東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

宇田川源流の湧水池

今回は、「東京ぶらり暗渠探検」の取材時の写真から、いわば「お蔵出し」として、「宇田川」源流の湧水池を取り上げてみよう。前回に引き続き渋谷川水系の源流である。この湧水池は小田急線代々木上原駅から北東におよそ500m、渋谷区西原のとある独立行政法人の施設の敷地内にひっそりと現存している。東京の水 2005 Revisitedで記事にした当時は遠くから見ることしかできなかったのだが、2010年、「東京ぶらり暗渠探検」の記事では編集T氏のご協力により写真を掲載することができた。今回の写真はその際のもの(2010年1月撮影)と2005年の取材時(5月撮影)からセレクトしたものであり、現状とはやや異なっているかもしれないがご容赦を。

まずは段彩図で宇田川上流部を見てみよう(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。宇田川は渋谷区西部、淀橋台に枝状にいくつも分かれて刻まれた谷「代々木九十九谷」に湧き出す小川の水を集め、JR山手線渋谷駅北側で渋谷川に合流していた、渋谷川最大の支流だ。現在はそのすべてが暗渠化されいている。九十九谷北側の台地上には玉川上水が流れていて、上水を挟んで反対の北側には、いくつもの小川が流れを発し、神田川笹塚支流(和泉川)に注いでいた。玉川上水はちょうど神田川水系と渋谷川水系のの分水嶺を縫うように通されていたといえる。

宇田川源流のすぐ近くにある西原小学校校歌(1955年制定)では
「みなもと清き渋谷川/細くはあれど一筋に/つらぬき進めば末遂に/海にもいたるぞ事々に/精魂かたむけ 当たらん我らも」
と歌われている。地形や流れこむ支流の数を考えると、本来の水量は渋谷川上流(穏田川)よりもこちらのほうが多かったのではないかと考えられ、この校歌のように宇田川=渋谷川の源流と捉えられてもおかしくないだろう。宇田川の支流には唱歌「春の小川」のモデルとして知られる河骨川や、初台支流(初台川)などがあるが、宇田川本流とされる流れは九十九谷の西端、「狼谷(大上谷)」と呼ばれていたH字型の谷から発していた(図の黄色い丸枠内)。このH字の左上の支谷にあるのが、今回取り上げる水源池である。
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谷頭側の窪地を横切る道路。右側が池のある施設の敷地で、深く切れ込んだ谷となっている。奥には新宿副都心のビル群が見える。
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施設は台地上から谷の斜面にかけて建てられている。台地上から敷地南東側の谷底を望むと、木陰に池がわずかに見える。
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木々に囲まれた谷底に降りると、ひっそりと佇む細長い池がその全貌を現す。かつての狼谷は斜面を森に囲まれ、谷底は水田となっていた。そして大正~戦前にかけて一帯は森永製菓創業者の屋敷となり、湧水を利用した池が2つつくられたという。現在ある池はこの池のひとつの名残だ。
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埋め立てられてもおかしく無いような小さな池。よく今まで残ってきたものだ。
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池の東側からは水路が続いている。川のはじまりだ。
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東京都の1991年の調査では一日40立方mほどの湧水が確認されているが、水がしっかり流れ出しているところを見ると、今でも水が湧いているのだろう。
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柵越しに、隣りの別の施設内にある丸い池が見える。こちらの池も屋敷だった頃からあったものだが、だいぶ整備されている。水はいったんこの池に溜まった後、更に奥に流れ出している。奥へと続く水路が見える。
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隣接し、台地上にある代々木大山公園から、水路の先にある人工的な池を見下ろす。写真奥の木陰から出てくる水路が、前の写真奥に見えていた水路の続き。写真左下の角あたりから画面外左にかけて、森永屋敷時代、もうひとつの池があったようだ。
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池の先にも代々木上原駅方面まで深い谷が続いている。写真奥の谷底左側が人工的な池のあるあたり、そして右側に向かって谷が下っている。
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宇田川はかつてこの先、谷底を代々木上原駅方面まで下っていた。かつて西原から初台にかけての一帯は「宇陀野(うだの)」と呼ばれており、ここから流れ出る川ということで宇田川の名がついたといわれている。「宇陀」「宇田」のつく地名は全国にあり、語源にも諸説あるようだ。ここの場合は湿地帯や河川流域の湿地を意味する地名だったと思わえる。宇田川の谷を囲む斜面は昭和初期に高級住宅地「徳川山」として造成され、その際に流路は道沿いに改修されたという。現在では駅北側から始まる暗渠路地までの区間、痕跡は全く残っていない。

渋谷川水系は、渋谷駅以南の本流以外全てが暗渠化されているのに、その水源は各地で残されているのが面白い。新宿御苑然り、神宮外苑然り、初台支流の湧水然り。そして宇田川の水源もこのように人知れずひっそりと残っている。
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by tokyoriver | 2011-10-07 00:38 | 渋谷川とその支流 | Comments(4)
みちくさ学会に「明治神宮「清正の井」から流れだす川とその先の暗渠。」と題した記事を書きました。渋谷川の明治神宮南池支流です。基本的には「東京の水2005 Revisited」の記事の該当セクションのリライトではありますが、最新の写真に入れ替え、新たに判明した事実などを反映させて全面的に書き換えています。非常に話題のつきないエリアで例の如く写真も文も多めになってしまいましたが、それでも載せ切れなかったものを以下に上流側からご紹介します。基本的な情報はみちくさ学会記事に記しましたので、そちらをお読みの上、どうぞ。

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最初に段彩図で川の全体像を(数値地図5mメッシュ(国土地理院)をgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)。画面左上が明治神宮の敷地で、そこに食い込む谷戸から右下(南東)に向かって通じている青いラインが今回記事にした明治神宮南池支流。途中山手線の土手が谷を塞いでいるのがわかるだろう。その北側にある神宮東池からもかつて川が流れだし、竹下通り周辺では南池支流と平行して渋谷川へと通じていた。2つの川の間がちょうど谷戸の谷底で、水田が広がっていた。南池支流は飴屋橋で二手に分かれ、ひとつは南下していた。
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ではまずは、記事で少し触れた、清正の井からの流れの西側にあって菖蒲田につながるもうひとつの水路から紹介しよう。明治神宮本殿の西側、西参道をみると途中がわずかに凹地になっていることがわかる。その左右に柵が写っているのがお分かりだろうか。これが水路に架かる橋だ。
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近づいてみるとこのように小さいながら石の欄干も設けられている。
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下を覗くと水は流れていない。だが落ち葉は積もっておらず、土には礫も混じっていて、時折ここを流れる水があることがわかる。写真は下流側を見たものだが、上流側にも同様に欄干があって、水路は森の中に曖昧に消えていっている。雨が降った後などに流れが生まれるのだろう。
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こちらは清正の井のすぐ下流側の地点。写真右から左下にかけて、清正の井から流れ出した、丸太の土留めの水路が通っている。右端の緑が濃いところが菖蒲田だ。写真ではややわかりにくいが、その奥にほぼ並行するように先の水路の続きが通っていて、菖蒲田の反対側に接続されている。
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次は同じく記事で触れた、代々木公園のバード・サンクチュアリの池からの流れ。神宮御苑の西側を抜ける道からその水路を垣間見ることができる。写真右下、暗渠を抜けた水路から水が流れ、南池に注いでいる。公園の池は地下水を汲み上げたもので、見ての通り水質は悪くなさそうだ。戦前までは代々木公園は「代々木練兵場」で、今の池のあたりには調整池があったという。明治42年、練兵場が開設された際、雨が降ると濁った水が谷戸を流れて直接南池に流れこむという事態が度々発生し、問題となった。その解決策として、雨水を一旦貯めて泥を沈殿させる調節池がつくられたという。
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続いては原宿駅東側の暗渠区間で載せられなかった写真を。

まずは「ブラームスの小径」の由来となったブラームス像。脇の飲食店が設置しているようだ。
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続いて、「フォンテーヌ通り」の由来となった噴水(フランス語でフォンテーヌ)。こちらは商業ビルの中庭に設けられている。
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病院の塀の黒いプレートに刻まれた「モーツァルト通り」の標識。背後の玄関(電信柱左側)上にモーツァルトのレリーフがある。もしかして左側の坂道のほうが「モーツァルト通り」?
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続いては、明治神宮東池と東郷神社からの川を。

