東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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京浜急行で品川駅から2駅、目黒川の流路に跨る新馬場駅から徒歩数分のところに、第一京浜と目黒川に挟まれて寺社が集まったエリアがある。そのなかのひとつ、大龍寺の参道途中から住宅地の中に分かれる路地に、奇妙な段差が出来ている。
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路地の入口はではさほどの段差ではないが、奥に進むとその差は広がる。左側の道が高さを維持し、右側の道が下がっていっているようだ。

「しながわ観光協会」のサイトによれば、この段差の高い方の道は、品川用水の末流の痕跡だという。品川用水では低地を越えるために築堤を設けたり、迂回するために斜面の途中に段を設けて水路を通したりといった事例がしばしば見られる。ここもそれらのひとつなのだろうか。
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100mほどたどっていくと、低い方の道も高い方の道も、民家の敷地にぶつかって行き止まりとなる。
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低い方の道から、来た方向を振り返るとこんな感じ。石垣は苔むし、石積みの隙間を押し分けるように草が生えている。
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水路跡だという高い方の道から振り返ると、言われてみれば確かにそれらしい雰囲気の漂うカーブを描いている。

さて、この水路跡の上流部と下流部はどうなっていたのだろうか。そもそもどちら側が上流なのか。古地図や地籍図を手当たり次第に確認してみたのだが、水路沿いの道を描いているものはいくつかあっても、それに並行する水路を描いた地図はひとつも見つからなかった。そしてこの水路に関する記述も、先にあげたサイト以外では見つからなかった。目黒川から100mほどしか離れていないこの場所で、低地を迂回させた目的は何だったのだろうか。そもそもここはほんとうに水路跡なのか。

いずれにせよ、品川区内でこのように品川用水の痕跡が残っているところはほとんどない。用水路は基本的には尾根筋を通っていたため、埋め立てられると地形的に跡形もなくなってしまうからだ。
また、特に東海道線以東については、古くから開発の進んだエリアであることも痕跡の消滅に拍車をかけたのだろう。例えばこの痕跡の少し西からJR東海道線の脇にかけてを敷地にしている「日本ペイント」は1896(明治)年以来この地に工場を構えている。
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工場の一角には1909(明治42)年に竣工した煉瓦作りの建物が残っている。日本最古のニス工場であったこの建物は、国指定重要文化財となっていて、内部は現在明治記念館として公開されている。
日本ペイントと東海道線を挟んで並ぶ「三共製薬」の工場も明治後期にすでに操業していた。これらの工場は「碑文谷道」と呼ばれる古くからある道沿いに位置している。
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碑文谷道に面した天龍寺の墓地には赤煉瓦の塀が残っている。これも正確な時期は不明だが明治時代の建造という。

碑文谷道沿いから離れたエリアは、大正初期までは水田が残っていたようだ。その水源は主に品川用水の下蛇窪村・北品川宿・南品川宿・二日五日市村方面の分水路によっていたと思われる。分水路の流末はいく筋にも分かれ、それらの水田を潤しながら目黒川へと注いでいた。水田は大正後期には宅地化で消滅し、水路もなくなってしまった。ただ、その一部は路地や道路として断片的に残っている。
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日本ペイントの敷地の向かいに、ちょっとかわった雨水溝が設けられた路地がある。こちらも品川用水からわけられた分水路の痕跡のひとつだ。奥に見える木のあたりは戦前までちょっとしたお屋敷で、その敷地を挟むように2本の水路が流れ、碑文谷道に出て合流し、日本ペイントの敷地内を抜けていたようだ。
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碑文谷道の南400mほどには、浅間台と呼ばれた控えめな台地がせり出している。その北側のふもとを西から東に向かって品川用水の南品川宿方面への分水が流れていた。写真の道沿いに、かつてその分水があった。分水より北側(写真左側)がかつて水田地帯で、1枚前の写真の分水路はこの分水から分けられていた。

この南品川宿方面への分水は、ゼームス坂下で向きを北に変え、ゼームス通りが碑文谷道にぶつかるまで通り沿いを流れていたのだが、そのぶつかる地点のすぐそばに、冒頭の水路跡がある。水路跡はこの分水路の流末だったのだろうか。
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水路跡の道を西へ遡上していくと、浅間台小学校の北側でJR東海道線の線路にぶつかり途切れるかたちになる。そこには欄干に見えなくもないようなコンクリートの構造物があった。欄干ではないのかもしれないけれど、かつて水路と道がこの先にも続いていたことを示す何らかの痕跡なのだろう。
線路の西側には、JR東京総合車両センターの広大な敷地が広がっている。かつての国鉄大井工場だ。1915(大正4)年に、広大な水田を潰して作られた。その水田の中で何本かに分かれていた品川用水は、その際に付け替えられたり埋め立てられたりして跡形なく消えた。
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コンクリート構造物の南側は浅間台に上る階段となっている。台地と低地の境目がはっきりわかる。
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そして階段の上から車両センター内を覗くと、そこにもまた煉瓦作りの建物が残っている。かつての大井町変電所で、1922(大正11)年に竣工したという。水路跡巡りがいつのまにか煉瓦巡りになっているような、そんなエリアだった。

