東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver
2015年10月3日に発売の月刊誌「東京人」11月号は、「東京「地理」散歩」と題した、東京の地理にスポットをあてた特集となっています。錚々たる執筆陣に混ざって、私も実践編として暗渠探索記事を書かせていただきました。題材は、西東京市を流れていた白子川の幻の源流「シマッポ」こと新川、大泉堀の暗渠と、その水源の地下水堆、地下水瀑布線についてです。

新川、大泉堀については、それらの支流も含めて5年前にこちらの「東京の水」にて全7回の記事にしていますが(記事はこちら)、今回は、地理特集ということで地理的側面に特に焦点をあて、ブログの記事化後新たに入手した情報・資料に基づく考察や、ブログでは紹介しなかったスポットなどを追加し、6ページの記事にまとめています。カシミール3Dを利用した、綺麗な段彩図、吉村信吉の論文からの図版も掲載することが出来、充実した記事に仕上がったかと思います。

東京人は創刊30年ほどとなる、老舗の地域雑誌で、近所の図書館においてあったことから初期の頃から読んでいました。そんな中高時代からの愛読誌に寄稿するのは何だか感慨深いといえば感慨深いです。
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ちなみにこちらは、本文中で引用・紹介した吉村信吉の著書「地下水」(1942年、河出書房刊)です。この本を記した時、吉村は35歳。気鋭の湖沼学者でした。本文には専門的な記述に混じって随所に詩的な表現や、和歌の引用などがあり、独特のムードを漂わせています。そして目に見えない地下水を求めて武蔵野台地の井戸調査を遂行していくその姿は、暗渠を追うものにとってどこか親近感を抱かせる面があるように思えます。
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現在都内を中心に書店店頭に並んでいるかと思います。ぜひ御覧ください。

東京人 2015年 11 月号 (amazon)
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by tokyoriver | 2015-10-06 23:16 | お知らせ | Comments(0)
狛江市南部一帯から世田谷区西南部、駅でいうと小田急線狛江駅から和泉多摩川駅の周囲とその南東側にかけてのエリアは、かつて清水川/岩戸川や宇奈根川/町田川と呼ばれる川やそれらから分かれていた水路が複雑に絡み合っていて、今でも多くの川跡・暗渠があちこちに残っている。このエリアの川跡・暗渠を辿り出すとそこはまさに迷宮だ。たどっているあいだにぐるっとまわって元の場所に戻ったりするし、どこかルートを定めて辿ろうとおもっても、あちこちに断続的に水路跡の空き地が残っていたりしてなかなか先に進めない。

普通なら宅地化が徐々に進み、主要な水路以外が埋め立てられたり主要な水路がより直線的に改修され、その後で暗渠化されるといったような何十年かかけた段階的なステップを辿りそうなものだが、このエリアは、水路に手を加える前に一気に宅地化と水路の廃止がおこったかのような様相となっている。

現在残存している暗渠・川跡や、古地図等から明確に川跡と判断できる道路に対して水路をプロットしたのが下の段彩図(カシミール3D経由の基盤地図にプロット)。網の目のように水路が絡みあい、何がなんだかよくわからない。戦前の地籍図を見ると、さらにたくさんの水路が描かれている。
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今回から何回かにわけて(断続的になるかもしれないが)、このエリアのうち主に狛江市内の川跡・暗渠を取り上げてみようと思う。まずさしあたって、上の水路図ではわけがわからないので、資料をもとにそれらの系統を推測し、色分けしてみたのが下の地図。わかりやすいよう主要な水路に絞って記してみた(多摩川、根川、野川以外はすべて現在暗渠もしくは川跡)。
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このエリアの川は「清水川」「岩戸川」とその支流として語られることが多いが、実は「六郷用水」からの分水が大きな位置を占めている。シリーズ「深大寺用水と入間川を紐解く」第16回でふれたように、六郷用水は1611(慶長16)年に開通し、1960年代から70年台初頭にかけて埋立て・暗渠化されるまでの間、多摩川の水を現在の世田谷・大田区方面に送り続けていた。

六郷用水はその名の通り、当初は六郷領のみに水利権があり、途中の世田谷領では1726(亨保11)年にようやく利用できるようになった。だが狛江では取水口があったためなのか、あるいは野川の流れが六郷用水で分断されたためなのか、開通直後から分水が引かれていたようだ。狛江市内の分水は大きく分けて3つあった。
まず「岩戸用水/岩戸川」。小田急線線路の南、駄倉保育園近辺で六郷用水から分岐した用水路は幾筋にも分かれて岩戸地区の水田を潤していた。この岩戸用水〜岩戸川のルートは、深大寺用水シリーズでも触れたように、六郷用水開通以前は野川の下流だったと推測される。
つぎに「内北谷用水」。こちらは現在の狛江駅北口付近で分水し、内北谷地区の水田を潤した後、岩戸川に接続していた。
そして「猪方用水」。こちらは前の2用水より後、寛文年間(1661〜72年)の開削と伝えられる。元和泉で六郷用水より分かれ、猪方地区を灌漑したのち駒井地区に流れていった。猪方用水からは「相の田用水堀」と呼ばれた用水路もわかれていて、泉龍寺の弁財天池から流れ出す清水川に接続されていた。
「清水川」はもともとは岩戸川につながっていたが、六郷用水開通後は岩戸、猪方、和泉の3地区の境界地点から掘割を開削して南下し、駒井地区と猪方地区の灌漑に利用されていた。この掘割の区間も清水川と呼ばれていたという。流末は猪方用水の一流と合流したのち町田川へと接続されていたようだ。

さらに「三給堀(さんきょうぼり)」と呼ばれる用水路もあった。これは六郷用水からではなく根川の水を導水していた。どういうことかというと、根川の流れを六郷用水取水地点付近で掛樋で越えさせて導水したのだ。今では涸れ川となっている根川だが、当時は上流部の灌漑に使っても余るほどの湧水が流れていたという。こちらは天保年間(1830〜43年)に開削され、西河原地区の水田を潤した後、和泉玉川駅の西方で猪方用水に接続していた。

こうして見ると、清水川/岩戸川は六郷用水からの分水に組み込まれていたこと、狛江エリアでは2つの川は別物として捉えられていたことがわかる。
なお「世田谷の河川と用水」では泉龍寺弁財天池の源流から喜多見で野川に合流するまでを「清水川」、慶現寺付近から分かれたのち宇奈根地区南側を回りこんで合流する流れを「町田川(宇奈根川)」としており、また岩戸川の名称の記載はない。当然ながら地域によってそれぞれの呼び方があったのだろう。今回の記事では狛江市での呼び方に倣ってすすめていく。

