東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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サイト"MIZBERING"に、3回目の記事を寄稿しましたのでお知らせします。

水のない水辺から・・・「暗渠」の愉しみ方 第10回 台地の上の、水のない水辺 三田用水跡をたどる
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 長大な三田用水を1回の記事で紹介したため、端折ったポイントも多いですが、前2回の神田川支流(和泉川)渋谷川水系と異なり今までブログ記事としてまとめたことはなかったので、ぜひお読みいただけたらと思います。

 記事中にも記しましたが、三田用水の流路の大部分は、現在そのものの「跡」としては残っていません。たまに目黒区と渋谷区の区境の道などが三田用水の跡として紹介されているのを見かけますが、実際にはそれらの道ではなく、道沿いの家々が立ち並んでいるところが三田用水の水路跡となります。
 通常の場合だと、暗渠は水路と同様公有地となるので、道路や緑道、あるいは未利用の土地として流路を留めることが多いのですが、三田用水がこうなってしまったのには、用水の権利をめぐる、水利組合と東京都の争いが背景にあります。
 長年にわたる裁判の結果、最終的に水利権は東京都に、一方で水路敷は水利組合の所有となりました。これにより、水利組合の清算業務に伴って1984年の組合解散時にはすべての水路が民間の土地となりました。

スペースの都合上本文には掲載しなかった、水路敷のかすかな痕跡の写真をいくつか。
下の写真では、屋根付きの駐車場の部分が三田用水の水路敷だったスペースです。用水は手前から奥に向かって流れていました。駐車場左端の境界石が三田用水の痕跡です。
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近づいてみると「水用」つまり、用水の文字が刻まれているのが見えます。その下は何と書いてあるのか、よく読み取れません。
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こちらは道路のクランクが、用水の痕跡です。手前では道の右側、駐車場の前のスペースとなってるところを三田用水が流れていて、クランクのところで橋の下をくぐり道路左側へ移って流れていました。
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こちらは道路ではなく、左側の平屋建ての家や、その奥の細長い2階建ての建屋の敷地がかつての水路敷です。路上に埋まる境界石もおそらく三田用水に関連するものです。
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今里橋の先、唯一暗渠らしい雰囲気の残る区間に、小さな橋と欄干のような遺構が残されています。
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他にも、現地をじっくり見ていくと、かすかな痕跡が残っています。これらは写真で見ても面白く無いものばかりなので、興味を持たれた方はぜひたどってみてください。
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by tokyoriver | 2015-09-25 22:54 | お知らせ | Comments(0)
鈴木用水をたどる第3回めは、ふたたび用水路が鈴木街道の両側に分かれる地点から。前回とりあげた街道南側の水路と街道を挟んで平行して流れる、街道北側の用水路を辿っていく。鈴木用水の概要および起点から分岐地点までのいわば上流区間については前々回記事を参照していただきたい。

用水の全体地図はこちら(google mapにプロットしたものをキャプチャ)
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■水の流れている区間
まずは上流部を拡大地図を見ながら追っていこう。
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鈴木街道の北側、街道沿いの家々の裏手を東に向かって流れていく鈴木用水。いい雰囲気だ。
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新小金井街道を越えると、水路は竹やぶの中に入っていく。街道側には大きな屋敷があり、この竹やぶやそれに続く林は、屋敷の防風林だったのだろう。近辺にはかつて「庄治郎水車」がかかっていたというが、ここがそうかもしれない。
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新小金井街道より先は、大部分で水路沿いを辿れないので、あちこちで鈴木街道から北にのびる道に入り込んで水路を確認していくことになる。「用水路の中では遊ばないように」という注意書きは、逆に今でも用水路で遊ぶ子供がいることを示していて、ちょっと頼もしい。
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水路沿いの緑が色濃い。
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鈴木街道沿い、西松屋の裏手付近で、上流方向を眺める。水路の幅がやや広くなっている。2014年5月時点では、鈴木用水に水が流れているのはここまでとなっていた。
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■空堀の区間

前の写真の地点から下流方向を見たところ。流れてきた水は、橋の下で下水に落とされているようだった。
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橋の先はご覧のとおり空堀となっている。川底が湿っていて雑草も倒れており、最近水が流れた様子がうかがえるが、撮影の数日前に降った大雨の影響かもしれない。
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小金井街道手前の区間を上流方向に望んだ様子。鈴木街道を挟んで南側には、田無用水と鈴木用水南側水路との立体交差がある(前回記事参照)。水路はかなり立派なつくりだが、水の気配は完全になくなっている。
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ここで下流部の地図も提示しておこう。
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暗渠化された田無用水と交差し、小金井街道東側に抜けた地点。さきほどまでの立派な水路とうって変わって、荒れ果ててとても水路には見えない状態になってしまう。写真左側、赤い木が生えているところが水路だ。トタン板の土留めでかろうじて水路であることが分かる状態。
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少し先に進むと水路は鈴木街道沿いに出る。ここから先は「大門橋緑道」として歩道とあわせて一応整備されている。しばらく街道沿いに流れていく(といっても水は全くない)。街道沿いの家々が水路上に敷地をとってはみ出している区間もあって、それらの場所ではなかば暗渠のようになっている。
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■緑道整備されている区間
200mほどで、用水路は再び街道から離れる。擬木の護岸や柵が設置されていて、水路沿いを歩けるようになっている。
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やがて水路は暗渠となり、「大門橋緑道」は暗渠道となる。
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緑道には街灯や「鈴木用水」の標識が設けられている。緑色の歩道はカーペットのようなつくりで、その下はコンクリート蓋となっているようで、歩くとガタガタする。
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■消滅しかけの区間
緑道の区間が終わると、再び水路が現れる。少し先までは、鉄パイプで留められたコンクリート板の護岸がつくられていて水路こそはっきりしているものの、やや荒れた雰囲気だ。奥の方は素掘りの水路に戻っている。水路は新田集落の形態を残した、北側に防風林を配した屋敷の中を抜けていく。
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鈴木街道を回りこみ、次に道路と交差する地点で水路を確認してみる。奥が上流側。素掘りの水路が残されているのはいいが、だいぶ埋まりかけており、単に畑の端が凹んでいるだけにしか見えない。
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下流側。上流側よりも更に水路はだいぶ埋まっており、雑草も生えている。ゴミが散乱しテレビまで捨てられており、かつて貴重な呑水を運んでいた姿とはかけ離れている。
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次に水路が確認できる地点は、多摩湖自転車歩行者道と交差する地点だ。写真左奥が上流側となる。鈴木用水は自転車歩行者道をくぐっていく。道路の下には、村山貯水池(多摩湖)から三鷹市の境浄水場までの10kmをほぼ一直線に結ぶ給水管が下に通っている。村山貯水池の水は途中まで玉川上水を経由して運ばれた多摩川の水で、その水がこの給水管を流れている。つまり、ここで玉川上水から分水された新旧の水路が交差していることとなる。
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多摩湖自転車歩行者道の下をくぐると、水路はほぼ消滅してしまう。写真奥から手前、道路の右側に沿って流れているはずなのだが、隣り合う畑地と完全に一体化してしまっている。
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畑地の東側の住宅地の中で、ようやく水路の続きを見つけることができる。
「ここは用水敷きです。通路ではありません、通りぬけしないでください。小平市 水と緑と公園課」
との看板がたてられている。しかし、これより下流、水路はわずかな鉄板蓋暗渠の区間を経て、砂利敷や未舗装の暗渠となってしまう。
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■消滅する区間

住宅地の隙間に、柵で囲まれた水路敷の空間が残る。
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ここでは鈴木用水の暗渠が右から左に横切っている。前後の区間は宅地に取り込まれていて不明瞭になっているが、道路の所だけははっきりと盛りあがっているのが面白い。アスファルトの下に、土管か何かとなって水路が通っているのだろう。この地点が、水路の痕跡がはっきりと判断できる最後の場所だ。
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住宅地を回りこみ、資料ではかつて水路が通っていたとされる道路に出る。中途半端な位置の電柱が思わせぶりではあるが、他には水路を示す痕跡は何一つない。
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開設当初の鈴木用水北側分水路は、この先で石神井川に落とされていたようだが、明治4年には田無用水から「田無村字芝久保呑用水」が分水され、そこに接続されるようになった。写真の道路の手前から鈴木用水の流末が、奥からは芝久保呑用水が流れ、奥に見える西武新宿線の踏切手前で、両用水が合流し東へと流れていた。歩道に残る古そうな側溝が用水路と何か関係はあるのだろうか。
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両用水の合流地点は今は企業の敷地となっていて、水路は確認できないが、その先断続的に芝久保分水の水路跡は残っており、石神井川合流直前の地点にはかなりしっかりしたコンクリート蓋暗渠が現存している。そちらについては長くなるので又の機会にあらためて紹介しよう。


(おわり)
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by tokyoriver | 2014-07-28 23:40 | 玉川上水とその支流 | Comments(3)
鈴木用水をたどる第2回めは、用水路が鈴木街道沿いに達し、街道の両側に分かれる地点から。今回は街道南側の用水路を辿っていく。鈴木用水の概要および起点から分岐地点までのいわば上流区間については前回記事を参照していただきたい。

用水の全体地図はこちら(google mapにプロットしたものをキャプチャ)
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前回の記事にも記したように、武蔵野台地の新田開発集落の多くは、街道に対して直角に短冊形の敷地を取り、屋敷を街道沿いに集中させるかたちをとっており、鈴木新田も同様のスタイルとなっていた。
下の図はその模式図。中央を東西に街道が通り(灰色ライン)、街道沿いに屋敷林に囲まれた家屋が配置され(図褐色の■)、その背後には短冊状の畑地(黄色の■)がのびる。用水路(青いライン)は各家の飲用水として利用されていたため、屋敷の敷地内、家屋の裏手(すなわち、台所側)を抜けてながれていく。
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鈴木街道沿いは今ではだいぶ宅地化が進み、屋敷林に囲まれた家屋はほとんど残っていないが、水路は今でも家々の裏手を抜けて流れていくため、水路に沿って歩くことはできず、鈴木街道から南北に延びる道路を随所で進み、水路を確認していくことになる。

まずは小金井街道までのいわば中流部の区間をたどっていこう。
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水の流れない水路

新堀用水分岐地点から鈴木用水を流れてきた水は、現在街道北側の水路のみに流されており、南側の水路は水が流れない状態となっている。下の写真は北側水路との分岐点から程無い地点。水は流れていないものの、コンクリートの橋が小さな欄干と共に残っており、鉄板の土留めで水路はしっかり保たれている。水路沿いにも緑が残る。
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しばらく進んだ地点。奥には屋敷林の名残が見え、水路は素掘りのまま保たれてはいるのだが、水が流れていないため、ちょっと荒れた感じになっている。水路だと気づかない人が大半なのではないか。
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ここではかつての屋敷の敷地が駐車場となっている。水路の底まで雑草が生えており、落ち葉も積もっている。知らなければ単なる細長い窪地に見えるかもしれない。この近くにはかつて「利左衛門水車」が設けられていたという。こんな細い水路に水車が掛けられていたとはにわかには信じがたい。
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ここでは水路の底を雑草が埋め尽くしているものの、再び土留めが設けられ、そのおかげで水路は明確になっている。
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水路の立体交差

