東京都内の中小河川や用水路、それらの暗渠、ひっそりと残る湧水や池をつれづれと辿り、東京の原風景の痕跡に想いをよせる。1997年開設の「東京の水」、2005年開設の「東京の水2005Revisited」に続く3度目の正直?


by tokyoriver

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 二十年ちょっと前の個人的な話をひとつ。学生だった時分、京王井の頭線の終点近くである久我山駅、三鷹台駅、井の頭公園駅といった辺りに、地方から出てきた同級生たちが幾人か、一人暮らしの住まいを借りていた。特に三鷹台のとあるワンルームマンションには、クラスメイト2人が別フロアに暮らしていて、学園祭の準備のときとか、終電を逃したときとかの皆の拠点となっていた。私もほかのクラスメイトたちとともに幾度となく出入りし、8mm映画を撮影したときには、ロケ地やアフレコ場所として使わせてもらったりもした。

 彼らの住むマンションの北側は数メートルの擁壁となっていて、その下には暗渠の細い道が東西に通っていた。暗渠を西へ進むと階段があって、登ると三鷹台の駅前通りが南北に抜けていた。彼らの部屋に行くとき、そして帰るときには、必ずこの階段を昇り降りして暗渠を抜けていった。階段の下はかつて川だったのだ、この道は「暗渠」なのだ、ということを一緒に昇り降りした同級生たちに話したのかどうだったか。今なら話したかもしれないが、当時は自分の中に留めていたような気がする。
 専門課程に進みクラスが分解すると、次第に彼らの部屋を訪れることも減り、インターネットはおろか携帯電話もまだ普及し始めたばかりの時代だから、卒業後は次第に疎遠になって、連絡もとれなくなっていき、大部分の消息は今ではわからなくなってしまった。マンションに暮らしていた同級生は今、どこで何をしているのだろうか。