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ざっと全体像を把握したところで、いよいよ実際に暗渠・川跡を辿っていこう。
まず最初にとりあげるのは狛江駅のすぐ近く、揚辻稲荷から流れ出していた小川だ。下の地図の中央から右下にかけての細い青いラインがその川だ。すぐそばの紫色のラインは清水川である。
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狛江駅南口、ロータリーの北側の飲食店が雑然と並ぶ一角を奥に入って行くと、すぐに周囲は宅地となり、その一角に揚辻稲荷神社がある。敷地は狭いもののしっかりした鳥居や参道の敷石、刈り込まれた木などからは、今でも信仰されている様子が伺われる。
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揚辻稲荷は別名「谷田部稲荷」とも呼ばれ、狛江地区の旧家である谷田部一族の祀る稲荷社だ。狛江の谷田部氏は甲斐武田家に仕えた後、16世紀後半に狛江に土着した一族であるという。
社殿の裏側に回りこむと、かつての湧水池が石垣に囲まれた窪地となって残っている。
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現在はまったく涸れ果てているが、1960年代初頭までは滾々と水が湧き出していたという。狛江駅北側、泉龍寺の弁財天池からは200m足らず。同じ水脈だったのだろうか。社殿の裏手から湧水に降りる階段も設けられている。いわゆる釜のような湧水だったのだろうか。
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東側には川の流れ出していた跡も残っている。水路の幅は1.5mほどだったといい、農業用水として利用されていた。
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とても通り抜けられる様子ではないので、反対側に回りこむ。川跡の草叢が続いている。灌漑に利用されるようになってからは、水路はここで直角に左側の路地の方に折れていた。左手前の白いブロック塀の辺りには戦前には洗い場が設けられていたそうだ。
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その路地の入口には、水門の跡のような構造物がある。この辺りの水路跡を探索した人にはわりと知られている物件だが、半ばアスファルトに埋もれた部分はともかく上側のブロック塀に設けられている溝は何なのだろうか。
路地の突き当りは清水川の暗渠が右から左に流れている。
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突き当り左(東)側にぽっかりと現れる水路敷の風景。一見かなり幅広の川が流れていたように見えるが、実はここには2本の水路が並行して流れていた。
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水路のイメージを描き加えてみると、下の写真のようになる。幅の広い水路敷のうち右端を清水川が、左端を谷田部稲荷からの川が流れていた。地元では前者を「お寺の川」、後者を「お稲荷さんの川」とも呼んでいたようだ。二つの水路の間には土手が築かれていたという。
揚辻稲荷からの水は岩戸地区の灌漑に、清水川の水は岩戸地区には入らず猪方地区の灌漑に使われており、それぞれの水の用途を厳密に区分するためにこのような並行する2本の水路となったと思われる。
清水川源流の泉龍寺には駒井地区、猪方地区から毎年末に「水年貢」が納められたといい、なんと1967年までその慣習が続いたという。一方で揚辻稲荷にも稲荷講の際に岩戸地区などの湧水利用者からわずかながらやはり水年貢が献上されていたという。
この並行水路は1960年代空中写真でも確認でき、暗渠化直前まで残っていたのだろう。
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水路敷はやがて世田谷通りを越える。2本の水路を渡る橋は「溝橋」と呼ばれていた。ここから通りを150mほど北東に向かった狛江三叉路付近には、1900年に旭貯金銀行狛江支店が開業して以降、飲食店や商店、カフェ、芝居小屋が集積し「銀行町」と呼ばれる繁華街となっていた。先の揚辻稲荷は、銀行町で商いを営む人々からも信仰を集めたという。1960年代に世田谷通りが拡幅されたことで銀行町は衰退し、今ではほとんどその面影はない。
通りの先には砂利敷の道とその脇の奇妙な空き地が続いている。
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砂利道に入るとすぐに、右側に半ば埋もれた護岸つきの水路が現れる。清水川の流路だ。こちらも面白いのだが今回の主役は揚辻稲荷からの川。
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右隅に少し見えるコンクリート護岸が清水川の流路、そして左側の砂利道のところが揚辻稲荷からの川の跡となる。
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2本の川跡はゆっくりカーブを描いてその向きを南東から東に変える。下の写真は途中で振り返った様子。左側の茂みと草地の境目に清水川の空堀が窪地となって残っている。2本の水路に挟まれた草地のところはかつては水田だった。今でも何となくその姿が想像できる。
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こちらは空き地の終点付近。この辺りでは2本の川はかなり接近していた。右側に続く浅い窪みが清水川の跡だが、左側に埋もれて続いているコンクリートの構造物は揚辻稲荷からの川の護岸跡だろうか。
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空き地を抜けた地点。車止めのところを左右に抜ける道はかつての大山道だ。ここには
2本の水路に橋が連続して架かっていて「二つ橋」と呼ばれていたという。
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ここから先は、緑道となった暗渠が始まる。現在残る痕跡からは、清水川がこの暗渠につながっていたように見えるが、実際にこの暗渠の方に流れていたのは揚辻稲荷からの川の方だ。
清水川はここで南に向きを変え、南側の微高地を掘割で猪方の低地に抜けていた。写真右の車が止まっている道のところにかつてその掘割が通っていたのだが、現在は完全に埋め立てられて全くわからない状態になっている。
揚辻稲荷からの川跡は、緑道に入ってすぐに、左側から来る岩戸用水の分流+内北谷用水からの余水を受けた流れの暗渠に合流して終りとなる。
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最後に復習の地図を載せて今回の記事は終了。
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狛江の暗渠・川跡の全てを取り上げるのはまず不可能なので、こんな感じで次回以降もポイントをしぼって紹介していきたい。参考文献はどこかのタイミングでまとめて記すことにする。

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-06-27 23:45 | 野川とその支流 | Comments(2)
半年近く続けてきた「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズもいよいよ終盤。これから3回にわけて、入間川の中流部から野川合流地点まで、そして更に、野川で分断されたかつての下流部をたどっていく。長々と続けてきてだいぶ飽きられているような気もするが、もう少しだけお付き合いを。文章少な目でお送りしたい。

まずは全体地図を(google mapよりキャプチャ)。図の中央を左上から右下に流れる赤紫色のラインが入間川だ。甲州街道以南から、野川に注ぐまでの本流の区間が開渠、それ以外は暗渠か埋め立てられている。ピンクの矢印で示したのが今回取り上げる区間だ。
緑色のラインは前回まで取り上げた仙川用水に関係する水路。地図の区間ではその大部分は深大寺用水に取り込まれている。いずれも暗渠化もしくは埋め立てられている。
入間川源流部についてはこちらの記事を、上流部については前回の記事をご参照を。
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中原の分流から甲州街道まで

