東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver
狛江市内にひろがる暗渠・水路跡の迷宮を辿るシリーズの4回目は、小田急線狛江駅前の緑地保全地区に残る「弁財天池」および「ひょうたん池」から流れ出していた「清水川」の上流部をとりあげる。

「清水川」はもともとは岩戸川に合流していた(岩戸川はその時点では野川の流路だった)が、六郷用水開通後のある時期以降に岩戸川から切り離され、岩戸、猪方、和泉の3地区の境界地点から掘割を開削して南下し、駒井地区と猪方地区の灌漑に利用されていた。この掘割の区間も含めて狛江エリアでは清水川と呼ばれていたという。流末は猪方用水の一流と合流したのち町田川へと接続されていたようだ。一方で源流部近くでは前回記事で取り上げた「相の田用水堀」の余水も取り入れられていた。
「清水川」「岩戸川」とその下流部「町田川」「宇奈根川」「喜多見川」の流路は自然河川も人工的な水路も複雑に絡み合っていてどの区間をどう呼ぶかには地域や研究者により諸説あるところだが、ここではこの狛江市内での呼称に従いたい。

まずは概略図を。今回取り上げる範囲は下の地図でピンクの枠で囲った中の、紫色のラインとなる。なお、地図に示された水路はすべて現存しない。
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小田急線狛江駅の北側、駅のすぐ目の前に、駅舎よりも高い木も生える鬱蒼とした森「狛江弁財天池緑地保全地区」がある。緑地保全地区内は、立川段丘の末端に刻まれた浅い谷頭の窪みがあって、「ひょうたん池」と呼ばれる湧水池が残されている。そして北西に接している泉龍寺敷地の林の中にも「弁財天池」が残されている。泉龍寺は奈良時代に創建された歴史のある寺院だ。
かつては豊富な湧水量を誇っていて、周囲からは縄文時代中期、古墳時代、奈良時代といった各時代にわたる遺跡が発掘されており、湧水が古くから人々の生活を支えてきたことが伺える。湧水は和泉の地名の由来となったとも言われている。
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「弁財天池」の方は泉龍寺の敷地なので自由に立ち入りできるようになっている。池には昭和初期には毎分9000リットルもの水が湧き出ていたというが、周辺の開発などにより1960年代後半から度々枯渇するようになり、72年には完全に涸れてしまい、翌73年には復元のため工事が行われたという。2006年には深さ70mの井戸を掘り、地下水を供給するようになった。
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中島には1693年に建てられたという石祠が祀られている。
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弁財天池から溢れた水は南東側に接し一段低くなっている「ひょうたん池」に注いでいる。こちら周囲は保全地区となっており決められた日のみ公開されている。大正末期より一帯は高級料亭となり、池を囲い込んだことから池を利用する和泉の住民たちとの間で逮捕者のでる争いになったという。料亭は戦時下には廃業し陸軍大将の荒木貞夫の邸宅となった。
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池から流れでた清水川はすぐに相の田用水と合流し、狛江駅を南側にくぐっていた(前回記事参照)。1960年代半ばまでは駅の南側には開渠の水路が見られたが、駅前ロータリーとそれに続く通りの整備により暗渠化され、駅前には川を偲ばせるものは残っていない。駅前の通りを150mほど南東に進むとようやく、北側に車止めの設けられた暗渠道が現れる。
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少し進んで振り返ってみたところ。両側よりもわずかに低くなっている。道端の雑草がよい雰囲気。この辺りには水車があったという。
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草生す幅広の暗渠空間。第1回の記事で触れたようにここには間に土手を挟み2本の水路が並行して流れていた。その水路を書き込んでみた写真を第1回記事より再掲載。右側が清水川、左側は近くの揚辻(谷田部)稲荷の湧水池から流れだした川だ。水利権の事情でこのような形態となったのだろう。
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世田谷通りの南側にも2本の川とそれに挟まれたかつて水田だった土地が空き地で残っている。揚辻(谷田部)稲荷からの川は未舗装の道となっているが、清水川の方は水が涸れた状態で残っている。このエリアも第1回で取り上げたが、今回は清水川を主役に辿る。写真は半ば埋もれかけた清水川を上流方向に向かって撮影。護岸がしっかり残っている。
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こちらは下流方向に撮影したもの。立派なブロック護岸は比較的新しそうだ。
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しかしその先に少し進むと、水路はだいぶ埋もれてしまっている。
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一帯は浅い谷戸地形となっているが、谷戸の南側の斜面には緑が残り、その直下に川が流れていた面影を残している。右側の草地はかつて水田だった場所だ。
空堀沿いの空き地は最近「清水川跡地整備事業」として市民参加のワークショップ形式で意見がまとめられ、公園として整備されることが決まったという。2012年度内には着工されるとのことで、この風景が見られるのもあと少しだろう。清水川の空堀は保存されるらしいが、どの程度残されるのだろうか。
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清水川の痕跡は道沿いの窪地としてかろうじて続く。こちらは公園となったらなくってしまいそうだ。
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空き地を抜け、旧大山道と交差する地点。この写真も第1回より再掲載。清水川と揚辻稲荷から並行するの2本の流れに架けられた橋は、二ツ橋とも眼鏡橋とも呼ばれていた。ここから先は整備された緑道が現れ、そのすぐ先では岩戸用水からの分流(暗渠)にくわわるのだが、冒頭に記した通り六郷用水開通以後のある時期から、清水川の方はそちらには合流せず、写真右側の、舌状に飛び出した立川段丘末端の微高地を深い掘割で横断し、段丘の南側に落とされていた。
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言葉ではわかりにくいだろうから、下の段彩図を観ていただきたい。わかりやすいよう標高差を強調して色分けした。画面中央のあたり、「堀割の区間」と記したルートがそれだ。黄色く色分けされた微高地が、立川段丘の末端となる。緑系に色分けされた低地とは2mほどの標高差だが、その南側はいちおう「府中崖線」の続きとされていて、地元では「ハケ下」と呼ばれていたという。
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かつての掘割は現在では埋められていて、普通に段丘の上まで上り坂の道となっている。写真は途中で振り返ったところで奥に見える車止めが「二ツ橋」の地点だ。右側の柵の下は擁壁となっていて、岩戸川緑道が手前右に向かって通っている。左手の木の生い茂る個人宅内には古墳が残されているらしい。
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段丘上の掘割跡の道。左岸側は天神森と呼ばれる鬱蒼とした土地で、掘割沿いの家屋には、水路に降りる洗い場が家ごとにあったという。現在の様子からはまったく想像がつかない。
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段丘を下り、狛江の水道道路を越えた地点。道路から浮かび上がっている歩道が水路の跡だ。清水川の水路はかつて写真左から流れてきて、ここで府中崖線に沿って西から流れてきた猪方用水の分流の流末を加えると同時に、南、東、北東の三方に分かれていた。猪方用水の分流、南側分流、東側分流は今ではふつうの道路となっていて水路の面影はないが、北東への分流だけは暗渠として残っている。写真右側、奥に伸びているコンクリートの段差がそれだ。
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その暗渠を下流方向からみたところ。コンクリートの蓋がしっかり残っている。奥に見える鳥居は白幡菅原神社でかつての猪方村の鎮守社だ。明治初期の神仏分離時に、別の場所にあった白幡神社がもともとあった天満宮の場所に移転・合併し白幡菅原神社となった。そのため菅原道真と源頼朝を祀っている(さらに徳川光圀公と井伊直弼まで祀っているそうだ)。神社の前には湧水が湧き、洗い場もあったそうだ。
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蓋暗渠は水道道路と交差して道路の北側、ぽつんと大木が生えている方へと向かっていく。そちらにも蓋暗渠が続いているが、ここから先は別の記事としよう。
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(つづく)
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by tokyoriver | 2012-08-09 22:47 | 野川とその支流 | Comments(0)
仙川用水の暗渠/水路跡を辿る3回目は、仙川用水のいわゆる「入間川養水ルート」から分水し、仙川源流域の水田に給水していた水路をたどる。あわせて、それに関係する仙川のかつての水源地帯についても紹介しよう。