よく晴れた初夏の朝、ふと思い立って三鷹台の駅に降り立ち、かつて通った暗渠を訪れてみた。ゆるやかな上り坂となっている駅前通りを南へ数分進むと、右手に雑草の生える、少し凹んだ細長い空き地が見える。二十数年前と変わらない、川跡の風景だ。
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通りの左手には、こちらも変わらない、暗渠へ下る階段があった。
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階段の方がかつての川の下流となるが、まずは右手未舗装の川跡を上流に向かってみることにした。定期的に草刈りを行っているのか、雑草は短く、容易に通り抜けられる。右側の大谷石の護岸は水路があった頃からのものだろうか。
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車道をひとつ横切って、その先にさらに未舗装の川跡は続く。当時は車止めの前を通り過ぎるだけだったが、思い切って足を踏み入れてみる。
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送電線と勢いのある植物の緑、そして柑橘類の橙色の実が、初夏らしさを漂わせる。防災時井戸の看板があったりして公共用地であることは明白なのだが、それでも奥に進むほど、川跡沿いの家々の私的空間が気配として浸透していて、行き止まりとなる少しだけ手前で水路跡の追跡はやめておいた。
この辺りがこの小川の源流だったのだろう。ただ、周囲より低地にはなってはいるものの明確な谷頭地形だったりするわけではなく、はっきりとした湧水というよりは、じわじわと水が染み出るような水源だったのだろう。
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通りまで戻り、いよいよ下流側へと進んでみることにした。階段を降り振り返ると、そこには懐かしい20数年前の風景があった。右手の木もそのままだ。多愛のない、意味のない会話を交わしながら何度この階段を上り下りしたことだろう。
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階段を降りてしばらく、どことなく長閑な住宅地の中を抜けていく。
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やがて暗渠は谷の南側の縁を流れるようになる。立派な擁壁の上を見上げると、2人の同級生が住んでいた細長い3階建のワンルームマンションが、やや古びてはいたものの当時のままに残っていた。台地の上にあがり、玄関先まで立ち寄ってみる。玄関の脇の屋根付き飲料自動販売機は、最新の機種に入れ替わっている。居ないことを確認するかのように、集合ポストに並ぶ名札をざっと眺めてみる。やはり当然ではあるが彼らの名前はない。
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谷筋の暗渠の路上へと戻る。記憶よりもずいぶんと明るく、そして道幅も広い。少し進むと、暗渠上にぽつりとベンチが置かれていた。路上の舗装と同じ赤茶色の座面。背もたれに印された「you are not alone」の文字は、暗渠を歩む者に何かを暗示しているかのようだ。
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擁壁の区間を通り過ぎ、当時はあまり通ることがなかった久我山方面へと暗渠を下っていく。しばらく曲がりくねった路地が続く。明治から戦前にかけての各地図をみると、川沿いには畑が広がっていたようだ。一応谷戸地形ではあるのだが、水田にするには川の水量が少なかったのだろう。
暗渠の南側の台地の上には玉川上水が流れている。現在の地名は暗渠沿いは三鷹市井の頭1丁目となっているが、かつては上水の南側と同じく牟礼に属し、字名は玉川通東であった。
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やがて暗渠沿いの旧字名は神田川東通に変わる。小公園を過ぎた先には暗渠上に階段が現れる。通常は道路などからの段差を階段で上る場合が多いのだが、ここは暗渠化後、路上に盛り土をしたのか、交差する道路に下っていくかたちとなっている。この辺りは急な流れだったようで、階段の先に見える暗渠も、ここまでよりも傾斜を増している。水量があれば水車が架かっていたような流れだったのだろう。
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両岸を擁壁に囲まれ、路面も下り坂となっていて、だいぶ渓谷感のある暗渠を下っていく。道は蛇行し、見通しはない。家々は背を向けており、暗渠度を高めている。車止めはシンプルな1本棒だ。
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しばらく進んでいくと、路面の傾斜はなくなり、谷底に降りきった感じとなる。暗渠の幅もやや広くなる。擁壁には水抜きの穴が並ぶ。
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古そうなコンクリートの擁壁に空く、排水管の穴。かつて水路に直接排水を落としていた痕跡だろうか。
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周囲の下水の中継地点である「井の頭ポンプ場」を過ぎると暗渠路地は普通の道路に合流する。この辺りになると、暗渠の流れる小さな谷は、より大きな神田川の谷にひらけて、なくなる。
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暫く進むと暗渠は三鷹市から杉並区に入り、神田川の旧水路(蛇行の跡)に合流して終わった(写真左の木の繁みの辺り)。現在の神田川沿いには直接の痕跡はないが、神田川旧水路の合流口が神田川の護岸に口を開けていた。
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暗渠は神田川に合流する直前、杉並区との境目で、右手に水路を分けている。この水路は神田川の南側を並行して流れ、神田川の「上げ堀」に接続していた。引き返してこちらの水路を上げ堀まで辿ってみることにした。
水路といっても当然暗渠なのだが、車止めにはしっかり「水路内にバイクを乗り入れないでください」と記されている。ここはあくまでも「水路」なのだという、毅然とした主張。
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神田川沿いには戦後しばらくまで、両岸に水田が連なっていた。それらに水を引き入れるために、神田川の両側には川から水を分け平行していわゆる上げ堀が流れていた。この「水路」は神田川の南側に沿った水田の縁を流れており、上げ堀の機能も果たしていたのだろう。暗渠左側がかつての水田で、右側は少しだけ小高くなっていて、畑地として利用されていたようだ。
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再び「水路内にバイクを」の車止めが現れ、この暗渠はいったん終わる。両端を「水路」と記された車止めで蓋され、両岸は畦道の代わりに塀や家々で挟み込まれた、水のない水路。nullな空間。
水路はここで、神田川の緑橋付近に設けられていた「大熊堰」から分流された上げ堀に合流していた。上げ堀は左側にある神田川から、車止めの向こう側の砂利道を通って奥の緑の繁みの方へと流れていたという。
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繁みを下流方向に回りこむと、袋小路の奥に、コンクリートのU字溝ではあるものの、一応開渠として涸れた水路がひっそりと残っていた。水の湧くような地形でもないから、偶然の積み重ねで偶々残されたのだろう。
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下流側を振り返ると、水路の続きが雑草の生える空き地となって残っている。シンメトリックなブロック塀のもたらす遠近感が、ここが忘れられ取り残された空間であることを際立たせる。ただ、そこに漂う空気感は淡く柔かく、暖かみがあるようにも思われる。
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水路跡は100mほど続いて人見街道の旧道に突き当たり、唐突に消える。右に進むと神田川にかかる宮下橋だ。渡ったその先、谷戸を登った台地の上には久我山稲荷神社が鎮座する。水路はここよりやや下流で神田川に合流していたようだ。
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ここから人見街道沿いを西に向かったところにはやはり二十数年前に別の友人が住んでいて、この水路跡も何度か横切っているはずだ。当時は三鷹台の同級生の家の前の暗渠がここまで繋がっていることには気がついていなかったように思う。
神田川の切り立った護岸沿いに設けられた歩道を数分あるけば、そこは井の頭線の久我山駅だ。駅は高架化されてかつてとだいぶ様子が変わっていたが、川と人見街道に挟まれた三角形の土地にたつサミットスーパーはかつてのままに営業していた。