小金井街道の西側では、田無用水との立体交差が見られる。コンクリート製の掛樋で上を通っているのが鈴木用水、下をくぐっているのが田無用水だ。
田無用水は前回も記した通り、鈴木用水の開通する34年前の1696年に開通している。田無地区への給水を目的としているので、この辺りはあくまで通過しているだけで、水を利用することは基本的にはできなかった。
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玉川上水からの分水には、谷筋や自然河川を越えるために土手や掛樋が設けられていた場所がいくつかあるが、このようにほぼ同じ平面で、しかも用水路同士が交差するのは珍しいのではないか。掛樋の側面には昭和5年10月と刻まれている。
下を潜る田無用水はだいぶ埋もれていて、樋の底との隙間が狭くなっている。樋の中の水路はかなり浅いが、水が溢れることはなかったのだろうか。
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上流側から下流方向を望む。鈴木用水は右奥へ、田無用水は左奥に流れていき、この先で鈴木街道を越え、小金井街道より東側は暗渠となる。その手前では鈴木用水の北側分流と交差していたはずだが、現在は全く痕跡はない。
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鈴木用水の方は、最近出来たばかりと思しき戸建て住宅が立ち並ぶ中、大きくコの字型に迂回するように続いていく。この近辺(小金井街道(府中道)の西)にはかつて「治右衛門水車」と呼ばれた水車が設けられており、そのために迂回していたのかもしれない。小金井街道の東側には「喜右衛門水車」も設けられていた。
これらの水車は自家用ではなく、商用の水車で、他所で収穫された米や穀物の脱穀、製粉を請負って利益をあげていた。
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荒れていく下流部

小金井街道を越えると、西武新宿線の花小金井駅から近くなることもあり、鈴木街道沿いはだいぶ宅地化が進んでいて、水路も様相を変えていく。
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小金井街道を越えた少し先。土がむき出しの水路。土揚敷の土が崩れ、水路がだいぶ浅くなっているようにも見える。手前のコンクリートの橋がなければ水路とわかるだろうか。
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さらに先では、水路の上をまたがってトタンの建物が建てられていた。その下をくぐってくる水路はコンクリートの護岸。そして手前には暗渠でよく見られるようなゴミの集積スペースまで設けられていて、かつて貴重な呑水をもたらしていた水路にしてはずいぶんとぞんざいな扱いを受けている。周囲も家々がびっちりと建ち、ここまで来るとかつての新田集落の面影は失くなってしまう。
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こんな典型的なコンクリート蓋暗渠の区間まで現れる。
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その先で一瞬、素掘りの素朴な水路が残る区間があったのだが、今年に入り一帯の土地が宅地用に造成され、失くなってしまった(写真は2008年撮影)。
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土地の造成中は水路は全く姿を消していたのだが、造成後には写真のような水路があらたに作りなおされていた。写真左側のあたりが、前の写真の素掘りだった区間だ。この辺りはもはや水が流れてくることはないと思われるのだが、それでもこうしてしっかりとした水路がつくられるのは、将来通水が復活する可能性があるということだろうか。
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前の写真の中央奥で左に曲がった水路はこの素掘りの水路に繋がっている(写真奥の右側から先の水路がやってくる)。そして写真で前で再び右に折れる。これだけ大きくコの字型に迂回しているということは、かつては大きな屋敷があったということだろう。
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右に折れた先はアスファルトの下の暗渠。道路を進んでいくと鈴木街道につきあたり、水路は右(東)に折れる。
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中央の、赤いアスファルトの下が鈴木用水の暗渠だ。鈴木街道に挟まれたスペースには水遊び場が設けられている。
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暗渠から出た鈴木用水は再び鉄板の土留め水路となり、東へと向かっていく。
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流末近くでは、かつての短冊形の畑地が、区画を残したまま新興住宅地となり、戸建ての家が隙間なく並んでいる。その間を縫うように水の流れない水路が抜けていく。
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かろうじて残る流末

新興住宅地の先で、水路は道路から大きく離れて大きな屋敷の中に入って追えなくなる。この先、水路は石神井川の流れる谷に下っていく。その途中で水路はいったん消滅してしまっているようだ。谷に下る斜面の途中では、こんな空き地となってかろうじてルートが確認できる。水路の窪みはなくなっている。深い谷のように見えるが、両側の住宅の下の擁壁は明らかに盛り土で、周りが高くなったことで相対的にそう見えるだけで、実際には谷の斜面をななめに下っている。
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谷底まで下ると、再び家々の隙間に水路の痕跡が現れる。だいぶ荒れていて、もはや側溝にしかみえないかもしれないが、これが延々と追ってきた鈴木用水の末端だ。
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先ほどの水路を下流側から見たところ。右側の道路が鈴木街道だ。そしてすぐ手前には石神井川が流れている。
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鈴木街道の長久保橋のたもとで、鈴木用水の南側水路は石神井川に到達し、終わる。起点からここまでの流路はおよそ4.3km。起点の標高がおよそ80mなのに対し、流末の標高は60mほど。20mほどの標高差になるが、そのうち5mは、最後の200mほどで一気に下っている。石神井川の護岸に空く小さな排水口がかつての合流口の名残だろうか。
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長久保橋から、石神井川上流方向を眺める。奥の森は小金井公園、数百m先は公式の石神井川上流端となる。
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この付近の石神井川はかつては悪水堀と呼ばれていた。現在では水源は涸れ、普段は水は流れていない。石神井川源流については、こちらの記事をぜひご参照いただきたい。

次回は鈴木街道の北側の水路を追っていく。

(つづく)
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by tokyoriver | 2014-07-03 23:30 | 玉川上水とその支流 | Comments(0)
またもや久々の記事となってしまったが、今回から玉川上水の分水「鈴木用水」について、3回ほど続けて更新していく予定なので、お付き合いいただければ幸いに思う。
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玉川上水と武蔵野台地の開発

 今回とりあげる「鈴木用水」は、武蔵野台地上に「新田開発」で出来た村への飲み水の供給を目的とした、玉川上水からの分水路のうちのひとつだ。

 もともと武蔵野台地の中央部は、川が無く地下水位も低かったため、近世まで人の住む集落は皆無に近かった。1654年、江戸市内への給水を目的とした玉川上水が武蔵野台地の中央を貫くように開通すると、この水を分水し呑水を得ることでようやく集落が形成されるようになった。最初の分水は1655年の野火止用水で、次いで1656年に小川用水が分水され、小平エリア最古の村である小川村が開拓された。
 小川村は台地上を東西に通る青梅街道の両側に集落を形成し、それぞれの家屋の背後に、南北に細長い短冊状の地割で、各家の敷地がわりふられている。これは小川用水からの給水の利便性を意図していたという側面があるようだ。小川用水は青梅街道の両側にふた手に分かれて平行して流れ、街道沿いの家々に呑水を給水するかたちとなっていた。1696年には田無用水が開通し、同様に青梅街道の両側に分かれて流れ、街道沿いの家々に給水するかたちをとった。この形態は、後に続く新田開発でも踏襲されていく。

 台地上の開拓は17世紀後半にいったん抑制されたが、江戸時代中期、いわゆる「亨保の改革」の時代に大規模に再開された。これは江戸幕府は財政再建のための税収増加をもくろんだためで、武蔵野台地の新田開発が奨励された。開発にあたっては飲水の供給源として玉川上水からの分水が活用され、新田開発に伴いいくつもの分水が開削された。これらの分水は利用料の徴収が免除され、入植した住民は無料で用水を利用できたという。

下の地図は、それらの用水路の全体図(google mapにプロットしたものをキャプチャ)。ピンク及び赤のラインが用水路、水色及び青のラインが川となる。玉川上水から放射状に分かれる用水は台地を廻り、谷を流れる川に落とされる。動脈と静脈の関係がはっきり見て取れる(といっても実際には用水にはなかなか十分な水量が流れず、流末に辿り着く前に涸れることもままあったようだ)。
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鈴木新田と鈴木用水

 今回とりあげる鈴木用水が引かれた「鈴木新田」は、貫井村(現小金井市)の名主鈴木利左衛門が中心となって、1722年に幕府の許可を得て開発され始めた新田だ。現在の地名では小平市鈴木町、御幸町、花小金井南町にあたる。開拓資金の多くを提供したのは木更津の商人、野中善左衛門。ちなみに新田開発は資産家にとってはいわば投資先でもあり、出資して無事に開拓が完了すると、高い値段で権利を転売するといったことも行われていた。鈴木新田に隣接する野中新田は、そのような形で野中善左衛門が開拓した村だ。

そして鈴木用水が開通したのは1730年。野中新田とあわせ「鈴木新田・野中新田組合飲水」として玉川上水の喜平橋の付近に分水口がつくられた。用水路は鈴木新田に入る前に、鈴木用水と野中用水に分岐し、各新田へと流れていく。鈴木用水は鈴木街道に到達すると、小川用水などと同様に街道の両側にわかれて鈴木新田の家々に水を供給しつつ東へと流れていき、流末は石神井川に落とされていた。
野中用水からは1734年、更に大沼田用水が分岐された。こちらは1724年に開拓が始まった大沼田新田のための用水で、呑水だけではなく、わずかながら水田にも利用され「大沼田新田田用水・呑用水」とも呼ばれた。当初は鈴木・野中用水の分水口の隣に別途取水口が設けられ、取水後に鈴木用水の流れに合流していた。

3つあった鈴木用水

 なお、「鈴木新田」「野中新田」は少し離れた玉川上水の南側にもひらかれ(上鈴木新田(現小平市上水本町)、堀野中新田(現小平市上水南町))こちらにも1732年に玉川上水より分水が引かれている(鈴木新田・野中新田・貫井新田・下小金井新田組合呑水用水)。
さらに、石神井川源流部の浅い谷戸に開かれた小平地区ほぼ唯一の水田も鈴木村の管轄で、こちらにも1734年に「鈴木新田「田」用水」がひかれている(「石神井川の源流を探して(4)源流解題ー鈴木遺跡・鈴木田用水・経理排水・石神井幹線」参照ので、ややこしいといえばややこしい。この一帯の用水路を紐解くには混同しないよう留意しなければならない。

明治以降の用水

 これらの用水はもともとはそれぞれ玉川上水から直接取水されていたが、明治初期に玉川上水への通船を行うため、取水口の集約が行われた。鈴木用水など上水左岸(北側)の分水路は、玉川上水に平行して開削された「新堀用水」から分水されるようになった(右岸(南側)の分水路は、砂川用水を、既存の他水路と接続しつつ東に延長し、そこからの分水となった)。これに伴い、各用水路の管理も一本化され、「北側新井筋組合」が設立された。

