先に記した幡ヶ谷支流(の分水)と和泉川の合流地点に設けられた水車だ。
 和泉川流域に水車が登場したのは明治初期だったという。流域は全体的に高低差が少なかったため設けられた水車も3箇所のみだった。そのうちの一つの中幡ヶ谷水車が移設され、新水路の水を利用するようになった。写真の通り高低差が大きかったため水流が早く、水車の回転も速かったという。水車は大正末まで20軒ほどの農家に共同利用されていたという。
 専ら浄水場への送水を目的とした新水路から水が落とされていたというのはにわかには信じがたいが、わざわざ水車を移転したのだから事実なのだろう。そうだとするならば普通に考えればこの写真の地点で水が落とされていたことになるだろう。
 なお、玉川上水新水路は関東大震災の際には堤防が決壊し幡ヶ谷一帯に洪水をもたらした。これを機に住民からは水路の撤去要請の声が高まり、甲州街道の拡幅時に淀橋浄水場への送水管が地下に埋設され1932(昭和7)年に新水路は廃止された。しかし土手はその撤去途中で戦争に突入し、大部分はそのまま残って水道道路となっている。

水道道路南側のスリバチエリア

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 さて、六号通りを経由して、水道道路の南側の「一級スリバチ」状になった谷筋に続く上流部を目指す。水道道路沿いの都営住宅の裏には、水道道路に並行して谷筋へと降りていく側溝があった。
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 側溝を下り切った地点から振り返る。こちらも谷の断面がよくわかる。
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 谷底に再び現れる暗渠らしき路地。水道道路の土手の擁壁とその上に建てられた都営住宅が聳え立つ。
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 そこから上流方向を眺めたところ。いかにも暗渠な雰囲気だ。ただ、戦前の地籍図を見ると、実際の水路はこの路地よりもやや西寄りに描かれていて、この先の地点でクランク状に曲がってからこの路地のルートとなっている。一方で戦後の地図や航空写真ではこの路地が水路となっている。どこかのタイミングで付け替えられたのだろう。
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  暗渠道がやや太くなる地点の脇には「観音湯」。戦前の地図にも別の名称ではあるが銭湯が確認できる。写真には写っていないが東側(右側)には上り坂が六号通りに続いていて、スリバチ地形がよくわかる。
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 幡ヶ谷の駅近く、飲み屋などを伴いながら緩やかな登り坂となって暗渠が続く。路地自体は甲州街道まで続くが、水路は甲州街道の手前でクランク状に折れ曲がり西方にシフトしていた(冒頭2枚目地図参照)。現在は土地の境界にその名残を残す程度で暗渠はいったん痕跡を消す。

甲州街道の南側の痕跡と玉川上水

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 甲州街道を越え、京王線の線路の南側の住宅地の中に入っていくと水路跡は三たび姿を現す。この辺りでは川沿いはほぼ平坦になっている。自然河川の上流部を排水用に延長したパターンにも思えるが、幡ヶ谷郷土史によると、一帯では水が湧いていたようだ。
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 狭い路地だが、駅への近道になっているのか絶え間なく人通りがある。水の流れが人の流れに入れ替わったとでも言えようか。
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 数十mで車止めが現れ、水路跡は終わる。すぐ先には玉川上水の暗渠が通っている。ここが幡ヶ谷支流の痕跡の最上流端だ。
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  すぐそばの玉川上水の暗渠には、1980年代末期にリニューアルされ半ばモニュメント化された山下橋が架かる。奇遇にもその意匠には水車のモチーフが取り入れられている。左奥の植え込みの後ろに道路を挟んで先ほどの幡ヶ谷支流の暗渠がある。
 これだけ玉川上水と幡ヶ谷の支流の水源が接近していると分水が引かれていたのではないかという気にもなるが、先に記したとおり一応湧水があったようだ。ただ、上水がその湧水を涵養していた可能性は否定できないだろう。