 暗渠沿いの彼らの部屋で交わし合った言葉や移ろっていったそれぞれの感情。今となっては、それらの何ひとつとして、はっきりとしたことは思い出せない。ただ夜明け前の薄明かりのような、薄曇りのひだまりのような、ぼんやりとしたモノクロームの記憶が心の奥底に眠っている。暗渠を歩くことでそれらを少しは掬い上げられたのだろうか。

「いつの日か長い時間の記憶は消えて、優しさを僕らはただ抱きしめるのか」

そんな、当時の歌の一節を思い出しながら、渋谷行きの急行電車に乗って街を離れた。


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by tokyoriver | 2015-06-13 00:06 | 神田川とその支流 | Comments(8)
1985年8月に神田川を撮影した写真からの紹介シリーズ、忘れた頃にやって来た4回目は谷端川の合流部である。

今までの記事はコチラ
神田川1985(1)桃園川合流地点
神田川1985(2)川の上の送電線
神田川1985(3)神田川最上流

谷端川(やばたがわ)はかつて豊島区から文京区にかけて流れていた川だ。豊島区要町2丁目の粟島神社に現存する弁天池などを水源とし、そこから千川上水の分水を併せていったん南下したのち、西武池袋線椎名町駅付近より北上、JR埼京線板橋駅付近で向きを南東に変え、山手線大塚駅を経由し、小石川を流れて水道橋で神田川に合流していた。下流部では小石川、礫川、西大下水、また千川上水の水を引いていたことからか千川とも呼ばれていた。

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中・下流部は戦前に、上流部も1970年代までには全区間が暗渠化された。現在上流部は遊歩道に、中下流部は大塚三業通りや千川通りといった道路になっている。最下流部は現在雨水幹線「千川幹線」となっていて、幅4.2m深さ4.7mの矩形暗渠が東京ドームシティを横切っている。

1985年当時、水道橋駅北側の神田川北岸に、河岸が十数メートルほどだけ凹んだ形で、谷端川の合流部が開渠で残っていた。感潮域であるためか河口にも水があり、鯉が泳いでいるのが見える。

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2009年現在、河口は船着場となってしまった。「神田市兵衛河岸防災船着場」の看板が掲げられ、浮き桟橋が設置されていて、河岸には階段がつくられている。向かいに見える水道橋駅の駅舎は窓の配置まで以前のままだ。
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駅のホームから見ると様子がよくわかる。凹みはずいぶん短くなってしまっており、河口も塞がれている。
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谷端川の河口はどこへ行ってしまったのか?調べてみると、谷端川の暗渠(千川幹線)は、どうやら現在は神田川に平行して、北側の外濠通りの下に流れている暗渠「水道橋分水路」に合流しているようだ。神田川の下流部は川幅を広げる土地の余裕がないため、並行する道路の下などにバイパスの暗渠をつくることで洪水対策を行っている区間がいくつかある。おそらく水道橋分水路が出来た時点で、この合流口は用無しになりふさがれたのだろう。今ではここがかつて川の合流地点だったということに気がつく人はいないのではないだろうか。


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by tokyoriver | 2009-12-14 23:24 | 神田川とその支流 | Comments(4)
中野区南台2丁目を起点とする、東大附属中学と中野通りに挟まれた浅い谷に、神田川の支流の痕跡がある。全長1km弱、標高差10メートルほどの短い暗渠だが、全区間にはっきりと暗渠が残っている。

暗渠は南台商店街の一角の小さな公園の脇から突然に現れる。これより南にいくと、今度は神田川笹塚支流(和泉川)の谷となるので、このあたりがもともと源流だったのだろう。
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コンクリ蓋の暗渠?ただの敷石?
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暗渠は人がすれ違えないくらいの細い路地となって、北上していく。途中、クランチ状になったやや不思議な空間がある。路面のアスファルトが暗渠の枠が浮かび上がるかのようにでこぼこにへこんでいる。
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暗渠はこの先いったん車道となる。車道は大きく蛇行して方南通りに。通りの北側は栄町公園となっている。公園の北側から再び、細い暗渠が始まる。町名は変わり、弥生町を北に下っていく。
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この写真の先の区間は、つい最近まで未舗装の暗渠だったのだが、この夏にアスファルトで綺麗に舗装されてしまった。
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暗渠はいったん車道となって蛇行した後、まっすぐな路地となって結構な傾斜で谷をひたすら下って行く。終戦直後の空中写真でもすでにこの流路となっており、戦前には改修されていたのだろう。
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最終的に流路は丸の内線中野新橋駅の西方、柳橋の上流側で神田川に合流する。護岸に合流口が開いている。また、護岸のあちこちから水が滲み出しており、緑も色濃い。地下水脈があるのだろう。ここより400mほど上流側には小沢川の合流地点がある。
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by tokyoriver | 2009-11-17 23:39 | 神田川とその支流 | Comments(10)
1985年8月に神田川を撮影した写真からの紹介シリーズ、3回目は神田川の最上流部である。以前別のクローズドな所でも紹介した写真だが、好きな風景なので再掲載。神田川が水源の井の頭池から流れ出て、井の頭線のガードをくぐってすぐの場所だ。1985年時点でもこの場所だけは、下流のコンクリート護岸に固められた姿からは想像できない、川らしい姿をとどめていた。


