十二社(じゅうにそう)の池(新宿区西新宿)
2009年 09月 26日
十二社(じゅうにそう)の池は、新宿中央公園の西側を南北に通る十二社通りの西側、北側に開ける深い谷戸の底にあった(十二社は一帯の旧地名で、現在でも地元ではその名で呼ばれることが多い)。もともとは1606年、近隣の農業用の溜池として湧水をせき止め造られた池(上の溜井と下の溜井)だが、すぐそばに新宿一帯の鎮守社熊野神社があること、1667年に玉川上水から神田上水(神田川)への助水堀が引かれ、ちょうど熊野神社の所に滝が出来たこと、更に神田上水助水堀から池へいくつか滝が落とされたことなどから、江戸近郊の景勝地として知られるようになった。池の周囲には茶屋が並び、明治以降は料亭や芸者置屋も数多く出来て、池の西側からそれに続く丘陵地にかけて、花街として賑わった。
下の溜井(小池、下池)は明治期には既にかなり小さくなっていたようだが、上の溜井(大池、上池)は弁天池とも呼ばれ、明治〜大正期の時期で南北300m、東西50mの規模があり、池ではボートや釣り、花火が楽しめた他、屋形船まで浮かべられていたという。一帯は1924年には二業地(料理屋、芸者置屋)、1927年には三業地(二業地+待合)として指定され、賑わった。
花街が最盛期を迎える一方で、池は徐々に規模を縮小していく。大正後期〜昭和初期には、一番北寄りの小さな池(下の溜井の名残)が埋め立てられた。1934年には十二社通りが開通、弁天池は熊野神社と分断され、池の東側が少し道路の下となって埋め立てられた。同時に池の南側部分(現在のニューシティホテル以南)も埋め立てられ、竜宮殿、弁天閣、神風閣といった大きな料亭が建ち並んだ。
その後花街は戦争末期の経済統制と東京の空襲で一旦消滅し戦後、再度復興。戦前ほどの規模ではないが1950年代に戦後の最盛期を迎えた。1958年には弁天閣が温泉を掘削し、「十二社温泉」としてオープンする。しかし、その頃をピークに料亭、待ち合いは減少。池を取り巻く環境も、淀橋浄水場の廃止と副都心の開発、近辺の宅地化などによって大きく変化する。池は北側を残して徐々に縮小していき、最後まで残っていた弁天池北側の十二社通りに面した一角も、水質の悪化から1968年7月に埋めたてられ、完全に消滅した。花街も1980年代半ばにはほとんどの料亭が廃業し、終焉を迎えた。2009年には十二社温泉もとうとう閉館してしまった。
十二社池と花街の痕跡を探し、池の跡地を南側から辿って行ってみよう。西新宿小学校の東、水道道路から北側に入る坂道から谷が始まっている。谷底には都営アパートが建っている。坂を下りきると、弁天池の南端だった場所に出る。池の東縁の道が今でも未舗装で残っている。
ニューシティホテルの西側の角から南を見る。十二社通りの開通の際に埋め立てられ、料亭が建ち並んだ場所だ。今ではホテルの他、マンションが建ち並んでいる。道路がかつて池の西縁のラインだ。
十二社通りから谷を東西に横切る道を望むと、池の窪みがはっきりとわかる。
ニューシティホテルのはす向かいには、最後まで営業していた料亭「一松」の建物が残っている。つい最近まで営業していたようだ。かつては池を目の前にした好立地だったのだろうが、今では高いビルに見下ろされている。
池の西縁の道を少し南に進むと、建物の間に大きな銀杏の木がかなり無理矢理だが残されている。普通なら明らかに切り倒してしまうような場所なのだが、なぜ残されているのか興味深いところだ。このあたりの十二社通り側が、最後まで池が残っていたところだ。もしかしたら、池の最期を見届けた木なのかもしれない。
十二社通りから、池の跡地を望む。グレーの、住友不動産のビルが建っている場所が、もともと弁天池の最北端であり、かつ最後まで池が残っていたところだ。その奥のビルのところも、戦後しばらくまでは池だった場所である。そして十二社通りのところも、1934年に通りが出来る前は池だった。
池の西側、丘に登る坂の途中に旅館「一直」がある。ここもかつては料亭だったという。
かつての弁天池の北端から北には、暗渠を思わせる細い道が続いている。この道の途中の場所にも大正中頃まで下ノ池(小池)の名残の小さなひょうたん形の池があった。
かつては下ノ池の池端に続いていたであろう階段。途中には待合の名残であろうホテル「ニュー寿」がある。荒木経惟の写真でも有名だろう。
暗渠のような路地を抜けると、方南通りに並行した、明治以前からある曲がりくねった道沿いに出る。谷戸はここまでだ。もともとはここから小川が神田川まで続いていたものと思われる。この近辺にもかつての花街に続く急な坂道がいくつかあり、往年の名残をとどめている。
十二社の池/弁天池のあった位置(青線で囲まれた部分)
感激です。
しかも、実にわかりやすいテキスト。
写真も絶妙なポイントばかり。
どうです、皆様。訪れたくなったのでは?
続いて神田上水助水堀跡も期待します。
ところで、最後のルート地図についてですが、
namaさんも同じタイプを利用されていますね。
(c)Yahoo Japanって書いてありますが、
Yahooで誰でも利用できるサービスなんでしょうか。
それともexciteブログとかに付随しているものなのでしょうか。
ご教示いただけましたら幸いです。
で、1枚目の写真の未舗装の路地は行き止まりのはずですが、
地図では十二社通りに抜けられるように描かれていますね。
単に地図の機能上の制約なのでしょうか。
まさか、秘密の抜け道をご存知とか?
ルート地図ですが、アルプス社の、
http://yuru.alpslab.jp/
のサービスを利用しています。線が一本しか書けないので、ほんとうはgoogle mapを貼りたいのですが、exblogでは埋め込みが出来ないので、苦肉の策です。
で、地図ですが、わかりにくくてごめんなさい。歩いたルートではなく池の輪郭を描いています(注釈いれておきますね)。最奥まで侵入してみましたが、秘密の抜け道はありませんでした。
新宿までよくバスを利用するのですが、
「つぎは十二社池の上」というアナウンスを聞くたびに
不思議なかんじがします。
都庁を見上げながらひそかに佇む花街の名残。
リポートと写真、たのしませて頂きました!
また訪れてみようとおもいます。
私もバス停の名前で「池の下」「池ノ上」の池って何だろうと疑問に思っていました。
こんなところに池&料亭街があったのですね。
勉強になりました。
話は飛びますが、こちらにリンクさせて頂いてよろしいでしょうか。
よろしくお願いいたします。
リンクの件、了解しました。こちらからもリンクさせて下さい。
土地の高低差とか、建物の微妙な雰囲気とか、いわばかすかな水の匂いがしたせいですが、それを“十二社通りの裏”と考えると一気に分からなくなってしまうのでした。
十二社通りが“あとから追加されたもの”と捉えれば、この界隈の本来の姿が見えてくるんですね。
じつは先日、このあたりの古地図本を手に入れました。
江戸から昭和までありったけの古地図を集めた、ハードカバーのやつです。
ここぞという時以外は見ないようにしているのですが‥‥少々むずむずしはじめました。
古地図本、もしかして新宿区刊行のヤツでしょうか?
区教委の名義で出ている「地図で見る新宿区の移り変わり」というやつです。
こうした古地図本はかなり集めているのですが、このシリーズは圧巻ですね。(それに較べて世田谷区の古地図の貧弱なこと‥‥)