最後に今回のエリアの段彩図を(google earth経由で東京地形地図をキャプチャしたものにプロット)。地図に示した水路のうち、目黒川以外はすべて現存していない。また濃い青は痕跡が確認できるもの、水色は推定のルートとなる。それらのうち黄色の矢印で示した3か所が今回とりあげた水路跡だ。左上に描かれた、冒頭にとりあげた水路跡のルートをみると、台地の末端の縁を、低地を避けるように通っていることがよくわかるし、そこに至る南品川宿方面分水も、浅間台の裾を経由したのち微高地を選んで北上していていることがわかる。そして、JR東京総合車両センターが大規模な造成地の上につくられていることも一目瞭然だ。
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車両センターの西側に再び断片的に痕跡を残す水路跡については回を改めてとりあげることにして、今回の記事はひとまずここまで。
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by tokyoriver | 2013-02-07 23:31 | 品川用水とその支流 | Comments(6)
【一部追記修正】3月10日、11日にかけ、記述・地図の追加、修正をしています。

今まで9回にわたって深大寺用水(一部入間川も)を追ってきたが、今回からは深大寺用水と入間川に関係の深い「仙川用水」と入間川の残る区間について取り上げていく。紛らわしいが「仙川用水」は「千川上水」とも「仙川」とも異なる、かなり古い時期に玉川上水より分けられた用水路である。

仙川用水とは

「仙川用水」は「上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水」とも呼ばれた玉川上水の分水で、現武蔵野市境で分水され、現三鷹市中部で入間川の中流部と仙川の(本来の)源流部に接続されていた。引かれた水は、仙川の源流部に広がる上仙川村(現三鷹市新川)の水田、入間川の中流沿いに広がる中仙川村(現三鷹市中原)の水田を潤し、また、入間川へ引き込まれた水は途中で再び別の用水路に分かれて、野川沿いの金子村(現調布市西つつじヶ丘)、大町村(現調布市菊野台)の水田を潤した後、野川に注いでいた。用水の開削時期は17世紀半ばと推定されるが、正確な時期はなぜか記録に残っていない。玉川上水より上仙川村に入るまでの区間は17世紀後半に「品川用水」に、そして下流の入間川から分かれて以降は明治初期に「深大寺用水東堀」に利用された。

下の地図で黄緑色のラインが仙川用水と品川用水の水路である。左上から右下に横切る青緑色のラインが仙川、右下のエリアが今まで取り上げてきた深大寺用水と、入間川の流れるエリアだ。
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仙川用水と品川用水の関係

深大寺用水東堀については前回までの記事をみていただくこととし、ここでは「品川用水」について軽くふれておこう。品川用水は「戸越上水」を前身とする灌漑用水路だ。「戸越上水」は玉川上水開通(1654年)の10年後の1663年から1664年にかけて、品川領戸越、蛇久保両村入会地(現品川区豊町、戸越、東中延)にあった熊本藩細川家の下屋敷の庭内の泉池(現在の戸越公園と元国文学研究資料館(過去記事参照))の用水として、仙川用水からの分水のかたちで開削された。庭園のためだけに延々20km以上もの水路を開削した戸越上水だが、わずか2年後の1666年には廃止されてしまった。敷地内の湧水で事足りたからとも、維持費が負担になったからともいわれるが真相はわからない。いずれにしてもせっかく通した水路を灌漑用水として利用したいとの要請が品川領各村より幕府に上がり、1667年に許可がおりる。そして1669年には細かった水路が拡張整備され、戸越上水は品川用水として再出発することとなる。玉川上水からの分水地点から品川用水と仙川用水が分岐する現三鷹市新川までの区間は、もともと仙川用水だったが、このときに品川用水として扱われることとなり主従関係が逆転したようだ。
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品川用水から三鷹用水へ

品川用水を巡るあれこれについては本題ではないのでここではふれず、時代は一気に1947年に飛ぶ。戦後の食糧危機により仙川用水沿いの水田でも耕作強化が図られることとなり、品川用水普通水利組合に対して三鷹町長、神代村長から水利権譲渡申請書が出された。品川用水の水はこの時点ですでに仙川用水系でしか利用されていなかったため、この要望はスムーズに通り、用水路は1948年、三鷹町長管轄下におかれ、1952年に品川用水は三鷹用水土地改良区として再出発した。この際に旧金子村地区の農家でも水利権買収金の負担があったというから「三鷹用水」は実質的に「仙川用水」の復活だったといってよいだろう。ただ、このしばらく後から三鷹市内の工業地化、宅地化が進み、汚水が流入することで用水路の水質は急速に悪化していく。仙川上流部の旧上仙川村エリアでは、水質が稲作に適さないとして、1956年に三鷹用水からの取水を取りやめた。そして三鷹用水と深大寺用水の水を利用していた旧金子村、大町村エリアの「金子田んぼ」でも、深大寺用水の記事で記したように1961年には稲作をとりやめ、は神代団地となった。こうして1960年代初頭には用水はその役割を終えたと思われる。既に水の流れなくなった品川用水は1960年代後半から1970年代にかけ暗渠または埋め立てられていった。三鷹用水にはしばらくは水の流れはあったようだが、70年代前半までには暗渠化されたようだ。
※なお、70年代などの一部の地図には、烏山川の支流である水無川(中川)を三鷹用水と記しているものもあるが、正しくはこの品川用水/仙川用水が三鷹用水である。

