東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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 長らく更新が滞っておりました。その間に単行本の準備を進めておりました。このたび「東京暗渠学 TOKYO ANKYOLOGY」と題して、8月10日に洋泉社より上梓することとなりましたのでお知らせさせてください。
 2012年11月に同じく洋泉社から刊行された「地形を楽しむ東京「暗渠」散歩」は共著でしたが、今回は単著です。目一杯詰め込んだ結果、ページ数が足りなくなり、まえがきもあとがきも省略してしまいましたので、ここに補足としてまずは、まえがき的なものを記します。おって補足の記事や、「あとがき」的なものも随時こちらに記していこうと思っておりますのでよろしくお願いします。

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【本書のねらいと構成について】

 本書では、東京の失われた川ー暗渠について、空間・時間・景観の3つの軸から体系的にその姿をひもとくことを試みています。序章ではまず景観としての暗渠を定義し、第1章では目に見えない複合的なレイヤーとして広がる東京の暗渠空間を、第2章では東京の川が失われていった過程を、そして第3章では再び景観に立ち戻り、暗渠に潜む東京の空間と時間の記憶を論じました。

 それぞれの章では、冒頭の節で概論を記しています。これらについては、2011年以来、筆者がいくつかの講座やイベントでプレゼンを行なってきたスライド「東京暗渠概論」をベースとし、書き下しています。そして、以降の節では概論でのトピックに対応するように、各論として、都内各地の暗渠を具体的にとりあげています。これらの過半は、ブログやウェブメディア、雑誌に発表したものをベースにしてはいますが、いずれも直近の取材に基づいて大幅に手を加えております。また、3分の1ほどは、新たに書き下ろしたものとなっています。

【「東京「暗渠」散歩」との関連性について】

 本の帯には「「東京「暗渠」散歩」第2弾」とありますが、実際には冒頭に記したように共著と単著の違いもあり、本著はあらためて独立した著作として記しています。「東京「暗渠」散歩」をお読みでない方も、安心して読んでいただければと思います。
 しかしながら一方で、各論でとりあげた暗渠については東京「暗渠」散歩」と原則的には重複しないように選んでいます。(「三田用水」と「和泉川(神田川支流)」については重複していますが「東京「暗渠」散歩」では他の方が執筆した記事となっており、また、そちらとは切り口を変えています。)
 したがって、本書は個々の暗渠のガイドという側面では、「東京「暗渠」散歩」の続編的なものとしても、お楽しみいただくことができるようになっています。また、東京「暗渠」散歩は水系別に章立てされており、散歩ガイド的なスタイルとなっていましたが、こちらは軸(切り口)別の章立てで、より読み物的な文章となっていますのでその違いもあわせてお楽しみいただければと思います。

ページ数は東京暗渠散歩より16ページ増えて256ページ、お値段はそのまま税抜2400円となっております。文字が多くデザインなどもやや地味な仕上がりとなっていますが、価格に見合うだけの内容を詰め込めたと思っておりますので、ぜひお手にとっていただければと思います。宜しくお願いします。なお、Amazonでの発売日は1日早い9日となっており、予約も受付中です。

東京暗渠学 TOKYO ANKYOLOGY
2017/8/10 洋泉社刊
256ページ 2400円+消費税


【もくじ】

#序章
## 暗渠とはなにか ―景観から空間へ
## 暗渠図鑑
## 東京暗渠地図

#1章
##1 東京の暗渠空間 ー多層的なレイヤーとネットワークの広がり
##2 新川と大泉堀(白子川上流部) ー浮かびあがる微地形と地下水脈 【西東京市】
##3 鮫川〜桜川 ー暗渠が結ぶ意外な場所のつながり 【新宿区】
##4 前谷津川 ー台地に刻まれた深い谷 【板橋区】
##5 三田用水とそこからの分水路 ー動脈と静脈のネットワーク【目黒区・渋谷区】
##6 仙川のあげ堀 ー川の両岸に残る双子の暗渠 【調布市・世田谷区】
##7 石神井用水 ー根と枝葉のネットワーク 【板橋区・北区・荒川区】

#2章
##1 東京の暗渠史ー水のネットワークの形成と消滅
##2 神田堀(竜閑川)・浜町川と神田大下水(藍染川)ー堀割の開削と埋立て 【千代田区・中央区】
##3 指ヶ谷と鶏声ヶ窪の川(東大下水)ー戦前に暗渠化された川 【文京区】
##4 谷沢川ー耕地整理と暗渠 【世田谷区】
##5 立会川とその支流ー36答申で暗渠化された川 【目黒区・品川区】
##6 小沢川ー小さな川の暗渠化 【杉並区】
##7 古戸越川ー消滅していく暗渠 【品川区】

#3章
##1 暗渠に残る川の記憶ー失われた空間と時間への手がかり
##2 和泉川(神田川支流)ー今なお架かる数々の橋 【新宿区・渋谷区・杉並区】
##3 仙川を渡る3つの用水ー谷に抗う掛樋の遺構 【小金井市・武蔵野市】
##4 狛江暗渠ラビリンスー絡み合う無数の水路 【狛江市】
##5 練馬の谷戸の暗渠群ー旧地名が呼び起こす水の記憶 【練馬区】
##6 石神井川の源流を探してー旧石器時代から続く人と水のかかわり【小平市】
##7 白子川於玉ケ池支流と幻の兎月園ー夢と挫折を秘めた暗渠 【練馬区】
##8 麻布十番・六本木界隈の暗渠ー失われた水・今も残る水 【港区】
##9 明治神宮「清正の井」から流れ出す川と暗渠ー都心に残る原風景 【渋谷区】

#おわりに
## 暗渠へのまなざし
## 参考文献
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by tokyoriver | 2017-08-05 20:30 | お知らせ | Comments(0)
2015年10月3日に発売の月刊誌「東京人」11月号は、「東京「地理」散歩」と題した、東京の地理にスポットをあてた特集となっています。錚々たる執筆陣に混ざって、私も実践編として暗渠探索記事を書かせていただきました。題材は、西東京市を流れていた白子川の幻の源流「シマッポ」こと新川、大泉堀の暗渠と、その水源の地下水堆、地下水瀑布線についてです。

新川、大泉堀については、それらの支流も含めて5年前にこちらの「東京の水」にて全7回の記事にしていますが(記事はこちら)、今回は、地理特集ということで地理的側面に特に焦点をあて、ブログの記事化後新たに入手した情報・資料に基づく考察や、ブログでは紹介しなかったスポットなどを追加し、6ページの記事にまとめています。カシミール3Dを利用した、綺麗な段彩図、吉村信吉の論文からの図版も掲載することが出来、充実した記事に仕上がったかと思います。