まずは東郷神社の神池。一帯は、東郷神社が設立される以前は鳥取藩主であった池田氏の邸宅となっていて、当時の池は800坪あまりの広さがあり、冬には百羽を越える鴨の群れが来訪していたという。池は湧水を利用したほか、明治神宮東池からの川の水も引き込んでいた。東池からの川は池のある窪地とは丘を隔てて一本西側の谷筋を流れていたため、丘を暗渠で抜けさせ、滝をつくって池に水を引いていたという。
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東郷神社境内に残る「神橋」。かつてはここから川が流れ出て、東池からの川に合流していた。
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神橋の先には川の痕跡はないが、竹下通りの南側に怪しい私道がある。勝手に上下水道工事などをするなという標識がいくつも並ぶ。
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少し南下すると、明治神宮東池からの川跡の路地が現れる。東池からの流れは暗渠化時に別ルートに流されるなど大幅に改変されていて、川跡がはっきりとわかるのは竹下通り以南からとなる。
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明治通りを越えた先にも路地となって残っている。
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最後に、飴屋橋で南にわかれた支流界隈を。

この支流の痕跡は明治通りの開通によって大部分が消滅してしまったようで、はっきりしない。穩田商店街など、暗渠のような雰囲気の路地はいくつかあって、それぞれ風情がある。下の写真はそれらの路地の一つ。道の中央にコーンが置かれている。私道だろうか。コーンの先には道の真中に雨水枡があった。
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渋谷川暗渠のY字路。支流はこの近辺で左側から渋谷川に合流していた。写真右側が渋谷川の暗渠だ。左側に別れる道もやや怪しいが、川跡かどうかは不明。
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渋谷川の暗渠を少し下った地点にある、有名な戦前の消火用給水孔。東京府の紋章が見える。この場所には「八千代橋」が架かっていて、1960年代の暗渠化後も橋の構造が残っているが、給水孔はその橋の上に2ヶ所ある。川沿いから水を取るのが困難で、欄干越しだとホースが折れてしまうので橋上に設置したのだろうか。
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他にもいくつか紹介したい場所があるが、本編よりも写真の枚数が多くなってしまったので、この辺で終わりとしておこう。
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by tokyoriver | 2011-09-23 10:40 | 渋谷川とその支流 | Comments(2)
さて、3回にわたって石神井川の源流部を探索してきたが、最後に源流部の変遷について、現地の状況や様々な資料からわかった範囲で纏めておこう。

石神井川は25kmを越える流路を有する都内の中小河川を代表する川のひとつでありながら、その源流についてはまとまったかたちで検証がされることがなかったようだ。様々な文献を見ると、「かつては小平市鈴木町で、現在は小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水」「小平市御幸町(小金井カントリー倶楽部の西側敷地)が源流」といった説明をよく目にするものの、カントリー倶楽部内の湧水は今では枯れているようだし、湧き出した水が何時頃どこをどう流れていたのかまではいずれも触れられていない。

そこで、古地図、公図、航空写真や、郷土誌、行政の刊行物、直接川とは関係のない資料などから石神井川源流部やそれに関連する水路の変遷について推定してみた。

(1)旧石器時代から江戸時代以前にかけての石神井川源流―鈴木遺跡

前回記事でも紹介した「鈴木遺跡」は1974年、鈴木小学校の建設時に発見された。旧石器時代後期、3万年前から1万年前の遺跡で、局部磨製石斧の発見で知られている。その規模は東西220m、南北330m(東西600m、南北670mとする資料も)にわたり、石神井川の流れる谷戸の源頭部(今の武蔵野団地)を囲む台地上にC字型に広がっていた。下の地図のオレンジ色の範囲にあたる(以下、地図はgoogle mapを加工)。
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この時期はヴェルム氷期の最終期にあたり、海面は今よりも100m低かったというから、遺跡近辺の標高は約170mほどとなり、現在の青梅のあたりと同じだ。そこで湧き出ていた水はおそらく多摩川からの伏流水で、水量も豊富だったのだろう。現在の落合川の源流のように、大量の地下水が一度に地上に姿を現していたのではないか。鈴木遺跡資料館の展示物にあった当時の想像図に描かれた湧水はかなりの規模だ。
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だが、縄文時代に入るとすでに水源はかなり東へ移り(現在の小金井街道付近か)、人々が生活するのに十分な水が得られなくなったという。そのため、鈴木遺跡周辺は生活の場から、狩猟採取の場に変化した。そして弥生時代になり農耕社会となると、水に乏しいことから一帯に人々が定住することはほとんどなくなったという。この状態は江戸時代に入るまで続いた。

これらの状況を考えると、鈴木町近辺が石神井川の自然な源流、つまり、コンスタントに水が豊富に湧き出し流れ出る状態であったのは縄文時代までで、それ以降江戸時代までは、小金井街道近辺より上流の石神井川源流部は、じめじめした湿地で、季節や気候によって水が湧き出し流れる川筋があったのではないだろうか。そういう意味では、石神井川の北東方に流れる白子川の源流部「シマッポ」や、南方に流れる仙川の上流部のかつての姿、あるいは北西方を流れる黒目川の上流部の最近の姿と同じような様子だったのではないかと思われる。

(2)江戸時代から明治時代にかけての源流部―「鈴木田用水」と鈴木田んぼ

石神井川の源流の谷頭であった武蔵野団地から小金井カントリー倶楽部にかけての谷戸は、江戸時代には低湿地となっていて「長久保」と呼ばれていたようだ。18世紀前半、玉川上水を利用し現在の小平市一帯の武蔵野台地上で新田開発が行われた際、現在の鈴木町一帯も鈴木新田として開拓された。新田といっても大半は台地上の畑地開拓であったが、石神井川沿いの長久保には「鈴木たんぼ」と呼ばれる水田が拓かれた。

このときに玉川上水から「鈴木新田田用水(すずきしんでんたようすい、以下「鈴木田用水」と記す)」と呼ばれる分水が引かれた。時は1734(享保19)年。取水口は1尺四方。今でも鈴木街道沿いに残る玉川上水鈴木新田分水(1732(享保17)年開通)とは別物である。この分水の開通と水田開拓により、石神井川源流部は多少水量を増したと思われる。玉川上水やその分水による地下水の涵養効果で、湧水量も多少は回復していたかもしれない。ただ、伝承では湧水は雨天時のみ湧き、日照りのときには枯れていて、水田の収穫量は多くなかったという。また、石神井川上流部は悪水堀、つまり水田などの排水路の扱いであったようだ。

「鈴木田用水」は石神井川の源頭を囲むように南北に分かれ、水田に給水したのち石神井川に合流していた。鈴木遺跡資料館に展示されていた絵図には、二股に分かれ石神井川の源頭を囲む用水が描かれている。2本の分水は小金井街道を越えた先で石神井川につながっている。
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北側の水路には水車がいくつか設けられた。その中のひとつで、現在の鈴木小学校の体育館付近にあった「定右衛門水車」は、幕末には「焔硝合薬搗立所」となった。大型の水車が設置され幕府の火薬作りに利用されのだが、やがて爆発事故を起こし普通の水車に戻ったという。鈴木遺跡の発掘時に、この水車や前後の用水路の遺構も見つかっている。(なお、練馬区の資料ではこの水車のために玉川上水から水路が引かれたとあるが、上記のように誤りである。)

明治時代の後半になると、東京市の人口増加により、飲料水である玉川上水の水が逼迫してきた。水を確保するため、市から水田の耕作者たちに水利権の買取の打診があった。これに応じたことで1908(明治41)年、玉川上水から鈴木田用水への送水は止められ、水車もこの時廃止された。この結果、鈴木田んぼは耕作に十分な水を得ることができなくなり、次第に放棄され芦の茂る荒地になっていったという。北側の用水路は1940年代までは流れが見られたというが、これは湧水が流れ込んでいたのかもしれない。そして戦時中から戦後にかけて、食糧難により耕作地を得るために水路は埋め立てられてしまったという。