 用水は明治末期まで飲水として利用されていたが、大正期になると用水の水流を媒介として赤痢やチフスなどの伝染病が流行したため、徐々に井戸に移行していった。ただし地下水位が低いため井戸の開削にはコストがかかり、なかなか普及はせず、水の苦労は続いた。戦後になって行政により深井戸がつくられるようになり徐々に水道が普及していく。こうして用水路は徐々に役目を終えていった。

消えた用水、生き残った用水

 用途を失った用水路は一方で水路沿いの宅地化が進み、排水が流されたり、ゴミが捨てられて荒れ果てたりといった状況も発生するようになった。田無市や小金井市、国分寺市などでは用水路の大半は暗渠化されたり埋め立てられたり、もしくは完全に消滅してしまった。
 ただ、水路の大半が通る小平市では、幸いにも水路の大半は生き残った。そして、1995年に「小平市用水路活用計画」が、2001年には「小平市上水路条例」が施行され、市として水路を保全していく方向性が明確にうちだされた。2006年には地方分権一括法により、用水路の所有権が国から市へ移管されている。
 小平市内に残る用水路は、この保全策により今でも水が流れている区間が多い。そして、小平監視所より下流の玉川上水が高度処理水、つまり下水の再生水を流されているのに対し、これらの用水路は多摩川からの水がそのまま流されており、いわば本物の分水が今でも生きているといえる。

現在の鈴木用水

 現在鈴木用水は途中までは水が流れていて、かつての新田の面影を残す風景も点在している。一方で、途中からは水が流れない空堀となり、緑道や暗渠となっていたり、埋まりかけていたり、あるいはほとんど消滅してしまった区間もある。そこには用水路の現在の姿のバリエーションがほぼ網羅されているといってよい。そこで、今回は鈴木用水を事例として、現在の武蔵野台地上の玉川上水からの分水路の様子を辿ってみることにしようと思う。

最初に全体図を示しておく。地図はgoogle mapにプロットしたものをキャプチャ。ピンク及び赤のラインが用水路(ピンクは現存、赤は暗渠もしくは水路跡)、水色及び青のラインが川(水色は現存、青は暗渠もしくは川跡)。鈴木新田のおおよそのエリアを緑の塗りつぶしにて現した。なお、地図外の玉川上水南側に、上鈴木新田がある(現小平市上水本町)。
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現在の鈴木用水は喜平橋での新堀用水からの分岐点に始まる。前文でふれたとおり、もともとは玉川上水から直接分水されていたが、1870年(明治3年)に玉川上水に平行する新堀用水が開通してからは、新堀用水の取水口でまとめて定まった量の水を取水し、ここで分けられるようになった。
新堀用水本流のほうは、ここから先は現在は田無用水にしか給水しておらず、水路もそれ以外は途切れてしまうため、実質的には鈴木用水と田無用水の分岐点といっていいだろう。鈴木用水の方に小さな水門が設けられている。
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水門を反対側から見たところ。分岐点のところだけは、コンクリートのしっかりした護岸となっている。
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水門で分かれた鈴木用水はまず北上する。通常は澄んだ水が流れているのだが、上の写真を撮影した2014年5月の時点では水は濁っていた。これは、新堀用水の水路底に亀裂ができたため2013年夏より送水が停止されており、今年5月に再開したばかりのためだ。
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水路は警察学校の前で暗渠へと入り込む。入り口の芥止めには雑草など大量のゴミが引っかかっている。一年足らずの停止期間の間に水路に生えた草や落ちた枯れ葉などが運ばれてきているのだ。
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右端に見える柵が、先の写真の芥止めの地点。水路は道路を横断し、直角に曲がって左側の歩道を暗渠になって写真奥方向、東へと流れていく。本来はここで曲がらず北東に流れていたが、1942年の陸軍経理学校の開設に伴って、敷地の南側〜東側を迂回するように付け替えられた。
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経理学校の敷地は現在警察学校や小平団地となっている。その区画の南側に、都区部でもよく見られるような、コンクリート蓋の暗渠が続く。蓋の上から中の様子はまったくわからず、知らなければ古びた暗渠にしか見えないが、この中には多摩川から運ばれた水が滔々と流れている。
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小平団地南東側の喜平図書館付近。暗渠の上にバス停がつくられている。
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暗渠は回田道に沿って北上した後、小平団地東交差点付近で道路から離れ、再び姿を現す。
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水路沿いには未舗装の歩道が続き、ちょっとした散歩道として整備されている。
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しばらく進むと、野中(及び大沼田)用水との分岐点が見えてくる。左側の大きい水門が野中用水、右側が鈴木用水だ。明治初期の記録では野中用水と鈴木用水の分水の比率はおよそ4:3。水門の手前の水路の分岐点には水を均等に分けるため堰が設けられているが、その幅の比率は4:3ほどとなっており、おそらく明治時代と変わりないのだろう。
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水門を下流側からみたところ。エメラルドグリーンの水門にペンキで描かれ青い水がシンプルながらよい雰囲気を出している。
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野中・大沼田用水はまっすぐ北に向かって流れていくが、分かれた鈴木用水は、北東方向に向い、民家の敷地内の森へと流れていく。ここから先は水路沿いを辿ることはできないので、道路と交差する地点を回り込みながら追っていくこととなる。
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民家の敷地を抜けてきた水路は一旦鉄板暗渠に入るが・・・
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道路を横切って再び姿を現すと、林の中を抜ける素掘りの水路となる。こちらもかつての武蔵野の用水の姿を残す素晴らしい風景だ。
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林を抜けたのち、水路は鈴木街道沿いに到達する。ここより東が鈴木新田の中心地となる。街道の西端には鈴木新田の鎮守である鈴木稲荷神社があり、水路はその境内を抜けていく。鈴木稲荷は1724年、開拓の中心人物である鈴木利左衛門の出身地貫井村の稲荷神社を新田の産土神として勧請した社である。
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参道が鈴木用水をまたぐ地点には、昭和12年竣工のコンクリート橋がかかっている。
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神社の境内を抜けていく鈴木用水。
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鈴木街道に出ると水路はほぼ直角に東に曲がり、真新しいコンクリート暗渠の中に入ってしまう。写真右側が鈴木稲荷の境内。そして道路を挟んだ反対側は宝寿院の敷地だ。宝寿院は鈴木稲荷神社と同じく鈴木利左衛門が、新田開発に尽力した父の菩提寺として1726年に府中より移設し開山した寺だ。
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鈴木用水はここより先、道沿いに並ぶ家々に呑水を給水するために、街道の両側に分かれて街道に並行し東進する。写真奥がその分岐点で、手前に見えるのは街道南側の水路だが、こちらは現在水が通されていない。
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こちらは街道北側の水路。道路を挟んだ奥が南側水路との分岐点だ。鈴木用水を流れてきた水は、2014年5月現在では北側水路のみに流されている。ではその水はどこまで流れているのだろうか。次回以降は南側水路、北側水路のそれぞれを追っていこう。
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(つづく)

主要参考文献

大日本印刷株式会社CDC事業部年史センター編 1994「小平市三〇年史」小平市
小平市中央図書館編 2001「小平市史料集 第26集 玉川上水と分水4 水車 絵図」小平市教育委員会
小平市史編さん委員会編 2013「小平市史 地理・考古・民俗編」小平市
小平市企画政策部編 2013「小平市史別冊図録 近世の開発と村のくらし」小平市
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by tokyoriver | 2014-06-26 12:00 | 玉川上水とその支流 | Comments(2)
狛江市内にひろがる暗渠・水路跡の迷宮を辿るシリーズの4回目は、小田急線狛江駅前の緑地保全地区に残る「弁財天池」および「ひょうたん池」から流れ出していた「清水川」の上流部をとりあげる。

「清水川」はもともとは岩戸川に合流していた(岩戸川はその時点では野川の流路だった)が、六郷用水開通後のある時期以降に岩戸川から切り離され、岩戸、猪方、和泉の3地区の境界地点から掘割を開削して南下し、駒井地区と猪方地区の灌漑に利用されていた。この掘割の区間も含めて狛江エリアでは清水川と呼ばれていたという。流末は猪方用水の一流と合流したのち町田川へと接続されていたようだ。一方で源流部近くでは前回記事で取り上げた「相の田用水堀」の余水も取り入れられていた。
「清水川」「岩戸川」とその下流部「町田川」「宇奈根川」「喜多見川」の流路は自然河川も人工的な水路も複雑に絡み合っていてどの区間をどう呼ぶかには地域や研究者により諸説あるところだが、ここではこの狛江市内での呼称に従いたい。

まずは概略図を。今回取り上げる範囲は下の地図でピンクの枠で囲った中の、紫色のラインとなる。なお、地図に示された水路はすべて現存しない。
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***********