東京人は創刊30年ほどとなる、老舗の地域雑誌で、近所の図書館においてあったことから初期の頃から読んでいました。そんな中高時代からの愛読誌に寄稿するのは何だか感慨深いといえば感慨深いです。
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ちなみにこちらは、本文中で引用・紹介した吉村信吉の著書「地下水」(1942年、河出書房刊)です。この本を記した時、吉村は35歳。気鋭の湖沼学者でした。本文には専門的な記述に混じって随所に詩的な表現や、和歌の引用などがあり、独特のムードを漂わせています。そして目に見えない地下水を求めて武蔵野台地の井戸調査を遂行していくその姿は、暗渠を追うものにとってどこか親近感を抱かせる面があるように思えます。
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現在都内を中心に書店店頭に並んでいるかと思います。ぜひ御覧ください。

東京人 2015年 11 月号 (amazon)
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by tokyoriver | 2015-10-06 23:16 | お知らせ | Comments(0)
サイト"MIZBERING"に、3回目の記事を寄稿しましたのでお知らせします。

水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方 第10回 台地の上の、水のない水辺 三田用水跡をたどる
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 長大な三田用水を1回の記事で紹介したため、端折ったポイントも多いですが、前2回の神田川支流(和泉川)渋谷川水系と異なり今までブログ記事としてまとめたことはなかったので、ぜひお読みいただけたらと思います。

 記事中にも記しましたが、三田用水の流路の大部分は、現在そのものの「跡」としては残っていません。たまに目黒区と渋谷区の区境の道などが三田用水の跡として紹介されているのを見かけますが、実際にはそれらの道ではなく、道沿いの家々が立ち並んでいるところが三田用水の水路跡となります。
 通常の場合だと、暗渠は水路と同様公有地となるので、道路や緑道、あるいは未利用の土地として流路を留めることが多いのですが、三田用水がこうなってしまったのには、用水の権利をめぐる、水利組合と東京都の争いが背景にあります。
 長年にわたる裁判の結果、最終的に水利権は東京都に、一方で水路敷は水利組合の所有となりました。これにより、水利組合の清算業務に伴って1984年の組合解散時にはすべての水路が民間の土地となりました。

スペースの都合上本文には掲載しなかった、水路敷のかすかな痕跡の写真をいくつか。
下の写真では、屋根付きの駐車場の部分が三田用水の水路敷だったスペースです。用水は手前から奥に向かって流れていました。駐車場左端の境界石が三田用水の痕跡です。
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近づいてみると「水用」つまり、用水の文字が刻まれているのが見えます。その下は何と書いてあるのか、よく読み取れません。
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こちらは道路のクランクが、用水の痕跡です。手前では道の右側、駐車場の前のスペースとなってるところを三田用水が流れていて、クランクのところで橋の下をくぐり道路左側へ移って流れていました。
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こちらは道路ではなく、左側の平屋建ての家や、その奥の細長い2階建ての建屋の敷地がかつての水路敷です。路上に埋まる境界石もおそらく三田用水に関連するものです。
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今里橋の先、唯一暗渠らしい雰囲気の残る区間に、小さな橋と欄干のような遺構が残されています。
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他にも、現地をじっくり見ていくと、かすかな痕跡が残っています。これらは写真で見ても面白く無いものばかりなので、興味を持たれた方はぜひたどってみてください。
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by tokyoriver | 2015-09-25 22:54 | お知らせ | Comments(0)
 集英社刊行の総合季刊誌「kotoba」2015年秋号に、「地図から始める暗渠散歩」という6ページほどの記事を書かせていただきました。本号では、「地図を旅する。小地図からGoogleマップまで」と題し、140ページ、28本の記事を擁する充実した特集が組まれています。その中の記事の1本となります。
 ここ数年、各所でお話させていただいた「暗渠概論」をベースに、読者層にあわせてより初心者向けに自分の体験に引き寄せた切り口で、暗渠の愉しみ方について書いております。また、暗渠概論では、暗渠の3つの要素について詳しく触れてきましたが。今回は特集にあわせ、空間=地図の話をメインにおき、歴史や景観といった他の要素にはほとんどふれないかたちとしました。暗渠散歩のきっかけとなるような記事が書けたのではないかと思います。編集者のご尽力により、小さいながら出来の良い暗渠地図も載せていただきました。
 私の記事もさることながら、錚々たる執筆陣が様々な角度から地図について語られており、非常に読み応えのある特集となっています。よろしければぜひ御覧ください。
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なぜか表紙に名前をのせてもらえました。
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豪華執筆陣。

kotoba(ことば) 2015年秋号(amazon)

9月5日より、書店店頭やオンラインストアにて発売中です。
よろしくおねがいします。
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by tokyoriver | 2015-09-16 23:16 | お知らせ | Comments(2)

戸越銀座最深部の暗渠へ

山手線五反田駅から3両編成の東急池上線で3駅、戸越銀座駅で降り立つと、線路を踏切で横切って賑やかな商店街が東西に伸びている。「戸越銀座商店街」だ。全長1.3kmに及ぶ商店街は、近年特にメディア等でとりあげられることが多く、近隣以外からも人を集めている。
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商店街の通りができたのは昭和2年。現在商店街になっているところは浅い谷筋となっていて、かつては水はけの悪い低湿地で、水田などに利用されていた。宅地化されたのは関東大震災で都心から人々が移住してきたことがきっかけだ。関東大震災以前と以後で1万分の一地形図を見比べてみると、以前は中原街道以外は人家は街道沿いや台地の上に点在するだけで、谷底に沿って水田や池、川が見られるのに対し、以後は一気に市街化したことがわかる。
(地形図は東京時層地図より引用)
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底の水田は整地され中央には東西に伸びるまっすぐな道がつくられたが、この際に水捌けをよくするために、銀座から運ばれた煉瓦が舗装に使われた。北品川にあった品川白煉瓦製造所の仲介で譲り受けられた敷石用煉瓦で、銀座の道路の舗装に使われていたが、震災を契機とした敷き替えで不要になったものだという。そして、この煉瓦を由来に通りは「戸越銀座通り」と名付けられた。全国各地にある「○○銀座」地名の始まりである。

段彩図で地形をみてみると、今でも西から東に向かって徐々に深くはっきりしていく、目黒台に刻まれた谷戸の地形がはっきりと確認できる。山の手の他の谷戸と同様、かつて、この谷筋も川が流れていた。図で青いラインが今はなくなってしまった川、そして赤いラインは今はなくなってしまった用水路である。川の水源は中原街道を越えた西側の窪地だったようだ。台地の上には戸越銀座の谷を挟むように品川用水が通っており、そこからの漏水も加わっていたのだろう。段彩図には便宜的に一本のラインで表したが、実際には川は戸越の谷戸の両縁に沿って2〜3筋に分かれ、水田を潤しながら流れていた。そして、戸越銀座通りが作られた際に、一本にまとめられ、通りの下を暗渠で流れるように改修された。
現在は通りの直下に、「下水道戸越幹線」と呼ばれる2m四方ほどのコンクリートの暗渠が埋まっている。このように水路の改修と暗渠化、道路整備が同時に行われたため、戸越銀座の谷を流れていた川の痕跡はほとんど残っていない。
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さて、ほぼ一直線に近いこの谷だが、東急池上線戸越銀座駅付近で、十手の先のように北側にL字型に折れ曲がった枝谷が分かれている(段彩図でピンクの丸で囲ったところ)。そして、この谷筋に流れていた小川の痕跡は今でも暗渠として残っている。短い区間ではあるが風情のあるこの暗渠をたどってみよう。