柴田家と仙川用水開削時期の関係

先に記したように、仙川用水の開削は戸越上水の引かれた1663年以前であることは確かだが、その正確な時期ははっきりしない。玉川上水からの分水は、上水開通翌年に出来た野火止用水(1655年)が最初で、その後に砂川分水(1657年)、北沢分水(1658年)、烏山分水(1659年)、青山上水(1660年)、三田上水(1664)と続く。この間に仙川用水も開通していたことになる。このような早い時期に分水をひくことができたのは、上仙川村・中仙川村を領地とした柴田家の力によるものではないかという説もあるようだ。柴田勝家の孫、勝重(1579-1632)がこの地を領地としたのは1615年。大坂の役(1615)の戦功により幕府より与えられたという。勝重は中世の武士団金子氏の居城だったと伝えられる「島屋敷」に居を構え、仙川水源近くの勝渕神社には柴田勝家の兜が埋められ祀られてたと伝わっている。柴田家は1698年に三河に移るまでこの地を統治し、以後は上仙川、中仙川は幕府の直轄地となった。玉川上水からの分水は、その初期はいずれも飲用水としての利用がメインであり、仙川用水もそうだったとすると、柴田家との関わりもあながち無くはなさそうだ。これに関連するかもしれない水路については次回に取り上げる。
そして、仙川用水が明治20年代に深大寺用水への補水を目的として開削された、という説もネット上に出回っているのだが、今回調べてみて、これは間違いであることがはっきりした。こちらについても追々取り上げる。

そのほかにも、仙川用水を巡っては今までわからないことが多かったのだが、今回調査してみてだいぶ判明してきたので、記事の中で順を追って記していく。現在品川用水/仙川用水の痕跡はほとんど残っていないので、上流から要所要所をかいつまんで紹介していこう。

境の分水地点

まずは境の分水地点から。武蔵境通りが玉川上水を渡る桜橋から下流に向かって東に100mほど下った地点、武蔵野市境3丁目に、今でも品川用水/仙川用水の分水口が残っている。すぐそばは境浄水場だ。下の写真は左岸(北)側から見た取水口の全体像。玉川上水は写真右手前から左奥に流れており、左上に見える堰で水かさを上げて、右端の凹んだ護岸の中腹に開いた水門から取水していた。
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取水用の堰。支柱の上流側は水流の勢いを削ぐために三角形となっている。そして堰の板を差し込む溝が残っている。
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取水口をクローズアップ。この前後の玉川上水はコンクリートの護岸がつくられているが、ここだけは古い石積みの護岸となっている。そして枯葉に埋もれて赤く錆びた鉄の水門で塞がれた、四角い取水口があるのがわかるだろうか。取水口の大きさは時代により何度も変遷があったようだ。江戸時代末期の記録では2尺5寸(75cm)四方と記されている。今残っているのもそのくらいの規模に見える。ここで取り込まれた水はしばらく地中を流れてから開渠となっていた。
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こちらは右岸側、真上から取水口を見たところ。写真右上の端に堰が写っている。取水口の上には水門を開閉するハンドルの残骸が残っている。かたわらの土手には品川区と武蔵野市が連名で設置した「品川用水取水口跡」の説明板があるが、戸越上水や仙川用水のことは触れられていない。
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堀合通り

玉川上水から離れた水路は市立第六中学校となっているところを横切り、その裏手の八坂神社の敷地を抜けて、南東へと下っていた。中央線の線路の辺りまで続く、玉川上水との間に挟まれた細長い土地は堀合と呼ばれていた。用水路は変哲のない道路となっていて水路の痕跡は見る影もないが、交差点名や通りそのものの名前として堀合の名が残り、かつて水路があった証となっている。

 2012.3.10追記
かつて玉川上水から分かれたばかりの品川用水が通っていた場所にあたる、武蔵野市立第6中学校の敷地内に「水吐橋の碑」がある。1971年、学校の校舎を建設中にみつかった橋の遺構を使ったものだという。水吐橋は大正12年8月31日に完成したが、翌日関東大震災で破壊された。このため一夜橋とも呼ばれた(コメントいただいた「な」さん、ありがとうございました)。


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品川用水の水路は跡形もなく平凡な道路となっているが、途中まるで水路跡のような細長い公園を2つ横切る。一つは境浄水場への専用線跡。大正後期に浄水場への資材運搬用として敷設されたものだという。そして武蔵野市から三鷹市に入るともうひとつ、グリーンパーク遊歩道(堀合遊歩道)と交差するが、ここは戦後のごく一時期、三鷹駅から武蔵野競技場前駅まで運行されていた武蔵野競技場線の線路敷跡である。

歩道の一部には、古そうな四角い蓋が残っていた。品川用水の暗渠と関係はあるのだろうか。
→2012.3.11追記:関係ないとのことです(T様、情報有難うございました)。
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堀合地下道