何度か記したように、仙川用水は、またの名を「上仙川・中仙川・金子・大町四ケ村用水」ともいうとおり、(A)入間川(中仙川)に水を引き入れることで(1)旧中仙川村エリアの水田に、そして(B)入間川から再度水を分けて、尾根筋を跨いで野川沿いの低地まで水路を引くことで(2)旧金子村・(3)旧大町村エリアの水田に給水していた。(B)については、甲州街道沿いに出て以西の区間は、深大寺用水東堀に転用されている。
そして、仙川沿いにある(4)旧上仙川村の水田への給水は、前々回の記事に記したとおり、入間川養水ルートとは別に「野川分水口」で品川用水から分水されるルートが存在していた。

一方で、前回の記事で触れたように、入間川養水ルートの分水口に設定された村別の水利権の中にも上仙川村(新川村)が含まれている。入間川養水は上仙川村エリアの水田を経由していないから、どこかから仙川に向かって分かれる水路があったことになる。

今回紹介するのはその水路の痕跡だ。まずはいつものように地図を(googlemapにプロットしたものをキャプチャ)。黄緑色のラインが仙川用水の水系、そして水色に塗ったエリアが、仙川用水が給水していた水田だ。この地図には旧上仙川村の水田と、旧中仙川村の水田の一部が入っている。
分水路は消防大学校の敷地内で仙川用水から東に分かれ、かつて島屋敷と呼ばれ、現在新川団地となっている丘のまわりを迂回するように幾筋かに分かれ、仙川に合流していた。以下、この水路を仮称「仙川用水島屋敷ルート」としておく。
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はっきり残る島屋敷ルート水路跡

消防大学校から中原3丁目交差点までの区間は、1940年代後半の航空写真や地形図でそのルートを確認することができるが、現在ではほとんど痕跡を留めていない。わずかに交差点の南東側の、敷地の区画にその名残が残っている。写真奥から手前左に向かってコンクリート塀が続いているが、これがかつて水路が流れていたルートだ。
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中原3丁目交差点の北東側からは、車止めで仕切られ、緩やかに曲がりくねりながら東へ進む、水路跡の暗渠道が現れる。尾根筋を流れる仙川用水から仙川に向かう下り坂になっているのがはっきりわかる。水路跡の北側には畑地が残っている。
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途中で道を横切るところでも、しっかりと車止めが設けられている。写真の場所から北側に少しだけ離れたところにも、別の水路跡が残っているが、そちらは綺麗に整備された遊歩道となっている。
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一方こちらは下って行くとだんだんといかにも暗渠っぽい、少し荒れたというか放置されたような雰囲気が増してくる。
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そして、新川団地の西側に突き当たって暗渠っぽい道は消滅する。新川団地の周りを道路が円状に囲んでいるが、水路はかつてそこにそって南北二手に分かれていた。今回は南側をたどっていく。写真は団地の南側を曲がりながら進む道。曲がりくねっているのは水路の名残か。団地側が高くなっているが、ここがかつて「島屋敷」と呼ばれた丘で、文字通り水田の中に島のように小高く盛り上がって浮かび上がっていた。
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島屋敷と仙川用水

島屋敷は、もともとは中世の武士団であった金子氏の居城だったという。そして、前々回にも記したように、1615年に柴田勝家の孫、勝重(1579-1632)が仙川の地を領地として与えられ、島屋敷に居を構えた。これらは長い間その実在が確認されず、伝承の域にとどまっていたのだが、2000年代に新川団地が建て替えられた際の発掘調査で、大規模な遺跡が見つかり、屋敷が実在していたことが確かめられた。島屋敷の地には古くは旧石器・縄文時代より人が暮らした痕跡があり、13世紀以降は継続して生活が営まれていたようだ。下の写真は、新川団地内に設置された説明板に掲載された、島屋敷遺跡の全景。中央の茶色になっているところが発掘されたエリアだ。仙川用水島屋敷ルートに関連する水路のうち、今回たどっている水路を青いラインで書き加えた。
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屋敷は島屋敷東部の小高くなったところに設けられ、心字の池もつくられていた。ここで思いつくのが、この柴田家屋敷と仙川用水の関係だ。玉川上水からの分水は、灌漑を目的とするものが多いが、しかし初期に開削された分水はいずれも飲用水目的が第一であった。そして前々回に記したように、仙川用水の開削時期は1663年以前とかなり早い。このような早い時期に仙川用水が開削できたのは柴田家の力によるものではないかとする説もあるようなのだが、もしそうだとすると、この島屋敷に至る分水ルートは、屋敷の飲用水を確保するために、仙川用水開削当初につくられたものだという可能性はないだろうか。
島屋敷一帯はそばに仙川の源流があり水は豊富なのだが、島屋敷自体は小高い丘となっていて、三方を低地が取り囲み、仙川流域から水を引くことはできない。そんな中で唯一水を引けそうなのが、西側の台地からのルートだ。仙川用水島屋敷ルートはまさにそこを通っている。

柴田家の統治は1698年まで続き、以後、上仙川、中仙川は幕府の直轄地となった。一方で、遺跡の発掘調査の中で、18世紀に入って玉川上水の水を引くようになり、客土で嵩上げして水田を拡張したことが判明した場所がある。そんなことから、もしかすると仙川用水は当初柴田家屋敷の飲用水として開削され、17世紀末に柴田家から直轄地になってから灌漑にも本格利用され始めた、そして灌漑の効果を上げるために野川口分水が補助的に追加された、といった経緯があったのかもしれないt、といったような想像も思い浮かぶ。

島屋敷への分水路の開削時期については全く資料がなく、以上はまったくの推測ではある。柴田家とは関係なく、もっと後に追加して開削されたルートなのかもしれない。ただ、いずれにしても入間川養水ルートに引き入れられた水量のうち明治前期の時点で、三分の1が上仙川村の水利権となっており、その水量は直接仙川上流部に繋がる野川口ルートの5倍近くもあることから、この島屋敷ルートの分水が上仙川村エリアの水田の灌漑用水としてのメインルートであったことは明らかだ。

幕府の直轄地になってからの島屋敷は畑地となり、柴田家の屋敷も江戸後期には痕跡を残すのみだったようだ。1924(大正13)年には、畑地の中に漢方薬で知られる津村順天堂(現ツムラ)の薬用植物園が開設され、終戦直後まで続いた。そして、その後、1959年には、新川団地が完成した。島屋敷の地はもともとは今よりも凹凸があり、屋敷跡を囲むように緩やかに馬蹄形をした丘となっていたが、団地造成時にだいぶ削られたという。

さて、島屋敷の南東から仙川までの間、再び水路跡らしい区間が現れる。見るからにそれらしい路地だ。
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そして、住宅地の中をS字に曲がる、くたびれたアスファルトの道がその先に続く。両脇は50年前までは島屋敷を囲むようにドーナツ状に広がる水田だった。
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道を抜けると仙川に行き着く。すぐ南側には中央高速道が通り、向かいにはかつての砦跡ともいわれる天神山の緑地が残る。護岸に口を開ける土管はかつての島屋敷ルート合流口の名残だろうか。
仙川用水島屋敷ルートについての話題はここでひとまず終わるが、続いてここから仙川を少しさかのぼり、仙川の水源にまつわるポイントをいくつか辿って行こう。まずは、写真右側、川面から護岸に繋がる水色の配管に注目して欲しい。
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野川宿橋への導水

この配管は、仙川の河床の伏流水を取水し、仙川の上流部に送水する施設「樋口取水場」のものだ。1970年代初頭の大規模な改修以降、仙川の上流部は水量が減り、水質悪化や悪臭が発生した。これらを解消するために、下流部の豊富な湧水を上流に送って流すという解決策がとられ、1989年に稼働が開始された。この「樋口取水場」では川底の4箇所から伏流水を汲み上げ、一旦貯留した後に、1.6km上流の野川宿橋のたもとまで送水している(野川宿橋については前回記事で取り上げている)。「樋口」の名は、かつてこの場所に下流部のあげ堀に水を取り入れれる堰があったことに由来しているという。当初は3000立方m/日、現在では1300立方m/日が取水されており、これにより水質、水量とも大幅に改善し、川には魚や水鳥が戻ったという。

ユニークなのは、川沿いに導水管を通す土地がなかった区間では、河川敷の中、護岸に沿って導水管を通していることだ。下の写真は樋口取水場から800mほど上流の勝渕橋から下流方向を望んだものだが、護岸の下に白い導水管があるのがわかるだろう。これより上流は、川沿いの道の下を通しているという。
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勝渕神社と仙川の水源「丸池」