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戸越銀座駅の改札口を出て、五反田方面ホームの裏手の住宅地に入ると、家々の植栽に挟まれて、少し高くなったか細い路地がひそんでいる。これがかつての小川の跡だ。意識しないと見過ごしてしまいそうな、しかし一度気がつけば、暗渠者なら辿らずにいられなくなるような、暗渠路地である。
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奥へと入っていくと、家々の隙間をすり抜けるように、細いコンクリート敷の暗渠が続いている。下水道台帳を確認すると、足もとには幅60〜70cm、深さ1mほどの矩形の暗渠が下水道になって埋まっているようだ。
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しばらく進むと、路上にはマンホールが間隔を開けず次々に連なっていく。
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いずれも東京都(の下水道)の紋章がついたマンホールだが、中には、紋章の位置が中心からずれているものもあった。なぜだろう。
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道の両側には暗渠の入り口から途切れることなく、コンクリートの縁石が続いている。もともと水路にあった護岸の名残なのか、暗渠化したときに合わせてつくったのか。いずれにせよ路地の暗渠感を高めるのに一役買っている。
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やがて縁石はなくなり路地はさらに細くなっていく。路上はコンクリートの上からセメントを塗ったような、まばらな色合い。左側には擁壁が迫り、排水管の継手が何本か突き出して暗渠に接続されている。
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左のカーブを抜けると、急に視界が開ける。かつての2つの水路の合流地点なのか、右側へと細い路地が分かれている。今辿ってきた暗渠はコンクリートの路面はその幅のまま、道幅は右側のアスファルトの分だけ広くなる。
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振り返って見ると、暗渠のコンクリート敷が路地の幅のままにカーブを描き、一種の美しさを醸し出している。
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コンクリート暗渠は道がクランク状に折れ曲がる地点まで続いて唐突に終わる。
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暗渠が尽きた地点から、下流側を望む。かつてはちょうどこの辺りに小さな池があったようだ。湧水や雨水を集めたため池だったのだろうか。ため池を流れ出たこの小川は、谷底の水田を潤していたはずだ。今、小川は下水となって、谷底の排水や雨水を集める。
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暗渠のなくなったやや上り坂のクランクを抜けると、そこは中原街道の新道だ。東に少し進んで、暗渠の道とは別の谷底に降りる道を駅方向に戻ると、さきほど分れた方の暗渠の"上流端"に出る。路上はうっすらと苔むしており、大谷石の擁壁も湿気を孕んで緑がかっている。50mほどの細い路地を抜けると先ほどの"合流地点"となる。
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ここまで辿ってきた暗渠は小さな谷戸の西側の縁に沿って流れているのだが、谷戸の東側にもかつて平行して水路があったようだ。そちらの痕跡もあまり暗渠らしさはないものの、路地として残っている。こちらもマンホールが点在していて、東京都の紋章が入った大きなものもいくつかあるが、なぜか下水道台帳にはこの路地には下水道は通っていないことになっている。どのような扱いになっているのだろうか。
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再び、戸越銀座駅。戸越銀座の発足と同じ年に開業したこの駅の開業は昭和2年と地下鉄の銀座駅より数年早い。そして、補修されてはいるものの、ホームは開業当時のままだという。いま辿ってきた川は、駅付近のどこかで戸越の谷の本流に合流していたはずだ。本流は駅ができた時にはすでに暗渠化されていたはずだが、今辿ってきた支流はどうだったのだろうか。90年前、できたばかりのホームに立ち電車を待つ人たちには、小川の水面は見えていたのだろうか。もっとも、地図を見る限り川沿いはすでに宅地化されているから、いずれにせよ小川はその役割をすでに終え、ドブになってしまっていたのかもしれない。ホームで電車を待ちながら、ふと何となくそんなことが気になった。
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by tokyoriver | 2015-06-26 22:51 | 目黒川とその支流 | Comments(6)
 二十年ちょっと前の個人的な話をひとつ。学生だった時分、京王井の頭線の終点近くである久我山駅、三鷹台駅、井の頭公園駅といった辺りに、地方から出てきた同級生たちが幾人か、一人暮らしの住まいを借りていた。特に三鷹台のとあるワンルームマンションには、クラスメイト2人が別フロアに暮らしていて、学園祭の準備のときとか、終電を逃したときとかの皆の拠点となっていた。私もほかのクラスメイトたちとともに幾度となく出入りし、8mm映画を撮影したときには、ロケ地やアフレコ場所として使わせてもらったりもした。

 彼らの住むマンションの北側は数メートルの擁壁となっていて、その下には暗渠の細い道が東西に通っていた。暗渠を西へ進むと階段があって、登ると三鷹台の駅前通りが南北に抜けていた。彼らの部屋に行くとき、そして帰るときには、必ずこの階段を昇り降りして暗渠を抜けていった。階段の下はかつて川だったのだ、この道は「暗渠」なのだ、ということを一緒に昇り降りした同級生たちに話したのかどうだったか。今なら話したかもしれないが、当時は自分の中に留めていたような気がする。
 専門課程に進みクラスが分解すると、次第に彼らの部屋を訪れることも減り、インターネットはおろか携帯電話もまだ普及し始めたばかりの時代だから、卒業後は次第に疎遠になって、連絡もとれなくなっていき、大部分の消息は今ではわからなくなってしまった。マンションに暮らしていた同級生は今、どこで何をしているのだろうか。