小田急線狛江駅の北側、駅のすぐ目の前に、駅舎よりも高い木も生える鬱蒼とした森「狛江弁財天池緑地保全地区」がある。緑地保全地区内は、立川段丘の末端に刻まれた浅い谷頭の窪みがあって、「ひょうたん池」と呼ばれる湧水池が残されている。そして北西に接している泉龍寺敷地の林の中にも「弁財天池」が残されている。泉龍寺は奈良時代に創建された歴史のある寺院だ。
かつては豊富な湧水量を誇っていて、周囲からは縄文時代中期、古墳時代、奈良時代といった各時代にわたる遺跡が発掘されており、湧水が古くから人々の生活を支えてきたことが伺える。湧水は和泉の地名の由来となったとも言われている。
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「弁財天池」の方は泉龍寺の敷地なので自由に立ち入りできるようになっている。池には昭和初期には毎分9000リットルもの水が湧き出ていたというが、周辺の開発などにより1960年代後半から度々枯渇するようになり、72年には完全に涸れてしまい、翌73年には復元のため工事が行われたという。2006年には深さ70mの井戸を掘り、地下水を供給するようになった。
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中島には1693年に建てられたという石祠が祀られている。
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弁財天池から溢れた水は南東側に接し一段低くなっている「ひょうたん池」に注いでいる。こちら周囲は保全地区となっており決められた日のみ公開されている。大正末期より一帯は高級料亭となり、池を囲い込んだことから池を利用する和泉の住民たちとの間で逮捕者のでる争いになったという。料亭は戦時下には廃業し陸軍大将の荒木貞夫の邸宅となった。
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池から流れでた清水川はすぐに相の田用水と合流し、狛江駅を南側にくぐっていた(前回記事参照)。1960年代半ばまでは駅の南側には開渠の水路が見られたが、駅前ロータリーとそれに続く通りの整備により暗渠化され、駅前には川を偲ばせるものは残っていない。駅前の通りを150mほど南東に進むとようやく、北側に車止めの設けられた暗渠道が現れる。
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少し進んで振り返ってみたところ。両側よりもわずかに低くなっている。道端の雑草がよい雰囲気。この辺りには水車があったという。
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草生す幅広の暗渠空間。第1回の記事で触れたようにここには間に土手を挟み2本の水路が並行して流れていた。その水路を書き込んでみた写真を第1回記事より再掲載。右側が清水川、左側は近くの揚辻(谷田部)稲荷の湧水池から流れだした川だ。水利権の事情でこのような形態となったのだろう。
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世田谷通りの南側にも2本の川とそれに挟まれたかつて水田だった土地が空き地で残っている。揚辻(谷田部)稲荷からの川は未舗装の道となっているが、清水川の方は水が涸れた状態で残っている。このエリアも第1回で取り上げたが、今回は清水川を主役に辿る。写真は半ば埋もれかけた清水川を上流方向に向かって撮影。護岸がしっかり残っている。
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こちらは下流方向に撮影したもの。立派なブロック護岸は比較的新しそうだ。
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しかしその先に少し進むと、水路はだいぶ埋もれてしまっている。
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一帯は浅い谷戸地形となっているが、谷戸の南側の斜面には緑が残り、その直下に川が流れていた面影を残している。右側の草地はかつて水田だった場所だ。
空堀沿いの空き地は最近「清水川跡地整備事業」として市民参加のワークショップ形式で意見がまとめられ、公園として整備されることが決まったという。2012年度内には着工されるとのことで、この風景が見られるのもあと少しだろう。清水川の空堀は保存されるらしいが、どの程度残されるのだろうか。
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清水川の痕跡は道沿いの窪地としてかろうじて続く。こちらは公園となったらなくってしまいそうだ。
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空き地を抜け、旧大山道と交差する地点。この写真も第1回より再掲載。清水川と揚辻稲荷から並行するの2本の流れに架けられた橋は、二ツ橋とも眼鏡橋とも呼ばれていた。ここから先は整備された緑道が現れ、そのすぐ先では岩戸用水からの分流(暗渠)にくわわるのだが、冒頭に記した通り六郷用水開通以後のある時期から、清水川の方はそちらには合流せず、写真右側の、舌状に飛び出した立川段丘末端の微高地を深い掘割で横断し、段丘の南側に落とされていた。
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言葉ではわかりにくいだろうから、下の段彩図を観ていただきたい。わかりやすいよう標高差を強調して色分けした。画面中央のあたり、「堀割の区間」と記したルートがそれだ。黄色く色分けされた微高地が、立川段丘の末端となる。緑系に色分けされた低地とは2mほどの標高差だが、その南側はいちおう「府中崖線」の続きとされていて、地元では「ハケ下」と呼ばれていたという。
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かつての掘割は現在では埋められていて、普通に段丘の上まで上り坂の道となっている。写真は途中で振り返ったところで奥に見える車止めが「二ツ橋」の地点だ。右側の柵の下は擁壁となっていて、岩戸川緑道が手前右に向かって通っている。左手の木の生い茂る個人宅内には古墳が残されているらしい。
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段丘上の掘割跡の道。左岸側は天神森と呼ばれる鬱蒼とした土地で、掘割沿いの家屋には、水路に降りる洗い場が家ごとにあったという。現在の様子からはまったく想像がつかない。
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段丘を下り、狛江の水道道路を越えた地点。道路から浮かび上がっている歩道が水路の跡だ。清水川の水路はかつて写真左から流れてきて、ここで府中崖線に沿って西から流れてきた猪方用水の分流の流末を加えると同時に、南、東、北東の三方に分かれていた。猪方用水の分流、南側分流、東側分流は今ではふつうの道路となっていて水路の面影はないが、北東への分流だけは暗渠として残っている。写真右側、奥に伸びているコンクリートの段差がそれだ。
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その暗渠を下流方向からみたところ。コンクリートの蓋がしっかり残っている。奥に見える鳥居は白幡菅原神社でかつての猪方村の鎮守社だ。明治初期の神仏分離時に、別の場所にあった白幡神社がもともとあった天満宮の場所に移転・合併し白幡菅原神社となった。そのため菅原道真と源頼朝を祀っている(さらに徳川光圀公と井伊直弼まで祀っているそうだ)。神社の前には湧水が湧き、洗い場もあったそうだ。
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蓋暗渠は水道道路と交差して道路の北側、ぽつんと大木が生えている方へと向かっていく。そちらにも蓋暗渠が続いているが、ここから先は別の記事としよう。
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(つづく)
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by tokyoriver | 2012-08-09 22:47 | 野川とその支流 | Comments(0)
狛江市内にひろがる暗渠・水路跡の迷宮を辿る3回目は、前回の「内北谷用水」にひきつづき六郷用水の分水「相の田用水堀」をとりあげる。現在の小田急線狛江駅西方にあった旧和泉村田中地区の「相の田」と呼ばれた水田を灌漑し、泉龍寺の弁財天池から流れ出す清水川に合流していた用水路だ。下の地図でピンクの枠で囲った中の、青色のラインとなる。なお、地図上に描かれた水路はいずれも現存しない。
相の田用水堀はもともとは六郷用水から直接分水されていたが、寛文年間(1661〜72年)に猪方用水が開削されて以降は、猪方用水から分水されるかたちとなった。廃止時期ははっきりしないが遅くとも1960年代にはなくなっていたと推測される。
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現地を辿って見る前に、段彩図で地形を見てみよう(カシミール3Dで基盤地図情報を読み込み作成。緑が濃くなるほど低地)。先日の「東京人」の地形特集で訳の分からない記述があったが、六郷用水は段丘の下ではなく上を、掘割を開削して横切っていた。猪方用水も狛江駅南東の猪方の灌漑が主目的なので、和泉地区では本流は微高地上を通り、効率良く送水できるようになっている。一方、相の田用水堀は微低地を縫うように抜け相の田の低地に入り、その低地は清水川の谷筋の谷頭に繋がっている。
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前回の内北谷用水同様、この相の田用水堀についても資料は少ない、というかほとんどない。また、痕跡も断片的にしか残っておらず、知っていなければ水路がどのルートを流れていたのか判断するのが難しいかもしれない。しかし、この用水路が流域の水田の灌漑だけではなく、清水川の源流に接続して湧水を補うという重要な役割も果たしていた。そんな訳で地味ではあるが上流側よりその痕跡を辿っていくことにする。

*********

現在六郷さくら通りとなっている六郷用水跡。かつて猪方用水が分水されていた地点の付近から上流方向を望む。右手の林の公園一帯はかつては大塚山と呼ばれた高台で、六郷用水を偲んでか、人工のせせらぎが設けられている。猪方用水は分水された後4mほどの深い掘割で大塚山を抜けていたという。
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分水地点のすぐ東側には狛江市の運営する「むいから民家園」がある。敷地の北側、写真の道に沿って猪方用水が右手前から左奥に流れていた。むいから民家園は、かつて小田急線沿いにあった江戸後期の古民家江戸後期の古民家を移設し、2002年に開園した。庭先を含めて長閑な農家の風景が再現されている。
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民家園の茅葺き農家の中には、1935年前後の猪方用水分水地点付近の絵地図が展示されている。猪方用水の取水口のすぐ下流側に描かれている「日本水道採水場」では、ここから500mほど南東の狛江第三中学校のところにあった「狛江浄水場」の水を取り入れていた。狛江浄水場は1932年、日本水道株式会社が給水を開始した。当初は多摩川の伏流水を汲み上げて使用していたが、1934年〜36年にかけて拡張工事を行い、六郷用水からも導水するようになったという。採水場だった場所は現在田中橋児童遊園と名づけられた小さな公園になっている。そして絵地図の民家園の下、猪方用水から下にわかれるように描かれているのが相の田用水堀だ。
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下の写真が現在の相の田用水堀の分岐点。右奥に進む道が猪方用水で、中央で分かれている道がかつての相の田用水堀だ。水が流れていた頃を偲ばせるものは何一つ無い。
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猪方用水開削以前の相の田用水は、猪方用水分水地点よりやや下流の田中橋付近、「橋場」と呼ばれた辺りで分水されていたという。田中橋は全長10m、幅4mほど。橋の下の六郷用水は水面まで4mほどあったといい、橋の袂に洗い場があったものの、登り降りが大変だったという。現在は交差点にその名が残るほか、すぐそばの稲荷社の脇にコンクリート橋の親柱が残されている。写真手前の親柱には「田中橋」の名が、奥の親柱には「昭和4年2月」の竣工年が刻まれている。
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現在田中橋の交差点を南北に横切る新道が造成されている最中だが、その東側には相の田用水堀の水路跡が未舗装のまま残されている。
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未舗装区間はほんの数十mだが、なかなか風情がある。かつて水が流れていた頃の風景を想像できる唯一の場所かもしれない。
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下の写真は未舗装区間の終点を振り返ったところ。左右に横切っている道はかつて鎌倉道とも高井戸道とも呼ばれた古道で、高井戸から祖師谷を経由し、南下して多摩川を船で渡り登戸まで続いていたという。細いながらも現在でも都道扱いとなっている。
用水路は鎌倉道を潜ったのち写真左から右へ流れ、右端で手前に折れていた。その折れる地点に石造りの欄干が映っているのがわかるだろうか。
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近くから見ると側面に「鎌倉橋」の名が刻まれている。以前「「道角橋」と「田端橋」–失われた川に架かっていた2つの石橋の運命 」の記事で紹介したのと同じタイプの欄干だ。この欄干は昭和初期のものと伝えられており、前の写真の未舗装道終点のところに架かっていたと思われる。名前が鎌倉道に由来するのは間違い無いだろう。
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鎌倉橋欄干より先、相の田用水堀は写真の道に沿って東へと流れていた。右岸側(写真で道路の右側)がかつて相の田と呼ばれた水田だったところで、水田を挟んで南側には分水路が分かれていて、水田への水の出入りを制御していた。
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用水堀の本流はただの道路となっているが、こちらの分水の痕跡らしきものは住宅地の合間にぽつりぽつりと残っている。下の写真は水路敷と思われる細長い空き地。
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そしてこちらは水路敷が通っていたと思われる地点で両側の家の塀が不自然に切れている。
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泉龍寺の山門に続く道のところではついにはっきりした水路跡(暗渠?)が現れる。
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よくよく見てみると、雑草に囲まれてコンクリート蓋が続いているのがわかる。近づいて確認したいところだが、さすがにこの中に入っていくのは厳しい。
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反対側に回りこむとそこはもう狛江駅の目の前だ。水路跡の出口は防災倉庫で塞がれている。
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北東側に引いて見るとこんな感じ。水路は左奥の防災倉庫のところからおそらく手前に流れ、手前の不自然な車止めのあるあたりで、相の田用水堀本流と、写真右側外れにある泉龍寺の弁財天池・ひょうたん池から流れ出した清水川に合流していたと思われる。清水川はこの不自然な二重の車止めの辺りを右から左に向かって流れていた。
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ここから先は清水川の記事で改めて扱うことにしよう。最後に復習の地図を掲載。
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(つづく)
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by tokyoriver | 2012-07-24 23:12 | 野川とその支流 | Comments(0)
狛江市内にひろがる暗渠・水路跡の迷宮を辿る2回目は、六郷用水の分水「内北谷用水」。内北谷は旧和泉村の字名で、北側では同じ和泉村の北谷、南側では旧岩戸村に接している。かつてそこにあった水田を潤していた用水路が内北谷用水だ。下の地図でピンクの枠で囲った中の、青色のラインとなる。
※なお、地図に描画した水路はすべて現在では埋め立てもしくは暗渠化されている。
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前回も記したように、六郷用水は当初、六郷領のみに水利権があり、途中の世田谷領では1726(亨保11)年にようやく利用できるようになった。しかし、狛江では取水口提供の見返り、もしくは六郷用水で分断された野川の代替なのか、開通直後から分水が許されており、最終的には3本の分水路が引かれていた。内北谷用水はそのひとつにあたる。