そして勝渕橋のたもと、やや小高くなった場所に、勝渕神社(勝淵神社とも)が鎮座している。もともと水神が祀られた地だったようだが、柴田勝重が社殿を設け、祖父柴田勝家の兜を埋めて勝渕神社として祀ったという。現在の祭神は灌漑用水や井戸の神として信仰されている、水波能売命(ミヅハノメ)だという。本殿の脇には兜塚が再建されている。
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鳥居の脇には「御神水」としてなぜか古びたポンプ井戸があった。しかし、残念ながら水は完全に涸れていた。
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勝渕神社のまわりはかつて湿地となっていて、あちこちで湧水が湧き出していたという。その様子はいくつもの釜を伏せたようであったことから「千釜」と呼ばれ、一般的には、これがのちに訛って「仙川」になったとされている。
湖沼学者吉村信吉の調査(1940)によって、一帯の地下には「仙川地下水堆」があることがわかっている。「地下水堆」は局所的に地下水位が浅くなっている場所で、千釜の湧水もこの地下水堆の水が地上に現れたものだったのだろう。勝渕神社付近から先ほどの樋口取水場辺りまでは「どぶっ田」と呼ばれるぬかるんだ田圃で、特に勝渕神社周辺は沼地のようになっていたという。

そして、これらの湧水のうち、勝渕神社の南東にあった湧水池「丸池」が、もともとの仙川の源流だったとされる。丸池は「勝ヶ渕」とも呼ばれていたようだ。現在ある丸池は場所や形は以前とほぼ同じではあるが、2000年に復元されたものだ。
かつての丸池は、そばを流れる仙川が改修工事により河床が掘り下げられた結果、池に湧き出すべき水が仙川に流出して干上がってしまい、1970年前後に埋め立てられた(その仙川に湧く水自体もその後の宅地化により地下水位が下がって仙川上流では湧き出さなくなり、先に紹介した導水に至る)。
その後丸池を復活させる動きがおこり、埋められた後も地下水が健在であることが確認されたことから、池が復元された。現在、3つの浅井戸から、あわせて1日80立方mの水が供給されている。湧水の吹き出し口は、池の底につくられていて、かつての「釜」で水が湧く様子が再現されている。
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池のまわりは「丸池の里」として整備されており、仙川のほとりには水田も作られている。水田の両脇には水路がつくられていて、かつての周囲の水環境を偲ばせる。
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忘れられた仙川もうひとつの水源「ベンテンヤ」

丸池から流れだした水は、梶野新田用水の末端と、仙川用水野川口ルートからの水の流れ、そして辺りの湧水や雨水を排水する水路(現在の勝渕橋以北の仙川とほぼ同じルート)に合流し、仙川となって下って行っていた。
さて、この近辺には丸池のほかにもうひとつ、仙川の主な水源だった湧水池があったという。その池は「ベンテンヤ」と呼ばれていた。「三鷹の民俗10 新川」には、「昔の仙川は丸池の水と、丸池から50mくらい離れたベンテンヤの水が合流したものを水源としていた。水位は同じくらい。ベンテンヤはカマ(水の湧く所)があちこちにあって水がたまっており、湿地帯のようになっていた。」と記されている。これによれば、はっきりした池というよりは湿地状になっていたのだろう。
一方で、三鷹市史(1970)には、1950年代に入って、上仙川地区に引かれた三鷹用水(つまり仙川用水)に汚水が流入するようになり、苗代用として不適当になったため、新川本村の「弁天池」を仙川に導水する「仙川用水路頭首工」が1956年に竣工し、灌漑に利用したと記されている。「頭首工」とは用水路の取水口施設のことだ。また「仙川用水路」とは仙川を指していると思われる。また、400mの用水路整備もあわせて三鷹用水土地改良区により実施されたとあるが、これがどこの区間を指しているのかはわからない。
こちらの記述が正しいとすると、弁天池はもともとは仙川にはつながっていなかったことになる。真相はどうだったのか。

下の地図は、東京都北多摩郡三鷹村土地宝典(1939)から水路を抽出し、googlemapに重ねあわせたものだ。仙川用水島屋敷ルートや、改修前の仙川の流れがよくわかるのだが、これを見ると、丸池の西に、ひょうたん型のような池があったこともわかる。丸池からの距離はちょうど50mほどあり、これが「ベンテンヤ」なのではないか。
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池からは二手に分かれて水路が流れ出していて、戦前から仙川につながっていたことがわかる。では三鷹市史の記述をどう捉えるのか、ということになってくる。「ベンテンヤ」は湧水池とはいえ湿地状だったということから、これを池として整備し、水路もはっきりと区画されたものに改修して、灌漑に利用できるようにしたのではないかとの推測もしてみたが、これ以上の情報が得られず、よくわからない。

ベンテンヤのあった場所は、今ではアパートや駐車場となっている。その一角、勝渕橋の西側に、道路の脇が凹んだ区画となっていて、そこに古びた祠が祀られている(5枚前の、勝渕橋からの写真で、右端護岸上のガードレールとカーブミラーが見える所)。
祠の中には変なお地蔵さんのようなものが置かれているが、これはおそらくかなり最近、かってに置かれたもので、本来この祠は弁天様だったと思われる。ベンテンヤの名前の由来はおそらくこの祠だ。側面にははっきり読み取れないものの安政年間に再建、との刻字があり、台座には上仙川村をはじめ仙川流域下流に至るまでの多くの村々の名前が彫られている。
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丸池や勝渕神社が今でも大切に扱われているのに対し、この祠は半ば放置され、特に標識や説明板もなく、存在感は薄い。しかし、台座に刻まれた村名からは、ここで湧き出し仙川を流れた水は、かつて流域の村々の水田を潤す貴重な水であったこと、そして小さな祠には、その水が涸れないようにという切実な祈りが込められていたであろうことが伝わってくる。
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次回からは再び仙川用水入間川養水ルートに戻り、入間川(中仙川)の流末までたどっていく。