よく晴れた初夏の朝、ふと思い立って三鷹台の駅に降り立ち、かつて通った暗渠を訪れてみた。ゆるやかな上り坂となっている駅前通りを南へ数分進むと、右手に雑草の生える、少し凹んだ細長い空き地が見える。二十数年前と変わらない、川跡の風景だ。
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通りの左手には、こちらも変わらない、暗渠へ下る階段があった。
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階段の方がかつての川の下流となるが、まずは右手未舗装の川跡を上流に向かってみることにした。定期的に草刈りを行っているのか、雑草は短く、容易に通り抜けられる。右側の大谷石の護岸は水路があった頃からのものだろうか。
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車道をひとつ横切って、その先にさらに未舗装の川跡は続く。当時は車止めの前を通り過ぎるだけだったが、思い切って足を踏み入れてみる。
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送電線と勢いのある植物の緑、そして柑橘類の橙色の実が、初夏らしさを漂わせる。防災時井戸の看板があったりして公共用地であることは明白なのだが、それでも奥に進むほど、川跡沿いの家々の私的空間が気配として浸透していて、行き止まりとなる少しだけ手前で水路跡の追跡はやめておいた。
この辺りがこの小川の源流だったのだろう。ただ、周囲より低地にはなってはいるものの明確な谷頭地形だったりするわけではなく、はっきりとした湧水というよりは、じわじわと水が染み出るような水源だったのだろう。
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通りまで戻り、いよいよ下流側へと進んでみることにした。階段を降り振り返ると、そこには懐かしい20数年前の風景があった。右手の木もそのままだ。多愛のない、意味のない会話を交わしながら何度この階段を上り下りしたことだろう。
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階段を降りてしばらく、どことなく長閑な住宅地の中を抜けていく。
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やがて暗渠は谷の南側の縁を流れるようになる。立派な擁壁の上を見上げると、2人の同級生が住んでいた細長い3階建のワンルームマンションが、やや古びてはいたものの当時のままに残っていた。台地の上にあがり、玄関先まで立ち寄ってみる。玄関の脇の屋根付き飲料自動販売機は、最新の機種に入れ替わっている。居ないことを確認するかのように、集合ポストに並ぶ名札をざっと眺めてみる。やはり当然ではあるが彼らの名前はない。
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谷筋の暗渠の路上へと戻る。記憶よりもずいぶんと明るく、そして道幅も広い。少し進むと、暗渠上にぽつりとベンチが置かれていた。路上の舗装と同じ赤茶色の座面。背もたれに印された「you are not alone」の文字は、暗渠を歩む者に何かを暗示しているかのようだ。
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擁壁の区間を通り過ぎ、当時はあまり通ることがなかった久我山方面へと暗渠を下っていく。しばらく曲がりくねった路地が続く。明治から戦前にかけての各地図をみると、川沿いには畑が広がっていたようだ。一応谷戸地形ではあるのだが、水田にするには川の水量が少なかったのだろう。
暗渠の南側の台地の上には玉川上水が流れている。現在の地名は暗渠沿いは三鷹市井の頭1丁目となっているが、かつては上水の南側と同じく牟礼に属し、字名は玉川通東であった。
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やがて暗渠沿いの旧字名は神田川東通に変わる。小公園を過ぎた先には暗渠上に階段が現れる。通常は道路などからの段差を階段で上る場合が多いのだが、ここは暗渠化後、路上に盛り土をしたのか、交差する道路に下っていくかたちとなっている。この辺りは急な流れだったようで、階段の先に見える暗渠も、ここまでよりも傾斜を増している。水量があれば水車が架かっていたような流れだったのだろう。
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両岸を擁壁に囲まれ、路面も下り坂となっていて、だいぶ渓谷感のある暗渠を下っていく。道は蛇行し、見通しはない。家々は背を向けており、暗渠度を高めている。車止めはシンプルな1本棒だ。
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しばらく進んでいくと、路面の傾斜はなくなり、谷底に降りきった感じとなる。暗渠の幅もやや広くなる。擁壁には水抜きの穴が並ぶ。
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古そうなコンクリートの擁壁に空く、排水管の穴。かつて水路に直接排水を落としていた痕跡だろうか。
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周囲の下水の中継地点である「井の頭ポンプ場」を過ぎると暗渠路地は普通の道路に合流する。この辺りになると、暗渠の流れる小さな谷は、より大きな神田川の谷にひらけて、なくなる。
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暫く進むと暗渠は三鷹市から杉並区に入り、神田川の旧水路(蛇行の跡)に合流して終わった(写真左の木の繁みの辺り)。現在の神田川沿いには直接の痕跡はないが、神田川旧水路の合流口が神田川の護岸に口を開けていた。
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暗渠は神田川に合流する直前、杉並区との境目で、右手に水路を分けている。この水路は神田川の南側を並行して流れ、神田川の「上げ堀」に接続していた。引き返してこちらの水路を上げ堀まで辿ってみることにした。
水路といっても当然暗渠なのだが、車止めにはしっかり「水路内にバイクを乗り入れないでください」と記されている。ここはあくまでも「水路」なのだという、毅然とした主張。
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神田川沿いには戦後しばらくまで、両岸に水田が連なっていた。それらに水を引き入れるために、神田川の両側には川から水を分け平行していわゆる上げ堀が流れていた。この「水路」は神田川の南側に沿った水田の縁を流れており、上げ堀の機能も果たしていたのだろう。暗渠左側がかつての水田で、右側は少しだけ小高くなっていて、畑地として利用されていたようだ。
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再び「水路内にバイクを」の車止めが現れ、この暗渠はいったん終わる。両端を「水路」と記された車止めで蓋され、両岸は畦道の代わりに塀や家々で挟み込まれた、水のない水路。nullな空間。
水路はここで、神田川の緑橋付近に設けられていた「大熊堰」から分流された上げ堀に合流していた。上げ堀は左側にある神田川から、車止めの向こう側の砂利道を通って奥の緑の繁みの方へと流れていたという。
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繁みを下流方向に回りこむと、袋小路の奥に、コンクリートのU字溝ではあるものの、一応開渠として涸れた水路がひっそりと残っていた。水の湧くような地形でもないから、偶然の積み重ねで偶々残されたのだろう。
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下流側を振り返ると、水路の続きが雑草の生える空き地となって残っている。シンメトリックなブロック塀のもたらす遠近感が、ここが忘れられ取り残された空間であることを際立たせる。ただ、そこに漂う空気感は淡く柔かく、暖かみがあるようにも思われる。
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水路跡は100mほど続いて人見街道の旧道に突き当たり、唐突に消える。右に進むと神田川にかかる宮下橋だ。渡ったその先、谷戸を登った台地の上には久我山稲荷神社が鎮座する。水路はここよりやや下流で神田川に合流していたようだ。
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ここから人見街道沿いを西に向かったところにはやはり二十数年前に別の友人が住んでいて、この水路跡も何度か横切っているはずだ。当時は三鷹台の同級生の家の前の暗渠がここまで繋がっていることには気がついていなかったように思う。
神田川の切り立った護岸沿いに設けられた歩道を数分あるけば、そこは井の頭線の久我山駅だ。駅は高架化されてかつてとだいぶ様子が変わっていたが、川と人見街道に挟まれた三角形の土地にたつサミットスーパーはかつてのままに営業していた。

 暗渠沿いの彼らの部屋で交わし合った言葉や移ろっていったそれぞれの感情。今となっては、それらの何ひとつとして、はっきりとしたことは思い出せない。ただ夜明け前の薄明かりのような、薄曇りのひだまりのような、ぼんやりとしたモノクロームの記憶が心の奥底に眠っている。暗渠を歩くことでそれらを少しは掬い上げられたのだろうか。

「いつの日か長い時間の記憶は消えて、優しさを僕らはただ抱きしめるのか」

そんな、当時の歌の一節を思い出しながら、渋谷行きの急行電車に乗って街を離れた。


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by tokyoriver | 2015-06-13 00:06 | 神田川とその支流 | Comments(8)
"MIZBERING"というサイトに、和泉川(神田川笹塚支流)の記事を寄稿しましたのでお知らせします。

「「水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方」第3回
西新宿からまぼろしの神田川支流をたどる。」
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「ミズベリング'」は財・官・民一体で水環境の見直しアクションに取り組もうといったプロジェクトのようです。そのポータルサイトが"MIZBERING"といった位置づけでしょうか。その中で少し異色の、暗渠をテーマとした連載「水のない水辺から」を、「東京peeling!」のlotus62さんを旗振りとして、「暗渠さんぽ」のnamaさん、「デイリーポータルZ」のライター三土たつおさんと連番で記事を書くことになっています。