品川用水跡の堀合通りはやがて三鷹駅の西側で中央線の線路に突き当たる。
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突き当たった先には「堀合地下道」があって駅の南側に通り抜けできるようになっている。
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この地下道は、三鷹市史によればもともと品川用水の水路だったものを改造した地下道だという。
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言われてみれば、側壁の微妙なすぼみや天井の低さと線路までの薄さは、水路を彷彿とさせる。
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さくら通り

地下道を抜けた南側には、堀合通りから連続したカーブを描いて、徐々に南東に向きを変えていく。
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品川用水の跡の通りは三鷹駅南側からは「さくら通り」となる。かつてこの通り沿いを流れていた品川用水は、1952年に暗渠化された。これは失業対策の土木事業として施工されたといい、この工事によってさくら通りは市内初のアスファルト舗装道になったという。
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さくら通りより先、品川用水の水路はむらさき橋通りでて通り沿いを南下し、下連雀6丁目で離れ南南東へ、そして現在三鷹市立第6小学校の校庭となっているところを横切り、更に東に向きを変えて吉祥寺通り近辺を再び南下、人見街道の北側に並行する三鷹市新川と下連雀の境界となっている道に突き当たったところで品川用水と仙川用水に分岐していた。この区間は特に痕跡はないので、一気に仙川用水の分岐点まで飛ぶことにしよう。

品川用水と仙川用水の分岐点

東西に抜ける古くからの街道「人見街道」の両側にはかつて「アイノミチ」と呼ばれた小径が並行していた。新川と下連雀の境目の道はそれらの名残のひとつである、そしてその道の傍らに、品川用水と仙川用水の分岐点が残っている。右側に曲がる赤茶色の舗装の道がかつての仙川用水跡、そして正面の草の生えた窪地が品川用水の跡だ。背後はかつては日産の工場で、現在は高層マンションとなっている。
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品川用水の跡はよく見ると、半ば埋もれてはいるようだが水路がそのまま残っている。ここはおそらく品川用水で唯一水路が現存している場所だ。仙川用水の方の痕跡はないが、もともとここまでの水路は仙川用水であったこともあり、ここの分水口は品川用水の数ある分水口の中でも別格扱いだったようだ。1689(元禄2)年、品川領9ヶ村の訴えにより井伊領(現世田谷区内)の各村の分水口は閉塞されたときも、上仙川村の分水口は対象外であり、翌年上仙川分水口が訴えられたときも、分水量の調整と厳格な管理を実施するということで話が付けられている。
「品川用水沿革史」に収められている現地の視察記(1941年11月)ではこの分岐点は「新川分水口」として厳格に管理されたコンクリート造りの樋口だと記されている。そして、この時点で品川用水側の水路は砂俵でせき止められて通水していなかったという。そちら側の水路がこうして残っているのはどういった経緯があったのだろうか。
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水路が残っているのは20mほどだろうか。その先は土に埋もれて曖昧になり、新川宿公会堂とその裏手の八幡社に続いている。
ここは玉川上水とその分水で最初の水車が設置された場所でもある。1697(元禄10)年、現千代田区麹町にあった粉屋がここに挽臼 2 台を備えた水車を設置した。この水車は無許可で設置されたもので、すぐに撤去されたという。
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新川宿公会堂の南側。前を横切っているのが人見街道だ。そして品川用水の水路は公会堂の左側に見える電話ボックスのあたりから街道沿いに出て、手前に写っている歩道のところを東(右手前)に流れていた。公会堂の周りには八幡社や古い石像を収めた祠などが集まっていて、古くからの地域の要所であったことをうかがわせる。
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仙川への導水路はどこか

さて、分水地点で分かれた「仙川用水」「入間川養水」とも呼ばれ、最後は入間川へ注ぐ水路だ。仙川用水は4つの村の水田の灌漑用に引かれたわけだが、そのうち上仙川村以外の3村の水田については、この「入間川養水」経由で水が供給されていた。一方で上仙川村は入間川流域ではなく仙川流域なので、仙川用水から仙川方面に至る別の水路もあったことになる。
三田義春「世田谷の川と用水」には、品川用水開通以前は仙川用水との分岐点の地点より南下し勝渕神社脇の丸池に注ぐ水路があり、品川用水開通時に廃止された(仙川養水)とあるが、出典が不明であり、ほかの資料にはこのような記述は見当たらない。
仙川への導水路については長らく私の中で謎だったが、今回記事をまとめるにあたって調べた結果、少なくとも2つのルートがあったことが判明した。

2つあった分水口

まず一つ目のルートだが、品川用水絵図(1858(安政5))には、仙川用水(上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水)取水口1尺2寸(36cm)のほかに、野川村之内、仙川用水口として埋樋で高2寸五分(7.5cm)横4寸(12cm)の取水口があったことが記されている。仙川用水には2つの分水口があったということになる。また、「品川用水沿革史」(1943)に引用されている江戸期の別の資料にも「上仙川分水口」として、上仙川村字稲荷前に4寸四方の分水口が、「野川分水口」として野川村字北裏耕地に2寸四方の分水口があると記されている。明治16年の記録でも変わりはなく、2つの分水口が記録されている。そしてどうやら、それぞれの記録に記されている2つの分水口のうち後者が、仙川へ水を導く分水口だったようなのだ。

