策の池界隈(四谷荒木町)
2009年 09月 20日
江戸時代、荒木町は街全体が松平摂津守の屋敷の敷地だった。その中にあった庭園の中心にあったのが、策の池だ。池の名前の由来には諸説あるが、いずれも「乗馬用の策(ムチ)」を池もしくは池の水源で洗ったことが由来とされている。
明治時代に入ると庭園は払い下げられた。池の一角に天然の滝があったことから明治初期には茶屋が出来、観光名所となった。滝は落差4mほどあったというが、周囲の急速な都市化で明治後期には既にほとんど枯れていたという。一方で町自体は歓楽街として発展し、数百人の芸者を擁する花街となった。
明治16年に測量された地形図を見ると、池は南側に丸い池が一つ、そして北側に大きく細長い池が伸びている。そして、池の北側にある等高線を見れば明らかなように、本来このスリバチ地形は南側を谷頭とする谷戸地形で、北側に高い土手を築いて谷戸を遮り水流を堰止め、池が造られていたことがわかる。この谷戸は「紅葉川」の枝谷である。紅葉川は富久町に発して曙橋付近から市ヶ谷に伸びる谷筋を流れていた川で、市ヶ谷より下流部は江戸時代以降は外堀として利用されている。
明治後期の地形図では既に池は姿を消しており、現在残っている部分だけとなっていたものと思われる。

(地図は「五千分之一東京図測量原図 東京府武蔵國四谷区四谷伝馬町近傍 明治16年(1883年)より)
初夏の夕暮れ時、策の池を訪れてみた。新宿通りに面する車門通りから荒木町の歓楽街に入ると、早速緩やかな下り坂となっている。突き当たりの金丸稲荷神社の右脇から、石畳の坂道が谷底に向かってジグザグに伸びている。明治時代の地図にもこの道は描かれており、坂の右側の窪地はかつて丸い池となっていた場所だ。

谷底まで降りきると、東側に階段の坂が見え、かなりの高低差があることがわかる。モンマルトルの坂とも呼ばれているとか。

谷底はひっそりとした住宅地となっているが、ところどころ石畳の道も残っていて、かつての花街の気配が残っている。料亭のある一角に出ると、その向かいに、ビルと崖に囲まれたちょっとした空間があり、何本かの赤い幟に囲まれて策の池がある。現在残っている池は、明治時代の地図で北側の大きい池が西にすこし出っ張っているところの先端のところ。そして、おそらくここに滝があったと思われる。池の後背に崖となっているところがあるが、かつては三方を崖に囲まれていた。その崖の中腹から地下水脈が露出し、滝となって落ちていたのだろう。

以前は周囲は駐車場だったが、最近整備されたようで、休憩用の椅子も置かれている。池の片隅には小さな中島がつくられ、津の守(つのかみ)弁財天が祀られている。

池を出て、谷底を北東に向かうと長い階段が現れる。ここが谷戸をせき止めた土手だ。階段を上って振り返ると、谷の深さがよくわかる。

この他にも、谷底に降りる風情のある階段や石畳の道がいくつかある。また、谷の上に現在も残るややレトロな飲み屋街も、猫が好みそうな路地裏が縦横に走っていて、あてどなく彷徨い歩くには絶好の場所だ。

夕暮れ時&夜の荒木町、いい雰囲気ですねー。
他にも興味深い記事ばかりで、楽しみです。
拙ブログは雑多なもので、なかなかお目当ての記事が見つかるかどうか心配ですが、
過去に、神田川、神田川支流暗渠、旧玉川上水、あと桃園川もちらっと記事にしていたと思います。
写真サイトのほうでは、旧玉川上水跡を新宿~明大前まで辿りましたが、その先は中断してしまっています。近々なんとか。
ご近所でもあられるということで、今後ともよろしくお願いします。

私もこの休みに行って見ます!!!

荒木町、近くへ行く機会があったらぜひ逍遥してみたいと思いつつ、なかなかそんな機会ないですね…。作らないと。
さしでがましいかと思いましたが、「明治16年に測量された地形図を見ると」以下の一節、北と南が全部逆になっている気がします。
はじめまして。ご指摘の件、まさにその通りでした。何を勘違いしていたのか・・・早速修正いたしました。ありがとうございました。今後もまた、お気軽にコメントいただけたらと思います。


荒木町の石畳の正体って
都電が廃止された際に発生した、線路の路盤だそうです。
当時のあちらこちらの古い繁華街に引き取られていったとのことですが
荒木町は特に地形の特性からか、地面が泥濘むことが多くて
客だけでなく花街以来の粋筋の裾が汚れないように、との配慮もあったらしいです。
落ち着いた、良い風情がありますね。
お返事大変遅くなりすみません。都内各地に同様の石畳、ありますね。