「昭和のレトロ気分満載」などという若干不本意なキャプチャをつけられてしまいましたが、本blogではまだ途中までしか取り上げていない和泉川について、本流暗渠を河口から源流まで一気に紹介した記事となっていますので、ぜひご一読を。

なお、blog内の和泉川関連記事はこちらからまとめて。

ちなみに文中に触れた、はっぴいえんど1970年のファースト・アルバム、通称ゆでめんのジャケットはこちら。「ゆでめん 風間商店」が中央に据えられています。イラストは漫画家林静一の手によるもので、当時十二社に住んでいた氏が、松本隆からジャケット制作を依頼された際、近所の「クネクネと曲がった路地の奥に、まるで時代から置き忘れられたように建っていた奇妙な町工場」(※)がすぐに頭に浮かび、描いたものだといいます。右下張り紙の「池の下熊」は十二社池の下の熊野神社、「交和通」の字が見えますが、こちらは方南通りの西新宿付近での呼称。和泉川が交差する地点には「交和橋」が架かっていました。その左側の貼紙に見える「成子映劇」は近くの成子坂下に戦前からあった映画館の名前です。
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風間商店は現在は風間荘というアパートになっており、写真真中の建物となります。シャッターの降りている側が、かつてゆでめんの看板がかかげられていた正面となります。麺を茹でた排水は和泉川に流されていたのでしょうか。
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ちなみにこの近く、かつての十二社池のほとりで今も営業する蕎麦屋さんの店主も「風間」さんで、何らかの関係があるのかもしれません。

※林静一「奇妙な建物」(「ロック画報02」所収)より引用


2014.11.26追記

先日惜しくも亡くなられてしまった赤瀬川原平さんが1980年代に提唱されていた路上観察の概念「超芸術トマソン」。その集大成である「超芸術トマソン」を何となく読み返していたら、なんと和泉川暗渠の最上流のひとつ、遊び場96番脇のコンクリート蓋暗渠がトマソン物件として10ページにわたり紹介されていました。この場所はミズベリングの記事では都合上割愛しましたが、追記として紹介します。

※ブログ中ではこちらの記事で紹介していますので、あわせてどうぞ。
「神田川笹塚支流(和泉川)(2)最上流部・北側水路」

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こちらが2014年10月現在の暗渠。玉川上水新水路跡の北側に沿って一直線に流れる、排水路のような水路の最上流となります。ここより下流には開渠も見られます。

そしてこちらが、「超芸術トマソン」で紹介されている該当箇所。今と異なり、道路とはずいぶん段差があります。下の写真、階段の背後の建物の窓を見ると、現在と同じ建物のようです。
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赤瀬川原平「超芸術トマソン」(ちくま文庫 1987)p.388-389より

写真が撮られたのは1985年。今からおよそ30年前です。「階段付き長城物件」のトマソンとして紹介されています。そして、多くの人がわざわざ階段を昇り降りして暗渠の上を歩いている様子が観察されています。
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赤瀬川原平「超芸術トマソン」(ちくま文庫 1987)p.392-393より

和泉川暗渠の河口部の児童遊園は、このトマソンの報告とほぼ同時期に伊丹十三「タンポポ」のロケ地となっています。その一方で源流部の暗渠が、超芸術トマソン物件として「発見」されていた訳です。忘れられていた暗渠が意外なところで記録に残っていることに感慨を覚えずにはいられません。
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by tokyoriver | 2014-11-16 22:23 | お知らせ | Comments(2)
ひとつ前、鈴木用水の記事の第1回めでも取り上げたように、小平や田無といった武蔵野台地上のエリアは元来水が乏しく、玉川上水の通水以降ようやく本格的に開拓されたような土地だった(詳しくは「鈴木用水(玉川上水鈴木新田分水)(1)」参照)。下の地図を見るとわかるように、台地の中央部には川はなく、玉川上水や、そこからの分水だけが流れている状態となっている。放射状にのびる水路や、縦横に走る鉄道をみると、一帯は平坦な台地であるようなイメージがうかぶ。
(地理院地図に水路ルートを追加。桃色及び赤のラインが用水路のルート、水色、青のラインが川)
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ところが、地形を詳細にみていくと、実際には意外と凹凸があることがわかる。下の地図は上の地図とほぼ同じ範囲を、微地形がわかるよう色分けして表示した段彩図(カシミール3Dで基板地図情報5mメッシュを表示)。台地の中央には東西にのびるうっすらとした谷筋が見えるし、ところどころ出口のない窪地もある。
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これらの窪地には名前がつけられている。図の中央を西から東に横切る浅い谷筋は「ぐみ窪」「小川の窪」と続いた後、向きを北に替えて黒目川の源流、小平霊園内の「さいかち窪」まで続いている。
小平市役所東側にある大きな窪地「平安窪」は、いったん途切れた後小平駅東方の「アクスイ窪」へと続く。その延長線上には落合川の源流がある。平安窪の東の「天神窪」も「アクスイ窪」へと続いている。
平安窪の西側の「山王窪」は出口のないいわば "一級スリバチ" の窪地だ。名前こそついていないが他にもこのような窪地が散在していることが段彩図からは読み取れる。
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そして、一見平坦な場所を流れている用水路も、段彩図を重ねてみてみると、たくみに窪地を避けて通っていることがわかる。野火止用水の変な屈曲や「ぐみ窪」を避けるためだし、小川用水が向きを東に変えているのは青梅街道に沿うためだけではなく、野火止用水と同じく「ぐみ窪」〜「小川の窪」を避けるためだ。また、青梅街道沿いの用水路が小川用水から野中用水に切り替わるのは「天神窪」があったためだということもわかるだろう。
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ふだんは水に乏しい武蔵野台地上だが、これらの窪地には時に「野水」が出た。水の便が悪いのも困りモノだが、この野水も土地に暮らす人を悩ませた。水は降雨のあとしばらくしてから湧き出してときには窪地を満たす深さ1m以上の水たまりとなり、数日から数週間は水浸しになったという。数年に1回雨の多い年の秋にだけ湧水池が現れる黒目川の水源「さいかち窪」もこの「野水」の一種といえる。

武蔵野台地上にしばしば湧くこのような野水や、窪地に集まる雨水を排水するため、台地上には悪水路が悪水路が存在していた。保谷地区の「シマッポ」(白子川源流。「白子川上流部ー地下水堆とシマッポー(1)新川南支流」記事参照)が典型的な例だが、この小平地区にも2つの悪水路が存在していた。
ひとつは、青梅街道駅付近から現東村山市域を経て黒目川の源流さいかち窪につながるルート、もうひとつは小川新田から大沼田新田の「アクスイ窪」を通り、東久留米市域を経て落合川につながるルート。
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いずれも水路の幅は1m弱程度だったという。さいかち窪にいたるルートが開削された時期は不明で、現在では西武線青梅街道駅の脇に改修後と思われるコンクリート蓋暗渠が残る以外には痕跡はない。
大沼田新田の悪水路は江戸期に開削され、灌漑用も兼ねていて水路沿いには水田もひらかれていた。こちらは現在でも小川用水の水路のひとつとして暗渠となって残っている。