入間川は、三鷹市中原1−13で仙川用水金子・大町方面ルートを分けている。今回辿るのはそれより下流側となるが、その前に中原公会堂裏の分流の暗渠だけ紹介しよう。上の地図では現在はっきり痕跡が残る区間だけを示しているため両端の接続先を記していないが、もともとは入間川沿いの水田に水を引き入れるための水路だった。住宅地の裏手、谷の斜面の縁を遊歩道となった暗渠が曲がりくねりながら抜けている。短い区間だが暗渠独特の寂しさや秘境感があり、風情がある。
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この分流が再び本流に合流するあたりが、入間川が仙川用水と分岐する地点だ。分岐の痕跡はほとんどないが、下の写真の地点では道路の幅にわずかに川の流れの名残がある。写真左奥で仙川用水を分けた川は現在道路となっているところにそって右下に向かって流れていたのだが、奥の民家の敷地に不自然に食い込む道路と、そこから並ぶマンホールが水路の名残だと思われる。
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そしてマンホールの並びが向かう方向を振り返ると、幅の広いコンクリート蓋が並ぶ暗渠が現れる。暗渠沿いのブロック塀を見るとやや下りとなっているのがわかるだろう。
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暗渠化されたのが比較的最近(80年代後半〜90年代初頭か)ということもあり、ほとんどの家々が暗渠に背を向けている。そしてそれ以前にこの暗渠上はふだんは通行禁止となっている。
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こちらは蓋暗渠の区間を下流側から眺めた様子。金網のゲートが設けられていて、普段は閉まっていて、大雨のときだけ開くという。この写真では開いているが、ロープが張られている。
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ゲートの下流側は再び「中仙川遊歩道」となる。前回の記事にも記した通り、「中仙川」は入間川の流れる三鷹市中原のかつての地名(村名)で、入間川自体は単に「用水路」や「中仙川用水」「大川」と呼ばれていたようだ。したがって「中仙川」と「仙川」の間に川として直接の関連性はない。
少し前まで川には汚水が流れ込んでいたが、現在では分流式の下水道が整備され、暗渠は雨水路の扱いとなっている。途中何ヶ所か、中に流れる水が見えるところがあるが、確かに雨水や湧水しか流れていないようだ。
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暗渠は入間川の谷の東側の崖線下を通っていく(前回取り上げた仙川用水は西側の崖線下を通っている)。かつてこの崖の近辺には、「弁天様」と呼ばれる湧水があったというが、その場所を見つけることはできなかった。他にもかつては何ヶ所か湧水があったようだが、今ではいずれも消滅している。
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甲州街道の手前で崖線の直下から離れる。道路と段差があるのは、川の護岸にそのまま蓋をしたからだろう。右の道路沿いには、かつて並行する水路が分かれていた。
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少し南下すると、西側からやや細い遊歩道が合流する。
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こちらは前回記事でとりあげた入間川のあげ堀と、狢沢からの流れが合流した水路の暗渠だ。この辺りは水路が複雑に入り組んでいるので、前回記事の地図を再掲載。丸で囲んだ辺りとなる。
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さかのぼっていくと細かく蛇行しながら前回記事ラストの地点にぶつかる。こちらも中仙川遊歩道と名付けられていて、複雑に入り組んだ暗渠・水路跡の解釈を難しくさせている。
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公式な「入間川」の区間

さて、甲州街道の南側に渡り、流域が三鷹市から調布市となると、ようやく入間川の水が再び姿を現す。公式な河川としての「入間川」はここが最上流端となる。コンクリート3面張りの味気ない水路だが、暗渠から澄んだ水が流れ出している。水量は2000年の計測では年間平均で毎秒0.005立方メートルだったという。野川中流で0.2立方メートルというから、水量は少ない。また、見た限りでは季節によってもかなり変動があるようで、浅い地下水と同様冬に少なく夏に多い傾向があるようだ。なお、水質自体は野川や仙川よりも良好だというから、やはり湧水と雨水しか流れていないのだろう。
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「入間川」の名は、これより下流域のかつての地名(村名)からとられたものだ。以前は川と地名の読み方の違いがトリビア的に言及されることが多かったが、最近統一されたようだ。下の写真の左側は2008年、右側が今年2012年のもの。上流端の標識が「いるまがわ」から「いりまがわ」に書き換えられていた。
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川沿いにはしばらく道がない。京王線の線路北側で回り込んでみると、右岸側にはかつての川沿いの風景を彷彿させる土手が残っている。この辺りから、川は谷筋の東縁から西縁へと場所を変える。つまり、右岸側が急斜面となっている。
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京王線の南側。斜面の下に見える緑色の柵が、入間川だ。谷を横切る京王線の土手をみると、逆台形状をした谷の断面がよく分かる。
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線路の下をくぐった水路は、梁が設けられた大型のハシゴ式水路となっている。
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ちなみにこの地点の東側には、前の方で取り上げた、段差のある地点から分かれる分水路の続きの痕跡が、行き止まりの路地として残っている。こちらは水田に水を引き入れるためのあげ堀で、入間川に並行して南東へながれ、実篤公園のそばで入間川に合流していた(後述)。
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住宅地の中を梁の渡された水路が続く。左岸側、先ほどのあげ堀とのあいだはかつては水田
となっていた。
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下の写真は夏期(08年6月)の撮影。水量は多く、護岸も湿気を含んだ苔が青々としている。梁の上を猫が歩いていた。
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実篤公園からの湧水

若葉町1−8付近で水路はクランク状に曲がるが、右岸側の護岸に開いた排水口から水が流れ込んでいるのが見られる。ここは本来、先ほどとりあげた京王線の南側の行き止まり水路跡から続く、水田用のあげ堀が合流していた地点だが、現在は近くにある実篤公園から流れでた湧水の流入口となっている。見かけは味気ないが、季節によってはそれなりの量の水が注いでいる。写真は夏期(08年6月)のもので、冬場はかなり水量が少なくなる。
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実篤公園はかつての武者小路実篤の旧宅を1985年に公園として開放したものだ。実篤は水の湧く土地を探してこの国分寺崖線の斜面に居を構えたという。敷地内には2つの池がある。下の写真は崖線の下の池。この池は一段高くなった場所にある池から水を引いている。池の主水源はそちらにある。
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こちらがその湧水池。「上の池」とも「にじますの池」とも呼ばれていて、1匹だけだがニジマスがすいすいと泳いでいた。そして写真奥の崖線の下から、水がわき出している。
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こちらがその湧水地点だ。崖線の斜面、ニジマスの池よりも更に少し高い地点に小さな窪地があって、そこからこんこんと水が湧き出している。近くに立ち入ることができないため水の湧く場所をはっきりと特定することはできなかったが、水は絶え間なく流れだし、ニジマスの池に注いでいた。
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湧水地点の近くからニジマスの池を見下ろす。写真左下、樹の根元のあたりで湧水が池に注いでいる。池の周りには武蔵野の雑木林が残されていて、鳥の鳴き声が長閑に響く。かつて入間川沿いにはこのような風景があちこちにひろがっていたのだろう。
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最後に今回取り上げた区間の段彩図をのせておく。本文と照らしあわせて理解の手助けになればと思う。
(googleearth経由東京地形地図に流路をプロット)

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次回は野川の合流口までと周囲に残る支流の痕跡を取り上げる。

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-05-07 23:40 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(4)
今回は東京から少し離れた、山梨県の湧水を。長野県との境界近く、八ヶ岳山麓の北杜市長坂町にある「三分一湧水」は、JR小海線甲斐小泉駅から500Mほどの場所にあり、八ヶ岳からの伏流水が湧き出す湧水だ。1985年、日本名水百選に選定されたこの湧水には、三方の村に三等分に水を分配し用水路に流す施設が設けられていて、円筒分水の原型ともいえるような、素朴な味わいのある石組はちょっとした観光名所となっている。