玉川上水からの分水のほとんどが何らかの形で保全され辿れる小平市内において、この鈴木田用水は早い時期に廃止されたためか、全く痕跡が残っていない。そのためか、資料で言及されることもほとんどなく、忘れ去られた存在となっている。いったいどこを流れていたのだろうか。
そのヒントはまずは明治時代の地形図にあった。迅速図や東京近傍図を見ると、玉川上水から石神井川につながる水路が描かれていて、現在の鈴木小学校近辺からは蛇行する流れとなっている。下は1880(明治13)年測量の東京近傍図(陸地測量部刊、1887(明治20)年)から。小さく見辛いが、国土地理院の引用基準に基づくものなのでご容赦を。青いラインが鈴木田用水から石神井川へのライン。右寄りを南北にまっすぐ横切っているのが小金井街道である。
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多くの資料ではこの蛇行する部分を石神井川の最上流部と捉えているようだが、よくよく等高線をみると、小金井街道以西のラインは谷のもっとも低いところよりも北寄りを流れている。つまりこれは、この区間が人工的な水路であることを示しており、これが鈴木田用水の北側水路であることとなる。一方、水田の真ん中を流れているはずの石神井川の小金井街道以西の区間や、鈴木田用水の南側水路は描かれていない。
そこで、公図を簡易に参照できるブルーマップを見てみたところ、水路跡と思われる帯状の公図界がはっきりと描かれており、それらの位置関係は先の絵図とも一致していた。この情報と地形図に描かれた地形、そして終戦直後の航空写真を元に各水路のルートを推定してみたのが下の地図となる。長久保の谷戸の中で、石神井川が中央を流れ、谷戸の両縁を鈴木田用水が流れたいた様子が浮かび上がる。鈴木田んぼは2つの用水が石神井川につながる地点まで谷沿いに細長く広がっていたようだ。
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玉川上水(明治以降は玉川上水に並行する新堀用水)から分岐して鈴木小学校西側までの区間は、終戦直後の航空写真ではまだ痕跡を確認することができるが、現在は全くその姿を残していない。ただ、住宅地に斜めに横切る土地区画がごく一部に断続的に残っていて、それらをつなぐことでそのルートの一部はたどることが出来る。
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なお、南側水路の農林中研修所以西の区間は、公図でも判断が付かないため、文献と地形からの推定でラインをひいた。もう少し東寄りで南北に分岐していた可能性もある。

(3)鈴木田用水の廃止以降と「経理排水」の開通

鈴木田用水の廃止以降、石神井川の源流部の水量は再び減り、「シマッポ」のような状態になったのではないかと思われる。郷土誌に記された古老の証言によれば昭和初期、現在の鈴木小学校のところに湧き水があったが、季節や降水量によってその水量は変動していたという。また、鈴木田んぼだった長久保一帯は大雨が数日続くと、水浸しになって何ヶ月も引かないような状態であったという。昭和初期の地形図には、東京近傍図とは異なり、現鈴木小学校の近辺まで、石神井川自体の流れが谷の一番低いところに描かれている。

1937年には長久保の北側斜面を利用した会員制ゴルフ場「小金井カントリー倶楽部」が開設された。その際、荒地となっていた谷頭部以外の元・鈴木田んぼも買収されゴルフ場の敷地となった。また、1940年にはカントリー倶楽部の南側から東側に隣接した土地が「小金井大緑地(現小金井公園)」として整備された。

1942年、現在の小平団地から関東管区警察学校にかけての広大な敷地に、陸軍経理学校が建設された。この際、敷地から石神井川源流を結ぶ「経理排水」と呼ばれる排水路がつくられた。この水路は石神井川の谷頭までは暗渠で続き、そこから開渠になって、小金井カントリー倶楽部内で石神井川に接続されていたという。
戦後直後の空中写真には、台地上に白いラインがまっすぐに続いているのが写っている。このラインは石神井川の谷に入ると黒くなる。白いライン=暗渠の区間が前回たどってきた緑道、黒いライン=開渠の区間が武蔵野団地内の「下水道管理用地」とそれに続く未舗装の区間である。
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戦後、経理排水は流域の排水路となったようだ。また、前回触れたように日立電子(現・日立国際電気小金井工場)の設立後は、経理排水に水(電子部品の洗浄水)を流すようになり、湧水が枯れた後は石神井川源流部の主水源となっていた。石神井川源頭部の窪地は戦後整地され畑などに利用されていたようだが、工場のできた1960年代はじめには、武蔵野団地として整備されはじめ、70年代にかけて住宅が立ち並んだ。この際に石神井川の源流部は跡形もなく埋め立てられたが、経理排水の武蔵野団地内の区間は1970年代初頭まで開渠が残っていた。

小金井カントリー倶楽部以東の石神井川の流れはどうだったのか。古い地図を確認すると、1956年の地図では、まだ小金井カントリー倶楽部西側の敷地内に断続的に水路が顔を出している様子が確認でき、西側敷地内東寄りの池から川が流れだして、小金井街道を越えカントリー倶楽部西側敷地内を流れている様子が描かれている。池より上流部はすでに経理排水からの水しか流れていなかった可能性が大きく、源流を「小平市御幸町(小金井カントリー倶楽部内)」とする記述はこの頃の状態を伝えるものかもしれない。嘉悦大学の手前はこの当時より暗渠だったようだ。この暗渠の出口は前々回の記事の写真でわかるようにかなり古そうで、もしかするとゴルフ場開設時からの暗渠かもしれない。1970年の地図になると、池から流れだす部分はなくなり、そして70年代半ば以降の地図では西側敷地内の水路はすべてなくなっていて、前回の記事に記した、東側敷地に今でも残る水路のみが描かれている。

(4)新たな水源になった「石神井幹線」

1960年代以降、石神井川流域は急速に宅地化が進んだ。一方で源流部一帯の下水道整備は遅れていた。1990年には下水道普及率100%を達成したものの、その後もしばらく汚水が川に流れこむような状態が続いていた。石神井川流域を含む小平市の東半分は分流式で整備が進められ、2000年代初頭には石神井川に汚水が流れ込まなくなったようだ。経理排水は、新小金井街道より西側は下水として再整備され、東側は雨水菅に転用されたようだが、処理能力が低かったため、2000年代半ばにかけて、小金井カントリー倶楽部内のかつての石神井川の流路の直下、地下4mほどの場所に雨水管「石神井幹線」が増設された。この雨水管は、小金井街道以西では直径1.5m、以東では直径2.8mとなり、小金井公園北側の公式な「石神井川上流端」の暗渠出口のところで、石神井川に接続された。

この雨水管は石神井川の川底よりも低い位置にあることからわかるように、実際には雨水の貯留管としての性格も兼ねている。貯留管内にたまった雨水は通常月2回、ポンプで汲み上げられ、石神井川上流端で川に放流されている。また、大雨が予測される直前にも組みだして空にするそうだ。前回の記事で触れた「石神井川のもうひとつの水源」がこれにあたる。
また、小金井街道が横切る地点で露出している開渠は、石神井川のものではなく、この石神井幹線に関連するものではないかと思われる。
一方でおそらくこの工事の前後に、小金井カントリー倶楽部東側の敷地内に残る開渠の流路は、嘉悦大学構内に残る水路と切り離され、その結果「上流端」までの区間は水が流れなくなったのではないかと思われる。
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(5)結局石神井川の最初の一滴は・・・

最後にもう一度、石神井川源流付近の水系図を載せておこう(前回記事の最後と同じ)。上がかつて存在した水路、下が現在残る水路と下水道管理用地である。
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さて、こうしてみると、鈴木町の湧水がコンスタントに水の湧き出す源流だったのは縄文時代までで、その後は現在に至るまで、人工的な水路がおもな水源となっていたことがわかる。そして、様々な文献などに記されている「小金井カントリー倶楽部内の湧水」も枯れているということは、現在の石神井川が流れ出す源流は公式な「上流端」に一致するということになるのだろうか。

最後にささやかな情報を付け加えておこう。1970年代前半、鈴木小学校の造成が始まる前まで、鈴木町の源頭には川の流れはなくなってしまったものの、谷頭の東端崖下に湧水が見られたという。そして、この湧水と同じ場所かどうかはわからないが、2007年、小学校の敷地内に湧き水が復活した。この湧水を使って「古代の泉」と名づけられた小さな池が整備された。
この水が「石神井幹線」に流れ込んでいるとすれば、今でも3万年前と変わらずに、石神井川の最初の一滴は鈴木町から流れ出しているといえそうだが、さて、どうだろうか。いずれ確認してみたいところだ。

長くなったが、以上で、石神井川源流の探索をひとまずおしまいにすることとする。
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by tokyoriver | 2011-08-03 20:58 | 石神井川とその支流 | Comments(22)
さて、1回目、2回目と石神井川の「上流端」付近を探索してきたが、今回はその更に上流部、かつての水源であるとされる小平市鈴木町近辺を探索してみよう。ここを訪れたのは、前回の記事の更に1年後、2010年のこと。なお、当初は今回で完結の予定だったが、写真や文章が長くなりそうなので、探索の後の謎解きについてはまとめて次回に分けて記すこととする。