水路のルート

ではそれは具体的にはどこだったのか。「野川分水口」があったと記されている野川村字北裏耕地は、現在の市立第一小学校以東のエリアにあたる。そして、「三鷹の民俗10 新川」(1987)に掲載されている戦前の新川宿を記した概略図には、第一小学校の東側に、品川用水から分かれ南下する水路が途中まで描かれ、幅6尺(1.8m)ほどの水路が新川本村の田に引かれていたと記されている。
一方で「品川用水沿革史」の現状視察記(1941年11月)には、国民学校の手前の分水口も敷石が崩れ荒廃しているといった状況が記されている。この国民学校は市立第一小学校のことだ。
そして、1947年に撮影された空中写真では、第一小学校の南側から、現在の仙川のルートを通ってもともと仙川の水源地帯だった勝渕神社周辺に至る水路が写っている。
野川分水口からの水路がいつから存在していたのかどうかは不明だ。品川用水開通後に後追いで作られた可能性もあるし、戸越上水が「野川村」から分けられた、という記録からすると最初からあった可能性もある。だが少なくとも江戸時代後期から戦前にかけて、入間川方面の分水口とは別に、品川用水から仙川に分かれる水路が存在していたことになる。そしておそらくこういった水路が存在したゆえか、仙川自体を「仙川用水」として記す文献も散見される。先の三鷹用水もそうだが、このような呼称の錯綜が、水路の関係をわかりにくくしている側面がある。
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幻の「野川」

そしてもうひとつ、入間川ルートから分かれて仙川に至る水路の存在も確認できたのが、こちらについては次回の仙川用水入間川ルートの記事に記すことにする。最後に「野川」について触れておこう。これは国分寺から流れてくる「野川」とは全く別の川で、伝承によればこの川は品川用水と仙川用水の分岐点の辺りから流れだし、人見街道から60mほど奥まった、かつての牟礼村と野川村の境目に沿って、新川2丁目の天神社のあたりの窪地まで流れていたという。この川は仙川用水からの分水だったとも、また品川用水の開通でなくなったとも言われているが、資料に乏しく詳細は定かではない。そして、野川村の名の由来がこの水路で、新川という地名(のち、1874年に上仙川村と野川村が合併して新川村となる)は品川用水に由来するとの伝承もあるという。
なお、この野川が通じていたという窪地は、地形図で見ると周囲より1mほど低くなってる程度の非常に浅いものだが、谷筋のかたちとなっていてかつて川のルートであった可能性がある。そしてその谷筋を下っていくと「東京peeling!」さんが記事にしていた水無川の北野3丁目方面からの支流の上流部につながっている、ということも非常に興味深い。

→実際に水路があったことが判明しましたので、下地図を修正しました(流路は1935年頃の時点のルート)。品川用水からの悪水を落としていたと思われます。(2012.5.19)。

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(2012.3.11地図追加。2012.5.19修正。窪地の表記は標高51mライン。)

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-03-10 00:25 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(9)
だいぶ間があいてしまったが、「立会川上蛇窪谷戸支流」(仮称)の2回目は、上流部の暗渠(川跡)。まずは流域の全体像をみてみよう。5mメッシュ地図をgoogleearth「東京地形地図」経由の段彩図で。
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水色のラインが品川用水。東急大井町線の戸越公園駅北側で東側と南側に分流している。尾根筋を選んで通されているのがわかるだろう。東側の流れの北側、図の右上にある青いラインが以前取り上げた「古戸越川」だ。
一方、画面下方を左から右へと流れている青いラインが立会川。浅いが幅の広い谷を流れている。品川用水の南下する流れは、かつて立会川の谷を越えるため、築堤を流れた後、立会川を石造りの橋で越えて、川の南側の台地上を東へと流れていた。

そして、先の品川用水の分岐点の南側から、東~南東へと浅い谷筋を下って西大井駅付近で立会川に合流しているのが、「立会川上蛇窪谷戸支流」だ。支流と記したが、図をみるとおわかりの通り、源流部は品川用水に繋がっている。明治時代の2万分の1地形図にもこの流路が描かれている。もともと自然に川が流れていたところに、品川用水から助水をひいたのだろう。流域は「谷戸耕地」と呼ばれていたそうで、川沿いの浅い谷筋に沿って水田が細長くのびていたようだ。

ほぼ同じ範囲の地図。

なお、今回の流れを含め、品川用水の目黒区~品川区エリア、立会川、古戸越川についてgoogle mapにプロットしてみた。こちらを。

古戸越川/立会川/品川用水(目黒区以南)