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2009年現在では親水施設風に、小奇麗に整備されている。写真には写っていないが、子供たちがザリガニ取りをしていた。85年の夏にも網をもった子供たちがうろうろしており、この辺りでは人と川の距離感は変わらず近い。


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こちらは夕焼け橋から上流方向、上の写真と同じ場所を見たもの。


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小学校3年生のとき、遠足で井の頭線に乗って井の頭公園に行った。緑色の片開きドアの電車の窓から、井の頭公園の近くで見えた神田川はとても印象的だった。そのときの川が、まさにこのような姿だった。もう少し下流、三鷹台を過ぎた辺りからこんな感じの風景が続いていたような記憶があるのだがどうだったのだろう。写真の場所は井の頭線からは見えないので、記憶は間違っていないようには思えるのだが。
写真右側に工事のプレハブ小屋が見えるが、ちょうどこのとき夕焼け橋より下流の水路改修工事を行っている最中だった。水路をまっすぐにし、コンクリート護岸で固める工事だった。もしかしたら、この工事の前は、小学生のときの記憶のような姿だったのかもしれない。

現在も雰囲気は決して悪くはないが、やはり本物の川としてのリアリティにはやや欠ける。


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by tokyoriver | 2009-09-19 23:35 | 神田川とその支流 | Comments(2)
東京の中小河川には、川の上に高速道路がつくられているところが結構あるが、神田川には川の上に送電線の鉄塔が並んでいる区間があった。確か、杉並区の和田堀変電所から、善福寺川の上を経て、西新宿の淀橋変電所の区間だったかと思う。



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1985年8月、神田川と山手通りと交差する長者橋から2つ下流側の菖蒲橋から、上流方向を眺めた景色。奥に写っている橋は宝橋という。送電線は高速道路と違ってちゃんと川の上の空があって、独特の形をした鉄塔は風情が感じられる。



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こちらは上と同じ橋からほぼ同じアングルでみた、現在の姿。左側のマンションは当時と変わっていないが、送電線の鉄塔は見事に何の痕跡もない。そして、目につくのは沿岸の緑がだいぶ失われてしまったということ。護岸はずいぶんと綺麗になっているが、今の風景は何だか無機質だ。同じ人工的な水路でも、24年前の姿の方がしっくりとくるのは、単に見慣れていないからだけだろうか。




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by tokyoriver | 2009-08-25 23:56 | 神田川とその支流 | Comments(0)
1985年の夏、学校の夏休みの自由研究で、神田川を源流の井の頭池から河口の浅草橋まで歩いて調査した。そのときの写真から、いくつかピックアップして現在の状況と比較してみる。
まずは桃園川と神田川との合流地点。杉並区天沼にかつてあった弁天池を源流とし、杉並区から中野区を東に流れる神田川の主要な支流のひとつだ。現在は全区間が暗渠化されている。

まずは1985年の写真。桃園川は合流地点まで完全に暗渠となっているものの、護岸は船の舳先のような、暗渠化される前の姿が残っていて、二つの川がここで合流しているということがはっきりとわかる。


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そしてこちらは現在の姿。神田川の川底を掘り下げる改修があったようだ。それにあわせて、桃園川の合流口は、何とも味気ないものとなっており、知らない人がみたら、そこで川が合流しているとは気がつかないだろう。


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川だけではなく周囲の風景も激変している。1985年の写真の右端に写っているビルが、現在の写真の右端の奥に辛うじて姿を覗かせているのが、唯一のはっきりした目印だろうか。そして神田川の上流方向にそびえ立つ沢山の高層ビル。85年の時点ではそこには空があるだけだ。

高度経済成長期に東京の景色は激変した(そして数多くの川も暗渠化された)のだが、その後もバブルの時期や2000年代の大規模再開発を経て、大きく変化してしまっていることを改めて感じる。1985年はすでにノスタルジーの対象になりうる年代となってしまっているのかもしれない。


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by tokyoriver | 2009-08-22 21:12 | 神田川とその支流 | Comments(5)