小金井街道の西側に更に広がる小金井カントリー倶楽部。かつて、その中を石神井川の最上流部が通っていたが、東側と同様立ち入ることはできないので、ぐるっと敷地の西側まで回りこむこととなる。カントリー倶楽部の西端に沿って南北に通る道は古地図にも記されている古い道だ。石神井川の源頭の窪地を横切る地点にはカントリー倶楽部の通用門があって、そこから西にT字路になっている(写真のカーブミラーのある地点)。
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そのT字路に入ると、いきなり路上に「下水道管理用地」の文字がペイントされている。しばらく先で道路は右へと反れていくが、管理用地の延長には未舗装の空間が先へと続いている。
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未舗装の空間を抜けた先から振り返るとこんな感じ。コンクリートの矩形の構造物が飛び出していて、上にはマンホールが設けられている。
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更に西に向かって、植え込みだったり雑草の生えた空間が細長く続いている。左側(南側)の柵の中は日立国際電機の工場だ。カントリー倶楽部の通用門からこの辺りまでは1970年代まで、開渠の水路があった。そして、日立国際電機工場の設立(1960年頃か。当時は日立電子)以降は、電子部品の洗浄に使われた水の排水が、石神井川の主な水源となっていたという。では、この開渠の水路が石神井川の源流で、「下水道管理用地」はその暗渠か、というと、結論からいえばそうではない。これについては次回にまとめて説明しよう。
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たどっていくと、途中には先ほどと同じような突き出しマンホール。
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この細長い空間はしばらくは石神井川の谷頭の南側に沿っているのだが、だんだん道路=谷底よりも高くなっていき、谷のどん詰まりで日立国際電機の北西端から農林中金研修所の敷地へと消えて行く。
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石神井川の源頭は、三方を囲まれ東(小金井カントリー倶楽部方面)に開けた窪地となっていて、窪地の底は「武蔵野団地」と呼ばれる住宅地となっている。団地といっても、そこに並ぶのは普通の一戸建ての家屋であるところが特徴的だ。どの路地に入っても道路の両端がRを帯びていてかまぼこの背のようになっており、両側にU字溝が設けられている。水はけの悪い土地であることを示しているといえる。ただ、石神井川の流れを想起させるような痕跡は全く残っていない。
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谷頭から西側の台地上に上がると、新小金井街道に出る。街道の東側には、鈴木小学校がある。谷底に建てられているので、街道から見えるのは3階くらいか。その脇には、鈴木遺跡の解説板が立っている。1974年、小学校が建設された際に、ここで3万年前から1万年前までにわたる旧石器時代の遺跡が発見され、数年にわたって発掘調査が行われた。
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解説板の裏側には小さな空き地。一見この空き地だけが鈴木遺跡のように見えるが、実際には石神井川の源流部、ちょうど武蔵野団地となっている窪地を取り囲むかのようにC字型に広がった大規模な遺跡であった。新小金井街道の反対側には鈴木遺跡資料館がある。石神井川の源流とこの遺跡の関係については、次回にまとめて記すことにする。
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さて、新小金井街道を少し南下していくと、「下水道管理用地」と、それに続く車止めの空間があった。奥に見える緑は農林中央金庫研修所。そして、ここはさきほどの日立国際電気小金井工場の脇の暗渠の延長線上にあたる。
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新小金井街道の反対側には、一直線に緑道が西へと伸びていた。
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沿道には果樹畑が残る場所もあり、一見のどかな暗渠のようだ。
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道路を横切る場所にも、路上に色分けがされている。
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緑道は回田町を横切って西へと続いている。途中玉川上水の分水である田無用水を横切っていく。この辺りの田無用水、は道路の歩道に組み込まれ整備されている。
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喜平町の小平団地につきあたって、緑道は終わった。脇には「下水道管理通路」の標石が埋め込まれていた。
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つきあたった道路に沿って、南北に鈴木用水(大沼田用水)のコンクリート蓋暗渠が通っていた。この暗渠はだいぶ老朽化しているが、その下にはしっかり水が流れていて、しばらく北に進むと、綺麗な水の流れる開渠となる(過去記事「どっこい生きてる鈴木用水」参照)
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さて、ここまで辿ってきた暗渠のような「下水道管理通路」は、石神井川と何か関係があるのか。1回目の記事で触れた、現在の主水源のひとつは何なのか。2回目の記事で記した、小金井街道脇にあった開渠はどこにつながっているのか。そして結局石神井川の源流はどこなのか。これらについては、説明が長くなりそうなので、回を分けて次回に記すこととしよう。予告として、石神井川上流域の水系図を最後に載せておく(google map 地形図を使用)。

下の地図が現在残る水路や暗渠。青のラインが石神井川、ピンクのラインが玉川上水からの分水。オレンジのラインが先ほど辿ってきた「下水道管理通路」だ。
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そしてこちらが、かつてあった水路も含めて記した水系図だ。
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本文は数日中に公開する予定なので、しばしお待ちを。

(つづく)
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by tokyoriver | 2011-07-31 21:33 | 石神井川とその支流 | Comments(8)
(前回からのつづき)
次に訪れたのは16年後の2009年。前回と同じく花小金井駅から、上流端の標識へと向かう。途中横切る鈴木用水(玉川上水鈴木新田分水)も様子をうかがってみる。小平市では用水路の大部分は保全していく方針となっているので、一見今にもなくなってしまいそうな、こんな轍のような水路が残されている。
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久しく水の流れた形跡はないが、芥止めの柵もそのまま残されている。これらの水路の末端はかつて石神井川に流れ込んでいた。ここにもかつて動脈と静脈の関係があったのだ。
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16年ぶりの、小金井公園北側の、上流端。
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白濁した水はなくなっていて、三面コンクリート張りの水路の底に刻まれた溝にわずかに水が流れている。普及の遅れていた石神井川上流域の下水道は、この間に分流式で整備されて、川に下水が流れ込まなくなった。その分、水量はほとんどない。
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上流端の少し先では、右岸側の護岸に穴が開き、水が流れ込んでいた。
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すぐわきの小金井公園の敷地には、鬱蒼とした木々に囲まれた池がある。ここからの水が流れ込んでいるのだろうか(実はこの近隣には他にも現在の石神井川の「主水源」がある。それについては次回記事で)。
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池の傍らの区間は、三面コンクリート張りではなく、川底に土が露出していた。ただ、こんな上流だというのに水路はかなりの深さに掘り下げられており、背伸びをしないと川底が見えない。写真は背伸びの上にカメラを持った手を伸ばして撮影したもの。
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コンクリート蓋の区間はそのままだった。
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嘉悦大学の敷地に突き当たる。
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嘉悦大学の脇の開渠は残っていたが、水は枯れ果て、すっかり空堀となっていた。嘉悦大学自体も警備が厳しくなって、門は閉ざされており流路の先が現在どうなっているのかを確認することはできない。
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さて、前回たどったのはここまでだったのだが、この間に、インターネットの普及により、流路を検証する手立ては大きく変った。最大のツールは詳細まで判読できる地図や空中写真だろう。google mapを見ると小金井カントリー倶楽部内、ちょうどかつて石神井川の源流部があったと思われる谷に沿って、水路が描かれている(下図ピンク枠内。埋め込みができないのでキャプチャ。直接googlemapで見る場合はこちらを
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ピンク枠内を拡大して航空写真で見てみると、地図に描かれているよりも更に上流まで、水路がしっかり写っている。今でも水が流れているように見える。
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国土地理院の国土変遷アーカイブで戦前から1970年代にかけての空中写真を見ても、同じ場所に石神井川の流路が写っている。ネットの資料ではないが、1970年代前半の地図にも水路が記されていた。
鈴木町の源流が枯れた後長い間、小金井カントリー倶楽部内の湧水が源流であった時期があったというから、この小川はもともとは石神井川源流の流れであったのだろう。小金井カントリー倶楽部は会員制のゴルフ場の中でも格式が高いそうで、中に入ることはできず直接確認することができないのだが、様々な情報から推測すると、現在はカントリー倶楽部内の湧水は枯れていてまた現在流れている水は人工的なもので、また水路は今では直接石神井川にはつながっていないようだ。