現在湧水一帯は公園として整備されていて、森の中から清冽な水の流れる用水路が下ってきている。
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木立の中の斜面を登っていく。用水路を流れる水は渓谷のようだ。
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しばらく進むと、平坦となった場所に、分水施設がある。縦3.6m、横4.7mの石組みの枡状の池に、奥から水が流れ込んでいて、他の三辺のそれぞれから用水路が流れ出ている。
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まずは水源を見てみよう。長方形の池の北側から流れこむやや幅広の水路の先に、窪地が見える。
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窪地の中からは水が溢れるように流れ出ている。いわゆる「釜」と呼ばれるような湧水だ。
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最奥の湧水池点。水底から湧き出した水が噴水のように盛り上がっている。1日の湧水量は8500トンほどだという。
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こうして湧き出した水が先ほどの長方形の池に流れ込んで、等配分されるわけだ。
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湧水から導かれた水は小さな滝となって池に落ちていて、その正面には三角形の石が設置されている。
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この石によって水流の勢いが二手に分かれているのがよくわかる。頂点に引っかかっている木の枝が、水流の強さを物語る。
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この石によって、池の中の水流は攪拌され、特定の水路に卓越して向かう水流が出来ることが防がれて、池の水位を超えてあふれた水がそれぞれの分水口から流れ出すようになっている。分水口の幅はいずれも61cmと同じになっているので、等量の水が流れ出るという仕掛けだ。
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この石と分水施設について、かつて戦国時代に村で水争いが起こったときに、武田信玄が湧出口の分水枡に三角石柱を立てて、水を3等分するシステムを生み出したとの伝説があったようで、観光ガイド本などでは今でも目にするのだが、実は現在ある石は1947(昭和22)年に設けられたものだ。

調べてみると、現在の分水施設の原型がつくられたのは、江戸時代中期に起こった水争いがきっかけだったようだ。そして、当初は木造の施設で、水を配分する石も普通の自然石だったという。施設が石積みのものになったのは1923(大正12)年、そして1944(昭和19)年に現在見られる施設が完成、その後戦後になってから石が三角形のものに置き換えられたという。伝説と史実とはずいぶん異なるようである。そもそも三角形の石ひとつで水を三等分することは出来ないわけで、なぜこのような伝説が生まれたのか、興味深いところだ。

最後に池から流れ出る用水路を少し紹介。まずは池から流れ出す3つの水路のうち、東側と中央の水路。
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東側の水路は、V字谷の底を流れている。もともとあった谷筋なのか、それとも人工的に掘り下げたのだろうか。
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中央の水路はしばらくは平坦な森の中をゆるやかに曲がりながら流れていて、清々しい。
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そして西側の水路には、流れだしてしばらくの地点にコンクリート護岸の区間があった。
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近寄ってみると、小さな堰が設けられていて、導水管がつながれていた。どこかに更に分水して利用しているのだろう。
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これらの用水路の水はいずれも八ヶ岳山麓に切り開かれた水田に利用されている。水温は10度ほどとかなり低いから、そのまま直接稲作に利用するには厳しいはずだが、それでも水田を切り開いた先人たちの切実さはいかほどばかりであっただろうか。

参考:「『均等分水の妙』-三分一湧水-」安斎 忠雄 「土地改良」236号(2003年刊)所収


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by tokyoriver | 2011-11-18 00:03 | その他のエリア | Comments(0)

宇田川源流の湧水池

今回は、「東京ぶらり暗渠探検」の取材時の写真から、いわば「お蔵出し」として、「宇田川」源流の湧水池を取り上げてみよう。前回に引き続き渋谷川水系の源流である。この湧水池は小田急線代々木上原駅から北東におよそ500m、渋谷区西原のとある独立行政法人の施設の敷地内にひっそりと現存している。東京の水 2005 Revisitedで記事にした当時は遠くから見ることしかできなかったのだが、2010年、「東京ぶらり暗渠探検」の記事では編集T氏のご協力により写真を掲載することができた。今回の写真はその際のもの(2010年1月撮影)と2005年の取材時(5月撮影)からセレクトしたものであり、現状とはやや異なっているかもしれないがご容赦を。

まずは段彩図で宇田川上流部を見てみよう(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。宇田川は渋谷区西部、淀橋台に枝状にいくつも分かれて刻まれた谷「代々木九十九谷」に湧き出す小川の水を集め、JR山手線渋谷駅北側で渋谷川に合流していた、渋谷川最大の支流だ。現在はそのすべてが暗渠化されいている。九十九谷北側の台地上には玉川上水が流れていて、上水を挟んで反対の北側には、いくつもの小川が流れを発し、神田川笹塚支流(和泉川)に注いでいた。玉川上水はちょうど神田川水系と渋谷川水系のの分水嶺を縫うように通されていたといえる。

宇田川源流のすぐ近くにある西原小学校校歌(1955年制定)では
「みなもと清き渋谷川/細くはあれど一筋に/つらぬき進めば末遂に/海にもいたるぞ事々に/精魂かたむけ 当たらん我らも」
と歌われている。地形や流れこむ支流の数を考えると、本来の水量は渋谷川上流(穏田川)よりもこちらのほうが多かったのではないかと考えられ、この校歌のように宇田川=渋谷川の源流と捉えられてもおかしくないだろう。宇田川の支流には唱歌「春の小川」のモデルとして知られる河骨川や、初台支流(初台川)などがあるが、宇田川本流とされる流れは九十九谷の西端、「狼谷(大上谷)」と呼ばれていたH字型の谷から発していた(図の黄色い丸枠内)。このH字の左上の支谷にあるのが、今回取り上げる水源池である。
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谷頭側の窪地を横切る道路。右側が池のある施設の敷地で、深く切れ込んだ谷となっている。奥には新宿副都心のビル群が見える。
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施設は台地上から谷の斜面にかけて建てられている。台地上から敷地南東側の谷底を望むと、木陰に池がわずかに見える。
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木々に囲まれた谷底に降りると、ひっそりと佇む細長い池がその全貌を現す。かつての狼谷は斜面を森に囲まれ、谷底は水田となっていた。そして大正~戦前にかけて一帯は森永製菓創業者の屋敷となり、湧水を利用した池が2つつくられたという。現在ある池はこの池のひとつの名残だ。
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埋め立てられてもおかしく無いような小さな池。よく今まで残ってきたものだ。
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池の東側からは水路が続いている。川のはじまりだ。
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東京都の1991年の調査では一日40立方mほどの湧水が確認されているが、水がしっかり流れ出しているところを見ると、今でも水が湧いているのだろう。
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柵越しに、隣りの別の施設内にある丸い池が見える。こちらの池も屋敷だった頃からあったものだが、だいぶ整備されている。水はいったんこの池に溜まった後、更に奥に流れ出している。奥へと続く水路が見える。
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隣接し、台地上にある代々木大山公園から、水路の先にある人工的な池を見下ろす。写真奥の木陰から出てくる水路が、前の写真奥に見えていた水路の続き。写真左下の角あたりから画面外左にかけて、森永屋敷時代、もうひとつの池があったようだ。
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池の先にも代々木上原駅方面まで深い谷が続いている。写真奥の谷底左側が人工的な池のあるあたり、そして右側に向かって谷が下っている。
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宇田川はかつてこの先、谷底を代々木上原駅方面まで下っていた。かつて西原から初台にかけての一帯は「宇陀野(うだの)」と呼ばれており、ここから流れ出る川ということで宇田川の名がついたといわれている。「宇陀」「宇田」のつく地名は全国にあり、語源にも諸説あるようだ。ここの場合は湿地帯や河川流域の湿地を意味する地名だったと思わえる。宇田川の谷を囲む斜面は昭和初期に高級住宅地「徳川山」として造成され、その際に流路は道沿いに改修されたという。現在では駅北側から始まる暗渠路地までの区間、痕跡は全く残っていない。