では流路跡をたどっていこう。大井町線戸越公園駅の南側、花屋の脇にいかにも暗渠な細い路地があり、南東へとわずかに下っている。ここで上流部を振り返っても痕跡はないのだが、戸越公園駅の北側に線路を越えると、車止めのある流路跡が品川用水跡の道路まで続いている。そちらは道幅も広くあまり暗渠然とはしていないが、下水道台帳を見るとしっかり「水路敷」と表示されている。
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道端のコンクリートには苔が生え、湿度の高さをうかがわせる。
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細い路地は、蛇行しながら南東へと下っていく。民家のトタン塀がよい雰囲気を出している。
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品川区戸越から豊町に入るあたりから、車1台程度は通れるほどの幅となる。が、あまりメンテナンスはされていなさそうで、アスファルトはでこぼこし、路面の表示もかすれ気味だ。
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途中、北東側から合流してきていたコンクリート蓋の暗渠。暗渠というよりはまあ排水溝なのだが、少し離れた別の場所でも同様の暗渠を見かけた。品川区独特のものなのだろうか。民家の隙間に取り残され生き残っている、猫でもない限り通り抜けられない細長い空間。
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戸越公園駅から300mちょっとで、川跡は蛇行した細い暗渠から、普通の幅の道路となる。道沿いにあった「日本海洋生物研究所」の外壁。パイプが機能的?にめぐらされていて印象的だった。
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この先下っていくと、道はそのまま前回紹介した「のんき通り」になる。終戦直後の空中写真を見ると、道路の右側(西側)に沿って水路が流れていたようだ。そのためか、交通量が少ないにしては道幅が中途半端に広い。
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「立会川上蛇窪谷戸支流」(仮称)は、おそらく特に名前もないような川だったのだろうが、上流部の路地、下流部の蓋暗渠と、なかなかにポイントを押さえた暗渠だった。
なお、これより西側、池上線荏原中延駅西側から大井町線中延駅西側にかけても、かつて同じように南下する立会川の支流が流れていた。こちらも上流部にわずかながら暗渠っぽい路地などが残っている(googlemapのプロット参照)
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by tokyoriver | 2010-08-23 20:00 | 立会川とその支流 | Comments(4)
日中の暑さがやや和らいだ、とある夜、横須賀線西大井駅に降り立った。駅前には「立会川」が暗渠化された「立会道路」が東西に走っている。戦後暗渠化された川にしては珍しく、緑道ではなく道路として整備されていて、知らなければ全くこの道が川だったとはわからない状態だが、横須賀線(+東海道新幹線)の跨線橋には「立会川ガード」の名前が残っていた。
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その「立会川ガード」から2つ北寄りのガードの西側に、淋しげな街灯の照らす怪しい路地が家々の隙間へとのびていた(写真右下、赤いコーンの左側のところ)。
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近寄ってみると、この界隈ではもはや残っていないと思っていたコンクリート蓋の暗渠だった。空気抜きの穴があるところなど、古戸越川に残っていたコンクリート蓋暗渠と何となく似た雰囲気がある。
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住宅地の裏側に続いている暗渠を、上流方向(北)に遡ってみた。蓋は古そうで、歩くとガタガタ音がする。幅は狭いが、その曲がり具合には暗渠らしさがにじみ出ている。
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進んで行くと、何と小さな橋まで残っていた。道路の幅は車1台分くらいあるのに、橋は自転車がやっと通れるほどだ。渡ってすぐのところには車止めもある。しばらく見ていると、犬の散歩の人などが橋を渡っていく。どれだけの人がこれを橋として意識しているだろうか。
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橋の先も、さらにコンクリート蓋が続いている。街灯があるので、一応通路として扱われているのだろうか。
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100メートルちょっとを過ぎたくらいの場所で、車道に突き当たって蓋暗渠は姿を消す。これより上流側は会社の敷地となっていた。かつてはその中をもう少し北まで続いていたような雰囲気だ。
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会社の敷地が尽きた少し先には、銭湯があった。暗渠のサインポストだ。というよりも実は、この銭湯の前の道にかつて小さな川が流れていた。この川は東急大井町線戸越公園駅近辺を水源として浅い谷を南下し、西大井駅付近で立会川に合流していた。流域の旧町名「上蛇窪」と水源近辺の字名「谷戸」から、ここでは便宜上「立会川上蛇窪谷戸支流」と呼ばせてもらおう。
今回西大井に立ち寄ったのは、以前上流部を辿ったことのあったこの「立会川上蛇窪谷戸支流」の下流部を見てみようという目的だったのだが、そこで思わぬ収穫となったのが、先の蓋暗渠だったというわけだ。おそらく銭湯の前あたりで分岐し、西大井駅のそばで再び合流していた傍流だと思われる。
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再び最初のコンクリート蓋暗渠発見地点へ戻ってみる。蓋暗渠の南側には、横須賀線/新幹線の土手に沿って、壊れかけた軽トラックやらバイクやらが無造作に置かれた、怪しい空間があった。ここがおそらく蓋暗渠区間の下流部だったのではないか。
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この空間の先を確認しに、一つ南側のガード脇に行ってみる。「のんき通り」とあるのが銭湯から続いている「立会川上蛇窪谷戸支流」の川跡。正面に、怪しい空間の末端が見える。ここで傍流が再度合流していたのだろうか。
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ちなみに、「立会川ガード」の西側にも、立会川に合流していた別の暗渠が残っていた。こちらはアスファルトで舗装されている。あとで下水道台帳を見ると、今でも一部の区間は水路敷扱いとなっていた。
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この暗渠は、大部分は直線だが、遡って行くともう川跡としかいいようのない路地となる。こちらは住宅地の中を150メートルほど北上して、忽然と消える。これも「立会川上蛇窪谷戸支流」の傍流だったのだろうか。
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by tokyoriver | 2010-08-11 23:38 | 立会川とその支流 | Comments(6)