そして、更に上流にも痕跡があった。カントリー倶楽部の敷地の中央を小金井街道が南北に横切っているのだが、ちょうど石神井川の流れる谷を横切るかたちとなっている。道が一番低くなる地点の道端。道路は盛土をして高くなっていて、敷地を見下ろすようになっている。
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道路の東側から見下ろすと、そこにはコンクリートに囲まれ、開渠があった。底には水が溜まっている。
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道路の西側にも、敷地を覗いてみると谷底にコンクリートで舛状に囲われた怪しい窪地が見えた。
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これらの窪地は石神井川の暗渠なのだろうか。その正体については、とある施設との関連が推測されるのだが、これについては次回記事の最後に記すこととしよう。

さて、石神井川のかつての水源は、この地点の更に西、小金井カントリー倶楽部の西側の窪地なのだが、かなりの遠回りをしないと辿り着くことができない。そのため、このときは小金井街道で力尽きてしまった。そちらを訪れたのはさらにその1年後、2010年となった。

(つづく)
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by tokyoriver | 2011-07-27 00:08 | 石神井川とその支流 | Comments(0)
この7月10日で、東京の水の「2009 fragments」バージョンを開設して2周年となりました。途中何度か中弛みしつつも続けてくることができたのは、他の暗渠好きの皆様のブログや、寄せていただいたコメントのおかげです。感謝の念に堪えません。東京の水オリジナル版から数えるとはや15年目、スローペースではありますが、今後も地味に更新を続けていく所存ですので、何卒よろしくお願いします。

今回は、石神井川の源流部を、18年前に訪問したときの写真からはじまります。
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石神井川は小平市、西東京市、練馬区、板橋区、北区にまたがって流れる、都内北部の代表的な中小河川だ。小平市花小金井南町1-2の小金井公園と小金井カントリー倶楽部の境界の地点に上流端の標識が立っている。ここが現在公式な「上流端」であるが、かつてはその源流はさらに西の、小平市鈴木町であったという。

旧滝野川区のエリアで育った自分にとっては、滝野川の地名の由来となった石神井川は、近所を流れているというわけでは無かったものの、比較的身近な存在であった。小学校4、5年の頃だったか、学生社刊の「北区史跡散歩」旧版に掲載されていた「石神井川の源流」の写真を目にして、いたく関心を惹かれた。
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(「北区史跡散歩」(学生社刊 1978年) より)

川と比較できるものが写っていないのでどのくらいの川幅なのかさっぱり見当がつかないが、森の中から流れ出しているのか、水がたまっているのか、いずれにしても自然のままの姿と思われる川の姿がそこには写されていた。これを見て以来、石神井川の源流が気になっていた。

気になったまま時を経て1993年、思い立ってようやくその源流地帯を訪問した。西武新宿線花小金井駅を南側に出て、途中、多摩湖から境浄水場に至る水道管上に設けられた多摩湖自転車道(狭山・境緑道)を経由し南東へ700mほど。鈴木街道の両側を通る鈴木用水の遺構を渡り、都立小金井公園の中央を南北に横切る道に入ると、谷地形が現れる。谷底の、小金井公園への入り口脇に「石神井川 上流端」の標識があった。
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標識から東に向かって、梁の渡されたコンクリート張りの水路があった。幅、深さとも意外とあり、白濁した水が流れていた。小平市東部は下水道整備が遅れており、この頃はまだ川に汚水が流れ込んでいたようだ。上流端の雰囲気にはあまりそぐわない汚れた水は、覚悟はしていたものの残念であった。
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上流端の標識の西側には小金井公園の敷地に沿ってコンクリート蓋の幅広の暗渠が続いていたので、さらに上流へと遡ってみる。
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暗渠を100mほど遡ると、嘉悦大学の境内で蓋がとれた。
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その先には、護岸のされていない自然のままの水路が残っていた。
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残念ながら、そこを流れる水は先ほどと同じく白濁していたけれど、水路自体は「北区歴史散歩」掲載の写真のイメージに近く、源流にふさわしい。
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嘉悦大学と小金井カントリー倶楽部の間を流れる水路を200mほど遡ると、カントリー倶楽部の柵の向こうになってしまった。柵越しには、かなり古そうな、トンネルのような暗渠から流れ出る石神井川が見えたが、その先の様子は木の茂みに隠れてわからない。このときは、ここまで辿って終わった。
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次に現地を訪れたのは更に16年たった、2009年。前回と同じく花小金井駅から、上流端の標識へと向かった。

(つづく)
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by tokyoriver | 2011-07-23 22:41 | 石神井川とその支流 | Comments(6)
◆北沢川

北沢川は、世田谷区上北沢2丁目、現在、都立松沢病院の敷地となっている一帯に滲み出していた湧水を水源とし、世田谷区内北東部を東へと流れていた全長6kmほどの川だ。川は北側から合流する何本もの支流の水を集め、世田谷区池尻で烏山川と合流し、目黒川となっていた。1960年代から70年代にかけ、暗渠化と下水幹線への転用が進み、現在はほぼ全区間が緑道となっていて、下流部には再生水を使ったせせらぎが続いている。(ただし、扱いとしては今でも「二級河川」のままだという)。また支流についてもほとんどの区間が暗渠化されている。
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◆北沢分水

川の流域は主に水田として利用されていたが、谷筋が浅いことからも分かるように水量は少なかった。そのために玉川上水から北沢川に水を引き入れるために分水されたのが、北沢分水だ。玉川上水が開通したのは1654(承応3)年だが、北沢分水はそのわずか4年後の1658(万治元)年に「上北沢分水」として供用を開始した。まずは飲料水として、そして玉川上水拡張後の1670年には農業用水に転用され、後には北沢川自体とあわせて「北沢用水」と呼ばれるようになった。段彩図の青いラインが北沢川水系、オレンジ色のラインが、それに接続された最終的な北沢分水の流路となる。(段彩図は、数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)
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◆分水口の変遷

分水への給水が途絶えたのはいつの頃か定かではないが、現在、杉並区久我山1丁目の玉川上水岩崎橋の近くに、北沢分水の分水口遺構が残っている(上の段彩図で3代目分水口と記してある地点)。写真奥が堰跡で、せき止めて水位を上げ、手前の取水口から地下に埋められた伏樋に水を引き入れていた。少し西側には、烏山分水の分水口も残っている。
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実は分水口がこの場所になったのは1871(明治4)年のことで、ここを含めて3回、分水口の場所は変えられている。北沢分水はここで分水された後1.5kmほど、玉川上水の南側に並行して流れたのち、上高井戸2丁目(※下高井戸と誤記していたため、訂正しました)で南下していたのだが、2番目の分水口は1788(天明8)年から1871(明治4)年までの間、その南下する地点、かつての下高井戸村字第六天前にあった(上の段彩図で2代目分水口と記してある地点)。玉川上水通船のための水路拡張工事の結果、現在の場所に移ったという(ちなみにこのように玉川上水に並行して水路を延ばし、分水口を付け替える手法は他の分水でも行われている)。では1788(天明8)年より前、分水が開通した当初の分水口はどこだったのだろうか。

◆最初の分水口と上北澤分水

ざっと資料をあたった限りでは、分水口の変遷については、「東京市史稿 上水篇(水道篇)第1」(東京市役所編 1919)の記事がもっとも詳しかった。北沢分水はそこでは下北澤分水として紹介され、「新編武蔵風土記稿」「郡村誌(荏原郡村誌か)」「武蔵通志」より該当部分が抜粋転載されている。最も詳しい「郡村誌」によれば、当初の分水口は「上北澤地内字牛窪」 方1尺4寸、長さ9尺の樋口を伏せ、とある。「新修世田谷区史 上巻」(世田谷区 1962)及び「世田谷の河川と用水」(世田谷区教育委員会 1977)にも同様に記されているが、いずれもこの「東京市史稿」を出典としたものだろう。

ということで「上北澤地内字牛窪」が当初の分水口となるのだが、ここで問題がある。まず、玉川上水は上北澤村内を通っていないのだ。そして、「上北澤地内字牛窪ヘ(略)樋口ヲ伏セ、玉川上水ヲ分水ス」を「牛窪へ向って」と解釈すると、では分水口自体のあった場所はどこなのか、ということと、牛窪とはどこなのか、という問題が生じる。分水口自体もさることながら、この「牛窪」がどこだったのかが全く分からない。近隣で牛窪といえば、京王線笹塚駅南側、神田川笹塚支流(和泉川)の枝谷があり玉川上水が大きく迂回している地点くらいしかみあたらないが、こちらは幡ヶ谷村だし、ずいぶん離れていて全く関係ない。

◆最初の分水口はどこか?