渋谷川水系は、渋谷駅以南の本流以外全てが暗渠化されているのに、その水源は各地で残されているのが面白い。新宿御苑然り、神宮外苑然り、初台支流の湧水然り。そして宇田川の水源もこのように人知れずひっそりと残っている。
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by tokyoriver | 2011-10-07 00:38 | 渋谷川とその支流 | Comments(4)
前回に引き続き、国分寺崖線から丸子川に流れ込む湧水起源の水路を遡ってみよう。
今回取り上げる小流は、23区内唯一の渓谷として有名な等々力渓谷のすぐ隣りの小さな谷を流れている。今回訪問した時点では、合流点では水が枯れていたものの、しっかりとした水路が残っていた。そしてこの水路は地図にも描かれていて、仙川傍流の記事の場所と同じく、前々から気になっていた場所だ。
丸子川が、等々力渓谷から出てきた谷沢川と交差する地点の少し上流側。護岸の間に渡された不思議な青いパイプの向こうに天神橋が見える。今回辿る水路は、その橋の直下で丸子川に接続されている。
ちなみに丸子川と谷沢川の交差、サイフォン式にでもなっていれば面白いのだが、現在では実際には丸子川が谷沢川の上流側と下流側に分割されていて、上流側の水は谷沢川と合流して南下し、下流側については改めて谷沢川から揚水して流している。
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天神橋のたもと、「浄音寺坂」の道に沿った真新しく丈の長いコンクリート蓋暗渠は橋の歩道と連続していて、暗渠とは気づきにくいかもしれない。
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だが、少し遡ると、古びたコンクリートの橋が、ここが暗渠であることをはっきりと主張している。自転車の先は町工場で、暗渠上は作業場所になっていた。
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坂が少し傾斜を増す地点で蓋は一旦終わり。暗渠は坂沿いを離れ、未舗装の私道と墓地に挟まれた空間へと分かれて行き、辿ることができなくなる。暗渠上の柵の中を見てみたが水が流れている様子は伺えない。
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未舗装道の脇(前の写真の中央奥の植え込みのところ)には、古そうな川本式ポンプ井戸が佇んでいた。
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暗渠から分かれた坂道を登って、フの字で水路の流れる谷筋を横切る道へ回りこんでみた。浅い窪地の底に降り立つ。
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谷底から下流側を見ると、おなじみの寂れたコンクリート蓋が並んでいた。何ヶ所か柵もあって、こちらからも侵入は出来ない模様。
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上流側を振り返ると、野菜の無人販売所の傍らに錆びた短いガードレール。その奥にはコンクリートの欄干。
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傍らに花咲くバラの刺を避けながら中を覗き込むと、コンクリート3面張りに梁を渡したおなじみハシゴ式水路があった。水は流れていないが、湿っている。
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再度コの字で上流へと回り込んでいく。先の道から1本北側の道から水路を眺めてみる。下流側は水がないが・・・
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上流側には水が流れていた。特に汚水は流れ込んでいないようだ。護岸の苔が水々しい。水路を下ってきた水は道路の下で下水か雨水菅に落とされてしまっているようだ。
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更にコの字に遡っていくと、水路の上流端らしき窪地に出た。水路は写真真中やや左寄りに見える水色の柵から左(南東)に向かって流れている。
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柵から水路を見る。右岸側につながれた雨水溝から水が流れ込んでいた。汚れてはおらず、泡だったりもしていないが、湧水なのかどうかは判断がつかない。
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道を挟んで水路の反対側を見ると、民家の前に「湧水」と刻まれた「てくたく」の石碑が立っていた。
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民家と石碑の間の、柵に囲まれた空間を覗き込んでみると、中には水が溜まっていた。もともとは近隣の洗い場だったのだろう。澄んではいるが、水面に動きはない。涸れてしまったのだろうか。
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しばらく眺めていると、洗い場の傍らの民家に暮らしているらしき人がやって来て、話しかけてきてくれた。湧水はここで湧いているわけではなく、裏手の擁壁の下に湧き出した水を、パイプでここまで引いてきていたものだという。向いの水路の水源について尋ねると、ここから溢れた水が流れ込んでいたとのお答えで、この湧水が川の水源だということになる。
そして、最近その擁壁を作り替える工事があって、それ以来湧水が止まってしまったそうだ。施工業者は、2〜3週間したらまた水が出てくるはずだと言ったけれど、まだ全然出てこないんだ・・・と仰っていたので、工事があったのは数週〜数ヶ月前くらいなのだろうか。
西側の敷地が更地になっていたので、問題の擁壁を見てみた。写真左側の灰色の真新しいコンクリートが問題の擁壁のようだ。側面には水抜きの穴が点在している。湧水の洗い場は写真右端となる。斜面を階段状に造成して住宅を立てたことがわかる。
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擁壁の背後は木が疎らに茂る斜面となっていた。googleの空中写真を見ると、数年前まで斜面の木々は鬱蒼としていて、手前の更地も邸宅になっていたようだ。今後の更地の開発次第では、擁壁工事だけではなくって、そんな環境の変化も湧水に影響を及ぼしていくかもしれない。まずは擁壁からの湧水が見込み通り復活することを祈りたい。
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最後に例のごとく段彩図を。(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)
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図中央、等々力渓谷(谷沢川)の西側の、短い青いラインが今回たどった水路だ。等高線をみると、この界隈では国分寺崖線は2段構成になっていて、上段と下段の境目から湧き出す水が水源となっていたように見える。水路の延長線上、上の段丘上には野毛大塚古墳の等高線が浮かび上がっている。そして流れが丸子川に合流する直前の東側、谷沢川との間に挟まれた丘の上にもかつて「天神山古墳」があった。源流の洗い場は、かつては近隣の農家が利用していたというが、古墳をつくった古代人たちもこの湧水を生活に利用していたのだろうか。
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by tokyoriver | 2011-07-07 23:04 | 丸子川とその支流 | Comments(6)
国分寺崖線に沿って流れる丸子川を歩いていると、世田谷区から大田区へ入る手前のあたりで、急に水質が良くなっているところがあった。
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護岸を見てみると、右岸側に合流口があって、そこからかなりの量の澄んだ水が音を立てて流れ落ちていた。