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-04-01 00:20 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(0)
前回に引き続き、深大寺用水西堀を今度は甲州街道付近まで追っていく。まずは今回のとりあげる区間の地図を(google mapにプロットしたものをキャプチャ)。青い線(深大寺用水系といわゆる佐須用水系)と黄緑の線(もと仙川用水系)で用水路、紫色と水色の線で自然河川を示している。たくさん水路があるように見えるが、野川、マセ口川、逆川以外の水路は全て現存していない。台地上を流れていた深大寺用水西堀水路は、晃華学園の南側で国分寺崖線を下り野川沿いの低地に出ていた(前回記事最後)。
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神代中学校の南側から出てきた深大寺用水西堀は、上ノ原公園の南側を東に下っていく。ここでも斜面の下ではなく中腹を横切っているのがいかにも用水路らしい。このあたりから流域は旧佐須村エリアから柴崎村エリアへと変わる。
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公園の先に進むと、生コンクリート工場の裏手に未舗装の水路跡が残っていた。
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上流方向を振り返る。奥右手に見えるのが上ノ原公園だ。水路跡が現れる地点からは、かつては南(写真左方向)に、柴崎村内を南下し野川に注ぐ細い分流があった。水田用ではなく、生活用水として引かれていたという。
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車道が崖線を登っていくのに対し、水路跡はその下を進んでいく。
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工場の先、コープとうきょうの裏手からは、とうとう開渠が現れる。
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近寄ることはできないが、開渠の始まりの地点には土管が口を開けている。水は全く流れていない。
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開渠の水路はゆったりとカーブを描きつつ東へ流れていく。この深大寺用水全区間を通じて唯一水路の残る貴重な区間がなぜ残されているのかよくわからないが、おそらくたまたま、なのだろう。既に役割を終えたこの水路はきっとそう遠くない未来に、気がつかれないうちに消滅してしまうに違いない。
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下流側に迂回してみると、そこはすでにコンクリート蓋の暗渠になっていた。
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緑色のフェンスの奥が暗渠、奥に見えるのは柴崎稲荷神社だ。左手からやって来た暗渠はかつてここで、崖線の下をまっすぐに進む水路と、神社の参道(手前)に沿って南に向かう水路のに分かれていたが、現在は南への水路だけが残っている。
柴崎稲荷神社はかつての柴崎村の鎮守社で、もとは天満宮山王稲荷合社と呼ばれており、その名の通り、天満宮、山王社、稲荷社を併せ持った神社であった。創建年代は不祥だが、少なくとも16世紀頃からこの地にあったようだ。崖線の斜面、長い石段を登った上に拝殿がある。雑木林に囲まれ鎮守の森にふさわしい立地だ。
神社の背後の台地上、現在マンションとなっている一角にはかつて日本針布の工場があり、戦時中は風船爆弾に使う和紙の風船をつくっていたという。そして一説によれば、この工場からの排水が1950年代末から深大寺用水西堀に流れこむようになって、一気に水質が悪化したという。同時期に東掘には、仙川用水経由で三鷹の工場排水が流れ込むようになり、金子田んぼの廃業につながったようだ。
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参道沿いに古いコンクリート蓋暗渠が歩道となって続く。柴崎村にはあまり深大寺用水を利用した水田はなかったが、ここの水路の両岸には戦後まで水田が広がっていた。特に左岸側、現在島田理化工業となっている敷地はすべて水田で、崖線沿いに分かれた水路から水を引き入れていたと思われる。
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100mほど南下すると、広い車道(中溝通り)に出る。コンクリート蓋はここで消えるが、かつて水路はここで再び東に向きを変え、甲州街道方面に向かっていた。現在は普通に舗装された歩道となっている。
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旧金子村のエリアへ入ると、中溝通りから脇道にそれる。緩やかにカーブする道に少しだけ水路の名残がある。ブロック塀の下の土留めが思わせぶりだ。
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水路跡の道は自動車教習所やワンダーシティ調布など商業施設の集まる一角の中を抜けて、甲州街道に突き当たる。そしてその南側から再びコンクリート蓋暗渠が始まる。写真は甲州街道南側から上流方向を望んだもの。
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ここから先、野川への合流地点までは次回に取り上げることとして、いったん柴崎稲荷神社の近辺まで戻ろう。神社の前で分かれた水路は、崖線の下を東進して、厳島神社の湧水池から流れ出す小川に接続していた。深大寺用水西堀下流部は、この小川の流れを利用している。厳島神社は柴崎神社から200mあまり東の、崖線下の窪地に立つ神社で、こちらは旧金子村の鎮守社だ。
創建年代は不明であるが、この地に土着し湧水を飲用や生活に利用していた人々が池端に祀った弁天祠が発祥となったといわれている。新編武蔵風土記稿には、この地に「牛首」と呼ばれる周囲7m、深さ6mの井戸のような水の溢れ出す湧水があり、童子が牛の首に乗って出現したという伝承が記されている。
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鳥居の右手には、小さな乾涸びた池が残っている。かつては崖線下に湧く豊富な湧水をためた130平米ほどの池があり、田用水に利用していたが、1960年代前半の社殿改築時にその大部分が埋め立てられてしまったという。古い地図を見ると神社本殿の周りにぐるっと水路を回してから流れだすように描かれている。
神社の周囲はかつて「経水山」と呼ばれ、池の水で弁慶等が大般若経を書写したという言い伝えも残っている(このような伝説は府中の「弁慶硯之水井」など各地にあるようだ)。しかし今では湧水はおろか水の気配は一切無く、崖線の上にはマンションが立ち並んでいる。
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東南東にまっすぐのびる神社の参道沿いには、暗渠が歩道となっていて、ところどころには小さな蓋が設けられている。
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歩道の尽きたところから、ごくささやかなものではあるが、小さなコンクリート蓋暗渠が現れる。何も知らなければただの側溝だが、かつてはここを湧水が流れていたのだ。
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更にその奥からは、水路はU字溝の開渠となる。水路自体の細さに比べ広く取られた左右の土揚敷のスペースは、かつて水が豊かに流れていたことを偲ばせる。
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その水路の行き着く先は突き出したマンホールだった…。かつてはここで、柴崎稲荷前で分かれた水路が左から来ていて、厳島神社からの流れに合流し右(南東)へ流れていた。
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この流路は車道になってしまっていてほとんど痕跡はないが、一部は車止めの設けられた路地として残っている。水路は甲州街道を越えた先で西堀本流と合流していた。甲州街道脇の本流と挟まれた区間は中溝と呼ばれる低湿地帯だったという。
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(以下つづく。次回で深大寺用水西堀編は完結します。)
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by tokyoriver | 2012-02-14 22:58 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(4)

宇田川源流の湧水池

今回は、「東京ぶらり暗渠探検」の取材時の写真から、いわば「お蔵出し」として、「宇田川」源流の湧水池を取り上げてみよう。前回に引き続き渋谷川水系の源流である。この湧水池は小田急線代々木上原駅から北東におよそ500m、渋谷区西原のとある独立行政法人の施設の敷地内にひっそりと現存している。東京の水 2005 Revisitedで記事にした当時は遠くから見ることしかできなかったのだが、2010年、「東京ぶらり暗渠探検」の記事では編集T氏のご協力により写真を掲載することができた。今回の写真はその際のもの(2010年1月撮影)と2005年の取材時(5月撮影)からセレクトしたものであり、現状とはやや異なっているかもしれないがご容赦を。

まずは段彩図で宇田川上流部を見てみよう(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。宇田川は渋谷区西部、淀橋台に枝状にいくつも分かれて刻まれた谷「代々木九十九谷」に湧き出す小川の水を集め、JR山手線渋谷駅北側で渋谷川に合流していた、渋谷川最大の支流だ。現在はそのすべてが暗渠化されいている。九十九谷北側の台地上には玉川上水が流れていて、上水を挟んで反対の北側には、いくつもの小川が流れを発し、神田川笹塚支流(和泉川)に注いでいた。玉川上水はちょうど神田川水系と渋谷川水系のの分水嶺を縫うように通されていたといえる。

宇田川源流のすぐ近くにある西原小学校校歌(1955年制定)では
「みなもと清き渋谷川/細くはあれど一筋に/つらぬき進めば末遂に/海にもいたるぞ事々に/精魂かたむけ 当たらん我らも」
と歌われている。地形や流れこむ支流の数を考えると、本来の水量は渋谷川上流(穏田川)よりもこちらのほうが多かったのではないかと考えられ、この校歌のように宇田川=渋谷川の源流と捉えられてもおかしくないだろう。宇田川の支流には唱歌「春の小川」のモデルとして知られる河骨川や、初台支流(初台川)などがあるが、宇田川本流とされる流れは九十九谷の西端、「狼谷(大上谷)」と呼ばれていたH字型の谷から発していた(図の黄色い丸枠内)。このH字の左上の支谷にあるのが、今回取り上げる水源池である。
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谷頭側の窪地を横切る道路。右側が池のある施設の敷地で、深く切れ込んだ谷となっている。奥には新宿副都心のビル群が見える。
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施設は台地上から谷の斜面にかけて建てられている。台地上から敷地南東側の谷底を望むと、木陰に池がわずかに見える。
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木々に囲まれた谷底に降りると、ひっそりと佇む細長い池がその全貌を現す。かつての狼谷は斜面を森に囲まれ、谷底は水田となっていた。そして大正~戦前にかけて一帯は森永製菓創業者の屋敷となり、湧水を利用した池が2つつくられたという。現在ある池はこの池のひとつの名残だ。
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埋め立てられてもおかしく無いような小さな池。よく今まで残ってきたものだ。
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池の東側からは水路が続いている。川のはじまりだ。
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東京都の1991年の調査では一日40立方mほどの湧水が確認されているが、水がしっかり流れ出しているところを見ると、今でも水が湧いているのだろう。
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柵越しに、隣りの別の施設内にある丸い池が見える。こちらの池も屋敷だった頃からあったものだが、だいぶ整備されている。水はいったんこの池に溜まった後、更に奥に流れ出している。奥へと続く水路が見える。
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隣接し、台地上にある代々木大山公園から、水路の先にある人工的な池を見下ろす。写真奥の木陰から出てくる水路が、前の写真奥に見えていた水路の続き。写真左下の角あたりから画面外左にかけて、森永屋敷時代、もうひとつの池があったようだ。
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池の先にも代々木上原駅方面まで深い谷が続いている。写真奥の谷底左側が人工的な池のあるあたり、そして右側に向かって谷が下っている。
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宇田川はかつてこの先、谷底を代々木上原駅方面まで下っていた。かつて西原から初台にかけての一帯は「宇陀野(うだの)」と呼ばれており、ここから流れ出る川ということで宇田川の名がついたといわれている。「宇陀」「宇田」のつく地名は全国にあり、語源にも諸説あるようだ。ここの場合は湿地帯や河川流域の湿地を意味する地名だったと思わえる。宇田川の谷を囲む斜面は昭和初期に高級住宅地「徳川山」として造成され、その際に流路は道沿いに改修されたという。現在では駅北側から始まる暗渠路地までの区間、痕跡は全く残っていない。