「世田谷の河川と用水」では、当初の分水地点について、京王線上北沢駅の北東に1カ所、北西に1カ所、そして八幡山駅の北方に1カ所の計3カ所の候補を挙げている。上北沢駅の北西には確かに痕跡らしきものが残っているし、駅の南東に残る北沢川の支流を北へ延長してみると、駅北東の玉川上水にぶつかる(下の段彩図で「三田説A〜C」)。
また「甲州道中高井戸宿(文化財シリーズ26)」(杉並区教育委員会 1981)に掲載されている「下高井戸宿復元鳥瞰図(江戸後期)」には玉川上水と北沢川流域の間を東西に通る甲州街道に、3カ所の「用水抜石橋」が描かれている(下の段彩図で「用水抜石橋」のポイント)。
一方「杉並の川と橋」(杉並区立郷土博物館 2009)に掲載されている「五街道分間延絵図」からの高井戸宿の概略図にも、甲州街道を横切る水路を渡る「用水抜石橋」や「悪水抜石橋」がいくつも描かれている。こちらでは「甲州道中高井戸宿」の「用水抜石橋」に対応すると思われる橋はいずれも「悪水抜石橋」となっていて(下の段彩図で「悪水抜石橋」のポイント)、現在の北沢分水流路(暗渠)に対応する地点が「字山谷石橋」となっている。
これらの橋の位置からは、「世田谷の河川と用水」で挙げている上北沢駅の北西に対応するであろう用水路、そして上北沢駅北東の地点からやや東にずれた用水路、そして桜上水駅の北東の用水路が甲州街道を横切っていたことがわかる。そして、それらに対応するように、甲州街道の南側には北沢川の支流が何本か、その痕跡を残している。このなかのひとつが最初の分水路の名残なのではないか。
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◆謎めいた分水路を探して

北沢川/北沢分水は比較的著名な存在でありながら、この最初の分水口については資料・文献もあまりなく、話題にする人も少なく、謎めいている。現世田谷区のエリア内の利水のための分水でありながら、分水口が杉並区の南端に位置していることも、資料や研究が手薄になっている一因かもしれない。
この北沢分水最初の分水口探索については、 「世田谷の川探検隊」の庵魚堂さんのブログ 「庵魚堂日乗」でずいぶん前に断続的に探索の成果が発表されていたが、今のところまとまった形での発表には至っていないようだ。

今後数回にわたって、北沢川源流域/北沢分水をとりあげていこうと思うが、この最初の分水口〜分水路との関係を念頭に置きながら、まずは桜上水駅付近の、かつて「入谷」と呼ばれていた谷筋を流れる、北沢川の支流「桜上水支流(仮称)」を辿ってみようと思う。下の段彩図中央やや右、二股に分かれている青いラインがそれにあたる。次回は東側の流れについてとりあげてみる。
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by tokyoriver | 2011-03-10 12:32 | 北沢川とその支流 | Comments(0)
小沢川は、丸ノ内線新高円寺駅近く、杉並区梅里から流れ出し、杉並区和田の丸ノ内線(支線)中野富士見町駅近くで神田川に注いでいた全長2kmほどの小川で、現在では全区間暗渠となっています。小さな支流ながら独立した呼称を持ち、なぜか暗渠好きの間では比較的有名な川(跡)でもあります。

川は、段彩図(数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)でみるとわかるように、桃園川と善福寺川〜神田川に挟まれた台地にかなりはっきりと刻まれた谷を流れています。主な水源は、谷が環七通りを横切るすぐ東側に現存する湧水池「新鏡ヶ池」とされていますが、それより上流にも谷が伸び、さらにその先の台地上にも人工と思われる水路の痕跡が残っています。
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年末に時間ができたので、4年ぶりにこの「小沢川」の暗渠を辿ってみました。上流部のカオスぶりは相変わらずでしたし、縁あって最上流部に密かに残る蓋暗渠や今まで行ったことのなかった"蛇窪"の支流跡にも足をのばすことができましたので、記事にしてみます。

既にいくつもの暗渠系サイト/ブログでとりあげられており(本ブログでも以前、主水源だった「新鏡ヶ池」を紹介しました)、あまり新鮮味はないかとは思いますが、おつきあいいただければ幸いです。

=============

「小沢川」の暗渠は、丸ノ内線新高円寺駅の近く、青梅街道から五日市街道が分かれる交差点のすぐ東側から始まります。といってもここから200mほどは直線の水路敷が続いており、本来の水源よりも上流部につくられた、人工的な水路だと思われます。かつて青梅街道沿いには南阿佐ヶ谷駅付近まで、千川上水の分水「六か村分水」がひかれていましたが、その余水がここまで到達していたのか、あるいは街道沿いの排水路がつながっていたのでしょうか。
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暗渠沿いの緑地は木々が生い茂っています。
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そして、この暗渠沿いには「金太郎の車止め」が集中しています。青梅街道からの入口にあるのはもちろん、このように暗渠につながる道の方に金太郎が設置されています(奥を左から右に横切っているのが暗渠です)。絵の状態も比較的良好です。
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進んでいくと、右岸側には僅かですが段差がある場所も出てきます。
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珍しい、2連の金太郎。しかもここも絵柄がしっかり残っています。
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その先、右岸側の斜めのアスファルトがちょっと面白い。この辺りから暗渠は少し不規則に曲がったりしていて、これより先は自然の流れだったように思われます。
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南南東へと向っていた暗渠は、堀ノ内斎場の脇で向きを東に変え、真盛寺の敷地にぶつかって塀の向こうに姿を消します。ぶつかった先の塀が一部分だけトタンとなっていて、その下の路上には変な構造物が見えます。
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真盛寺とそこから南へ400mほどの妙法寺にはさまれた環七通りの西側はちょっとした寺町になっています。妙法寺以外の寺院は、大正初期から戦前にかけて都心部より移転してきました。寺院の境内にはポンプ井戸もちらほら見られます。下の写真では猫が井戸番をしていました。
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こちらは古そうな掘り抜き井戸らしき石の枠組の中に、なぜか釜がはめられていました。釜には金網製の蓋まで用意されています。
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それらの寺院のなかのひとつで、特別に許可を頂き、境内を通っている小沢川の暗渠を見学させて頂きました。そもそも川が流れていたということ自体が理解して頂けるかどうか不安でしたが、ああ川ですね、ありますよ、といって案内された先には、驚いたことにコンクリート蓋の水路が残っていました。小沢川全区間で唯一の蓋暗渠です。脇に隙間のあるタイプで、水路の上にそのまま蓋をしただけのような感じです。写真奥の方から流れて来ていますが、奥は土に埋まっているようです。
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緑に囲まれ、ゆったりと蛇行する水路。蓋の下には小沢川の水路が残っている、と考えると、蓋を開けてみたい衝動に駆られます。
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途中には点検用の取っ手のついた小さな縦五連蓋も見えます。
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ここから先は寺院の私宅の庭先を通って、真盛寺の境内へと入っていくそうです。真盛寺の境内にはもはや痕跡はまったく残っていないと思われますので、蓋暗渠の区間はここだけということになります。
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 お寺の方に伺った話では、区より歩行車道として整備したいとの話があったが、真盛寺で行き止まりになっていて通り抜けできないので意味がないことや、家の庭先を通っているため断ったとのこと。区からは水路敷は公有地だから、とごり押しされたが、では寺の前の道路は私道ではないか、と言ったところ引っ込んだとか。実は、真盛寺前を環七から堀ノ内斎場に抜ける道は近隣の寺院の私道(おそらくこのお寺の所有地も含まれるのでしょう)ですが、通行者の利便を図って開放しているそうなのです。確かに公有地だからといって杓子定規に行き止まりの歩道をつくるくらいなら、この私道を買い上げてもらった方がよっぽど住民の利便性にかなってますよね。

 そして、もともとは小沢川の南側までが堀ノ内だったのが、住居表示のときにこの私道が境界線になるように変更され、寺の敷地が梅里となってしまったという話も伺いました。調べてみると、この辺りの小沢川の流路はかつて、「杉並村~杉並町」と「和田堀内村~和田堀町」の境界線だったようです。川の南側は堀ノ内、北側は高円寺でした。そして、住居表示法にもとづいた、1966年の住居表示施行で「梅里」という地名が生まれた際に、境界線が変更されました(ちなみに梅里は青梅街道の通る里(=町)という意味で作られた地名だそうです)。そう聞くとますます、私道の方は放っておいて暗渠は公有地だから歩道に、というのが都合のいい話に思えます。ともあれ、歩道にならなかったおかげでこのコンクリート蓋水路が奇跡的に生き残ったわけです。