内北谷用水について触れた文献は少なく、またネット上でもざっと見た限りこの用水路を取り上げたサイトはなかった。そんな忘れられた水路なのだが、今でもその痕跡は部分的に残っている。それらを辿っていこう。

内北谷用水本流

エコルマホールのそびえる狛江駅北口。現在ではかつての風景は抹消されているが、写真中央の歩道を手前から奥左側に向かって、1965年まで六郷用水が流れていた。写真の右側外れにはかつて狛江尋常高等小学校(現狛江市立第一小学校)があり、その前の通称「堰場」と呼ばれていた場所(おそらく写真手前か、正面の植え込みあたり)で、内北谷用水が分水されていた。
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歩道を東に歩いて行くと、エコルマホールの向いに、六郷用水に架かっていた「駄倉橋」の親柱が保存されている。明治後期には「めがね橋」と呼ばれたアーチ状の構造の橋。その駄倉橋のすぐ南側に、内北谷用水に架かる和泉橋があった。六郷用水は深い掘割を流れていたのに対し、内北谷用水はかなり浅かったようだ。
二つの橋の上を通っていたのは品川道/筏道と呼ばれる古道。多摩川を筏で下った筏乗りが、六郷の河口で筏を材木として引き渡した後、この道をたどって奥多摩まで帰ったことから筏道と呼ばれ、また、府中の大国魂神社での年1回の祭礼に使う海水を品川の海から運んだ道でもあることから、品川道とも呼ばれているという。
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駄倉橋の北側、エコルマ3の裏手には「駄倉塚」がかろうじて残されている。狛江は狛江百塚とも呼ばれるほど古墳が非常に多い土地で、駄倉塚も5世紀半ばにつくられた全長40m、高さ4mほどの円墳だった。明治後期の一時期には、この塚の松の木に旗をあげた天気予報告知が行われていたという。
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内北谷用水は和泉橋の先で、六郷用水を離れ南へと下っていた。少し前までは駅前に水路跡が残っていたようだが、現在は狛江エコルマ2ビルが建ち消滅してしまった。ただ、小田急線の線路の北側に、わずかな区間だけ行き止まりとなって水路の痕跡が残っている。
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そして線路の反対側に回ると、ちょうどその痕跡の延長線上に、砂利道となった水路跡が続いている。
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砂利道の区間が終わる地点から上流方向を振り返る。マンホールがあるが、暗渠(下水)となっているのだろうか。
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下流方向を見ると、中途半端な空き地があって、民家の庭の木戸へと続いているのだが、ここをかつて内北谷用水が流れていた。
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ここから先、水路は品川道/筏道のかたちに沿って逆「く」の字に曲がりながら流れていた。水路跡上を辿ることはできないので、コの字ウォークで回り込みながら確認していく。写真の地点では、水路の跡と思しき窪みが残っていた。
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その品川道/筏道は、今では静かな住宅地を通る何の変哲もない道となっているが、Y字路に庚申塔がぽつんと残っていた。花が供えられ、取り囲む木々も良い感じだ。
左を通るのが品川道/筏道、右は前回記した大山道へと繋がっている道で、庚申塔にもその旨道標が刻まれているようだ。かつて多くの筏師たちが、この庚申塔の前を府中方面へと向かい通りすぎていったのだろう。
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更にコの字で下っていくと、水路跡が宅地の間から道路沿いへと出てくる。写真奥から、手前の道路沿いの未舗装地に続くラインが水路跡だ。木々の生え具合からは、程よく放置され、程よく手を入れられている様子が伺われる。
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その先は再び砂利道となって狛江通り(写真奥のバスが見えるところ)に出る。はっきりとした水路の痕跡はここで終わる。
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内北谷用水分流

ここまでたどっていきた水路跡の東側(右岸側)にはかつて「内北谷のたんぼ」と呼ばれた水田が広がっていて、その中に内北谷用水からさらに分かれた用水路が数本流れていた。小田急線北側の旧野川沿いの「北谷」地区が耕地整理された際、この「内北谷のたんぼ」もあわせて整理され、条理状の区画となった。その際に内北谷用水からの分水路も、区画にあわせ直線に改修された。その水路跡が1本残っている。
小田急線線路の南側、車止めに遮られた道がまっすぐに続いている。これが内北谷用水の分水跡だ。道端に未舗装のエリアが帯状に残っている。これがおそらく、最後にのこった水路の痕跡と思われる。
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未舗装のエリアは雑草が生えたり、植え込みに利用されたりしながらずっと道端に続いている。写真の地点では砂利敷になっており、マンホールもある。
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世田谷通りの手前で、この未舗装エリアは姿を消す。そして先の内北谷用水本流と合流したのち、さらにもう1本の内北谷用水分流と合流して、狛江三叉路の北東側で、六郷用水から分かれてきた岩戸用水と合流していた。大正時代までその水路は複雑だったが、昭和初期の耕地整理で、これらの合流水路も単純に整理されたようだ(地図参照)。
写真はその内北谷用水の3つの流れが合流していた辺り。奥から本流と奥右側から未舗装エリアつき分流が流れてきて合流し、手前に流れてもう1本の分流に合わさっていたようなのだが、全然痕跡はない。
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ただ、路上には「狛」の字が刻まれた古そうなマンホールがあった(現在のタイプは「こ」の字」)。
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狛江三叉路の辺りは前回の記事でも触れたようにかつて「銀行町」と呼ばれ、大正から戦前にかけては狛江随一の繁華街だった。現在はすっかり廃れているが、写真にうつる「鳥政」や「高麗家蕎麦」はその当時から続く店だ。
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その三叉路北東側で内北谷用水が合流する岩戸用水には、駅近辺では唯一のコンクリート蓋暗渠が残っているが、それについては次回以降とし、最後に復習の地図を。
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(つづく)
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by tokyoriver | 2012-07-07 23:10 | 野川とその支流 | Comments(4)
狛江市南部一帯から世田谷区西南部、駅でいうと小田急線狛江駅から和泉多摩川駅の周囲とその南東側にかけてのエリアは、かつて清水川/岩戸川や宇奈根川/町田川と呼ばれる川やそれらから分かれていた水路が複雑に絡み合っていて、今でも多くの川跡・暗渠があちこちに残っている。このエリアの川跡・暗渠を辿り出すとそこはまさに迷宮だ。たどっているあいだにぐるっとまわって元の場所に戻ったりするし、どこかルートを定めて辿ろうとおもっても、あちこちに断続的に水路跡の空き地が残っていたりしてなかなか先に進めない。

普通なら宅地化が徐々に進み、主要な水路以外が埋め立てられたり主要な水路がより直線的に改修され、その後で暗渠化されるといったような何十年かかけた段階的なステップを辿りそうなものだが、このエリアは、水路に手を加える前に一気に宅地化と水路の廃止がおこったかのような様相となっている。

現在残存している暗渠・川跡や、古地図等から明確に川跡と判断できる道路に対して水路をプロットしたのが下の段彩図(カシミール3D経由の基盤地図にプロット)。網の目のように水路が絡みあい、何がなんだかよくわからない。戦前の地籍図を見ると、さらにたくさんの水路が描かれている。
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今回から何回かにわけて(断続的になるかもしれないが)、このエリアのうち主に狛江市内の川跡・暗渠を取り上げてみようと思う。まずさしあたって、上の水路図ではわけがわからないので、資料をもとにそれらの系統を推測し、色分けしてみたのが下の地図。わかりやすいよう主要な水路に絞って記してみた(多摩川、根川、野川以外はすべて現在暗渠もしくは川跡)。
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このエリアの川は「清水川」「岩戸川」とその支流として語られることが多いが、実は「六郷用水」からの分水が大きな位置を占めている。シリーズ「深大寺用水と入間川を紐解く」第16回でふれたように、六郷用水は1611(慶長16)年に開通し、1960年代から70年台初頭にかけて埋立て・暗渠化されるまでの間、多摩川の水を現在の世田谷・大田区方面に送り続けていた。

六郷用水はその名の通り、当初は六郷領のみに水利権があり、途中の世田谷領では1726(亨保11)年にようやく利用できるようになった。だが狛江では取水口があったためなのか、あるいは野川の流れが六郷用水で分断されたためなのか、開通直後から分水が引かれていたようだ。狛江市内の分水は大きく分けて3つあった。
まず「岩戸用水/岩戸川」。小田急線線路の南、駄倉保育園近辺で六郷用水から分岐した用水路は幾筋にも分かれて岩戸地区の水田を潤していた。この岩戸用水〜岩戸川のルートは、深大寺用水シリーズでも触れたように、六郷用水開通以前は野川の下流だったと推測される。
つぎに「内北谷用水」。こちらは現在の狛江駅北口付近で分水し、内北谷地区の水田を潤した後、岩戸川に接続していた。
そして「猪方用水」。こちらは前の2用水より後、寛文年間(1661〜72年)の開削と伝えられる。元和泉で六郷用水より分かれ、猪方地区を灌漑したのち駒井地区に流れていった。猪方用水からは「相の田用水堀」と呼ばれた用水路もわかれていて、泉龍寺の弁財天池から流れ出す清水川に接続されていた。
「清水川」はもともとは岩戸川につながっていたが、六郷用水開通後は岩戸、猪方、和泉の3地区の境界地点から掘割を開削して南下し、駒井地区と猪方地区の灌漑に利用されていた。この掘割の区間も清水川と呼ばれていたという。流末は猪方用水の一流と合流したのち町田川へと接続されていたようだ。

さらに「三給堀(さんきょうぼり)」と呼ばれる用水路もあった。これは六郷用水からではなく根川の水を導水していた。どういうことかというと、根川の流れを六郷用水取水地点付近で掛樋で越えさせて導水したのだ。今では涸れ川となっている根川だが、当時は上流部の灌漑に使っても余るほどの湧水が流れていたという。こちらは天保年間(1830〜43年)に開削され、西河原地区の水田を潤した後、和泉玉川駅の西方で猪方用水に接続していた。