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合流地点に行き北側を見ると、住宅地の間の細い隙間にコンクリートの水路があり、結構な速さで水が流れていた。水質や川底の様子などから見て、これは湧水に違いない。一体どこから流れてきているのだろう。
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川沿いに進むことができないので、"コの字ウォーク"(lotus62@東京peelingさん命名)で上流へと遡っていく。丸子川から1本北東側の道路に行くと、緩やかなV字の谷を描いている。
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谷底には水路の続きがあった。まだ先へと辿れるようだ。
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再度"コの字ウォーク"でもう一本北東側の道へ行ってみる。先の道よりもV字谷が深くなってきた。この道は両側を田園調布雙葉学園に挟まれていて、上流にあたる側(写真右)は擁壁となっている。谷底に降りて丸子川側(写真左)の学校敷地内を覗き込んでみるが、水路らしき草むらが見えるものの良くわからない。
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このときは、上流側に擁壁があることもあり、敷地内に水源があるのだろうと判断し、追跡をやめた。だが、後から調べてみるとこの谷筋は「籠谷戸(ろうやと)」と呼ばれるすり鉢状の急峻な谷で、水源もどうやらさらに上流にあるようだということが判った。そこで、機を見て再び現地を訪れてみた。
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まずは前回の道よりさらに一本北東側の道に向かう。この道も両側が田園調布雙葉の敷地となっているのだが、上流側の敷地内に、タイルでカモフラージュされた暗渠らしき蓋の列が続いていた。
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この地点では谷の本筋は東へと向きを変えていて、北東側には枝谷が刻まれている。そちらの谷底には、あからさまなコンクリート蓋暗渠が残っていた。大き目の柵が設けられているものの、中は真っ暗で見えなかった。こちらは数十mで姿を消してしまうが、かつては枝谷の水を集めて合流していたのだろう。
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もとのカモフラージュ蓋に戻る。奥を良く見ると、延長線上に水面が光っているのが見えた。この蓋が暗渠であることは確定だ。さらに背後に山のように見える家々は、谷を囲む崖線の標高差がかなりあることを示している。
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通り抜けできそうではあるのだが、不審者と思われても面倒なので、またもや"コの字ウォーク"で、蓋暗渠の上流端側に回りこんでみる。足元の雨水枡からは音を立てて流れる水が見える。
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振り返ると、反対側には下流と同じような姿の水路があった。隙間を縫って清冽な水が流れてきている。じっくり見たいが、すぐ隣の家の犬が吠えてくるので落ち着かない。ここもまた水路沿いに進むことができないので、更なる"コの字ウォーク"が要求される。
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蓋暗渠の上流端の雨水枡には、この水路からの水のほか、右岸側からも道路脇のL字溝下の雨水用U字溝から、かなりの水が流れ込んできていた。"コの字ウォーク"がてら、こちらの水源を探ってみる。ところどころ設けられている柵から中を流れる水を確認しながら辿っていくと、吹上緑地と名付けられた猫の額ほどの緑地に出た。この緑地の前の雨水枡に、緑地側から湧水が流れ込んでいるのが確認できた。
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下の写真は少し下流側の雨水枡の様子。水が綺麗だ。
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さて、"コの字ウォーク"でたどり着いた、谷を横切る次の道はこんなに凄いV字坂となっていた。
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谷底まで降り、谷の下流方向を見てみると、護岸に沿って暗渠らしき空間があった。
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暗渠の柵を覗き込むと、水が勢いよく流れていた。隙間から差し込む陽を受けて湧水で育った植物が花を咲かせている。
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暗渠空間の奥は段差をつけながらかなり急な下りとなっている。どこか途中で水路が姿を現すのだろう。
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そして上流側はコンクリートで覆われた崖となっていた。坂の傾斜を示す「28%」と記された標識が立っていた。角度に換算すると約16度。
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崖の下、V字の谷底には2つの雨水枡が並んでいた。そして奥の枡が、水路を流れる水の水源だった。枡のの中で湧き出した水は、手前の枡に流れ込んでいた。
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手前の枡の蓋が簡単に持ち上がったので、隙間をつくって撮影。澄んできれいな水が絶え間なく注ぎ込んでいる。
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崖の先はさらに急になっていて、上り切ると台地の上に出た。籠谷戸を振り返ると、丹沢の山々、そして雲の間からはぼんやりと富士山が頭を覗かせていた。
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さて、最後に段彩図を見ながら全体像を振り返ってみよう。今回辿った流路の全長は400mほど。丸子川との合流地点は標高13mほどだが、湧水が流れ出す地点は34mと、わずかな区間で20m以上の標高差。そして湧水地点の背後の崖線上は標高45mにもなり、国分寺崖線の段丘上のなかでも一段と高くなっている。この台地は「田園調布台」と呼ばれていて新宿付近の「淀橋台」とならび、往年の多摩川が削り残した古い台地だ。
水源の湧水はその台地の下に湧き出していて、都の湧水台帳にもしっかりと掲載されていた。2006年からは大田区が毎年調査を行っていて、季節により変動するがおよそ毎分30リットル前後の水が湧き出しているという。
台地の上には「玉川浄水場」がある。取水口は東急東横線が多摩川を渡る地点の上流側に見える堰(調布取水施設)だ。水質の悪化により、1970年以降飲用水の供給を停止していて、現在は通常は工業用水を提供している。沈殿池も蓋をされたり埋められたりしているようだ。水源の湧水にここからの漏水が混じっていることも考えられなくはないのだが、水質調査のデータからは、少なくとも地下にある程度滞留した水が湧き出しているように見える。
そして水路の流れる「籠谷戸」。この谷は16世紀中ごろまで、多摩川の入り江だったという。そして、様々な物資がこの入り江を利用して荷揚げされ、現在の九品仏・浄真寺のところにあった「奥沢城」まで運ばれたという。国分寺崖線の下はもともと多摩川の氾濫原で、丸子川は六郷用水の残存水路ではあるのだが、もとを辿れば多摩川の往年の流路の一部でもある。「籠谷戸」が入り江だった頃は、多摩川が現在の丸子川の辺りまで、北に寄って流れていたということだろう。谷戸の底は長い間、水田として利用されていたようで、戦後、1970年代半ば頃までは先のカモフラージュ暗渠の脇、現在学校の敷地となっているところは釣堀となっていたようだ。いずれも谷に湧く湧水を利用していたのだろう。
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(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)