さて、暗渠の行き先真盛寺は、1631年湯島に開創し、1922年(大正11)にこの地に移転してきました。山門からして広大な境内が容易に想像できるこの寺は、三井財閥の三井家の菩提寺としても有名で、「三井寺」とも呼ばれているとか。そして、境内に現存する「新鏡ヶ池」は、最初に記したように、かつて小沢川の主な源流でした。池は寺が移転してくる前からあり、現在の池のおよそ倍の広さで、中島に弁天堂を祀る弁天池だったといいます。東側の現在環七通りとなっているところにも、かつて同じくらいの湧水池があり同じく小沢川の水源となっていたようですが、今では跡形もありません。
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真盛寺は現在、この手の広大な境内を持つ寺院としては珍しく、檀家以外の立ち入り禁止の表示が掲げられていますが、4年前に訪れた時には特に表示もなく普通に出入りできました(単に見落としていただけなのかもしれませんが、他にも普通の散歩客らしき人が参拝していました)。その時に撮影した「新鏡ヶ池」の様子です。放生池(捕獲した鳥獣を野に放し、殺生を戒める宗教儀式「放生会」で、魚を放つ池)なので、魚が鳥に獲られないよう糸が張り巡らされています。「新鏡ヶ池」の名称は、寺が移転して来た時に当時の新劇俳優によって改めて名付けられたそうです。かつては豊富な湧水を誇っていたようですが、現在はおそらく枯れていると思われます。
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「新鏡ヶ池」の西側、墓地の入口にももうひとつ池がつくられていました。小沢川の水路は、これら二つの池の南側を流れていたようです。
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境内には水路の痕跡らしきものは見当たりませんでしたが、真盛寺に隣接する公園に、境内から流れ出ていた小沢川の水路跡の道が残っています。写真の柵の奥右側あたりが「新鏡ヶ池」で、水路は池の水を合わせて、手前の方に流れていました。
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下流側を振り返るとこんな感じです。川は真盛寺山門の参道沿いの塀の東側に沿って流れていました。写真の奥が環七通りになります。
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環七通りを越えると、はっきりとした谷筋が現れます。階段で下る谷底には、小沢川の暗渠が通っています。ここから先しばらくの区間は、見所にとんだ暗渠道が待ち構えています。
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(次回につづく)


2009fragmentsになってから初めて全編ですます調で通してみましたが、何だか調子が狂いますね、これ。自分で書いた文章に見えません。次回から今まで通りに戻すかもしれませんが、あしからず・・・
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by tokyoriver | 2011-01-23 22:18 | 神田川とその支流 | Comments(20)
貫井(ぬくい)川は、西武新宿線上井草駅の北方、練馬区下石神井5丁目近辺にその流れを発し、石神井川と千川上水の間を北東に流れて練馬区向山4丁目で石神井川に注いでいた、全長4kmほどの川で、現在は全区間が暗渠となっています。その名前は、下流部の地名「貫井」からとられていますが、その「貫井」の地名は貫井川下流にかつてあった大きな池「貫井の池」に由来します(語源など詳しくは次回に記します)。下流部は「蕪ヶ谷戸」と呼ばれた比較的大きな谷筋で湧水もあり、谷底は水田として利用されていたのに対し、上流部は谷筋は浅く、荒野や畑地を流れる悪水路(雨水や湧水の排水路)として扱われていて、川の呼び名もとくになかったようです。(段彩図は数値地図5mメッシュをgoogle earth「東京地形地図」からキャプチャ)
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川が暗渠となったのはおそらく1970年代後半から80年代末頃にかけてと比較的最近だったようですが(今回歩くのに使った、私の手許にある1万分の1地形図(1989年発行)には、下流部の一部区間は開渠として描かれています)、ほとんどの区間は完全に下水道化されていて、その流路も途中何ヶ所かで分断されており、暗渠というよりは川跡といったほうがよさそうです。

そんな貫井川を、今回から数回にわけ、いくつかある支流や分流もあわせて紹介していきます。まずは上流部分を辿ってみましょう。

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西武新宿線上井草駅から北方へ歩くこと10分ほど。貫井川の痕跡が残る最上流端は、井草通りと新青梅街道の交差点の北東側にある。駐車場の脇に、一段窪んだ細長い空き地が残っている。1960年代の空中写真や1970年代半ばの住宅地図をみると、ここまで水路があったことがわかるが、現在では雑草が生い茂っていて川の痕跡を確認するのは難しい。道路との接点はゴミ集積所になっていて、冴えない上流端だ。ここより西側にも浅い窪地がしばらくのびており、戦前の三千分の1地形図には井草通りの西側の方まで水路が描かれている。ちなみに、この地点から北に1km行くと石神井池・三宝寺池、一方南に1kmほど行くと、妙正寺川上流部である井草川の源流地帯(現在は暗渠となり湧水も枯渇)となっている。
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水路はかつて、新青梅街道に突き当たった後に街道の南側を流れ、再び北側へと戻っていたようだが、現在ではその痕跡は全くない。再び川跡がはっきりするのは下石神井四丁目交差点よりやや東側、新青梅街道から北東へと離れて行くゆるやかな下り坂の道の歩道だ。
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しばらくは、まったく車の通らない道に不自然に幅の広い歩道、というかたちで北東に進んでいく。川の痕跡自体はまったくないが、路上のアスファルトにはあちこちに苔が生えていて、水の気配が濃厚だ。貫井川の上流部は地下水位が浅いという。川はおそらく、明確な湧水地点から流れ出していたというよりは、あちこちの地面から滲み出した水を何となくじわじわと集めて流れていたのだろう。以前とりあげた、白子川上流部の新川(シマッポ)などがまさにそのタイプだ。こちらは地表へ現れる水は枯れてしまったが、土の下にはまだ水がひそんでいるのかもしれない。