こうして見ると、清水川/岩戸川は六郷用水からの分水に組み込まれていたこと、狛江エリアでは2つの川は別物として捉えられていたことがわかる。
なお「世田谷の河川と用水」では泉龍寺弁財天池の源流から喜多見で野川に合流するまでを「清水川」、慶現寺付近から分かれたのち宇奈根地区南側を回りこんで合流する流れを「町田川(宇奈根川)」としており、また岩戸川の名称の記載はない。当然ながら地域によってそれぞれの呼び方があったのだろう。今回の記事では狛江市での呼び方に倣ってすすめていく。

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ざっと全体像を把握したところで、いよいよ実際に暗渠・川跡を辿っていこう。
まず最初にとりあげるのは狛江駅のすぐ近く、揚辻稲荷から流れ出していた小川だ。下の地図の中央から右下にかけての細い青いラインがその川だ。すぐそばの紫色のラインは清水川である。
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狛江駅南口、ロータリーの北側の飲食店が雑然と並ぶ一角を奥に入って行くと、すぐに周囲は宅地となり、その一角に揚辻稲荷神社がある。敷地は狭いもののしっかりした鳥居や参道の敷石、刈り込まれた木などからは、今でも信仰されている様子が伺われる。
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揚辻稲荷は別名「谷田部稲荷」とも呼ばれ、狛江地区の旧家である谷田部一族の祀る稲荷社だ。狛江の谷田部氏は甲斐武田家に仕えた後、16世紀後半に狛江に土着した一族であるという。
社殿の裏側に回りこむと、かつての湧水池が石垣に囲まれた窪地となって残っている。
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現在はまったく涸れ果てているが、1960年代初頭までは滾々と水が湧き出していたという。狛江駅北側、泉龍寺の弁財天池からは200m足らず。同じ水脈だったのだろうか。社殿の裏手から湧水に降りる階段も設けられている。いわゆる釜のような湧水だったのだろうか。
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東側には川の流れ出していた跡も残っている。水路の幅は1.5mほどだったといい、農業用水として利用されていた。
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とても通り抜けられる様子ではないので、反対側に回りこむ。川跡の草叢が続いている。灌漑に利用されるようになってからは、水路はここで直角に左側の路地の方に折れていた。左手前の白いブロック塀の辺りには戦前には洗い場が設けられていたそうだ。
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その路地の入口には、水門の跡のような構造物がある。この辺りの水路跡を探索した人にはわりと知られている物件だが、半ばアスファルトに埋もれた部分はともかく上側のブロック塀に設けられている溝は何なのだろうか。
路地の突き当りは清水川の暗渠が右から左に流れている。
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突き当り左(東)側にぽっかりと現れる水路敷の風景。一見かなり幅広の川が流れていたように見えるが、実はここには2本の水路が並行して流れていた。
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水路のイメージを描き加えてみると、下の写真のようになる。幅の広い水路敷のうち右端を清水川が、左端を谷田部稲荷からの川が流れていた。地元では前者を「お寺の川」、後者を「お稲荷さんの川」とも呼んでいたようだ。二つの水路の間には土手が築かれていたという。
揚辻稲荷からの水は岩戸地区の灌漑に、清水川の水は岩戸地区には入らず猪方地区の灌漑に使われており、それぞれの水の用途を厳密に区分するためにこのような並行する2本の水路となったと思われる。
清水川源流の泉龍寺には駒井地区、猪方地区から毎年末に「水年貢」が納められたといい、なんと1967年までその慣習が続いたという。一方で揚辻稲荷にも稲荷講の際に岩戸地区などの湧水利用者からわずかながらやはり水年貢が献上されていたという。
この並行水路は1960年代空中写真でも確認でき、暗渠化直前まで残っていたのだろう。
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水路敷はやがて世田谷通りを越える。2本の水路を渡る橋は「溝橋」と呼ばれていた。ここから通りを150mほど北東に向かった狛江三叉路付近には、1900年に旭貯金銀行狛江支店が開業して以降、飲食店や商店、カフェ、芝居小屋が集積し「銀行町」と呼ばれる繁華街となっていた。先の揚辻稲荷は、銀行町で商いを営む人々からも信仰を集めたという。1960年代に世田谷通りが拡幅されたことで銀行町は衰退し、今ではほとんどその面影はない。
通りの先には砂利敷の道とその脇の奇妙な空き地が続いている。
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砂利道に入るとすぐに、右側に半ば埋もれた護岸つきの水路が現れる。清水川の流路だ。こちらも面白いのだが今回の主役は揚辻稲荷からの川。
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右隅に少し見えるコンクリート護岸が清水川の流路、そして左側の砂利道のところが揚辻稲荷からの川の跡となる。
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2本の川跡はゆっくりカーブを描いてその向きを南東から東に変える。下の写真は途中で振り返った様子。左側の茂みと草地の境目に清水川の空堀が窪地となって残っている。2本の水路に挟まれた草地のところはかつては水田だった。今でも何となくその姿が想像できる。
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こちらは空き地の終点付近。この辺りでは2本の川はかなり接近していた。右側に続く浅い窪みが清水川の跡だが、左側に埋もれて続いているコンクリートの構造物は揚辻稲荷からの川の護岸跡だろうか。
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空き地を抜けた地点。車止めのところを左右に抜ける道はかつての大山道だ。ここには
2本の水路に橋が連続して架かっていて「二つ橋」と呼ばれていたという。
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ここから先は、緑道となった暗渠が始まる。現在残る痕跡からは、清水川がこの暗渠につながっていたように見えるが、実際にこの暗渠の方に流れていたのは揚辻稲荷からの川の方だ。
清水川はここで南に向きを変え、南側の微高地を掘割で猪方の低地に抜けていた。写真右の車が止まっている道のところにかつてその掘割が通っていたのだが、現在は完全に埋め立てられて全くわからない状態になっている。
揚辻稲荷からの川跡は、緑道に入ってすぐに、左側から来る岩戸用水の分流+内北谷用水からの余水を受けた流れの暗渠に合流して終りとなる。
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最後に復習の地図を載せて今回の記事は終了。
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狛江の暗渠・川跡の全てを取り上げるのはまず不可能なので、こんな感じで次回以降もポイントをしぼって紹介していきたい。参考文献はどこかのタイミングでまとめて記すことにする。

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-06-27 23:45 | 野川とその支流 | Comments(2)
「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズの中で、「仙川用水」の暗渠/水路跡を辿る回としては最後となる今回は、前々回の記事のラスト、消防大学校から辿り、入間川(中仙川)にいったん合流したのち、再度分離して金子方面に向かうまでの区間を取り上げる。

まずは地図を(google mapよりキャプチャ)。ピンクの矢印で示したのが今回取り上げる区間だ。緑色のラインが仙川用水に関係する水路、途中で経由する入間川(中仙川)とその分流は赤紫のラインで示してある。仙川、野川、入間川の京王線以南の区間と中央高速付近の一部以外の水路についてはすべて暗渠か埋め立てにより現在は存在しない。
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仙川用水入間川養水ルート

写真は前々回の記事ラストでとりあげた消防大学校敷地の南縁。中に立ち入ることは出来ないが、送電線の脇に見える並木が、かつての鎌倉街道の名残で、そこに沿って奥から手前に仙川用水のいわゆる「入間川養水ルート」が流れていた。鎌倉街道跡は、現在では三鷹市と調布市の境界でもある。消防大学校の敷地内ではかつて、前回記事にした「島屋敷ルート」の水路が分かれていた。
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先の写真の南側(中仙川西原交差点)には、鎌倉街道跡の道がまっすぐに南へ下っている。こちらもひきつづき三鷹市と調布市の境界となっている。水路は道路の東側(写真だと左側)を流れていたようだ。住宅地図の記載を信じれば、80年代初頭まで残っていたようだ。鎌倉街道跡の道は中央高速道にぶつかるまでまっすぐに続き、そこで入間川養水は入間川に合流していた。
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写真は中央高速道にぶつかる手前の入間川の暗渠。シリーズ第3回目で取り上げた区間の続きとなる。第3回の記事で取り上げたように、「入間川」は深大寺東町の「諏訪久保」に流れを発し、通称「野が谷」と呼ばれる谷筋をここまで流れてきている。この「諏訪久保」には、仙川の丸池周辺と同様、「釜」と呼ばれ、水が地面から釜を伏せたような形で吹き出す湧水があり入間川の主水源となっていたが、これが1855(安政2)年の安政大地震で涸れ、野が谷地区の水田が干上がったことが深大寺用水開削の第一の理由だった(詳細は第3回記事参照)。
川名の「入間」は京王線以南のかつての村名であり、当然ながら上流部ではそのような呼び方はされていなかった。深大寺地区では大川と呼ばれていた。
入間川の源流部は車道となっていて痕跡を残していないが、原山交差点から下流はコンクリートの幅の広い暗渠となって、野が谷を南東に流れていく。
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そして、下の写真が入間川と仙川用水入間川養水ルートの合流地点だ。右側の消防車が止まっている道路がかつての鎌倉街道と、仙川用水、そして中央やや左の通り名の標識の裏側、2軒の家屋に挟まれた空間が入間川だ。
これより先、入間川は調布市深大寺東町から三鷹市中原へと移る。中原はかつての中仙川村にあたる。なお、第3回の記事に記した通り、深大寺用水から入間川上流部に供給されていた水は、中仙川村にはその水利権がないことから、仙川用水が合流する手前で深大寺用水に再び回収されていた。
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入間川を利用した「中仙川用水」の区間

三鷹市内に入った入間川はしばらく開渠となる。しかし、中央高速道の下をくぐる区間には水はなく、土も被されているようだ。25年ほど前は、白濁した水が流れていたような記憶がある。
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水が流れなくなってから随分たつのか、川底からかなり立派な木が生えていた。写真ではややわかりにくいかもしれないが、護岸の梁の間から幹が伸びているのが見える。
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この近辺の入間川の流路は、かつては大きくカーブを描いていて、川に沿って水田が細長く続いていた。仙川用水の水利組合に加入する、上仙川、中仙川、金子、大町のうち二番目の中仙川村の水田だ。仙川用水の水はそれらの水田に引き入れられていた。
だが1960年代末には、水田は川の水の汚染で作付ができなくなり、1970年代半ばに埋め立てられて、中原団地と中央高速の敷地となり、水路は中央高速高架下の南側に沿って直線に改修された。
水がなく荒れ果てた水路をしばらく追っていくと、川底の真ん中に細い溝が作られてわずかに水が現れ始め、中原4−18の辺りからは護岸からかなりの量の水が流れこんで、水流が復活する。
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水は澄んでいて、季節により水量に変動はあるようだがコンスタントに流れ込んでいるようだ。上の写真は2011年秋、下の写真は2008年初夏の様子。どこかで湧き出した水を導水しているのか、あるいは雨水の貯留池でもあるのか、いずれにしても臭いや濁りは全くなく、水質は悪くはなさそうだ。
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川は水が流れるようになった地点で中央高速から離れ、向きを変えて中原4丁目団地の裏手を流れていく。せっかく綺麗な水が流れているのに、川沿いに道はなく、様子はところどころから垣間見ることしかできない。梁の上に置かれた植木鉢が落ちることはないのだろうか。
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そしてようやく様子を見られる様になったかと思うと、中原4−17に入る地点から先は暗渠となってしまう。写真は「中仙川遊歩道」となっている暗渠の区間から、上流方向の開渠区間を見たところ。フェンスの向こう側が水路だ。
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現在、三鷹市内では三鷹市内では入間川は「中仙川」と呼ばれていて、遊歩道の名前はそれに由来する。これは「仙川」に直接関係している訳ではなく、流域のかつての地名「中仙川」(中仙川村に由来)から名前をとったものだ。中仙川は1965年の住居表示施行時に現在の「中原」と改名された。
そして、かつては入間川の呼び名は特にはなく、単に「用水路」、あるいは「中仙川用水路」などと呼ばれたり、あるいは深大寺エリアと同様に「大川」と呼ばれていたようだ。