丸子川沿いには他にも湧水の流れ込む水路が数多く見られた。その中のいくつかをピックアップして、引き続き紹介していきたい。
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by tokyoriver | 2011-06-30 22:25 | 丸子川とその支流 | Comments(10)
落合川シリーズひとまずの最後は、支流「立野川」。3回目でとりあげた南沢湧水群のすぐ近く、向山緑地の崖下の湧水から発し、新落合橋で落合川に合流する全長2.4kmほどの小川だ。小さな河川だが、合流地点の人工的な姿から自然のままの源流まで、ひとつの川の姿の変遷がコンパクトに観察できる好例となっているように思える。合流地点から上流に向かって遡って行ってみよう。

下の地図でオレンジ色で囲んだところが立野川。地図右上から中央下まで辿るかたちとなる。(地図はgoogle mapのキャプチャから。画面のはめ込みができないので、実際のプロット図はこちらのリンク先を)。

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落合川との合流地点付近は、コンクリートの護岸に挟まれ、川底にもコンクリートで何やら構造物が敷かれていて、人工的な都市河川の姿をしている。水質も落合川に較べやや劣っているようだ。(合流地点の写真は前回記事を)。
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浅間神社の脇。水量は多いが、水路はコンクリート三面張りに近い姿をしている。落合川のような水草はまったくない。
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流路の西側には住宅地が川沿いぎりぎりまで迫り、東側は崖線となっていて、川沿いの道もなく、「裏側」の雰囲気。これより上流、崖が迫っていて橋を渡す先がないためか、しばらく橋が全くなく、ほとんどの区間で、川の姿を見られるのは沿岸の住民のみとなっている。
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たまたま住宅が途切れ空き地となっているところから川沿いの崖が見えた。垂直なコンクリートの擁壁の下、右から左に向け立野川が流れている。崖の真上の家々の裏側もさらに斜面になっているようで、地形図をみると崖の上の台地との標高差は8m近くにもなる。かつては川に沿ってこの空き地の幅の分が、水田になっていたようだ。
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川沿いの崖の上に張り出している家があった。この家に住んでいるひとは足下が気にならないのだろうか。
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やっと現れた橋「小沢橋」から下流方向を望む。カーブする辺りで、洗剤まじりと思われる排水が流れ込み、水面が泡立っている。はっきりと下水や排水が流れ込むのを確認できたのはここだけだ。かつては相当汚染されていたという立野川の流れ。下水道の整備で水質は劇的に改善されたというが、あと一歩といった感じだ。ちなみに今回立ち寄り忘れたのだが、右側の駐車場の奥の崖下には湧水があるそうだ。
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小沢橋の上流側からは、水質がよくなる。水面に水草が生い茂り、その中を鴨の群れが泳いでいる。奥には西武池袋線の電車が見える。池袋線の向こう側は自由学園。立野川は自由学園の中を一部暗渠で通っている。
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自由学園の西側、南立野橋から、下流方向を望む。自由学園の敷地内を流れる立野川は、下流側の姿とは一変して、自然のままの流路が保たれている。緑が目にまぶしい。自由学園では生徒による川奉行が行われ、川を保全しているそうだ。
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同じく南立野橋から上流方向。2本の土管で潜っているのは、「たての緑道」の築堤。築堤には、戦前、東久留米駅から中島航空金属田無製造所に向かう引込み線が通っていて、戦後には「ひばりが丘団地」造成時の資材運搬線としても使われたという。
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土手の西側から上流方向。梯子状護岸の水路なのだが、木で出来ているのが変わっている。
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下流に較べると水量は少ないが、流れは速い。川はずっと、崖線の下に沿って流れており、おそらく川底や川と土手の境目などからも各地で水が湧き出しているものと思われる。水中になびく水草が水質の良さを伺わせる。護岸もところどころに素朴な土止めがあるのみだ。
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さらに上流にさかのぼって行くと、とうとう申し訳程度の護岸すらなくなり、草が伸び放題の中を流れる水路となった。
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川沿いを進むことはできないので、道路を回り込んで、水源近くまで行ってみると、畑地の向こうに森に囲まれた丘陵が見えた。川はちょうど畑と森の境目を流れている。
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森の西側へと目をやると、ちょっとした谷頭の地形となっていて、、まわりを木々が囲んでいる場所が見えた。おそらくそこが源流地点なのだろう。未舗装の道がそこまで延びていたので、行ってみることにした。
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道の突き当たりの先は窪地になっていた。そして、窪地の底の地面からはひっそりと水が湧き出して、川が流れ出していた。ここがまさに川の始まり、みなもとだ。標高は51m。落合川との合流地点より10mほど高く、下流部の崖上の台地と同じくらいの高さだ。北に200mほど行けば、そこは落合川シリーズ4回目でとりあげた南沢の湧水群だ。背後の斜面の上は「向山緑地公園」。こちらの標高は60mほど。公園といっても、ただ森があるだけの場所だが、ここには縄文時代から平安時代にかけ、集落があって人々が暮らしていたという。彼らはおそらく、立野川の水源に湧く水を利用していたのだろう。
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立野川を辿った時、上流に遡るにつれ時間も遡るようなその姿から、何となく、失われてしまった川たちのことを思い浮かべた。想像するに、関東大震災後の山の手の川や、高度経済成長期前の山手線周縁部の小川はこんな姿をしていたのではないだろうか。水源地は宅地と農地が混在し、緑がまだ残り、水が湧き出て細い流れをつくっていて、中流部では沿岸は宅地化して護岸が造られ、生活排水も流れ込み、下流部では川というよりも排水路の様相を見せる、といったような。それらの川はその後下水化し、暗渠化されてしまったが、立野川は幸いにも湧水が涸れることもなく、下水も別に整備されたことで、清流をほぼ取り戻し、生き残った。ただ、立野川は落合川のように特に保護や環境保全がなされたりしているわけはなさそうで、水源そばの農地が宅地になったり、比較的自然に近い姿が保たれている上流部に改修工事がされ、涸れてしまう、といったことも今後起らないとも限らない。みなもとの水がいつまでもひっそりとそこに湧き続ければよいのだが。そんなことを考えながら帰路についた。




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by tokyoriver | 2010-11-25 00:04 | 黒目川・落合川とその支流 | Comments(4)
落合川の第5回目は、竹林公園の湧水からの流れ「こぶし沢」を落合川の合流地点まで辿り、そのまま落合川を終点の黒目川合流地点まで下っていく。下の地図、オレンジ色で囲んだエリアとなる(地図はgoogle mapのキャプチャから。画面のはめ込みができないので、実際のプロット図はこちらのリンク先を)。
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竹林公園はその名の通り、竹林に囲まれた斜面が公園となっている。斜面に設けられた遊歩道を下って行く。
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崖の下の、谷頭になっているところ、露出した石の下から水が湧き出している。標高はおよそ50mと、南沢の湧水と同じだ。距離も700mほどしか離れておらず、同じ水脈なのかもしれない。こちらの湧水も「東京都の名水57選」に選ばれている、著名な湧水だ。
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水量は多く、湧き出してすぐに渓流をかたちづくっている。右岸側は斜面の上と5mほどの標高差がある。
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湧水のすぐ近くには、こんな石祠があった。今でも丁寧に祀られているようだ。
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川に沿って遊歩道が設けられている。途中も何カ所からか水が湧き出しているのが見える。「こぶし沢」の名にふさわしい、渓谷風の風景だ。
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公園の敷地を出ると、一転して住宅地の中のコンクリート護岸の水路となる。
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とはいっても下水などは一切流れ込んでおらず、河床は自然のまま。水も澄んでいて魚が泳いでいる。
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やがて切り立った護岸の水路となり、川沿いを辿ることができなくなる。脚立が気になる。
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最下流はそのまま落合川の旧水路となっているようだ。旧水路の上流部は下の写真のように、空き地として残されていた。下流方向に進めばこぶし沢の流れとなる。
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西武池袋線の橋梁の手前で、落合川に合流する。
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ここからは落合川本流を下って行く。下の写真は西武池袋線を越えて最初の共立橋を過ぎたところで振り返ってみた様子。奥に池袋線の橋脚が見える。川面には柳が覆いかかり、土手の緑も水草も鮮やか。
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この辺りには右岸に、緩やかにカーブを描く旧流路が、そのまま三日月形の湧水池として残されている。湧水池の背後はコンクリートで固められた崖となっている。
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ここまで来るとだいぶ川幅が広くなり、しっかりとしたコンクリート護岸に柵が設けられ、水面に近づくことができなくなる。空が広い。
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新落合橋の下流側で、立野川が合流している。立野川は先の竹林公園や南沢湧水群の近くの湧水を水源とする川だ。こちらについては、次回、落合川シリーズの最終回としてとりあげるが、途中でわずかながら排水が合流しているらしく、水質は落合川よりもやや落ちるようだ。そんなせいか、合流地点には鯉がたむろしていた。ここの左岸(手前)側からは弁天川が合流しているが、現在は全区間暗渠となっていて水もほとんど流れていないようだ。
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ここを過ぎるともうすぐ黒目川との合流点だ。左岸には東久留米市のスポーツセンターがあって、その地下は増水時の遊水池となってるようだ。左岸の植え込みの下には草に隠れて遊水池へ水が流れ込む口がいくつも並んでいる。
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落合川はスポーツセンターの先で、とうとう黒目川に合流する。源流地点からおよそ3.5km、標高は38mなので、20mの標高差を下って来たこととなる。合流地点に架かる神宝大橋より下流側は埼玉県新座市だ。
ここで面白いのは落合川と黒目川で水の色が少し違っていること。これは落合川の方が水質がよいため、落合川の水が薄まるところまで、河床に生える水草が多いからということだ。
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シロサギが獲物を狙っていた。奥側の水が水草の影響で濃く見えるが、そちらに落合川から来た水が流れている。
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落合川の水を合わせた黒目川は、足早に流れて行く。ここから下流でも、暗渠を含めいくつもの支流や湧水があるようなので、いずれそちらも訪れてみたいが、今回はここで引き返すこととした。
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最後に、合流地点付近に残る旧流路をとりあげよう。この辺りでは1970年代まで、落合川も黒目川もかなり蛇行して流れていたようだ。下の写真は二つの川が合流した後の水路だったところ。今の川の姿と較べると水路は細く、しかも川岸ぎりぎりまで家が建っている。ほんとうにここにあの水量が流れていたのか疑ってしまうが、東久留米市で出している写真集を見ると、確かにこのような狭隘な水路をごうごうと流れる黒目川の姿が写っていた。
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少し上流側まで遡ると、下の写真のように水路は半ば埋め立てられ、雑草に埋もれていた。空中写真を見ると、針金をでたらめにねじ曲げたように蛇行する水路跡の敷地が見て取れる。
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次回は落合川シリーズの最後として、途中で合流している立野川を源流から落合川の合流地点まで辿ることとしよう。暗渠からしばらく離れたままで恐縮なのだが、あと1回だけおつきあい願いたい。