 幡ヶ谷支流の探索はこれにておわり。名無しの支流ではあるが、玉川上水新水路からおそらく唯一の分水を受け、そして旧水路からはその漏水を受け、と新旧ふたつの玉川上水と縁深かったこの川。果たして呼び名はあったのだろうか。いつしか「和泉川」のようにその名前が発見されてもおかしくない、個性のある川であったように思う。

【主要参考文献】

「幡ヶ谷郷土誌」 堀切森之助編 1978 渋谷区立渋谷図書館刊
「東京市渋谷区地籍図下巻」1935 内山模型製図社刊
「渋谷の水車業史」 渋谷区立白根記念郷土文化館編 1986 渋谷区教育委員会刊
「中野区史 上巻」 1943 東京市中野区役所編・刊

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(おまけ)山下橋の傍には、かつての橋の親柱がひっそりと保存されていた。
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by tokyoriver | 2013-01-27 01:42 | 神田川とその支流 | Comments(1)
神田川笹塚支流(和泉川)の本来の最上流部は、和泉給水所の東、東放学園専門学校のあたりと思われる。あたりは浅い谷となっていて谷底にカーブした道が続いていたり、南和泉住宅の西側、甲州街道から谷に下って行く道沿いに怪しい空間があったりするが、はっきり暗渠らしい道が始まるのは和泉1-4、大吉市場のはす向かいから。写真は数年前の大吉市場。
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車止めの先に、道端に雑草の生い茂る細い暗渠がのびている。送電線の下をくぐる地点には、古い民家が。
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しばらく進むと沖縄タウンこと代田橋商店街のエリアに突入。夏には暗渠を跨いで、ゴーヤがなっていた。
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沖縄タウンこと代田橋商店街を横切る地点は猫スポット。
そばの花屋で飼われている猫が沢山たむろしている。
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代田橋商店街から環七通りまでの区間は、マンホールが狭い間隔で並んでいる。
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暗渠は環七通りを越え、水道道路の南側に平行して続いている。
大径マンホール(東京Peeling!さん命名?)がある。
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この先、(1)で取り上げた流路に合流し、水道道路の下を北側にくぐって、水道道路北側の水路と合流していたようだ。
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神田川笹塚支流(和泉川)の水系地図(googlemap)
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by tokyoriver | 2009-10-30 23:31 | 神田川とその支流 | Comments(6)
杉並区和泉1丁目。環七通りの泉南交差点から、都道431号線が、新宿方面にまっすぐ伸びている。
通称「水道道路」と呼ばれるこの道路は、もともとは「玉川上水新水路」の水路敷だった。
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「玉川上水新水路」は、明治後期、淀橋浄水場の建設に伴って玉川上水の水を導くために現在の和泉給水所付近から上水を分水するかたちで、開削された。従来の玉川上水路は谷筋を迂回して曲がりくねって進んでいたが、新水路は土手を築き谷筋を横切って一直線に流れていた。そのため、関東大震災では土手が崩れて洪水が起こるといった問題も起きた。昭和初期には甲州街道の地下に導水管が作られ、水路は役割を終えた。水路敷はそのまま道路に転用され、「水道道路」となった。
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新水路の敷地跡は泉南交差点より西側にも続いていて、そこを通る道も「都道431号線」となっているのだが、この区間は整備半ばのままで細い道となっていて、道沿いの水路敷には家が立ち並んでいたり、遊び場が帯状に続いている。

水路敷跡の南側は、浅い窪地となっている。ここが神田川笹塚支流(和泉川)の源流地帯だ。一方、北側にも、敷地に沿った水路が残っていて、これも神田川笹塚支流(和泉川)につながっていたと思われる。遊び場96番の一角から、道路沿いにコンクリート蓋の暗渠が出現する。これがその水路だ。
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ここから少し西に進むと遊び場の一角にシャッターの閉められた建物がある。最近まで、「釣堀と食事 友蔵園」の看板が掲げられていたこの建物の排水が、もしかしたら北側の水路の最上端だったのかもしれない。