遊歩道の東側には、住宅地の隙間にかつての上げ堀の痕跡である溝渠が残っている。「郷土中仙川」(1982)によれば、水田に水を入れる4月になると、川の各所に土俵で堰を作り、上げ堀に水を分けて、川沿いに帯状に伸びる水田に水を引き入れていたという。中原4−10付近の「トヨのセキ」など、いくつかの堰には通称もつけられていたという。水田の水を抜く8月にはこれらの堰は撤去された。
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一方秋から冬にかけては、何ヶ所かに設けられた洗い場で、大根などの農作物を洗っていたという。かつては蛍の舞飛ぶ澄んだ流れだったというが、今では面影もなく、水田はすべて住宅地となっている。
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途中の植え込みに、橋の銘板がモニュメントのように残されていた。この「近幸橋」は1982年7月竣工と、かなり新しい橋だった。橋には歩道橋のような鉄柵の欄干が設けられていて、銘板はそこにとりつけられていた。その時点ではまだ暗渠化されていなかったということだ。
三鷹市内の入間川の暗渠化は1976年に始まったが、80年代後半までかなりの区間の水路が開渠のままだったようだ。近幸橋のあたりは1988年に暗渠化されたという。
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しばらく進み中仙川通りを越える地点には、中仙川橋の親柱が残されている。こちらは1953年3月竣工と、それなりに古い。この辺りのかつての字名は「羽毛」で、「ハケ」との関連を思わせる。
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再び入間川から分かれる仙川用水

中原1−13で、仙川用水は再び入間川から分かれ、水利権を持つ第3、第4番目の村、金子と大町方面に水を導いていく。
水路は入間川の谷の西側に沿って流れていく。暗渠には「中仙川遊歩道」と標識が掲げられているのだが、実際には中仙川(入間川)ではなく、用水路であるということは知る人ぞ知る、といった感じだろう。本来の中仙川=入間川は谷の東側の縁を流れていき、甲州街道の南側で再び開渠となる。暗渠の区間にもコンクリート蓋暗渠が残っていて、下を水が流れている。こちらについては次回辿ることにする。
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中仙川村の水田はこれより南にも続いているが、仙川用水の水路自体は金子、大町方面への導水路であるため、東側に並行してもう一本の水路が通っていて、そちらと入間川の間が水田となっていた。入間川とこの水路を利用して水田への給排水を行っていたのだろう。下の地図に、かつての入間川と仙川用水、そしてそれらから分かれていた主要な分水路と、水田のエリアを記した。
地図右下の緑色のラインが再び分かれた仙川用水。その右側の赤いラインが入間川本流で、間にある青いラインが水田の排水用水路。水田の排水用水路と仙川用水の間には水田がなかったことが分かるだろう。
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谷底の水田は1960年代初頭に京王電鉄の手により開発され、「つつじヶ丘住宅」と名付けられた分譲住宅となった。これに先立ち1957年には、「金子駅」が「つつじヶ丘駅」に改称された。水田をつぶし新たに区画から整理されたため、現在ではかつての水田の面影は全くなく、水田からの排水路も一部に名残を留める程度である。それにしても谷底なのに「丘」とはよくも名付けたものだ。

中原1−13で暗渠の遊歩道は一旦車道沿いを離れる(というか、車道の方が離れていくといったほうが正確か)。
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水路跡の遊歩道は入間川の流れる谷の西側の崖下を南下していく。この辺りは、谷底よりもわずかに高いところを通っていて、人工の導水路であることがわかる。写真に見える橋は、個人宅の出入り用の橋で、谷底に建つ家の2階に繋がっている。
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中仙川遊歩道は車道沿いに出ると、車道よりも幅のある歩道となる。ここでも左側の林の方が地面が低い。戦前の地図を見ると、この区間は2本の水路が並行して流れていたようだが、詳細はよくわからない。
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暗渠の東側に少し入ると、先ほどの地図で示した水田の排水路の痕跡がわずかに未舗装の路地となって残っている。
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甲州街道の滝坂下交差点の手前では、南西から流れてきた小川の暗渠とぶつかる。この川沿いはかつて「狢沢」と呼ばれていた。この地点で水路が複雑に入り組むが、これについては第5回の記事で触れた。
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そして水路跡の遊歩道は、滝坂下交差点に行き着く。ここから先、仙川用水は甲州街道に沿って西へと流れていて、数十m西側では深大寺用水東堀が合流していた。何度かふれたように、それより先の区間は1871(明治4)年の深大寺用水開通以降は、深大寺用水としての扱いとなる。第5回の記事で取り上げているのでそちらをご参照いただきたい。
なお、「深大寺用水私考(5)」には大正15年生まれの方の証言として「この用水(注:深大寺用水)は砂川用水といった。山岡鹿嶋屋酒店の東の方から来た用水(注;滝坂下以西の仙川用水)は品川用水といった」といった言葉が記されていて、仙川用水の水路が入間川(中仙川)とはっきり区別され、かつ品川用水から分水されていることも認識されていることがわかる。
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仙川用水については以上で終わりとなる。品川用水、仙川、入間川、梶野新田用水、深大寺用水など関連する川・用水路が複雑に絡み合うため、なるべく理解しやすいよう記したつもりではあったが、あまり反響がなかったのは、やはりわかりにくかったのかもしれない。ただ、謎の多い仙川用水について、今回の記事にあたっての調査でかなりの事実が判明したと思う。よろしければ再度目を通していただけたらと思う。

さて、深大寺用水と入間川にまつわる水路を紐解いていく一連のシリーズの最後として、入間川(中仙川)のうち、深大寺用水東堀の記事及び仙川用水の記事で取り上げなかった、仙川用水が分かれる地点より下流側の区間について、次回以降、2、3回ほどにわけて記事にしていく。入間川にはあまり知られていない支流や分流の痕跡もあり、それらもあわせて紹介していきたい。

※参考文献についてはシリーズの最後にまとめて掲載します。

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-04-17 23:34 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(3)
仙川用水の暗渠/水路跡を辿る3回目は、仙川用水のいわゆる「入間川養水ルート」から分水し、仙川源流域の水田に給水していた水路をたどる。あわせて、それに関係する仙川のかつての水源地帯についても紹介しよう。

何度か記したように、仙川用水は、またの名を「上仙川・中仙川・金子・大町四ケ村用水」ともいうとおり、(A)入間川(中仙川)に水を引き入れることで(1)旧中仙川村エリアの水田に、そして(B)入間川から再度水を分けて、尾根筋を跨いで野川沿いの低地まで水路を引くことで(2)旧金子村・(3)旧大町村エリアの水田に給水していた。(B)については、甲州街道沿いに出て以西の区間は、深大寺用水東堀に転用されている。
そして、仙川沿いにある(4)旧上仙川村の水田への給水は、前々回の記事に記したとおり、入間川養水ルートとは別に「野川分水口」で品川用水から分水されるルートが存在していた。

一方で、前回の記事で触れたように、入間川養水ルートの分水口に設定された村別の水利権の中にも上仙川村(新川村)が含まれている。入間川養水は上仙川村エリアの水田を経由していないから、どこかから仙川に向かって分かれる水路があったことになる。

今回紹介するのはその水路の痕跡だ。まずはいつものように地図を(googlemapにプロットしたものをキャプチャ)。黄緑色のラインが仙川用水の水系、そして水色に塗ったエリアが、仙川用水が給水していた水田だ。この地図には旧上仙川村の水田と、旧中仙川村の水田の一部が入っている。
分水路は消防大学校の敷地内で仙川用水から東に分かれ、かつて島屋敷と呼ばれ、現在新川団地となっている丘のまわりを迂回するように幾筋かに分かれ、仙川に合流していた。以下、この水路を仮称「仙川用水島屋敷ルート」としておく。
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はっきり残る島屋敷ルート水路跡

消防大学校から中原3丁目交差点までの区間は、1940年代後半の航空写真や地形図でそのルートを確認することができるが、現在ではほとんど痕跡を留めていない。わずかに交差点の南東側の、敷地の区画にその名残が残っている。写真奥から手前左に向かってコンクリート塀が続いているが、これがかつて水路が流れていたルートだ。
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中原3丁目交差点の北東側からは、車止めで仕切られ、緩やかに曲がりくねりながら東へ進む、水路跡の暗渠道が現れる。尾根筋を流れる仙川用水から仙川に向かう下り坂になっているのがはっきりわかる。水路跡の北側には畑地が残っている。
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途中で道を横切るところでも、しっかりと車止めが設けられている。写真の場所から北側に少しだけ離れたところにも、別の水路跡が残っているが、そちらは綺麗に整備された遊歩道となっている。
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一方こちらは下って行くとだんだんといかにも暗渠っぽい、少し荒れたというか放置されたような雰囲気が増してくる。
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そして、新川団地の西側に突き当たって暗渠っぽい道は消滅する。新川団地の周りを道路が円状に囲んでいるが、水路はかつてそこにそって南北二手に分かれていた。今回は南側をたどっていく。写真は団地の南側を曲がりながら進む道。曲がりくねっているのは水路の名残か。団地側が高くなっているが、ここがかつて「島屋敷」と呼ばれた丘で、文字通り水田の中に島のように小高く盛り上がって浮かび上がっていた。
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島屋敷と仙川用水