古戸越川(2)

前回に引き続き、古戸越川について、東急大井町線下神明駅前に残る「古戸越橋」の欄干より下流側を紹介しよう。古戸越橋の下流側は、前回の写真のように暗渠が空き地となって残っているが、奥の方は私有地状態になっていて入れない。そこで、まわりこんでいくと、湘南新宿ラインの土手を潜るガードが現れる。ガード下には「蛇窪支線」「古戸越ガード」と暗渠に関係する地名のダブル表記。湘南新宿ラインは貨物線を利用しているのだが、その正式名称が蛇窪支線のようだ。古戸越川の流れる一帯の旧地名が下蛇窪村だ。蛇窪は言うまでもなく、川や水に関係の深い地名だ。
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ガードの北側には、階段で降りるようになっている暗渠の路地があった。
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この暗渠は今度は横須賀線の土手(更にその上には新幹線の高架)に突き当たって行き止まりとなる。土手を覆うコンクリートには、もともとは川が抜けていたような痕跡がある。
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ここも仕方ないので、ぐるっと横須賀線の西側に回り込んでみると、線路沿いにコンクリート蓋の水路が残っているではないか。継ぎ目に空気穴が2つある、ちょっと変わったタイプの蓋だ。たまにJRの線路脇にみられるような水路の蓋にも似ているが、それらよりもだいぶ幅が広い。
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蓋暗渠の区間は30mほどで、すぐに真新しいアスファルトの敷かれた暗渠となる。
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横須賀線からはなれ、住宅地へと進んで行く。
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こぎれいなアスファルト暗渠は途中から、大谷石の擁壁、突き出した排水管、民家の勝手口といったアイテムの揃ったいかにもな暗渠になり、再び横須賀線の線路にぶつかる。その先は民家の私有地の中を通り、再度横須賀線の東側に抜けている。この私有地の中には、どうやら蓋暗渠が残っていそうだった。
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横須賀線の東側。高架の直下から、暗渠の路地が続いている。
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暗渠沿いの家の玄関の前に置かれた古い掘り抜き井戸の枠。この扉が使えないようにわざと置いてあるのだろうか。
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古戸越川の暗渠は、三ツ木通りに出て終わりとなる。かつて写真右から左に向かって、東急池上線戸越公園駅近辺を水源とし、戸越通り〜三ツ木通りに沿って川がながれており、そこに合流していた。この川はさらに東で品川用水の分流をあわせ、目黒川に注いでいた(前回の段彩図を参照のこと)。
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by tokyoriver | 2010-06-06 23:40 | 目黒川とその支流 | Comments(6)

古戸越川(1)

古戸越川は、品川区豊町の戸越公園の池にその流れを発し、西品川1-10で、戸越銀座通り~三ツ木通りに沿って西から東へと流れていた川に合流する1kmちょっとの小さな川だ。合流した後は、さらに品川用水の末流をあわせ、東海道線と山手線が分岐する付近、広町1-2で目黒川に注いでいた。古戸越は「ことごえ」と読むそうで、近くの地名「戸越」ももともとは「とごえ」と読んでいたそうだ。ちなみに古戸越川の流路は戸越にはない。

下の段彩図で図の中央下側をU字型に流れている青いラインが古戸越川、左から右に横切り、古戸越川と合流して上にあがり目黒川(右上の太い青線)に合流している青いラインが戸越銀座を流れていた川だ。地形を見るとわかるように、古戸越川は小さいがはっきりとした谷を流れていて、もともと自然河川だったようだ。戸越公園の池と、その北にある国文学資料館の池には、現在でもわずかではあるが湧水が残っているという。
そして江戸時代前期には、その谷の谷頭を囲むように細川家の下屋敷がつくられた。上の地図を中央を見ると、戸越公園近辺を回り込むように道路が下向きのコの字型に曲がっているが、ちょうどこの「コ」が細川家の屋敷の輪郭だった。「コ」の中には戸越公園、大崎高校、戸越小学校といった施設が含まれており、現在戸越公園となっているのはその5分の1ほどの面積にしか過ぎない。
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(google earth経由「東京地形地図」の段彩図をキャプチャ)
谷頭には庭園がつくられ池が設けられた。湧水だけでは庭園の泉水をまかなえなかったのか、この屋敷の水利のために1663年、玉川上水から分水した戸越上水が引かれた。わざわざ庭園のためだけに、現在の中央線三鷹駅付近から、遠路はるばるここまで分水がひかれたわけだが、この戸越上水は数年後にいったん廃止された後、品川用水となって、品川区内の田畑を潤すこととなる。上の図の水色のラインが品川用水とその分流だ。尾根筋を通されているのがわかるだろう。庭園はその後三井家の所有となったのち、1935年に戸越公園として開放された。

古戸越川が暗渠化された時期はさだかではないが、その痕跡はほぼ全流域にわたって現在でも残っている。大井町線下神明駅の前に残る「古戸越橋」の欄干は一度記事にしたが、今回、次回と流域全体をあらためて取り上げたい。