川跡は石神井小学校の近くで歩道から離れクランチ状に曲がり、急に川跡らしくなる。
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小学校の南側でいったん歩道になったのち、練馬区の暗渠サイン「水路敷」のペイントとともに暗渠らしい道が始まる。このあたりはかつての字名を「上久保」といったそうで、貫井川の谷に由来する地名だったのだろう。
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暗渠沿いに古そうなコンクリート擁壁が残っていた。護岸の痕跡だろうか。
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進んでいくと遭遇した猫と銭湯。暗渠の定番が2つそろった目出度い(?)風景。貫井川沿いではたくさんの飼い猫や野良猫に遭遇した。暗渠は銭湯のボイラー室の脇を抜けていく。
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貫井川の暗渠はくねくねと蛇行していて、辿っていて決して飽きることはないのだが、しかしなぜか、実際の距離以上に長く感じられる。
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旧早稲田通りを横切ると、川跡は大きく向きを変える。そこにはかつて、川に沿って「喜楽沼」があった。写真の住宅となっているところは、かつて喜楽沼の北端があったところで、土台から水が滲み出し、苔むしている。
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苔は水を吸って生き生きしている。
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暗渠は南ヶ丘中学校に突き当たって南下する。右側の住宅地のところに喜楽沼があった。左側は南ヶ丘中学校で、かつては中学校の校庭となっているところを横切っていたが、学校の建設時に現在の水路敷のところに移されたようだ。
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「喜楽沼」は少し謎めいた存在だ。沼は下の地図のように、4つに分かれ、南北に細長い台形をしていた。ネット上をみると、もともと沼があって、そこが後に釣堀になったとする説が多い。しかし、ざっとみたところ区史や郷土資料などで「喜楽沼」の名をみかけることはなかった。そして、航空写真を時代別に追ってみてみると、1960年代半ばになるまでこの場所に池や沼らしきものは写っていないのだ。地図をみても、同じく1960年代半ばまで、池や沼を記したものはない。
おそらく、「喜楽沼」は1960年代後半に、釣堀として人工的につくられた沼だったのではないだろうか。貫井川上流部は、ちょうどこのあたりまでが地下水位の浅いエリアだという。したがってもともと湿地になっていたのかもしれないし、少し掘れば水が湧き出たのかもしれない。調べてみると、都内では1960年代後半に釣り堀ブームがあったらしい。「喜楽沼」は、その流れにのって作られた釣堀のひとつだったのではないか。ここで連想されるのが、さきほども触れた白子川上流部の新川(シマッポ)の暗渠沿いに一時期存在した「保谷フィッシングセンター」だ。こちらも1960年代後半から70年代にかけて存在していたらしいが、今はあとかたもなく消え去っている。
喜楽沼は1970年代半ばにまず北側が、ついで80年代に真ん中が埋め立てられ、順次宅地となった。最後に残った南側の池は90年代に入ってから埋め立てられた。かつてここに沼があったことを示しているのは旧早稲田通りにあるバス停「喜楽沼」くらいだ(かつての釣堀経営者だった「合名会社喜楽沼」は、現在でも不動産管理業者として残っているようだ)。
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貫井川の暗渠は南ヶ丘中学校の南側で再び向きを東に変え、環八通りと笹目通りの分岐点につきあたる。ここの環八通りは、2006年、最後の区間として開通したばかりだ。トンネルも地下にあり、暗渠は完全に分断されている。通りの東側に渡ると、川跡の道自体は無事に残っていた。右岸は古そうな苔むした大谷石の擁壁、左岸は草の生えた土手と、川が流れていたころの様子を髣髴させる。
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ここから先しばらく、川跡らしい道が続く。護岸から水が滲み出しているところがあった。
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路上のマンホールや雨水枡の柵。コンクリートの隙間から生える雑草。湿気に蝕まれたブロック塀。いかにも暗渠らしい雰囲気が漂っている。
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どこでもドア?
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やがて暗渠は道路沿いに出る。暗渠の上には等間隔に車止めが設けられて、歩道としては歩きにくそうだ。
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石神井東小学校の敷地に沿って、歩道となって北東へ進んでいく。
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暗渠沿いの道路が暗渠の右側から左側に筋を違える地点に、橋の痕跡が残っていた。路面の細長いコンクリートが、ここに確かに川が流れていたことを主張している。
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上流方向に振り返る。欄干の痕跡。
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橋跡のすぐさきで、川跡は西武池袋線の高架に突き当たる。暗渠の歩道の先、建物のあいだがすっぽりと抜けた怪しい空間になっている。
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近づいてみると、コンクリート蓋暗渠が残っていた。貫井川流域で唯一の蓋暗渠だ。脇の酒屋の荷物置き場と化していて中に入ることはできない。
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足下には欄干の痕跡と思しき構造物も残っていた。
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ここから先、西武池袋線より北側の区間以降は次回以降に紹介していきます。
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by tokyoriver | 2010-11-29 23:45 | 石神井川とその支流 | Comments(14)
落合川シリーズひとまずの最後は、支流「立野川」。3回目でとりあげた南沢湧水群のすぐ近く、向山緑地の崖下の湧水から発し、新落合橋で落合川に合流する全長2.4kmほどの小川だ。小さな河川だが、合流地点の人工的な姿から自然のままの源流まで、ひとつの川の姿の変遷がコンパクトに観察できる好例となっているように思える。合流地点から上流に向かって遡って行ってみよう。

下の地図でオレンジ色で囲んだところが立野川。地図右上から中央下まで辿るかたちとなる。(地図はgoogle mapのキャプチャから。画面のはめ込みができないので、実際のプロット図はこちらのリンク先を)。

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落合川との合流地点付近は、コンクリートの護岸に挟まれ、川底にもコンクリートで何やら構造物が敷かれていて、人工的な都市河川の姿をしている。水質も落合川に較べやや劣っているようだ。(合流地点の写真は前回記事を)。
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浅間神社の脇。水量は多いが、水路はコンクリート三面張りに近い姿をしている。落合川のような水草はまったくない。
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流路の西側には住宅地が川沿いぎりぎりまで迫り、東側は崖線となっていて、川沿いの道もなく、「裏側」の雰囲気。これより上流、崖が迫っていて橋を渡す先がないためか、しばらく橋が全くなく、ほとんどの区間で、川の姿を見られるのは沿岸の住民のみとなっている。
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たまたま住宅が途切れ空き地となっているところから川沿いの崖が見えた。垂直なコンクリートの擁壁の下、右から左に向け立野川が流れている。崖の真上の家々の裏側もさらに斜面になっているようで、地形図をみると崖の上の台地との標高差は8m近くにもなる。かつては川に沿ってこの空き地の幅の分が、水田になっていたようだ。
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川沿いの崖の上に張り出している家があった。この家に住んでいるひとは足下が気にならないのだろうか。
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やっと現れた橋「小沢橋」から下流方向を望む。カーブする辺りで、洗剤まじりと思われる排水が流れ込み、水面が泡立っている。はっきりと下水や排水が流れ込むのを確認できたのはここだけだ。かつては相当汚染されていたという立野川の流れ。下水道の整備で水質は劇的に改善されたというが、あと一歩といった感じだ。ちなみに今回立ち寄り忘れたのだが、右側の駐車場の奥の崖下には湧水があるそうだ。
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小沢橋の上流側からは、水質がよくなる。水面に水草が生い茂り、その中を鴨の群れが泳いでいる。奥には西武池袋線の電車が見える。池袋線の向こう側は自由学園。立野川は自由学園の中を一部暗渠で通っている。
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自由学園の西側、南立野橋から、下流方向を望む。自由学園の敷地内を流れる立野川は、下流側の姿とは一変して、自然のままの流路が保たれている。緑が目にまぶしい。自由学園では生徒による川奉行が行われ、川を保全しているそうだ。
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同じく南立野橋から上流方向。2本の土管で潜っているのは、「たての緑道」の築堤。築堤には、戦前、東久留米駅から中島航空金属田無製造所に向かう引込み線が通っていて、戦後には「ひばりが丘団地」造成時の資材運搬線としても使われたという。
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土手の西側から上流方向。梯子状護岸の水路なのだが、木で出来ているのが変わっている。
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下流に較べると水量は少ないが、流れは速い。川はずっと、崖線の下に沿って流れており、おそらく川底や川と土手の境目などからも各地で水が湧き出しているものと思われる。水中になびく水草が水質の良さを伺わせる。護岸もところどころに素朴な土止めがあるのみだ。
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さらに上流にさかのぼって行くと、とうとう申し訳程度の護岸すらなくなり、草が伸び放題の中を流れる水路となった。
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川沿いを進むことはできないので、道路を回り込んで、水源近くまで行ってみると、畑地の向こうに森に囲まれた丘陵が見えた。川はちょうど畑と森の境目を流れている。
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森の西側へと目をやると、ちょっとした谷頭の地形となっていて、、まわりを木々が囲んでいる場所が見えた。おそらくそこが源流地点なのだろう。未舗装の道がそこまで延びていたので、行ってみることにした。
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道の突き当たりの先は窪地になっていた。そして、窪地の底の地面からはひっそりと水が湧き出して、川が流れ出していた。ここがまさに川の始まり、みなもとだ。標高は51m。落合川との合流地点より10mほど高く、下流部の崖上の台地と同じくらいの高さだ。北に200mほど行けば、そこは落合川シリーズ4回目でとりあげた南沢の湧水群だ。背後の斜面の上は「向山緑地公園」。こちらの標高は60mほど。公園といっても、ただ森があるだけの場所だが、ここには縄文時代から平安時代にかけ、集落があって人々が暮らしていたという。彼らはおそらく、立野川の水源に湧く水を利用していたのだろう。
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立野川を辿った時、上流に遡るにつれ時間も遡るようなその姿から、何となく、失われてしまった川たちのことを思い浮かべた。想像するに、関東大震災後の山の手の川や、高度経済成長期前の山手線周縁部の小川はこんな姿をしていたのではないだろうか。水源地は宅地と農地が混在し、緑がまだ残り、水が湧き出て細い流れをつくっていて、中流部では沿岸は宅地化して護岸が造られ、生活排水も流れ込み、下流部では川というよりも排水路の様相を見せる、といったような。それらの川はその後下水化し、暗渠化されてしまったが、立野川は幸いにも湧水が涸れることもなく、下水も別に整備されたことで、清流をほぼ取り戻し、生き残った。ただ、立野川は落合川のように特に保護や環境保全がなされたりしているわけはなさそうで、水源そばの農地が宅地になったり、比較的自然に近い姿が保たれている上流部に改修工事がされ、涸れてしまう、といったことも今後起らないとも限らない。みなもとの水がいつまでもひっそりとそこに湧き続ければよいのだが。そんなことを考えながら帰路についた。




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by tokyoriver | 2010-11-25 00:04 | 黒目川・落合川とその支流 | Comments(4)