渋谷川水系は、渋谷駅以南の本流以外全てが暗渠化されているのに、その水源は各地で残されているのが面白い。新宿御苑然り、神宮外苑然り、初台支流の湧水然り。そして宇田川の水源もこのように人知れずひっそりと残っている。
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by tokyoriver | 2011-10-07 00:38 | 渋谷川とその支流 | Comments(4)
みちくさ学会に「明治神宮「清正の井」から流れだす川とその先の暗渠。」と題した記事を書きました。渋谷川の明治神宮南池支流です。基本的には「東京の水2005 Revisited」の記事の該当セクションのリライトではありますが、最新の写真に入れ替え、新たに判明した事実などを反映させて全面的に書き換えています。非常に話題のつきないエリアで例の如く写真も文も多めになってしまいましたが、それでも載せ切れなかったものを以下に上流側からご紹介します。基本的な情報はみちくさ学会記事に記しましたので、そちらをお読みの上、どうぞ。

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最初に段彩図で川の全体像を(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。画面左上が明治神宮の敷地で、そこに食い込む谷戸から右下(南東)に向かって通じている青いラインが今回記事にした明治神宮南池支流。途中山手線の土手が谷を塞いでいるのがわかるだろう。その北側にある神宮東池からもかつて川が流れだし、竹下通り周辺では南池支流と平行して渋谷川へと通じていた。2つの川の間がちょうど谷戸の谷底で、水田が広がっていた。南池支流は飴屋橋で二手に分かれ、ひとつは南下していた。
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ではまずは、記事で少し触れた、清正の井からの流れの西側にあって菖蒲田につながるもうひとつの水路から紹介しよう。明治神宮本殿の西側、西参道をみると途中がわずかに凹地になっていることがわかる。その左右に柵が写っているのがお分かりだろうか。これが水路に架かる橋だ。
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近づいてみるとこのように小さいながら石の欄干も設けられている。
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下を覗くと水は流れていない。だが落ち葉は積もっておらず、土には礫も混じっていて、時折ここを流れる水があることがわかる。写真は下流側を見たものだが、上流側にも同様に欄干があって、水路は森の中に曖昧に消えていっている。雨が降った後などに流れが生まれるのだろう。
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こちらは清正の井のすぐ下流側の地点。写真右から左下にかけて、清正の井から流れ出した、丸太の土留めの水路が通っている。右端の緑が濃いところが菖蒲田だ。写真ではややわかりにくいが、その奥にほぼ並行するように先の水路の続きが通っていて、菖蒲田の反対側に接続されている。
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次は同じく記事で触れた、代々木公園のバード・サンクチュアリの池からの流れ。神宮御苑の西側を抜ける道からその水路を垣間見ることができる。写真右下、暗渠を抜けた水路から水が流れ、南池に注いでいる。公園の池は地下水を汲み上げたもので、見ての通り水質は悪くなさそうだ。戦前までは代々木公園は「代々木練兵場」で、今の池のあたりには調整池があったという。明治42年、練兵場が開設された際、雨が降ると濁った水が谷戸を流れて直接南池に流れこむという事態が度々発生し、問題となった。その解決策として、雨水を一旦貯めて泥を沈殿させる調節池がつくられたという。
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続いては原宿駅東側の暗渠区間で載せられなかった写真を。

まずは「ブラームスの小径」の由来となったブラームス像。脇の飲食店が設置しているようだ。
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続いて、「フォンテーヌ通り」の由来となった噴水(フランス語でフォンテーヌ)。こちらは商業ビルの中庭に設けられている。
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病院の塀の黒いプレートに刻まれた「モーツァルト通り」の標識。背後の玄関(電信柱左側)上にモーツァルトのレリーフがある。もしかして左側の坂道のほうが「モーツァルト通り」?
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続いては、明治神宮東池と東郷神社からの川を。

まずは東郷神社の神池。一帯は、東郷神社が設立される以前は鳥取藩主であった池田氏の邸宅となっていて、当時の池は800坪あまりの広さがあり、冬には百羽を越える鴨の群れが来訪していたという。池は湧水を利用したほか、明治神宮東池からの川の水も引き込んでいた。東池からの川は池のある窪地とは丘を隔てて一本西側の谷筋を流れていたため、丘を暗渠で抜けさせ、滝をつくって池に水を引いていたという。
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東郷神社境内に残る「神橋」。かつてはここから川が流れ出て、東池からの川に合流していた。
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神橋の先には川の痕跡はないが、竹下通りの南側に怪しい私道がある。勝手に上下水道工事などをするなという標識がいくつも並ぶ。
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少し南下すると、明治神宮東池からの川跡の路地が現れる。東池からの流れは暗渠化時に別ルートに流されるなど大幅に改変されていて、川跡がはっきりとわかるのは竹下通り以南からとなる。
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明治通りを越えた先にも路地となって残っている。
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最後に、飴屋橋で南にわかれた支流界隈を。

この支流の痕跡は明治通りの開通によって大部分が消滅してしまったようで、はっきりしない。穩田商店街など、暗渠のような雰囲気の路地はいくつかあって、それぞれ風情がある。下の写真はそれらの路地の一つ。道の中央にコーンが置かれている。私道だろうか。コーンの先には道の真中に雨水枡があった。
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渋谷川暗渠のY字路。支流はこの近辺で左側から渋谷川に合流していた。写真右側が渋谷川の暗渠だ。左側に別れる道もやや怪しいが、川跡かどうかは不明。
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渋谷川の暗渠を少し下った地点にある、有名な戦前の消火用給水孔。東京府の紋章が見える。この場所には「八千代橋」が架かっていて、1960年代の暗渠化後も橋の構造が残っているが、給水孔はその橋の上に2ヶ所ある。川沿いから水を取るのが困難で、欄干越しだとホースが折れてしまうので橋上に設置したのだろうか。
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他にもいくつか紹介したい場所があるが、本編よりも写真の枚数が多くなってしまったので、この辺で終わりとしておこう。
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by tokyoriver | 2011-09-23 10:40 | 渋谷川とその支流 | Comments(2)
北沢川桜上水支流(仮称)について、今まで桜上水駅の東側の支流と西側の支流を辿り、いちばん最初の北沢分水(上北沢分水)のルートとの関係を探って来たが、最後にふたつの支流があわさってから北沢川に合流するまでを辿って終わりにしよう。

桜上水駅の東側と西側から来た2つの流れ(の暗渠)は、区立松沢中学校の南西角で合流し、日大文理学部グラウンドの北側にそって歩道となりしばらく東進する。写真手前から横断歩道のところを渡り左へと続く歩道が流路跡。
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歩道はすぐに無くなり、暗渠は南に折れて、日大グラウンドと都立松原高校の間を南下する。
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左側が松原高校の敷地、右の緑の塀の向こうが日大グラウンドだ。暗渠は微妙にジグザグに曲がっている。
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途中で向きを南東に変え、下高井戸駅前からの道へ至る。この辺りは学校敷地の増設で流路を改変されている。
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暗渠は下高井戸駅前からの道に出ると、道沿いにコンクリート蓋暗渠となって南西に流れていく。暗渠沿いは桜並木となっていて、春には花吹雪のトンネルとなる。
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見かけは隙間なくぴったりと蓋が並べられているが、歩くとゴトゴトと音がする。ところどころに、世田谷区の暗渠でお馴染みの四角い点検口が設けられている。
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しばらく進んで上流方向を振り返ってみたところ。うさぎねこさんのブログ「ここには昔、川があった」では、この辺りが開渠だったころ貴重な写真が紹介されている。そこに写っている護岸と下の写真にうつる護岸は同じものだろうか。
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画面右奥から下って来たコンクリート蓋暗渠の区間は、日大グラウンドの南端の角で終る。ここで左側(北西側)から北沢分水上堀が合流していた時期があったようだ。グラウンドの辺りはかつて広大な水田地帯で、北沢川/北沢分水の流れはその中を幾筋にも分かれて流れていたようだ。
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川跡は普通のアスファルト舗装の歩道となり、曲がりくねりながら南西へと下っていく。右は日大櫻丘高校、左は日大文理学部の敷地だ。左岸側の段差は、谷戸の谷底に面した斜面の名残だろう。
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流路は日大櫻丘高校の敷地を南側に回り込んだ後、直角に曲がる。左の車止めのある歩道が暗渠の道。
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南に向う下流の方向を眺めてみる。まっすぐ一直線。
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振り返ると、柵で閉ざされた空間が見える。さきほどからの流れは写真右手からきているのだが、ここで北沢分水の分流が合流していたようだ。ちなみに十数メートル西には北沢川本流の暗渠が並行している。
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まっすぐの暗渠を進むと、弁天橋と書かれた石柱に出くわす。その先は遊歩道となっている。
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弁天橋から振り返ってみたところ。奥の柵が2枚前の写真の場所だ。北沢川はこ左手から流れて来て、ここで桜上水支流を合わせている。ここの少し手前では北沢分水水車堀が合流していて、かつては水路の集積する場所だったようだ。
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弁天橋の石柱の傍らには、北沢川左内弁財天の祠が祀られている。背後の木立のあたりにはかつて「弁天池」があり、そそのほとりにあった弁財天は鈴木佐内家の屋敷神だったという。鈴木家は16世紀後半に上北沢に居を構え、北沢分水の開設にあたっても尽力を尽くすなど、地域の有力者として活躍したようだ。当主は代々左内を名乗った。弁天橋の北西にある早苗保育園、緑丘中学校のあたりにその屋敷があったという。そして何度か記したように、この辺りから西側の微高地にかけてが、上北沢村の中心地だった。
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そして、この左内弁財天にはいくつかのバリエーションのある縁起が伝承されている。傍らの解説板に記されているのは以下のとおり。