和泉商店街を越えると、水路敷にそって低い家屋が立ち並ぶ一角となる。ここだけが時代から取り残されたかのような風景を醸し出している。
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路地に入るとポンプ式の井戸もいくつか見られる。
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先ほどの水路は道路の北側に並ぶ家々の裏手をぬって、開渠となって流れている。
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環七通りの泉南交差点の西側で、水路は終っている。交差点を越えたところで、神田川笹塚支流(和泉川)の本流に合流していたと思われる。
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神田川笹塚支流(和泉川)の水系地図(googlemap)
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by tokyoriver | 2009-10-20 22:47 | 神田川とその支流 | Comments(0)
京王線代田橋駅付近。
渋谷区、世田谷区、杉並区の3区が境界を接しており、すぐ近くには中野区も迫る。
西から流れてきた玉川上水は、この地で通称「萩窪」と呼ばれる北に開けた浅い谷戸(窪地)を避けるように南に迂回している(この近辺は現在暗渠となっている)。

玉川上水が環七通りを越えてすぐ、北にまっすぐに伸びる細い路地がある。ここが「荻窪」の再上端だ。
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路地の途中から、コンクリート蓋の暗渠が始まる。かつてこの窪地に発していた小川の痕跡。それは「神田川笹塚支流(和泉川)」のいくつかある源流のひとつだ。

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道路を跨ぐ部分にも、橋の痕跡やら何やら。
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京王線の線路を北に越えると、流路は渋谷区と世田谷区の境界線になる。コンクリート蓋の暗渠が続いている。
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流路はいったん甲州街道に遮られるが、越えると再びコンクリート蓋暗渠が住宅地の中へ伸びている。甲州街道より北の流路は、杉並区と渋谷区の境界線になっている。つまりちょうど川が甲州街道を横切っていた地点が3区の境界となるわけだ。3区の境界地点は、かつてはちょうど南豊島郡、東多摩郡、荏原郡の3つの境界だった。そんなわけで、ここにかかっていた橋は三郡(みこおり)橋と呼ばれていた。流れはこの先水道道路(かつての玉川上水新水路)の下を潜り、神田川笹塚支流(和泉川)の本流に合流していた。
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そして、かつては甲州街道沿いに東から流れてきた玉川上水幡ヶ谷分水(逆さ川)がここで合流していた。幡ヶ谷分水の取水点は笹塚駅南方、ちょうど玉川上水が開渠となっているところにあり、今も遺構が残っている。写真の玉石を埋め込んだ壁の右側、縦長のコンクリートのところがそうだ。北沢村分水や牟礼村分水の取水口と同じような構造をしている。
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この地点で取水された分水は、まっすぐ北上したのち、甲州街道に沿って荻窪の底まで下っていっていた。分水は玉川上水とは逆方向に流れていたことから「逆さ川」とも呼ばれていた。
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分水の水量をめぐっては、水量を増やしたい幡ヶ谷村民と制限したい当局との間で熾烈な争いが繰り広げられたという。明治中期、幡ヶ谷村民は玉川上水新水路の建設で移転が必要になった、とある弁天社を、幡ヶ谷分水取水口のすぐそばに移設した。その際、弁天様にはつきものということで、境内に池が掘られた。すると「偶然にも」池から水が湧き出した。これ幸いと、その水は幡ヶ谷分水に加えられた。実はこれ、夜影に乗じてこっそり、玉川上水から池をつなぐ穴を掘って、湧水に見せかけていたのだった。
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最近ではあちこちのサイトに記され有名(?)になったこの盗水のエピソード、出典は「幡ヶ谷郷土誌」の記載に拠るものだ。

分水昭和初期には廃止されたという。現在は逆川の痕跡はまったくなく、舞台となった弁天社はその後更に引っ越して、現在では幡ヶ谷地区の鎮守である渋谷区本町の氷川神社の境内にひっそりと祀られている。

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神田川笹塚支流(和泉川)の水系地図(googlemap)

※神田川笹塚支流(和泉川)のシリーズをはじめるにあたって、水系が多岐にわたるため、一応最初に水系地図へのリンクを入れておきます。ただし、ある意味ネタばれ注意、です。
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by tokyoriver | 2009-10-16 23:55 | 神田川とその支流 | Comments(7)