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by tokyoriver | 2010-11-11 00:09 | 黒目川・落合川とその支流 | Comments(0)
落合川を辿る第4回目は、南沢湧水群をとりあげる。南沢湧水群は「東京都の名水57選」や「環境省の平成の名水百選」に選定されている都内有数の湧水エリアだ。湧水の標高は50mと、南方にある三宝寺池(石神井川主水源)、妙正寺池(妙正寺川水源)、善福寺池(善福寺川水源)、井の頭池(神田川水源)と同じ標高だが、他の地点の湧水が既に枯渇し汲み上げに頼っているのに対して、ここでは谷の谷頭と斜面の下にある4カ所の湧水源から、あわせて一日1万立方メートルもの水が湧き出ている。一帯は南沢緑地として保全されており、4カ所の湧水のうち2カ所は東京都水道局南沢浄水場の敷地内となっている。

南沢湧水群を集めた小川は「沢頭流(さがしらりゅう)」とも呼ばれ、400メートルほど流れた後、第3回目の記事の最終地点より少し遡った、毘沙門橋の上流側で落合川に合流している。合流直前の区間はコンクリート護岸の味気ない流路なので、それより上流を見てみよう。

氷川神社の南側に架かる「宮前橋」より上流の一帯が南沢緑地となっていて、流路は自然のままの姿を保っている。
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橋の近くに立つ案内板の地図で、緑地内の流路の概要がつかめる。まずは地図最下方、「現在地」のところから右(南)に延びている短い水路を辿ってみよう。
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雑木林の中から流れ出している水路が、道に沿ってしばらく流れ宮前橋のたもとで本流に合流している。
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流れを遡って鬱蒼とした雑木林の中の小径を辿っていくと、竹林に囲まれた直径2、3mほどの湧水池があった。地面にぽっかりとあいた窪地に澄んだ水がたまっている。崖や斜面に囲まれているわけでもなく、なんだか不思議だ。
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池のどこから水が湧き出しているのかはよくわからないが、窪地から土管で導かれ、小川へと流れ出す湧水はかなりの量があった。
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宮前橋へ戻り、今度は橋から西に延びる本流の水路を辿る。鴨が隊列をなして泳いでいた。水の勢いは強く、速い。
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100メートルほど進むと、南側から別の水路が合流し、川幅が広くなっている地点がある。写真右手から本流、正面奥から支流が流れてきてここで合流し、左手の宮前橋方面へと流れている。
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緑地の中に入り、南側の水路を追ってみる。鬱蒼と茂る森の中を清流が下って来ている。
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以前は源流の湧水まで近づけたようだが、現在は保全のためにそばまでは行けないようになっていた。そこで、後背地の丘の上に登り、そこを通る道路から斜面を見下ろすと、斜面の裾に源流が見えた。湧水口自体は見えないが、写真中央下方、水面が波打っている辺りで湧き出しているようだ。ここが4つある湧水点の2つ目だ。
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さきほどの合流地点まで戻り、再び西から流れてくる本流へ。こちらはすぐに柵に囲われた立ち入り禁止エリアへと入ってしまう。
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立ち入り禁止エリアの中は、東京都水道局の南沢浄水所だ。この中に残り2つの湧水地点があって、川は細長い池のようになっているらしい。その池の水門から流れ出した水が堰をごうごうと音をたてて流れ落ちているのが見える。
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浄水所の敷地は「沢頭流」の谷頭を占めている。谷頭を囲む丘をぐるっと廻ってみることにする。北側の丘に登ると、ビニールハウス越しに、立ち入り禁止エリアの緑地と、その奥の配水塔が見える。南沢浄水所は1962年に完成し、現在東久留米市の東半分に給水しているという。南沢湧水群の湧水池の水を直接採っているという訳ではなく、そばに四本の井戸を掘ってそこから1日およそ3500立方メートルの水をくみ上げ、東村山浄水場から送水された水とブレンドしているそうだ。ブレンド比率はおよそ地下水1対送水3となっているという。
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谷頭を囲む丘をぐるっと南側まで廻ってみたが、谷頭へと落ち込む雑木林の斜面は何カ所かで見られたものの、敷地内の湧水池がはっきりと確認できる地点はなかった。配水塔は南側の丘の上に建っていた。高さ23m、直径25mという配水塔の容量は1万立方メートルとのこと。ということは、南沢湧水群の湧水量と同じだ。この配水塔1本分の湧水が毎日湧き出している、と考えるとその水量の凄さがよくわかる。
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次回は南沢湧水群から700メートルほど東にある、竹林公園の湧水と、そこから流れ出す「こぶし沢」の流れを辿り、そのまま落合川を黒目川の合流点まで辿り紹介する。



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by tokyoriver | 2010-11-04 00:33 | 黒目川・落合川とその支流 | Comments(2)