     *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
井の頭池に遊びにいったところ池の龍神に見初められた。龍神は若者に姿を変え、娘の前に現れた。2人は逢瀬を重ねたが、ある日若者が、自分は龍神であることを告げる。娘は龍神に嫁ぐことを決心するが、病に伏せる。日増しに容態の悪化する娘を心配した父母は娘を井の頭池に連れて行くと、娘は池に身を投げてしまう。すると水面に巨大な蛇が現れて水の中に消えていった。それ以来鈴木家は弁財天を祀るようになった。
     *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

白蛇に姿を変えた娘がこの場所にあった池に戻って来たため弁財天を祀ったというバリエーションもある。また、以下のような伝承もあるという。

     *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
鈴木家の娘が突然姿を消したのち、ある晩家の外から、鈴木家と村を守るために井の頭池の主に嫁いだとの声が聞こえる。戸を開けると草木をなぎ倒す一筋の道ができていた。辿っていくと井の頭池まで続いていたため、弁財天を祀った。
     *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

この伝承の背景には、井の頭池の南側から久我山にかけての土地の有力者であった秦氏と鈴木家との密接な関係があるようだ。大陸からの渡来人であった秦氏は北沢分水の上流域の管理も担ってたといわれ、また、実際に鈴木家の娘が2代に渡って嫁いでいるという。とある地域史家は、そもそも玉川上水が開通する以前、秦氏と鈴木家の手により、井の頭池から現在の玉川上水〜北沢分水上堀〜江下山堀を通る用水路が開削されていて、玉川上水の井の頭から高井戸の区間はその流路を流用したという説を唱えている。井の頭池と、玉川上水の通る台地の上との標高差を考えると俄には信じがたい説だが、いずれにせよ北沢分水の上流と下流に位置する久我山と上北沢とはただならぬ関係にあったようだ。

(段彩図は、数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)
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かつての弁財天は戦災で焼失し、弁天池も1979年には完全に埋め立てられたが、その際にかつての周囲の風景を偲んで再建されたのが、この弁財天の祠だ。現在祠の中には井の頭の弁財天の他、厳島神社、銭洗弁天のお札が祀られているという。

幾筋もの流れを合わせた北沢川は、ここから南東の経堂方向へと流れていた。かつて川沿いに一面に続いていた水田は埋め立てられて経堂赤堤通り団地となり、暗渠化された北沢川は緑道となって、親水施設のせせらぎがさらさらと流れていた。
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以上で、北沢川桜上水支流のシリーズは終わり。次回は、前回にふれたように、上北沢駅付近を流れる「上北沢分水」ルートのもうひとつの候補と目される支流をとりあげてみよう。
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by tokyoriver | 2011-04-18 23:17 | 北沢川とその支流 | Comments(4)
中野区大和町の2つの妙正寺川支流跡を辿る2回目は、大和町4丁目の蓮華寺にある湧水池から流れ出ていた支流を、源流側から辿ってみる。地図については前回の記事を。

前回とりあげた大和街3丁目支流(仮)の上流端から西へ400mほど行くと、蓮華寺支流(仮称)の水源である蓮華寺の池に辿り着く。蓮華寺の正式名は「泉光山蓮華寺」。日蓮宗の寺院だ。1658(万治元)年に現在の文京区関口台にて創建され、1908(明治41)年に現在地に移転してきた。西に1.4kmほど離れた、妙正寺川本天沼支流(仮)の上流部にもまったく別の「蓮華寺」があり、境内には小さな池もあるが、こちらの蓮華寺の池はちょっとした谷頭に位置し、東京都の湧水台帳にも掲載されているれっきとした湧水池だ。池は寺が移転してくる前からあり、灌漑用に利用されていたという。
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池の南側に立つと水面までの距離がけっこうあり、谷頭になっていることがわかる。中島もある。この奥、北側からかつて川が流れ出ていた。
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流路跡の暗渠は住宅地と蓮華寺の墓地の境界線を北上している。蓮華寺の北東でその暗渠を見ることができるが、柵が設けられていて入ることができない。
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奥を覗いてみると、未舗装の暗渠が池の方から続いている。街灯があるところをみると、以前は通れたのではないだろうか。
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柵より北側は、いかにもな暗渠道となっていて、こちらは通り抜けできる。車止めが独特だ。そして、意外に下り坂となっていて、かつての流れの速さを想像させる。
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大谷石の護岸は水路があったころのものだろうか。古い住宅地図などを見る限り、1970年代半ばまでは開渠だったようだ。
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郊外にありそうな、独特な屋根のかたちをした、古い木造の洋風家屋があった。
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微妙な曲がり具合と路面近くの護岸が雰囲気を出している。
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わずか100mほど北上したところで、暗渠道は東西に走る幅広の道に合流する。
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かつてはこの道を斜めに横切り、妙正寺川へと合流する流れの他、道に沿って東に流れ、前回とりあげた大和町3丁目からの流れに合流する分流もあったようだ。車道よりも幅広の歩道はおそらくその分流の痕跡だ。
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幅広の歩道は中野区立大和小学校の門につきあたって消滅する。かつて水路はこの先、小学校の敷地を貫いて更に東へと続いていた。
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本流の方は、庵許可されたのは1970年代半ばとさほど昔ではないにもかかわらず、区画整理により全く痕跡を留めていない。大和小学校の北側を流れる妙正寺川に口をあける四角い合流口だけがその名残だ。
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合流口近辺の妙正寺川。見事なS字カーブは美しいがコンクリートの3面張り水路には、むしろ暗渠よりも哀しさを感じる。下流部で行われて来た大規模な改修工事は、まだここまでは及んでいない。上流部だけでも、もう少しまともな姿にならないものだろうか。
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蓮華寺支流合流地点の少し上流側には、このような柵付きの合流口もある。これは鷺ノ宮駅付近で分流し、妙正寺川右岸を流れて来たあげ堀(傍流)の合流口だ。こちらの暗渠/流路跡を辿って鷺ノ宮駅から帰路についた。
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余談だが、前回、今回ととりあげた2つの川が流れていた中野区大和町、文字面からみると由緒ありそうな地名だが、実は比較的あたらしく、しかも土地とはあまり関係のない地名だそうだ。一帯はもともと上沼袋村から野方村へと変遷を辿ったが、字名は大場だった。1933(昭和9)年に地名を改称した際に、その字名「だいば」と音読み「だいわ」が似ていることも考慮し、当時のご時世も反映して日本を意味する「大和(やまと)」を採用したという。1965(昭和40)年の住居表示法施行時にも生き残り、現在も大和町となっている。
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by tokyoriver | 2011-03-04 12:44 | 妙正寺川とその支流 | Comments(2)
落合川を下って行く第3回目は、地蔵橋旧流路の合流地点から、西武池袋線の線路を潜る地点、下の地図でオレンジ色の線で挟まれた区間をとりあげる(地図はgoogle mapのキャプチャから。画面のはめ込みができないので、実際のプロット図はこちらのリンク先を)。
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前回の最後の写真に映っている神明橋下流側の地点で、右岸(南)側から合流する流れがみられる。綺麗な水が落合川へと注ぎ込んでいる。
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流れ出して来る方向を見ると公園となっていて、その下を暗渠で流れてるようだ。公園を抜けると、ちょっとし窪地となったところに、ちいさな澄んだ池があった。ひょうたん池と呼ばれる池の端からは、それなりの量の水が流れ出していて、湧水地点は見えないが、どこかで湧き出しているようだ。
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池から更に南側の崖下に行ってみると、もうひとつ更に小さな池があった。こちらも澄んだ水をたたえる湧水池で、水が排水口へと流れ込んでいる。弧の水がひょうたん池に注いでいるのだろう。
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池からの水が合流する地点のすぐ下流では、再び左岸(北)側に水路が分かれている。こちらも改修前の旧水路だ。川の水は手前でほぼ同じくらいの量で旧水路と新水路の二手に別れている。
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川は水の中も外も緑で溢れている。この環境を保全するために、新水路が完成したのちも、こちらの水路はそのまま残されている。
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一応河川敷の外側に護岸がつくられているのだが、河川敷の中は緑に埋もれ、その中を流れる流路は自然なフォルムを見せている。
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数百メートルほどで、旧水路は再び新水路に合流する。このあたりでも、かんたんに水面に近づけるようになっている。
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水の中、河川敷、奥に見える氷川神社の森と、様々な緑がうねるように目に飛び込んで来る様はゴッホの絵のタッチのようだ。
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水の中には水草が流れに身を任せている。河川敷には都心ではあまりみかけないようなトンボが飛び交っていて、オニヤンマが空を横切り、蝶のように羽根を羽ばたかせるトンボが、水面から突き出た水草に羽根を休めていた。調べたところでは「クロハトンボ」のようだ。この写真ではわかりにくいが、胴体は青っぽい色をしていた。
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氷川神社の森の北側は、自然のままの河畔林が残っていて、水面にせり出している。全く手つかずの河岸が残っているのはここだけだという。
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その少し下流側、毘沙門橋の手前では、「南沢湧水群」を水源とする流れが合流している。東京都の名水57選に選ばれ、落合川を含めて「環境省の平成の名水百選」にも入っているこの湧水群については次回紹介したい。
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落合川は南沢湧水群からの水の合流で更に水量を増し、中流域といった雰囲気となる。毘沙門橋の下流側に設けられた堰のところには渕となっており、川岸から降りられるようになっていて、昨年初夏に訪れた時には、小学生たちが水着で川に入っていた。都心の川では絶対に見られない風景だ。
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目に優しい緑のなかを緩やかにカーブしていく。こちらも昨年初夏の風景。
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蛇行の跡を緑地にした「いこいの水辺」のあたりには、写真のような看板が出ていた。「川に入るな」ではなく、入る際に気をつけることが書いてあるのがよい。
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落合川や黒目川にはあちこちにカモの姿が見られた。特に初夏はカルガモが多く、このようにヒナの姿も見られた。
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西武池袋線の線路を越える手前では再び堰が。堰の右側からは蛇行跡の暗渠の土管から水が流れ出している。どこかで湧き出しているのだろうか。
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堰の下の渕は魚がかなりいるようで、釣り人の姿や、魚を狙うシロサギの姿も見られる。
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落合川は堰の先で、竹林公園の湧水(こちらも「東京の名湧水57選」に選ばれている)を水源とするこぶし沢の流れを合流し(こちらは次々回に紹介する)、西武池袋線の線路を潜って更に北東へと流れて行く。水流にゆらめく水草の緑が美しい。ここまでで源流地点から約2.5km、標高にして15mほど下って来た。次回は少し上流に戻って、南沢の湧水群を見てみよう。(つづく)
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by tokyoriver | 2010-10-30 23:28 | 黒目川・落合川とその支流 | Comments(0)