今回は源流の戸越公園から、「古戸越橋」までの区間。この区間は都道補助26号線の予定地に重なり、現在工事が進行中だ(ちなみにこの道路は中野通りの延長線上にあり、井の頭線池ノ上駅東側の、北沢川溝が谷支流もつぶして通る予定となっている)。


戸越公園の池には、西側から渓流が注いでいる。もちろん庭園の造園時に人工的につくられたものだ。池の主水源は水道水だというが、この渓流がすべて水道水なのか、現在でもわずかに残る湧水(1990年調査で1日5立方m)が混ざっているのかは不明だ。戸越公園の北側の国文学資料館の池にも湧水が残っているというが(1990年調査で1日20立方m)、そちらの水の導水もあったりするのだろうか。
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池。この日は大雨の直後で濁っていた。
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公園の南東から、暗渠が始まる。東急大井町線のガードを潜る直前には大径マンホールがある。ちなみに、潜ったすぐ先にも同じような大径マンホールがある。
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ガードの南側は都道の予定地となっていて柵に囲まれており、暗渠もルートを変えられ、地上の痕跡はなくなってしまっている。しかし、しばらく東に進むと、まだ暗渠が残っている区間が現れる。雑草が生い茂り、荒廃感が漂っている。奥に見えるのは東海道新幹線の高架だ。その下には横須賀線が走っている。
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路上にぽつぽつと見える赤い点々はヘビイチゴの実。
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写真右側は、工事が始まる前は普通の住宅地だったようだ。当時は暗渠も生活路として使われていただろうから、これほど荒れていなかったのではないか。
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大谷石の擁壁に突き出す、古そうな陶管。
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新幹線と横須賀線/湘南新宿ライン、そして東急大井町線が交差する下を抜けると、川跡は曲がりくねった路地となる。
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しばらく進んで行くと、古戸越橋の欄干のところに出る。昭和8年に架けられた橋は、周囲の風景が変わっていく中、そのままの姿で佇んでいる。
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橋の下流側には、かつての護岸らしき石積みを緑が被っている。
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by tokyoriver | 2010-06-02 00:20 | 目黒川とその支流 | Comments(8)
大井・鹿島谷を流れる谷のもうひとつの水源は、滝王子稲荷神社(品川区大井5-12)だ。神社には小さな拝殿があり、その右手に小さな丘とタブノキがある。タブノキは推定樹齢300年という。

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タブの木の下に柵に囲まれた池がある。ここがかつての川の水源だ。池は谷頭に位置するが、きわめて浅い谷で、滝王子という名もそこに滝があったわけではなく、周囲の旧地名「大井滝王子町」に拠る。かつては湧水が豊富に湧き水は澄んでいたそうだが、今は濁っている。中には巨大化した赤い金魚が泳いでいる。三方は道路とコンクリートに囲まれているが、稲荷社のあるほうだけは石組みになっている様子。かつてはこちら側から水が湧いていたのだろうか。
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川は滝王子通りを越えて南東に流れ出していた。水神池の方と同様に、すぐ北を通る品川用水から水を引いていたようだ。暗渠らしい曲がりくねった道が2本平行して続いている。西側の暗渠は曲がりくねっているだけでなく、あちこち出っ張ったり引っ込んだりしている。

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暗渠はいったん池上通りにぶつかり、姿を消す。通りの向かいには鹿島神社があり、境内には品川用水の記念碑が建てられている。「品川用水大井町内堀普通水利組合」が、1932年、周囲の市街地化に伴う用水の廃止時に記念として建てた碑。碑によれば、「内堀」とは品川用水から各村の田畑への分水を指し、本流は大堀、外堀と呼ばれていたという。神社のやや北の丘の上に、品川用水の末端が流れてきていた。

少し南下すると再び暗渠が始まる。ここから先の区間は水路敷扱いで、暗渠らしい道が続く。
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鹿島庚塚児童遊園で水神池からの流れと合流する。写真左端から水神池の流れ。滝王子からの流れは一見正面の車止めのところから来るようにみえるが、実際には正面の家の裏手を回りこんで、右手の方から合流するかたちとなっている。植え込みになって柵に囲まれているところが流路だ。
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合流後はかなり立派な遊歩道になっている。
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by tokyoriver | 2009-11-12 23:04 | 呑川水系と荏原台の水 | Comments(0)
東急大井町線下神明駅から少し北に歩いたところに、
暗渠とそこに架かる橋が残っている。
欄干には「古戸越橋」の名が刻まれている。


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ここに流れていたのは通称「古戸越川」。
戸越公園の池から流れ出し、品川用水の末流のひとつと
戸越銀座を流れていた川をあわせて目黒川に注いでいた。

戸越公園はもともとは江戸時代につくられた細川家の抱屋敷で、庭園の池の水を
得るために玉川上水から引かれた「戸越上水」が品川用水の前身。
そういう意味では古戸越川自体が品川用水の末支流のひとつといってよい。

品川用水は1950年代には廃止され、現在ほとんどその痕跡は残っていない。
橋が残っているのはここだけではないだろうか。

戸越公園からこの橋のあたりまではほぼ全区間暗渠が残っているが、
現在都道25号線の工事が進んでおり、かなりの部分が消滅してしまいそうだ。


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by tokyoriver | 2009-07-22 23:30 | 品川用水とその支流 | Comments(12)