一方、生活排水は各家が庭に礫層まで達する穴を掘り、吸い込ませていた。しかし、昭和期に入り人口が増えてくるにしたがって、それでは間に合わなくなってきたという。戦前に陸軍経理学校が開かれた際には、石神井川へと続く排水路「経理排水」(「石神井川の源流を探して(4)源流解題ー鈴木遺跡・鈴木田用水・経理排水・石神井幹線」参照)が開削された。
そして戦後、1957年のブリジストンタイヤの工場建設を機に台地の中央の「小川の窪」から「アクスイ窪」をつなぐ排水路が開削された。この水路は1962年ころ完成し、幅およそ2mの素掘りの水路だった。正式には「基幹排水路」という名称をもっていたが、地元では「緑川」とも呼ばれていた。
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緑川は西武国分寺線小川駅の南方の地点から始まって「小川の窪」を通り、一旦尾根を切り裂いた後、「平安窪」〜「アクスイ窪」へと続く窪地まで通し、従来からあった大沼田新田方面の悪水路に接続していた。また、東久留米市内より下流の悪水路(おそらく滝山団地造成時に改修)とあわせて「小平排水」とも呼ばれていたようだ。

緑川は1970年代には暗渠化され、下水道の普及により1980年代なかばまでに埋め立てられてしまった。存在した期間が十数年程度と短く、また排水のための機能的な水路であったためか、この「緑川」についてはほとんど情報がない。しかし、川の全くなかった小平の台地上に、一応「川」と名のつく水路がほんの一時期とはいえあったという事実はただのドブ川であったとはいえ、なかなかに意外性がある。幻の川が流れていた跡は今はどうなっているのだろうか。実際にたどってみることにした。

緑川は西武線小川駅の南、国分寺線と拝島線の分岐する地点を起点としていた。1970年頃の住宅地図を見ると、ここから始まる水路がはっきりと描かれている。
西武国分寺線の線路の西側に平行して南北に走る道路。極々僅かながらV字の窪みとなっているのがわかるだろうか。そこがぐみ窪と小川の窪を結ぶ微低地だ。そしてその右側に見える緑の繁みが緑川の起点だ。
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現在では車止めに仕切られた中途半端な緑地となっている。奥で西武線の線路に突き当たっている。半ば私有地化されているようで、ちょっと入りづらい雰囲気となっている。
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下の写真は西武線の線路東側に廻り込んだところ。線路腰に見える木立が、さきほどの緑地だ。緑川は線路をくぐり手前方向に流れていた。
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振り返ると一直線に通りが続いている。通りはしばらく「小川の窪」の底を通っている。緑川はこの通りに沿ってまっすぐ東に流れていた。
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上の写真で、道路左側の歩道が急に始まる地点があるが、そこまで進んでみてみると、北側からいかにも暗渠な路地が合流しているのがわかる。この他にも何本か、南北から「小川の窪」の微低地に向かって同様の暗渠路地が合流している。いずれもかつて緑川に注いていた排水路だったのだろう。
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通りに立てられた標識には「緑川通り」の名がしっかりと記されている。
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看板と南北から合流する排水路暗渠の他にはとりたてて何の痕跡もないまま水路跡は東へまっすぐ進んでいる。
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緑川通りは青梅街道駅付近で西武多摩湖線に突き当たるが、その地点には、唯一緑川の痕跡と思われる物件が残っている。写真左下、路上に見えるコンクリートと、中途半端なガードレール状の柵だ。コンクリートはおそらく欄干の跡だろう。水路はその奥の小屋と木立の下を抜け、西武線の下を潜っていた。この区間はgoogle mapでは未だに水路として描かれている。
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青梅街道駅の東側に回りこむと、線路沿いの道にかなりしっかりしたつくりのコンクリート蓋暗渠がある。暗渠は青梅街道駅のすぐそばからはじまり、小川用水の北側水路と立体交差して谷筋へと下って行く。写真手前の鉄板の蓋と、向きが90度異なっている暗渠蓋が、小川用水だ。下りきった先は緑川の暗渠(跡)だ。
この暗渠はかつて、青梅街道に沿った溝渠の水をあつめて小川の窪〜さいかち窪へと落としていた悪水路の名残だろう。おそらく緑川が開通した際、下流部の廃止と流路の変更が行われこの暗渠になったと思われる。
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多摩湖線の線路のすぐ東、蓋暗渠が合流していた地点から緑川跡を下流方向に望む。左側の歩道がかつての緑川だ。唐突に始まる歩道の始点に、不自然なコンクリートの欄干のような物体が埋まっている。
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緑川はこの先で「小川の窪」からはなれて微高地を堀割で東進し、「アクスイ窪」の窪地へと移っていく。「アクスイ窪」を横切る地点では、江戸時代より流れていた大沼田新田へと続く悪水路と交差する。こちらの悪水路は青梅街道の北側を起点とするコンクリート蓋の暗渠として残っている。
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緑川はいったん「アクスイ窪」を越えて少し東進するため、この悪水路とも合流せず交差する。下の写真は交差地点からしばらく東進した緑川の暗渠から、悪水路の流れる方を見たもの。悪水路の流れる「アクスイ窪」が凹んでいるのがよくわかる。
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窪地を流れる悪水路は、幅はあまりなく、また、住宅地の中を何回も直角に折れ曲がりながら流れている。緑川が悪水路とぶつかってすぐに合流しないのは、この折れ曲がった細い区間を避けるためだったと思われう。
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アクスイ窪が北に向きを変える地点の少し南側で、窪の南側の微高地を抜けてきた緑川もようやく向きを北に変える。下の写真の歩道部を左から流れてきた緑川は中央の不自然な空地を奥へと北進している。この空き地の途中で先ほどの悪水路に合流し、その先はかつての悪水路のルートをそのまま辿って東久留米市方面へと抜けていく。
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西武新宿線の北側に抜けると、悪水路はかなり立派なコンクリート蓋暗渠となり、東久留米市との市境付近まで続いている。こちらの区間は緑川開通後は「小平排水」とも呼ばれ、今では小川用水の分流として扱われているようだ。
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ここから先、最終的には落合川の源流まで暗渠・水路跡が続いている。滝山団地内には暗渠に設けられた水門が残っている。
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この先の流末は「落合川を辿る(1)川のはじまり」で触れているのでご参照いただきたいが、この「小平排水」の区間を詳しく紹介するのはまたの機会としよう。

なお、緑川については不明な点がまだまだ多い。もし何か多少なりともご存知の方がいらしたら、コメント欄によせていただけると幸いである。
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by tokyoriver | 2014-10-07 22:47 | 黒目川・落合川とその支流 | Comments(6)
鈴木用水をたどる第3回めは、ふたたび用水路が鈴木街道の両側に分かれる地点から。前回とりあげた街道南側の水路と街道を挟んで平行して流れる、街道北側の用水路を辿っていく。鈴木用水の概要および起点から分岐地点までのいわば上流区間については前々回記事を参照していただきたい。