古戸越川(1)

古戸越川は、品川区豊町の戸越公園の池にその流れを発し、西品川1-10で、戸越銀座通り~三ツ木通りに沿って西から東へと流れていた川に合流する1kmちょっとの小さな川だ。合流した後は、さらに品川用水の末流をあわせ、東海道線と山手線が分岐する付近、広町1-2で目黒川に注いでいた。古戸越は「ことごえ」と読むそうで、近くの地名「戸越」ももともとは「とごえ」と読んでいたそうだ。ちなみに古戸越川の流路は戸越にはない。

下の段彩図で図の中央下側をU字型に流れている青いラインが古戸越川、左から右に横切り、古戸越川と合流して上にあがり目黒川(右上の太い青線)に合流している青いラインが戸越銀座を流れていた川だ。地形を見るとわかるように、古戸越川は小さいがはっきりとした谷を流れていて、もともと自然河川だったようだ。戸越公園の池と、その北にある国文学資料館の池には、現在でもわずかではあるが湧水が残っているという。
そして江戸時代前期には、その谷の谷頭を囲むように細川家の下屋敷がつくられた。上の地図を中央を見ると、戸越公園近辺を回り込むように道路が下向きのコの字型に曲がっているが、ちょうどこの「コ」が細川家の屋敷の輪郭だった。「コ」の中には戸越公園、大崎高校、戸越小学校といった施設が含まれており、現在戸越公園となっているのはその5分の1ほどの面積にしか過ぎない。
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(google earth経由「東京地形地図」の段彩図をキャプチャ)
谷頭には庭園がつくられ池が設けられた。湧水だけでは庭園の泉水をまかなえなかったのか、この屋敷の水利のために1663年、玉川上水から分水した戸越上水が引かれた。わざわざ庭園のためだけに、現在の中央線三鷹駅付近から、遠路はるばるここまで分水がひかれたわけだが、この戸越上水は数年後にいったん廃止された後、品川用水となって、品川区内の田畑を潤すこととなる。上の図の水色のラインが品川用水とその分流だ。尾根筋を通されているのがわかるだろう。庭園はその後三井家の所有となったのち、1935年に戸越公園として開放された。

古戸越川が暗渠化された時期はさだかではないが、その痕跡はほぼ全流域にわたって現在でも残っている。大井町線下神明駅の前に残る「古戸越橋」の欄干は一度記事にしたが、今回、次回と流域全体をあらためて取り上げたい。

今回は源流の戸越公園から、「古戸越橋」までの区間。この区間は都道補助26号線の予定地に重なり、現在工事が進行中だ(ちなみにこの道路は中野通りの延長線上にあり、井の頭線池ノ上駅東側の、北沢川溝が谷支流もつぶして通る予定となっている)。


戸越公園の池には、西側から渓流が注いでいる。もちろん庭園の造園時に人工的につくられたものだ。池の主水源は水道水だというが、この渓流がすべて水道水なのか、現在でもわずかに残る湧水(1990年調査で1日5立方m)が混ざっているのかは不明だ。戸越公園の北側の国文学資料館の池にも湧水が残っているというが(1990年調査で1日20立方m)、そちらの水の導水もあったりするのだろうか。
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池。この日は大雨の直後で濁っていた。
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公園の南東から、暗渠が始まる。東急大井町線のガードを潜る直前には大径マンホールがある。ちなみに、潜ったすぐ先にも同じような大径マンホールがある。
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ガードの南側は都道の予定地となっていて柵に囲まれており、暗渠もルートを変えられ、地上の痕跡はなくなってしまっている。しかし、しばらく東に進むと、まだ暗渠が残っている区間が現れる。雑草が生い茂り、荒廃感が漂っている。奥に見えるのは東海道新幹線の高架だ。その下には横須賀線が走っている。
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路上にぽつぽつと見える赤い点々はヘビイチゴの実。
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写真右側は、工事が始まる前は普通の住宅地だったようだ。当時は暗渠も生活路として使われていただろうから、これほど荒れていなかったのではないか。
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大谷石の擁壁に突き出す、古そうな陶管。
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新幹線と横須賀線/湘南新宿ライン、そして東急大井町線が交差する下を抜けると、川跡は曲がりくねった路地となる。
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しばらく進んで行くと、古戸越橋の欄干のところに出る。昭和8年に架けられた橋は、周囲の風景が変わっていく中、そのままの姿で佇んでいる。
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橋の下流側には、かつての護岸らしき石積みを緑が被っている。
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by tokyoriver | 2010-06-02 00:20 | 目黒川とその支流 | Comments(8)
※今回は本文については2005年版の記事をベースに加筆修正しています。