島屋敷は、もともとは中世の武士団であった金子氏の居城だったという。そして、前々回にも記したように、1615年に柴田勝家の孫、勝重(1579-1632)が仙川の地を領地として与えられ、島屋敷に居を構えた。これらは長い間その実在が確認されず、伝承の域にとどまっていたのだが、2000年代に新川団地が建て替えられた際の発掘調査で、大規模な遺跡が見つかり、屋敷が実在していたことが確かめられた。島屋敷の地には古くは旧石器・縄文時代より人が暮らした痕跡があり、13世紀以降は継続して生活が営まれていたようだ。下の写真は、新川団地内に設置された説明板に掲載された、島屋敷遺跡の全景。中央の茶色になっているところが発掘されたエリアだ。仙川用水島屋敷ルートに関連する水路のうち、今回たどっている水路を青いラインで書き加えた。
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屋敷は島屋敷東部の小高くなったところに設けられ、心字の池もつくられていた。ここで思いつくのが、この柴田家屋敷と仙川用水の関係だ。玉川上水からの分水は、灌漑を目的とするものが多いが、しかし初期に開削された分水はいずれも飲用水目的が第一であった。そして前々回に記したように、仙川用水の開削時期は1663年以前とかなり早い。このような早い時期に仙川用水が開削できたのは柴田家の力によるものではないかとする説もあるようなのだが、もしそうだとすると、この島屋敷に至る分水ルートは、屋敷の飲用水を確保するために、仙川用水開削当初につくられたものだという可能性はないだろうか。
島屋敷一帯はそばに仙川の源流があり水は豊富なのだが、島屋敷自体は小高い丘となっていて、三方を低地が取り囲み、仙川流域から水を引くことはできない。そんな中で唯一水を引けそうなのが、西側の台地からのルートだ。仙川用水島屋敷ルートはまさにそこを通っている。

柴田家の統治は1698年まで続き、以後、上仙川、中仙川は幕府の直轄地となった。一方で、遺跡の発掘調査の中で、18世紀に入って玉川上水の水を引くようになり、客土で嵩上げして水田を拡張したことが判明した場所がある。そんなことから、もしかすると仙川用水は当初柴田家屋敷の飲用水として開削され、17世紀末に柴田家から直轄地になってから灌漑にも本格利用され始めた、そして灌漑の効果を上げるために野川口分水が補助的に追加された、といった経緯があったのかもしれないt、といったような想像も思い浮かぶ。

島屋敷への分水路の開削時期については全く資料がなく、以上はまったくの推測ではある。柴田家とは関係なく、もっと後に追加して開削されたルートなのかもしれない。ただ、いずれにしても入間川養水ルートに引き入れられた水量のうち明治前期の時点で、三分の1が上仙川村の水利権となっており、その水量は直接仙川上流部に繋がる野川口ルートの5倍近くもあることから、この島屋敷ルートの分水が上仙川村エリアの水田の灌漑用水としてのメインルートであったことは明らかだ。

幕府の直轄地になってからの島屋敷は畑地となり、柴田家の屋敷も江戸後期には痕跡を残すのみだったようだ。1924(大正13)年には、畑地の中に漢方薬で知られる津村順天堂(現ツムラ)の薬用植物園が開設され、終戦直後まで続いた。そして、その後、1959年には、新川団地が完成した。島屋敷の地はもともとは今よりも凹凸があり、屋敷跡を囲むように緩やかに馬蹄形をした丘となっていたが、団地造成時にだいぶ削られたという。

さて、島屋敷の南東から仙川までの間、再び水路跡らしい区間が現れる。見るからにそれらしい路地だ。
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そして、住宅地の中をS字に曲がる、くたびれたアスファルトの道がその先に続く。両脇は50年前までは島屋敷を囲むようにドーナツ状に広がる水田だった。
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道を抜けると仙川に行き着く。すぐ南側には中央高速道が通り、向かいにはかつての砦跡ともいわれる天神山の緑地が残る。護岸に口を開ける土管はかつての島屋敷ルート合流口の名残だろうか。
仙川用水島屋敷ルートについての話題はここでひとまず終わるが、続いてここから仙川を少しさかのぼり、仙川の水源にまつわるポイントをいくつか辿って行こう。まずは、写真右側、川面から護岸に繋がる水色の配管に注目して欲しい。
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野川宿橋への導水

この配管は、仙川の河床の伏流水を取水し、仙川の上流部に送水する施設「樋口取水場」のものだ。1970年代初頭の大規模な改修以降、仙川の上流部は水量が減り、水質悪化や悪臭が発生した。これらを解消するために、下流部の豊富な湧水を上流に送って流すという解決策がとられ、1989年に稼働が開始された。この「樋口取水場」では川底の4箇所から伏流水を汲み上げ、一旦貯留した後に、1.6km上流の野川宿橋のたもとまで送水している(野川宿橋については前回記事で取り上げている)。「樋口」の名は、かつてこの場所に下流部のあげ堀に水を取り入れれる堰があったことに由来しているという。当初は3000立方m/日、現在では1300立方m/日が取水されており、これにより水質、水量とも大幅に改善し、川には魚や水鳥が戻ったという。

ユニークなのは、川沿いに導水管を通す土地がなかった区間では、河川敷の中、護岸に沿って導水管を通していることだ。下の写真は樋口取水場から800mほど上流の勝渕橋から下流方向を望んだものだが、護岸の下に白い導水管があるのがわかるだろう。これより上流は、川沿いの道の下を通しているという。
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勝渕神社と仙川の水源「丸池」

そして勝渕橋のたもと、やや小高くなった場所に、勝渕神社(勝淵神社とも)が鎮座している。もともと水神が祀られた地だったようだが、柴田勝重が社殿を設け、祖父柴田勝家の兜を埋めて勝渕神社として祀ったという。現在の祭神は灌漑用水や井戸の神として信仰されている、水波能売命(ミヅハノメ)だという。本殿の脇には兜塚が再建されている。
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鳥居の脇には「御神水」としてなぜか古びたポンプ井戸があった。しかし、残念ながら水は完全に涸れていた。
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勝渕神社のまわりはかつて湿地となっていて、あちこちで湧水が湧き出していたという。その様子はいくつもの釜を伏せたようであったことから「千釜」と呼ばれ、一般的には、これがのちに訛って「仙川」になったとされている。
湖沼学者吉村信吉の調査(1940)によって、一帯の地下には「仙川地下水堆」があることがわかっている。「地下水堆」は局所的に地下水位が浅くなっている場所で、千釜の湧水もこの地下水堆の水が地上に現れたものだったのだろう。勝渕神社付近から先ほどの樋口取水場辺りまでは「どぶっ田」と呼ばれるぬかるんだ田圃で、特に勝渕神社周辺は沼地のようになっていたという。

そして、これらの湧水のうち、勝渕神社の南東にあった湧水池「丸池」が、もともとの仙川の源流だったとされる。丸池は「勝ヶ渕」とも呼ばれていたようだ。現在ある丸池は場所や形は以前とほぼ同じではあるが、2000年に復元されたものだ。
かつての丸池は、そばを流れる仙川が改修工事により河床が掘り下げられた結果、池に湧き出すべき水が仙川に流出して干上がってしまい、1970年前後に埋め立てられた(その仙川に湧く水自体もその後の宅地化により地下水位が下がって仙川上流では湧き出さなくなり、先に紹介した導水に至る)。
その後丸池を復活させる動きがおこり、埋められた後も地下水が健在であることが確認されたことから、池が復元された。現在、3つの浅井戸から、あわせて1日80立方mの水が供給されている。湧水の吹き出し口は、池の底につくられていて、かつての「釜」で水が湧く様子が再現されている。
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池のまわりは「丸池の里」として整備されており、仙川のほとりには水田も作られている。水田の両脇には水路がつくられていて、かつての周囲の水環境を偲ばせる。
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忘れられた仙川もうひとつの水源「ベンテンヤ」

丸池から流れだした水は、梶野新田用水の末端と、仙川用水野川口ルートからの水の流れ、そして辺りの湧水や雨水を排水する水路(現在の勝渕橋以北の仙川とほぼ同じルート)に合流し、仙川となって下って行っていた。
さて、この近辺には丸池のほかにもうひとつ、仙川の主な水源だった湧水池があったという。その池は「ベンテンヤ」と呼ばれていた。「三鷹の民俗10 新川」には、「昔の仙川は丸池の水と、丸池から50mくらい離れたベンテンヤの水が合流したものを水源としていた。水位は同じくらい。ベンテンヤはカマ(水の湧く所)があちこちにあって水がたまっており、湿地帯のようになっていた。」と記されている。これによれば、はっきりした池というよりは湿地状になっていたのだろう。
一方で、三鷹市史(1970)には、1950年代に入って、上仙川地区に引かれた三鷹用水(つまり仙川用水)に汚水が流入するようになり、苗代用として不適当になったため、新川本村の「弁天池」を仙川に導水する「仙川用水路頭首工」が1956年に竣工し、灌漑に利用したと記されている。「頭首工」とは用水路の取水口施設のことだ。また「仙川用水路」とは仙川を指していると思われる。また、400mの用水路整備もあわせて三鷹用水土地改良区により実施されたとあるが、これがどこの区間を指しているのかはわからない。
こちらの記述が正しいとすると、弁天池はもともとは仙川にはつながっていなかったことになる。真相はどうだったのか。

下の地図は、東京都北多摩郡三鷹村土地宝典(1939)から水路を抽出し、googlemapに重ねあわせたものだ。仙川用水島屋敷ルートや、改修前の仙川の流れがよくわかるのだが、これを見ると、丸池の西に、ひょうたん型のような池があったこともわかる。丸池からの距離はちょうど50mほどあり、これが「ベンテンヤ」なのではないか。
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池からは二手に分かれて水路が流れ出していて、戦前から仙川につながっていたことがわかる。では三鷹市史の記述をどう捉えるのか、ということになってくる。「ベンテンヤ」は湧水池とはいえ湿地状だったということから、これを池として整備し、水路もはっきりと区画されたものに改修して、灌漑に利用できるようにしたのではないかとの推測もしてみたが、これ以上の情報が得られず、よくわからない。

ベンテンヤのあった場所は、今ではアパートや駐車場となっている。その一角、勝渕橋の西側に、道路の脇が凹んだ区画となっていて、そこに古びた祠が祀られている(5枚前の、勝渕橋からの写真で、右端護岸上のガードレールとカーブミラーが見える所)。
祠の中には変なお地蔵さんのようなものが置かれているが、これはおそらくかなり最近、かってに置かれたもので、本来この祠は弁天様だったと思われる。ベンテンヤの名前の由来はおそらくこの祠だ。側面にははっきり読み取れないものの安政年間に再建、との刻字があり、台座には上仙川村をはじめ仙川流域下流に至るまでの多くの村々の名前が彫られている。
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丸池や勝渕神社が今でも大切に扱われているのに対し、この祠は半ば放置され、特に標識や説明板もなく、存在感は薄い。しかし、台座に刻まれた村名からは、ここで湧き出し仙川を流れた水は、かつて流域の村々の水田を潤す貴重な水であったこと、そして小さな祠には、その水が涸れないようにという切実な祈りが込められていたであろうことが伝わってくる。
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次回からは再び仙川用水入間川養水ルートに戻り、入間川(中仙川)の流末までたどっていく。

(つづく)
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by tokyoriver | 2012-04-01 00:20 | 入間川と深大寺(砂川)用水 | Comments(0)