用水の全体地図はこちら(google mapにプロットしたものをキャプチャ)
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■水の流れている区間
まずは上流部を拡大地図を見ながら追っていこう。
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鈴木街道の北側、街道沿いの家々の裏手を東に向かって流れていく鈴木用水。いい雰囲気だ。
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新小金井街道を越えると、水路は竹やぶの中に入っていく。街道側には大きな屋敷があり、この竹やぶやそれに続く林は、屋敷の防風林だったのだろう。近辺にはかつて「庄治郎水車」がかかっていたというが、ここがそうかもしれない。
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新小金井街道より先は、大部分で水路沿いを辿れないので、あちこちで鈴木街道から北にのびる道に入り込んで水路を確認していくことになる。「用水路の中では遊ばないように」という注意書きは、逆に今でも用水路で遊ぶ子供がいることを示していて、ちょっと頼もしい。
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水路沿いの緑が色濃い。
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鈴木街道沿い、西松屋の裏手付近で、上流方向を眺める。水路の幅がやや広くなっている。2014年5月時点では、鈴木用水に水が流れているのはここまでとなっていた。
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■空堀の区間

前の写真の地点から下流方向を見たところ。流れてきた水は、橋の下で下水に落とされているようだった。
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橋の先はご覧のとおり空堀となっている。川底が湿っていて雑草も倒れており、最近水が流れた様子がうかがえるが、撮影の数日前に降った大雨の影響かもしれない。
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小金井街道手前の区間を上流方向に望んだ様子。鈴木街道を挟んで南側には、田無用水と鈴木用水南側水路との立体交差がある(前回記事参照)。水路はかなり立派なつくりだが、水の気配は完全になくなっている。
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ここで下流部の地図も提示しておこう。
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暗渠化された田無用水と交差し、小金井街道東側に抜けた地点。さきほどまでの立派な水路とうって変わって、荒れ果ててとても水路には見えない状態になってしまう。写真左側、赤い木が生えているところが水路だ。トタン板の土留めでかろうじて水路であることが分かる状態。
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少し先に進むと水路は鈴木街道沿いに出る。ここから先は「大門橋緑道」として歩道とあわせて一応整備されている。しばらく街道沿いに流れていく(といっても水は全くない)。街道沿いの家々が水路上に敷地をとってはみ出している区間もあって、それらの場所ではなかば暗渠のようになっている。
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■緑道整備されている区間
200mほどで、用水路は再び街道から離れる。擬木の護岸や柵が設置されていて、水路沿いを歩けるようになっている。
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やがて水路は暗渠となり、「大門橋緑道」は暗渠道となる。
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緑道には街灯や「鈴木用水」の標識が設けられている。緑色の歩道はカーペットのようなつくりで、その下はコンクリート蓋となっているようで、歩くとガタガタする。
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■消滅しかけの区間
緑道の区間が終わると、再び水路が現れる。少し先までは、鉄パイプで留められたコンクリート板の護岸がつくられていて水路こそはっきりしているものの、やや荒れた雰囲気だ。奥の方は素掘りの水路に戻っている。水路は新田集落の形態を残した、北側に防風林を配した屋敷の中を抜けていく。
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鈴木街道を回りこみ、次に道路と交差する地点で水路を確認してみる。奥が上流側。素掘りの水路が残されているのはいいが、だいぶ埋まりかけており、単に畑の端が凹んでいるだけにしか見えない。
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下流側。上流側よりも更に水路はだいぶ埋まっており、雑草も生えている。ゴミが散乱しテレビまで捨てられており、かつて貴重な呑水を運んでいた姿とはかけ離れている。
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次に水路が確認できる地点は、多摩湖自転車歩行者道と交差する地点だ。写真左奥が上流側となる。鈴木用水は自転車歩行者道をくぐっていく。道路の下には、村山貯水池(多摩湖)から三鷹市の境浄水場までの10kmをほぼ一直線に結ぶ給水管が下に通っている。村山貯水池の水は途中まで玉川上水を経由して運ばれた多摩川の水で、その水がこの給水管を流れている。つまり、ここで玉川上水から分水された新旧の水路が交差していることとなる。
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多摩湖自転車歩行者道の下をくぐると、水路はほぼ消滅してしまう。写真奥から手前、道路の右側に沿って流れているはずなのだが、隣り合う畑地と完全に一体化してしまっている。
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畑地の東側の住宅地の中で、ようやく水路の続きを見つけることができる。
「ここは用水敷きです。通路ではありません、通りぬけしないでください。小平市 水と緑と公園課」
との看板がたてられている。しかし、これより下流、水路はわずかな鉄板蓋暗渠の区間を経て、砂利敷や未舗装の暗渠となってしまう。
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■消滅する区間

住宅地の隙間に、柵で囲まれた水路敷の空間が残る。
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ここでは鈴木用水の暗渠が右から左に横切っている。前後の区間は宅地に取り込まれていて不明瞭になっているが、道路の所だけははっきりと盛りあがっているのが面白い。アスファルトの下に、土管か何かとなって水路が通っているのだろう。この地点が、水路の痕跡がはっきりと判断できる最後の場所だ。
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住宅地を回りこみ、資料ではかつて水路が通っていたとされる道路に出る。中途半端な位置の電柱が思わせぶりではあるが、他には水路を示す痕跡は何一つない。
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開設当初の鈴木用水北側分水路は、この先で石神井川に落とされていたようだが、明治4年には田無用水から「田無村字芝久保呑用水」が分水され、そこに接続されるようになった。写真の道路の手前から鈴木用水の流末が、奥からは芝久保呑用水が流れ、奥に見える西武新宿線の踏切手前で、両用水が合流し東へと流れていた。歩道に残る古そうな側溝が用水路と何か関係はあるのだろうか。
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両用水の合流地点は今は企業の敷地となっていて、水路は確認できないが、その先断続的に芝久保分水の水路跡は残っており、石神井川合流直前の地点にはかなりしっかりしたコンクリート蓋暗渠が現存している。そちらについては長くなるので又の機会にあらためて紹介しよう。


(おわり)
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by tokyoriver | 2014-07-28 23:40 | 玉川上水とその支流 | Comments(3)
鈴木用水をたどる第2回めは、用水路が鈴木街道沿いに達し、街道の両側に分かれる地点から。今回は街道南側の用水路を辿っていく。鈴木用水の概要および起点から分岐地点までのいわば上流区間については前回記事を参照していただきたい。

用水の全体地図はこちら(google mapにプロットしたものをキャプチャ)
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前回の記事にも記したように、武蔵野台地の新田開発集落の多くは、街道に対して直角に短冊形の敷地を取り、屋敷を街道沿いに集中させるかたちをとっており、鈴木新田も同様のスタイルとなっていた。
下の図はその模式図。中央を東西に街道が通り(灰色ライン)、街道沿いに屋敷林に囲まれた家屋が配置され(図褐色の■)、その背後には短冊状の畑地(黄色の■)がのびる。用水路(青いライン)は各家の飲用水として利用されていたため、屋敷の敷地内、家屋の裏手(すなわち、台所側)を抜けてながれていく。
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鈴木街道沿いは今ではだいぶ宅地化が進み、屋敷林に囲まれた家屋はほとんど残っていないが、水路は今でも家々の裏手を抜けて流れていくため、水路に沿って歩くことはできず、鈴木街道から南北に延びる道路を随所で進み、水路を確認していくことになる。