六本木6丁目の南側、現在六本木ヒルズレジデンスが建っている一帯は、旧町名でいうと北日下窪町と麻布宮村町の境目にあたる。かつてこの一帯は谷底となっていて、湧水が各所でわき出し、細流が流れ出していた。再開発で六本木ヒルズが出来る前は、テレビ朝日通りから「玄碩坂(げんせきざか)」と呼ばれる急な坂が谷底まで下っていた。写真は1997年の玄碩坂の様子。
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周囲の地形は六本木ヒルズの造成で、跡形もなく改変され、玄碩坂が通っていたルートとだいたい同じ位置に「さくら坂」が通っている。坂の傾斜を緩やかにするためか、かなり盛り土がされているようだ。
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坂の西側~南側は急な斜面となっていて古い家屋が並び、風情のある石段がいくつか、宮村町の丘の上から下っていた。坂沿いの家や路地、駐車場にはあちこちに猫が見られた。これらの猫たちはどこに行ってしまったのだろう。写真は階段のひとつ(1997年撮影)。
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かつての風景のほとんどが失われた中で、さくら坂公園の西側の斜面に、下半分が埋まった階段が遺跡のようにひっそりと残っている。ブラタモリ最終回でも取り上げられていた。
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c0163001_00483.jpg坂沿いの一帯は字藪下と呼ばれていた。江戸時代より湧水による池が点在し、「岡場所」(私娼窟)があったという。かなり悪質なものだったらしく江戸後期、天保10年(1839年)にはぼったくられた久留米藩士達が取り壊しを行い、以後岡場所はなくなったというエピソードが残されている。一方入れ替わるように、江戸後期から下級武士たちの副業として、湧水池を利用した金魚養殖が始まった。明治初期の地図にはあちこちに湧水を利用した金魚の池が描かれている。左の地図は五千分の1地形図「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍(明治16年)」より。その下は現在の同じエリアをgooglemapから。

岡本かの子の1937年の短編「金魚撩乱」では、冒頭に界隈の風景が描写されている。

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「崖の根を固めている一帯の竹藪の蔭から、じめじめした草叢があって、晩咲きの桜草や、早咲きの金蓮花が、小さい流れの岸まで、まだらに咲き続いている。小流れは谷窪から湧く自然の水で、復一のような金魚飼育商にとっては、第一に稼業の拠りどころにもなるものだった。その水を岐にひいて、七つ八つの金魚池があった。池は葭簾で覆ったのもあり、露出したのもあった。逞ましい水音を立てて、崖とは反対の道路の石垣の下を大溝が流れている。これは市中の汚水を集めて濁っている。」(「金魚撩乱」より)

再開発のときまで残っていた金魚店「原安太郎商店」は、ちょうど岡場所が取り壊された翌年の天保11年(1840年)創業で、「はらきんの釣り堀」として親しまれていた。金魚屋の主人は現在ヒルズに建つ高層マンションに住んでいるという。写真はかつて通り沿いに掲げられていたはらきんの看板。

はらきんの向かいの谷の南側斜面は、木の茂る大谷石の擁壁となっていて、崖下には湧水が流れ、側溝をせき止めた水たまりには金魚が泳いでいた。1991年に港区が刊行した書籍にはその写真が掲載されている。はっぴいえんどのドラマー兼作詞家であった松本隆の1972年刊行の単行本「風のくわるてっと」に収められたエッセイに、この湧水が描写されている。

「坂を下りおわったところに養魚場がある。ここでも水は渇いた石畳に叩きつけられる驟雨の叫びに似た音であたりをいっぱいにふくらましている。都市の近代化が置き忘れていったこの一画は、砂鉄が磁石によってある一点に引き寄せられるように、水の重いしずくのさやめきに満たされている。というのは、その先に行けば、やはり水に関するエピソードにぶつかることができるからである。ちょうど苔でぬめぬめと光っている石垣の下に、「湧き水を汚さないようにしましょう」と書かれた小さな立て札がたてかけてある。おまけにその綺麗な水の中には金魚まで放し飼いになっているのだ。何と風流な。きっと近所の人が世話を焼くのだろうなどと、つい道端にしゃがみ、その中を覗きこんで時間を潰してしまう。そこには都市の偶然や錯覚を許す余地の無い人為的な神秘がある。」(「ピーター・パンの街」より)

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道は六本木高校(旧城南高校)の崖下で、ほぼ平坦になる。現在は崖の反対側はヒルズの敷地となって開けているが、かつては塀に囲まれたやや殺伐とした風景だった。
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同じ場所の現在の様子。奥に見える5階建てほどのビルだけが、今も姿をとどめている。六本木高校の看板がある辺りの崖面からは、わずかであるが湧水が染み出して、道路の側溝に流れ出していた。かつて豊富だった湧水の痕跡なのだろう。
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薮下の谷が六本木交差点方面からのびる芋洗坂の谷とあわさる辺りの北側、六本木ヒルズの敷地内には、「毛利庭園」がある。かつてこの場所は窪地となっていて湧水池があった。江戸期には毛利家上屋敷となっていて、1702年には赤穂浪士のうち10名が預けられ、敷地内で切腹している。その後明治期には中央大学創始者の邸宅に、そして戦後はニッカウヰスキー東京工場の敷地となった。この時代に池は「ニッカ池」と呼ばれるようになり、1977年にテレビ朝日の敷地となったのちもニッカ池と呼ばれ続けていたが、近年では湧水はほとんど枯れていたようだ。六本木ヒルズが造成された際、ニッカ池は防護シートで覆われて「埋土保存」され、その上に新たにつくられたのが現在の毛利庭園の池だ。この池からの流れは特になかったようだ。
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薮下の湧水や養魚池、六本木方面からの谷やニッカ池のあたりの窪地からの水を集めた流れは、麻布十番を東に流れていた。現在も路地裏となって水路敷が残っている。ゴミがあったりしてだいぶ荒れた感じであはあるが、まぎれもなく川の跡である。古川(渋谷川)の下流域の別名として赤羽川という呼び名があるが、資料によってはこの麻布十番の流れを赤羽川と呼んでいる。
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流路は更に、先にとりあげたがま池(→こちらの記事)や宮村町からの流れ(→こちらの記事)もあわせて流れていた。流路の両岸はかつては「宮下町」という町名だった。現在の「麻布十番」という地名は江戸期の古川の拡張工事時のエピソードに由来する。
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流路跡の暗渠は途中でなくなってしまうが、旧宮下町と旧新網町の境目からはクランチ状( ̄|_型)に曲がって、以東は十番商店街の南側に沿っていわゆるドブ板状となっていながれており、昭和の初期には暗渠化されたという。ちょうど写真の歩道のところをかつて川が流れていた。
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麻布十番稲荷の敷地内の片隅には、麻布十番商店街の流路に架かっていた「網代橋」の欄干の柱石が特に説明もなく放置されている。境内にはがま池からの流れの項で紹介したガマガエルの伝承にちなむカエルの石像もある。写真は05年撮影だが、現在柱石の前には柱や柵が出来、ますますその存在は隅へと追いやられている。
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水路は一の橋のたもとで古川に合流していた。江戸時代には、橋のたもとから麻布十番商店街の方に向かって船運用の堀留があった。明治にはこの堀留は埋められたようだが、川の暗渠の方は現在でもその口を古川の護岸に開いている。断面がかまぼこ型をしており、昭和初期の暗渠化時の姿をとどめていると思われる。このあたりは感潮域で、満ち潮の時には暗渠内まで水が入り込んでいる。暗渠の口の横の護岸からは、湧水が染み出している。すぐ上は一の橋公園だ。
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「一の橋公園」の場所には、戦前までは銭湯「一の橋湯」と活動写真館「福宝館」があった。一の橋湯の前には水が吹き上げる井戸があって名水として知られ、銭湯にもこの水を使っていたという。現在公園には湧水を利用した噴水があるが、この自噴の井戸と同じ水源なのかもしれない。なお、2010年3月より、古川の川筋の地下に、洪水用の遊水地を建設する大規模な工事が始まり、一の橋公園は今後数年間、工事現場となり、立ち入ることができなくなっってしまった。噴水の湧水は工事で枯れてしまうのだろうか。
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by tokyoriver | 2010-03-31 00:15 | 渋谷川とその支流 | Comments(6)