まずは小金井街道までのいわば中流部の区間をたどっていこう。
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水の流れない水路

新堀用水分岐地点から鈴木用水を流れてきた水は、現在街道北側の水路のみに流されており、南側の水路は水が流れない状態となっている。下の写真は北側水路との分岐点から程無い地点。水は流れていないものの、コンクリートの橋が小さな欄干と共に残っており、鉄板の土留めで水路はしっかり保たれている。水路沿いにも緑が残る。
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しばらく進んだ地点。奥には屋敷林の名残が見え、水路は素掘りのまま保たれてはいるのだが、水が流れていないため、ちょっと荒れた感じになっている。水路だと気づかない人が大半なのではないか。
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ここではかつての屋敷の敷地が駐車場となっている。水路の底まで雑草が生えており、落ち葉も積もっている。知らなければ単なる細長い窪地に見えるかもしれない。この近くにはかつて「利左衛門水車」が設けられていたという。こんな細い水路に水車が掛けられていたとはにわかには信じがたい。
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ここでは水路の底を雑草が埋め尽くしているものの、再び土留めが設けられ、そのおかげで水路は明確になっている。
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水路の立体交差

小金井街道の西側では、田無用水との立体交差が見られる。コンクリート製の掛樋で上を通っているのが鈴木用水、下をくぐっているのが田無用水だ。
田無用水は前回も記した通り、鈴木用水の開通する34年前の1696年に開通している。田無地区への給水を目的としているので、この辺りはあくまで通過しているだけで、水を利用することは基本的にはできなかった。
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玉川上水からの分水には、谷筋や自然河川を越えるために土手や掛樋が設けられていた場所がいくつかあるが、このようにほぼ同じ平面で、しかも用水路同士が交差するのは珍しいのではないか。掛樋の側面には昭和5年10月と刻まれている。
下を潜る田無用水はだいぶ埋もれていて、樋の底との隙間が狭くなっている。樋の中の水路はかなり浅いが、水が溢れることはなかったのだろうか。
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上流側から下流方向を望む。鈴木用水は右奥へ、田無用水は左奥に流れていき、この先で鈴木街道を越え、小金井街道より東側は暗渠となる。その手前では鈴木用水の北側分流と交差していたはずだが、現在は全く痕跡はない。
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鈴木用水の方は、最近出来たばかりと思しき戸建て住宅が立ち並ぶ中、大きくコの字型に迂回するように続いていく。この近辺(小金井街道(府中道)の西)にはかつて「治右衛門水車」と呼ばれた水車が設けられており、そのために迂回していたのかもしれない。小金井街道の東側には「喜右衛門水車」も設けられていた。
これらの水車は自家用ではなく、商用の水車で、他所で収穫された米や穀物の脱穀、製粉を請負って利益をあげていた。
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荒れていく下流部

小金井街道を越えると、西武新宿線の花小金井駅から近くなることもあり、鈴木街道沿いはだいぶ宅地化が進んでいて、水路も様相を変えていく。
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小金井街道を越えた少し先。土がむき出しの水路。土揚敷の土が崩れ、水路がだいぶ浅くなっているようにも見える。手前のコンクリートの橋がなければ水路とわかるだろうか。
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さらに先では、水路の上をまたがってトタンの建物が建てられていた。その下をくぐってくる水路はコンクリートの護岸。そして手前には暗渠でよく見られるようなゴミの集積スペースまで設けられていて、かつて貴重な呑水をもたらしていた水路にしてはずいぶんとぞんざいな扱いを受けている。周囲も家々がびっちりと建ち、ここまで来るとかつての新田集落の面影は失くなってしまう。
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こんな典型的なコンクリート蓋暗渠の区間まで現れる。
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その先で一瞬、素掘りの素朴な水路が残る区間があったのだが、今年に入り一帯の土地が宅地用に造成され、失くなってしまった(写真は2008年撮影)。
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土地の造成中は水路は全く姿を消していたのだが、造成後には写真のような水路があらたに作りなおされていた。写真左側のあたりが、前の写真の素掘りだった区間だ。この辺りはもはや水が流れてくることはないと思われるのだが、それでもこうしてしっかりとした水路がつくられるのは、将来通水が復活する可能性があるということだろうか。
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前の写真の中央奥で左に曲がった水路はこの素掘りの水路に繋がっている(写真奥の右側から先の水路がやってくる)。そして写真で前で再び右に折れる。これだけ大きくコの字型に迂回しているということは、かつては大きな屋敷があったということだろう。
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右に折れた先はアスファルトの下の暗渠。道路を進んでいくと鈴木街道につきあたり、水路は右(東)に折れる。
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中央の、赤いアスファルトの下が鈴木用水の暗渠だ。鈴木街道に挟まれたスペースには水遊び場が設けられている。
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暗渠から出た鈴木用水は再び鉄板の土留め水路となり、東へと向かっていく。
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流末近くでは、かつての短冊形の畑地が、区画を残したまま新興住宅地となり、戸建ての家が隙間なく並んでいる。その間を縫うように水の流れない水路が抜けていく。
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かろうじて残る流末

新興住宅地の先で、水路は道路から大きく離れて大きな屋敷の中に入って追えなくなる。この先、水路は石神井川の流れる谷に下っていく。その途中で水路はいったん消滅してしまっているようだ。谷に下る斜面の途中では、こんな空き地となってかろうじてルートが確認できる。水路の窪みはなくなっている。深い谷のように見えるが、両側の住宅の下の擁壁は明らかに盛り土で、周りが高くなったことで相対的にそう見えるだけで、実際には谷の斜面をななめに下っている。
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谷底まで下ると、再び家々の隙間に水路の痕跡が現れる。だいぶ荒れていて、もはや側溝にしかみえないかもしれないが、これが延々と追ってきた鈴木用水の末端だ。
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先ほどの水路を下流側から見たところ。右側の道路が鈴木街道だ。そしてすぐ手前には石神井川が流れている。
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鈴木街道の長久保橋のたもとで、鈴木用水の南側水路は石神井川に到達し、終わる。起点からここまでの流路はおよそ4.3km。起点の標高がおよそ80mなのに対し、流末の標高は60mほど。20mほどの標高差になるが、そのうち5mは、最後の200mほどで一気に下っている。石神井川の護岸に空く小さな排水口がかつての合流口の名残だろうか。
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長久保橋から、石神井川上流方向を眺める。奥の森は小金井公園、数百m先は公式の石神井川上流端となる。
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この付近の石神井川はかつては悪水堀と呼ばれていた。現在では水源は涸れ、普段は水は流れていない。石神井川源流については、こちらの記事をぜひご参照いただきたい。

次回は鈴木街道の北側の水路を追っていく。

(つづく)
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by tokyoriver | 2014-07-03 23:30 | 玉川上水とその支流 | Comments(0)